1959年 | 【戦後学生運動史第5期その2】 |
新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展、ブント執行部の確立と全学連運動の突出化 |
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.1.4日
これより前は、「第5期その1、新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
1959年の特徴は、再建された全学連の指導部をブント系が掌握し、急進主義運動を担いつつ「60年安保闘争」を主導的にリードしていったことに認められる。ブントは見る見る組織を拡大し、当時は革共同が握っていた全学連の主導権を奪い返すに至った。こうして少数派に甘んじることを余儀なくされた革共同系は、ブント系の指導下でこの時期共に全学連運動を急進主義的に突出させていくことになった。この間民青同系は、こうした全学連の政治闘争主義化にたじろぎつつも指導に服していたようである。 |
【1959(昭和34)年の動き】(当時の関連資料) |
お知らせ |
当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1959年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。 |
【全学連が意見書「日本共産党の危機と学生運動」を発表】 | ||
1.1日、全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」(責任者 香山健一)が発表されている。香山健一全学連委員長が責任者として作成されたが、全学連中央の統一見解としては採択されなかった。「現在の危機のうちで、何よりも深刻な点は、日和見主義.ブルジョア民族主義.官僚主義が共産党の公認の指導部の大多数を支配してしまったことにある」という前書きから始まり、次のように主張していた。
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1.1日、キューバ革命が勝利した。フィデロ・カストロ達が2年余りの武力闘争の末、新米派バティスタ政権を打倒、革命政府を樹立した。
1.10日、革共同機関誌「共産主義者」が創刊された。1号を「全世界を獲得するために プロレタリアートの焦眉の課題 共産主義者同盟」が発表された。「新左翼理論史」は次のように評している。
「ブント結成直後の最初の政治論文に相応しく、同盟結成の歴史的必然性とその根拠が、極めて要約的に展開されている」。 |
1.15日、社学同全国執行委、組織防衛のため日共と非妥協的に闘うことを確認。
1.22日、共産同都細胞代表者会議、経済主義を批判し安保闘争を強調。
【ブントが機関誌「共産主義」を創刊】 | ||||
2.1日、ブントが機関誌「共産主義」を創刊した。論客として、佐伯(東大卒、山口一理論文執筆他)、青木昌彦(東大卒、現経済学者、姫岡論文執筆)、片山○夫(早大卒、佐久間元として論文執筆、現会社役員)、生田浩二、大瀬振、陶山健一等々が名を列ねている。 1月、ブントが「共産主義」1号に「全世界を獲得するために−プロレタリアートの焦眉の課題」を発表した。同論文は、マルクス以降の世界共産主義運動をブント的に総括し、「果たしてプロレタリアートは自己の哲学を実現したか」と厳しく問いかけながら、ブント政治論を要約的に展開している。
第1号において青木は姫岡のペンネームで論文「革命的インターナショナリズムとは何か?――第四インターナショナル批判」と題する論文を発表し、公然たるJR批判を開始した。青木はまずスターリニズムによる革命の裏切りを指摘したのち、スターリニズムのコミンターンにかわる新しいインターナショナルの必要性を指摘しその新しいインターナショナルとして第四インターナショナルをどう評価すべきか、と問題を設定し、トロツキーを客観主義、組織論の誤りを犯しているとの観点からトロツキー批判に入り、そして戦略問題として、「労働者国家無条件擁護」というトロツキズムと第四インターナショナルの原則を非難し、黒寛式「反帝反スタ」戦略を打ち出していた。次のように述べている。
「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
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2月、革共同の理論誌「世界革命」が5ヵ月ぶりに復刊した。
2.11日、共産同都学生細胞代表者会議〔東大〕、二・二八安保体制打破・日中国交回復国民大会、春闘等の闘争方針決定。
2.23日、全学連都自治会代表者会議、二・二八集会参加決定。
2.28日、安保体制打破日中国交回復国民大会〔四谷公会堂〕、都学連三百名参加。
2月、ブント第2回大会。
2月、岸内閣は安保改定に公然と乗り出した。この時革共同派が執行部を握った全学連は、「合理化粉砕の春闘を如何に闘うべきか、これこそまさに革命の当面の中心課題である」とし、「労働運動理論」を長々と述べる理論活動に傾斜しつつあった。ブント派はこれを思弁主義として退け、安保闘争を一直線の政治課題として捉える運動を指針させていった。
3.25日、共産同第一回全国細胞代表者会議〔東大教養〕、第四インター加入問題でほ結論でず、革共同グループ捌除を決定。
3.26−27日、社学同第一回全国委、共産同系の安保闘争方針を採択。
3.28日、全学連第18回中委が東京で開かれ、帝国主義的侵略と抑圧の安保改定阻止・岸内閣打倒の中執方針採択、反主流の対案(教育大・神戸大・早大一文・愛知大=日共系)と修正案(東大教養=第四インター系)否決。ブント−革共同−民青同の激しい主導権争いが為された。この頃、ブントは全国細胞代表者会議を開き、革共同系メンバーをブントから排除することを決議した。
【「安保条約改定阻止国民会議」が結成される】 | |
3.28日、先の「警職法改悪反対国民会議」を受け継いで「安保条約改定阻止国民会議」が結成された。結成大会には136団体、700名が参加した。総評、社会党、中立労連、全日農、原水協、平和委、、全国基地連、日中国交回復会議、護憲連、日中友好協会、人権をまもる婦人協議会、中央青年学生共闘会議の13団体が中央幹事団体となった。全労.新産別は参加しなかった。共産党はオブザーバーとしての参加が認められた。同時に「安保改定阻止青年学生共闘会議」が結成され、社会党青年部、民青、総評青対部、全日農青年部、全学連(ブンド指導の)によって構成され、この青学共闘会議が安保国民会議に加盟した。 共産党はオブザーバーとしての参加が認められ、幹事団体会議における発言を獲得した。1953年の憲法擁護国民連合や1958年の警職法改悪反対国民会議などで共産党が排除されていたことを思えば、共同戦線上の大きな前進となった。但し、共産党の参加が運動を前進せしめたか抑制し続けたかは別の問題である。 「左翼運動」は次のように記述している。
この共闘組織は次第に参加団体を増やしながら全国的な統一行動(安保共闘)を組織していくことになった。全国各地に1573の地方共闘組織が結成されていった。以降「国民会議」は二十数波にわたる統一行動を組織していくことになった。しかも、この共闘組織は、中央段階のみならず、都道府県・地区・地域など日本の隅々にまでつくられ、その数は2千を越えていくことになる。 |
【砂川闘争事件第一審判決(伊達判決)で無罪勝ち取る】 |
3.30日、「砂川事件」(1957.7.2日、東京調達局が東京都北多摩郡砂川町(現在の立川市内)にあるアメリカ軍の立川基地拡張のための測量で、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数m立ち入ったとして、デモ隊のうち7名が刑事特別法違反で起訴された事件)の第一審で、東京地裁(裁判長判事・伊達秋雄)が最初に言った言葉が「主文、被告人全員無罪」。その理由として概要「駐留米軍は日米の政府の合意に基づいて、日本側が施設、区域を提供している」、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、米軍は明らかにその状況から見て戦力と言わざるを得ない。駐留米軍は、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。いったん事があれば日本はその紛争に巻き込まれる危険性がある。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条に違反する不合理なものである」即ち「米軍駐留は違憲」とする法理による全員無罪の判決を出した。(東京地判昭和34.3.30 下級裁判所刑事裁判例集) 伊達判決と云われる。陪席の松本判事によると、伊達裁判長は、所長に対して辞表を懐に入れて判決文を読み上げ、裁判後に提出した。所長はそれを受け取らなかったという。検察側は直ちに最高裁判所へ跳躍上告している。 |
4.1日、キューバ革命。
4.2日、安保改定反対青年学生共闘会議結成〔総評会館〕、全学連・民青同・社会党青年部・総評青年部・全青婦・全日農青年部の六団体で構成。
4.8日、全学連中執委、四・一五、四・ニ八安保改定阻止闘争を指示。
4月、 「現代の理論」が創刊された。が、党の圧力で8月の5号で廃刊に追い込まれることになる。井汲門下の上田、不破と安東の別れとなる。「あの兄弟は本質的には構造改革派」とする安東の意見が為されている。〃安東の診断はなかなか当たらないようになってきた〃とも云われた。
4.15日、国民会議の第一次統一行動(於日比谷) のこの日、約7千名が参加した。全学連は約600名で盛り上がりに欠けた。
4.28日、全学連は、「安保改定阻止、岸内閣打倒」をスロ ーガンに第一波統一行動を起こしている、中央集会〔清水谷公園〕に約1000名結集。首相官邸・外務省にデモ、のち青生婦人学生総決起大会〔日比谷野音〕に合流、夜間学生五首名とともに再度首相官邸にデモ。
4月、革共同の機関誌「第四インタナンョナル」が活版で創刊された。
5.3日、全学連中執委、安保阻止闘争方針をめぐって共産同・草共同系と対立、書記局提案の五・一五スト方針を採択。
5.9−10日、第四インターの社会党加入戦術によって東大教養・東京学大中心に学生運動民主化協議会(学民協)結成。
5.15日、国民会議の第二次統一行動、全学連もこれに呼応して安保改定阻止・岸内閣打倒第二波闘争として約5000名を集めて闘った。だが、全国的にも主要拠点校だけの闘争に終わり、低調となった。
5.29日、全学連、沖縄弾圧・集成刑法反対で米大使館・国会に抗議デモ。
5月、革共同の西が起草した綱領草案が発表され、8月の第一回全国大会に向って組織活動が始動した。
【太田龍派が、学民協を結成】 |
5月、太田龍派が、学民協を結成した。 |
6.2日、第5回参議院選挙。創価学会6人全員が当選する。
6.3−4日、社学同第4回全国大会〔北部労政会館〕が開催され、書記局派(共産同系)と反書記局派(草共同系)の角逐の末、書記局提案採択、役員をブント系で独占。委員長・大瀬振、副委員長・平井吉夫、書記長・革共同関西派系が「社学同左翼反対派」結成、機関紙「ボルシェヴィキ」を創刊する。社学同「理論戦線」第3号(発行所:リベラシオン社、執筆:岸本健一、戸坂出、姫岡玲治、熊谷信雄、大瀬振)。
6.9日、生活協同組合の法人化。
6月、ブント第2回大会を開催し、3月決議に基づき革共同派を事実上分離し、各地方学連においてもとブント派と革共同派の分裂を促進させていった。東京都学連、京都府学連、九州学連においてもっとも激しくなされた。東北学連にはほとんどブント派が存在せず、ほぼ全一的に革共同派にまとまっていた。
全学連の4−6月闘争過程で、革共同派のイニシアチブが急速に失われていった。革共同派全学連は、春闘高揚期を第二の決戦″と位置づけ「予算闘争と完全就職要求」、「春闘支援」、「炭労スト支援デモ」を学生運動のスローガンに掲げて、それを実践した。しかし、その労働者生産点主義、経済主義、非街頭主義はブント的急進主義運動に比して地味過ぎて全学連のヘゲモニーをブントに明け渡すことになる。また、日共学生細胞でも、党章派に代わって構改派が日共学生運動のヘゲモニーを確立していく。
【全学連第14回大会開催され、ブントが指導権確立】 | ||||||||||
6.5−8日、ブント2回大会の直後、全学連第14回大会が開かれた。約1千名参加。革共同系の塩川―土屋執行部の議案に対してブント派が対案を出さぬまま大会に突入した。太田龍派の学民協が対案を提出した。対案は東大駒場の代議員である小島が提案説明した。「議案は革共同、人事はブント」の妥協が成立し、革共同系の塩川―土屋、鬼塚執行部の議案の信認となり、革共同系議案を、賛成217、反対157、保留8で承認した。「先の大会ではわずかに総数約300票のうち30票前後の勢力しかなかった反主流派が、140票というところまで伸びたのは注目すべき現象」(早稲田大学新聞1959.9.16日号)であった。
「戦後史の証言ブント」で、この時の島氏の心境が次のように語られている。
なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた経緯が次のように伝えられている。
ということになり、島氏が北海道まで説得に行ったと云われている。島は、唐牛を次のように評している。
清水丈夫氏が全学連書記長に選ばれたことについて、「島記念文集」の中で次のように評されている。
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【青木昌彦証言】 | |
青木昌彦氏は、日経新聞「私の履歴書」の2007.10.5日付けbT「ヌーベルバーグ」の中で、全学連第14回大会と当時の全学連の様子を次のように証言氏している。
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【この当時の学生運動の諸潮流】 |
この時の学生運動の諸潮流について次のように整理できるようである。1.ブント社学同系、2.共産党党中央派系、3共産党構造改革派系、4・革共同関西派系、5・革共同黒田系、6・国際主義共産党(太田竜派)系。 |
【不破哲三が「マルクス主義と現代イデオロギー」を発表】 |
この頃、不破哲三は、前衛6月号紙上で「マルクス主義と現代イデオロギー」を発表し、「現代トロツキズム」批判を繰り広げている。「山口一理論文」、「姫岡怜治論文」を槍玉に挙げ、総論的な批判を加えている。今日これを読み直すとき、とても正視できない無内容な饒舌であることが判明する。まさに、当時の急進主義者の動きに水を浴びせ砂をかけることのみが目的であったことが分かる。「もはや理論的批判の必要はない」、「この反革命的反社会主義的本質を徹底敵に暴露して、政治思想的に粉砕し尽くすことだけが残っている」と本音がどこにあるかを露にして締めくくっている。 |
【姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」を発表】 | |
6月頃、ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と云われることになる論文を機関紙「共産主義3号」に発表 している。姫岡論文は、資本主義分析の方法論として宇野経済学の三段階論を援用し、現理論(普遍)、段階論(特殊)、現状分析(個別)によって現代帝国主義規定に向かっていた。レーニンの帝国主義論に継ぐ第二帝国主義論として位置づけていた。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。 編集後記で次のように述べている。
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この頃、全学連四役を含む幹部7名が党から除名処分にされている。
6.6日、革共同系社学同同盟員、社学同左翼反対派結成(30日機関紙「ポルシェヴィキ」創刊)。
6.9日、共産同第二回全国大会〔北部労政会館〕、中央委員改選して草共同系排除、綱領草案作成等を決議。
6.11日、東大生中心に百五十名、造兵学科設置反対で防衛庁デモ、唐牛全学連委員長ら二名逮捕。
6.20日、京大同学会再建、再建アピール。
6.20日、東京理大自治会、学園民主化を要求して理事会室に突入(22日ハンスト、23日学長辞意表明で中止)。
6.25日、国民会議の第三次統一行動、安保改定阻止・岸内閣打倒・全学連第三波闘争で労・学2万6000名決起。全学連は東京集会〔東大本郷〕に東大、早大等5千名参加、京都集会〔立命館大〕に千名参加し円山公園までデモ、大阪府学連、大教組と合同で市内デモ、福岡集会〔警固公園〕に三千名参加し市内ジグザグデモ。スト参加校は、北大教養、光学大札幌・旭川・函館・岩見沢、東北大教養、東京芸大、信州大文理、九大教養、西南大、福岡女。
【宮顕の言論統制】 |
6.26日付けアカハタは、ほとんど1ページを費やして「マルクス・レーニン主義党の破り難い原則−雑誌『現代の理論』をめぐって」論文を掲載した。宮顕が執筆したと思われるが、「雑誌の刊行は既に中止されているにも関わらず、党外と党内の一部には、この決議の趣旨について、誤った解釈がある。一部には、中央委員会の決定に反対しているものがある」として、延々とその誤りのゆえんを説いていた。云おうとしていることは、「前衛党の中央委員会とは別個に、特定の党員(個人や集団)が、マルクス主義理論誌を刊行し、これによってマルクス主義理論の発展をはかるというのは、根本において誤りである」ということにあった。明らかに徳球時代には考えられなかった統制一色の組織理論であったが、これを批判する刃が既に萎えつつあった。 |
6.28日、京大同学会、安保阻止で帰郷運動決定。 − 横浜市大商・文理合同委、学長職務規定改定案(市通達)に反対声明。
7.3−5日、「全学連第19中委」が開かれ、「10月ゼネスト」の方針を打ち出す。
7.4‐5日、都学連第11回大会が開催されたが、流会となった。ブント系執行委員会原案に対して、革共同系の徳江書記長から修正案が出され、激論となった。両案とも過半数を取ることが出来ず、3日目の大会では革共同系の法政大・早大一文・教育大が大会ボイコットし、ブント系と共産党系の討論となったが意見の一致を見ず、流会となった。
7.7日、全学連、安保阻止抗議集会を首相官邸前で決行、二百名参加、無届デモとして二名逮捕。
7.8日、全学連中執委、原水禁大会を安保改定阻止・岸内閣打倒の総決起大会として闘う方針を決定。
7.15日、全学連情宣部編『安保闘争--その本質と人民の闘い』(新書版)刊行。
7.18日、早大の大浜総長が、第一学部の拡大と第二学部の縮小の基本方針を語り、学生側は、単 一昼夜開講制の実現をめざす。
7.25日、社学同左翼反対派第二回拡中委、同盟内分派として活動展開を確認。
7.25日、第4次統一行動。
【太田龍・派の学民協騒動】 |
7月、商業新聞が学生運動の内幕を紹介する記事を掲載し、その中で学民協が社会党に加入している事実を指摘した。太田はICP第4回総会を招集し、この記事は加入活動に危機をもたらすかも知れない、防衛の処置としてICPを解党するという提案を提起し、総会はこれを承認した。ICPは形式上解消し、代って第四インターナショナル日本委員会が存在することになった。太田の考えは社民からICPメンバーが追及されたとき、ICPが形式上存在していなければ“二重党籍”で統制処分に問われることはないという立場で、ICPを解党しようとした、とされている。 |
7月、共産党は第6回中央委員会総会を開き、党員倍加運動に乗り出した。春日、内藤の反対。安保闘争への基本方針の策定。
7月、革共同が全学連の指導権を確保していたこの時期、週刊新潮に「全学連を指導する盲目教祖」が初出している。
8.1‐7日、第5回原水禁世界大会。
8.5日、全学連全国自治会代表者会議〔広島〕、原水禁大会を安保阻止総決起大会とすること、秋の闘争方針等を決定、のち市内デモ。
8.6日、第5次統一行動。
【第5回原水禁世界大会】 | |
8.7日、第5回原水禁世界大会。この大会を廻って、日共は、「自民党支持、岸内閣支持の人々」をも統一行動に結集できるような原水爆反対の統一戦線を組むべきだと主張し、安保問題に結びつけることに反対した。学生階層別会議。全学連は17の分散会において圧倒的な論戦を展開し、大会運営の主導権を握る日共と激しく対立した。日共は「原水禁運動と安保闘争を同一視するのは誤りである」(志賀義雄)と主張した。これに対して、全学連は「平和共存、東風西風論」を批判しつつ、次のように反論した。
大会で、全学連は労働者代表の「巨大な賛成」をかちとった。しかし、大会執行部は「分散会は決議するところではない」という口実を急造し反対した。主流・反主流の対立で紛糾の末、安保改定阻止等を決議したが、日共の主張を受け入れ、安保改定阻止をスローガンにすることなく大会を終了させた。この為、戦闘的活動家の多くが不満を蓄積させていくことになった。 |
【ブント指導部が島書記長−生田事務局長体制化する】 | |||||
59年夏のこの頃、療養中であった生田浩二が戦線に復帰してくることになり、ブントは島書記長−生田事務局長指導部の下で担われていくことになる。 ここに至るまで事務所を提供したり、事務局長役として女房役を務めていた香村正雄は次のように証言している。
このことの意味は次のことにある。通常ブントはかっての国際派系譜で誕生したと見なされているが、そういう見方は正確ではないということになる。生田はかってのバリバリの所感派学生党員であり、もと東大自治会中央委議長であった。してみればブントとは、所感派と国際派の急進主義部分のエッセンス的な結合として誕生していたとみなさねばならないということになるであろう。なお、いかにもブント的であるが、この時革共同メンバーも参加している。 多田靖氏は、次のように述べている。
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【ブント綱領考】 |
島は、ブント結成に際し、生田に綱領作成を依頼し、生田を中心に活発な議論が続けられていくことになった。8月発行の「共産主義」第4号で、ブント草案が提起され誌上公開された。ところが、その後の安保闘争突入により、この作業は中断され、結局ブントは正式名綱領を決めないままに分解していくことになった。特徴として、日共の対米従属論に対して日本資本主義復活自立論を打ち出していたところに認められる。 |
【「黒寛・大川スパイ事件」】 | |
8月のこの頃、革共同の指導者の一人である黒田寛一にまつわる胡散臭い事件が明るみにされている。これにつき、「黒寛・大川スパイ事件」で更に検証する。 概要は、大川なる者が、埼玉の民青の情報を入手できる立場を利用して、民青の情報を警察に提供することによって資金を稼いだらどうだろうか、と考えつき、大川はこのことを黒寛に相談したところ、黒寛はそれを支持した。二人は新宿の公衆電話から警視庁公安に電話し、用件を伝え、公安の方は公衆電話の場所を聞いてすぐ行くからそこで待っていてくれと応答し、かれらはその場所でしばらく待っていたが、やがて公安と会うことへの恐怖心にかられて、その場を逃げ出した、と伝えられている事件である。これを「黒田・大川事件」と云う。 これにつき、「れんだいこの左往来人生学院掲示板」に2003.1.14日付「今は名を秘す」の投稿で次のように述べられている。
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この事件の真偽は不明且つ詳細不詳である。黒寛の胡散臭さを問うにはやや矮小な事件であるが、宮顕の胡散臭さを証する「戦前党中央委員小畑リンチ致死事件」に匹敵する事件であり、黒寛派のその後の左派運動に対する責任の重さから判ずれば、この事件は殊のほか大きな意味を持っていると考える。 この事件は、「黒寛の公安当局との通謀性」を証していることになる。たまさか尻尾が掴まれたという話になる。そういう意味でもっと解明されねばならない。本来なら、当時の関係者はこの事件を広報し、黒寛派を左派戦線から追放せねばならない義務があったと考える。遅きに失した観があるが、明るみにされないよりはましだ。「黒田寛一氏の公安当局との通謀性」を証するのにまだ他にもあるのかないのか、この事件を唯一手がかりにしてが云われているのか、判明させたいところである。 2005.5.14日再編集 れんだいこ拝 |
【「黒寛・大川スパイ事件その後」】 | |
「黒田・大川事件その後」について、「国際革命文庫の日本革命的共産主義者同盟小史」の「第三章 最初の試練」の「黒田、大川の除名と分裂」で論述されている。次のように記されている。
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これによると、日本革命的共産主義者同盟の調査委員会が黒田と大川を査問したところ、「先の事件を自供し、認めた」とある。ならば、日本革命的共産主義者同盟は、その時点で日本左派運動全体に対し回状を廻し、黒寛派を追放すべきであったのではないのか。「黒田の権利停止提案、除名」などという措置があまりにも手ぬるすぎる。この手合いが、他党派解体路線を敷き、日本学生運動戦線に甚大な被害を与えたことを思えば。今も、誰彼の党派に対しスパイ呼ばわりして「正義」の鉄拳を振るっているが、噴飯ものではないか。宮顕も誰彼掴まえてはスパイ呼ばわりしてきたが、何やら共通項が臭って仕方ない。 2005.5.14日 れんだいこ拝 |
【日本トロツキズム史、「綱領論争を廻る党内対立」】 | |
西が起草した綱領草案を中心にして、革共同は8月の第1回全国大会の準備に入っていった。西派と黒寛派との対立が抜き差しならないものになりつつあった。西はむしろ脱落した太田の方と理論的に近かった。黒寛と西の距離は、太田と西のそれよりもはるかに遠いものであった。こうして、革共同は“黒寛理論”と対決しなければならなくなりつつあった。論争のテーマはほとんど全面的であったが、結局、反帝反スタ戦略をめぐる問題と、三池闘争のために提起された「炭鉱無償国有化・労働者管理」のスローガンをめぐる問題にしぼられた。 黒寛は、同盟の提出したスローガンは社民的であるといって次のように批判した。
これに対し、西派は、「炭鉱無償国有化・労働者管理」のスローガンは、日本のトロツキズム運動がはじめて過渡的綱領を現実の日本の階級闘争に適応したスローガンであり、日本のトロツキズム運動がスターリニスト党や社民党では決して提起しえない方針を掲げて、労働者階級のなかに持込もうとしたことによって画期的な意義を有していると規定していた。 |
【革共同の第二次分裂】 | |
8.26日、革共同は重大な岐路に立っていた。第二次分裂が発生している。これにつき、「革共同の第二次分裂考」で更に検証する。
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【日本トロツキズム運動史、「革共同全国委」結成される】 | |
黒寛は、本多延嘉氏と共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り、西氏の関西派と分離した。これがいわゆる「革共同第二次分裂」である。
これにより、全学連内は、1.ブント系、2.日本共産党系、3.革共同関西派系、4.革共同全国委系、5・太田龍派の5グループの対立が進行していくことになる。 |
【革共同の西派と黒寛派の理論的相違考】 |
革共同全国委派(黒寛派=探求派)と関西派はその後激しい論争を繰り広げていくことになった。「第4インター参加問題」を廻って、関西派はこれを支持し、 革共同全国委派(黒寛派)は不参加を主張した。この過程で、革共同全国委派(黒寛派)派は、関西派を「純トロツキスト第4インター教条主義」と批判して、9.20日、日本革命的共産主義者同盟全国委員会が「前進」創刊号で、「反帝反スターリニズムの旗のもと革共同全国委員会に結集せよ」を発表した。以降、同派は、「反帝.反スタ主義」を基本テーゼとするようになった。 |
【ブント第3回党大会開催】 | |
8.29−31日、ブントの第3回全国大会が開かれ〔東京〕、秋の安保阻止闘争方針等を決定。全学連指導部を掌握したブントは、安保闘争を前面にかかげて闘うことを決定する。この時、「第三次綱領草案」と規約が定められた。規約の一節は次の通り。
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8.29日、三井三池争議始まる。
9.1−2日、社学同第二回全国委〔東京〕、秋の安保阻止闘争方針等を決定。
9.5日、全学連が第19回中委〔芝児童会館〕、秋の安保阻止闘争方針等を決定。
9.8日、全学連秋期第一波、安保改定阻止・日教組支援決起集会〔清水谷公園〕に八百名参加、国会・首相官邸にデモ、九州学連ほ百五十名で炭労の統一行動に参加、市内デモ。
9.18日、全学連は、安保改定阻止・砂川伊達判決支持全国学生総決起。清水谷での中央集会となった安保改定阻止統一行動に約1500名結集。のち国会・外務省にデモ。
9.22日、全学連拡大中執委、一〇・三〇安保改定阻止全国ゼネスト方針決定。
9.23日、全学連緊急中執委、国鉄当局の学割値上げに反対闘争決定、代表、国鉄当局に即時撤回を申入れ。
9.26日、党都会議で、港、千代田地区委が党中央攻撃。
9.29日、早大が、18日の安保破壊ストで学生3人処分。
9.30日、都学連、学割値上げ・志免合理化反対で東京駅で抗議集会、五百名で国鉄本社にデモ、警官隊と衝突し二名逮捕、大阪では全関西学生総決起大会、千名参加し国鉄関西支社にデモ。
10月初旬、全学連は、各派拮抗していたために流会となっていた都学連大会を3ヵ月ぶりで開催し、ブント系執行部を選出し、首都の闘争体制を確立した。
【島ブント書記長の獅子吼】 | ||
10.10−11日、ブント中央書記局、全学連中執グループが参加した全都学生細胞代表者会議が旅館の大広間で開かれ、10.30ゼネストの方針、戦術等を決定した。
島氏自身が、「ブント私史」(批評社、1999年者)の中で次のように証言している。
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10.12日、社学同左翼反対派第四回中央委、同盟を単一青年組織に発展転化すること等を決定。
10.16−17日、日共学生細胞代表者会議。
10月、社会党から西尾末弘一派が脱党した。この頃までの安保闘争は、低調であった。
10.20日、第7次統一行動。
10.26日、全学連、安保改定阻止・炭労合理化反対・秋闘中央総決起集会〔清水谷公園〕に学生1000名結集。各所でジグザグデモ。
10.28日、安保改定反対青学共闘会議、各労組青年部等を加え十五団体で構成の安保改定阻止中央青年学生共闘会議に再編発展。
10.30日、安保改定阻止統一行動、全学連はゼネストの形で闘おうと呼びかけ、全国スト90校、121自治会、行動参加者全国30万名、都内約1万5000名で雨の中を比谷野音で集会.果敢なジグザグデモを敢行した。夜は、夜間部学生2000名が「公安条例後、始めて認められた」夜間デモを行った。「10.30の学生の全国ゼネスト闘争は、沈滞していた安保闘争に再び火を点じた」(法大全学自治会協議会アピール)。
11.7日、全学連中執委、安保改定阻止十一・二七、一二・一○全国ゼネスト方針を決定。
11.9−10日、全学連第二十回中央委〔東京〕、安保改定阻止一一・二七闘争を決定。
11.11日、社学同第三回全国委〔東京〕。
11.13日、安保阻止中央青学共闘主催・安保改定審議即時打切り・サイドワインダー持込み反対等を要求して決起集会〔チャペルセンター前〕、教育大中心に学生千五百名参加して防衛庁にデモ。
11.17日、都学連が、「11.27国会突入で物情騒然たる混乱を導き出し岸・藤山をわれわれの前に引きずり出せ」と通達。
11.26日、全学連の不穏をキャッチした警視庁の三井が、全学連書記局に打診表敬。
【全学連ら労.学2万数千名が国会突入】 | |||||||||
11. 27日、第8次統一行動。全国九十校二万名参加、合化労連.炭労の24時間ストを中心に全国で数百万の大衆が行動に立ち上がった。東京には8万名が結集した。この時の国会デモで、全学連5000名の学生らによる「国会乱入事件」が発生している。これを確認しておく。
しかし、このアジテーションは沼さんラッパ″にすぎなかった。その証拠に、国民会議と警視庁は事前協議をして、「代表団だけが請願をすませ、正門チャペルセンター前部隊だけが国会正門を左折して、人事院通りの部隊と合流し、流れ解散をする」という予定になっていた。 次のように伝えられている。
共産党議員(野坂、志賀、神山)が駆けつけ、「統制に従ってすぐにここから引揚るよう」説得し始めた。日共の志賀義雄が血相をかえてとんできた。「諸君に本当の勇気があるなら、私に従って引き揚げて欲しい」と長口舌をふるいはじめた。だが、彼のあとに従ったのは立教大生など数十名だった。神山茂夫も、デモ隊と乱闘を演じて構内警備の役割を代行した。浅沼書記長は「院内のことは我々がやる。諸君は目的を終えたのだから帰ってくれ。さあ安保反対の万歳をやろう」と熱弁をふりしぼった。だが、だれひとりとして唱和するものはいなかった。
こうして約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。ブント書記長島氏は、「国会乱入事件闘争」の意義について「生田追悼文集」の中で次のように確認している。
ブント機関誌「共産主義7号」は次のように記している。
「新左翼二十年史」では、朝日新聞編集委員の高木正幸氏評で「11.27日国会突入は、ブント安保全学連が打ち立てた最初の金字塔」と讃辞している。 この衝撃が次のように伝えられている。大獄秀夫氏の「新左翼の遺産」72pより転載する。
社学同−全学連合同フラクの機関紙「プロレタリア通信」は、27号11月号で「11.27国会占拠闘争の勝利万歳!」を発表し、闘争の意義を意思統一した。 蔵田計成氏は次のように評している。
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【岸政権の非難と逮捕攻勢、全学連の反発】 | |
政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。自民党川島幹事長は、構内の静寂をみはからって、5時すぎに記者団をまえに頬を紅潮させながら簡単な声明を読みあげた。
国会突入闘争の翌日、清水書記長、糠谷、加藤副委員長、葉山岳夫東大法学部緑会委員長ら7名に逮捕状が出された。5名が逮捕され、清水全学連書記長、葉山都学連執行委員の2名が逮捕を逃れた。 全学連は、「いかなる弾圧にも屈せず闘い抜く」との声明発表。全学連は二名の学内籠城闘争で対抗した。そして、来たるべき12.10闘争には、再度の「国会構内大抗議集会」をめざして闘うと声明した。 |
【ジャーナリズムの批判】 | |
翌11.28日付けの新聞各紙の見出しは「議会制を破壊する暴挙」との観点から、一面トップで「デモ隊、国会構内へ乱入」(朝日)、「デモ隊、国会構内にナダレ込む」(読売)、「請願デモ、国会なだれ込み」(毎日)と報じていた。朝日新聞は「常軌を逸した行為」と非難し、読売新聞は「陳情に名を借りた暴力」とののしっている。
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【国民会議・社会党・総評の批判】 | ||
国民会議、社会党、総評も、突入デモ隊を非難した。社会党は、浅沼書記長がその日のうちに記者会見をし、国会の権威を傷つけたとして自民党に平謝りした。次のように表明をした。
11.28日、国民会議は全学連に対して自己批判を要求している。11.30日に開かれた幹事会は、全学連の国民会議からの離脱を求めるという社共両党の申し入れを検討している。これまで通り「統一行動に含めていく」ことを決定した。 総評は、労働者たちの戦闘的雰囲気に、否応なく背中を押されたていた。幹事会は翌日長文の次のような声明を発表した。
11.30日、東京共闘会議は、日共系8割にもかかわらず「国会突入は全く正当、全学連支持」を確認した。 12.2日、社会党青年部は、「党中央は、労働者・学生が大挙国会前庭に入った行動に対して大衆運動に水をかけ、安保国民会議を右よりに改組しようとしている」との要求書を党中央に提出した。 12.3日、総評の共闘会議、国民会議の幹事会、社会党の執行委員会が開かれている。国民会議では、共産党は社会党と共に、「国会デモやるな論」を執拗に主張している。 |
【宮顕系日共党中央の反応】 | |||||
日共党中央は、翌日常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し、ただちに事件を非難する声明を発した。突入デモ隊を非難し、これを専ら反共・極左冒険のトロツキストの挑発行動とみなし、国民会議から全学連を排除する動きに出た。
以降、連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。その論拠は次の通り。
この時の日共党中央の凄まじさは、当時党中央の指導に服していた全学連反主流派の指導者黒羽純久をして、「これは何ものかが共産党の名入りでデッチあげた怪文書である」とさえ感じさせるものであったと伝えられている。 この声明に対して、共産党港地区委員会は中央に抗議声明を発し、27日の全学連デモを支持した。都議員団はじめ多くの党組織から全学連事務所に激励のメッセージが寄せられた。国民会議・社会党・総評も、突入デモ隊を非難した。この時の共産党中央の凄まじさは、当時党中央の指導に服していた全学連反主流派の指導者黒羽純久をして、「これは何ものかが共産党の名入りでデッチあげた怪文書である」とさえ感じさせるものであったと伝えられている。 |
【中共の反応】 | |
中国人民世界平和保衛委員会は、次のように声明している。
中華全国総工会も「第8次統一行動の中で示した勇敢な、そして団結の精神に対して敬意」の挨拶を総評に送っている。 |
【日共系民青同の反応】 | |
この全学連主流派の「国会乱入事件」に関して、民青同は、次のように総括している。
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これは、私にはおかしな総括の仕方であるように思われる。一つはブントに対する
「為にする批判」であるということと、一つは運動の経過には高揚期と沈静期が交差して行くものであり、全体としての関連無しにこの時点での一時的後退をのみ部分的総括していることに対する反動性である。事実、翌60年より安
保闘争がるつぼ化することを思えば、この時点での一時的沈静化を強調し抜
く姿勢はフェアではない。後一つは、それでは自分たちの運動が何をなしえたのかという主体的な内省のない態度である。この「60年安保闘争」後ブントは基本的には散った。つまり、国会乱入方針が深く挫折させられたことは事実である。ならば、どう闘いを組織し、どこに向かえば良かったのだろう。このような総括なしにブント的闘争を批判する精神は生産的でないと思われる。 実際上述したように批判を行う川上氏らが民青同系学生運動を指導しつつ「70年安保闘争」を闘うことになったが、川上氏らはこの時のブントにまさる何かを創造しえたのだろうか。つつがなく70年安保が終えて、後は自身が査問されていく例の事件へ辿り着いただけではなかったのか。「恣意的な批判の愚」は慎まねばならない、いずれ自身に降りかかってきたとき自縛となる、と私は思う。 この時のブント系学生運動と日本共産党の指導する民青系の運動は、いわば気質的な差でもあったと思われる。ブントは、どんな闘争でも決定的な勝利を求めてトントンまで闘おうとし、民青は、あらゆる闘争を勢力拡大のチャンスとして利用し、玉砕を避けて勢力を蓄積しようとするとの違いとして受止められていた風がある。 |
【革共同の「全学連の国会突入事件」批判】 | ||
11.28日、革共同関西派は、「世界革命号外」を発表し、「11.27国会デモと労働者階級の任務 ブルジョアジーの弾圧・組織破壊攻撃に防衛の闘いを組織せよ」と題して、ブント全学連の政治主義を資本との闘い即ち反合理化闘争こそ肝要とする立場から、概要「国会デモにこだわる街頭カンパニア主義は、裏返しの議会主義であり、生産点と切断された街頭デモは、階級関係をかえない。議会主義、街頭主義、極左日和見主義」と批判した。
革共同全国委は、「安保も合理化も」と主張し、関西派とは異なる立場から批判した。武井健人氏の「民主主義の危機とプロレタリア運動」(「安保闘争」、1960年)は次のように述べている。
なお、革共同の徳江和雄全学連中執ほか10名の中央執行委員は、12.6日「11.27闘争と今後の方針」という声明を出して、社共.総評の「議会主義」的見地からの批判を非難し、他方でブントの国会突入をも批判した。 |
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安東氏は、この時の全学連の闘いを次のように評価している。「未曾有の大衆闘争として闘われた60年安保闘争の突破口は、59年の11.27日の国会突入闘争であった。それまでの安保闘争は3.28日に結成された安保改定阻止国民会議による統一行動が7次にわたって組織されたが、未だ盛り上がりに欠け、『安保は重い』というのが実情であったといえよう。それが、11.27の国会突入闘争をキッカケにして様相を一変し、『安保は闘える』という自信が一人前のあの警職法反対闘争の勝利の記憶とともに生まれることになったのである」。
この時のブント系学生運動と日本共産党の指導する民青系の運動は、いわば気質的な差でもあったと思われる。ブントは、どんな闘争でも決定的な勝利を求めてトントンまで闘おうとし、民青は、あらゆる闘争を勢力拡大のチャンスとして利用し、玉砕を避けて勢力を蓄積しようとするとの違いとして受止められていた風がある。 |
11.30日、全学連が、逮捕者即時釈放を要求して三百五十名で警視庁に抗議デモ、警官隊と衝突して三名逮捕。
12.1日、四面楚歌の中にあって、ブントは意気軒昂であった。この日、全学連緊急中執委が国会構内突入闘争の意義を確認し、「11.27を上回る12.10戦闘的国会再包囲デモ」方針を決定した。
12.6日、革共同関西派系全学連中執11名が、11.27闘争と今後の方針 − 全学連中執の少数意見≠ナ主流を極左カンパニア主義と批判。
12.7日、日共都学生細胞代表者会議、全学連中執提起のチャペル前集会不参加・東京駅八重洲口集会→銀座デモ方針を決定(9日日共学細代、日比谷中央集会参加に変更)。
12.8日、全都自治会代表者会議、国会デモ強行に反主流派、分裂行動も辞さずと反対、退場。
【全学連中央集会、日比谷野音に1万5000名結集、安保闘争低迷】 | |
12.10日、国民会議の第9次統一行動は、国会デモを中止した。全学連は、1万5千名を結集し〔日比谷野音〕再度国会包囲デモを企画したが、主流・反主流の角逐激しく、結局国会デモほ中止、野外音楽堂から新橋土橋までデモという戦術ダウンとなった。。社共両党・総評が戦術ダウンをし始めていたこともあって、今度は分厚い警官隊の壁の前に破れた。この時革共同も又「国会包囲.国会乱入戦術の反労働者的、欺瞞.犯罪的役割をバクロせよ」、「労働者と切り離された学生の国会乱入、極左戦術と闘え」として全学連のブント指導を批判していた。してみれば、全学連はまさに孤高の急進主義運動を担っていたことになる。デモ学生運動史上、日共系、反日共系自治会両派が統一集会・統一デモを行ったのは、この日が最後となった。
この日、11.27日の闘争の指導者として12.1日に逮捕状が出され、当局の追及と闘い東大に孤城を続けていた清水全学連書記長、葉山都学連執行委員がデモの先頭に立ち、日比谷公園に向かうところを逮捕された。この後暫く安保闘争は鳴りを潜めることになった。 11.27国会突入闘争から12.10闘争の挫折について、蔵田計成氏は次ように評している。
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12.11日、日本最大の炭鉱の福岡の三井三池炭鉱が争議に突入。この頃、数年前から「エネルギー革命」により、中小の炭鉱が閉鎖されていた。三池闘争と同じ時期、遠賀川流域の地方大手、大正炭鉱においても三池労組をのりこえる大正行動隊の闘いが生まれた。この闘争を指導していた詩人の谷川雁は、次のように詩っていた。
「飛躍は主観的には生れない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある」。「原点が存在する」。 |
「谷川雁の美しい革命は、一方では中国の「根拠地」を夢みつつ、他方で天皇制ファシズムの革命として現出した昭和の二・二六事件をもイメージとして重ねるものであった。「死刑場の雪の美しさ」という言葉は、雪の二・二六とそれによって死刑(銃殺刑)に処されていった青年将校を、明らかに連想させるだろう。谷川雁は、「飢えた農村を救え!」といって青年将校が蹶起した二・二六事件を、マルクス主義者や近代主義的な戦後民主主義者のように「反革命」といって、切り捨てたりはしなかった。青年将校たちの「大御心にまつ」という願望の革命は、天皇というカリスマが支配原理であるとともに革命原理であった、伝統にしばられた社会においてこそ生まれたのである」。 |
12.14−15日、全学連は、第21回中央委を開き、11.27闘争の意義確認、革共同系11中執弾劾、1.16岸渡米羽田実力阻止等を決定、反主流派は出席ボイコット。冬休みを返上して、1・16岸訪米実力阻止、数千名羽田現地へ!″を合言葉に、総力を結集して闘い抜くことを申し合わせた。その決意の論理的裏付けは、「学生運動先駆性論」と呼ばれている。 「全学連21中委議案」は次のように述べている。
「労働者階級の闘うエネルギーが消失したのでは決してない。方針がないのだ。指導部がないのだ……。闘いの火は、日和見主義指導部の下に抑圧されながらもえ上るのを待っており、彼らは方針さえ与えられるならば、必ずや立つであろう」。 |
【砂川裁判闘争事件で最高裁判決が下され、有罪言い渡される】 |
12.16日、最高裁(大法廷、裁判長・田中耕太郎長官)が、「在日米軍の存在が憲法違反かどうか」を問うた砂川事件に関連しての第一審の伊達判決の破棄(「1審判決を破棄。差し戻す」)を言い渡した。アメリカの軍事基地に反対し、その闘争に参加する者を犯罪者とみなすという政治的裁判であった。 最高裁判決は、安保体制と憲法体制との矛盾をどう裁くかで注目されていたが、日本国憲法と条約との関係で、最高裁判所が違憲立法審査権の限界(統治行為論の採用)を示したものとして注目されている。 立川砂川基地はその後、米軍が横田基地(東京都福生市)に移転したことにより、1977(昭和52).11.30日、日本に全面返還された。跡地は東京都の防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地や国営昭和記念公園ができたほか、国の施設が移転してきている。最高裁判決については「別章【砂川闘争】」に記す。 |
12.16日、岸内閣は翌1.16日に安保調印の全権団派遣を閣議決定。
12.18日、全学連書記局、各自冶会ほ冬休みを返上し1.16岸渡米阻止闘争に備えよ″を通達。
12.22日、第10次統一行動。不発に終わった。
この頃、イタリア共産党8回大会に宮顕が招待され、宮顕はトリアッテイ報告を修正主義とし二日目から市内見物している。
12.23日、党港地区委員会が党内闘争宣言。「プロレタリア革命の勝利の為に公然たる党内闘争を展開せよ−港地区委員会は声明する」を発表。
12.24日、早大で11・27、12・10の安保闘争で5学部学生18人に除籍1人、無期停学6人を含む処分。
12月、社学同「理論戦線」第4号(執筆:高田堯=金沢大学支部、大瀬振、熊谷信雄)発刊される。
【安保国民会議全国代表者会議が「羽田動員中止」方針を決定】 |
12.25日、安保国民会議全国代表者会議開催。地評代表のいくつかは「調印阻止闘争無しに、安保闘争はありえない。ゼネストを基礎に羽田実力阻止」を主張したが、総評が強硬に反対し、共産党もこれを支持した。結局、「羽田動員中止」方針が12.26日の幹事会で決められた。この時、太田総評議長は、「宮顕だけには話がついている」と語っている。岩井事務局長は、「世論を刺激するようなやり方をすると、社会党の票が逃げる」と魂胆を明らかにしている。 |
これより後は、「第5期その3、60年安保闘争、ブント系全学連の満展開と民青同系の分離」に記す。
(私論.私見)