1863(文久3).7.24日、吉永亀吉、吉永立つの長女として美嚢郡旧三木町に誕生。吉永家は代々播州の鍛冶屋であった。 |
1868(明治元)年、5歳の時、母親に連れられて兵神大教会(当時は神明組)の三木支教会に頻繁に参拝。女鳴物(楽器)を覚える。 |
1875(明治8)年、12歳の時、父、亀吉死亡。 |
1885(明治18)年、22歳の時、結婚(父、亀吉の鋸鍛冶弟子、秋田源吉を婿養子として迎えて跡をとる。源吉との間に3人の男の子を出産する。(長男)吉永清太郎、(次男)小原作太郎、(三男)吉永。 |
1894(明治27)年、31歳の時、はじめて神様の体験をする。 |
1896(明治29)年、33歳の時、母親を亡くす。それ以後神様が降りるまでの間、天理教とは疎遠になる。 |
1900(明治33)年、37歳の時、親神様の命を受け、夫の吉永源吉と3人の子どもを残して井出千太郎(仙蔵)の許にゆく。 |
1908(明治41)年、45歳の時、天理教の教祖中山みきが亡くなって約20年後、井出国子に親神が降りる。この時、身体が振動し自分で止めることができなかった。彼女はそれまでに修行をしたことはない。目が見えない日、口をきくことが出来ない日、目も見えず、口をきけない日が暫く続いた。目が見えない時は一日中座ったままで口のきけない時に倍働いたので不自由は感じなかった。やがて、"人間世界を助けてやってくれ、世界がおさまるようにしてくれ"という声がどこからともなく聞こえ、何もしないでいると、手がくっつき人の手を借りないと日常生活に困るようになり、ひと助けを決心した。それからは絶えず全身が振動し無意識に言葉が出るようになった。 |
1909(明治42)年、46歳の時、助けを求める人が1日に100人にもなることがあり、人を迎えるために建物を建てた。暫くして、三木の警察から催眠術を使っていると疑われ、10日間拘留された。釈放されると助けを求める人が押し寄せ、また、出頭命令が届き、拘留と釈放が繰り返されることが1年1ケ月続いた。お助けを求めるものの中には、無法者がいて、そのものが裁判所に送られたことをきっかけにして、井出は住み続けることが出来なくなった。
|
1910(明治43)年、47歳の時、7.13日、城崎温泉にいる井出に裁判所から出頭命令が届き、帰宅した翌14日、予審裁判にかかった。予審判事からは、「人助けをすることは、何の罪にもならないので、意の向くままにして良い」と言われた。 |
1911(明治44)年、48歳の時、中山みき没後二十五年祭を迎え、天理教本部に自分の写真と切手を送り無視される。 |
1916(大正5)年、53歳の時、中山みき没後三十年祭を迎え、存命の中山みき(肉体はないが、まだ生きていると考える)の依頼によって天理教本部に参拝し教祖殿の前で人助けを始めようとする。この時、2名の本部員によって廊下を引きずり出され、怪我をする。宿屋・福井屋に泊まる。そこで、中山みきの曾孫にあたる福井勘次郎に出会い、彼の世話をうけるようになる。兵庫県三木町高木村に住む。豊嶋泰國「天理の霊能者」P123-P124が次のように記している。
「大正五年に神からクニに啓示があった。それは天理教の三十年祭に神が五日間だけ表に現れることになっているが、本部の前に神の姿を現さなければ神の言葉は嘘になるから、『どうかそのほう、天理教本部の神殿に姿を現してくれ』と頼まれたというのである。そこで二月十八日(旧一月二十六日)から二十二日までの五日間、本部へ出向いたが、気狂いだとか稲荷憑きだとかいわれて、ほとんど相手にされなかったが、神殿に居合わせた十七、八人に<振動>を与えて全員を跳ね飛ばすデモンストレーションを行っている。同二十三日中山みきの生家の前川家へ行った。(中略)
同年八月十四日、ふたたび神の命令により天理教教会本部の教祖殿へ行き、自分の写真を同殿の大三宝の上に立てて東向きに座った。そして『これからわしがおたすけする』と宣言。そのため、本部側と押し問答となり、本部員の鴻田と春野の二人がクニを教祖殿から引きずり出すという事件もあった。本部ではクニを悪魔と見なし、二十一遍の悪魔払いのおつとめを行ったという。天理教史参考年表(高野友治編)にも見える『播州の井出くにむほん(謀叛)』である」。 |
|
1916(大正5)年-1919(大正8)年、一高在学中に、芹沢光治良が、肋膜と胃弱を助けて貰うために、当時の天理教信者に連れられ、三木市の井出を訪ねたのが、二人の出会いである。その頃の芹沢は、三木までの旅費にもこと欠く状態であったが、病気を治したい一心で行ったものと思われる。 |
1925(大正14)年、62歳の時、6.10日、渡仏する芹沢夫婦を神戸で送る。(白山丸の船上での集合写真が残されている) |
1926(大正15)年、63歳の時、4.17日、「みのこころゑのはなし」を発行する。 |
1932(昭和7)年、69歳の時、秋から春秋2回、上京する時は芹沢邸に一泊する。 |
1934(昭和9)年、71歳の時、右脚切断の診断を受けた芹沢の岳父・藍川清成のお抱え運転手を治す。 |
1935(昭和10)年、72歳の時、脳溢血の後遺症を持つ義父・藍川清成とバセドー氏病の妻・金江を治す。 |
1937(昭和12)年、74歳の時、胃癌の芹沢の義母・藍川しむの寿命がないことを告げる。 |
1940(昭和15)年、77歳の時、結核性骨髄炎のため右脚切断の診断を受けた芹沢の弟を治す。 |
同年、井出は、芹沢邸で、外務省顧問・白鳥敏夫に会い、次のように諭したという。
1 |
アメリカと戦争をしてはいけない。アメリカの方が国力が上だから敵にしてはいけない、ということではなくて、明治維新で日本が開国した時、アメリカのとった政策のおかげで、ヨーロッパの植民地にならずにすんだ恩があるから、戦争を仕掛けたら負ける。それが天の理だ。 |
2 |
天皇に命を投げ出すつもりで、外交官として勇気を出して、アメリカとの戦争を止めてくれ。 |
3 |
社をお祭りするのも良いが、それ以上に人間が神であることを忘れないように。 |
|
東京への空襲が始まる戦争末期には次のように説いていたという。
1 |
東京に空襲があることはわかりきったことであるが、信者に不安を与えるので言えない。 |
2 |
”負けるが勝ち”とも言うように、日本も降参したらいい。出征する兵士で、無事凱旋を願いに来た者には、征(ゆ)く先々の住民を同胞と思って大事に扱うこと、鉄砲を敵に向けてもねらいを外して、敵を殺さないよう、その二つを守れば、神が守る。 |
|
1944(昭和19)年、81歳の時、11.23日、芹沢らにそれとなく別れを告げに来た際には、中年の男女二人を伴い、三段重ねの重箱を二組持参し、皆の前で、次のようなことを話す。
1 |
天理教とキリスト教を一緒に研究してくれ。目に見えず、手でさわることも出来ないが神さんはある。 |
2 |
自分(井出)は、天理教の教祖でも二代目でもない。もし、自分が神さんなら、芹沢を含め皆が神さんだ。 |
3 |
信者は、病気が治ったり、お金が儲と、親さん有り難いというものの、天地を動かす神さんがある、といことをわかろうとはしない。神さんは、天地の間にいっぱい充ちて、かすかに動いている力みたいなもの、と言える。 |
4 |
天界というところがあってね、自分は、何度も見せて貰った。 |
5 |
神さんの心とは、人間は一つ、互いに相手を神だとして立てあい、許しあい、拝みあう心です。人種・皮膚も色を問わず、皆同じ神さんの子供です。 |
|
芹沢には、二人だけの場で、良く辛抱した、神さんが誉めている、と話し、芹沢の妻には、子供が四人とも女であって、男の子のいないのを悲しんではいけない、と諭した後、四人の子供のそれぞれの将来について予言するように話す。東京にもう三泊する予定を急遽切り上げ、臨時列車で帰郷する。
|
|
同年12.6日、芹沢の兄に、和平の仲介を頼みにソ連に行くことを勧める(これは実現せず)。兄は帰京を1日繰り上げ昭和東南海地震の難を逃れた。
|
1947(昭和22)年、83歳の時、9.6日、兵庫県三木町高木(三木市別所町高木)で亡くなる(享年85歳)。 |
葬儀は翌日、仏式で取り行われ、芹沢も参列した。遺体は特別許可で山の麓に埋葬された。宗教法人朝日神社(〒673-0435 兵庫県三木市別所町高木817)の手続きを取る。神殿は大本教開祖・出口なおの奥津城を参考にして作られたという。境内の総敷地面積は3300坪。その言動と振る舞いは中山みきをしのばせることが多かったと言われた。「天理教二代目教祖」とか「播州のおやさま」とか尊称されたが、天理教本部では彼女の帰神を公式に認めていない。野沢朝子著「導かれるままに」(2015年12月15日刊)21頁 |