補足(論評4) | トロツキズムとは |
(最新見直し2008.7.7日)
このような背景から57年頃様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してスターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、必然的にスターリンと対立していたトロツキーの再評価へと向かうことになった。(詳細は「戦後学生運動史第4期その2」(gakuseiundo/history/history4_2.htm)に記す) この間の国際共産主義運動において、トロツキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。トロツキーを最簡略に紹介すれば次のように云える。
ところで、スターリンとトロツキーの評価に関係するレーニンの遺書は次のように記されている。この遺書は、クループスカヤ夫人が1924.5月の第13回ソ連共産党大会の際に中央委員会書記局に提出した文書とのことである。
不幸にしてレーニンのこの心配は的中することとなった。レーニンの死後、この二人の対立が激化した結果、遂にトロツキーが敗北し、スターリンが権力を握ることとなった。こうしてその後の国際共産主義運動は、スターリンの指導により担われていくことになった。(詳細は「ロシアマルクス主義運動考」(marxismco/roshia/roshia.htm)の該当箇所に記す) スターリン政治の全的否定が相応しいのかどうか別にして、スターリンならではの影響として考えられることに、強権的政治支配と国際共産主義運動の「ソ連邦を共産主義の祖国とする防衛運動」へのねじ曲げが認められる。戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」(パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。こうして、この時期、共産党批判の潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。 |
(私論.私見)