1897年 明治30年 飯田岩治郎氏の水屋敷事件

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.11日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「飯田岩治郎氏の水屋敷事件」を確認しておく。「別章【明治30年お指図」。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


1897(明治30)年

 1.11日、「山澤為信身上障り願い」に対するお指図。
 「大きい所へ掛かれば、ころりと初めから改めんならん。これまで指図指図で年限経ち来たる。俺の思うようや/\。これではどうもなろうまい。身上に掛かれば、どうもなろまい」。

 2.1日、お指図。
 「本部員や役員と言うなら、世上へ映る鏡屋敷。曇り事情踏み止めてくれにゃなろまい。一日の日よりしっかり定め掛け。(中略) ぢばも鏡なら、世上も鏡、世上の理も映れば、ぢばの曇りも皆な映る。あの者には義理や、この者は放っておけん、という人間心の理から世界の曇りとなる」。
 「一言の理は万言の理に当たる。一筋の道を満筋に通るは、皆な心と云う。一つの理からである。今の事情はどうであるか。くろぼこり、泥ぼこり、立ちきっている。この黒ぼこり、泥ぼこりの中で、どうして守護できるか、一人の身上から引き出して諭する理しっかり聞き取れ」。

 3.10日、第1回神道教師尋常試験合格者として武谷兼信らの発表があった。


 4.10日、神道本局新築落成奉告祭(麻布笄町)のため初代真柱他数名出張。


【秘密訓令】
 4月、内務省が、次のような秘密訓令を出している。
 「将来は一層警察の視察を厳密にし、適宜によっては公然会場に臨み、もしくは陰密の手段を以って非行を摘発し、その刑法警察令に触れるものは直ちに相当の処分を為し、又その然らざるものは、必要によりては祈祷説教を差し止め、もしくは制限する等臨機適宜の方法を用いて取締りを厳重にして云々」(梅原正紀「ほんみち」78P)。

 4.18日、お指図。
 「たった一つ一寸の慎み、一つの理、誠の理、これだけ事情身上からよう思案せにゃならん。(中略) 面々心に慎むという理を治めてくれ」。

【水屋敷事件(飯田岩治郎が大道教を立教)】
(「別章【御水屋敷並びに人足社略伝】」)
 モリジロウ2022年5月21日」が「激動の明治30年頃 前橋事件と水屋敷事件について」が次のように記している。
 明治30年頃といえば明治20年に教祖みきが現身を隠して10年、本席飯降伊蔵が教えの中心になっていた頃である。初代真柱真之亮は32歳、高弟と言われるような人々もすべて本席に伺いを立てて、そのおさしづに従い、信仰していた頃である。そんな頃に起こったのが「水屋敷事件」だが、その頃の『おさしづ』を調べてみると『おさしづ四』P2713からP2796にわたって「水屋敷事件」に関するおさしづが出ている。明治29年12月7日「飯田岩治郎身上願い」から明治30年8月2日「平安支教会長飯田岩治郎事情に付願」までの一連のおさしづがこの事件に関するもののようだ。
 この期間には前川菊太郎、橋本清(ともに本部理事)辞職に関するおさしづもある。『教史点描』(道友社編)にも出ているいわゆる「前橋事件」である。二人とも本部の理事であり、前川菊太郎といえば教祖みきの生家前川家で善兵衛さんの生まれ変わりとして、教祖から「控え柱」とされた人で、初代真柱真之亮と同い年の人である。どうしてそんな本部中枢にいる人が辞職するのか興味がわくが、政府の弾圧も激しくなり、本部の秘密訓令に対する本部の対応に納得がいかずやめてしまったようである。教内では大事件であっただろうが、どうもこの明治30年頃を詳しく調べていくと、教会本部の中も混乱していた時代だったようだ。
 陰暦5月1日午後10時半、飯田岩治郎に次のような啓示があった。
 「今日の日を待ちた。話し山々十分に迫り、肝心要のことである。しっかり聞け聞け。(中略)すぐさま本部へ使い、腹を決めて、月読命の使は来た。明日、日より本部にて聞き入れなんだら、火の雨降らす。今晩に行け」。
 6月、「前川菊太郎、橋本清両本部理事が相次いで辞表提出」に続いて、幼少の頃、教祖に助けられて以来、親子で熱心な道の人となっていた最古参の飯田岩治郎氏(奈良県生駒郡安堵村の教会本部準役員にして平安支教会初代会長)が本部批判を開始し、概要「神様が下がった。教祖のおぢばは火の屋敷で、安堵村のこちらは水屋敷。月日が世界を治めるのだから、教祖のお出直し後は、この安堵の水屋敷こそが本部になる」と述べ造反するという事件が発生した。平安支教会に北教会が呼応し、本部に反抗した。古参信者の相次ぐ造反に教内が揺れた。これを「水屋敷事件」と云う。造反した飯田岩治郎は「大道教」を立教する。

【本部が飯田岩治郎の胸調べ】
 本部は、対応の為、本部員の増野正兵衛と桝井伊三郎の2名を飯田家へ派遣し岩治郎の胸調べをした。

 6.3日、お指図。「安堵村飯田岩次郎事情願い(事情は神様下がると言うに付き将来治め方に付き願い)(飯田岩治郎の神がかり問題に対する事情願いお指図)。

 概要「指図事情、これだけの事なら、それだけの事なら、と日々送り、指図事情皆な埋れている。よう聞き分け。まあ内々に一つ事情、時々の話、時々の事情、刻限事情、段々これまで幾重話しある。ほんの十のものなら九つまで埋れて、後一つはっちゃ守る事でけん。(中略)人足という、あちらこちら古い事情にて、あちらへちょい/\しておいた。前々の道と、道と/\の理を聞き分け。聞き分けにゃ分からん。話、あちらこちらちょい/\聞いて居る。聞いて居る中に、一寸何才なる者が、この者いつ/\まで貰い受けたる中に、そのまま捨ておいたる。これ分かるか分からんか。所々で一寸/\言葉下ろしてある。すっかり貰い受けたる事情聞き分け。事情皆な埋れたる。年限経つ、見て居るようなもの。(中略) これまで危ないところ、どうなりこうなり連れて通りゃこそ、通れる。時節で通れるのやない。時節で通れると思うは、心間違うてあるのやで。(中略) まあ道理から、元々は面々が物ありた事人に手渡したようなもの。(中略 「渡したようなものや、渡したようなものやと、それはどういうもの。ほのかの事情にて、人足社と云うて来ている。(中略) あちら神が下がり、こちら神が下がりて、どこから皆ほんとに分かり難ない。どんなこと云うたやら、一時堪えられんようなこと云うたるそうな。どこから云う。聞き分け聞き分け。人足社と云う、あちらこちら古い事情にて、あちらへちょいちょいしておいた。前々の道と道と道との理を聞き分け、聞き分けにゃ分からん。この道三十年二十年後、道理聞き分け。その時、我がものと云うは生涯我がもの。(中略)一時、間違う道理、よう聞き分け。何処に、どういう事授けた、こういう事授けた。それは修理して、作り上げてこそ、我がものである」。

 この頃の飯田岩治郎のお筆先は次のように記している。
 「元なるの鏡屋敷の鏡にて、曇りに曇り重なりてある。この曇りどうして晴らすことならば、鏡屋敷に火の雨が降る。月日には残念に残念重なれば、何をするやらこれ分からんで。月日には人足連れて出たならば、どんなことを話すやしれんで。この話し人間業と思うなよ。皆な月読みの神であるぞや」。
 「この世うに二ツなき水屋敷。元なるものはなんと思うや。早く心定めがついたなら、すぐに見えるで確かなること。これからは大還道の話する。そばなる者は早く勇めよ。元なるの大還道というのはな、この屋敷よりつけることやで」。

 7.1日、本部にて教師検定試験を行う。

 7.3日、お指図。「飯田岩次郎事情に関するお指図」。

 「」。

 次に明治30.7.3の「おさしづ」の大意は、1)20年30年以前の針ケ別所・助造事情に際して教祖が示されたひながたを思案してみよ。2)「一も取らず二も取らず、所々にあちらにどうや、こちらにどうや、一つも治まりてあるか。よく見てみよ。内々談示付けて、万事事情にしっかり取り締まらにゃいかんで」というお言葉が出ているが、「一も取らず二も取らず」という一節をどう悟るかにキーポイントがある。これまで道を通った効能の理が無駄になってしまうという意味にも取れるし、「どっちもどっち」と解釈することもできる。 

 7.14日、お指図。「飯田岩次郎事情に関するお指図」。
 「最初の始まりの理と直ちにどうと言わん。この元という理、元というはほんのちょいと出て話して、年限初め萬分の一から、成らん理から始め掛けたる。何處にどういう事がある。彼處にこういう事がある。存命中に言うたる。世界道理の理に一つ成るか成らんか。これから考えば分かる。害になると言えば害になる、邪魔になると言えば邪魔になる。これ聞き分け。ぢば証拠人間始めた一つの事情、かんろうだい一つの雛形を拵え。今一時、影だけのもの言うて居るだけでならんから、萬分の一を以て、世界ほんの一寸細道をつけ掛けた。どちらやらこちらやらという理は言うまでのものや。どうこうというは、大体の理に分かるもの。ほんの何も知らぬ者寄って言うのや。尽くした理は何時失わんならんや知れん。一も取らず二も取らずという事は前々に知らしてある。天理教会と言うて、国々所々印を下ろしたる。年限経つばかりでは楽しみないから、一時道を始め付けたる。神一条の道からは萬分の一の道を付けたのやで。それから聞き分けば、邪魔になるものは邪魔になる。害になるものは害になる。言うわいでも分かった話や。(中略) さあさぁ名称/\のところ、事情話すところ、変わりたるやなあ。話すところどうも一時すっきりとして了(しま)えば、言うまでの事情や。案じて居れ ば切りがない。よう皆々思案してみよ。一所崩(くず)れたら、何処まで崩れるとも 分からん。一とこ崩れたら何処まで崩すやら分からん。しっかり治め/\。言うて治ま らんにゃどうもならんやろう、と言うても、要(い)らんと言うやどうもならん。ほのかの理から治まりたるところ、どちらやらこちらやら今一時の道という。思うか思わん か、よう思案してみよ」。
 「悪い中にたんのうおさめられん、道理と云う、ならん中たんのう、治められんところから治めるは真実まことと云う。前生因縁のさんげとも云う」。

 8.2日、お指図。「飯田岩次郎事情に関するお指図」。
 「どちらの理もあろう。何処の理を諭してやるのやあろうまい。始め掛けたる理を伝うたる。取り損ないありてはならん。無理にどうせいとは云わん。人間と云う面々の理で思い違いすればどうにもならん。(中略)一も取らず二も取らず、面々心を出したら、皆な根を忘れてしまうも同じこと。珍しいことと思えば、一時は通れるやろう。なれど教祖の理を聞き分け」。
 「水屋敷と言うた事はない。人に授けたる」。

 こうして、本席のお指図と飯田岩治郎のお筆先が噛み合わないまま応酬が続き、本部の重鎮クラスの梅谷四郎兵衛、山澤為造、松村吉太郎、平野楢蔵らによる飯田岩治郎説得が続いたがが水屋敷の動きを留めることができなかった。


 8.14日、お指図。
 「三十年以来親子諸共という、これ杖柱という理、聞き分け。聞き分けばこれ重い理か軽い理か聞き分け」。

 8.20日、お指図。
 「これまでの事情、一人や二人でどうしようこうしようと云うてなるものではないで。よう聞き分け。幾事情も相談の台。いかん事情も叉相談の台とも云う。一寸には恐いようなものや。なれど案じることは、更にないで。大き川こそと思えば、大きい心、もたにゃ越せん。小さい川なら、ぽいと越せる」。

 9.13日、松村吉太郎の「身上伺い」に対するお指図。
 「出る、入る、出る。この迫るという、この事情、大きい心持たにゃならん。小さい心思わず」。

【橋本氏が本部に辞表提出、飯田岩治郎が免職される】

 11.13日、橋本清/氏が本部に辞表提出。橋本氏は現奈良県桜井市の人、元丹波市石上尋常小学校の教諭。教員時代に眞之亮と親交があり、後におやしきの勤めに従事するようになる。この年、離脱。

 「飯田岩治郎段々相つのりしにつき、処分方に付き願い」が出され、この時のお指図は次の通り。

 「さあさあ尋ねる事情/\。ものというは、放っておいて大事ないものと害になるものとある。放っておいて為になるものなら、放っておいても良い。皆んなよう聞き分け。前々指図、一も取らず二も取らず、この理より段々運び来たる心と云う理、深きのなきうちに直せば直る。日々段々日が経つほど、皆んな寄り添う心に理が寄りて来る。寄るほど真(まこと)の理を失う�て了う。こうしたならいけんやないかと、何にもならん事して、今まで積んだもの掘り起して了うようなもの。ニ所も三所も出来るものなら元の屋敷は要らんもの。元分からんから、そういう事するのや。数々世上に理を下ろしたるは、同じ一つの理。外に色々あちらで一寸やってみ、こちらで一寸やってみても、成り立ったものはあろうまい。尽して十分運んで十分、年限経ってこそいついつまでの事情、何やら彼やらほんの一つの答もなく、放っておくから一寸には行かん。行かんからこれまで放ってある。最初は一寸した容物に入れてあるようなもの。なれど、段々日が経つ、理が殖えて来れば仕舞には容物には入らんように成る。成ってからどんならん、出けてからどんならん。いかんものは誰聞いてもいかん、善きものは、誰が聞いても善きもの。あちら分かれ、こちら分かれ、とんとどうもならん。この事情聞き分けて、これから先何か万事心得てくれ。それで今日の日は、僅かの日を待って、これでと言えば、それよりすっきりするがよい。うかうかしたら、どんな事になるやら分からん。悪というものは、立ち掛けたら一時は立つものや。放っておいてはどうもならん。世界には未だ/\分かりた者は僅かしかない。早くに取りて了えば、今日の日はなきもの。それからそれと心に欲が付くから、一人出け二人でけ、それが頼りになりて段々事情と云う。あちらこちら何も分からん者、いつまでやっても行かせん。今日の日は一寸片付けて、すっきりして了うが良いで/\」。
 概略「皆んなこれ教えという理がある。教えに従うて通らんから、綺麗な道がむさくろしいなる。皆な行き難い道を尋ねて捜すからどんならん。悪と云うものは、立ちかけたら一時は立つものや。放っておいてはどうもならん。世界にはまだまだ分かりた者は僅かしかない。早くに取りてしまえば、今日の日はなきもの。それからそれと心に欲がつくから、一人出け二人出け、それが頼りとなりて段々事情と云う。あちらこちら何も分からん者、いつまでやってもいかせん。今日の日は一寸片付けて、すっきりしてしまうが良いで」。

 11.18日、本部は飯田岩治郎を免職し、教導職、本部準役員、平安支教会長職を解任する。12.1日、同支教会を生駒郡竜田に移転させ板倉槌三郎氏が新たに会長就任となった。これまでの信仰は、教祖ー伊蔵の授けた御幣が教会の目標とされていたが、この頃、山澤派が執拗に各信者の家に祀られていた神実(モミ三粒)に代えて八タ鏡を持ち込み始めた。御幣教祖時代の目標であった岩治郎は、教祖の教えからはずれていく天理教本部に反対し、そこを離れた。

【橋本清本部理事が理事辞職】
 12.4日、秘密訓令後、教会本部の前川菊太郎、橋本清両本部理事が相次いで辞表を提出したが、飯田氏の水屋敷事件の発生と処分を経てこの日、橋本氏は理事辞職した。橋本氏は、明治32年に「天理教会の内幕」を出版する。

 12.11日、前川菊太郎(教祖の兄の孫)が本部に辞表提出。この時のお指図。
 「口には言われん、筆に書き尽くせん道を通りて来た。(中略) 五十年の間の道を、まあ五十年三十年も通れと言えばいこまい。二十年も十年も通れと言うのやない。まあ十年の中の三つや。三日の間の道を通ればよいのや。僅か千日の道を通れと言うのや。千日の道が難しいのや。ひながたの道より道がないで。何程急いたとて急いだとていかせんで」。
 「神が連れて通る陽気と、面々勝手の陽気とある。勝手な陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気と云う。面々楽しんで、後々の者苦しますようではほんとの陽気とは云えん。面々勝手の陽気は、生涯通れると思うたら違うで」。
 「何ほどつなぎたいと思うても、つながれんが道理や」。

【松村吉太郎の「道の八十年」の記述考】
 松村吉太郎の「道の八十年」119-122頁は次のように記している。
 「前川、橋本、飯田、それに加えて私、この四人は協会本部設置以来の友達である。道の細い頃より共に粥をすすり、一つ蒲団に起き臥した仲であった。年末の事務納めをすると、『さあ今夜は一つ慰労会をしよう』とて、一ぱい一銭五厘のうどんを食って談笑した。喜びも楽しみもその中にあった。(中略)そうして暮らした仲だ。それがまず橋本さんと前川さんとが、ぐれだした。(中略)意外なところに意外な謀反(むほん)があったのだ。飯田さんの事情は、やはり、これと並行して進んでいた。彼の説によると、『おぢばは火の屋敷で、安堵村は水の屋敷である。月日が世界を治めるのであるから、教祖様のお出直し後は、この安堵の水屋敷が本部となるのだ』という。全くの異端、異説であった。本部員会議の結果、彼の所管教会であった平安支教会を竜田に移し、彼を免職と決まって、私がその衝に当たった。橋本、前川の二教友を失った直後である。友情としては忍びないことだ。ことに、事務所での腕利きを、ここで一時に三人も失うのは、寂しいことだ。私は一縷の希望を友人としての最後の説諭につないでいた。本部からの処置をとる二日前、11月29日であった。彼を訪ねて話した。しかし、事情は既に一片の友情だけではどうにもならぬ破目にきており、全ては破局に終わった」。

 12.30日、お指図。
 「自分たんのうすれば先はたんのう。銘々不足思えば、先の不足は何ぼとも知れん」。

 (道人の教勢、動勢)


 (当時の国内社会事情)

  (宗教界の動き)
 古社寺保存法・国宝natinal treasure(Fenollosa) 物件指定。YMCA設立。釈宗演鈴木大拙派米。

 (当時の対外事情)
 

 (当時の海外事情)





(私論.私見)