第41部 1865年 68才 信仰の拡がりと反対者.妨害者.異端の出現
慶応元年

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.12.12日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「信仰の拡がりと反対者.妨害者.異端の出現」を確認する。

 2007.11.30日 れんだいこ拝


【宗派問答発生する】

 教祖の教えが広まり始めるに連れて既存の宗派との軋轢が生まれ始めた。次のような記録が残されている。

 慶応元年6月の夕景、田村の法林寺(浄土真宗)と田井庄村の光蓮寺(真宗興正派末)の僧侶らが打ち連れてお屋敷に難詰にやって来た。この時の様子が次のように伝えられている。法林寺は、その昔、由緒深い大社である石上神宮の神宮寺として創建されたもので、往年には田井庄一円に七堂伽藍の備えを誇っておった名刹であるが当時はそのほとんどが焼失して、僅かに一坊を留めるばかりの姿になっていた。伝統と格式を誇りながらも寂れゆく自身の姿にひきかえて続々と人足の吸い寄せられていくお屋敷の様子を黙視することのできない気持があったのであろう。言下に説伏しようとの勢いで乗り込んできた。

 応対にでたのは、当時29才のこかんであった。勢い込んだ荒くれは、いきなり座側に刀を控えて威嚇しながら問答に及んだ。しかしこかんは、いささかもひるむことなく、平然として一々相手の問いに対して明答した。当方が威に恐れて縮み上がれば相手の思う壷であったかも知れないが、予想に反し、やさしく受け答えするうちにも気品があり、しかも口をついて出る話しは一々理があって一言もつけ入る隙がない。相手ははやる気持の遣り場に困った。その揚句、刀を抜いて畳を切り、太鼓を破る等の乱暴を働いて立ち去った。如何なることかとその場の成り行きを固唾を飲んで見守っていた伊蔵をはじめ二、三の信者たちは、ようやくほっと安堵の胸を撫でおろした。先ずこかんの無事を喜んだ。けれども辺り一杯手のつけようもない迄に打ち散らされた狼藉の跡をながめては、暫し呆然としてなす術もなかった。後年、刻限の話しに、

 「(前略)何処の坊主やら分からん者が、門口さして暴れさって―、どうしょうや知らんと思た事もあったなあ。そら六月頃やあったなあ。その時の事を思えば、夢見たような事になったなあ、(中略)畳へ刀を抜きやがって、ぐさと差しよった事もあって、どうしようやなあ、こうしようやなあ、その時の事第一思う(後略)」(お指図、明治31年12月31日)

 と仰せられている。こうしたことは一度や二度ではなく、この事件を最初として慶応3年迄の間に幾度となく繰り返された。まことに「お道」の勢いは、四囲の僧侶や山伏等に、大きな脅威を与える程の伸展であったと拝察されるのである。こうした折、教祖は、次のようにお諭しになられている。

 「ほこりはよけて通りや。ほこりに逆ろうたらおのれも亦ほこりをかぶらにゃならんが程に、決してほこりに逆らうやないで」。
 「真実持ってこの道につとめるなら、こわきあぶなきはない。決しておめもおそれをする事はいらんで」。

【神職取締役の調査入る】
 「お道」がかくもすさまじい勢いで伸びていく姿を見せつつあるさ中、反感や嫉妬は僧侶逹ばかりでなく、神職等の中にも警戒を呼び始め、やがて今までにない神名を流すのは不都合だという非難の声も出始めたようである。大和一帯の神職取締役をしている守屋筑前守が自らお屋敷を訪れてくることとなった。守屋筑前守は先に大和事件でお道と遭遇しており、以来目をつけて関心を示していたのであるが、非難の声が高くなるにつれて、役目柄捨ててはおけぬ気持になりお屋敷にやって来ることとなった。この時、教祖が自ら応接されている。守屋筑前守と教祖の問答の概要が伝えられていないのは残念としか云いようがない。但し、守屋氏は、温容に接した瞬間からなにかしら強く心を打たれ、尋ねたことに対して応えた教祖の言葉の節々に好意を抱いたようである。さすがに守屋氏は感情に走って真実に目を掩う様な人ではなく、学問があるだけにみきの教理の深さに感じ入ることになり、世間の悪評などとは全く相違する事実を自らの目と心に確認して素直に頭を垂れることとなった。教祖の言葉一つ一つが悉く温かく心の底に流れ込んでくるのを感じた。そればかりか「こんな結構な教えを、このままにしておくのは惜しい。その筋に届け出て公認を得て布教なさるがよろしい。その節は私もお力になりましょう」と頼もしい言葉を残して帰っていった、と伝えられている。

 居あわせた人々は、時の権威者によって教祖の偉大さが証明された喜びに胸をふくらませ、前途に明るい希望を感じたとも伝えられている。あとで分かったことであるが、守屋筑前守の母きみは当時既に熱心な信者になっていた山沢良次郎とは縁戚であった。これを思えば、悪意なく、見たままの仰せをそのままに判断しえたのではなかろうか。
 守屋神社の神主で、大和一国の神職取り締まりをしていた守屋筑前守は、山澤良助と従兄弟(いとこ)だった。「山澤為造略履歴」によると、「守屋の筑前様は、その母と良助の父とが兄弟であって、母は山澤より縁に付かれし故、筑前様と良助とは従兄弟の関係」と記されている(復元第22号50−51頁)。高野友治著「御存命の頃」153頁によると、「物部氏の直系で、嘉永5年、禁裏御所に参内(さんだい)し、筑前守大神朝臣(おおみわのあそん)広治の守名(かみな)をもらい、従五位下(じゅごいのげ)に叙せられ、文久3年には諸国神祇道取締方を仰せつけられていた」と記されている。これによると、大和国内の神職取締りだけの立場ではなく、日本国體の奥の院に繋がる血筋と云う事になる。

【教祖の「出張りお助け」の様子】

 こうした中、教祖は相変わらずの日々であり、求めがあれば気軽にお出かけになるという風であった。慶応元年8.19日には、大豆越村の山中忠七宅にお越しになられている。この時、忠七に肥の授け、妻そのに扇の授けを為されている。2日遅れて21日、こかんも教祖の後を追ってきた。こかんは3日の滞在で23日に帰ったが、教祖は25日まで滞在された。この間、教祖は山中家の家族に対し詢詢として道をお説き下されたのであった。当時忠七には彦七、元造という子供があって、兄の彦七は当時17才であるが、弟の元造は僅かに4才であった。こんな子供にまでも将来の進み方について種々お聞かせ下さるところがあった。教祖お出張りのうわさが広まるや、忽ち近隣から人々が詰めかけて来た。これらの人々に対しても、教祖は一々懇切に教えをお説き下され、珍しい助けが周囲に広まった。教祖の山中宅出張りは、慶応2年、同4年にもなされている。


【教祖が約30日間断食】 
 9月、教祖が山中忠七宅から帰られて暫くの後の9.20日頃からの約30日間、断食される。「水さえ飲んでいれば痩せもせぬ、弱りもせぬ」と仰せられて、少しも食事を召し上がらなかった。人々が心配して度々お勧め申し上げたところ、少々の味醂と野菜をお上がりになられたが、依然、穀気は少しも召し上がらなかった。それでもお言葉の通り、いささかもお弱りの様子なく、以前と何ら変わりなく振る舞われた。まさしく月日のやしろとして自由自在のお働きを目のあたりにお示し下されたものかと拝察される。この頃の教祖は、この後に勃発する助造のことに関しては一言もお触れにならず、10月20日頃までお過ごしになられていた。

【助造事件】

 この頃早くも異端が発生しており、この時に見せた教祖の対応の様が興味深い。日頃「ほこりはよけて通りや」とのお諭しされているのに似合わず峻厳であった様が伝えられている。これを見ておくことにする。見方によれば、かかる創草の時代に早くも異端が現れたということは、それ程有力な存在になっていたことを裏書きするものとも云える。大和神社の節を越えて未だ一年もならぬうちに、早くもそれ程の伸展を示していた様が窺える。

 この頃「お道」は早くも東山間部にある福住村一体に広まり、続々お屋敷に参詣するものがあった。その中に針カ別所村に助造という者がおり、彼は教祖に眼病をお助け頂いてから熱心な信者になっていた。助造はお屋敷に参詣を続けていたが、急にお屋敷に来なくなったと思っていると、神仏混交的な本地垂迹(ほんちすいじゃく)説(仏、菩薩が、その本地に直接近づくことのできない衆生を済度する為に、仮に神として身を現わすという理論)を真似て、天理王命の本地は針カ別所で、庄屋敷はその垂跡であるなどと唱え始めていた。遂には、助造自ら指図を始めたり、元なる屋敷なる理の故にお出し下さる許し物等も自分の所で渡すなどと信者を惑わし、自家に引き寄せる画策をし始めた。これが「お道」最初の異端となった。

 10月20日過ぎ、教祖が俄かに針カ別所に出張る旨仰せ出された。こう仰せ出されると、いささかの余裕もなくその日の中に出発となった。当時教祖は68才というご老体であり、而も30日の断食の直後である。それを四里の山路を徒歩で、その日の夜9時頃に針カ別所字岡田恒内の旅宿すみ屋(福井栄三郎経営)に着かれた。同家では長男半平の妻やいが、愛想良くみきの接待をしたと伝えられている。この時お供した人々は、飯降伊蔵、山中忠七、西田伊三郎、岡本重治郎で、当時の重だった方々が殆ど顔を揃えていることになる。この供揃えからみて事の重大な様子が充分に伺える。

 一行が針カ別所に到着したと聞くと、先方では天理王命の本地へみきがお越し下されたと勘違いでもしたものか、大いに喜んだと伝えられている。ところが、翌朝みきが、助造宅にある祀りものを「取り払うて来い」と厳然と仰せられたので、飯降伊蔵、山中忠七の両名は、早速先方へ乗り込んで礼拝の目標として祀られてあった御幣を引き抜いて、これをかまどの中へ折りくべて引き上げた。その由を教祖に報告し、「これまでにしておけばもう帰ったらどうやろう」と話し合っていると、教祖は「いぬのやない」と仰せになられた。礼拝の目標を取り払うことができたのであるから役目果たしたと思った供の者の意向に反して、教祖は寧ろこれから事件の始まることを予見していたのである。

 この後の事を、「翁より聞きし咄(はなし)」が次のように記している。

 「先方には大いに怒り、急に戻りてもらえんと申すなり。そうして岡本重治郎には山澤良治郎を呼びに帰れり。先方の意気込みは、庄屋敷へは帰さぬ。奈良へ直ぐに送ると云えり。先方はその時早不動院の部属なれば、奈良より不動院を迎えて談判せんとせり。金剛院は乗物に乗りて来る」。

 助造側は案の定カンカンに怒り、「このままでは断じて帰すことはできん。帰すなら庄屋敷へではなく、奈良の監獄へ帰す」と息巻き始めた。助造方には一つの策があり、兼ねてより認可を得ずして人を集めることの不利を知って、既に奈良の金剛院と誼みを通じて、その部属の講社として事を進めていた。助造側は早速金剛院に連絡し、これを迎えて、その後ろ盾によって教祖方を圧伏しようと図った。これを聞いた供の者も、「断じて帰らず、白黒の決着を着けるべし」と応戦した。ところが、教祖の方は全くの無策だった。早々と金剛院の住職が乗り物に乗って威風堂々針カ別所に乗り込んでくると伝えられた。これを聞いた供の者は、教祖の理の絶対なることを信じるものの、人間思案のこととして何か対応策を施す必要を感じた。一同の心に浮かんだのは守屋筑前守であった。過日、教祖を訪れて、唯一度の面接で教祖の説く教理の尊さを知り、「私も何かの力に成りましょう」と、力強い言葉を残して帰っていった神職取締役を任ぜられているその人であった。「守屋筑前守に頼んで来てもらったらどうだろう」、「あの人なら金剛院よりは上やろう」、「けれども、かような事でわざわざこんな所まで来てくれるやろか」、「筑前守の奥さんは山沢から行っているということやから、山沢さんから頼み来んでみたら聞いてくれるやろう」、「この間は、きっと力になりますと云うて居ったやないか」。相談は一決して、「お道」側は大和一国の神職取締り役である守屋筑前守に後ろ盾を頼むこととなった。岡本重治郎が使者として山を下り山沢良治郎(良助のこと)に急を伝えた。程なく山沢良治郎が守屋筑前守の代理であるとの触れ込みで遣ってきた。都合で守屋筑前守は来ることができなかったが、代理という名目で山沢良治郎が乗り込むことは了解したものと思われる。

 こうして事はますます大きくなって来た。先方は奈良の金剛院、当方は吉田神祇管領家によって許された大和一国の神職取締り役である守屋筑前守の代理という後ろ盾によって、ここで問題を一気に解決しようとの緊迫した空気が針カ別所の山村をおおった。こうした態勢の整う迄に、二、三日の日数が経過した。そして愈々信仰対決の場が設けられることとなった。面と向かいあうこととなるや、教祖は、後ろ盾の権威なぞ一向に問題とせず、自ら詢々として「お道」の「お諭し」をお説き下された。その理の前には金剛院の住職も助造も歯が立たなかった。とはいえ、慾と高慢に固まっており、又、事が針カ別所の死活問題であっただけに、なかなか素直にお言葉を受けることができなかったとみえ、この談判は3日かかったと云われている。けれども3日にわたって倦むことを知らず諄々としてお聞かせ頂くうちに、さすがに金剛院は最早反抗することのできない尊い理の力を感じることとなった。殊に助造にとっては、元々助からない重患の身をお助け頂いた親である。じっとお話しを聞かせて頂くうちにその助けられた日の喜びの様までが心に蘇ってくる。そして、この親に背き、慾と高慢から、尊いぢばの理を歪曲した罪の恐ろしさと申し訳なさにじっとしていられない心地になった。突然助造は、教祖の前にひれ伏して前非をお詫びした。そして心の底から今後共に神名を唱えることだけはお許し頂きたいとお願いし許された。こうして、前後一週間の日数を要したが遂に事件は完全に落着した。一行が山をおりる際には、土産として、天保銭で一貫目、くぬき炭一駄と、鋳物の燈籠一対あったもののうち、その片一方とを人足を雇い入れて送り届けてきた。

(私論.私見)

 常々「ほこりはよけて通りや」とお諭しになり、理不尽な乱暴ものが来ても、おだやかにお見過ごしになっていた教祖であったが、この事件に対して臨まれた教祖には嘗ってない峻厳さが拝される。思うに、理を歪曲する事に対しては寸毫も容赦できぬことを明白にお示し下されたお態度かと拝察される。教祖の理に照らされて、異端は完全に平伏され、理の前には人間の小才や謀略は全く無力である事が明らかにされた。この一行に加わった人々も、今更のごとく教祖の尊さと、元の屋敷の理を強く心に焼きつけたことと察せられる、こうして、異端の出現という暗い影のさす出来事も、却ってぢば一つの理を顕揚される「活き節」となった。この事件は、大勢が加わった論争であっただけに、そのうわさは忽ち四囲に伝わり、「やっぱり庄屋敷の神さんは偉いものや」という評判を生み、教勢は愈々伸展する一方となった。

 「助造事件」が天理教最初の造反事件となっている。「助造」とは今井新治郎のことで天輪王教会を立教している。今井新治郎は、1891(明治24)年1.24日、出直し(享年61歳)。なお、1866(慶応2)年、今井新治郎の弟の今井惣治郎が転輪王教会を再立教させている。現在、奈良市に活動の拠点を置いているが積極的な布教はしていない。「針ケ別所村史」には今井真治郎の名で語られ、1831(天保2)年生まれとある。新治郎は助造の息子との説もある。

【信仰の拡がりと反対】

 お屋敷うちに慶事を頂いたとはいえ、助造事件の様な内からの異端者の出現に続いて、外からの迫害も次々と起こってきた。教理では、次のように説く。

 「いつの時代においても、既得の権威の殻に閉じこもって、移りゆく時代の足音にも耳を傾けようとしない頑迷な輩は数多くいる。彼らは唯伝統を保持し、小さな己を守るに汲々として、新しいものに目を開く心の弾力に欠けている。従って如何に素晴らしいものが眼前に現れても、それを受け入れる素直さの無い事は言うまでもなく、その良さを判断しようさえしない。相手が素晴らしいものであればある程、却ってこれを妬み、反対し妨害を為そうと企むばかりである。自然、彼らの行動は常軌を逸した乱暴狼藉に終わるのである。お道は幾度となくこうした理不尽な乱暴狼藉に見舞われてきた。しかし、常にそれは朝日の前に照らしだされる塵埃の類の様なものに過ぎなかった」。

 慶応2年の秋にも不動院の山伏が乱入して、暴行のかぎりを極めた事件が起こっている。不動院というのは、大和平野の西北の隅、生駒山脈の麓の小泉村にあって、おぢばより直線にて三里余の地点にある。今では荒れ果てた小さな堂宇を留めているに過ぎないが、維新前は山伏寺で、真言宗松尾寺(現大和郡山市山田町)へ上る修験者の取締りをしており、一々ここに挨拶をしなければ登山することのできない定めになっていた。その特権を笠に相当な権勢を振るっていたものの様である。伝統と特権を誇り、それに頼って徒食している者にとっては、新しく起こってくる勢力は唯目障りとなり、邪魔ものと感じるだけで、正しくこれを眺めて見る心の余裕などは微塵もない。その連中には、近頃頓に高まってくる庄屋敷の生き神様の名声がどうしても黙視することができなかった。自分たちが次第に落ち目に成っていく時であるだけに、唯嫉ましいだけでなく、自分たちの権威をないがしろにされているような、言いようのない腹立たしさを感じ、ひと思いに説破するつもりで乗り込んできた。こんな権幕でどやどやと押しかけたのであるから、その様子を一目見た時から唯ならぬ気配を感じたに相違ない。教祖に万一の事があっては大変だから、できることなら教祖に合わせずに追い返したい。これが居合わせた信仰者の心に湧いた同じ思いであろう。けれども勢い込んだ闖入者逹は、人々の制止ぐらいで止まる訳はない。つかつかと教祖の御座所近くへ進み寄った。教祖は常に変わらぬ姿で、上段の間に端座されている。その神々しいお姿に接した時、さすがに直ちに暴言を吐いたり、乱暴を働くことができなかったとみえ、一時はその場に座ったが、早速に次々と難問を発した。教祖は始終微笑さえたたえられながら一々これに明答を与えられた。この時の教祖のお言葉が概要さえ伝えられていないことは残念の極みである。この時教祖は、親が子に諭すかの如く微笑さえたたえて優しく同時に鮮やかな受け答えを為したようである。山伏たちは忽ち理に詰まり、言葉に窮して了った、と伝えられている。教祖の温容に比して、何とか優勢を保ちたいと焦れば焦る程どうにもならない窮地に追い込まれて行く感じで翻弄されている様であった、と伝えられている。これでは勢い込んでやってきた面子も丸つぶれである。窮しきった者は自暴になり、捨鉢となったら何をやり出すかわからない。彼らは矢庭に立ち上がって、座側にあった刀を抜くなり、太鼓を二つまで突き破った。更に提灯を切り落し、障子を切り破る等、さすがに教祖には一指も触れることはできなかったが、辺り構わず乱暴のかぎりを尽くして立ち去った。教祖は、その間も静かにその様子を見守りながら、止めだてするでもなく泰然自若とされていた。その行為は、仮りにも信仰者としての道を歩む立場の者の為す所業としてみれば実に浅ましく嘆かわしい仕業であったであろう。この逸話が次のように知るされている。

 闖入者はそれでも腹の虫が治まらなかったのか、その足で南西二里にある大豆越村の山中忠七宅に乗り込んだ。当時山中忠七は、教祖から頂いた扇の伺いによって、熱心に神意の取次もするし、又その宅には度々教祖もお越し下される事もあって、あたかも「助け一条の出張所」の様な観もあり、ここを中心に付近の信者たちの参集もあった様に思われる。そんなことで、最も有力な信者と見做されてのことと思われるが忠七宅が襲われることとなった。突然暴れ込んだ者逹は、いきなり礼拝の目標となっていた御幣を引き抜きそれを制止しようとした忠七の頭を叩き、散々に狼藉を働いた。

 剰(あまつさ)え、そのまま小泉には帰らないで、奈良南郊にある大和国中の藤堂藩の所領の治安や行政を管轄していた古市代官所を訪れ、ある事ない事を悪し様に訴え厳重な取締り方を要請した。彼らの云い分は、教祖がこれまでに聞いたことのない神名を唱え、百姓たちに妄説を振り撒き、為に伝統と権威を誇る自分たちの信仰が妨害されており、遂には信者が横取りされるに至っているということでもあったであろう。これが為、代官所としても捨てておく訳にも行かず、一度庄屋敷をも取り調べなければならないであろうということになり、監視の目が注がれるようになってきた。

 こうして、教祖の教えに対する妨害、迫害はこの後も延々と続くことになり、明治になってからは、より強力な新政府の官辺からの干渉、圧迫へとつながっていくことになる。しかし、教祖の元に群がり始めた信徒の信仰の方も、こうした迫害を一つの節として、節目に会うごとに却って一層強固なものへと発展を遂げていくことになった。立教からこの時まで28年、我が身、我が家の持てるもの全てを施し続けた「助け一条」の道程は、をびや許し、身上助けに現わされた親神の不思議な働きを露わにすることによって世界一列助けの力強い伸展への胎動を始めたのである。ここに至って親神は漸く人々の心の育ち方を見澄まされ、更に一歩進めていよいよ「だめの教え」の理を人々の眼前に確立して見せようとされ始めたのである。


【こかん名義の裁許状を取り上げられる】
 守屋筑前守に、こかん名義の営業許可裁許状が取り上げられている。これより2年後の慶応3年、守屋筑前守の斡旋で秀司が改めて京都の神祇管領の免許を取っている。営業権が秀司に移ったことになる。

【御請書】
 「天理教管長家、古文書)」(復元32号昭和32年刊)P327)。
 御 請 書
  一 太鼓 壹 / 一、鈴 壹 / 一、拍子木 七丁 / 一、手拍子 壹 / 一、す ず 壹 右之品、御取上ケニ相成候処、格別之以御勘辨ヲ御用捨被成下候段、重々難有仕合奉存候、仍而ハ已末前顕鳴物ノ品々ヲ 以天龍王命様と申唱へ、馬鹿踊と称し、家業疎ニ致し侯様成儀決而仕間敷、勿論私家内天龍王命様ト名付神ヲ祭り人々参詣為致候儀モ奉恐入、是又急度御糺しも可有之處何分百姓之身分故、百姓家業専一ニ相厭余業毛頭仕間敷数候、萬一、向後心得違仕僕ハ、如何躰之儀被仰下候共、其時一言之申分無御座候、仍而御 請書差上申候如件。

 山邊郡庄屋敷村百姓善右衛門 慶応元巳年十一月十一日 市磯相模守様

【染物予言】
 この年の或る日、教祖が、「明朝、染物をせよ」、「井戸水を汲み置け」と仰せになられ、こかんが染物の用意をしていると、その日の夜、山中忠七の妻そのが、翌朝の未明に起きて泥や布地を背負って、お屋敷へやって来た。教祖は、「ああそうか、不思議な事やな。夕べ、こかんと話をしていたところやった」と仰せになられた。染物はお屋敷の井戸水で染められた。教祖が汲み置きしていた金気水(かなけみず)の井戸水を使って、布に泥土を塗り、水に浸しては乾かすことを二、三回繰り返すと、綺麗なビンロード色(暗黒色)に染まった。

 (道人の教勢、動勢)
 「1865(慶応元)年の信者たち」は次の通りである。
 山澤良治郎()
 1865(慶応元)年、山澤良治郎()が助造事件を機縁に入信。山澤は、守屋神社の神主である守屋筑前守の従兄弟であった。
 前田藤助、タツ()
 1865(慶応元)年、安立村(大阪市住之江区安立)に「種市」(たねいち)という屋号で花の種を売って歩く前田藤助、タツ夫婦が居た。次々と子供ができていたところへ、この年またしても子供を身ごもった。子供を堕(お)ろしてくれる神様を探して大和に来たタツは、不思議な導きでお屋敷へ参り、教祖にお目通りすると、教祖は次のように仰せ下された。
 「あんたは種市さんや。あんたは種を蒔(ま)くのやで。種を蒔くというのは、あちこち歩いて天理王の話をして廻るのやで。子供はおろしてはならんで。今年生まれる子は、男や。あんたの家の跡取りや」。

 前田夫婦は子供を堕ろすことを思い止まり、それからの夫婦は二人で「種市」商いしながら親神様の話を人々に伝えた。病人があると、二人の内の一人がおぢばへ帰ってお願いをすると、どんな病人も次々と助かった。後日談は次の通り。慶応元年に生まれた御子は藤次郎と名付けられ、教祖の予言通り前田家を継ぐ。藤助夫婦の匂い掛けで、芦津初代の井筒梅耳漏中川文吾が居る。

【この頃の逸話】


 (当時の国内社会事情)
 1865(慶応元)年、2.2日、高杉晋作、長州藩の実権を握る。2.4日、天狗党、処刑される。3.10日、新選組、西本願寺に屯所を移す。3.12日、幕府は神戸海軍操練所を閉鎖。3.18日、海軍操練所が正式に廃止された。これは、同所が「激生の巣窟に似たるを以って嫌疑を蒙りしなり」であった。3.22日、五代友厚ら、イギリス留学に出航。 
 4.19日、長州藩が倒幕に一変したことで、幕府は第二次長州征伐を命じる。
 5.1日、坂本竜馬が西郷隆盛に伴われ薩摩に入国をはたす。この頃坂本竜馬が、長崎に亀山社中を結成。長崎の豪商小曽根家の援助があった。小松帯刀の紹介で武器商人グラバーと知り合い取引に入る。反幕諸藩のために武器・軍艦購入の斡旋を始める。閏5.6日、坂本竜馬、下関で桂小五郎と会談し、薩長和解を説く。
 閏5.11日、土佐で入牢中の武知瑞山切腹。岡田似蔵は打ち首。
 8.26日、武器・軍艦購入のため長崎を訪れた長州藩井上聞多、伊藤俊輔ら亀山社中の人力で、イギリスより700挺の洋式銃を購入。
 10月、坂本竜馬・高杉晋作が下関(馬韓)で密談。この年、龍馬は薩長和解のために奔走した。
 長崎大浦天主堂成る。福沢諭吉が『唐人往来』執筆。

 (宗教界の動き)
 1865(慶応元)年、(金光教関連)斎藤重右衛門、高橋富枝が白川家から神拝 式許状を受ける。

 (当時の対外事情)
 1865(慶応元)年、閏5.18日、イギリス公使にパークス着任。

 (当時の海外事情)
 メンデルが遺伝の法則を発見。リンカーンがフォード劇場で暗殺される。
 1865(慶応元)年、アメリカの南北戦争終る。リンカーン大統領が暗殺される。





(私論.私見)