天理教分派史考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.1日

(れんだいこのショートメッセージ)
 2003年現在、日本は遂に戦後日本の象徴であった経済の道が失速し続けており、今後も再生の見込みが立たない。それは政治の貧困に規定されており、この政治の貧困を糾す国の基である教育が既に破綻している以上、政治の貧困からの再生も見込みが立たない。文化は既に新植民地主義的様相を示しており、これらを総合的に俯瞰すると、遂に日本は国家的に解体され、今後は祖国意識の溶解したまま流浪の民としてのみ存続していくことが予想される。このような日本に何ゆえ辿り着いたのか、この問いに対し貴重な示唆を与えてくれるものに天理教の研究がある。と云えば大概の方は訝るであろう。その訝りが正か、れんだいこのこの観点が正か、以下これを証して行きたい。参考文献として「新宗教における分派分立の研究―天理教系教団をめぐって―」、「異端・異説一覧 」、モリジロウ「私の『茨木基敬』考その1」その他を参照する。以下、スケッチしておく。

 2007.10.25日再編集 れんだいこ


【天理教団史と分派史】
 ここでは、天理教を現在の奈良県天理市にある天理教本部系のものと、そこから分離独立した分派系のものとを総合して天理教と見なして扱うことにする。その際、都合上、天理教本部系の信仰を本部、分派系のものを異端、れんだいこから見て本来の有るべき姿として想念できるものを「お道」として三部構成で識別していくことにする。なお、異端には数グループあり、それぞれのグループが更に異端を生み出しており、その識別は困難を極めている。

 では、「お道」からみて天理教正統はどのように定義できるか。れんだいこは次のように纏めてみたい。

 幕末期の規定
 天理教とは、徳川幕藩体制が揺らぎ始めた頃に発生した民衆宗教の一つであり、1814(文化11).11.11日に先行して開教された黒住教に遅れること27年、1938(天保9).10.26日に一介の農婦であった中山みきに神懸かりあり、以降「神一条生活」に入った。この間、1858(安政5)年、川手文治郎が神のお告げによって「金乃神下葉(かねのかみしたば)の氏子」、次いで「金神の一の弟子」と呼ばれるようになり、1858(安政65).10.21日、天地金乃神からお告げが為され金光教を開教している。中山みきはその後の二十数年を経て次第に教義を確立し、信者を獲得していった。この時期は、黒住教、金光教の形成期と重なっている。丁度時代は幕末動乱期にさしかかっており、これら新たに創始された民衆宗教が「下からの幕末維新」を彩っている。この「下からの幕末維新」論抜きの幕末史ばかりが横行しているが、早晩書き改められなければ不正であろう。

 明治維新期の規定その1
 1867年、徳川幕府が倒され、天皇親政の明治維新が遂行されていくことになった。内戦に功のあった薩長土肥の雄藩中心による新政府により、近代帝国主義時代に照応した新国家形成政策が急ピッチで導入されていった。しかし、この間、新国家像を廻って政府部内の対立が絶えず、いわば国粋派と西欧化派が拮抗状態で暗闘していた。幕末維新の最大功労者にして国粋派筆頭の西郷らの西南の役を頂点とする内乱鎮圧後、大久保利通-伊藤博文ラインが指導権を獲得し官僚主義的国家主義政策を強行的に推進していくことになった。この体制を仮に「国際欧化体制派」と命名する。この体制が1945年の大東亜戦争の敗戦まで続く、否今日まで続くことになる。

 この間、天理教は、教祖中山みきの指針に基き、「こふきと云われる元の理話」、かんろだい信仰を精華とする独特の教理、神楽つとめ儀式、さづけと云われる取次ぎ儀式、講(親子)型信者組織法を核として影響力を増していった。当初は中山みきの生活区域に限られていたが次第に教勢を押し広げていった。新興宗教各派が競うように教勢を伸ばしたが、断然天理教のそれが顕著であった。

 これらの動きは「国際欧化体制派」式に改造された天皇制イズムと衝突し、為に政府は各宗派に天皇制との融和を押し付けることになった。他の宗派が一様にこれを受け入れたのに対し、天理教教祖中山みきはこれを拒否し続けたまま教勢を全国へ伸ばしていった。これにより、新政府は天理教の動きを早くより注視しており遂に弾圧の挙に出ることになる。

 明治維新期の規定その2
 この時、みきはあくまで教義通りの道を指針させた為、教内は三派(教理派、応法派、中間派)に分かれた。教祖は80歳を過ぎた身で十数次にわたって拘引され獄舎入りを余儀なくされている。「最後のご苦労」は89歳の時であり、厳寒の最中を12日間拘留されている。この時の伝聞として官憲の苛酷な取り扱いによる教祖の悲鳴と毅然とした態度が残されている。釈放後、病床に伏すことになり、翌年逝去する。この間壮絶とも云える問答が為されている。この問答も日本宗教史上の財産となっている」。

 教祖没後の動き
 天理教は、教祖没後は本席・飯降伊蔵を天啓指図者、外孫・中山真之亮を真柱とする二頭立て体制で教団運営していくことになった。実質的に見て近代日本における最大の新宗教教団となっていく。

【天理教分派考】
 天理教分派を列挙すれば次の通りである。「天輪王教会」、「大道教」、「朝日神社」、「ほんみち」、「世界心道教」、「赤坂神様の家」、「ほんぶしん」、「修養団体誠会」、「天理三輪講」、「神一条教」、「(財)モラロジー研究所」、「太道教」、「自然真道」、「日月教」、「八楽会教団」、「神光苑」、「天真教真祐殿教会」等々。多数の天理教分派が生み出されていることが判明する。天理教は、後の大本教の分派も含めて、近現代新興宗教を次々と生み出す国産系の母胎(ぼたい)となっているといっても過言ではない。

 天理教分派を俯瞰すれば、天理教直系教団、ほんみち(天理三輪講系)教団、天理神之口明場所系教団の三つの教団群に分けることが可能である。分派時期は教祖存命期、教祖没後の明治、大正、昭和のそれぞれの期に分けることができる。いずれも終末論的性格を孕んだ世界救けイデオロギーを内包している点で共通している。直接的かつ具体的な救済論は各派様々である。更に云えば、共に霊的・神秘的な直感を重視しており、この霊的・神秘的な直感をバネに天理教本部の教団体制を批判する傾向が認められる。特に明治、大正期の天理教では教祖が再生するとか、教祖と本席を継いで新たな天啓者が登場するとも解釈できるような伝承が残されており、この教義的な間隙が分派分立をする際の大きな立脚点となった。その際、どれだけ教祖、本席の示した伝統に忠実であるかが自らの正統性を証明する争点となった。この発想は、直接天理教から分派した教団以外にも引き継がれ、母教団への批判と天理教に対する批判が常に重なっている。

 大西愛治郎のほんみち、井出クニの朝日神社、茨木基敬の分派は大正初年に起こっている。これは大正五年の教祖三十年祭前後に天理教内で生じた天啓者待望を背景にしている。次に、分派の最大教団となったほんみちに分派が発生する。これは大正末から昭和10年代前半に集中している。この時の分派教団は多かれ少なかれ終末論的性格を分け持っており、これが決起的布教のバネとなった。こうした性格ゆえにいずれも治安維持法や不敬罪で関係者が検挙されている。ここでも昭和10年、12年の教祖五十年祭、立教百年祭の年限に何らかの意味を感じ取った信者たちの動きがあった。

 天理神之口明場所系の分派分立は昭和20年代から40年代初頭にかけて起こっている。この時は天啓者待望も終末論的性格も確認することはできず、むしろ神秘的、呪術的な癒しを執り行う霊能者的人物の輩出とその制度化が特徴である。
 教祖(中山みき)亡き後、天啓者としての地位が本席(飯降伊蔵)に受け継がれた。本席は、上田奈良糸(ナライト)に天啓者の地位を譲った。そのナライトは職を全うできずやがて押し込められる。教理的な天啓者はここで絶える。以降は天啓者なきままの真柱を筆頭とする本部主導の教団運営に入る。他方、天啓者不在の教団に批判的な動きが生まれ、自分に天啓が下ったとして教祖、本席の地位に就こうとする者が現れるに至る。これが茨木基敬(もとよし)、井手クニ、大徳寺昭輝(てるあき)へと繋がる。この歴史を否定的に語る必要はない。これはむしろ他の団体でもそうだが活力の現われであり、その証明と考える余地も残しておかねばなるまい。これを逆に言えば、分派が現れない組織も考えものということになる。仮に或る組織が百年も千年も万年も一糸乱れぬ一枚岩の満場一致体制で健在し続けたとするなら、それは評価半分、お笑い半分にしかならぬ決して誇るべきことではないと思う。世の評価の物差しがどうかは知らぬが。

【天理教分派史年譜】
1865 慶応元 今井新治郎 天理教本部系 転輪王教会
(奈良県)
1866 慶応2 今井惣治郎 天理教本部系 転輪王教会
1888 明治21 奥六兵衛 天理教本部系 神習教天輪王明誠教団
(横浜市)
1896 明治29 飯田岩治郎 天理教本部系 大成教大道教
(奈良県)
1907 明治40 井出クニ 天理教本部系 朝日神社
(兵庫県三木市)
1911 明治44 茨木基敬 天理教本部系 茨木一派(真道会とも称す)(奈良県)
1913 大正2 大西愛治郎 天理教本部系 ほんみち
(大阪府高石市)
1926 大正15 廣池千九郎 天理教本部系 モラロジー研究所
1929 昭和4 出居清太郎 ほんみち系 修養団捧誠会
10 1931 昭和6 勝ひさの ほんみち系 天理三輪講
11 1934 昭和9 渡辺よそ ほんみち系 天理神の打開場所
政子甘露台
12 1937 昭和12 石々川駒吉 ほんみち系 三理三腹元
13 1937 昭和12 山田梅次郎 ほんみち系
天理三輪講
天理神之口明場所
おうかんみち
14 1938 昭和13 会田ヒデ ほんみち系
天理三輪講
世界心道教
(愛知県豊川市)
15 1938 昭和13 中村しげ 天理教本部系 太道教
(東京都杉並区)
16 1941 昭和16 岡本ツエ 天理神乃口明場所系 日の本神誠講
17 1942 昭和17 前島麗祈 天理教本部系 自然真道
18 1942 昭和17 前田トク 天理教本部系 日月教
19 1942 昭和17 米谷くに ほんみち系 神一条教
(大阪府東大阪市)
20 1942 昭和17 上野のぶ子 ほんみち系 天理甘露台
(奈良県大和郡山市)
21 1946 昭和21 山田金次 天理神乃口明場所系 神和教会
22 1946 昭和21 江上寿胤 天理神乃口明場所系 おうかんみち
23 1946 昭和21 佐田ヤエ 天理神乃口明場所系 聖正道教団
24 1946 昭和21 松木天村 天理教本部系 神光苑
25 1946 昭和21 前田トク 天理教本部系 日月(ひかわ)教
26 1946 昭和21 小川耕一郎 八楽精神修養道場
八楽会教団
27 1947 昭和22 嘉納寅三 天理教本部系 日月神一条
28 1954 昭和29 谷喜三 天理神乃口明場所系 月日教おうかんみち教会
29 1955 昭和30 深沢まつ枝 天理神乃口明場所系 月日大還道
30 1955 昭和30 山田そめ 天理神乃口明場所系 月日三世の道
31 1958 昭和33 神出房江 天理教本部系 天真教真祐殿教会
32 1960 昭和35 浅野博 天理神乃口明場所系 甘露台
33 1962 昭和37 大西玉 ほんみち系 ほんぶしん(天理みろく会)(岡山市)
34 1963 昭和38 若林神風 宗教法人明誠教団
(天輪王明誠教団)
35 1965 昭和40 斎藤正吾 ほんみち系 ほんみち(岐阜)
36 1975 昭和50 斎藤年男 天理神乃口明場所系 甘露台霊理斯道会
37 1976 昭和51 渡辺秀子 ほんみち系 神之打分場所
38 1985 昭和60 伊藤幸長
(大徳寺照輝)
天理神乃口明場所系 天命庵
39 1987 昭和62 八島英雄 天理教本部系 櫟本分署跡保存会
40 2001 平成13 福留修司 天理教本部系 おみち
41 2001 平成13 メンタルヘルス
42 2006 平成18 山田博明 天理教本部系 天理教豊文分教会

【天理教分派史概要】

などの宗教団体がある。直近の事例としては櫟本分署保存会(陽気づくめ教会)、天理教豊文教会(2006年)の例がある。

また天理教の影響を受けた団体として、公益財団法人の「モラロジー道徳教育財団(1926年)」などがある。。

転輪王教会/今井新治郎(助造)
1865(慶応元)年、本地垂迹説を唱え教祖と対立した。
初の異端の出現、助造事件
転輪王教会/今井惣治郎
1866(慶応2)年、今井新治郎の弟が分家し造反。
天輪王明誠教団/奥六兵衛(横浜市)
1888(明治21)年、みきの死の翌年、天理教本部に造反。明誠講社が教派神道神習教天輪王明誠教団として独立した。1940年の宗教団体法施行に際し、神習教から独立するか残留するかをめぐって二派に分裂した。
(「この頃の講元の動きと説法」)
大道教/飯田岩治郎(奈良県)
1896(明治29)年、神憑って天理教本部に造反。「水屋敷事件(安堵事件)」と云われる。1900年、飯田岩治郎が教派神道神道大成教大道教会として独立。戦後大成教から独立している。
(「飯田岩治郎氏の水屋敷事件」、「御水屋敷並びに人足社略伝
朝日神社/井出クニ(兵庫県三木市)
1907(明治40)年、天理教本部に造反。「播州の親様、二代教祖」を名乗った。
井出くに考井出国子の井出クニの神がかりにより独立
茨木派茨木基敬(もとよし)(奈良県)
1911(明治44)年、茨木基敬が天啓を受けたとして天理教本部に造反。
(「茨木基敬略伝」)
大正5年、教祖三十年祭前後に天理教内に天啓者待望が醸成された。
ほんみち/大西愛治郎(大阪府高石市)
1913(大正2)年、大西愛次郎「甘露台人の理」を唱え天理教本部に造反、天理研究会として独立した。
(「ほんみち派の第一次不敬事件、第二次不敬事件」、「ほんみち派不敬事件」)
モラロジー研究所/廣池千九郎
1926(大正15)年、天理教本部に造反。
廣池千九郎考
修養団捧誠会/出居清太郎
1929(昭和4)年、ほんみちに造反(東光会)。ほんみち事件
に連座後、天啓を受けて創設した。
10 天理三輪講/勝ひさの()
1931(昭和6)年、勝ひさがほんみちに造反。1933(昭和9)年、天理三輪講を立ち上げ、天変地異の予言や唯一絶対の天啓者による「甘露台世界」の実現などを精力的に説いた。
11 天理神の打開場所/渡辺よそ
1934(昭和9)年、天理三輪講系から造反。渡辺よそが自ら甘露台と称して神がかり(政子甘露台、名古屋市)、山田梅次郎の長男の山田広一と成立させた。天啓により昭和12年より40年まで活動停止していた。
12 三理三腹元/石々川駒吉
1937(昭和12)年、天理三輪講系から造反。
13 天理神之口明場所/山田梅次郎
1937(昭和12)年、山田梅次郎が天理三輪講/天理神の打開場所を経て、天啓により中山みきの夫の善兵衛の生まれ替わりで甘露台であると表明し、天理神之口明場所を立ち上げた。梅次郎が昭和16年死去し教団は瓦解したが、信者や子供がそれぞれの教団を設立し分立、再結集した教団が十数教団ある。
天理神之口明場所、おうかんみち/考
14 世界心道教/会田ヒデ(愛知県豊川市)
1938(昭和13)年、神がかりにより天理三輪講系から造反。大阪・西淀川で月読之命、国狭土之命が教祖の体に天下って世界心道教を立教した。
15 太道教/中村しげ、中村政道 (東京都杉並区)
1938(昭和13)年、中村しげが神がかり天理教本部から造反し、太道教々檀として独立した。
ほんみち―天理三輪講系の分派運動の展開は大正末から昭和10年代前半に集中している。この時の分派教団は多かれ少なかれ終末論的性格を分け持っているところに特徴がある。15年戦争や国際社会での日本の孤立化といった危機的状況を背景に、いずれも治安維持法や不敬罪で関係者が検挙されている。ここでも昭和10年・12年の教祖五十年祭・立教百年祭の年限に何らかの意味を感じ取った信者たちの動きがあった。
16 日の本神誠講/岡本ツエ
1941(昭和16)年、天理神乃口明場所系から造反。
17 自然真道/前島麗祈
1942(昭和17)年、天理教本部から造反。
18 日月教/前田トク
1942(昭和17)年、天理教本部から造反。
19 神一条教米谷くに神一条教(大阪府東大阪市)
1942(昭和17)年、天理三輪講系から造反。天理教本席、飯降伊蔵の妻の再生と唱え人間甘露台と自認し、大阪府布施市の自宅で「神一条打明場所」の名で開教した。
1946(昭和21)年、大自然神一条教と改称。
1952(昭和27)年、神一条教として宗教法人認可を受け現在に至る。教義として天理三輪講の教義を継承し、仏教、キリスト教、天理教をひとつのものとしてとらえる独特の教義を持つ。
20 天理甘露台/上野のぶ子(奈良県大和郡山市)
1942(昭和17)年、天理三輪講系から造反。
21 神和教会/山田金次
1946(昭和21)年、天理神乃口明場所系から造反。
22 おうかんみち/江上寿胤(えがみとしたね)
1946(昭和21)年、天理神之口明場所系から造反。
天理神之口明場所、おうかんみち/考
23 聖正道教団/佐田ヤエ
1946(昭和21)年、天理神乃口明場所系から造反。
24 神光苑/松木天村、草垣(そうえん)
1946(昭和21)年、天理教本部から造反した。
25 日月(ひかわ)教/前田トク
1946(昭和21)年、天理教本部から造反した。
26 八楽精神修養道場/小川耕一郎
1946(昭和21)年、八楽精神修養道場。後に八楽会教団
27 日月(ひかわ)神一条/嘉納寅三
1947(昭和22)年、天理教本部から造反した。
28 月日教おうかんみち教会/谷喜三
1954(昭和29)年、天理神乃口明場所系から造反。
29 月日大還道/深沢まつ枝
1955(昭和30)年、天理神乃口明場所系から造反した。
30 月日二世の道真知岳(みちまちだけ)/山田そめ
1955(昭和30)年、天理神乃口明場所系から造反。
昭和20-30年代、天理神之口明場所系からの分派分立が頻出している。天啓者待望、終末論的性格も確認することはできず、むしろ神秘的、呪術的な癒しを執り行う霊能者的人物の輩出とその制度化が特徴である。その背景には日々の悩み事や病気を霊能者によって解決してほしいという広範な民衆の希求が横たわっていた。
31 天真教真祐殿教会/神出房江
1958(昭和33)年、天理教本部から造反した。
32 甘露台/浅野博
1960(昭和35)年、天理神乃口明場所系から造反した。
33 ほんぶしん/大西玉(大西愛治郎の娘)(岡山市)
1962(昭和37)年、大西玉が、ほんみちの祭典時に、自分は中山みきの再生者であり真の天啓者であると宣言。ほんみち天理三輪講系から造反した。一時的に混乱したが、結局「ほんみち」の主導権を得ることはできず、天理みろく会(ほんぶしんの前身)を組織して独立した。
34 宗教法人明誠教団、後に天輪王明誠教団と改称/若林神風
1963(昭和38)年8.26日、京都明誠社の教勢が東京、横浜、川崎、千葉方面へと広まり、若林神風を初代管長として「宗教法人明誠教団」の認証を受け一派独立を為している。昭和58.2.6日の本部役員会議で、明誠草創の精神に則り、元に復する意味を以って「明誠教団」の上に「天輪王」の神名を冠して「天輪王明誠教団」と改称することを決定し、文化庁及び神奈川県に申請し9.26日に認証され今日に至っている。
35 ほんみち(岐阜)/斎藤正吾
1965(昭和40)年、斎藤昭吾が自ら「人間甘露台」を称してほんぶしんから造反。(大阪府高石市のほんみちとは別)
36 甘露台霊理斯道会/斎藤年男
1975(昭和50)年、天理神乃口明場所系から造反。
37 神之打分場所(小牧市)/渡辺秀子
1976(昭和51)年、渡辺よその天理神の打開場所(政子甘露台、名古屋市)系から造反。魂は弥勒、体は甘露台とする。
38 天命庵/伊藤幸長(大徳寺照輝)
1985(昭和60)年、天理神乃口明場所系から造反、「天命庵」を立ち上げた。
39 櫟本分署跡保存会/八島英雄
1987(昭和62)年、天理教本部から造反した。
40 おみち/福留修司
1987(昭和62)年3月、4代に亘る天理教信者の福留修司(お社様と呼ばれている)が「お道を慕う会」を設立。8月、公認され「おみち」と改名。
1990(平成2)年、「宗教法人おみち本部」(奈良県北葛城郡河合町)。本部に巨大パルテノン神殿や古代ギリシアの壁画を建立している。
41 メンタルヘルス
2001(平成13)年。
42 天理教豊文分教会/山田博明
2006(平成18)年、天理教本部と対立する櫟本分署保存会系に同調し造反、独立した。
人間甘露台

【モリジロウ氏のれんだいこ「天理教分派史考」紹介】
 モリジロウ氏が、「私の『茨木基敬』考その1」の中で、れんだいこ「天理教分派史考」を紹介してくださつている謝謝。これを確認しておく。
 明治40年の本席出直しから、天啓は完全にナライトに引き継がれたわけではなく、神の啓示を受けたという者がどんどん出てきて、これらは認められず、異端ということで分派も増えていったわけである。この辺の分派を詳しくまとめたサイトがあるので、紹介しておく。

「天理教分派史考」れんだいこ
nakayamamiyuki
/omithisonogoden/bunpashico.htm

 
 この「れんだいこ氏」のサイトは時々、拝見させていただいているが、本当に勉強になることが多い。緻密に調べ上げ、うまくまとめられているといつも感心する。
 2022.9.7日付け「ジロウ閑話休憩…8」は次の通り。
 驚きました。「れんだいこ氏」が見てくださっていたとは…。こちらが、いつも勉強させてもらっているような立場なのに、恐縮してしまう。かなり前から、拝見させていただいていたが、本当にニュートラルな目線で文章をまとめられ、そこから、ご自身の考察をまとめられていて、凄い方だと思っていただけに、偶然とはいえ、サイトを訪問中に「うっ!ええ…?」となってしまった。

 ちょうど茨木基敬のことをまとめている時に、分派のことについても書かなければと思い、れんだいこ氏のサイトを紹介するのが、一番、わかりやすくていいと思い、リンクを貼り、紹介させていただいた。れんだいこ氏のサイトは本当に情報が多く、Googleで、天理教関係の何かのキーワードで検索をかけると、引っかかってくるので、それだけ、多くの方が見られているのかと思う。

 文献などは引用する場合、出典を明らかにするのがルールだと思う。論文だったら、できれば著者にも連絡し、引用させてもらうことを伝えたり、ご意見をいただいたりもするものなのだろう。ネットの場合、公開されている記事でもあるから、出典を明らかにしておけば、基本的には引用したり、紹介したりは、著者に許可を取らなくても、法的には問題はないはずだが、やはり引用し、紹介させていただいたのだから、メールなり、送っておくべきだったかとの思いもあった。誌面(Note)をおかりして、謝辞を述べることにする。「れんだいこさん!ありがとうございます。これからも研究をお続けください。また拝見させていただきます。」 モリジロウ
 モリジロウ様へ、引用、転載についてのれんだいこの考えは次の通りです。

 文意的に原文通りのものを紹介し、著者、出典元を明記する場合には、無通知無承諾のまま相互に自由に引用、転載し合えると云う体裁にしないと堅ぐるしいものになってしまう。通知、承諾はした方が良いが義務のものではないと考えております。実際にしてみれば分かりますが、通知する場合もされる場合も相手が何者か、その意図、掲載されるサイトの趣向等々を詮索せねばならずで、これがかなり厄介で、その可否に気を使います。いっそのこと不要とした方がよほどスッキリします。バトル的な議論などの場合、反論しようとして相手の発言を載せようとしたら、その前に相手の了解が必要などというのはお笑いでしかありません。そういう歯抜けのような議論をして、私たちはこれほどまでに著作権を守っている優等生ですと胸を張る掲示板に出くわしたことがありますが、失笑するしかありませんでした。余りに長いタイトル名なので文意を的確に踏まえて要約したものにしてコメントしていたら、著作権法の題号改変違反などと云われたことがあります。以来、そういうことをマジ顔で云う者の界隈には近寄らないようにしております。お互いに良いものを見つけ出して引用、転載するのは善の動機です。その者が文意的に原文通りのものを紹介し、著者、出典元を明記する場合には、された側は謝謝することあっても、無通知無承諾だとして叱るなどというのはよほど気難し過ぎます。良いものを見出して世に広めるのも助け合いの一種で盛んにすべきです。ゴンドラの歌に「命短し恋せよ乙女、紅き唇褪せぬ間に」とありますが、その通りだと考えております。人生を心身ともに瑞々しくして生きるべきで、干からびたものにしてはなりません。私どもの実働人生は五十年ほどの僅かなものでしかないというのに、その期間をあれするなこれするなで規制し合って生きようとするのは馬鹿げています。そういう規制好み、著作権好み者に碌なものがおりません。良いものはなべてそのもの自体が通行往来を求めており、だとすればこれを手助けするのが素直で、押しとどめる側に立つのは邪です。昔、ある弁護士さんに著作権の気になる処について尋ねたことがあります。その弁護士さんは「私は著作権には関わらんことにしております。著作権の事は法理的によう分らんのです」とおっしゃつておりました。立派な見識だと思います。著作権で護るべきものは内容の正確な保護保全、著作者の確認であり、自分が気に入ったら口コミに廻るのが自然なところ通行往来阻止に立ち働くようなことは知の逆態と考えております。目下の著作権派は交通往来の見返りとしての課金制に目が眩んでおります。もう一つの理由として、利用に際して通知承諾許可制にしているのは、それの真の狙いは情報統制にあると考えています。というようなことを言い始めるとエンドレスになりますのでこれぐらいで止めときます。モリジロウ様、今後とも宜しく。

 2022.9.14日 れんだいこ拝

【「新宗教における分派分立の研究―天理教系教団をめぐって―」】
 「新宗教における分派分立の研究―天理教系教団をめぐって―」参照。
 天理教は昭和二〇年代まで、近代日本における最大の新宗教教団であった。昭和三年には教会数が一万を越えて一〇三四二となり、信者数もすでに明治末から四〇〇万台といわれていた。その天理教は多くの分派を生み出したことでも知られている。これらを天理教系教団と呼び、母体となった教団に注目し、これを天理教直系教団、ほんみち―天理三輪講系教団、天理神之口明場所系教団の三つの教団群に分ける。
 中山みき在世中から大正初年までの天理教系教団。みきと彼女の後継者である飯降伊蔵が死去したことにより、天啓の継承をめぐって天理教内で動揺と混乱が生じ、これを背景に分派教団が発生した。天理教系分派教団の中で最も規模の大きいのはほんみち。それより大正末から昭和前期まで数多くの分派が発生している。
 天理教から直接分派した直系の教団の成立時期は分散しているが、母教団に衝撃を与えた大西愛治郎、井出クニ、茨木基敬の分派は大正初年に起こった。これらは大正五年の教祖三十年祭前後に天理教内で生じた天啓者待望を背景にしていた。次いでほんみち―天理三輪講系の分派運動があり、その展開は大正末から昭和一〇年代前半に集中している。その背景には深まりゆく十五年戦争や国際社会での日本の孤立化といった危機的状況があるほか、ここでも昭和一〇年・一二年の教祖五十年祭・立教百年祭の年限に何らかの意味を感じ取った信者たちの動きがあった。天理神之口明場所系の分派分立は昭和二〇年代から四〇年代初頭にかけて起こっている。
 天理教はその規模と社会的な影響力から、宗教史研究の中でこの教団に関する研究は相当の厚みをもっている。また、天保九年の立教になる天理教は、同時期に創唱された黒住教や金光教とならんで、その史料的蓄積から幕末維新期の代表的な宗教運動として研究の対象とされてきた。特に宗教史研究の中でも民衆宗教史と呼ばれる分野では天理教への言及は多い。これらの研究の多くは教祖の思想性と天理教の発生過程という教団草創期に、もっぱら関心が向けられていた。本論文で扱ったような明治から昭和前期までの天理教は、国家神道体制化に組み込まれ、権力に妥協していく過程としてしか論及されないことが多く、こうした研究の中で、分派分立の問題に触れられることは稀であった。村上重良、梅原正紀、宮地正人のように、国家権力によって弾圧された民衆宗教という視点からほんみちを個別に取り上げる研究はあっても、分派分立の全体像を天理教との関係の中から論じる研究はほとんどなかったいうことができる。その意味で、本論文によって明らかにされた分派分立の歴史的事実と、天理教、ほんみち―天理三輪講、天理神之口明場所といった主要な母教団とその子教団との影響関係を分析の俎上に乗せたことは、近代日本宗教史の間隙を埋めるものであるといえる。戦前の民衆の信仰生活に対する天理教の影響力や浸透度を考えると、分派分立の全体像を提示し、その広がりを論じたことは決して無駄な作業ではなかったといえる。
 従来の内在的理解の方向は島薗進の天理教・金光教研究に代表されるように、教祖の信仰世界に注目することで新宗教の民俗宗教との連続性を解明することに力が注がれてきた。そこでは、それまでの突発的発生論を退けつつ、宗教運動の発生基盤を山伏・先達・御師などの民間宗教者の指導のもとに展開した民俗宗教に求め、教祖は自らの苦悩を宗教的な問いかけへと発展させ、民俗宗教との交渉のなかから新しい宗教性を生み出していく過程が論じられている。

【天理教とその分派に関する若干の考察】
 2019.1.23日、クマッピー氏の「天理教とその分派に関する若干の考察」。
 天理教の分派に関する研究では、哲学者から新宗教研究に入られて、日本宗教学会理事である弓山達也先生の博士論文から出版化された『天啓のゆくえ―宗教が分派するとき』(地域社会研究所,2005年)が参考になるでしょう。分派として最大勢力となった教団として「ほんみち」が有名です。その他、神一条教、ほんぶしん・・・その他たくさんあるようです。詳しくは、以下のサイトにも記述があります。

 rendaico.jp/nakayamamiyuki/omithisonogoden/bunpashico.htm
 

 こうした分派の特色は、教祖(おやさま)の教えを色濃く踏襲しながら、それぞれが独自性を加味しつつ、それぞれが独自の宗教教団として独立して分かれたことです。そして分派した理由として、元々の天理教の教理を継承しながらも、天理教教会本部がある地場の理を否定していることが一番大きいと思います。屋敷の理とか地場の理というある固有な土地が人間世界の創造の原点があり、その地場から天啓者として教祖が出現したことが教祖の教えから説かれております。陰陽の二原理が創造原理だとしても、その創造原理は地場の理から生み出されたものであることが、教祖と本席様によって説かれてきたのです。それ故に、お地場帰りという帰参行事もあるわけです。

 

 「ひのもと庄屋敷のつとめの場所は 世の元や」
 (みかぐらうた 三下り目一つ)

 

 「ここはこの世の元の地場 珍しところがあらわれた」
 (みかぐら歌 五下り目九つ)

 

 天理教の分派した方々は、一様にこの「地場の理」を否定しているのです。教祖時代の助造事件、本席時代の「水屋敷事件」などはこれに相当しているものです。そして大正期にも天啓再来の待望の中で、井出くにの天啓事件、大平良平の『新宗教』雑誌の頒布などの不穏な扇動がある中、茨木事件というものがありました。それは本部の中で「お詞の御用」が始まり、それを当時のご母堂様や松村吉太郎が最終的には拒絶したことで異端化されたものでした。北大教会の信徒詰所で啓示が始まり、一つの軍艦として北部内では大変なお助けがありました。

 

 茨木事件の真相、その御用された「お詞」とは何か、その衣鉢を継ぐ、裏の道、天啓継承の道とは何か、それがこのブログの唯一の特殊性となるでしょう。地場から追放された、元本部員の茨木基敬さんは、亡くなるまで「地場恋しい」といって出直されました。そこには地場を否定する本心はどこにもなく、神様の御用に、そして教えに殉じた魂の強さを感じます。天啓とは存命の教祖の心を表明したものとすれば、本部は目に見えない教祖を追放してしまったのです。ここに片便りの天啓不在の真柱ワントップ体制が生まれるのです。真柱に権威が一元化しました。とは言え、存命の教祖の体現として、本席様のおさしづがありました。じつはそれ自体が十分に受け取れず、軽くされていたこと自体にもともとの道の失敗の原因が始まっていました。





(私論.私見)