1956年 【戦後学生運動史第4期その1
全学連の再建期、反日共系全学連の誕生

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日

 これより前は、「第3期、「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後学生運動の第4期は、1956年から始まった。第4期の特徴は、日本左翼運動史上もう一つのマルクス主義運動即ち公認スターリニズムに対するトロツキズムの登場により、全学連がこれに急速に傾斜していくことに認められる。このことが次のように語られている。
 「学生運動では、1956年というのは、国際派ルネッサンスとでもいうべき年で、運動の形成の方法も、50年のレッドパージ反対闘争の復興の季節でした」。

 これより以降の流れをこれまでのように「学生運動と日本共産党との絡み」で記述していくことが困難となる。そこで、「学生運動と日本共産党との絡み」の検証が必要な全学連主流派派の動きと、トロツキズム革共同派の流れを別個に追い、必要な限りで接点を記していくことにする。


【1956年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1956年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.5日、共産党の中央常任幹部会員で書記局員でもある志田重男が突然失踪した。党本部は直ちに機密資料回収に向った。この時期志田はスキャンダル騒動の渦中にあり党の調査を受けるはめにあった。志田はこの調査を拒否し逃亡した。志田は、後日反旗を挙げることになる。


 1.14日、全学連、法政、中執委員会が停滞した活動を分析。この頃の早大全学協は、開店休業状態で、部室は隣の協組食堂の倉庫となる始末だった。


 1.23日、東大教養学部(東C)で、授業料値上げ反対の代議員会が開かれ、数年間定足数を満たさなかったのを遥かに上回って成立させ、低迷していた学生運動を突破する緒を開いた。「六全協のノイローゼ」を克服し、後述する「層としての学生運動論」に基づく新たな活動の胎動であった。

 東大駒場の再建は、非公然活動から復帰した生田浩二のエネルギッシュな活動に負っていた。島成郎氏が著書「ブント私史」の中で次のように証言している。

 概要「私や森田実らが本郷から大挙押しかけ、駒場の学生運動に火をつけようと暗躍、指導した」。


 1月、「反戦学生同盟の歴史的任務と今後の課題」(東京都委員会)発表される。


 1月、石原慎太郎の「太陽の季節」が芥川賞を受賞した。同書は、この頃の湘南の海でのヨット、アロハシャツなどのアイテムで表現される若者たちの風俗を「太陽族」として活写し、時代の気分をとらえていた。


 2.2日、東大教養学部、教育大、御茶の水大などの学生4000名が、半年間の無風状態を破ってデモを行った。


 2月、中野好夫氏が文芸春秋紙上で「もはや戦後ではない」と記し、実感をもって認知された。


 2月、全学連授業料値上げ反対国会請願運動。


【ソ連共産党20回大会開催、スターリン批判行われる】
 2.14日、ソ連共産党20回大会が開かれ、、「フルシチョフ・テーゼ」が発表された。同テーゼで、1・戦後世界秩序を規定していた資本主義と社会主義の体制間冷戦構造に対する雪解け式平和共存政策の採用、2・戦争の宿命的不可避性の否定、3・社会主義への平和的移行の可能性を発表した。この「フルシチョフ・テーゼ」は概ね歓迎された。

 2.24日、フルシチョフ(ミコヤン?)によりスターリン批判が行われ、驚天動地の衝撃が走った。

 宮顕系日共党中央は、スターリン批判」が提示しているマルクス・レーニン主義運動の根本的見直しや国際共産主義運動の転換とその変遷を洞察する理論的解明をなしえず、次のように弁明した。
 概要「単に個人指導が集団指導に訂正されただけのことであり、わが国では既に六全協で解決済みである」。

 米原昶は次のように弁明している。
 「個人中心的な指導の問題も、六全協で提起され、それ以来すでに一年間、われわれはこの問題の解決に取りくんできた」。

 つまり、安心立命的に居直りさえした。そればかりか、「スターリン批判」究明の動きを「自由主義」・「清算主義」・「規律違反」等の名目で抑圧していくことになった。

 上田耕一郎は、次のように述べている。
 「すべてのマルクス主義者が例外なく信じている見解でさえ、まったくちがっていることがありうるということを、苦渋とともに悟らされた以上、私たちの進路をさぐるためにも、すでに歴史的判定のくだったものと思われるもろもろの過去の足跡の、いくつかの曲がり角について、捨て去った方向について、見えなかった道について、その隅々まで新しく自分の目で見直すことを、フルシチョフ報告は強いているともいえよう」。

 9月、神山が、雑誌「世界」で「率直な意見-トリアッティ提案を読んで」と題して次のように述べている。
 「スターリンの業績と害悪、個人崇拝の一般特殊的条件とその克服方法などの問題についてはもうだいたい知られている」。

 党も神山もこの程度だった。

 イタリア共産党は、スターリン批判を通じて社会主義へのイタリアの道=構造改革路線を打ち出す。

 (「戦後政治史1956年の該当項」参照)

【先進的学生の失望広がる】
 こうした宮顕式の対応は到底先進的学生党員を納得せしめることができなかった。この頃の全学連再建グループの背景にあったものは、党に対する深い失望であった。「六全協」での形式的総括と宮顕グループによる宮廷革命の進行と狂気の自己批判運動の展開等が渦になり、党に対する不信を倍加させることとなった。これらの出来事が日共党の無謬性神話を崩れさせることになり、党の指導を離れた自律的な全学連運動の構築へと向かわせることとなる。 

 2月、広松が、東大教養学部歴史研究会学生運動史研究グループ有志名義で「学生運動の正しい発展のためにその諜題と展望ー」(『学園』東京大学教養学部学友会)を執筆している。この論文は、学生層をインテリゲンチャ及び青年としての「二重の規定性」と分析し、「学生層はインテリの中の青年層であり、青年としての特質、鋭敏な神経、理想への憧れ、積極的な行動性を持つもので、ある」としている。そしてさらに、学生が担うべき課題として次のように述べている。
 「学生層の客観的規定性、学生運動の蓋然的方向は、必ずしも同時にすべての学生によって理解されるものではなく、学生層の史的当為(ゾレン)を深く自覚した部分と、未だそれに至っていない部分とをつくり出すことは避けられない。この自覚的部分が、過去の学生運動を分析して、その成果と欠陥とを明白にすること、更には運動上、組織上の正しい方針を確立して、それによって全学生層をいかに結集するかが、当面する重要課題である。先進的部分によって提示されるとはいっても、それが外部から、偶然的に持ち込まれるものではなく、全学生層のものである。先進的部分によって提示される課題は、全学生を結集する方向をも規定するものであって、この意味に於いても全学生層の課題であり、また展望にも連るものである」。

 3.19日、鳩山内閣が小選挙区制法案を国会に提出。


【全学連第8回中委】

 4.4日、全学連第8回中委が開かれ、先の「7中委イズム」的宮顕式イエスマン路線のくびきから決別し次のように批判した。

 「学生運動を自然発生的運動に解消しようとすることであり、その合理化であった」。
 「学生の力量を過小評価した日常要求主義が学生運動を沈滞に陥れた」。
 「学生の力量を過小評価した日常要求主義が学生運動を沈滞に陥れた」。

 「8中委」は、「7中委イズム」をかく批判し、全学連の革命的伝統を回復し、当面する重要政治課題、平和擁護闘争を第一義的に掲げ全国一斉に行動を展開するという方針を採択した。こうしてこの「8中委」が全学連再建の基礎をつくることとなった。これを、いわゆる 「8中委.9大会路線」と云う。

 「8中委」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術再転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになった。当面の闘争を、核兵器実験禁止、小選挙区制反対、教育三法反対の三点に据えて、積極的な闘争方針を打ち出した。

 この時武井元委員長の主唱する「層としての学生運動論」が「7中委イズム」の批判の武器として影響を及ぼした。「層としての学生運動論」とは、

 戦前の学生はブルジョア的で、社会的にも「学生さん」として特別扱いされていた。従って、大衆的学生運動の余地がなく、学生運動は一部の先進的学生による思想運動が主体となっていた。しかし戦後は、第二次世界大戦を経験してきた学生層は、出身階級とは関係なく全体として平和の擁護と民主主義の成立に層として共通の目標にして協働し得る。即ち、学生全体が「層として」平和と民主主義の為に闘うようになっている。全学生を包括する学生自治会とその総連合の組織は、このことを示しているし、また全学連の成立によって、「層としての」学生運動が保証されるようになった。
 従って、学生の先進的.自覚的分子は学校の外へ出て活動するのではなく、層としての学生の戦うエネルギーを引き出し発展させることを、その主要な任務としなければならない。学生層は全体として労働者と共に日本の民主化や社会改革、さらに革命運動にまで同盟者として参加していく可能性がある。しかるに戦後の共産党の学生運動の指導は、この戦後学生運動の特徴を理解せず、戦前と同じように学生の先進分子を学生から引き離して、労働者、農民の中に入らせるという誤りをおかし、このため学生の闘うエネルギーを正しく発揮させることができなかった。
 学生が「層として」闘争に決起するためには、世界平和とか民族の運命に関わるような問題を取り上げるべきである。このような問題でこそ学生はその正義感、知性、理想主義的精神と情熱を燃え立たせ、行動に決起し得るもので、労働者と違って、身の回りの経済要求で、全国的な闘争に立ち上がるものではない。
 学生の闘争は、それ自体で直接反動勢力に打撃を与えるものではないが、学生が率先して、ゼネストなどの激烈な闘争に立ち上がることは、社会的に大きな刺激を与え、人民大衆の戦列を鼓舞することになる。これが学生運動の戦略的任務である。
 従って、全学連指導部は、国際.国内情勢を分析して、全学生を決起せしめるような当面の重要政治課題をいち早く取り上げ、討議資料を作り、一斉に全国の大学でクラス討論を組織し、学生の闘うエネルギーを燃え立たせ、全国的な政治的統一行動を適切に全学生の前に提起していく力量を持たなければならない。正しい状勢分析による正しい方針は必ず学生の総決起を促す。
 従ってまた、学生の特徴である観念的な公式主義、急進主義的な傾向をプチブル的な動揺性とみるのではなく、学生運動の行動を引き起こす強力なばねとみなすべきである。
 全学連指導部の方針で学生を全体として闘争に決起させるためには、全学連指導部の方針を理解し、周りの学生に宣伝し、組織する力量を持った活動家の集団が必要である。それは個人加入の同盟組織であるが、民主青年同盟のような労働者の青年を主体とした組織ではこの役割を果たすのに不適当であり、学生同盟をつくる必要がある、というようなものであった。

 この理論が、この頃の闘う学生に新たな明確な指針として受け入れられていくことになった。いわば、共産党の右から左へ、今また右へとぶれて一貫しない混迷の中にあった学生活動家のオアシス理論として歓迎されることとなった。


 1959年に姫岡怜治の筆名でブントの綱領となる「姫岡田家独占資本主義論」を著し第一次ブントの代表的イデオローグとなる青木昌彦は、1956年大学入学当時の広松との出会いをこう回想している。
 「中でも、角帽時代の雰囲気を残した痩身長髪で、圧倒的なカリスマ性を発散させる先輩がいた。50年の反レッド、パージ学生運動時に高校退学となり、大検で東大に入り、後の全共闘時代には名大、東大の哲学教授として学生に大きな影響を与えることとなる、広松渉だ。彼に大学生協でコーヒーに誘われた。何事か、といぶかると『日本共産党はもうだめだが、東大細胞でもう一度本当のマルクスを復活させる。参加しないか』と言う。(中略)広松はその後運動から離れて学業に専念したので、ほとんど接点はなくなったが、これは私の人生行路の方角を決める出会いとなっただけに、はっきりと記憶がよみがえってくる」。

 4.17日、コミンフォルムが運動における各民族の独自性を強調して解散。山辺健太郎氏らはスターリン礼賛。


【全学連が小選挙区制導入反対闘争で息を吹き返す】

 折から国会に上程された56年前半の小選挙区制導入反対闘争が解体に瀕していた全学連の息を吹き返させていくこととなった。

 4.24日、党中央委員会声明、「小選挙区制法案を永久に葬りさるために」をアカハタに発表。

 4.26日、東京教育大学細胞は、機関紙「夜明け」の中で、「六全協」後の党指導による穏和化路線に対し、「これら一連の誤った傾向は、革命的前衛党の本旨とするところではなく、マルクス.レーニン主義とは無縁である」と指摘した。

 4.28日、「核実験の禁止、小選挙区制反対、教育三法反対」の政治課題を掲げて全都学生決起大会が開かれ、3000名が参加した。「教育三法」とは、教育委員会法・教科書法・臨時教育制度審議会法の三法案を云う。

 この頃のことが、森田実氏により次のように明かされている。

 清水幾太郎教授は、戦後日本の最も代表的な進歩的文化人であり、偉大な社会学者であったが、1956(昭和31)年4月末初めて個人的に話し合っている。その日、清水教授に指定された四谷の鰻屋に行ってみると、そこにいたのは清水教授、高野実前総評事務局長、青木市五郎砂川基地反対運動行動隊長の3氏だった。3氏とも明治生まれの気骨ある立派な人物だった。この3氏から「社会党、総評はいつ裏切るかわからない。全学連よ、立ち上がってくれ。砂川米軍基地拡張反対運動をわれわれと一緒にやってくれ」と熱心に説得され。私は清水、高野、青木3氏の真剣さに心を打たれ、「参加」を誓った。ここにおいて雲の上の存在だった清水教授と同志のような関係になった。

 5.16日、集会とデモ。4000名のデモで国会請願を行った。

 5.26日、日比谷音楽堂で1万の学生が結集し、全国40ケ所で集会・デモ、かなりの大学でストライキが打たれた。この闘争を通して解体状態になっていた地方学連が再開され、新しい自治会の全学連加盟も見られた。

 鳩山政府の小選挙区制導入の動きに対して、全学連は、集会とデモ、国会請願を繰り返し敢行し、5.16、5.26の全国闘争によって7中委以来の沈滞が打ち破られ、学生運動が再び攻勢運動に転じる転換点になった。

 5.4日、原子力3法公布施行。


 5.17日、石原裕次郎、日活映画『太陽の季節』でデビュー。


 5.19日、科学技術庁発足。


 5.24日、売春防止法公布(33/4.1施行)。


【「政府法案次々に廃案される」】

 6.2日、教育三法・小選挙区制法案を巡って国会は大荒れ、警官隊が導入される。

 6.3日、ハトマンダー」と呼ばれた小選挙区制、教育三法のうち教科書法、臨時教育制度審議会法が審議未了で廃案に追い込まれた。但し、地教行法は可決された。当時、左派運動圏では、3勝1敗と浮かれた。 「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(=地教行法)」は通過させたが、政府法案を次々に廃案させたことは特筆されるべき成果であった。

 確かに特筆されるべき成果ではあったが、一敗の 「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(=地教行法)」が曲者であるので概括しておく。これにより、「教育委員任命制」、「教育予算の権限の教育委員会から首長への移転」、「高校の学習指導要領一般編の改訂」がなされた。

 戦後憲法の公布後・施行前の1947.3.31日、教育基本法が制定施行され、1948.7.15日、教育基本法に1年遅れて実践の手引きとして教育委員会法が制定された。その第一条には次のように記されていた。

 第1条 
 この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする。

 そして、教育委員は都道府県7人、市町村5人でそのうち一人を議会が議員から選び、残りは直接選挙で選ばれるという行政機関から独立した存在機関となっていた。

 6.30日、「地教行法案」が可決され法案となった。「戦後教育政策の歴史」は次のように記している。

 1956(昭和31).10月、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」、「教科書法」、「臨時教育制度審議会設置法」の教育三法案に、署名700万。東大など関東の10大学長や関西の13大学長が民主的教育制度を根本的に変えるものと声明を発表。しかし国会に500人の警官を14時間導入して強引に通過させる。

 これにより、教育委員の公選制が廃止され任命制となり、教育予算の権限が教育委員会から首長に移された。教育委員会法では、事務局の責任者である教育長の仕事は「教育委員会の行うすべての教育事務につき、助言し、推薦することができる(52条の3の2項)」であったのが、地教行法では「教育長は、教育委員会 のすべての会議に出席し、議事について助言する(17条の2項)」ことになった。教育事務助言が議事助言に化けた。更に、教育委員の数が2名減員され、議会からの委員はいなくなった。行政権限の拡張・立法権の後退であった。これは、教育界での戦後ルネサンス的民主制から官僚統制化への反動的動きであった。左派運動は「3勝1敗」で名を取ったが、権力側は1勝の実を取ったことになる。

 ちなみに、1999年、地教行法は改悪され、 教育長は助言する権限を持ったままで、委員会の正式メンバーに加わることになった。条文上は、教育委員が議員や公安委員を兼ねられない、公務員であってはいけないことなど(6条兼職禁止規定)を残しつつ、例外として公務員が教育長として委員になる道が開かれた。これにより、兼職禁止で選んだ委員の互選で常勤公務員である教育長が選ばれるというわけのわからないことになった。「行政委員会としての教育委員会は瀕死の状態に陥った」ことになる。

 「実体としては、民間から5人の教育委員を選び、役人から選んだ教育長のリーダーシップのもとで委員会を構成するということになる。民間からの委員は、諸官庁の審議会委員とまったく同じ地位になってしまったことになる。実権を持った首長直結の教育長とお飾りの教育委員長という構図である」( 「教育委員会と教育庁の怪」)。


【全学連第9回大会】
 6.9−12日、全国的規模の闘争に取り組む過程で全学連第9回大会を開催した。学生運動史上、「第二の全学連結成大会」と云われている。これを指導したのは、学生党員であった島、森田であった。

 「8中委路線」による運動の成功が承認され、当面する政治課題を掲げて全国一斉のゼネストをもって戦う方針が採択された。同時に、「7中委イズム」的方針による身の回り的日常的闘争をも取り込まれており、なかなか内容の濃い大会となった。次のように述べている。
 「そして、この全学連の永い間の誤りの集中的表現ともいえる七中委(55年9月)の方針が徹底的に批判された。“学生の身近な要求をとりあげ無数の行動を組織して行けば、学生の統一ができる”という意見、“自治会は学生の要求をとりあげて、それにサーヴィスすればよいのであって、情勢分析や、政治的方針の提起なと行うべきでない”という考え方、“又平和運動などとり上げるのはいいが、学生がついて来ないので自治会が浮いてしまう”という意見、更には“平和と民主主義の行動をおこすのはよいが、まず自治会が強くなってからとりあげる≠ニいう段階的考え方等々の意見を徹底的に批判し、学生の最も基本的な要求は平和と民主主義とよりよき学生生活を守ることであり、もし、全学連、自治会が正しい情勢分析の下に正しい方針を大胆に提起していけば、必ず日本の学生は立ち上がるであろうし、このことによって自らの利益を守るであろうこと、そしてこの闘いの中でのみ全学連自治会は強化されるであろうという意見を確認しつつ、過去の反省の上に立ち全国の学生諸君に応え、平和と民主主義のために強い決意をもって運動の先頭に立ち、新しい第一歩を踏み出すことを誓ったのである」(第9回大会報告決定集)」。

 この大会は「第二の全学連結成大会」とも云われる。大会宣言は次のように詠っている。
 「学生運動の新しい巨歩は踏み出された。全日本の学生は平和と民主主義とよりよき学生生活を目指して力強い前進を開始した。全学連第8回中央委員会の決定に導かれた5月の闘いは遺憾なくこの事実を立証している。最早沈滞の時期は去った。今や日本学生運動の第二の創世記が始まった」。

 大会は、全学連第5回大会によって決議された「27名の国民戦線から追放する決議」、「反戦学生同盟の解散決議」を無効とする「日本反戦学生同盟との友好関係の回復並びに旧全学連中執27名追放決議を撤回する決議」を可決した。

 人事で、 委員長・香山健一(東大)、副委員長・星宮(立命館大)、・牧(東大)、書記長・高野秀夫(早大)らの四役を選出した。島(東大)、小野(北大)、石井亮一(神戸大)らが中執となった。日共党中央系活動家を全面的に排していた。

 こうして、全学連は、急進主義的学生党員活動家の手により、党中央の指導を排して自力で再建されていくことになった。この時全学連中執委メンバーは19名中12名が党員であった。(ところで、こうしてこの全学連大会で全学連が再建されたようにも思うが、次の10回大会で再建されたという記述がなされているのもありこの関係がよくはわからない)

 全学連はこうして、かって武井元委員長が主唱した「層としての学生運動論」を更に発展させ、「層としての自覚的学生運動論」とでも呼べる急進主義運動論を再獲得した。「8中委.9大会路線」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術再転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになっ た。

 この大会では、この間の闘争を通じて「国会及び国民各層との連帯促進」、「総評・日教組・文化人らとの強力強化」、「自治会の蘇生」等がなされたと評価し、この方向での運動強化が確認された。教育三法反対闘争、56年秋の砂川闘争、 57年夏の第三次砂川闘争、57年後半の原水禁運動などに党の指導を離れた全学連運動として独自に取り組んでいくことになった。それは、急速に右傾化し始めた宮顕系日共運動に対する反発の道でもあった。

 「日本革命的共産主義者同盟小史」
は、次のように記している。
 「結果的に、全学連中央は再び戦闘的翼によって再建された。56.4月の全学連8中委と、同じく6月の9大会をまとめて8中委―9大会路線と呼んで、それまでの7中委路線と対置し、学生運動の再建と政治闘争への進出の路線として意味づけている。57.6月の10回大会は平和擁護闘争の路線を確立した大会であった。57.11.1日の総括を契機に全学連の路線はトロツキズムの影響のもとに転換を模索する。

 しかし、この時の運動は国際派時代の流れを継承して平和共存戦略下の反戦平和闘争を主眼としていた。大枠この範囲で戦術的な急進主義を担い、しばしば極左主義的ですらあった。そのため、平和共存という戦略的穏健闘争の外皮から抜け出るのは時間の問題であった。次第に平和運動の枠を食い破り革命闘争を志向していくことになる。砂川闘争から57年春のクリスマス島、エニウエトク環礁での水爆実験反対闘争、そして原水爆禁止世界大会、11.1日の原水爆禁止国際統一行動と、全学連の運動は57年いっぱい平和擁護闘争を展開していったが、平和擁護闘争は闘いのほんの一里塚でしかなかった。」。

【「門松理論」の登場】

 6.15日、東大学生運動研究会が「日本の学生運動」を上宰した。第1部「きたるべき日本革命の戦略と学生運動の位置」を書いた門松暁鐘は、当時の諸見解との混交ながら次のような注目すべき内容を具申していた。

 概要「日本の独占ブルジョアジーが買弁的であるといっても、アメリカ独占ブルジョアジーとの間に矛盾もあれば部分的対立もある。‐‐‐この部分的対立は激化する傾向を示している」。「当面する革命の性格をブルジョア民主主義革命とするのは誤りであり、たとえプロレタリア革命に強行転化するとの限定をつけても誤りであって、プロレタリア革命の日程を遅らすならば、いつまでたってもプロレタリア革命の日程をのぼすべき日は到来しない」。

 こうした観点から民族独立を伴う社会主義革命という戦略目標に辿り着き、その観点から、党の新綱領への批判を放っていた。ここに、1・左派社会党綱領の民族独立社会主義平和革命方式論、2・共産党の民族解放民主革命平和革命否定論、3・門松理論の民族解放社会主義革命平和革命否定論という三論点がでてきたことになる。

 こうした歴史研究会学生運動史研究会によってなされた研究をまとめたものが、1956年6月に出版された『日本の学生運動ーその理論と歴史一』である。この著作は、「第一部/来るべき日本の革命戦略と学生運動の位置」、「第二部/戦後日本学生運動史」、「第三部/学生運動の当面する諸問題」の三部で構成されている。執筆の分担は、第一部全三章は門松暁鐘(広松渉)、第二部・第一期、第二期は門松暁鐘、第三期は中村光男、第四期、第五期は伴野文夫、第三部は門松暁鐘、年表は伴野文夫となっており、大半を広松が執筆したことになる。広松自身が述べるには、「旧国際派の学生運動の理念と戦略と戦術みたいなものを述べたもので、全国の細胞に広まったという。さらに、旧国際派的学生運動路線を広め、かっ納得させることになったんじゃないかな」 と自負しているように、学生の動きを見ながら戦略的に運動論を展開したことがうかがえる。また、この時期に理論が生み出された背景については、1930年生まれで広松と同世代ーであり、全学連結成に携わったのち1950年の党分裂時には「国際派」として日本共産党から除名処分にあった大野明男が次のように述べている。『前章で私は、政治的な運動の力量というのは、結局のところ人間の心をいかに幅広く、底深く組織するかにかかっていると書いた。そのことを学生運動史に適用してみれば、運動が盛り上がるときは必ずそれに先行して、その時点での学生の心をとらえ、それをゆり動かすだけの理論の創造・展開があったはずだ、ということになるだろう。そして、事実そうで、あった。二十五年の盛り上がりの前には、コミンフォルム批判に沿ってで、あるが、通称『武井理論』 といわれる初代全学連委員長武井昭夫とそのブレーンが展開した理論が、各大学の党員・活動家の心を統ーしていった。三十年の六全協後の崩壊状況のなかでは、この武井理論の再学習が、復活のキッカケとなった。

 広松も、大野と同様に党から除名処分にあった1950年には、「武井理論」に触れていたと考えてよいだろう。大野の見方に従えば、広松らが1955年の六全協の翌年『日本の学生運動』を出版したのも、武井理論を踏襲することが運動に影響力を持つことを見越してのことと思われる。しかし、必ずしも同書が受け入れられたというわけではなく、内容上の意見の対立から、全学連中央の島成郎、高野秀夫らから絶版声明を要求され、理論上大部分依拠していた武井昭夫からも後述するように酷評されている。これ以後7年間、広松は沈黙することになるが、事実上これが広松の最初の理論的仕事となった。

 上で述べたような紘緯で『日本の学生運動』を著した広松は、その序文で「学生運動に積極的に参加している学友諸兄」や「沈滞を打つ破する途を模索しているすべての学友諸兄」に向けて、こう述べている。

 『学生運動を理論的に解明することは、現在緊急な実践的な課題となっている。しかし、この仕事は非常に困難である。なぜというに、日本学生運動が世界史上類例のない性格をもっているために外国の研究があまり役に立たない上に、先人の体系的な研究の発表が全然ないといえるような状態にあるからである。われわれが敢てこのような困難な仕事に着手したのは、現役の学生として、この課題の遂行が焦層の実践的要請であることを痛感するからにほかならない。

 6月、早大細胞の高野・全学連書記長が砂川闘争を指揮とあるが、その指導振りは不明。


 6月、ポーランドのボズナニ市における官僚支配によるノルマ過重に対する労働者の反乱。


 6月、反戦学同第8回拡大全国委開催される。


 7.1日、気象庁発足。


 7.4日、沖縄問題解決国民総決起大会、東京で開催。返還運動高まる。


 7.8日、第4回参議院議員選挙。


 7.17日、経済自書発表「もはや戦後ではない」流行語に。


 8.9日、長崎で第2回原水爆禁止世界大会が開かれ、5000名の日本代表と7カ国の代表が集まった。全学連も代表を送り、原水爆禁止運動を平和擁護闘争の統一的課題と評価した。


 9月、全学連7回中央委員会が名古屋で開かれた。自治会サービス論が満展開された。


 9.28日、文部省、初の全国学力調査実施。


【第二次砂川闘争】

 9月、収容認定が公告された。東京調達局は、10.1日より16日までの立ち入り調査を地元に通知する。これに対し、支援労協(砂川基地拡張反対労働組合支援協議会)、砂川基地拡張反対同盟、全学連の現地合同本部が作られ、実力阻止を確認した。

 9.13日、第二次測量開始が予測される中、全学連は砂川基地反対の闘争宣言を発して現地闘争本部を設置し、地元農民、支援団体と協力しながら闘いを組織した。10月になると学生はぞくぞく現地に乗り込み泊り込んだ。全国から3千名を現地動員し、農民.労働者と共に泊り込むこととなった。

 10.4日、政府は、滑走路拡張のため機動隊・警察官3000名動員して強制測量強行を指針する。10.2日、全学連拡大中執委が、9.22逮捕の学生3名(他に労働者4名)の刑特法での起訴に抗議声明。総評・全学連・社会党・共産党など21団体の砂川闘争支援連絡会議が、反対同盟を支援するため全国動員決定。

 10.12日、警官隊に守られて早朝から測量隊が現れ、立川基地拡張の第二次強制測量始まる。10.13日、これを阻止せんとして反対同盟員、学生、労働者ら6千〜7千名がスクラムを組み座り込む。この闘いの中で「赤とんぼ」が唄われ、大合唱となり、機動隊も静かになった。警官隊がこん棒を振りかざし、暴力的に排除し始めたため衝突、「武装警官隊2千名に襲われ、学生1千名重軽傷」。これにより「流血の砂川事件」と云われる。

 この時、砂川町の農民と労組、全学連、社会党、共産党、その他全国から馳せ参じてきた支援者でつくるデモ隊が機動隊の攻撃に耐え抜き、測量完全実施を阻止した。これによって砂川町における米軍基地拡張は事実上阻止された。反体制運動のほとんど唯一の勝利だった。 但し、砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが、中央部のスターリン的干渉に悩まされた」とある。 

 10.13日、.砂川の激突で世論の反対が高まり測量中止。10.14日、鳩山内閣は遂に測量中止声明をせざるを得ないところとなった(砂川闘争は14年の永きにわたっての闘いとなったが、不屈な闘いが功を奏し、1968.12.19日、基地計画中止が発表された)。この報に接した砂川町は、「勝った」、「勝った」の歓声で、五日市街道はどよめき、喜びと化し、「ワッショイ」、「ワッショイ」のデモガ繰り広げられ、無法地帯の様相を呈した。

 10.15日、地元の阿豆佐美(あずさみ)天神境内で勝利報告大会が開催された。.清水丈夫(たけお)「60年安保とブントを読む」(情況出版)は次のように記している。

 「1956年秋に砂川闘争の集会が現地の阿豆佐美(あずさみ)天神境内において開かれたときです。あのときの島さんの気迫にみちた理路整然とした確信あふれる演説に、全身が震えるような感動を覚えたことを今でもありありと思い出します」。

 ここまでの闘争を第二次砂川闘争と云う。
 「砂川基地反対闘争」は、全学連にとって、50年秋の反レッド.パージ闘争以来の勝利であり、学生運動史上歴史に残る輝かしい戦いとなった。その功績として、従来、軍事基地反対闘争は民族解放闘争や武装闘争の突破口的位置付けで取り組まれてきていたが、これを平和擁護闘争として取り組み、地元農民・市民・労組等々との提携による民主勢力の結集で闘うという貴重な経験となった。

 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「内灘闘争によって火の手を挙げられた基地闘争は、この砂川闘争においてついに勝利を収めることができた。以降、軍事基地の新設、拡張は容易には設定し得なくなった。加えてこの闘争を機として行政協定→安保条約の問題が世論の正面に登場し、60年安保の闘いの第一歩が記されたのである」。

【砂川基地反対闘争をめぐる対立発生】
 この時の砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが、中央部のスターリン的干渉に悩まされた。このことが全学連中執の内部の現地指導部と留守指導部との間に、砂川闘争の評価をめぐって意見の対立を生じさせた。

 56年秋の砂川闘争後、学連内に内部対立が生じた。全学連委員長・香山健一の下、現地指導部(森田・島)が「現地動員主義の成功」評価で意気軒昂になったのに対して、留守指導部(高野・牧)がその他の運動との結合との絡みでしか評価しないという対立であった。その後の経過からして、現地指導部を急進主義派、留守指導部を穏和主義派と見なすことができるように思われる。

 留守指導部の背後に宮顕系の指導があり、このことが次第に全学連中執を悩ませていくことになる。宮顕系党中央は、砂川現地での実力闘争を一切評価せず、アカハタで次のように批判した。
 「全学連の闘争は社会党に利用されたものであり、社会党の手のひらで踊った孫悟空の闘争、いわば極左冒険主義の闘争」。

 この意見の対立は次のところにあった。共に「層としての学生運動論」に依拠しつつも、急進主義派はこの時期多数派を占めており、「現地動員主義」を高く評価しその後の闘争的質の指針たらしめようとしていた。他方、少数派の穏和主義派は、「日常要求の闘いを通じての広範な学生の参加運動の志向」へと逆戻りさせようとした。急進派はこれを右翼日和見主義として批判した。こうして、全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わる事は無かった。

 以降、全学連内で主流と反主流の論争が表面化することとなった。この対立は、砂川闘争を指導した東大の森田と学連書記長で早大の高野の対立に集約された。急進主義系派は概ね森田支持派となり、宮顕系日共派は概ね高野支持派となった。この対立にはもう一つの要素が加わっていた。つまり、全学連運動の主導権を廻る旧帝大の雄東大勢と私立の雄早大との反目も関連していた。「闘争勝利後の構造改革派=牧+高野と構改派反対・島との対立、森田実の背後に安東仁兵衛の奇怪な動き」とある。

 変調な事に、早大の高野派が党の意向を汲んでいたようで、この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立までなった。「この背景には党中央のスターリン的干渉があったと判明している」と評されているが、「党中央のスターリン的干渉」と評するのは、宮顕悪事の一般化過ぎよう。

 この時有名な「孫悟空論議」が為されている。「孫悟空論議」とは、砂川における学生の活動に対して、高野が「総評・社会党幹部と云う釈迦(世界情勢)の掌で踊った孫悟空に喩え、『極左冒険主義』の危険をはらむもの」とする論で、これに森田が「運動における学生層の役割を過小評価するものとして非難応酬」した経過を云う。

 この論争に対して、石堂清倫氏は次のようにコメントしている。
 「学生がカタストロフ型の変革にあこがれ、長期の平和移行にあきたらないのは、よくある現象であった。しかしそうした外見的区別基準をもっていただけではない。それまでのスターリン型の思考が原型となっているところにスターリン主義が瓦解したのであるから、一時的な真空を何によって充たすかを十分に検討すべきであった。……いま一つ反省しなければならないのは、学生たちの中央軽蔑、一種の下克上現象の続出は、砂川闘争における中央部の無力、それに引きかえ学生は中央部なしに自分でやれるという自信をつけたことにあろうという片山さとしの説であるが、まさにそうである」。

 こうしてこの時期の56年秋の砂川闘争後、全学連内に主流急進派と反主流穏健派の内部対立を生じさせることになった。もともと党の意向とも絡んだ組織運営をめぐっての対立であったようであるが、私立の雄早大の高野と旧帝大の雄東大の森田との反目も関連していたようでもある。

 高野秀夫は、この後全学連反主流派の「構造改良派」の雄として50年代後半の学生運動を指導していくことになった。加えて、香山.森田の指導に対する物足りなさが次の流れへと向かうようである。付言すれば、高野は、宮顕に使い捨てされた挙句入水自殺を遂げることになる。

 この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立にまで発展していくことになる。急進主義派はその後森田を乗り越え更に左派化し、宮顕系日共派は高野を乗り越え更に右派化していくことになる。こうして、全学連内部に宮顕系日共派とこれに反発する急進派が誕生することになった。全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。

 この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わることはなかった。学生党員グループの先進派は、この間ジグザグする日共指導による引き回しに嫌気が差し、もはや日共党中央の影響を峻拒し自律化せしめようとし始める。以降、学生党員グループのこの動向が全学連運動の帰趨を決めていくことになる。この連中が闘う全学連の再建目指して胎動していくことになる。
 この頃の闘争史につき、森田が、「生田夫妻追悼記念文集」(1967年)に「砂川闘争のころ」を寄稿し次のように述べている。
 「鳩山内閣が、前年(55年)の強制測量に続いて、米軍事基地拡張のための強制測量を10月1日から15日の間に行うとの契約を発表したのは、たしか、56年9月13日のことであったと思う。このことは、私どもにはすでに予想されていたことだったが、前年のにがい敗北と、その上学生運動が崩壊状態でこの闘争を全く見送ってしまったことに対する責任とを思い合わせて、全学連書記局にいた私どもは、この報道をかなり緊張して受け取ったのだった。9月は大学生の試験期で、試験勉強に忙殺される月である。活動家といえども――活動家であればあるほど、と言った方が正確かも知れない――試験期には、学生運動のみに専念しているわけにはゆかない。当時の全学連書記局員も試験に追われて、ふだんは書記局に常時10数人いるのが、そのときはわずか2~3人しかいなかった。おまけに、全学連書記局内には微妙な対立が発生しつつあった。中央部を整えてから、闘いにのぞむのでは時間が足りない、わずかな現有勢力でこの闘いにのぞまなければならない――こんな考え方をしたことが、いまだに記憶に残っている」。

 原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱が生じ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないという事にもなったようである。その他授業料値上げ反対闘争にも取り組んだ。


【ポーランド・ハンガリー事件の衝撃】
 「ウィキペディア・ハンガリー動乱

 10−11月、ポーランド・ハンガリー事件が起こった。ハンガリー反ソ暴動は、共産圏からの離脱は絶対に許さない、離脱しようとするものに対しては武力による厳しい制裁も辞さないというソ連の大国主義が、スターリン批判後も変わらないことを示した出来事で、世界中に大きな衝撃を与えた。

 この背景に、6月にポーランドのポズナニで反政府暴動が起り、民族派のゴムルカの復活で収拾されることになったという経緯がある。10.23日からハンガリーの首都ブダベストでは、「スターリンの死後、東欧を襲った非スターリン化の波の中で」政府の政策に不満を持つ学生・労働者たちが集会やデモを始めた。次第にデモの参加者が増えていき、当初の平和的牧歌的なそれから暴動化へ転化していった。1・ナジ=イムレの首相復帰、2・ソ連から独立した政策、3・言論と集会の自由、4・労働者の参加の下での工場の運営、5・自由な選挙などが要求されていた。

 デモは首都ブダベストから始まって全土に広がった。労働者や民衆は、武器工場から武器を調達して武装した。政府は無力になり、各地で結成された労働者評議会が、社会の実験を握った。この時、企業単位に結成された労働者評議会とその連合によって、政治と経済の全ての活動を大衆自身の管理下におこうとする、壮大な展望が歴史に刻印された。西側から相当数の撹乱分子が送り込まれ、扇動.挑発による共産党員への襲撃、殺害まで発生していった。

 スターリン派のゲレ第一書記は、10.24日、非スターリン派のナジ=イムレ(1895〜1958、任1953〜55、56)を首相に復帰させた。ナジは、事態の収拾に努め、デモを鎮圧するために遂にソ連軍の出動を求め鎮圧を要請した。他方で、自由化を約束し、ソ連軍と交渉してソ連軍をブダペスト郊外に撤退させた。さらに自由化を求める急進派の声に押されて、ソ連軍の即時撤退を要求してソ連と交渉したが、交渉は決裂した。交渉が決裂すると、ナジは11.1日、ワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言した。

 これを見たソ連軍は再び介入にふみきった。11.1日、ソ連軍は戦車を引き返してブダペストに向かい、11.4日、ソ連軍がブダペストに対する総攻撃を開始した。戦車と共に軍事介入(機甲15個師団、戦車6千両)して市民を弾圧する映像が流された。同日、ナジ政権の閣僚全員が逮捕され、カダル(1912〜89、任1956〜88)を首相とする新政権が成立した。ブダペスト市民はソ連軍に激しく抵抗し、市街戦が展開され、多くの死傷者が出た。約2週間後に鎮圧された。そしてナジは、1958年に処刑された。

 ハンガリー反ソ暴動は、共産圏からの離脱は絶対に許さない、離脱しようとするものに対しては武力による厳しい制裁も辞さないというソ連の大国主義が、スターリン批判後も変わらないことを示した出来事で、世界中に大きな衝撃を与えた。

(私見・私論) 「ハンガリー事件」評価を廻る日本共産党党史の変遷について
 当初宮顕は、「ハンガリー事件」を概要「東欧社会主義国を転覆する目的でアメリカなどの不当な内政干渉が行われていた。それがハンガリー事件を招いた。内外の反動精力が反共カンパニアを新たに活発化する機会となった。従って、反革命的暴動とみなすべきである。ソ連軍の出動はハンガリー政府の要請によるものでプロレタリア国際主義の試金石である。ハンガリーが反革命のそうした攻撃から防衛されたことに意義がある」としていた。

 それが、「65年党史」になると、「ハンガリーでは、56年10月半ばから、スターリン以来のソ連共産党指導部のハンガリーに対する覇権主義とそれに追随してきたラーコン、ゲレらの指導部に対する党内外の不満が急速に高まった」、「こうした事態のもとで10.24日未明、ソ連は首都に軍隊を進めて介入した。ソ連の軍事介入は、ハンガリー人民の怒りと反抗を一層強め、武力衝突という事態を招いた。ハンガリー人民の要求と運動は、ソ連の覇権主義からの民族的自由、複数政党制などを求めるものであり、一部反動分子の策動はあっても、全体として外国からの反革命の策動とは云えないものであった」、「ハンガリー事件でのソ連の軍事介入は、社会主義の大義、民族自決権に反する干渉行為であった」と書き換えられた。

 問題は、かくも正反対に評価替えされたにも関わらず、一片の自己批判も無くこっそりと為されていることにある。「赤き心」があれば、何ら恥じることないにも関わらず姑息に差し替えられている。

【スターリン批判からポーランド・ハンガリー事件の流れに対する党中央の態度】

 事件の背景には、スターリニズム下の圧制からの民主化を求めるハンガリー人民大衆の先駆け的決起の要素と、ソ連圏に位置する東欧諸国の解体を狙う帝国主義の思惑的要素が結合しており、今日時点においても軽断できないが、日共は、このソ連軍の行動を、「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてハンガリーに対するソ連の武力介入を公然と支持した。但し、党員の中には、マルクス主義理論及び実践の根源的再検討を要する事象として受け止めようとする者も輩出した。党中央はこの動きに対して、「自由主義的分散主義」、「清算主義」などのレッテルを貼り、官僚主義的統制で対応していった。

 「スターリン批判」に続くハンガリー事件の衝撃が、学生たちの憤激を呼び党から離反させる強い契機となった。全学連内に「衝撃、動揺、懐疑、憤激」が走り、その先進的部分が日共の権威からの脱却に向い始めることになった。早大.一政委員会は抗議声明を出し、ソ連大使館に抗議文を手交している。この時、早大細胞は沈黙している。但し、高野秀夫は、「ハンガリー出兵に対して、断固たる抗議行動が行えなかったのは、日本学生運動の恥辱である」とも述べている。全学連内で主流・反主流論争表面化。高野秀夫は、反主流「構造改良派」の雄として50年代後半の学生運動を指導していくことになる。


【日本トロツキスト運動開始される】
 スターリン批判と「六全協」での自己批判により、一転して従来の軍事方針は間違いであったと発表したこと、ハンガリーに対するソ連の武力介入を党が公然と支持したことが「党の無謬性神話」を崩壊させ、学生たちを離反させた。学生運動の先進的活動家は、スターリン批判とハンガリー事件から受けた衝撃から動揺、懐疑、憤激を呼び起こし、もはや共産党に見切りをつけてそれが既成の権威の否定へと発展していき、新マルクス主義組織を模索していくことになった。この時既に先進的学生党員は一定の運動経験と理論能力を獲得していたということでもあろう。

 これが日本トロツキズムの発生の契機となった。このような背景から57年頃様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してス ターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、 必然的にスターリンと対立していたトロツキーの再評価へと向かうことになった。

 この間の国際共産主義運動において、トロツキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配手法と、国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。 特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」 (パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。

  「1966年のもう一つの動き」として日本トロツキズム運動勃興がある。(日本共産主義労働者党→)第4インター日本支部準備会発足→日本トロツキスト連盟→日本革命的共産主義者同盟へと生成発展していく。

 (これについては、「日本革命的共産主義者同盟小史」を参照しつつ、「第4期その2トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」、「トロツキズム運動の誕生過程、第一次分裂過程考」に記す)
(私見・私論)
 この背景には、党がソ連20回大会以後の国際共産主義運動の転換とその発展を洞察する能力に欠け、スターリン批判に対しても共産主義者として責任ある自主的な態度で受け止めることが出来なかったことと関わっている。「その根底には、日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現した」とみなされているが如何なものであろうか。むしろ、こちらの方が真っ当とみなされるべきように思われる。

 10.19日、日ソ国交回復共同宣言(12.12発効)。


 11.22日、第16回オリンピック・メルボルン大会。体操で4種目に優勝。


【民青同結成される】

 11.25日、徳球時代の「日本民主青年団」が「日本民主青年同盟」に改名再編され発足した。

(私見・私論)
 民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで宮顕式指導の下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前・戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうとし、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになった、と思われる。

【反戦学同第1回全国大会が開催】
 11月、反戦学同第1回全国大会が開催され、国鉄運賃値上げ反対、桑港体制打破等を決議する。委員長・中村光男、副委員長・鈴木迪也、書記長・鈴木啓一(森茂)、常任執行委員・東京都委員・中心的メンバーは樋口滋、吉田宏ル、大西健三、山下米子、小野田猛史、吉沢弘久、白井朗、山口昌宏、太田雄二、田村、峰岸、小泉、等々力、塩川喜信、南、伊藤、高浜。別格として野矢テツオ。書記局を大塚窪町(東京教育大のサークル部室)に定める。

 12.8日、イタリー共産党が第88回党大会開催する。


 12.9日、早大の松尾隆・氏が自宅で心筋梗塞のため死亡(享年49歳)。


 12.18日、国連総会が日本の国連加盟可決。


 12.20日、鳩山内閣総辞職。


 12.23日、石橋内閣誕生(→翌年 2.23総辞職)。


 これより後は、「第4期その2、トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」に記す。





(私論.私見)