補足(論評6) | ブント発生史考 |
(最新見直し2008.7.7日)
このブントの党史を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳球系と宮顕系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、党からの自立的な新左翼運動を担おうとした気概から生まれた経緯を持つように思われる。理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべき事に自ら達が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えてくる。もっとも、第1次ブント解体後、その認識の仕方と行動的手法において際限なく分裂化していくことになり、結果ブント系諸派を生み出していくこととなった。 ブント発生を近視的に見れば、「50年問題について」の総括後の当時の党が宮顕式右翼主義路線に純化しつつあった状況とその指導に対する強い反発にあった様が伺える。宮顕路線の本質が運動を作り出す方向に作用するのではなく、運動を押さえ込み右派的統制主義の枠内に押し留めようとすることに重点機能していることを見据え、これに反発した学生党員の「内からの反乱」としてブントが結成されたという経過が踏まえられねばならないと思う。このセンテンスからすれば、元来党とブントは近い関係にあり、ブントとはいわば急進的な潮流の党からの出奔とみなした方が的確と言えることになる。 こうした党内急進主義者たちのブント化の背景にあったもう一つの情勢的要因は、先行する革共同系の動きにあった。つまり、ブントは、一方で代々木と対立しつつ他方で革共同とも競り合った。この時のブントと革共同の理論的な相違について、島氏は次のように解説している。対立の第一点は、トロツキーの創設した第4インターの評価である。この時点の革共同は、トロツキー及び第4インターを支持するかどうかが革命的基準であるとしていた。これに対し、ブントは、第4インターにそれほどの価値を認めず「世界組織が必要なら自前で新しいインターナショナルを創設すれば良い」としたようである。 第二に、ソ連に対する態度に違いが見られた。この時点の革共同は「反帝・反スタ」主義確立前であり、「帝国主義の攻撃に対する労働者国家無条件擁護」に固執していた。これに対し、ブントは、「革命後50年近くも経過して強大な権力の官僚・軍事独裁国家となり、労働者大衆を抑圧し、しかも世界革命運動をこの権力の道具に従属させ続けてきたソ連国家はもはや打倒すべき対象でしかない」とした。 更に、島氏は、私が最も嫌悪したのは革共同の「加入戦術」であったと云う。「自分たちの組織はまだ小さいから既成の、可能性のある社会党などに加入してその中で組織化を行おう」という姿勢に対して、これをスケベ根性とみなした。「私たちは既成の如何なる組織・思考とも決別し、自らの力で誰にも頼らず新しい党を創ろうとし、ここに意義を見いだしていた」という。 その他セクト主義、労働運動至上論等々の意見の相違を見て、ブントは翌59.4月頃には革共同派との決別を決意していた。古賀氏は後になって「陽気で野放図で少しおめでたいようなブントに対し、革共同は深遠な哲学的原理を奉ずる陰気な秘密結社のようだった」と当時を回想している。(第1次ブントの理論については「第1次ブント理論考」で概括する) |
(私論.私見)