1959年 【戦後学生運動史第5期その2
新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展、ブント執行部の確立と全学連運動の突出化

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.1.4日

 これより前は、「第5期その1、新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 1959年の特徴は、再建された全学連の指導部をブント系が掌握し、急進主義運動を担いつつ「60年安保闘争」を主導的にリードしていったことに認められる。ブントは見る見る組織を拡大し、当時は革共同が握っていた全学連の主導権を奪い返すに至った。こうして少数派に甘んじることを余儀なくされた革共同系は、ブント系の指導下でこの時期共に全学連運動を急進主義的に突出させていくことになった。この間民青同系は、こうした全学連の政治闘争主義化にたじろぎつつも指導に服していたようである。


【1959(昭和34)年の動き】(当時の関連資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1959年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

【全学連が意見書「日本共産党の危機と学生運動」を発表】 

 1.1日、全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」(責任者 香山健一)が発表されている。香山健一全学連委員長が責任者として作成されたが、全学連中央の統一見解としては採択されなかった。「現在の危機のうちで、何よりも深刻な点は、日和見主義.ブルジョア民族主義.官僚主義が共産党の公認の指導部の大多数を支配してしまったことにある」という前書きから始まり、次のように主張していた。

 「反スターリン主義の理論として喧伝されている“人民戦線戦術”“長期的平和共存”“革命の平和的移行”“各国の社会主義への道”“構造的改良”というフルシチョフ路線こそ、まさに、『一国社会主義論の絶対化』と『世界革命の放棄』によって、世界プロレタリアート解放の事業を裏切り続けてきたスターリン主義の現代版に外ならない修正主義であることを知ったのである。そして、われわれが実践のなかで痛感してきた党中央の右翼日和見主義、平和擁護運動における没階級的理論、民族主義、革命における二段階革命論が、まさにソ連共産党を先頭としたスターリン主義的指導部の理論よりの必然的結果であることを知った」。

 「党中央は自らの頭脳で自主的に思考する能力を完全に失っていた。それは共産主義者としての最も基本的、初歩的な能力の喪失を意味する」としたうえ、「我々はまずマルクス・レーニン主義の原点に立ち帰り、スターリン主義的な平和共存路線と訣別し、世界革命の一環として日本革命を闘い取ろう」。

 1.1日、キューバ革命が勝利した。フィデロ・カストロ達が2年余りの武力闘争の末、新米派バティスタ政権を打倒、革命政府を樹立した。


 1.10日、革共同機関誌「共産主義者」が創刊された。1号を「全世界を獲得するために プロレタリアートの焦眉の課題 共産主義者同盟」が発表された。「新左翼理論史」は次のように評している。

 「ブント結成直後の最初の政治論文に相応しく、同盟結成の歴史的必然性とその根拠が、極めて要約的に展開されている」。

 1.15日、社学同全国執行委、組織防衛のため日共と非妥協的に闘うことを確認。


 1.22日、共産同都細胞代表者会議、経済主義を批判し安保闘争を強調。


【ブントが機関誌「共産主義」を創刊】

 2.1日、ブントが機関誌「共産主義」を創刊した。論客として、佐伯(東大卒、山口一理論文執筆他)、青木昌彦(東大卒、現経済学者、姫岡論文執筆)、片山○夫(早大卒、佐久間元として論文執筆、現会社役員)、生田浩二、大瀬振、陶山健一等々が名を列ねている。

 1月、ブントが「共産主義」1号に「全世界を獲得するために−プロレタリアートの焦眉の課題」を発表した。同論文は、マルクス以降の世界共産主義運動をブント的に総括し、「果たしてプロレタリアートは自己の哲学を実現したか」と厳しく問いかけながら、ブント政治論を要約的に展開している。

 要約すれば、これまでの左派運動史をソ連式スターリニズムのみならず先進国的議会主義的クレチン病まで含めて「マルクス主義の背教」であったと断じつつ個別的に日本の階級情勢を分析し、総評主流派、革同、代々木共産党、共産党代々木反対派の指導力を問い、次のように指針している。

 概要「客観的には完全に成熟しきっている日本プロレタリア革命の遂行は、まさに革命的理論と政治指導力に武装された、あらゆる色合いの日和見主義と断絶した革命的指導部をつくりだす課題を日本のプロレタリアートに与えている。この指導部の記紀の克服の道は、ただ一つ−一切の公認の共産主義運動の指導部に対するあらゆる幻想からプロレタリアートを解き放ち、真の革命的マルクス主義の再生に基いた革命的左翼を独立させ、このもとに革命的労働者を結集さぜることによってのみ為されるという結論である」。

 第1号において青木は姫岡のペンネームで論文「革命的インターナショナリズムとは何か?――第四インターナショナル批判」と題する論文を発表し、公然たるJR批判を開始した。青木はまずスターリニズムによる革命の裏切りを指摘したのち、スターリニズムのコミンターンにかわる新しいインターナショナルの必要性を指摘しその新しいインターナショナルとして第四インターナショナルをどう評価すべきか、と問題を設定し、トロツキーを客観主義、組織論の誤りを犯しているとの観点からトロツキー批判に入り、そして戦略問題として、「労働者国家無条件擁護」というトロツキズムと第四インターナショナルの原則を非難し、黒寛式「反帝反スタ」戦略を打ち出していた。次のように述べている。

 「われわれの原則はブルジョアジーとスターリン主義官僚の『同時的打倒』という戦略の上にたてられるであるう『世界革命』の利益に優先する『ソヴェトの無条件擁護』の原則は、拒否されねばならないであろう」。
 「結局、われわれは、国際労働運動の真の前衛として『第四インターナショナルをとるべきか』との問に対して、「否」と答えざるをえない。新しいインターナショナルは、おそらくはスターリン主義の告発者たるにとどまったトロツキズムを超克したところに形成されるべきであろう」。

 「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。

 「ここで、黒田理論が大活躍する。青木らのトロツキズムと第四インターナショナルに対する攻撃の論理は、ほとんどすべて黒田からの借物にすぎない。当時、かれらはトロツキーを理論的に批判することはできなかった。そこで、黒田の口マネをして、ほとんど黒田理論を口移しして、わが同盟に攻撃をかけてきたのである。

 青木の第四インターナショナル批判は黒田のそれを一ミリも越えた内容はもっていないので、ここで改めてとりあげなくてよいであろう。黒田―青木によってなされたトロツキズム批判をその後何回となくステロタイブ的にくりかえされるのをわれわれは聞くことになる。そして、七〇年代の中核、革マル、ブント諸派によるわが同盟への批判も、黒田―青木の内容の口マネであり、むしろ水準は低下しているというべきであろう。

 黒田の反トロツキズム理論はこうして利用された。黒田は“反スタ統一戦線”形成のためにかれの理論を準備したのであるから、青木による黒田理論の借用は大いに黒田の意図に応えたことといえよう。しかし、青木もブントも理論だけは借用するが、決して黒田を認めはしないのである。

 ブント内部でのJR批判は59年に入って、対立から排除の路線に進んでいった。わが同盟の側の反撃は弱かった。もともと、革共同メンバーでブントに参加したのは、“いやいや”の意識があり、JRフラクによってブントのヘゲモニーを奪うという組織方針は星宮の頭のなかには存在していたかも知れないが、JRメンバーの共通した方針ではなかった。その意味で、JR派はブントに対して受身の意識であり、ほんとうの前衛はブントではなくてJRであると考えていたのであるから、ブントでの論争を不退転の決意で展開することはできなかったのである」。

 2月、革共同の理論誌「世界革命」が5ヵ月ぶりに復刊した。


 2.11日、共産同都学生細胞代表者会議〔東大〕、二・二八安保体制打破・日中国交回復国民大会、春闘等の闘争方針決定。


 2.23日、全学連都自治会代表者会議、二・二八集会参加決定。


 2.28日、安保体制打破日中国交回復国民大会〔四谷公会堂〕、都学連三百名参加。


 2月、ブント第2回大会。 


 2月、岸内閣は安保改定に公然と乗り出した。この時革共同派が執行部を握った全学連は、「合理化粉砕の春闘を如何に闘うべきか、これこそまさに革命の当面の中心課題である」とし、「労働運動理論」を長々と述べる理論活動に傾斜しつつあった。ブント派はこれを思弁主義として退け、安保闘争を一直線の政治課題として捉える運動を指針させていった。


 3.25日、共産同第一回全国細胞代表者会議〔東大教養〕、第四インター加入問題でほ結論でず、革共同グループ捌除を決定。


 3.26−27日、社学同第一回全国委、共産同系の安保闘争方針を採択。


 3.28日、全学連第18回中委が東京で開かれ、帝国主義的侵略と抑圧の安保改定阻止・岸内閣打倒の中執方針採択、反主流の対案(教育大・神戸大・早大一文・愛知大=日共系)と修正案(東大教養=第四インター系)否決。ブント−革共同−民青同の激しい主導権争いが為された。この頃、ブントは全国細胞代表者会議を開き、革共同系メンバーをブントから排除することを決議した。


【「安保条約改定阻止国民会議」が結成される】
 3.28日、先の「警職法改悪反対国民会議」を受け継いで「安保条約改定阻止国民会議」が結成された。結成大会には136団体、700名が参加した。総評、社会党、中立労連、全日農、原水協、平和委、、全国基地連、日中国交回復会議、護憲連、日中友好協会、人権をまもる婦人協議会、中央青年学生共闘会議の13団体が中央幹事団体となった。全労.新産別は参加しなかった。共産党はオブザーバーとしての参加が認められた。同時に「安保改定阻止青年学生共闘会議」が結成され、社会党青年部、民青、総評青対部、全日農青年部、全学連(ブンド指導の)によって構成され、この青学共闘会議が安保国民会議に加盟した。

 共産党はオブザーバーとしての参加が認められ、幹事団体会議における発言を獲得した。1953年の憲法擁護国民連合や1958年の警職法改悪反対国民会議などで共産党が排除されていたことを思えば、共同戦線上の大きな前進となった。但し、共産党の参加が運動を前進せしめたか抑制し続けたかは別の問題である。

 「左翼運動」は次のように記述している。
 「安保改定阻止国民会議は、その結成経緯にもみられるように、社共の意見対立を含みながらも左翼勢力の大同団結による共闘組織であり、我が国の大衆運動史上特筆すべき、大規模なそして強力な反対運動の中心勢力を構成したのである」。

 この共闘組織は次第に参加団体を増やしながら全国的な統一行動(安保共闘)を組織していくことになった。全国各地に1573の地方共闘組織が結成されていった。以降「国民会議」は二十数波にわたる統一行動を組織していくことになった。しかも、この共闘組織は、中央段階のみならず、都道府県・地区・地域など日本の隅々にまでつくられ、その数は2千を越えていくことになる。


【砂川闘争事件第一審判決(伊達判決)で無罪勝ち取る】

 3.30日、「砂川事件」(1957.7.2日、東京調達局が東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市内)にあるアメリカ軍の立川基地拡張のための測量で、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が刑事特別法違反で起訴された事件)の第一審で、東京地裁(裁判長判事・伊達秋雄)が最初に言った言葉が「主文、被告人全員無罪」。その理由として概要「駐留米軍は日米の政府の合意に基づいて、日本側が施設、区域を提供している」、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、米軍は明らかにその状況から見て戦力と言わざるを得ない。駐留米軍は、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。いったん事があれば日本はその紛争に巻き込まれる危険性がある。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」即ち「米軍駐留は違憲」とする法理による全員無罪の判決を出した。(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集) 伊達判決と云われる。陪席の松本判事によると、伊達裁判長は、所長に対して辞表を懐に入れて判決文を読み上げ、裁判後に提出した。所長はそれを受け取らなかったという。検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。


 4.1日、キューバ革命。


 4.2日、安保改定反対青年学生共闘会議結成〔総評会館〕、全学連・民青同・社会党青年部・総評青年部・全青婦・全日農青年部の六団体で構成。


 4.8日、全学連中執委、四・一五、四・ニ八安保改定阻止闘争を指示。


 4月、 「現代の理論」が創刊された。が、党の圧力で8月の5号で廃刊に追い込まれることになる。井汲門下の上田、不破と安東の別れとなる。「あの兄弟は本質的には構造改革派」とする安東の意見が為されている。〃安東の診断はなかなか当たらないようになってきた〃とも云われた。


 4.15日、国民会議の第一次統一行動(於日比谷) のこの日、約7千名が参加した。全学連は約600名で盛り上がりに欠けた。

 4.28日、全学連は、「安保改定阻止、岸内閣打倒」をスロ ーガンに第一波統一行動を起こしている、中央集会〔清水谷公園〕に約1000名結集。首相官邸・外務省にデモ、のち青生婦人学生総決起大会〔日比谷野音〕に合流、夜間学生五首名とともに再度首相官邸にデモ。


 4月、革共同の機関誌「第四インタナンョナル」が活版で創刊された。


 5.3日、全学連中執委、安保阻止闘争方針をめぐって共産同・草共同系と対立、書記局提案の五・一五スト方針を採択。


 5.9−10日、第四インターの社会党加入戦術によって東大教養・東京学大中心に学生運動民主化協議会(学民協)結成。


 5.15日、国民会議の第二次統一行動、全学連もこれに呼応して安保改定阻止・岸内閣打倒第二波闘争として約5000名を集めて闘った。だが、全国的にも主要拠点校だけの闘争に終わり、低調となった。


 5.29日、全学連、沖縄弾圧・集成刑法反対で米大使館・国会に抗議デモ。


 5月、革共同の西が起草した綱領草案が発表され、8月の第一回全国大会に向って組織活動が始動した。


【太田龍派が、学民協を結成】
 5月、太田龍派が、学民協を結成した。

 6.2日、第5回参議院選挙。創価学会6人全員が当選する。


 6.3−4日、社学同第4回全国大会〔北部労政会館〕が開催され、書記局派(共産同系)と反書記局派(草共同系)の角逐の末、書記局提案採択、役員をブント系で独占。委員長・大瀬振、副委員長・平井吉夫、書記長・革共同関西派系が「社学同左翼反対派」結成、機関紙「ボルシェヴィキ」を創刊する。社学同「理論戦線」第3号(発行所:リベラシオン社、執筆:岸本健一、戸坂出、姫岡玲治、熊谷信雄、大瀬振)。


 6.9日、生活協同組合の法人化。


 6月、ブント第2回大会を開催し、3月決議に基づき革共同派を事実上分離し、各地方学連においてもとブント派と革共同派の分裂を促進させていった。東京都学連、京都府学連、九州学連においてもっとも激しくなされた。東北学連にはほとんどブント派が存在せず、ほぼ全一的に革共同派にまとまっていた。


 全学連の4−6月闘争過程で、革共同派のイニシアチブが急速に失われていった。革共同派全学連は、春闘高揚期を第二の決戦″と位置づけ「予算闘争と完全就職要求」、「春闘支援」、「炭労スト支援デモ」を学生運動のスローガンに掲げて、それを実践した。しかし、その労働者生産点主義、経済主義、非街頭主義はブント的急進主義運動に比して地味過ぎて全学連のヘゲモニーをブントに明け渡すことになる。また、日共学生細胞でも、党章派に代わって構改派が日共学生運動のヘゲモニーを確立していく。


【全学連第14回大会開催され、ブントが指導権確立】

 6.5−8日、ブント2回大会の直後、全学連第14回大会が開かれた。約1千名参加。革共同系の塩川―土屋執行部の議案に対してブント派が対案を出さぬまま大会に突入した。太田龍派の学民協が対案を提出した。対案は東大駒場の代議員である小島が提案説明した。「議案は革共同、人事はブント」の妥協が成立し、革共同系の塩川―土屋、鬼塚執行部の議案の信認となり、革共同系議案を、賛成217、反対157、保留8で承認した。「先の大会ではわずかに総数約300票のうち30票前後の勢力しかなかった反主流派が、140票というところまで伸びたのは注目すべき現象」(早稲田大学新聞1959.9.16日号)であった。

 この大会は、ブント・民青同・革共同の三つどもえの激しい争いとなり、先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の主導権をブント系が再び奪い返して決着した。反主流派(民青系)が急追してきていたが、執行部中央執行委員会の過半数をブントが占め、一部革共同を含めて反日共系で独占した。

 人事は、委員長に唐牛健太郎(北大)、書記長に清水丈夫(東大経済)が選出され、「唐牛−清水」体制が確立した。これを加藤昇(早大)、糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦(東大)、奥田正一(早大)支え、新執行部となった。中執委員数内訳は、ブントが17、革共同13、民青同0、中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。革共同派は中執において少数派となり、「唐牛、清水、青木体制」が誕生した。唐牛新委員長は、記者会見で、「天真爛漫にストライキ、デモを行います」と云ってのけ記者団を唖然とさせた。

 こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で、革共同派と連立しつつ「60年安保闘争」に突入していくことになった。唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら、再度にわたる「国会突入闘争」や「岸渡米阻止羽田闘争」などに精力的に取り組んでいくことになった。この当時のブントは約1800名で学生が8割を占めていたと云われている。この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。

 この経過は、次のようにまとめられている。
 「この共産同には、革共同系の学生が多数組織的に潜入し、共産同結成の際は、委員長、副委員長、書記長などの三役を独占しました。そのため、全学連指導部の内部で「純共産同」と「革共同」の対立という新たな派閥抗争が発生しました。純共産同系は、革共同系の追い出しを図り、昭和三四年〔1959年〕六月の全学連第一四回大会では、純共産同系が中央執行委員会の過半数を獲得し、革共同から全学連の主導権を奪回しました。こうして、共産同は、「共産同―社学同(共産同の学生組織)―全学連」を一本化した組織体制で、六〇年安保闘争に突入しました」。

 「戦後史の証言ブント」で、この時の島氏の心境が次のように語られている。
 「再三の逡巡の末、私はこの安保闘争に生まれだばかりのブントの力を全てぶち込んで闘うことを心に決めた」。
 「闘いの中で争いを昇華させ、より高次の人間解放、社会変革の道を拓くかが前衛党の試金石になる」。
 概要「日本共産党には、『物言えば唇寒 し』の党内状況があった。生き生きとした人間の生命感情を抑圧し陰鬱な影の中に押し込んでしまう本来的属性があった」。
 「政治組織とはいえ、所詮いろいろな人間の寄り合いである。一人一人顔が違うように、思想も考え方もまして性格などそれぞれ百人百様である。そんな人間が一つの組織を作るのは、共同の行動でより有効に自分の考え、目的を実現する為であろう。ならば、それは自分の生命力の可能性をより以上に開花するものでなければならぬ。様々な抑圧を解放して生きた感情の発露の上に行動がなされる、そんなカラリとした明るい色調が満ち満ちているような組織。『見ざる、聞かざる、言わざる』の一枚岩とは正反対の内外に拓かれた集まり、大衆運動の情況に応じて自在に変化できるアメーバの柔軟さ。戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑 いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼にあきたらなかった新世代学生の共感を獲ち得た」。
(私論.私見) ブントのアナーキズム精神考
 以上のような島氏の発想には、かなりアナーキーなものがあることがしれる。こうしたアナーキー精神の善し悪しは私には分からない。このアナーキー精神と整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらかを二者択一せざるをえないことになる、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。

 なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた経緯が次のように伝えられている。

 「唐牛を呼んだ方がいいで。最近、カミソリの刃のようなのばっかりが東京におるけども、あれはいかぬ。まさかりのなたが一番いいんや、こういうときは。動転したらえらいことやし、バーンと決断して、腹をくくらすというのはね、太っ腹なやつじゃなきゃだめだ。多少あか抜けせんでも、スマートじゃなくても、そういうのが間違いないんや」(「戦後史の証言ブント」、星宮)。

 ということになり、島氏が北海道まで説得に行ったと云われている。島は、唐牛を次のように評している。

 概要「いつもニコニコ笑って、大雑把でカラ利リとした明るいたくましさ。出合った人が一目で魅了される。学生運動につきまとうくらいイメージを一新する為に、石原裕次郎より格好が良かった唐牛に白羽の矢を立てた」。

 清水丈夫氏が全学連書記長に選ばれたことについて、「島記念文集」の中で次のように評されている。
 概要「色の白い男前の彼は、全国の女子学生の憧れの的であった。彼の演説は、苦悩にみちあふれ、深く重い決断を聴衆にうながすものであった。彼が演説の中で時折見せる微笑は、なんともいえず、同性すらも魅惑させるものであった。異性は惚れてしまった」。

【青木昌彦証言】
 青木昌彦氏は、日経新聞「私の履歴書」の2007.10.5日付けbT「ヌーベルバーグ」の中で、全学連第14回大会と当時の全学連の様子を次のように証言氏している。
 「1950年代後半にフランスで起こった映画の新しい波「ヌーベルバーグ」にちなんで、59年春の全学連第14回大会で選出された執行部は、誰からともなく学生運動のヌーベルバーグと呼ばれるようになった。

 それまでは、共産党の党員で半ば職業的といつても良い運動家達が全学連をリードしていた。それに引き換え、新執行部は政治的なしがらみのない新世代だけで成り立ったからだ。その平均年齢は21歳を越えたばかり。ブント書記長の島成郎の卓抜なアイディアだった。

 もっとも、私に全学連の宣伝部長として執行部に加われというのは、ミスキャストだと思った。表舞台に立つより、舞台裏で論文書きに専念しているほうが性に合うし、役に立つと思ったからだが、島の構想の斬新さが皆に喝采されると、後に引けなくなった。

 島構想の最大の目玉は、当時中央ではほとんど無名だった北海道大学教養学部の活動家、唐牛健太郎を説得し、委員長に抜擢したこと。唐牛はランボーやカミュ、マルローなどの書に親しみ、ヌーベルバーグという言葉は彼のためにあるというような男だった。彼の演説には人の心を揺さぶるものがあり、『石原裕次郎よりもかつこいい』と、男女を問わず人気があつた。委員長就任記者会見では『天真爛漫にストライキ、デモを行います』と宣言して、記者団を唖然とさせた。

 こういう得難い仲間達を得て、全学連での活動は予期に反し、愉快に始まった。本部は東大の弥生門のそばの金助町に賃借した掘っ立て小屋。四畳半と三畳ほどのスペースに、書記長の清水丈夫がどっかりと坐る机、だるまストーブ、ガリ版の『刷ッティング』の機械を置く台があるだけ。大学のサークルの部室と云う雰囲気だった。経費と云えば、滞りがちの家賃と電話代だけで、誰かにお金が出来ると、新宿の歌舞伎町で安酒を飲んだる」。

【この当時の学生運動の諸潮流】

 この時の学生運動の諸潮流について次のように整理できるようである。1.ブント社学同系、2.共産党党中央派系、3共産党構造改革派系、4・革共同関西派系、5・革共同黒田系、6・国際主義共産党(太田竜派)系。


【不破哲三が「マルクス主義と現代イデオロギー」を発表】

 この頃、不破哲三は、前衛6月号紙上で「マルクス主義と現代イデオロギー」を発表し、「現代トロツキズム」批判を繰り広げている。「山口一理論文」、「姫岡怜治論文」を槍玉に挙げ、総論的な批判を加えている。今日これを読み直すとき、とても正視できない無内容な饒舌であることが判明する。まさに、当時の急進主義者の動きに水を浴びせ砂をかけることのみが目的であったことが分かる。「もはや理論的批判の必要はない」、「この反革命的反社会主義的本質を徹底敵に暴露して、政治思想的に粉砕し尽くすことだけが残っている」と本音がどこにあるかを露にして締めくくっている。


【姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」を発表】
 6月頃、ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と云われることになる論文を機関紙「共産主義3号」に発表 している。姫岡論文は、資本主義分析の方法論として宇野経済学の三段階論を援用し、現理論(普遍)、段階論(特殊)、現状分析(個別)によって現代帝国主義規定に向かっていた。レーニンの帝国主義論に継ぐ第二帝国主義論として位置づけていた。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。

 編集後記で次のように述べている。
 「代々木共産党の謀略は、日を追って気狂いじみた様相を呈してきている。自己の理論を持たない代々木派官僚は構造改革派を動員して、共産主義者同盟に対して没理論的な中傷と誹謗を加えてきている。その没階級的な理論にマルクス主義的な粉飾をほどこして、ある程度の浸透力を示している『構造改良派』の、似非マルクス主義的、改良主義的本質を暴露し、これを粉砕する」。

 この頃、全学連四役を含む幹部7名が党から除名処分にされている。 


 6.6日、革共同系社学同同盟員、社学同左翼反対派結成(30日機関紙「ポルシェヴィキ」創刊)。


 6.9日、共産同第二回全国大会〔北部労政会館〕、中央委員改選して草共同系排除、綱領草案作成等を決議。


 6.11日、東大生中心に百五十名、造兵学科設置反対で防衛庁デモ、唐牛全学連委員長ら二名逮捕。


 6.20日、京大同学会再建、再建アピール。


 6.20日、東京理大自治会、学園民主化を要求して理事会室に突入(22日ハンスト、23日学長辞意表明で中止)。


 6.25日、国民会議の第三次統一行動、安保改定阻止・岸内閣打倒・全学連第三波闘争で労・学2万6000名決起。全学連は東京集会〔東大本郷〕に東大、早大等5千名参加、京都集会〔立命館大〕に千名参加し円山公園までデモ、大阪府学連、大教組と合同で市内デモ、福岡集会〔警固公園〕に三千名参加し市内ジグザグデモ。スト参加校は、北大教養、光学大札幌・旭川・函館・岩見沢、東北大教養、東京芸大、信州大文理、九大教養、西南大、福岡女。


【宮顕の言論統制】

 6.26日付けアカハタは、ほとんど1ページを費やして「マルクス・レーニン主義党の破り難い原則−雑誌『現代の理論』をめぐって」論文を掲載した。宮顕が執筆したと思われるが、「雑誌の刊行は既に中止されているにも関わらず、党外と党内の一部には、この決議の趣旨について、誤った解釈がある。一部には、中央委員会の決定に反対しているものがある」として、延々とその誤りのゆえんを説いていた。云おうとしていることは、「前衛党の中央委員会とは別個に、特定の党員(個人や集団)が、マルクス主義理論誌を刊行し、これによってマルクス主義理論の発展をはかるというのは、根本において誤りである」ということにあった。明らかに徳球時代には考えられなかった統制一色の組織理論であったが、これを批判する刃が既に萎えつつあった。


 6.28日、京大同学会、安保阻止で帰郷運動決定。 − 横浜市大商・文理合同委、学長職務規定改定案(市通達)に反対声明。


 7.3−5日、「全学連第19中委」が開かれ、「10月ゼネスト」の方針を打ち出す。


 7.4‐5日、都学連第11回大会が開催されたが、流会となった。ブント系執行委員会原案に対して、革共同系の徳江書記長から修正案が出され、激論となった。両案とも過半数を取ることが出来ず、3日目の大会では革共同系の法政大・早大一文・教育大が大会ボイコットし、ブント系と共産党系の討論となったが意見の一致を見ず、流会となった。


 7.7日、全学連、安保阻止抗議集会を首相官邸前で決行、二百名参加、無届デモとして二名逮捕。


 7.8日、全学連中執委、原水禁大会を安保改定阻止・岸内閣打倒の総決起大会として闘う方針を決定。


 7.15日、全学連情宣部編『安保闘争--その本質と人民の闘い』(新書版)刊行。


 7.18日、早大の大浜総長が、第一学部の拡大と第二学部の縮小の基本方針を語り、学生側は、単 一昼夜開講制の実現をめざす。


 7.25日、社学同左翼反対派第二回拡中委、同盟内分派として活動展開を確認。


 7.25日、第4次統一行動。


【太田龍・派の学民協騒動】

 7月、商業新聞が学生運動の内幕を紹介する記事を掲載し、その中で学民協が社会党に加入している事実を指摘した。太田はICP第4回総会を招集し、この記事は加入活動に危機をもたらすかも知れない、防衛の処置としてICPを解党するという提案を提起し、総会はこれを承認した。ICPは形式上解消し、代って第四インターナショナル日本委員会が存在することになった。太田の考えは社民からICPメンバーが追及されたとき、ICPが形式上存在していなければ“二重党籍”で統制処分に問われることはないという立場で、ICPを解党しようとした、とされている。

 8月、学民協内部に対立が発生した。早大の建設者同盟や東大の高木郁朗らは学民協から離れた。このことは、ICPメンバーが社会党に結びつくための手がかりが失われて、ICPが社会党内で独立化してしまうことを意味していた。学民協は社会党の学生運動を展開することを通じて加入活動を推進しようと意図されたが、はじめから、ICPの活動として、学生運動のなかではICPの活動としてしか見なされなかったのである。


 7月、共産党は第6回中央委員会総会を開き、党員倍加運動に乗り出した。春日、内藤の反対。安保闘争への基本方針の策定。


 7月、革共同が全学連の指導権を確保していたこの時期、週刊新潮に「全学連を指導する盲目教祖」が初出している。


 8.1‐7日、第5回原水禁世界大会。


 8.5日、全学連全国自治会代表者会議〔広島〕、原水禁大会を安保阻止総決起大会とすること、秋の闘争方針等を決定、のち市内デモ。


 8.6日、第5次統一行動。


【第5回原水禁世界大会】

 8.7日、第5回原水禁世界大会。この大会を廻って、日共は、「自民党支持、岸内閣支持の人々」をも統一行動に結集できるような原水爆反対の統一戦線を組むべきだと主張し、安保問題に結びつけることに反対した。学生階層別会議。全学連は17の分散会において圧倒的な論戦を展開し、大会運営の主導権を握る日共と激しく対立した。日共は「原水禁運動と安保闘争を同一視するのは誤りである」(志賀義雄)と主張した。これに対して、全学連は「平和共存、東風西風論」を批判しつつ、次のように反論した。

 「問題はそんなところにあるのではない。大会全体が安保反対を真正面からとり上げ、現実に政府に対決して闘う姿勢を整えようとしたのかどうかということなのである」(全学連書記局「9月8日を戦闘開始の合図とし9月18日秋期第一波全国闘争に結集せよ!」1959.8.19日)

 大会で、全学連は労働者代表の「巨大な賛成」をかちとった。しかし、大会執行部は「分散会は決議するところではない」という口実を急造し反対した。主流・反主流の対立で紛糾の末、安保改定阻止等を決議したが、日共の主張を受け入れ、安保改定阻止をスローガンにすることなく大会を終了させた。この為、戦闘的活動家の多くが不満を蓄積させていくことになった。


【ブント指導部が島書記長−生田事務局長体制化する】
 59年夏のこの頃、療養中であった生田浩二が戦線に復帰してくることになり、ブントは島書記長−生田事務局長指導部の下で担われていくことになる。

 ここに至るまで事務所を提供したり、事務局長役として女房役を務めていた香村正雄は次のように証言している。
 「ブントは官僚組織を持たなかったので、書記局の決定は政治的なことだけで、事務的なことは、私と島、私と生田、古賀という具合で何となく進行させた」。

 このことの意味は次のことにある。通常ブントはかっての国際派系譜で誕生したと見なされているが、そういう見方は正確ではないということになる。生田はかってのバリバリの所感派学生党員であり、もと東大自治会中央委議長であった。してみればブントとは、所感派と国際派の急進主義部分のエッセンス的な結合として誕生していたとみなさねばならないということになるであろう。なお、いかにもブント的であるが、この時革共同メンバーも参加している。 

 多田靖氏は、次のように述べている。
 「島は、自らを理論家とはみていなかった。しかしその政治論文は人々を行動に組織する魔力を充分にもち、その弁舌ともども、政治組織の領袖としてふさわしいものであった。周りに多くの理論的俊秀を集めていたが、彼が最も信頼していたのは生田であったろう」。
(私論.私見) 「ブントの系譜が国際派か所感派か」について
 「ブントの系譜が国際派か所感派か」について、1971.1.29 付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」は次のように語っている。
 「『ブント』は、『革共同』と同 じく日本共産党の『六全協』、ソ連共産党の『スターリン批判』などによる共産主義運動の混迷の中から形成された。『革共同』がトロツキズムを信奉する元日共党員らを中心に組織されたのに対し、『ブント』は、旧『国際派』系の急進主義的活動家を中心として、トロツキズムを部分的には評価しながらも、全体としては受け入れず、そのため『革共同』に参加する潮流とは別個の独自の組織をつくった。日本共産党を批判する立場から、同党を離脱した『全学連』の幹部活動家が中心になって組織されたところに特徴がある」。

 ブントが、旧国際派系の急進主義的活動家を中心として結成されたと看做すことにはやや疑義が有る。「ブントの系譜は国際派か所感派か」について確認しておく必要が有る。このことの意味は次のことにある。通常ブン トはかっての国際派系譜で誕生したと見なされているが、仮に数の問題ではそうであっても執行部という質の面においてはそういう見方は正確ではないということになる。生田は所感派の流れを汲むバリバリの党組織派学生党員であり、もと東大自治会中央委議長であった。その生田を裏方として表に島が立ち、その他有能闘士が取り巻きうごめいていたということになる。

 してみればブントとは、所感派と国際派の急進主義部分のエッセンス的な結合として誕生していたとみなさねばならないということになるであろう。なお、いかにもブント的であるが、この時革共同メンバーも参加している。

 れんだいこ的には、「時の急進主義学生のうちもっとも早熟な部分が革共同に向かい、向かわなかったというか取り残された急進主義派がブント結成へ向かった。この頃既に国際派、所感派という対立は引きずっておらず、この時代における急進主義派学生が自前で結成した金字塔的党派としてみなすべきではなかろうか。仮に『旧国際派系の急進主義的活動家を中心として結成された』と評されるなら、そうではない、『国際派(島)と所感派(生田)の見事な結合として結成された』とみなすべきであろう」。

 これについて、「日本共産党史<私の証言>」(日本出版センター昭和45年刊、第三章全学連六・一事件、島成郎)には次のように記されている(「四トロ同窓会二次会」での****.1.15日付け、投稿者すえいどん「所感派と第1次ブントの補足」)。
「いわゆる国際派がでてきたのは、ぼくとか、高野とか、そのぐらいのものです。むしろ、所感派のゴリゴリだった奴が中心になったという感じですね。森田にしても、死んだ生田にしても、所感派だったわけですからね。それに、50年分裂を知っている六全協後の全学連の活動家と言うのはぼくぐらいまでです」(121P)。
 概要「当時は中国派という言葉はありませんけれども、今考えてみると中国派みたいな主張が全学連のなかにあったと思います。だから高野なんかが『あの頃の全学連主流派は中国派だ』と非難した。そういう意味ではむしろ、頑固派スターリン主義というかたちでいわれたことがあった」(119P)。

 日共の公式的見解からすれば、このブント系もトロツキストであり、あたかも党とは何らの関係も無いかのように十派一からげにされているが、それは宮顕流の御都合主義的な歪曲であり、史実は違って上述の通りであるということが知られねばならない。私には、宮顕の反動的な党運営が絡んで、党内急進派がブント系として止むに止まれず巣立ちしていった面があったと見る。

 このブントの党史を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳球系と宮顕系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、党からの自立的な新左翼運動(主として学生運動)を担おうとした気概から生まれた経緯を持つように思われる。理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべき事に自ら達が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えてくる。もっとも、その認識の仕方と行動的手法において際限なく分裂化していくことになり、結果ブント系諸派を生み出していくこととなった。

 ブント発生を近視的に見れば、「50年問題について」の総括後の当時の党が宮顕式路線に純化しつつあった状況とその指導に対する強い反発にあった様が伺える。宮顕式路線の本質が運動を作り出す方向に作用するのではなく、運動を押さえ込み右派的統制主義の枠内に押 し留めようとすることに重点機能していることを見据え、これに反発した学生党員の「内からの反乱」としてブントが結成されたという経過が踏まえられねばな らないと思う。このセンテンスからすれば、元来党とブントは近い関係にあり、 ブントとはいわば急進的な潮流の党からの出奔とみなした方が的確と言えることになる。

 2005.8.29日 れんだいこ拝

【ブント綱領考】
 島は、ブント結成に際し、生田に綱領作成を依頼し、生田を中心に活発な議論が続けられていくことになった。8月発行の「共産主義」第4号で、ブント草案が提起され誌上公開された。ところが、その後の安保闘争突入により、この作業は中断され、結局ブントは正式名綱領を決めないままに分解していくことになった。特徴として、日共の対米従属論に対して日本資本主義復活自立論を打ち出していたところに認められる。

【「黒寛・大川スパイ事件」】
 8月のこの頃、革共同の指導者の一人である黒田寛一にまつわる胡散臭い事件が明るみにされている。これにつき、「黒寛・大川スパイ事件」で更に検証する。

 概要は、大川なる者が、埼玉の民青の情報を入手できる立場を利用して、民青の情報を警察に提供することによって資金を稼いだらどうだろうか、と考えつき、大川はこのことを黒寛に相談したところ、黒寛はそれを支持した。二人は新宿の公衆電話から警視庁公安に電話し、用件を伝え、公安の方は公衆電話の場所を聞いてすぐ行くからそこで待っていてくれと応答し、かれらはその場所でしばらく待っていたが、やがて公安と会うことへの恐怖心にかられて、その場を逃げ出した、と伝えられている事件である。これを「黒田・大川事件」と云う。

 これにつき、「れんだいこの左往来人生学院掲示板」に2003.1.14日付「今は名を秘す」の投稿で次のように述べられている。
 「時期としては、西派、まあこれが後の第四インター日本支部になっていくわけですが、この西派と探究派は、『労働者国家無条件擁護』か、あるいは『反帝反スタ』かをめぐって、鋭い対立関係が形成され、三池闘争をめぐるスローガンをめぐっても対立は激化し、第二次分裂に向かうんですが、この黒田・大川スパイ問題は、両者が事実上分裂関係になり、形式上の組織分裂に向かう、そのさなかに発生しているわけです。

 黒田は、自己の行為を西派に対してだけでなく、探究派のメンバーにも当初は内密にしようとしています。が、結局は黒田は探究派のメンバー、さらには西派に対しても自己の行為を認めていきます。黒田の行為は西派からはもちろんのこと、探究派の内部でも強い批判にさらされており、当時を知る人によると、この事件での黒田への不信感が探究派内部で形成されたことが、後の中核派と革マルの分裂という形で尾を引いたというそうです」。
(私論.私見) 「黒寛・大川スパイ事件」考 
 この事件の真偽は不明且つ詳細不詳である。黒寛の胡散臭さを問うにはやや矮小な事件であるが、宮顕の胡散臭さを証する「戦前党中央委員小畑リンチ致死事件」に匹敵する事件であり、黒寛派のその後の左派運動に対する責任の重さから判ずれば、この事件は殊のほか大きな意味を持っていると考える。

 この事件は、「黒寛の公安当局との通謀性」を証していることになる。たまさか尻尾が掴まれたという話になる。そういう意味でもっと解明されねばならない。本来なら、当時の関係者はこの事件を広報し、黒寛派を左派戦線から追放せねばならない義務があったと考える。遅きに失した観があるが、明るみにされないよりはましだ。「黒田寛一氏の公安当局との通謀性」を証するのにまだ他にもあるのかないのか、この事件を唯一手がかりにしてが云われているのか、判明させたいところである。

 2005.5.14日再編集 れんだいこ拝

【「黒寛・大川スパイ事件その後」】
 「黒田・大川事件その後」について、「国際革命文庫の日本革命的共産主義者同盟小史」の「第三章 最初の試練」の「黒田、大川の除名と分裂」で論述されている。次のように記されている。
 当初、この事件の当事者たちは事を内密にしておこうとした。しかし、小心な黒田は大川が先にこのことを暴露してしまったら自分の立場がなくなると考えたのであろう、何人かの側近に「大川はスパイである、このことは他言するな」と打ちあげたのである。この話は未だ書記局にいた遠山の耳に届き、遠山はこの話を聞いて直後にトロツキスト同志会に移っていったのである。この事件を遠山から聞いた太田は西に報告すべきだと指示した。遠山は西に報告し、太田はJRがすぐ処置しないと、自分の方で暴露すると西に通告した。

 西はそんなことがあるとは信じられなかったが、関東の中野をはじめとする数人のメンバーを調査委員会に指名し、早速調査することを命じた。中野の招集に応じて査問に出てきた黒田と大川は、先の事件を自供し、認めた。

 黒田・大川のスパイ行為は「未遂」で終った。しかし、当時のJRやICPのメンバーがどれほどスターリニストを憎み、非難したとしても、帝国主義権力との関係においてはスターリニストといえども階級闘争のバリケードのこちら側であるというのは議論の余地ない原則であり、それはことさら取上げて論ずることでもなかった。だから「未逐」に終ったとはいえ、バリケードのこちら側の情報をバリケードの向う側へ売ることは階級的裏切りである。

 JRはこの原則を防衛するため、調査委員会の報告にもとずいて、五九年八月の第一回大会に大川の除名、黒田の権利停止を提案することにした。しかし、問題は組織処分ではなく、黒田派の分裂という事態にまでつき進んでいくことになる。(中略)

 黒田グループとの対立はまず関東ビューロー総会で展開された。五九年八月に全国大会を前にして開かれたこの会議で、黒田派の中心となってきた本多が「田宮テーゼ」をもって綱領草案反対を展開し、これに対して、鎌倉、中野ら関東ビューロー指導部が綱領草案防衛の立場から反撃した。関東ビューローの会議は黒田派分裂の序曲であった。

 八月二十九日、第一回全国大会の初日において、黒田・大川スパイ事件問題が調査報告され、大川の除名、黒田の権利停止が提案されると、本多を先頭とする黒田派は、組織処分に引っかけて綱領論争を弾圧し、反対派を排除するものである、といって退場した。その後大会は黒田、大川の除名を決定した。これが黒田派が「革共同第二次分裂」というところの黒田派の分裂である。

 黒田派は分裂を準備して大会に臨んだ。このことは、退場してすぐ、黒田派は革共同・全国委員会なる正体不明の組織をでっち上げ分裂を“完成”させたことによって明確であろう。第一回大会は黒田派分裂という混乱をのりこえて、綱領を採択決定し、中央委員を選出することによって成功をかちとった。
(私論.私見) 「黒寛・大川スパイ事件その後」考
 これによると、日本革命的共産主義者同盟の調査委員会が黒田と大川を査問したところ、「先の事件を自供し、認めた」とある。ならば、日本革命的共産主義者同盟は、その時点で日本左派運動全体に対し回状を廻し、黒寛派を追放すべきであったのではないのか。「黒田の権利停止提案、除名」などという措置があまりにも手ぬるすぎる。この手合いが、他党派解体路線を敷き、日本学生運動戦線に甚大な被害を与えたことを思えば。今も、誰彼の党派に対しスパイ呼ばわりして「正義」の鉄拳を振るっているが、噴飯ものではないか。宮顕も誰彼掴まえてはスパイ呼ばわりしてきたが、何やら共通項が臭って仕方ない。

 2005.5.14日 れんだいこ拝

【日本トロツキズム史、「綱領論争を廻る党内対立」】
 西が起草した綱領草案を中心にして、革共同は8月の第1回全国大会の準備に入っていった。西派と黒寛派との対立が抜き差しならないものになりつつあった。西はむしろ脱落した太田の方と理論的に近かった。黒寛と西の距離は、太田と西のそれよりもはるかに遠いものであった。こうして、革共同は“黒寛理論”と対決しなければならなくなりつつあった。論争のテーマはほとんど全面的であったが、結局、反帝反スタ戦略をめぐる問題と、三池闘争のために提起された「炭鉱無償国有化・労働者管理」のスローガンをめぐる問題にしぼられた。

 黒寛は、同盟の提出したスローガンは社民的であるといって次のように批判した。
 「労働者兄弟諸君! 生産再開、強行就労に対する労働者的反撃の道は、決して単なるピケットであってはならない。バリケードの内側に諸君の陣地を移し、背水の陣を敷いての闘争を組織しなければならない。すわり込みスト―鉱山占拠へ! これが三池の闘争を強化しうる唯一の道だ。『無償国有化・労働者管理』などという社民化したトロツキスト(革共同関西派)の非現実的な遊戯は、国家に対する幻想を拡大するだけである」(『逆流に抗して』 全国委員会 一二一頁)。

 これに対し、西派は、「炭鉱無償国有化・労働者管理」のスローガンは、日本のトロツキズム運動がはじめて過渡的綱領を現実の日本の階級闘争に適応したスローガンであり、日本のトロツキズム運動がスターリニスト党や社民党では決して提起しえない方針を掲げて、労働者階級のなかに持込もうとしたことによって画期的な意義を有していると規定していた。

【革共同の第二次分裂】

 8.26日、革共同は重大な岐路に立っていた。第二次分裂が発生している。これにつき、「革共同の第二次分裂考」で更に検証する。

 革共同創立メンバーの一人西京司氏はこの間関西派を作り上げ、この関西派が中央書記局を制し革共同内の主導権を獲得していたようである。この経過にブントの結成が影響していた。ブントが結成されたことにより、それまで革共同周辺に結集しつつあった急進主義的活動家の多くがブントに流れ込み革共同中央書記局に危機を発生させた。その再編成過程で革共同中央書記局が関西に移され、関西派が革共同を代表するようになった。

 直後、西氏はこの頃「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとしたようであるが、この過程で黒寛の影響下にある探求派と対立し、結局政治局員であった黒寛を解任した。この時、黒寛は「スパイ問題によって除名される」とある。概要「革共同創立の中心メンバーだった黒田はその翌年に『同盟にかくれて陰謀を弄び、敵権力との驚くべき取引を計画し、組織の防衛に対して全く不誠実な行動をとったことが暴露され』除名される」とあるが、「敵権力との驚くべき取引」内容までは明らかにされていない。

 そこで黒寛は本多延嘉氏と共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り、西氏の関西派と分離する。これがいわゆる革共同第二次分裂である。この経過に付き、黒寛は、「日本の反スターリン主義運動」の中で次のように総括している。

 「わが革命的共産主義運動の約3ヵ年は、トロツキズム運動の伝統がまったく欠如していた我が国において、公認共産主義運動と敵対した運動を創造するという苦難に満ちた闘いであった。‐‐‐しかも、この闘いは、スターリンに虐殺されたトロツキーの革命理論と第4インターナショナルの運動を土着化させると同時に、それをも乗り越え発展させて行く、という革命的マルクス主義の立場において実現された」。

【日本トロツキズム運動史、「革共同全国委」結成される】

 黒寛は、本多延嘉氏と共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り、西氏の関西派と分離した。これがいわゆる「革共同第二次分裂」である。

 黒寛は、「日本の反スターリン主義運動」の中で次のように総括している。

 「わが革命的共産主義運動の約3ヵ年は、トロツキズム運動の伝統がまったく欠如していた我が国において、公認共産主義運動と敵対した運動を創造するという苦難に満ちた闘いであった。‐‐‐しかも、この闘いは、スターリンに虐殺されたトロツキーの革命理論と第4インターナショナルの運動を土着化させると同時に、それをも乗り越え発展させて行く、という革命的マルクス主義の立場において実現された」。

 これにより、全学連内は、1.ブント系、2.日本共産党系、3.革共同関西派系、4.革共同全国委系、5・太田龍派の5グループの対立が進行していくことになる。 

【革共同の西派と黒寛派の理論的相違考】

 革共同全国委派(黒寛派=探求派)と関西派はその後激しい論争を繰り広げていくことになった。「第4インター参加問題」を廻って、関西派はこれを支持し、 革共同全国委派(黒寛派)は不参加を主張した。この過程で、革共同全国委派(黒寛派)派は、関西派を「純トロツキスト第4インター教条主義」と批判して、9.20日、日本革命的共産主義者同盟全国委員会が「前進」創刊号で、「反帝反スターリニズムの旗のもと革共同全国委員会に結集せよ」を発表した。以降、同派は、「反帝.反スタ主義」を基本テーゼとするようになった。


【ブント第3回党大会開催】
 8.29−31日、ブントの第3回全国大会が開かれ〔東京〕、秋の安保阻止闘争方針等を決定。全学連指導部を掌握したブントは、安保闘争を前面にかかげて闘うことを決定する。この時、「第三次綱領草案」と規約が定められた。規約の一節は次の通り。
 「同盟の目的は、ブルジョアジーの打倒、プロレタリアートの支配、階級対立にもとづくブルジョア社会の止揚および階級と私的所有のない新しい社会を建設することにある。同盟は、一国の社会主義建設の強行と平和共存政策によって世界革命を裏切る日和見主義の組織に堕落した公認の共産主義指導部(スターリン主義官僚)と理論的、組織的にみずからをはっきりと区別し、それとの非妥協的な闘争を行い、新しいインターナショナルを全世界に組織するために努力し、世界革命の一環としての日本プロレタリア革命の勝利のためにたたかう。同盟は、民主集中制の組織原則に貫かれる日本労働者階級の新しい真の前衛組織である。(以下、略)」。

 8.29日、三井三池争議始まる。


 9.1−2日、社学同第二回全国委〔東京〕、秋の安保阻止闘争方針等を決定。


 9.5日、全学連が第19回中委〔芝児童会館〕、秋の安保阻止闘争方針等を決定。


 9.8日、全学連秋期第一波、安保改定阻止・日教組支援決起集会〔清水谷公園〕に八百名参加、国会・首相官邸にデモ、九州学連ほ百五十名で炭労の統一行動に参加、市内デモ。


 9.18日、全学連は、安保改定阻止・砂川伊達判決支持全国学生総決起。清水谷での中央集会となった安保改定阻止統一行動に約1500名結集。のち国会・外務省にデモ。


 9.22日、全学連拡大中執委、一〇・三〇安保改定阻止全国ゼネスト方針決定。


 9.23日、全学連緊急中執委、国鉄当局の学割値上げに反対闘争決定、代表、国鉄当局に即時撤回を申入れ。


 9.26日、党都会議で、港、千代田地区委が党中央攻撃。


 9.29日、早大が、18日の安保破壊ストで学生3人処分。


 9.30日、都学連、学割値上げ・志免合理化反対で東京駅で抗議集会、五百名で国鉄本社にデモ、警官隊と衝突し二名逮捕、大阪では全関西学生総決起大会、千名参加し国鉄関西支社にデモ。


 10月初旬、全学連は、各派拮抗していたために流会となっていた都学連大会を3ヵ月ぶりで開催し、ブント系執行部を選出し、首都の闘争体制を確立した。


【島ブント書記長の獅子吼】

 10.10−11日、ブント中央書記局、全学連中執グループが参加した全都学生細胞代表者会議が旅館の大広間で開かれ、10.30ゼネストの方針、戦術等を決定した。

 島書記長が「かってないほど熱のこもった演説」で熱弁した。「島記念文集」は次のように証言している。

 概要「熱狂的な調子で、汗を額からしたたり落としながら、2−300人もいただろうか、畳に坐った首都圏のブントの活動家を前に、『国会突入』をアジりまくったのである。その異様ともいえる熱狂と、口角泡を飛ばすといった演説は、そこに参加していた20歳前後の、若い、血の気の多い学生活動家に大きな衝撃を及ぼしたのであった。この血涙あふるる大演説無くして、11.27闘争のあの見事な成功(初めての国会突入)が有り得なかったことは確かであろう」。


 島氏自身が、「ブント私史」(批評社、1999年者)の中で次のように証言している。
 概要「万年危機説のアジに食傷していた学生ブントも私の熱気とリアルな展望に次第に興奮してくるのが私に直に伝わってきた。学連書記長の清水丈夫がすぐ立ち上がり、彼独特の口調で激烈なアジを続けた。この会議を境にブントはフル回転、まなじりを決して安保闘争に取り組むことらになった」。

 10.12日、社学同左翼反対派第四回中央委、同盟を単一青年組織に発展転化すること等を決定。


 10.16−17日、日共学生細胞代表者会議。


 10月、社会党から西尾末弘一派が脱党した。この頃までの安保闘争は、低調であった。


 10.20日、第7次統一行動。


 10.26日、全学連、安保改定阻止・炭労合理化反対・秋闘中央総決起集会〔清水谷公園〕に学生1000名結集。各所でジグザグデモ。


 10.28日、安保改定反対青学共闘会議、各労組青年部等を加え十五団体で構成の安保改定阻止中央青年学生共闘会議に再編発展。


 10.30日、安保改定阻止統一行動、全学連はゼネストの形で闘おうと呼びかけ、全国スト90校、121自治会、行動参加者全国30万名、都内約1万5000名で雨の中を比谷野音で集会.果敢なジグザグデモを敢行した。夜は、夜間部学生2000名が「公安条例後、始めて認められた」夜間デモを行った。「10.30の学生の全国ゼネスト闘争は、沈滞していた安保闘争に再び火を点じた」(法大全学自治会協議会アピール)。


 11.7日、全学連中執委、安保改定阻止十一・二七、一二・一○全国ゼネスト方針を決定。


 11.9−10日、全学連第二十回中央委〔東京〕、安保改定阻止一一・二七闘争を決定。


 11.11日、社学同第三回全国委〔東京〕。


 11.13日、安保阻止中央青学共闘主催・安保改定審議即時打切り・サイドワインダー持込み反対等を要求して決起集会〔チャペルセンター前〕、教育大中心に学生千五百名参加して防衛庁にデモ。


 11.17日、都学連が、「11.27国会突入で物情騒然たる混乱を導き出し岸・藤山をわれわれの前に引きずり出せ」と通達。


 11.26日、全学連の不穏をキャッチした警視庁の三井が、全学連書記局に打診表敬。


【全学連ら労.学2万数千名が国会突入】

 11. 27日、第8次統一行動。全国九十校二万名参加、合化労連.炭労の24時間ストを中心に全国で数百万の大衆が行動に立ち上がった。東京には8万名が結集した。この時の国会デモで、全学連5000名の学生らによる「国会乱入事件」が発生している。これを確認しておく。

 東京では3万名の労働者と学生が、三方面から国会を包囲した。正門前集会では、社会党浅沼書記長が宣伝カーの上からアジ演説をしていた。

 「青年の血を売る安保改定に断乎反対しよう‥…。国会への請願権は大衆全員にあるはずだ。にもかかわらず、国家権力はトラックを並べてこれを阻止している。全く不当である。今日は代表団ばかりではなく、全員で請願しよう」。

 しかし、このアジテーションは沼さんラッパ″にすぎなかった。その証拠に、国民会議と警視庁は事前協議をして、「代表団だけが請願をすませ、正門チャペルセンター前部隊だけが国会正門を左折して、人事院通りの部隊と合流し、流れ解散をする」という予定になっていた。

 この時、全学連5千名が、チャペルセンター前・人事院ビル横・特許庁横より国会包囲デモを繰り広げた。この日、5千名の警官が動員されて装甲車、トラック等でデモ隊を規制していた。法政大部隊を主力とする全学連約150名が、警官隊との衝突の末に遂に阻止線を突破し国会構内に突入し赤旗を押し立てた。全学連書記局が前夜決定していた「国会構内への突入」を勝ち取った。続いて、都教組などの労働者・学生二万数千名が国会正門より構内突入、抗議集会を開いた。

 地評の宣伝カーは、「請願の目的は果たされたから解散しよう」と繰り返し呼びかけ始めた。岩井総評事務局長、浅沼稲次郎社会党書記長が宣伝カーから「全員の流れ解散、退去」を呼び掛けるが、約二万余の労学は動かない。

 次のように伝えられている。

 「たまりかねた社会党と共産党の国会議員団が同5時40分頃、正面玄関前の階段にズラリと顔を揃え、浅沼書記長が『解散して貰いたい』とだみ声で叫んだが、全学連の学生の間からは『反対、反対』の声ばかり。浅沼さんの発声で『安保改定阻止バンザイ』をやったが、誰も唱和しない。議員団がスゴスゴと引き上げた後、6時頃から、腰を挙げて防衛庁へ向かった」。

 共産党議員(野坂、志賀、神山)が駆けつけ、「統制に従ってすぐにここから引揚るよう」説得し始めた。日共の志賀義雄が血相をかえてとんできた。「諸君に本当の勇気があるなら、私に従って引き揚げて欲しい」と長口舌をふるいはじめた。だが、彼のあとに従ったのは立教大生など数十名だった。神山茂夫も、デモ隊と乱闘を演じて構内警備の役割を代行した。浅沼書記長は「院内のことは我々がやる。諸君は目的を終えたのだから帰ってくれ。さあ安保反対の万歳をやろう」と熱弁をふりしぼった。だが、だれひとりとして唱和するものはいなかった。

 この時、全学連書記長の清水丈夫が国民会議の指揮車によじ登り、流れ解散を呼びかける指導者を遮り、「座り込みを断乎続けよ」とアジった。国鉄などの若手労働者が、「学生を孤立させるな」、「中へ入った連中を見殺しにするな」と、指令を無視して雪崩れ込んだ。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。 

 この時の闘いは次のように記されている。
 「この日、8万の労働者・学生のデモが津波のように国会に押しかけ、夕刻になり、全学連・東京地評を中心としたデモ隊は5千名の警官隊の防衛陣を突き崩し国会構内に突入、数万の労働者・市民も続々と構内に押し寄せ、夕闇迫る国会議事堂の前庭は林立する組合旗.自治会旗で埋まり、シュプレヒ.コールは国会議事堂を揺さぶった」(山中明「戦後学生運動史」)。
 「全学連の行動は確かに滅茶苦茶であった。しかし今まで大衆運動の先頭に立っていたのは常に全学連だった」(高桑末秀)。

  こうして約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。ブント書記長島氏は、「国会乱入事件闘争」の意義について「生田追悼文集」の中で次のように確認している。

 概要「この日、生田は人々とともに、議事堂の正面階段で喜色満面、手手を叩き躍り上がって興奮していたのだ。(ブントの印刷所で初めて刷ったビラを現場で配ったことを指摘し、)この闘いと共にブントは大衆の面前に踊り出た。この日を期して同盟は安保闘争に組織を賭け突入した」。
 「このデモを可能にし、労働者の力を引き出したその先頭には、勇敢な全学連の学生がいたりだ。そして、この学生と一部労働者の先頭には、すでに一年前あらゆる既成政党と縁を切り、前衛の旗を掲げて進んできた、我が共産主義者同盟が立っていたのである。この日の闘いは、かくて既成指導部の総退却の場を見た労働者が、同時にこれに代わってこの闘いの先頭に立って闘う激しい前衛部隊、我がブントを公然と見出す最初の機会を創りだしたのである」。

 ブント機関誌「共産主義7号」は次のように記している。
 「大衆と指導者の分裂! 左翼的言辞を弄しながら欺瞞し続け、常に大衆を裏切り続けながら、なお、一定の幻想を与え続けてきた社党らの幹部の仮面がかくも見事にとられたところに、この闘いの意義がある」。

 「新左翼二十年史」では、朝日新聞編集委員の高木正幸氏評で「11.27日国会突入は、ブント安保全学連が打ち立てた最初の金字塔」と讃辞している。

 この衝撃が次のように伝えられている。大獄秀夫氏の「新左翼の遺産」72pより転載する。
 概要「国労新橋支部の木田忠は、11.27について、ある座談会で次のように述べている。この支部が安保問題を闘わねばならぬと動き出したきっかけは、11.27の国会突入事件です。それまでは、職場で動員に参加してくれと頼んでも、限られた人数しか動員できなかった。ところが、11.27以後は、職場の中で国会に入った組合員はすばらしかったと活気づいたし、入らなかった組合員からは、入ろうとしたのになぜ幹部は止めたかという声が圧倒的に出てきた。その後は動員をかけると、常に計画以上に参加して、こっちで整理するのに骨が折れるという状態になった。警職法以来、鬱積していた警察官に対する憎悪、権力に対する怒りに火をつけたのが、11.27事件だった」。

 社学同−全学連合同フラクの機関紙「プロレタリア通信」は、27号11月号で「11.27国会占拠闘争の勝利万歳!」を発表し、闘争の意義を意思統一した。

 蔵田計成氏は次のように評している。
 「11.27国会突入闘争は、安保全学連がうち立てた最初の金字塔であり、この日本階級闘争史上初の快挙において、革命的左翼はその真紅の旗を、人民大衆の面前にうち立てることができた」。

【岸政権の非難と逮捕攻勢、全学連の反発】

 政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。自民党川島幹事長は、構内の静寂をみはからって、5時すぎに記者団をまえに頬を紅潮させながら簡単な声明を読みあげた。

 「国会の神聖を侵した暴徒と破壊勢力に対しては断乎として対決する。議会主義を擁護し、民主主義を守るため、あらゆる手段を講ずる」(朝日新聞、1959.11.28日)

 国会突入闘争の翌日、清水書記長、糠谷、加藤副委員長、葉山岳夫東大法学部緑会委員長ら7名に逮捕状が出された。5名が逮捕され、清水全学連書記長、葉山都学連執行委員の2名が逮捕を逃れた。 全学連は、「いかなる弾圧にも屈せず闘い抜く」との声明発表。全学連は二名の学内籠城闘争で対抗した。そして、来たるべき12.10闘争には、再度の「国会構内大抗議集会」をめざして闘うと声明した。

【ジャーナリズムの批判】

 翌11.28日付けの新聞各紙の見出しは「議会制を破壊する暴挙」との観点から、一面トップで「デモ隊、国会構内へ乱入」(朝日)、「デモ隊、国会構内にナダレ込む」(読売)、「請願デモ、国会なだれ込み」(毎日)と報じていた。朝日新聞は「常軌を逸した行為」と非難し、読売新聞は「陳情に名を借りた暴力」とののしっている。

 11.28日付けのジャーナリスト緊急集会アピールは、次のように述べている。

 「今回の請願デモが政府の予想や、主催者の予想さえも上回る盛大な集会となったことは、日本国民の間に安保改定阻止の世論が急速に高まっていることを示すものであり、今回のデモの最大の意味もまさにそこにある、と我々は考えるものである。この事実の前には、多少のいわゆる『混乱』があったとしてもそれは主要な側面ではない。ところが現状は政府与党ばかりか民主勢力の一部までもこのデモが国会構内に突入したことを大げさに非難し、そこに重要な問題があるかのように論議されている。本末転倒もはなはだしい」等々。

【国民会議・社会党・総評の批判】
 国民会議、社会党、総評も、突入デモ隊を非難した。社会党は、浅沼書記長がその日のうちに記者会見をし、国会の権威を傷つけたとして自民党に平謝りした。次のように表明をした。
 概要「1・社会党の任務は請願を斡旋することだった。2・国会に全員が入ったことは遺憾。3・乱入を煽動し、実行したのは全学連」云々。

 11.28日、国民会議は全学連に対して自己批判を要求している。11.30日に開かれた幹事会は、全学連の国民会議からの離脱を求めるという社共両党の申し入れを検討している。これまで通り「統一行動に含めていく」ことを決定した。

 総評は、労働者たちの戦闘的雰囲気に、否応なく背中を押されたていた。幹事会は翌日長文の次のような声明を発表した。
 概要「1・闘争は憲法違反の安保改定と首切り反対の怒りの爆発だった。2・ベトナム賠償や戦闘機買い入れにみられる悪政をおおいかくすために、政府自民党が事前に警察と組んで、陳情団を挑発し、計画的に国会内に追い込んだ。3・請願権封殺の結果である。4・秩序ある統制がとれなかったのは遺憾である。5・政府の責任転化と弾圧にたいしては断乎として対決する」云々。

 11.30日、東京共闘会議は、日共系8割にもかかわらず「国会突入は全く正当、全学連支持」を確認した。

 12.2日、社会党青年部は、「党中央は、労働者・学生が大挙国会前庭に入った行動に対して大衆運動に水をかけ、安保国民会議を右よりに改組しようとしている」との要求書を党中央に提出した。

 12.3日、総評の共闘会議、国民会議の幹事会、社会党の執行委員会が開かれている。国民会議では、共産党は社会党と共に、「国会デモやるな論」を執拗に主張している。

【宮顕系日共党中央の反応】

 日共党中央は、翌日常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し、ただちに事件を非難する声明を発した。突入デモ隊を非難し、これを専ら反共・極左冒険のトロツキストの挑発行動とみなし、国民会議から全学連を排除する動きに出た。

 アカハタ号外を出し全都にばらまいた。号外には次のように書かれていた。

 概要「全学連指導部は、トロツキストが多数を占めており、民主運動の中に潜り込んでいる陰謀的な挑発者集団であり」、
 「反共と極左冒険的行動を主張していたトロツキストたちは、右翼の暴行や警官の弾圧などによって緊張した状況を逆用して挑発的行動にいで、統一行為を乱す行為に出た」。
 「自民党、岸内閣は、あらかじめこのようなことを計算に入れていた、だから彼らはこの状況を逸早く利用して、一挙に反動的宣伝と弾圧の強化に乗り出してきた」等々。

 以降、連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。その論拠は次の通り。

 概要「トロツキストが挑発的な極左冒険主義をもって民主運動の統一行動の統制を破壊し、それによって反動勢力に対して民主運動全体に対する中傷と弾圧の口実を与えるようなことに対して断じてこう手傍観してはならない」。
 「共産主義者同盟とか社会主義学生同盟に巣食うトロツキスト集団に対しては、彼らが学生であると否とに関わらず、民主陣営からの追放のために闘わなくてはならない」。

 この時の日共党中央の凄まじさは、当時党中央の指導に服していた全学連反主流派の指導者黒羽純久をして、「これは何ものかが共産党の名入りでデッチあげた怪文書である」とさえ感じさせるものであったと伝えられている。

 この声明に対して、共産党港地区委員会は中央に抗議声明を発し、27日の全学連デモを支持した。都議員団はじめ多くの党組織から全学連事務所に激励のメッセージが寄せられた。国民会議・社会党・総評も、突入デモ隊を非難した。この時の共産党中央の凄まじさは、当時党中央の指導に服していた全学連反主流派の指導者黒羽純久をして、「これは何ものかが共産党の名入りでデッチあげた怪文書である」とさえ感じさせるものであったと伝えられている。


【中共の反応】

 中国人民世界平和保衛委員会は、次のように声明している。

 「日本の安保阻止第8次統一行動は、日本人民の闘争のたかまりを示しており、日本軍国主義の復活に反対し、米日軍事同盟に反対する日本人民の意思を力強く表明している」(12.1日北京放送)。

 中華全国総工会も「第8次統一行動の中で示した勇敢な、そして団結の精神に対して敬意」の挨拶を総評に送っている。


【日共系民青同の反応】
 この全学連主流派の「国会乱入事件」に関して、民青同は、次のように総括している。
 「自民党は、この事件以降、絶好の反撃の口実を与えられ、ジャーナリズムを利用しながら国民会議の非難の大宣伝を開始した。総評・社会党の中には、統一行動そのものに消極的行動になる傾向すら生まれたのである。運動が高揚期にあるだけに、一時的、局部的な敵味方の『力関係』だけで、戦術を決め、行動形態を決めることが、闘いの長期的見通しの中で、どういう結果を生むか、という深刻な教訓を残した」(川上徹「学生運動」)。
(私論.私見) この時の民青同の総括について
 これは、私にはおかしな総括の仕方であるように思われる。一つはブントに対する 「為にする批判」であるということと、一つは運動の経過には高揚期と沈静期が交差して行くものであり、全体としての関連無しにこの時点での一時的後退をのみ部分的総括していることに対する反動性である。事実、翌60年より安 保闘争がるつぼ化することを思えば、この時点での一時的沈静化を強調し抜 く姿勢はフェアではない。後一つは、それでは自分たちの運動が何をなしえたのかという主体的な内省のない態度である。この「60年安保闘争」後ブントは基本的には散った。つまり、国会乱入方針が深く挫折させられたことは事実である。ならば、どう闘いを組織し、どこに向かえば良かったのだろう。このような総括なしにブント的闘争を批判する精神は生産的でないと思われる。

 実際上述したように批判を行う川上氏らが民青同系学生運動を指導しつつ「70年安保闘争」を闘うことになったが、川上氏らはこの時のブントにまさる何かを創造しえたのだろうか。つつがなく70年安保が終えて、後は自身が査問されていく例の事件へ辿り着いただけではなかったのか。「恣意的な批判の愚」は慎まねばならない、いずれ自身に降りかかってきたとき自縛となる、と私は思う。

 この時のブント系学生運動と日本共産党の指導する民青系の運動は、いわば気質的な差でもあったと思われる。ブントは、どんな闘争でも決定的な勝利を求めてトントンまで闘おうとし、民青は、あらゆる闘争を勢力拡大のチャンスとして利用し、玉砕を避けて勢力を蓄積しようとするとの違いとして受止められていた風がある。

【革共同の「全学連の国会突入事件」批判】

 11.28日、革共同関西派は、「世界革命号外」を発表し、「11.27国会デモと労働者階級の任務 ブルジョアジーの弾圧・組織破壊攻撃に防衛の闘いを組織せよ」と題して、ブント全学連の政治主義を資本との闘い即ち反合理化闘争こそ肝要とする立場から、概要「国会デモにこだわる街頭カンパニア主義は、裏返しの議会主義であり、生産点と切断された街頭デモは、階級関係をかえない。議会主義、街頭主義、極左日和見主義」と批判した。

 西京司氏の「国会デモとプロレクリアートの任務」(「世界革命」、1959.2.28日付)は次のように述べている。

 「『国会デモ事件』から正確な教訓を引き出さねばならない。すでに事態が明白である今日、再び同じ道を歩む事、単純な街頭の非武装の戦闘でもって勝利をかちとろうとする事は、次には革命勢力にとって重大な打撃を招であろう。もしこの道を辿るならば青年学生の『純真』さは最悪の冒険主義に変ずるであろう。それは全闘争を瓦解させてしまい得るのである。労働者諸君! 学生諸君! 正確な戦術をもってブルジョアジ―の弾圧を粉砕しよう。ただちにその態勢を整備しよう。敵の弾圧をはねかえすスト態勢をとろう……」。

 革共同全国委は、「安保も合理化も」と主張し、関西派とは異なる立場から批判した。武井健人氏の「民主主義の危機とプロレタリア運動」(「安保闘争」、1960年)は次のように述べている。

 「わが階級闘争の危機は……かかる民衆の政治的高揚が、全体的には、虚偽のプログラムによって導かれているという危機の根幹そのものに、革命的左翼の自覚が集中していなかったことにある。……かくして、われわれの任務は、スターリン主義打倒、革命的プロレタリア党のための闘いということでなくてはならない」。

 なお、革共同の徳江和雄全学連中執ほか10名の中央執行委員は、12.6日「11.27闘争と今後の方針」という声明を出して、社共.総評の「議会主義」的見地からの批判を非難し、他方でブントの国会突入をも批判した。

(私論.私観) 全学連の「国会突入事件」をどう捉えるべきかについて
 安東氏は、この時の全学連の闘いを次のように評価している。「未曾有の大衆闘争として闘われた60年安保闘争の突破口は、59年の11.27日の国会突入闘争であった。それまでの安保闘争は3.28日に結成された安保改定阻止国民会議による統一行動が7次にわたって組織されたが、未だ盛り上がりに欠け、『安保は重い』というのが実情であったといえよう。それが、11.27の国会突入闘争をキッカケにして様相を一変し、『安保は闘える』という自信が一人前のあの警職法反対闘争の勝利の記憶とともに生まれることになったのである」。

 この時のブント系学生運動と日本共産党の指導する民青系の運動は、いわば気質的な差でもあったと思われる。ブントは、どんな闘争でも決定的な勝利を求めてトントンまで闘おうとし、民青は、あらゆる闘争を勢力拡大のチャンスとして利用し、玉砕を避けて勢力を蓄積しようとするとの違いとして受止められていた風がある。 


 11.30日、全学連が、逮捕者即時釈放を要求して三百五十名で警視庁に抗議デモ、警官隊と衝突して三名逮捕。


 12.1日、四面楚歌の中にあって、ブントは意気軒昂であった。この日、全学連緊急中執委が国会構内突入闘争の意義を確認し、「11.27を上回る12.10戦闘的国会再包囲デモ」方針を決定した。


 12.6日、革共同関西派系全学連中執11名が、11.27闘争と今後の方針 − 全学連中執の少数意見≠ナ主流を極左カンパニア主義と批判。


 12.7日、日共都学生細胞代表者会議、全学連中執提起のチャペル前集会不参加・東京駅八重洲口集会→銀座デモ方針を決定(9日日共学細代、日比谷中央集会参加に変更)。


 12.8日、全都自治会代表者会議、国会デモ強行に反主流派、分裂行動も辞さずと反対、退場。


【全学連中央集会、日比谷野音に1万5000名結集、安保闘争低迷】
 12.10日、国民会議の第9次統一行動は、国会デモを中止した。全学連は、1万5千名を結集し〔日比谷野音〕再度国会包囲デモを企画したが、主流・反主流の角逐激しく、結局国会デモほ中止、野外音楽堂から新橋土橋までデモという戦術ダウンとなった。。社共両党・総評が戦術ダウンをし始めていたこともあって、今度は分厚い警官隊の壁の前に破れた。この時革共同も又「国会包囲.国会乱入戦術の反労働者的、欺瞞.犯罪的役割をバクロせよ」、「労働者と切り離された学生の国会乱入、極左戦術と闘え」として全学連のブント指導を批判していた。してみれば、全学連はまさに孤高の急進主義運動を担っていたことになる。デモ学生運動史上、日共系、反日共系自治会両派が統一集会・統一デモを行ったのは、この日が最後となった。

 この日、11.27日の闘争の指導者として12.1日に逮捕状が出され、当局の追及と闘い東大に孤城を続けていた清水全学連書記長、葉山都学連執行委員がデモの先頭に立ち、日比谷公園に向かうところを逮捕された。この後暫く安保闘争は鳴りを潜めることになった。

 11.27国会突入闘争から12.10闘争の挫折について、蔵田計成氏は次ように評している。
 「11.27国会突入闘争は、60年安保闘争の激闘を切り拓く一大序曲となった。そして、この第八次統一行動から、次の12・10第九次統一行動における国会再包囲をめぐる「14日間の死闘」、さらには、翌年1・15羽田闘争にいたるまでの「36日間の死闘」は、階級情勢を極限まで凝縮していつた。全学連は日和見主義、裏切り、集中砲火、孤絶のなかで、最後まで闘いの貫徹をめざした」。

 12.11日、日本最大の炭鉱の福岡の三井三池炭鉱が争議に突入。この頃、数年前から「エネルギー革命」により、中小の炭鉱が閉鎖されていた。三池闘争と同じ時期、遠賀川流域の地方大手、大正炭鉱においても三池労組をのりこえる大正行動隊の闘いが生まれた。この闘争を指導していた詩人の谷川雁は、次のように詩っていた。

 「飛躍は主観的には生れない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある」。「原点が存在する」。

 松本健一氏は、「」の中で次のように評している。
 「谷川雁の美しい革命は、一方では中国の「根拠地」を夢みつつ、他方で天皇制ファシズムの革命として現出した昭和の二・二六事件をもイメージとして重ねるものであった。「死刑場の雪の美しさ」という言葉は、雪の二・二六とそれによって死刑(銃殺刑)に処されていった青年将校を、明らかに連想させるだろう。谷川雁は、「飢えた農村を救え!」といって青年将校が蹶起した二・二六事件を、マルクス主義者や近代主義的な戦後民主主義者のように「反革命」といって、切り捨てたりはしなかった。青年将校たちの「大御心にまつ」という願望の革命は、天皇というカリスマが支配原理であるとともに革命原理であった、伝統にしばられた社会においてこそ生まれたのである」。

 12.14−15日、全学連は、第21回中央委を開き、11.27闘争の意義確認、革共同系11中執弾劾、1.16岸渡米羽田実力阻止等を決定、反主流派は出席ボイコット。冬休みを返上して、1・16岸訪米実力阻止、数千名羽田現地へ!″を合言葉に、総力を結集して闘い抜くことを申し合わせた。その決意の論理的裏付けは、「学生運動先駆性論」と呼ばれている。 「全学連21中委議案」は次のように述べている。

 「労働者階級の闘うエネルギーが消失したのでは決してない。方針がないのだ。指導部がないのだ……。闘いの火は、日和見主義指導部の下に抑圧されながらもえ上るのを待っており、彼らは方針さえ与えられるならば、必ずや立つであろう」。

【砂川裁判闘争事件で最高裁判決が下され、有罪言い渡される】

 12.16日、最高裁(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)が、「在日米軍の存在が憲法違反かどうか」を問うた砂川事件に関連しての第一審の伊達判決の破棄(「1審判決を破棄。差し戻す」)を言い渡した。アメリカの軍事基地に反対し、その闘争に参加する者を犯罪者とみなすという政治的裁判であった。

 砂川事件は、「一体、条約と憲法ではどちらが優先されるのか」という論争の格好のテーマとなっていたが、既に「違憲である」とする伊達判決が出されていたのに対し、最高裁は次のような「高度な政治判断であり司法判決には馴染まない」法理論で処理した。以降、これが定式化される。

 概要「憲法第9条は日本が主権国として持つ固有の自衛権を否定しておらず、同条が禁止する戦力とは日本国が指揮・管理できる戦力のことであるから、外国の軍隊は戦力にあたらない。したがって、アメリカ軍の駐留は憲法及び前文の趣旨に反しない。他方で、日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」即ち「安保条約は高度の政治判断の結果。極めて明白に違憲と認められない限り、違法審査権の範囲外であり司法判決にはなじまない」(最大判昭和34.12.16 最高裁判所刑事判例集13・13・3225)。1963(昭和38).12.7日、被告人の有罪(罰金2,000円)が確定し最終判決となった。

 最高裁判決は、安保体制と憲法体制との矛盾をどう裁くかで注目されていたが、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の限界(統治行為論の採用)を示したものとして注目されている。

 立川砂川基地はその後、米軍が横田基地(東京都福生市)に移転したことにより、1977(昭和52).11.30日、日本に全面返還された。跡地は東京都の防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地や国営昭和記念公園ができたほか、国の施設が移転してきている。最高裁判決については「別章【砂川闘争】」に記す。


 12.16日、岸内閣は翌1.16日に安保調印の全権団派遣を閣議決定。


 12.18日、全学連書記局、各自冶会ほ冬休みを返上し1.16岸渡米阻止闘争に備えよ″を通達。


 12.22日、第10次統一行動。不発に終わった。


 この頃、イタリア共産党8回大会に宮顕が招待され、宮顕はトリアッテイ報告を修正主義とし二日目から市内見物している。


 12.23日、党港地区委員会が党内闘争宣言。「プロレタリア革命の勝利の為に公然たる党内闘争を展開せよ−港地区委員会は声明する」を発表。


 12.24日、早大で11・27、12・10の安保闘争で5学部学生18人に除籍1人、無期停学6人を含む処分。


 12月、社学同「理論戦線」第4号(執筆:高田堯=金沢大学支部、大瀬振、熊谷信雄)発刊される。


【安保国民会議全国代表者会議が「羽田動員中止」方針を決定】

 12.25日、安保国民会議全国代表者会議開催。地評代表のいくつかは「調印阻止闘争無しに、安保闘争はありえない。ゼネストを基礎に羽田実力阻止」を主張したが、総評が強硬に反対し、共産党もこれを支持した。結局、「羽田動員中止」方針が12.26日の幹事会で決められた。この時、太田総評議長は、「宮顕だけには話がついている」と語っている。岩井事務局長は、「世論を刺激するようなやり方をすると、社会党の票が逃げる」と魂胆を明らかにしている。

 かくして国民会議の最終方針は、「1.14全国的中央集会、1.15全権団・政府・自民党・アメリカ大使館抗議、1.16都心デモ→日比谷集会」という平常のスケジュール闘争を決定した。


 これより後は、「第5期その3、60年安保闘争、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離」に記す。





(私論.私見)