第41部 | 1865年 | 68才 | 信仰の拡がりと反対者.妨害者.異端の出現 |
慶応元年 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「信仰の拡がりと反対者.妨害者.異端の出現」を確認する。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【宗派問答発生する】 | |||
教祖の教えが広まり始めるに連れて既存の宗派との軋轢が生まれ始めた。次のような記録が残されている。
と仰せられている。こうしたことは一度や二度ではなく、この事件を最初として慶応3年迄の間に幾度となく繰り返された。まことに「お道」の勢いは、四囲の僧侶や山伏等に、大きな脅威を与える程の伸展であったと拝察されるのである。こうした折、教祖は、次のようにお諭しになられている。
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【神職取締役の調査入る】 |
「お道」がかくもすさまじい勢いで伸びていく姿を見せつつあるさ中、反感や嫉妬は僧侶逹ばかりでなく、神職等の中にも警戒を呼び始め、やがて今までにない神名を流すのは不都合だという非難の声も出始めたようである。大和一帯の神職取締役をしている守屋筑前守が自らお屋敷を訪れてくることとなった。守屋筑前守は先に大和事件でお道と遭遇しており、以来目をつけて関心を示していたのであるが、非難の声が高くなるにつれて、役目柄捨ててはおけぬ気持になりお屋敷にやって来ることとなった。この時、教祖が自ら応接されている。守屋筑前守と教祖の問答の概要が伝えられていないのは残念としか云いようがない。但し、守屋氏は、温容に接した瞬間からなにかしら強く心を打たれ、尋ねたことに対して応えた教祖の言葉の節々に好意を抱いたようである。さすがに守屋氏は感情に走って真実に目を掩う様な人ではなく、学問があるだけにみきの教理の深さに感じ入ることになり、世間の悪評などとは全く相違する事実を自らの目と心に確認して素直に頭を垂れることとなった。教祖の言葉一つ一つが悉く温かく心の底に流れ込んでくるのを感じた。そればかりか「こんな結構な教えを、このままにしておくのは惜しい。その筋に届け出て公認を得て布教なさるがよろしい。その節は私もお力になりましょう」と頼もしい言葉を残して帰っていった、と伝えられている。 居あわせた人々は、時の権威者によって教祖の偉大さが証明された喜びに胸をふくらませ、前途に明るい希望を感じたとも伝えられている。あとで分かったことであるが、守屋筑前守の母きみは当時既に熱心な信者になっていた山沢良次郎とは縁戚であった。これを思えば、悪意なく、見たままの仰せをそのままに判断しえたのではなかろうか。 |
守屋神社の神主で、大和一国の神職取り締まりをしていた守屋筑前守は、山澤良助と従兄弟(いとこ)だった。「山澤為造略履歴」によると、「守屋の筑前様は、その母と良助の父とが兄弟であって、母は山澤より縁に付かれし故、筑前様と良助とは従兄弟の関係」と記されている(復元第22号50−51頁)。高野友治著「御存命の頃」153頁によると、「物部氏の直系で、嘉永5年、禁裏御所に参内(さんだい)し、筑前守大神朝臣(おおみわのあそん)広治の守名(かみな)をもらい、従五位下(じゅごいのげ)に叙せられ、文久3年には諸国神祇道取締方を仰せつけられていた」と記されている。これによると、大和国内の神職取締りだけの立場ではなく、日本国體の奥の院に繋がる血筋と云う事になる。 |
【教祖の「出張りお助け」の様子】 |
こうした中、教祖は相変わらずの日々であり、求めがあれば気軽にお出かけになるという風であった。慶応元年8.19日には、大豆越村の山中忠七宅にお越しになられている。この時、忠七に肥の授け、妻そのに扇の授けを為されている。2日遅れて21日、こかんも教祖の後を追ってきた。こかんは3日の滞在で23日に帰ったが、教祖は25日まで滞在された。この間、教祖は山中家の家族に対し詢詢として道をお説き下されたのであった。当時忠七には彦七、元造という子供があって、兄の彦七は当時17才であるが、弟の元造は僅かに4才であった。こんな子供にまでも将来の進み方について種々お聞かせ下さるところがあった。教祖お出張りのうわさが広まるや、忽ち近隣から人々が詰めかけて来た。これらの人々に対しても、教祖は一々懇切に教えをお説き下され、珍しい助けが周囲に広まった。教祖の山中宅出張りは、慶応2年、同4年にもなされている。 |
【教祖が約30日間断食】 |
9月、教祖が山中忠七宅から帰られて暫くの後の9.20日頃からの約30日間、断食される。「水さえ飲んでいれば痩せもせぬ、弱りもせぬ」と仰せられて、少しも食事を召し上がらなかった。人々が心配して度々お勧め申し上げたところ、少々の味醂と野菜をお上がりになられたが、依然、穀気は少しも召し上がらなかった。それでもお言葉の通り、いささかもお弱りの様子なく、以前と何ら変わりなく振る舞われた。まさしく月日のやしろとして自由自在のお働きを目のあたりにお示し下されたものかと拝察される。この頃の教祖は、この後に勃発する助造のことに関しては一言もお触れにならず、10月20日頃までお過ごしになられていた。 |
【助造事件】 | |
この頃早くも異端が発生しており、この時に見せた教祖の対応の様が興味深い。日頃「ほこりはよけて通りや」とのお諭しされているのに似合わず峻厳であった様が伝えられている。これを見ておくことにする。見方によれば、かかる創草の時代に早くも異端が現れたということは、それ程有力な存在になっていたことを裏書きするものとも云える。大和神社の節を越えて未だ一年もならぬうちに、早くもそれ程の伸展を示していた様が窺える。
助造側は案の定カンカンに怒り、「このままでは断じて帰すことはできん。帰すなら庄屋敷へではなく、奈良の監獄へ帰す」と息巻き始めた。助造方には一つの策があり、兼ねてより認可を得ずして人を集めることの不利を知って、既に奈良の金剛院と誼みを通じて、その部属の講社として事を進めていた。助造側は早速金剛院に連絡し、これを迎えて、その後ろ盾によって教祖方を圧伏しようと図った。これを聞いた供の者も、「断じて帰らず、白黒の決着を着けるべし」と応戦した。ところが、教祖の方は全くの無策だった。早々と金剛院の住職が乗り物に乗って威風堂々針カ別所に乗り込んでくると伝えられた。これを聞いた供の者は、教祖の理の絶対なることを信じるものの、人間思案のこととして何か対応策を施す必要を感じた。一同の心に浮かんだのは守屋筑前守であった。過日、教祖を訪れて、唯一度の面接で教祖の説く教理の尊さを知り、「私も何かの力に成りましょう」と、力強い言葉を残して帰っていった神職取締役を任ぜられているその人であった。「守屋筑前守に頼んで来てもらったらどうだろう」、「あの人なら金剛院よりは上やろう」、「けれども、かような事でわざわざこんな所まで来てくれるやろか」、「筑前守の奥さんは山沢から行っているということやから、山沢さんから頼み来んでみたら聞いてくれるやろう」、「この間は、きっと力になりますと云うて居ったやないか」。相談は一決して、「お道」側は大和一国の神職取締り役である守屋筑前守に後ろ盾を頼むこととなった。岡本重治郎が使者として山を下り山沢良治郎(良助のこと)に急を伝えた。程なく山沢良治郎が守屋筑前守の代理であるとの触れ込みで遣ってきた。都合で守屋筑前守は来ることができなかったが、代理という名目で山沢良治郎が乗り込むことは了解したものと思われる。 |
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常々「ほこりはよけて通りや」とお諭しになり、理不尽な乱暴ものが来ても、おだやかにお見過ごしになっていた教祖であったが、この事件に対して臨まれた教祖には嘗ってない峻厳さが拝される。思うに、理を歪曲する事に対しては寸毫も容赦できぬことを明白にお示し下されたお態度かと拝察される。教祖の理に照らされて、異端は完全に平伏され、理の前には人間の小才や謀略は全く無力である事が明らかにされた。この一行に加わった人々も、今更のごとく教祖の尊さと、元の屋敷の理を強く心に焼きつけたことと察せられる、こうして、異端の出現という暗い影のさす出来事も、却ってぢば一つの理を顕揚される「活き節」となった。この事件は、大勢が加わった論争であっただけに、そのうわさは忽ち四囲に伝わり、「やっぱり庄屋敷の神さんは偉いものや」という評判を生み、教勢は愈々伸展する一方となった。 |
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「助造事件」が天理教最初の造反事件となっている。「助造」とは今井新治郎のことで天輪王教会を立教している。今井新治郎は、1891(明治24)年1.24日、出直し(享年61歳)。なお、1866(慶応2)年、今井新治郎の弟の今井惣治郎が転輪王教会を再立教させている。現在、奈良市に活動の拠点を置いているが積極的な布教はしていない。「針ケ別所村史」には今井真治郎の名で語られ、1831(天保2)年生まれとある。新治郎は助造の息子との説もある。 |
【信仰の拡がりと反対】 | |
お屋敷うちに慶事を頂いたとはいえ、助造事件の様な内からの異端者の出現に続いて、外からの迫害も次々と起こってきた。教理では、次のように説く。
慶応2年の秋にも不動院の山伏が乱入して、暴行のかぎりを極めた事件が起こっている。不動院というのは、大和平野の西北の隅、生駒山脈の麓の小泉村にあって、おぢばより直線にて三里余の地点にある。今では荒れ果てた小さな堂宇を留めているに過ぎないが、維新前は山伏寺で、真言宗松尾寺(現大和郡山市山田町)へ上る修験者の取締りをしており、一々ここに挨拶をしなければ登山することのできない定めになっていた。その特権を笠に相当な権勢を振るっていたものの様である。伝統と特権を誇り、それに頼って徒食している者にとっては、新しく起こってくる勢力は唯目障りとなり、邪魔ものと感じるだけで、正しくこれを眺めて見る心の余裕などは微塵もない。その連中には、近頃頓に高まってくる庄屋敷の生き神様の名声がどうしても黙視することができなかった。自分たちが次第に落ち目に成っていく時であるだけに、唯嫉ましいだけでなく、自分たちの権威をないがしろにされているような、言いようのない腹立たしさを感じ、ひと思いに説破するつもりで乗り込んできた。こんな権幕でどやどやと押しかけたのであるから、その様子を一目見た時から唯ならぬ気配を感じたに相違ない。教祖に万一の事があっては大変だから、できることなら教祖に合わせずに追い返したい。これが居合わせた信仰者の心に湧いた同じ思いであろう。けれども勢い込んだ闖入者逹は、人々の制止ぐらいで止まる訳はない。つかつかと教祖の御座所近くへ進み寄った。教祖は常に変わらぬ姿で、上段の間に端座されている。その神々しいお姿に接した時、さすがに直ちに暴言を吐いたり、乱暴を働くことができなかったとみえ、一時はその場に座ったが、早速に次々と難問を発した。教祖は始終微笑さえたたえられながら一々これに明答を与えられた。この時の教祖のお言葉が概要さえ伝えられていないことは残念の極みである。この時教祖は、親が子に諭すかの如く微笑さえたたえて優しく同時に鮮やかな受け答えを為したようである。山伏たちは忽ち理に詰まり、言葉に窮して了った、と伝えられている。教祖の温容に比して、何とか優勢を保ちたいと焦れば焦る程どうにもならない窮地に追い込まれて行く感じで翻弄されている様であった、と伝えられている。これでは勢い込んでやってきた面子も丸つぶれである。窮しきった者は自暴になり、捨鉢となったら何をやり出すかわからない。彼らは矢庭に立ち上がって、座側にあった刀を抜くなり、太鼓を二つまで突き破った。更に提灯を切り落し、障子を切り破る等、さすがに教祖には一指も触れることはできなかったが、辺り構わず乱暴のかぎりを尽くして立ち去った。教祖は、その間も静かにその様子を見守りながら、止めだてするでもなく泰然自若とされていた。その行為は、仮りにも信仰者としての道を歩む立場の者の為す所業としてみれば実に浅ましく嘆かわしい仕業であったであろう。この逸話が次のように知るされている。 闖入者はそれでも腹の虫が治まらなかったのか、その足で南西二里にある大豆越村の山中忠七宅に乗り込んだ。当時山中忠七は、教祖から頂いた扇の伺いによって、熱心に神意の取次もするし、又その宅には度々教祖もお越し下される事もあって、あたかも「助け一条の出張所」の様な観もあり、ここを中心に付近の信者たちの参集もあった様に思われる。そんなことで、最も有力な信者と見做されてのことと思われるが忠七宅が襲われることとなった。突然暴れ込んだ者逹は、いきなり礼拝の目標となっていた御幣を引き抜きそれを制止しようとした忠七の頭を叩き、散々に狼藉を働いた。 |
【こかん名義の裁許状を取り上げられる】 |
守屋筑前守に、こかん名義の営業許可裁許状が取り上げられている。これより2年後の慶応3年、守屋筑前守の斡旋で秀司が改めて京都の神祇管領の免許を取っている。営業権が秀司に移ったことになる。 |
【御請書】 | |
「天理教管長家、古文書)」(復元32号昭和32年刊)P327)。
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【染物予言】 |
この年の或る日、教祖が、「明朝、染物をせよ」、「井戸水を汲み置け」と仰せになられ、こかんが染物の用意をしていると、その日の夜、山中忠七の妻そのが、翌朝の未明に起きて泥や布地を背負って、お屋敷へやって来た。教祖は、「ああそうか、不思議な事やな。夕べ、こかんと話をしていたところやった」と仰せになられた。染物はお屋敷の井戸水で染められた。教祖が汲み置きしていた金気水(かなけみず)の井戸水を使って、布に泥土を塗り、水に浸しては乾かすことを二、三回繰り返すと、綺麗なビンロード色(暗黒色)に染まった。 |
(道人の教勢、動勢) | |||
「1865(慶応元)年の信者たち」は次の通りである。 | |||
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【この頃の逸話】 |
(当時の国内社会事情) | ||||||
1865(慶応元)年、2.2日、高杉晋作、長州藩の実権を握る。2.4日、天狗党、処刑される。3.10日、新選組、西本願寺に屯所を移す。3.12日、幕府は神戸海軍操練所を閉鎖。3.18日、海軍操練所が正式に廃止された。これは、同所が「激生の巣窟に似たるを以って嫌疑を蒙りしなり」であった。3.22日、五代友厚ら、イギリス留学に出航。
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(宗教界の動き) |
1865(慶応元)年、(金光教関連)斎藤重右衛門、高橋富枝が白川家から神拝 式許状を受ける。 |
(当時の対外事情) |
1865(慶応元)年、閏5.18日、イギリス公使にパークス着任。 |
(当時の海外事情) |
メンデルが遺伝の法則を発見。リンカーンがフォード劇場で暗殺される。 |
1865(慶応元)年、アメリカの南北戦争終る。リンカーン大統領が暗殺される。 |
(私論.私見)