第68部 この頃の講元の動きと説法

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).8.20日

 (れんだいこのショートメッセージ)
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 2007.11.30日 れんだいこ拝


【「天輪王明誠講社」の動き】
 「天輪王明誠講社」の動きを見ておく。「天輪王明誠社百年史」(昭和59.1月発行、若林勝美著)を下敷きにした「櫟本分署跡参考館」の「教組伝資料」、早田一郎「京都から滋賀へ、そして全国へ」その他を参照する。

 京都に天理教が伝わったのは明治のごく初期。伏見や七條あたりに信仰者がいたという。しかし、現在につながる京都の信仰は奥六兵衛の入信をもって始まる。奥六兵衛は西陣織物業問屋を営む大家に生まれ、学識も深く育った。28歳の時、分家に当たる河内古市村の奥野家に預けられた。奥野家は農を営む土地の名望家であった。親戚に山本利三郎が居り、明治6年頃に当主奥野伊重郎が匂い掛けされているようである。明治11年に教組みきと引き逢わされており人道講社の講元となっている。明治14年には赤衣及び御飯茶碗を頂いている。

 1876(明治9)年、奥六兵衛は、奥野家に寄寓中、出入りする山本利三郎が奥野家の次女つるの病気を、神の話を取り次いで助けたのを目の当たりにして感じ入り、これを機に道に就く心を定めた。山本利三郎の手引きで大和の庄屋敷村に参り、教組みきの手づからの仕込を受けた。その後京都に戻り、ここから奥の伝道が始まる。奥六兵衛は陰陽道や心学にも精通しており、教祖の御教えをそれらの教えの力も借りて分かり易く説いた。奥を師と仰ぐ人が次第に増えていった。明治10年代初期、天理教史上では最初期の京都における布教活動であった。

 1881(明治14)年、奥を中心に天輪王明誠社が京都に結成され発展していった。有力信者として松谷喜三郎、中野政次郎、深谷源次郎(後の天理教河原町大教会初代会長)、宇野善助(後の天理教越乃国大教会初代会長)等がいた。明治11年に月次際(つきなみさい)を執行するようになっている。京都明誠社は、明治15年から17年頃にかけて教線を伸ばしていく。

 この頃の布教の様子が次のように伝えられている。
 「『源さん、不思議な信仰がある。歌をうたって踊りをおどって、それぞれ病人が助かり、困っている者も救われるという信仰や。まことに陽気な神様やで。お前も信仰せんか』。かく信者の匂い掛けの様子が伝えられている。その頃、天輪王明誠講社の発足前後で、毎夜のように立ちつとめの稽古が行われて、老若男女大勢の信者が日の丸の扇子を両手に、陽気手踊りをつとめていた。それが済むと、講元奥六兵衛が説教することになっていたが、六兵衛の巧みな話術、さわやかな弁舌と流れるような口調に聴く者誰もが感銘した。落ち着いた態度で、諄々と理の深い天理王命の親意を説くので、少しでも信仰心のあるものは吸い込まれるように惹きつけられていった。奥六兵衛の説教で、初めて聞く『元始まりの話』を一語も洩らさじと傾聴した善助は、あたかも朝日に淡雪が溶けるが如く不思議に心の解ける思いがした。日頃から神仏の説教は聞き尽くしているが、この世の始まりのこと、人間の生まれてきた目的のこと、これこそわしが年来求めていた根本の話しじゃ。この神様を充分信心して合点の行くまで教えて貰いたい、と翌日には実印を持参して明誠講社に加盟したのである」。
 「そして講元奥六兵衛から『奉修天輪王命』のお札と『京都明誠社』の焼印を押した木札の裏に、下京区第5組8百屋町周旋、宇野善助と記入したものを受けて、深谷源治郎方に行き、『源さん、昨晩はお陰で結構な話を聴かせてもろて心が浮々して来た。これで家内も私も助かった、有りがたい事や』」と礼を言った。『そうかい、それは好かった、わしも入って一ヶ月になるが、聴けば聴くほど結構な神様や。かねがねわしは子のないのが不足でいたが、天輪さんの話を聴くと、沢山の人を助けたらそれが皆な自分の子になる。これを理の子と云うそうや。この理の子供が授かったら産みの子以上やと聞いて、わしも楽しみになった』。源治郎の顔も生き生きと明るかった。後年の河原町大協会を創始した深谷源次郎と越乃国大教会初代の宇野善助の若き日を伝える語り草である」。
 1884(明治17)年3月、天輪王信仰に対する官憲の激しい圧迫に対する応法の道が論議されるようになり、一時公認の教派に身を寄せる方便について意見が分かれ、明誠社は分裂を余儀なくされる。奥らは官憲による取り締まりや社会的な排撃から逃れるため教派神道の神習教に接近を図った。これに反発した深谷、宇野グループが「斯道会」を発足させる。

 神習教傘下に入った明誠社は教勢をのばし、東京、横浜、川崎、千葉方面へと道が広まり明治20年代には関係教会は20か所にのぼった。奥は一貫して京都府相楽郡において布教活動を行い、中山みきの教えを広める。1892年に記した「十二段神楽歌」は天理教の「みかぐらうた」とほぼ同様の内容であった。明誠社は天理教とは次第に疎遠となり、明治20年を過ぎる頃から明誠社の影がおじばから薄れていくことになる。ただし、1933(昭和8)年の若林神風の参拝以降、明誠社信者が奈良県天理市の「ぢば」へも公然と参拝している。
 1940(昭和15)年、宗教団体法が施行されると、明誠社は主祭神について神習教と対立するようになる。京都の教会本部は独立し、宗教結社明誠本部となった。東京の教会東本部は神習教に残留し分裂した。独立後の教会本部は若林神風が率い、終戦後の1953(昭和28)年には川崎市を本部として宗教法人明誠社を設立し管長となった。幾度かの名称変更を経て現名称となり、横浜市に本部を置いている。 現在も教祖を中山みきとし、「みかぐらうた」を儀式に用いている。
 1963(昭和38)年8.26日、若林神風を初代管長として「宗教法人明誠教団」の認証を受け一派独立を為している。1983(昭和58)年2.6日の本部役員会議で、明誠草創の精神に則り、元に復する意味を以って「明誠教団」の上に「天輪王」の神名を冠して「天輪王明誠教団」と改称することを決定し、文化庁及び神奈川県に申請し、9.26日に認証され今日に至っている。

【「斯道会」の動き】
 明治17.3月、明誠社の講元の奥らは官憲による取り締まりや社会的な排撃から逃れるため教派神道の神習教に接近を図った。これに反発した深谷、宇野グループが「斯道会」(講元・深谷源次郎)を発足させる。京都の中心部に拠点を置いた斯道会は発展し、京都のみならず滋賀県湖西地方、北陸若狭方面、さらに全国の至る所に伸び広がっていく。

 現在、河原町大教会から直接または間接に分離した大教会が35カ所ある。河原町の信仰が滋賀県に入って、さらに各地へ大きく伸展したからである。滋賀県には大教会が6カ所ある。その全てが京都(河原町大教会)を経た伝道で、しかも宇治田原という小さなお茶の産地を経由しての伝道である。滋賀県内6カ所の大教会の教勢が各地に伸び大教会になった所が20カ所ある。滋賀県の6と合わせると26カ所にもなる。26の大教会に所属する教会合計は2633(立教175 年4月)である。滋賀発の遠隔地伝道が特徴になっている。滋賀から遠く離れた所に信仰が根付いた例がかなりある。例えば、栃木県日光、福岡県直方、秋田県角館、同阿仁、同六郷、埼玉県秩父、青森県小南部、北海道網走などがある。あたかも「近江商人」の如くである。近江商人が地元である滋賀と商売をする出先とを行き来するように滋賀の布教師が遠方に適当な布教地を定め、そこで大きな成果を生み出したケースが見られる。

 福岡の筑紫大教会の端緒は湖東地方の蚊帳売り商人/堤丑松が明治24年、直方におもむいたときのお助けである。堤は病気の子どもを助けたが商売人なのでやがて滋賀へ戻る。その後、不思議な神様の教えを求めて福原惣太郎らが福岡県から滋賀県湖東支教会へ参拝し、さらに京都の河原町分教会、おぢばへと足を運んで信仰を固め、筑紫をはじめ西海、朝倉、鎮西などの大教会へ発展する。同じく湖東地方の近江商人/速水久治良は入信すると明治23年、遠く栃木県へ布教に出ている。速水は地元で農業と商売をてがけ、栃木県間々田では雑貨の店を持っていた。速水は間々田での布教を人に任せ自らは日光に出た。日光、都賀、中根、那美岐の各大教会はここから始まる。滋賀県の草津線鉄道敷設工事に静岡から来ていた鈴木半次郎は甲賀谷に住む水口系布教師から匂いをかけられ明治22年入信。おぢばに参拝し、信仰の息吹に触れた。工事が終わり帰郷すると積極的にお助けを始めた。これが後の嶽東大教会の始まりである。この嶽東から佐野原、秦野、沼津の大教会ができ、青森県小南部大教会、北海道網走大教会へと道を伸ばす。ほかにも滋賀県を経て遠方へ伝わった信仰がある。甲賀大教会から伸びた秩父大教会、鈴鹿の山々を超えて伝わった岐美大教会と東濃大教会。湖東大教会からも遠く秋田県阿仁へ伝わり、県内にかなりの教会ができた。この伝道史実はみな明治期のことである。

 立教175年4月現在、滋賀県内教会総数は230である。大教会が6カ所もあるにしては多くない。近畿では最も少ない。これは、大教会をはじめ有力な教会が部内教会を県外(遠方)にたくさん持っていることに関係していると思われる。
 斯道会(河原町大教会系)

 斯道会の河原町大教会の直轄は9の大教会と1つの分教会で構成されている。これを図示する。
湖東 筑紫、名古屋、北洋、朝倉、西海、鎮西。
甲賀 日光、蒲生、日野、秩父、岐美、中野、都賀、那美岐、中根、東濃。
水口 嶽東、佐野原、小南部、沼津、網走、秦野。
越乃国 本島、鹿島、京城、東中央。
西陣
山国
大垣
亀岡
大原
10 崇文
 合計38教会。




(私論.私見)