1956年 | 【戦後学生運動史第4期その1】 |
全学連の再建期、反日共系全学連の誕生 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日
これより前は、「第3期、「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) | |
戦後学生運動の第4期は、1956年から始まった。第4期の特徴は、日本左翼運動史上もう一つのマルクス主義運動即ち公認スターリニズムに対するトロツキズムの登場により、全学連がこれに急速に傾斜していくことに認められる。このことが次のように語られている。
これより以降の流れをこれまでのように「学生運動と日本共産党との絡み」で記述していくことが困難となる。そこで、「学生運動と日本共産党との絡み」の検証が必要な全学連主流派派の動きと、トロツキズム革共同派の流れを別個に追い、必要な限りで接点を記していくことにする。 |
【1956年の動き】(当時の検証資料) |
お知らせ |
当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1956年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。 |
1.5日、共産党の中央常任幹部会員で書記局員でもある志田重男が突然失踪した。党本部は直ちに機密資料回収に向った。この時期志田はスキャンダル騒動の渦中にあり党の調査を受けるはめにあった。志田はこの調査を拒否し逃亡した。志田は、後日反旗を挙げることになる。
1.14日、全学連、法政、中執委員会が停滞した活動を分析。この頃の早大全学協は、開店休業状態で、部室は隣の協組食堂の倉庫となる始末だった。
1.23日、東大教養学部(東C)で、授業料値上げ反対の代議員会が開かれ、数年間定足数を満たさなかったのを遥かに上回って成立させ、低迷していた学生運動を突破する緒を開いた。「六全協のノイローゼ」を克服し、後述する「層としての学生運動論」に基づく新たな活動の胎動であった。
東大駒場の再建は、非公然活動から復帰した生田浩二のエネルギッシュな活動に負っていた。島成郎氏が著書「ブント私史」の中で次のように証言している。
概要「私や森田実らが本郷から大挙押しかけ、駒場の学生運動に火をつけようと暗躍、指導した」。 |
1月、「反戦学生同盟の歴史的任務と今後の課題」(東京都委員会)発表される。
1月、石原慎太郎の「太陽の季節」が芥川賞を受賞した。同書は、この頃の湘南の海でのヨット、アロハシャツなどのアイテムで表現される若者たちの風俗を「太陽族」として活写し、時代の気分をとらえていた。
2.2日、東大教養学部、教育大、御茶の水大などの学生4000名が、半年間の無風状態を破ってデモを行った。
2月、中野好夫氏が文芸春秋紙上で「もはや戦後ではない」と記し、実感をもって認知された。
2月、全学連授業料値上げ反対国会請願運動。
【ソ連共産党20回大会開催、スターリン批判行われる】 | ||||
2.14日、ソ連共産党20回大会が開かれ、、「フルシチョフ・テーゼ」が発表された。同テーゼで、1・戦後世界秩序を規定していた資本主義と社会主義の体制間冷戦構造に対する雪解け式平和共存政策の採用、2・戦争の宿命的不可避性の否定、3・社会主義への平和的移行の可能性を発表した。この「フルシチョフ・テーゼ」は概ね歓迎された。 2.24日、フルシチョフ(ミコヤン?)によりスターリン批判が行われ、驚天動地の衝撃が走った。 宮顕系日共党中央は、スターリン批判」が提示しているマルクス・レーニン主義運動の根本的見直しや国際共産主義運動の転換とその変遷を洞察する理論的解明をなしえず、次のように弁明した。
米原昶は次のように弁明している。
つまり、安心立命的に居直りさえした。そればかりか、「スターリン批判」究明の動きを「自由主義」・「清算主義」・「規律違反」等の名目で抑圧していくことになった。 上田耕一郎は、次のように述べている。
9月、神山が、雑誌「世界」で「率直な意見-トリアッティ提案を読んで」と題して次のように述べている。
党も神山もこの程度だった。 イタリア共産党は、スターリン批判を通じて社会主義へのイタリアの道=構造改革路線を打ち出す。(「戦後政治史1956年の該当項」参照) |
【先進的学生の失望広がる】 |
こうした宮顕式の対応は到底先進的学生党員を納得せしめることができなかった。この頃の全学連再建グループの背景にあったものは、党に対する深い失望であった。「六全協」での形式的総括と宮顕グループによる宮廷革命の進行と狂気の自己批判運動の展開等が渦になり、党に対する不信を倍加させることとなった。これらの出来事が日共党の無謬性神話を崩れさせることになり、党の指導を離れた自律的な全学連運動の構築へと向かわせることとなる。 |
2月、広松が、東大教養学部歴史研究会学生運動史研究グループ有志名義で「学生運動の正しい発展のためにその諜題と展望ー」(『学園』東京大学教養学部学友会)を執筆している。この論文は、学生層をインテリゲンチャ及び青年としての「二重の規定性」と分析し、「学生層はインテリの中の青年層であり、青年としての特質、鋭敏な神経、理想への憧れ、積極的な行動性を持つもので、ある」としている。そしてさらに、学生が担うべき課題として次のように述べている。
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3.19日、鳩山内閣が小選挙区制法案を国会に提出。
【全学連第8回中委】 | |||||||||||||||||
4.4日、全学連第8回中委が開かれ、先の「7中委イズム」的宮顕式イエスマン路線のくびきから決別し次のように批判した。
「8中委」は、「7中委イズム」をかく批判し、全学連の革命的伝統を回復し、当面する重要政治課題、平和擁護闘争を第一義的に掲げ全国一斉に行動を展開するという方針を採択した。こうしてこの「8中委」が全学連再建の基礎をつくることとなった。これを、いわゆる
「8中委.9大会路線」と云う。
この理論が、この頃の闘う学生に新たな明確な指針として受け入れられていくことになった。いわば、共産党の右から左へ、今また右へとぶれて一貫しない混迷の中にあった学生活動家のオアシス理論として歓迎されることとなった。 |
1959年に姫岡怜治の筆名でブントの綱領となる「姫岡田家独占資本主義論」を著し第一次ブントの代表的イデオローグとなる青木昌彦は、1956年大学入学当時の広松との出会いをこう回想している。
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4.17日、コミンフォルムが運動における各民族の独自性を強調して解散。山辺健太郎氏らはスターリン礼賛。
【全学連が小選挙区制導入反対闘争で息を吹き返す】 | |
折から国会に上程された56年前半の小選挙区制導入反対闘争が解体に瀕していた全学連の息を吹き返させていくこととなった。 4.28日、「核実験の禁止、小選挙区制反対、教育三法反対」の政治課題を掲げて全都学生決起大会が開かれ、3000名が参加した。「教育三法」とは、教育委員会法・教科書法・臨時教育制度審議会法の三法案を云う。
5.16日、集会とデモ。4000名のデモで国会請願を行った。 5.26日、日比谷音楽堂で1万の学生が結集し、全国40ケ所で集会・デモ、かなりの大学でストライキが打たれた。この闘争を通して解体状態になっていた地方学連が再開され、新しい自治会の全学連加盟も見られた。 鳩山政府の小選挙区制導入の動きに対して、全学連は、集会とデモ、国会請願を繰り返し敢行し、5.16、5.26の全国闘争によって7中委以来の沈滞が打ち破られ、学生運動が再び攻勢運動に転じる転換点になった。 |
5.4日、原子力3法公布施行。
5.17日、石原裕次郎、日活映画『太陽の季節』でデビュー。
5.19日、科学技術庁発足。
5.24日、売春防止法公布(33/4.1施行)。
【「政府法案次々に廃案される」】 | ||
6.2日、教育三法・小選挙区制法案を巡って国会は大荒れ、警官隊が導入される。
そして、教育委員は都道府県7人、市町村5人でそのうち一人を議会が議員から選び、残りは直接選挙で選ばれるという行政機関から独立した存在機関となっていた。 6.30日、「地教行法案」が可決され法案となった。「戦後教育政策の歴史」は次のように記している。
これにより、教育委員の公選制が廃止され任命制となり、教育予算の権限が教育委員会から首長に移された。教育委員会法では、事務局の責任者である教育長の仕事は「教育委員会の行うすべての教育事務につき、助言し、推薦することができる(52条の3の2項)」であったのが、地教行法では「教育長は、教育委員会
のすべての会議に出席し、議事について助言する(17条の2項)」ことになった。教育事務助言が議事助言に化けた。更に、教育委員の数が2名減員され、議会からの委員はいなくなった。行政権限の拡張・立法権の後退であった。これは、教育界での戦後ルネサンス的民主制から官僚統制化への反動的動きであった。左派運動は「3勝1敗」で名を取ったが、権力側は1勝の実を取ったことになる。 |
【全学連第9回大会】 | |||
6.9−12日、全国的規模の闘争に取り組む過程で全学連第9回大会を開催した。学生運動史上、「第二の全学連結成大会」と云われている。これを指導したのは、学生党員であった島、森田であった。 「8中委路線」による運動の成功が承認され、当面する政治課題を掲げて全国一斉のゼネストをもって戦う方針が採択された。同時に、「7中委イズム」的方針による身の回り的日常的闘争をも取り込まれており、なかなか内容の濃い大会となった。次のように述べている。
この大会は「第二の全学連結成大会」とも云われる。大会宣言は次のように詠っている。
大会は、全学連第5回大会によって決議された「27名の国民戦線から追放する決議」、「反戦学生同盟の解散決議」を無効とする「日本反戦学生同盟との友好関係の回復並びに旧全学連中執27名追放決議を撤回する決議」を可決した。 人事で、 委員長・香山健一(東大)、副委員長・星宮(立命館大)、・牧(東大)、書記長・高野秀夫(早大)らの四役を選出した。島(東大)、小野(北大)、石井亮一(神戸大)らが中執となった。日共党中央系活動家を全面的に排していた。 こうして、全学連は、急進主義的学生党員活動家の手により、党中央の指導を排して自力で再建されていくことになった。この時全学連中執委メンバーは19名中12名が党員であった。(ところで、こうしてこの全学連大会で全学連が再建されたようにも思うが、次の10回大会で再建されたという記述がなされているのもありこの関係がよくはわからない) 全学連はこうして、かって武井元委員長が主唱した「層としての学生運動論」を更に発展させ、「層としての自覚的学生運動論」とでも呼べる急進主義運動論を再獲得した。「8中委.9大会路線」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術再転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになっ た。 この大会では、この間の闘争を通じて「国会及び国民各層との連帯促進」、「総評・日教組・文化人らとの強力強化」、「自治会の蘇生」等がなされたと評価し、この方向での運動強化が確認された。教育三法反対闘争、56年秋の砂川闘争、 57年夏の第三次砂川闘争、57年後半の原水禁運動などに党の指導を離れた全学連運動として独自に取り組んでいくことになった。それは、急速に右傾化し始めた宮顕系日共運動に対する反発の道でもあった。 「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
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【「門松理論」の登場】 | |
6.15日、東大学生運動研究会が「日本の学生運動」を上宰した。第1部「きたるべき日本革命の戦略と学生運動の位置」を書いた門松暁鐘は、当時の諸見解との混交ながら次のような注目すべき内容を具申していた。
こうした観点から民族独立を伴う社会主義革命という戦略目標に辿り着き、その観点から、党の新綱領への批判を放っていた。ここに、1・左派社会党綱領の民族独立社会主義平和革命方式論、2・共産党の民族解放民主革命平和革命否定論、3・門松理論の民族解放社会主義革命平和革命否定論という三論点がでてきたことになる。 |
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こうした歴史研究会学生運動史研究会によってなされた研究をまとめたものが、1956年6月に出版された『日本の学生運動ーその理論と歴史一』である。この著作は、「第一部/来るべき日本の革命戦略と学生運動の位置」、「第二部/戦後日本学生運動史」、「第三部/学生運動の当面する諸問題」の三部で構成されている。執筆の分担は、第一部全三章は門松暁鐘(広松渉)、第二部・第一期、第二期は門松暁鐘、第三期は中村光男、第四期、第五期は伴野文夫、第三部は門松暁鐘、年表は伴野文夫となっており、大半を広松が執筆したことになる。広松自身が述べるには、「旧国際派の学生運動の理念と戦略と戦術みたいなものを述べたもので、全国の細胞に広まったという。さらに、旧国際派的学生運動路線を広め、かっ納得させることになったんじゃないかな」
と自負しているように、学生の動きを見ながら戦略的に運動論を展開したことがうかがえる。また、この時期に理論が生み出された背景については、1930年生まれで広松と同世代ーであり、全学連結成に携わったのち1950年の党分裂時には「国際派」として日本共産党から除名処分にあった大野明男が次のように述べている。『前章で私は、政治的な運動の力量というのは、結局のところ人間の心をいかに幅広く、底深く組織するかにかかっていると書いた。そのことを学生運動史に適用してみれば、運動が盛り上がるときは必ずそれに先行して、その時点での学生の心をとらえ、それをゆり動かすだけの理論の創造・展開があったはずだ、ということになるだろう。そして、事実そうで、あった。二十五年の盛り上がりの前には、コミンフォルム批判に沿ってで、あるが、通称『武井理論』
といわれる初代全学連委員長武井昭夫とそのブレーンが展開した理論が、各大学の党員・活動家の心を統ーしていった。三十年の六全協後の崩壊状況のなかでは、この武井理論の再学習が、復活のキッカケとなった。 広松も、大野と同様に党から除名処分にあった1950年には、「武井理論」に触れていたと考えてよいだろう。大野の見方に従えば、広松らが1955年の六全協の翌年『日本の学生運動』を出版したのも、武井理論を踏襲することが運動に影響力を持つことを見越してのことと思われる。しかし、必ずしも同書が受け入れられたというわけではなく、内容上の意見の対立から、全学連中央の島成郎、高野秀夫らから絶版声明を要求され、理論上大部分依拠していた武井昭夫からも後述するように酷評されている。これ以後7年間、広松は沈黙することになるが、事実上これが広松の最初の理論的仕事となった。 上で述べたような紘緯で『日本の学生運動』を著した広松は、その序文で「学生運動に積極的に参加している学友諸兄」や「沈滞を打つ破する途を模索しているすべての学友諸兄」に向けて、こう述べている。 『学生運動を理論的に解明することは、現在緊急な実践的な課題となっている。しかし、この仕事は非常に困難である。なぜというに、日本学生運動が世界史上類例のない性格をもっているために外国の研究があまり役に立たない上に、先人の体系的な研究の発表が全然ないといえるような状態にあるからである。われわれが敢てこのような困難な仕事に着手したのは、現役の学生として、この課題の遂行が焦層の実践的要請であることを痛感するからにほかならない。 |
6月、早大細胞の高野・全学連書記長が砂川闘争を指揮とあるが、その指導振りは不明。
6月、ポーランドのボズナニ市における官僚支配によるノルマ過重に対する労働者の反乱。
6月、反戦学同第8回拡大全国委開催される。
7.1日、気象庁発足。
7.4日、沖縄問題解決国民総決起大会、東京で開催。返還運動高まる。
7.8日、第4回参議院議員選挙。
7.17日、経済自書発表「もはや戦後ではない」流行語に。
8.9日、長崎で第2回原水爆禁止世界大会が開かれ、5000名の日本代表と7カ国の代表が集まった。全学連も代表を送り、原水爆禁止運動を平和擁護闘争の統一的課題と評価した。
9月、全学連7回中央委員会が名古屋で開かれた。自治会サービス論が満展開された。
9.28日、文部省、初の全国学力調査実施。
【第二次砂川闘争】 |
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9月、収容認定が公告された。東京調達局は、10.1日より16日までの立ち入り調査を地元に通知する。これに対し、支援労協(砂川基地拡張反対労働組合支援協議会)、砂川基地拡張反対同盟、全学連の現地合同本部が作られ、実力阻止を確認した。 9.13日、第二次測量開始が予測される中、全学連は砂川基地反対の闘争宣言を発して現地闘争本部を設置し、地元農民、支援団体と協力しながら闘いを組織した。10月になると学生はぞくぞく現地に乗り込み泊り込んだ。全国から3千名を現地動員し、農民.労働者と共に泊り込むこととなった。 10.4日、政府は、滑走路拡張のため機動隊・警察官3000名動員して強制測量強行を指針する。10.2日、全学連拡大中執委が、9.22逮捕の学生3名(他に労働者4名)の刑特法での起訴に抗議声明。総評・全学連・社会党・共産党など21団体の砂川闘争支援連絡会議が、反対同盟を支援するため全国動員決定。
ここまでの闘争を第二次砂川闘争と云う。 |
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「砂川基地反対闘争」は、全学連にとって、50年秋の反レッド.パージ闘争以来の勝利であり、学生運動史上歴史に残る輝かしい戦いとなった。その功績として、従来、軍事基地反対闘争は民族解放闘争や武装闘争の突破口的位置付けで取り組まれてきていたが、これを平和擁護闘争として取り組み、地元農民・市民・労組等々との提携による民主勢力の結集で闘うという貴重な経験となった。 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
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【砂川基地反対闘争をめぐる対立発生】 | ||
この時の砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが、中央部のスターリン的干渉に悩まされた。このことが全学連中執の内部の現地指導部と留守指導部との間に、砂川闘争の評価をめぐって意見の対立を生じさせた。 56年秋の砂川闘争後、学連内に内部対立が生じた。全学連委員長・香山健一の下、現地指導部(森田・島)が「現地動員主義の成功」評価で意気軒昂になったのに対して、留守指導部(高野・牧)がその他の運動との結合との絡みでしか評価しないという対立であった。その後の経過からして、現地指導部を急進主義派、留守指導部を穏和主義派と見なすことができるように思われる。 留守指導部の背後に宮顕系の指導があり、このことが次第に全学連中執を悩ませていくことになる。宮顕系党中央は、砂川現地での実力闘争を一切評価せず、アカハタで次のように批判した。
この意見の対立は次のところにあった。共に「層としての学生運動論」に依拠しつつも、急進主義派はこの時期多数派を占めており、「現地動員主義」を高く評価しその後の闘争的質の指針たらしめようとしていた。他方、少数派の穏和主義派は、「日常要求の闘いを通じての広範な学生の参加運動の志向」へと逆戻りさせようとした。急進派はこれを右翼日和見主義として批判した。こうして、全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わる事は無かった。 以降、全学連内で主流と反主流の論争が表面化することとなった。この対立は、砂川闘争を指導した東大の森田と学連書記長で早大の高野の対立に集約された。急進主義系派は概ね森田支持派となり、宮顕系日共派は概ね高野支持派となった。この対立にはもう一つの要素が加わっていた。つまり、全学連運動の主導権を廻る旧帝大の雄東大勢と私立の雄早大との反目も関連していた。「闘争勝利後の構造改革派=牧+高野と構改派反対・島との対立、森田実の背後に安東仁兵衛の奇怪な動き」とある。 変調な事に、早大の高野派が党の意向を汲んでいたようで、この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立までなった。「この背景には党中央のスターリン的干渉があったと判明している」と評されているが、「党中央のスターリン的干渉」と評するのは、宮顕悪事の一般化過ぎよう。 この時有名な「孫悟空論議」が為されている。「孫悟空論議」とは、砂川における学生の活動に対して、高野が「総評・社会党幹部と云う釈迦(世界情勢)の掌で踊った孫悟空に喩え、『極左冒険主義』の危険をはらむもの」とする論で、これに森田が「運動における学生層の役割を過小評価するものとして非難応酬」した経過を云う。 この論争に対して、石堂清倫氏は次のようにコメントしている。
こうしてこの時期の56年秋の砂川闘争後、全学連内に主流急進派と反主流穏健派の内部対立を生じさせることになった。もともと党の意向とも絡んだ組織運営をめぐっての対立であったようであるが、私立の雄早大の高野と旧帝大の雄東大の森田との反目も関連していたようでもある。 高野秀夫は、この後全学連反主流派の「構造改良派」の雄として50年代後半の学生運動を指導していくことになった。加えて、香山.森田の指導に対する物足りなさが次の流れへと向かうようである。付言すれば、高野は、宮顕に使い捨てされた挙句入水自殺を遂げることになる。 この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては大衆的規模の対立にまで発展していくことになる。急進主義派はその後森田を乗り越え更に左派化し、宮顕系日共派は高野を乗り越え更に右派化していくことになる。こうして、全学連内部に宮顕系日共派とこれに反発する急進派が誕生することになった。全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。 この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わることはなかった。学生党員グループの先進派は、この間ジグザグする日共指導による引き回しに嫌気が差し、もはや日共党中央の影響を峻拒し自律化せしめようとし始める。以降、学生党員グループのこの動向が全学連運動の帰趨を決めていくことになる。この連中が闘う全学連の再建目指して胎動していくことになる。 |
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この頃の闘争史につき、森田が、「生田夫妻追悼記念文集」(1967年)に「砂川闘争のころ」を寄稿し次のように述べている。
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原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱が生じ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないという事にもなったようである。その他授業料値上げ反対闘争にも取り組んだ。
【ポーランド・ハンガリー事件の衝撃】 |
「ウィキペディア・ハンガリー動乱」 |
10−11月、ポーランド・ハンガリー事件が起こった。ハンガリー反ソ暴動は、共産圏からの離脱は絶対に許さない、離脱しようとするものに対しては武力による厳しい制裁も辞さないというソ連の大国主義が、スターリン批判後も変わらないことを示した出来事で、世界中に大きな衝撃を与えた。 ハンガリー反ソ暴動は、共産圏からの離脱は絶対に許さない、離脱しようとするものに対しては武力による厳しい制裁も辞さないというソ連の大国主義が、スターリン批判後も変わらないことを示した出来事で、世界中に大きな衝撃を与えた。 |
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当初宮顕は、「ハンガリー事件」を概要「東欧社会主義国を転覆する目的でアメリカなどの不当な内政干渉が行われていた。それがハンガリー事件を招いた。内外の反動精力が反共カンパニアを新たに活発化する機会となった。従って、反革命的暴動とみなすべきである。ソ連軍の出動はハンガリー政府の要請によるものでプロレタリア国際主義の試金石である。ハンガリーが反革命のそうした攻撃から防衛されたことに意義がある」としていた。 それが、「65年党史」になると、「ハンガリーでは、56年10月半ばから、スターリン以来のソ連共産党指導部のハンガリーに対する覇権主義とそれに追随してきたラーコン、ゲレらの指導部に対する党内外の不満が急速に高まった」、「こうした事態のもとで10.24日未明、ソ連は首都に軍隊を進めて介入した。ソ連の軍事介入は、ハンガリー人民の怒りと反抗を一層強め、武力衝突という事態を招いた。ハンガリー人民の要求と運動は、ソ連の覇権主義からの民族的自由、複数政党制などを求めるものであり、一部反動分子の策動はあっても、全体として外国からの反革命の策動とは云えないものであった」、「ハンガリー事件でのソ連の軍事介入は、社会主義の大義、民族自決権に反する干渉行為であった」と書き換えられた。 問題は、かくも正反対に評価替えされたにも関わらず、一片の自己批判も無くこっそりと為されていることにある。「赤き心」があれば、何ら恥じることないにも関わらず姑息に差し替えられている。 |
【スターリン批判からポーランド・ハンガリー事件の流れに対する党中央の態度】 |
事件の背景には、スターリニズム下の圧制からの民主化を求めるハンガリー人民大衆の先駆け的決起の要素と、ソ連圏に位置する東欧諸国の解体を狙う帝国主義の思惑的要素が結合しており、今日時点においても軽断できないが、日共は、このソ連軍の行動を、「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてハンガリーに対するソ連の武力介入を公然と支持した。但し、党員の中には、マルクス主義理論及び実践の根源的再検討を要する事象として受け止めようとする者も輩出した。党中央はこの動きに対して、「自由主義的分散主義」、「清算主義」などのレッテルを貼り、官僚主義的統制で対応していった。 |
【日本トロツキスト運動開始される】 |
スターリン批判と「六全協」での自己批判により、一転して従来の軍事方針は間違いであったと発表したこと、ハンガリーに対するソ連の武力介入を党が公然と支持したことが「党の無謬性神話」を崩壊させ、学生たちを離反させた。学生運動の先進的活動家は、スターリン批判とハンガリー事件から受けた衝撃から動揺、懐疑、憤激を呼び起こし、もはや共産党に見切りをつけてそれが既成の権威の否定へと発展していき、新マルクス主義組織を模索していくことになった。この時既に先進的学生党員は一定の運動経験と理論能力を獲得していたということでもあろう。 これが日本トロツキズムの発生の契機となった。このような背景から57年頃様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してス ターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、 必然的にスターリンと対立していたトロツキーの再評価へと向かうことになった。 この間の国際共産主義運動において、トロツキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、党内外の強権的支配手法と、国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。 特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」 (パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。 「1966年のもう一つの動き」として日本トロツキズム運動勃興がある。(日本共産主義労働者党→)第4インター日本支部準備会発足→日本トロツキスト連盟→日本革命的共産主義者同盟へと生成発展していく。 (これについては、「日本革命的共産主義者同盟小史」を参照しつつ、「第4期その2トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」、「トロツキズム運動の誕生過程、第一次分裂過程考」に記す) |
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この背景には、党がソ連20回大会以後の国際共産主義運動の転換とその発展を洞察する能力に欠け、スターリン批判に対しても共産主義者として責任ある自主的な態度で受け止めることが出来なかったことと関わっている。「その根底には、日本における革命的学生の政治的ラジカリズムと、プチブル的観念主義が極限化して発現した」とみなされているが如何なものであろうか。むしろ、こちらの方が真っ当とみなされるべきように思われる。 |
10.19日、日ソ国交回復共同宣言(12.12発効)。
11.22日、第16回オリンピック・メルボルン大会。体操で4種目に優勝。
【民青同結成される】 |
11.25日、徳球時代の「日本民主青年団」が「日本民主青年同盟」に改名再編され発足した。 |
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民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで宮顕式指導の下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前・戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうとし、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになった、と思われる。 |
【反戦学同第1回全国大会が開催】 |
11月、反戦学同第1回全国大会が開催され、国鉄運賃値上げ反対、桑港体制打破等を決議する。委員長・中村光男、副委員長・鈴木迪也、書記長・鈴木啓一(森茂)、常任執行委員・東京都委員・中心的メンバーは樋口滋、吉田宏ル、大西健三、山下米子、小野田猛史、吉沢弘久、白井朗、山口昌宏、太田雄二、田村、峰岸、小泉、等々力、塩川喜信、南、伊藤、高浜。別格として野矢テツオ。書記局を大塚窪町(東京教育大のサークル部室)に定める。 |
12.8日、イタリー共産党が第88回党大会開催する。
12.9日、早大の松尾隆・氏が自宅で心筋梗塞のため死亡(享年49歳)。
12.18日、国連総会が日本の国連加盟可決。
12.20日、鳩山内閣総辞職。
12.23日、石橋内閣誕生(→翌年 2.23総辞職)。
これより後は、「第4期その2、トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」に記す。
(私論.私見)