井出くに考

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「井出くに考」をしておく。

 2007.12.28日 れんだいこ拝


【井出くに()の履歴】
 「ウィキペディア井出国子」その他参照
 1863(文久3).7.24日、吉永亀吉、吉永立つの長女として美嚢郡旧三木町に誕生。吉永家は代々播州の鍛冶屋であった。
 1868(明治元)年、5歳の時、母親に連れられて兵神大教会(当時は神明組)の三木支教会に頻繁に参拝。女鳴物(楽器)を覚える。
 1875(明治8)年、12歳の時、父、亀吉死亡。
 1885(明治18)年、22歳の時、結婚(父、亀吉の鋸鍛冶弟子、秋田源吉を婿養子として迎えて跡をとる。源吉との間に3人の男の子を出産する。(長男)吉永清太郎、(次男)小原作太郎、(三男)吉永。
 1894(明治27)年、31歳の時、はじめて神様の体験をする。
 1896(明治29)年、33歳の時、母親を亡くす。それ以後神様が降りるまでの間、天理教とは疎遠になる。
 1900(明治33)年、37歳の時、親神様の命を受け、夫の吉永源吉と3人の子どもを残して井出千太郎(仙蔵)の許にゆく。
 1908(明治41)年、45歳の時、天理教の教祖中山みきが亡くなって約20年後、井出国子に親神が降りる。この時、身体が振動し自分で止めることができなかった。彼女はそれまでに修行をしたことはない。目が見えない日、口をきくことが出来ない日、目も見えず、口をきけない日が暫く続いた。目が見えない時は一日中座ったままで口のきけない時に倍働いたので不自由は感じなかった。やがて、"人間世界を助けてやってくれ、世界がおさまるようにしてくれ"という声がどこからともなく聞こえ、何もしないでいると、手がくっつき人の手を借りないと日常生活に困るようになり、ひと助けを決心した。それからは絶えず全身が振動し無意識に言葉が出るようになった。
 1909(明治42)年、46歳の時、助けを求める人が1日に100人にもなることがあり、人を迎えるために建物を建てた。暫くして、三木の警察から催眠術を使っていると疑われ、10日間拘留された。釈放されると助けを求める人が押し寄せ、また、出頭命令が届き、拘留と釈放が繰り返されることが1年1ケ月続いた。お助けを求めるものの中には、無法者がいて、そのものが裁判所に送られたことをきっかけにして、井出は住み続けることが出来なくなった。
 1910(明治43)年、47歳の時、7.13日、城崎温泉にいる井出に裁判所から出頭命令が届き、帰宅した翌14日、予審裁判にかかった。予審判事からは、「人助けをすることは、何の罪にもならないので、意の向くままにして良い」と言われた。
 1911(明治44)年、48歳の時、中山みき没後二十五年祭を迎え、天理教本部に自分の写真と切手を送り無視される。
 1916(大正5)年、53歳の時、中山みき没後三十年祭を迎え、存命の中山みき(肉体はないが、まだ生きていると考える)の依頼によって天理教本部に参拝し教祖殿の前で人助けを始めようとする。この時、2名の本部員によって廊下を引きずり出され、怪我をする。宿屋・福井屋に泊まる。そこで、中山みきの曾孫にあたる福井勘次郎に出会い、彼の世話をうけるようになる。兵庫県三木町高木村に住む。豊嶋泰國「天理の霊能者」P123-P124が次のように記している。
 「大正五年に神からクニに啓示があった。それは天理教の三十年祭に神が五日間だけ表に現れることになっているが、本部の前に神の姿を現さなければ神の言葉は嘘になるから、『どうかそのほう、天理教本部の神殿に姿を現してくれ』と頼まれたというのである。そこで二月十八日(旧一月二十六日)から二十二日までの五日間、本部へ出向いたが、気狂いだとか稲荷憑きだとかいわれて、ほとんど相手にされなかったが、神殿に居合わせた十七、八人に<振動>を与えて全員を跳ね飛ばすデモンストレーションを行っている。同二十三日中山みきの生家の前川家へ行った。(中略)

 同年八月十四日、ふたたび神の命令により天理教教会本部の教祖殿へ行き、自分の写真を同殿の大三宝の上に立てて東向きに座った。そして『これからわしがおたすけする』と宣言。そのため、本部側と押し問答となり、本部員の鴻田と春野の二人がクニを教祖殿から引きずり出すという事件もあった。本部ではクニを悪魔と見なし、二十一遍の悪魔払いのおつとめを行ったという。天理教史参考年表(高野友治編)にも見える『播州の井出くにむほん(謀叛)』である」。
 1916(大正5)年-1919(大正8)年、一高在学中に、芹沢光治良が、肋膜と胃弱を助けて貰うために、当時の天理教信者に連れられ、三木市の井出を訪ねたのが、二人の出会いである。その頃の芹沢は、三木までの旅費にもこと欠く状態であったが、病気を治したい一心で行ったものと思われる。
 1925(大正14)年、62歳の時、6.10日、渡仏する芹沢夫婦を神戸で送る。(白山丸の船上での集合写真が残されている)
  1926(大正15)年、63歳の時、4.17日、「みのこころゑのはなし」を発行する。
 1932(昭和7)年、69歳の時、秋から春秋2回、上京する時は芹沢邸に一泊する。
 1934(昭和9)年、71歳の時、右脚切断の診断を受けた芹沢の岳父・藍川清成のお抱え運転手を治す。
 1935(昭和10)年、72歳の時、脳溢血の後遺症を持つ義父・藍川清成とバセドー氏病の妻・金江を治す。
 1937(昭和12)年、74歳の時、胃癌の芹沢の義母・藍川しむの寿命がないことを告げる。
 1940(昭和15)年、77歳の時、結核性骨髄炎のため右脚切断の診断を受けた芹沢の弟を治す。
 同年、井出は、芹沢邸で、外務省顧問・白鳥敏夫に会い、次のように諭したという。
 アメリカと戦争をしてはいけない。アメリカの方が国力が上だから敵にしてはいけない、ということではなくて、明治維新で日本が開国した時、アメリカのとった政策のおかげで、ヨーロッパの植民地にならずにすんだ恩があるから、戦争を仕掛けたら負ける。それが天の理だ。
 天皇に命を投げ出すつもりで、外交官として勇気を出して、アメリカとの戦争を止めてくれ。
 社をお祭りするのも良いが、それ以上に人間が神であることを忘れないように。
 東京への空襲が始まる戦争末期には次のように説いていたという。
東京に空襲があることはわかりきったことであるが、信者に不安を与えるので言えない。
”負けるが勝ち”とも言うように、日本も降参したらいい。出征する兵士で、無事凱旋を願いに来た者には、征(ゆ)く先々の住民を同胞と思って大事に扱うこと、鉄砲を敵に向けてもねらいを外して、敵を殺さないよう、その二つを守れば、神が守る。
 1944(昭和19)年、81歳の時、11.23日、芹沢らにそれとなく別れを告げに来た際には、中年の男女二人を伴い、三段重ねの重箱を二組持参し、皆の前で、次のようなことを話す。
1  天理教とキリスト教を一緒に研究してくれ。目に見えず、手でさわることも出来ないが神さんはある。
2  自分(井出)は、天理教の教祖でも二代目でもない。もし、自分が神さんなら、芹沢を含め皆が神さんだ。
 信者は、病気が治ったり、お金が儲と、親さん有り難いというものの、天地を動かす神さんがある、といことをわかろうとはしない。神さんは、天地の間にいっぱい充ちて、かすかに動いている力みたいなもの、と言える。
 天界というところがあってね、自分は、何度も見せて貰った。
 神さんの心とは、人間は一つ、互いに相手を神だとして立てあい、許しあい、拝みあう心です。人種・皮膚も色を問わず、皆同じ神さんの子供です。
 芹沢には、二人だけの場で、良く辛抱した、神さんが誉めている、と話し、芹沢の妻には、子供が四人とも女であって、男の子のいないのを悲しんではいけない、と諭した後、四人の子供のそれぞれの将来について予言するように話す。東京にもう三泊する予定を急遽切り上げ、臨時列車で帰郷する。
 同年12.6日、芹沢の兄に、和平の仲介を頼みにソ連に行くことを勧める(これは実現せず)。兄は帰京を1日繰り上げ昭和東南海地震の難を逃れた。
 1947(昭和22)年、83歳の時、9.6日、兵庫県三木町高木(三木市別所町高木)で亡くなる(享年85歳)。
 葬儀は翌日、仏式で取り行われ、芹沢も参列した。遺体は特別許可で山の麓に埋葬された。宗教法人朝日神社(〒673-0435 兵庫県三木市別所町高木817)の手続きを取る。神殿は大本教開祖・出口なおの奥津城を参考にして作られたという。境内の総敷地面積は3300坪。その言動と振る舞いは中山みきをしのばせることが多かったと言われた。「天理教二代目教祖」とか「播州のおやさま」とか尊称されたが、天理教本部では彼女の帰神を公式に認めていない。野沢朝子著「導かれるままに」(2015年12月15日刊)21頁
 参考文献
  • 著作者 井出国子 発行者 吉田広輝 『みのこころゑのはなし』大正15年4月17日発行
  • 新潮日本文学アルバム62『芹沢光治良』1995年 写真
  • 芹沢光治良 『人間の運命(全3部14巻)』1962~1968年 第10巻~第14巻
  • 芹沢光治郎 ”神シリーズ”全8巻 1986~1993年

【井出国子の御教え】
 どの宗教を信じる人も、真(まこと)の心になり、世界一列兄弟の本当の天理を祈る。
 国、わが家、わが身を大切にする。
 神、仏、真(まこと)、堪忍、辛抱の五つを忘れなければ、病気もなく、家内がおさまり、金も出来る。
 他人を神様として信じ、また、自分を信じ、お互いを、神様として敬いあって生きれば、自分の心に神が増す。
 病(やまい)は金や薬では治らない。病(やまい)は、自分の真(まこと)でなくなる。肺病・肋膜は、心の持ち方ですぐに治る。
 私(井出)の宗教は、「天理 世界教」です。どんな宗教も、もとは月と太陽からです。
 人間は生まれた時に、死ぬことが決まっている。当人が好きなようにしているのだし、側の者が生死を心配する必要はない。
 社(やしろ)に何を祭っているのかという問いに対し、 神さんは風のように何処にもいるが、拝む対象がなければ困るので社をつくった。神体は「月日のこころ」と書いて入れてある。
 人間身の内には何が一番大切と思いなされますか?に対し、天より授け下されし誠の魂が一の大切。...その大切の魂を無駄に使うてはなりません。その魂を人様に崇(あが)めてもらおうと、人様に笑われようと、または、腹を立てさせようと、そこが魂の使いよう一つであります。その魂を大切に使うには、第一には内を大切にして皆を喜ばせて誠の心をもてば、世界の人がそれを皆見て喜びます。それが、天理の一の行いになります。

【井出くに出直し(亨年満85歳)】
 1947(昭和22)年、9.6日、井出くにが三木町高木で出直し(亨年満85歳)。葬儀は翌日、仏式で取り行われ、芹沢も参列した。遺体は特別許可で山の麓に埋葬された。大本教開祖・出口なおの奥津城を参考にして作られたという。宗教法人朝日神社の手続きを取る。
 井出くにの教え
 「どの宗教を信じる人も、真(まこと)の心になり、『世界一列兄弟』の本当の天理を祈る。国、わが家、わが身を大切にする。神、仏、真(まこと)、堪忍、辛抱の五つを忘れなければ、病気もなく、家内がおさまり、金もできる。他人を神様として信じ、また自分を信じ、お互いを神様として敬いあって生きれば、自分の心に神が増す。病(やまい)は金や薬では治らない。病(やまい)は自分の真(まこと)でなくなる。肺病・肋膜は心の持ち方ですぐに治る。私(井出)の宗教は『天理 世界教』です。どんな宗教も、もとは月と太陽からです。人間は生まれた時に死ぬことが決まっている。当人が好きなようにしているのだし、側の者が生死を心配する必要はない。(社(やしろ)に何を祭っているのかという問いに対し、) 神さんは風のように何処にもいるが、拝む対象がなければ困るので社をつくった。神体は『月日のこころ』と書いて入れてある」。
 井出くにの死去後、福井勘治郎、吉永清太郎が受け継ぎ、さらに吉永重雄、宮脇正一が法人代表役員として引き継いでいる。1952年に宗教法人。
 「死の扉の前で 井出くにむほん」(芹沢光治良 死の扉の前で 199頁途中から)。
 「いいや、真柱は最初会った時に、井出くにのことを話さないという誓いをさせられたからね」。
 「そうでしたね。先生、その井出くにって人は、一体どういう人ですか」。
 「この人も、その余波の一つだろうが、この人を識ったおかげで、僕は聖書を通じてキリストを理解できたが、また、天理教の教祖をすなおに理解できたし、『教祖様』を書く自信を持ったのだね……」。
 「それなのに、どうして真柱様は話すなと約束させたのでしょう」。
 「僕にも解らなかったのです。処が、『教祖様』の資料を調べているうちに、天理教の歴史に目を向けて、偶然手にはいった天理教関係の参考年表に-大正五年一月教祖三十年祭執行とあって、同八月、播州井出くにむほんと、あるのを発見して、目を見開きましたよ。このために、真柱はああ言ったのだなと、合点したが………その三十年祭前後に、天啓事件を起した水屋敷事件の茨木基敬や天理本道の大西愛次郎は、元来天理教の信者であるばかりでなく、教会長で重要な人物ですから、謀反人(むほんにん)の極印を押されるべきだが、天理教の信者でないこの婦人のむほんは、何か重大な意味がありそうで、教祖の三十年祭前後の天理教の歴史を、あれこれさぐったものです……君は天理教の歴史を勉強していませんか」。
 「いいえ…・・・不勉強で・・・・・・」。
 「三十年祭前後の四、五年間の天理教の歴史は、奇怪で変化に富んで、何か重大なことがあったようだが……君のような有能な人には、信仰上研究の価値あることだと思うがね」。
  「全然知りませんでしたが-」と、賀川氏はますます膝をのり出すので、忙しいのに、私も話の進行上やむなく話さざるを得なかった-三十年祭の二、三年前に早稲田大学の漢学者の教授で広池千九郎博士が入信すると、天理教では大袈裟(おおげさ)に本部に迎えて、天理中学校長にして、熱心に布教宣伝にあたらせたが、三十年祭が終ると、博士はいつのまにか天理教を去ったが、その理由も期日もとどめていない。三十年祭の二年前(大正三年)には、教祖殿も本部神殿も落成して、信者は勇んだと話しているが、その年の十二月三十一日に、初代真柱が四十九歳の若さで死去したね。翌四年に十一歳の嗣子正喜が真柱に襲職したが、その後見入として本部で最重要な大黒柱である松村吉太郎が私文書偽造容疑で奈良監獄に、翌年まで収容された。その私文書偽造容疑が、どういうことか明瞭でないんだ。大正五年の一月に教祖の三十年祭が執行されて、八月「播州の井出くにむほん」とあるが、その前年四月一日、当時お地場で最も求道的な知識人だと評された大平良平が、「新宗教」という個人雑誌を創刊して、若い天理教人を勇気づけたものの、三十年祭が終って、井出くにのむほんとある月、八月に、十九号で廃刊した。この年本部員の増野正兵衛の息子、道興が弱年二十六歳で、異例にも本部員に抜擢(ばってき)されて、道友社の編集主任になり、天理教の機関誌「みちのとも」に、はじめて青年信徒の魂を奮起させる随想を多く発表して、自らそれを実践するために大教会長となって信仰活動を始めたが、間もなく死亡した-こうしたことを話してから、私は加えた。
 「……それで僕は、その大平良平の『新宗教』という個人雑誌を探すのに苦労したものだよ。アルバイト学生の努力と多くの費用をかけて、ようやく創刊号と五、六号と最終号を手にいれたが……それに目を通して、この人が天理教の教会組織に批判的で、三十年祭には神がおもてに現れると言い伝えられたことを、文字通り信じていた真摯(しんし)な信仰者だと、分ったけれど……最終号の廃刊の辞ともいうべき文章に、神がおもてに現れた現在、『新宗教』のような雑誌の存在理由は喪失したと、いうような言葉が目に飛びこんだ瞬間、僕は、それが、井出くにむほんの月であることを思いあわせて、目から鱗(うろこ)がおちた思いがしてね……何か起きたにちがいない-と」。
 「あの、三十年祭に神がおもでに現れるという言い伝えって、何のことですか」。
 「君のように若い人は聞かないかも知れんが、僕は少年の頃、よく聞いたものだよ。僕の父は明治二十二、三年頃の入信だが……家中皆それを信じていたね……尤も僕は三十年祭の頃には、自意識のはっきりした旧制一高生で、信仰などすてた後だし、生れた家へも帰らなかったから、天理教にどんなことが起きたか、何も知らなかったが……あの播州の井出くにが生きていたらば、むほんの顛末(てんまつ)について訊きたいと、切実に思ったものです」。
 「亡くなったんですが、その井出くにって、人-」。
 「敗戦の翌年、八十五歳で病死した。僕はその後、『教祖様』の取材で大和へ出向いた帰途、播州のその人の家へ寄ってみたんだ。その家に、親様の長女のおまささんの孫で、福井勘治郎という人が、ずっと同居していると噂を聞いたから、今も健在ならば、何か聞けるだろうと、思ったからだが……ところが、その家は 〝朝日神社″になっていて、耳の遠い老人の福井氏が神社の神主役をしていて、僕の質問に、-あんた、そんなことを知らなかったですかと、大きながら声で、だてつづけに一時間以上も話すのを、僕は仰天して聴き惚れてしまってね。無骨な人で、話も下手でしたが、その話の内容がとてつもなくて面白くもあり、吃驚しながら……」。
 「どんな話でしたか、先生、是非聞かせてください」。
 「うん」と答えたものの、どう話すか迷ったが、
 「その福井勘治郎氏は三十年祭までは、天理教本部の家付きの人間で、本部で青年勤めをしていたそうだが、本部の神殿が落成する二年前ぐらいから、信者の間に灯が消えたように信仰が燃えないので、本部でも心ある青年は何か危機感を抱くようになったと言うのです。それも、氏の考えによると、明治二十年に教祖の死後、孫の真之亮が初代真柱になり、飯降伊蔵が本席として神の啓示を『おさしづ』で伝えることで、天理教の信仰の火が日本中に盛んにひろまったけれど、明治四十年に本席が亡くなってからは、教祖の血統による真柱と神中心の本席と、二本の柱で支えて来た天理教本部は、信仰中心の柱の方を失ったわけですね。血統による真柱は、それまで信者の心が自然に本席に傾くのを、無念に思っていたが、本席の死によって、信仰が真柱たる自分を中心に一本化するものと、期待したというのです。こんなことは、君は十分知つていたね……上田ナライトさんの事件の後、本部では、真柱中心にすんなり信仰の灯を輝くようにはかったのだが、突然その若い真柱が三十年祭直前に亡くなったし、ナライトさんは狂人だと噂が流れて、福井氏のような青年達は、天理教の危機感に戦(おのの)いていたそうだ。その危機感のなかで、親神の約束どおり、三十年祭に神がおもてに現れるという希望が、若い人々の胸に蘇(よみがえ)って、秘かに心の準備をしようと、心懸けたそうだ。大平良平の『新宗教』も、増野道興の感動的活動もその準備の一つだそうだ……」。
 「それで、三十年祭に、ほんとうに神が現れたと、言うのですが」。
  「それが……三十年祭は一月二十六日に行われて、いつ神が現れるか、若い人々は期待と不安をもって毎日待望したそうだ。その頃福井家は、晩年の親様のすすめに従って、本部の鼻先で開業した福井屋という宿屋を、母親と細君が細々と営業しながら、福井氏は毎日本部に青年勤めをしていたが、八月のむし暑い夜、十二時近く奉仕から戻ると、奥の客室から、低い女の声で、『みかぐらうた』が聞えていたそうだ。その日午前中に着いた女客だと聞いて、不審にも思わなかったが、翌朝五時前に目をさますと、同じ歌声が微かに聞えていた。主(あるじ)が起きたら会いたいと言っているという細君の言葉で、座敷に出向いて挨拶すると、豊かな容姿の中年の田舎の婦人が端坐していて-福井はん、ご苦労さんやなあ……親様にたのまれて、きのう教祖殿に坐りましたぜ。親様のお言葉にまちがいない証拠を見せるためになあ………あそこに坐ったら、世界もお道も助かるように、神様のおさしずが刻々あるのやで………それがなあ、本部の人々が来なはって、引きずり出しましてなあ、袖は千切れて、えらいめにあいました。これから三昧田へ戻りたいが、お母さんはいなはるか……と優しく言うので、福井氏は退(さが)って、改めて洗顔したそうです。前日教祖殿に狂人が頑張っていて困ったという噂を聞いたことを思い出して、再び婦人の部屋をのぞくと……母親が婦人と旧知のように親しく話していて、しかも涙をこぼしでいるし、話の内容は、おまさ祖母(おばあ)さんのことや、四、五十年も前のことばかりで、驚いたことに、婦人は変貌して、話に聞く教祖になっていたと、言うのです。それからが大変で、母親はその婦人を教祖である祖母扱いをして、三昧田の教祖の生家である前川家へ歩いてお伴したが、暑い田圃路を下駄ばきで速いこと、福井氏も母親もついて行くのに息を切らせたそうで……前川家では、また、教祖が戻ったようで、誰も疑わなかったし、近所の老人達まで集って来て、昔語りをはじめた……と、福井氏は話したが………そうした有様を、とにかく福井氏はじっと観察しつづけて、三十年祭に現れると待望した神は、この人ではなかろうか、一体この人はどういうお方かと、婦人のあとをつけるようにして、播州の三木町へ来てしまったと言うのです。噂は本部にも伝わって、大平良平はじめ熱心な若者が集って来たが、婦人は問われるままに、誰にも、親神や教祖の思召(おぼしめ)しを納得の行くまで話して、神の力を示しては、すぐ本部に戻るようにすすめたけれど、福井氏は頑として本部へ帰ることをせずに、四十年以上たってしまったそうですよ」。
 「先生、井出くにのむほんと、本部で言うのは、その人が教祖殿に坐ったということでしょうか」
 と、賀川氏が吐息した。
 「坐っただけなら狂人扱いして、済ませて、むほんなんて大袈裟に年表に書かないだろうが、教祖殿でお助けでもしたのではなかろうか。その上、教祖の重要な親族の福井氏が新しい神が出現したといって出向いたし、多くの信者が播州へ行って、天理教には大きな衝撃だったろうね。そのへんのことは何も僕は知らないが-」。
 その時、家内が夕食の支度ができたからと、合図した。そんな時刻になったことも、私達は気がつかなかった。





(私論.私見)