
更新日/2023(平成31.5.1栄和改元/栄和5)年.3.29日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、天理教最大分立教派となった「ほんみち」を考察することにする。やっとここまでたどり着いた気がする。
2007.12.5日 れんだいこ拝 |



(私論.私見)
「カリスマの継承からみた天理教系教団の分派形成 : 場所の宗教と天啓者の宗教」
近代社会の成立期 (19世紀末~20旺紀初顕,以段幕末維新期)に生まれてきた如来,黒住,金光,天理 といった諸教団は,封建社会末期に生きる抑圧された民衆の切実な顧し刈こ応えようとする新しい宗教運動 であったが,これらの新宗教には,教祖を中心とした宗教活動や,新しい世界観の提示を始めとする幾多 の共通性がみられる(対馬ほか, 1975). なかでも天{ffl.教は,第二次世界大戦後まで、最大の教勢をもっ新宗 教教屈として,近代以降の新宗教教団に大きな景怨iを与えてきた(島菌・弓U-l, 1990). I靖子文期の天理教は 主として,社会・経済的に弱者にあった階層の人々の信仰を集めており,既成の宗教に救いが得られな かった人々が,病気治しなどの道接的な御利益を契機にして,天理教の信仰に救いを求めていった.この ように幕末維新期の新宗教は,エリートの宗教において解決されないような宗教的課題を担い,民衆に対 して新しい世界観をi鶏示した(荒木, 1987) が,この民衆宗教性こそがこの時期の新宗教の特徴であった 荒木 (1985) は民衆宗教がもっ特徴として次の2点を指t高している.第一点は,民衆宗教には民衆 とともに苦悩を味わい その体験を通じて民衆救済者となった宗教的指導者=教祖とその教祖を中心 とする聖者崇拝,生神思想とも言うべき教祖に対ーする信仰が存在することである.亙女, シャーマ 56 ン,修験者などのように人を神に柁る習俗は日本の宗教史の中でしばしば顕れてくる宗教現象であ る.天理教祖・中iJJみきが諾ったネIjJの言葉は既存のシャーマニズムの枠組の仁1=1 から生起してきたもの ではあったが,みきの宗教活動の展開と共にそれまでの枠の仁IJにはま 1)1 まりきれない新しい宗教的志向 性を有したものであった.みきの宗教活動が後に厳しい弾圧を受けるようになるのも,この宗教的I:WJ i現世;カ f当時の社会の告別直Mi!を百 Lすものとなったことに起因している. この~I三千1111めなぎ文京1~1 に対する信仰 こそは,幕末維新Wj における民衆宗教の特徴である. 第二点は,民衆を直援的に救済する救いの手段を持っていることである.救出の成立を考える上 で,強い直接性を含んだ救いの技術(それはしばしばi呪術・宗教I:I~なもの)を持ち,聖なるものとの 具体的交流をII}能とすることによって当時の民衆のニーズに応えることができたという点を見逃すこ とはできない.天理教の「をびゃ許LJ (安産儀礼)や各種の「さづけJ(千 111 意取次)といった民衆に 対ーする救済技術は,天理教団が成立してくる上で、不可欠のものであったと考えられ,民衆宗教の持つ 宗教性の重要な要素であると言える.教屈の最初期の活動においては特に,これらの救済技術と民衆 の接触は重要なものであり,これらの救済技術の実践を通して信者の獲得もなされてきたのである. このような生神的な教祖の存在と直義的な救済技術の実践は,教i王i存立において重要な要素である が,それだけにカリスマである教祖が死を迎えたとき 教団には深刻な事態が生じる.わけでも分派 教団の成立は教内に大きな動揺をもたらすと考えられる.天理教の場合 大西愛話可mによる天理本道 (もと天理研究会,現ほんみち)の分派は,教内に特に大きな動揺をもたらした(弓 LLJ ,] 9913 ; 1991b) .本稿ではこの大Tt 互による天理本道の!?司教の持つ意味を,場所のリアリティーという視点から 解釈したい.すなわち民衆宗教としての天理教が教祖の死後,場所のリアリティー創出に教団存立の 根源を求めていった理由を検討し,その聖地の形成過程において分派手文田がii¥3l した状況を考えていく 幕末維新期の民衆宗教に関する研究は,宗教学,社会学,民俗学,史学などの様々な立場から蓄積 がみられるが,地理学の貢献はこれら諸学と比して相対的に小さいといわざるを得ない1) 本稿では まずE章において, I~:] iJ Jみきの宗教体験および宗教活動から教祖カリスマの成立過程を検討する.次 いで田章では,天理教の布教師であった大西愛治郎が分派教団を結成するに至った経緯を,当時の天 理教が直面していた状況と大西のもつ宗教性の商から検討し lV章で、大西以降の天理教系教白の成立 をカリスマの継承形態から考察する.最後にV章でこれら分派教団の成立理由を「場所の宗教J と 「天啓者の宗教」とし3う視点から整理する. E 中山みきと天理教の成立 lI-l 中山みきの宗教体験 1 )神怒り以前のみき 本節では,教団編纂による「天理教教祖伝J (以下 F教祖伝J) および『天理教教祖伝逸話編J (以 下『逸話編J) 2) を手がかりに,中iJJみきが宗教体験を経たのち 教祖になる過程をみていく. みきは1798 (寛政 10) 年4月18B,大和国山辺郡三味田村(現天理市)に生まれた.生家は名字帯 刀を許された庄屋であり, 9才から11才にかけて近所の寺子屋に通って読み書きを修得するなど,比 57 較的裕福な暮らしをしていたものと推測される.多くの宗教の教祖伝に共通する現象であるが,小さ い頃から素直で、聞き分けがよく,働き者で,親孝行であり,lR~1珂にして器;:1=1な人物であり,他人には 寛大な心の持ち主としてみきは拙かれている (u教祖伝d) p.p.1 1-13). みきが当時の農民階層の中で は上位に位置し,勤勉・親孝行・寛大といった世俗の倫理観に合致する女性で、あったことは u教祖 {云」の記述にも繰り返し強調されている. みきはJ3J設で庄屋の仁!こlU-l家に嫁いだが J 千二 JUJ 家は村内でも屈指の家柄であった)巽家の嫁として, 主婦としてのみきの忠勤ぶりを示す誌は枚挙にいとまがなし¥3) 小架(1969) の指摘を待つまでもな く,ここから看取される封建社会に生きる女性の苦悩は察するに余りがある.神懸かりの以前にみき は6人の子どもをもうけ, うち 2人をすぐに亡くしていたカf さらに追い打ちを在れするように1837 (天保 8)年に,長男の秀司が突然左足に痛みを訴えた.病状は一進一退を続けていたが,やがて左 足が動かなくならんばかりの重い病となる.以後中iJJ家では秀司の回復を祈願するために当時として は最高の治病手段で、あった寄加持を繰り返して行うことになったが,みきはこの寄加持の最中に神懸 かったのである. 以上ネ111 懸かりの体験をする以前のみきの状況をみてきたが ここでj主自すべきは みきが当時の民 衆にあってはむしろ社会的・経済的に恵まれた;環境に生まれ育ったという点である.庄屋の家に生ま れ,庄屋の家に嫁いだみきは,まわりの農民たちと比べればかなり安定した生活が保証されていた. 篤信家の母に育てられたみさは信仰心も篤く,また世俗の倫理・道徳・秩序を重んじる女性で、あっ た. しかしこの世俗の価値観を体現することが 同時にみきにとって苦悩を深めることになった 『教祖伝Jから看取されるみきの姿は,世俗の人11J] として,そのかぎりを尽くして生きていこうとす る姿である.そしてある意味では世俗の人間として,社会的にも経済的にも充足が得られる境遇にい た.けれどもみきにとって,この既存の伝統的価値観の中での努力が幸福という形で報われることが いかほどあったであろうか.みきの宗教体験は,彼女の内面的極限状況が秀司の病気を機に,ネiド懸か りという形で昇華されてきたものであるとも解釈できょう.次ぎにみきの千IjJ,i吾、かりの様子からその宗 教体験の意味を考えてみたい. 2 )宗教体験の意味 当時の民衆の宗教的環境において,ネ111 懸かりという宗教現象自体はそれほど珍しい現象ではない. そういう意味ではみきにみられた神懸かIJ という現象も,民俗宗教の伝統との連続線上において考え ることはできる(島菌, 1977). しかしここではみきにおける神懸かり体験が持つ宗教的意味を問う 必要がある.そこでまず,みきに起きた神懸かり前後の状況からみていく. みきのネ111 懸かりの直接的な契機は,長男の病気治癒祈願の際に行われた寄加持である.中山家では 1837 (天保 8)年10月に長男が発病して以来,人事を尽くし当時の伝統に従って加持祈祷が行われた が,その成果は思わしくなかった.当時の治病儀礼の最終手段である寄加持が1年の間に9@も繰り 返し行われたが,長男の足痛は回復する気配もなく,ついには歩けない程までに病状は悪化した.こ の寄力IJ 持は経済的負担も大きく,いわば治療手段の切札と言えるものであった.時を向じくしてみき 自身も,産後のJj己立の悪化や心身の疲労,家事労働の重圧,相次ぐ子供達の不幸といった悪条件が重 58 なり,次第に憂翼手な暮らしを送ることを余儀なくされるようになり,中LL!家で-は長男のみならずみき のためにも寄1m持が繰り返されていたのである (/J~:q{t ] 969) .そうした状況下で, 1838 (天保 9) 年10 月23 日に行われた寄加持の際に,正規の力11持台が不在でその代理を務めたみきは,全く新しいネ 111 としての「賓のネIllJ r元のネIllJ の降i鼠を経l~fr~するのである.みきはそれまでの人々カ滑れ1たことのな いような神の名を唱え,力強し1言葉で新しい千111 の降謎:を述べたのである. みきの神懸かりの体験を考えるに当たって,この宗教体験をそれ以前のみきの生き方との連続性を 抜きにして考えることはできない u教祖伝Jに持iかれているみきの姿は,働き者であり,親孝行で あ/),素直で器量もよく,人の覚えもいい,寛容な心の持ち主であり,当時としては硲福な家に生ま れ,宗教心にも厚い女性であった.いわば当代の美徳,善なる1I!li1i査を兼備したような女性の姿で、あ る. しかし現実に彼女は不幸であった. しかもそれは彼女にとって,人間としての努力だけではどう にもならない絶望的なものであった.みきは当時の民衆にとっては,もはや望み得ないほどの世俗的 な資質を持って生まれてきたが,それでもみきは絶望的な状態にあったのである.みきは俗なる人11jj の生き方の範型であったといってもよい. しかしみきは救われなかったのである.みきはこのことを 常に自問していたに違いない.みきはこの神懸かりの後,実に10数年にわたって何の教えも説くこと なく自問自答を示売けているが, この自問自答の末にみきは.ut1谷の{iHi1直に依J処することを止め,新しい 人!日 jとして生きていく道を志向するのである. みきの神懸かりの体験の意味を考える際にこの!日い社会秩序・構造を破棄し,新しい人間・新し い世界の創造への転機となる体験として理解する必要がある.みきに降りたとされる神の言葉は次の ように伝えられている r:flとは元の千 IjJ. 賓の子IjJである.この屋敷にいんねんあり.このたび,世界一 れつをたすけるために天降った.みきをや11 のやしろに貰い受けたい(天理大学おやさと研究所編, 1979, p.l). J このネ Ijl は世間の人々が知らない,全くの未知なる神であった.そしてみき(に降りた 神)とまわりの人1101) との 3日間の問答によって この神が 人間の業ヤカによって支配することので きるような神ではなく,自己の存在の徹底的な変容を迫るネI!Jであることがま口らしめられるのである. みきにとってこの神との出会いが,自己の全存在を転倒させるような契機を与えた宗教体験であった ことを忠清ヰしておかなければならない. TI-2 宗教者中iJ_Jみき 1 )世俗的価値の廃棄 ネ111 の社となったみきが,救いをもたらす神様として人々の間に受け入れられるようになったのは, fをびゃ許しJがその直接的なきっかけである.これは1854 (安政元)年に梶本惣治郎のところへ嫁 いでいた三女おはるが妊娠した際に,みきがその腹に息を三度かけ,三度H震を撫でたところ,出産の 当日(lJ月 5El)産屋の壁がj訪れ落ちるほとJ の大地震があったにもかかわらず いとも楽々と男児を 出産したという{云承で、ある(If教祖伝.B, p.87). 以後この「をびゃ許しj を契機とし,みきに降りた ネIj1 の効能が民衆にとって開示されてくる. しかしみきが神かりをしてネ'11 の社となったのは1838年の ことであり,そのi習にはすでにJ6年もの歳月が経っている.この16~q三の歳月の!習のことは天理教の教 59 祖伝では「貧への落ちきりJ,r谷底への道J という形でまとめられている.この13寺代のみきは一人の 人間としての自分と,ネ111 の社としての自分という相矛盾するこつの人総がせめぎあうといった極めて 精神的に苦しい状況に泣かれていた. しかし神と人間との間に立ったこの16年{討の葛藤こそが,みき が教祖として天理教という独自の宗教伝統を開いていくためには重要な行為であった.みきによる 「貧への落ちきりJの様子は,次のように記されている(lf'教祖伝d1, p.24). J= 11 J 1:: 1のやしろとなられた教祖は, f:Jt千Ij lの思召のまにまに i貧に?持ち切れ」と,急込まれると共に,嫁入りの 寺の 1Tf j'物を初め,食物,着物,金銭に:flj るまで,次々と, 1諮って)古る人々に施された. •• .9'IJ 人IlIJを救けたい との親心から, C! ら歩んで、日[;J かる道のひながたを示し,物を存在して執着をされ(ま¥心にiり}るさが1. 1:. まれ,心 にi明るさがそ1:.まれると自ら陽気ぐらしへの道が 1m ける, と教えられた. ここでは r貧への落ち切り」こそが人間の助かる道であり,自らその範型となるべく行動したと 解釈できる. しかしこの時期のみきは,まだ白分に降りた神に対ーする絶対的宗教的確信を抱いていた 訳ではなく,自らも神の言葉と世俗の論理との!習で厳しい葛藤を繰り広げていた.みきは村内ーとも いわれた中山家の財産という財産を次々と近隣の人々に施し ついには家財道具に至るまでの施しを 敢行する.伝統的な社会的儲値観の中に生きている夫を始めとする親族の者たちは,みきの気が狂っ てしまったのではないだろうか,あるいは窓きものではないかと 旧来の文化的コンテクストの!ゃか ら可能な限りの解釈をし,その中でみきを従来の社会構造の中へ取り戻そうと最善の努力を尽くす. しかしみきに降りた神は出来の文化的コンテクストの中で理解できる神ではなかった. それを端的に示したのが rこの家形取り払え」という次なる神命である.村でも指折りの田地持 ちであり,庄屋まで勤めたみきの夫善兵衛にとっては先祖伝来の家を売り払うなど到底受け入れられ るものではない. しかし善兵衛がこれを拒否すると,神はみきに対して激しい肉体的苦難を与えると いう形でその意志の絶対さを示すことになる.この間にみきは20自問にもわたる絶食や,声も出ず, 耳も聞こえず, 13 も見えずとし寸限界状況に置かれ,神の言葉に従わないかぎりみきの苦難は決して 収まらなかったとされる.その11寺分にはみきは,すでに世間からは1I朝笑され,親族友人からも付き合 いを断られ孤立し,近隣の人々は中山家にすっかり寄り付かなくなってしまっていた. しかもみきに 降りた神が何らの宗教的効能も示さないとあっては,誰一人みきの言葉に耳を貸そうとしないのも当 然であった.この徹底した「貧への落ち切りJを志向する神の言葉を伝えることは,俗なる人間とし てのみきにとっては大変心苦しいことであったに違いない.みきはある時は池に またある時は井戸 に身投げをはかるという具合に,自殺を試みている. しかし結果的には,その度ごとに神の言葉に よって自殺を思い止まっている.この生死を賭した宗教的実践の末に,一人の人間としての中山みき の有り様は,次第に社会構造の周縁へと引き込むことを余儀なくされ,みきはj司縁的存在としての教 祖の地位を固めていくことになったのであるlf'.逸話篇』の1m に,「貧に落ち切れ,貧に落ち切らね ば,難儀なるものの味がわからん.水でも落ち切れば上がるようなものである.一粒万倍にして返す (lf'逸話編.!l, p.3) とあるが,社会的にも,経済的にも最低にまで落ち切ることによって,新たな救 いが生まれるという確信も,次第にみきの中に生まれてきているように思われる.実際に1850年代に 60 入るとみさは針師匠として生計をたてるようになり,この頃から人生に対ーする積極的な面も伺うこと ができる.ネ1]1 と人!1{j との!習の内面的緊張も弛んできたのだろう.みきは次第に新しい子IIJの台となった 宗教者としての自覚が鮮明になってくるのであり 1853 (嘉氷 6)年に夫が死去するのと期をーにし て, γにおいがけ」と呼ばれる布教伝道活動や「をびや許し」を初めとする宗教的活動を本格的に 行っていくのである1) 「貧への落ちきりJの過程がみきの信仰形成に果たした役割は,ネ1]1 ~怪かりという大きな宗教体験に 基づく生死を賭した宗教活動の一貰で、あるという視点、から;理解可能である.みきは,あらゆる世俗の luli1i 直を代表する諸々の物を捨て去ることによって社会の民縁に退き,そこに留まることによって構造 の外なる神と構造の内なる人間との!HJ に立って神と人!日]との11司を仲介したのである(荒木, 1987). みきにとって貧に落ち切ることは単に財産を失うことではなく それ以前のみきの在り方からの徹底 的なコンヴァージョンを象徴していた.Burricl伊(1979) の言葉を{昔りれば I貧への落ちきりj は みきがsomeone (人間としてのみき)から no one (教祖としてのみき)へと移行する過程であった. 当時の社会が有していた諸々の価値観はみきにおいて もはや何ら意味を持ち得なくなっていたので ある.この社会の構造から離れたところにみきが立ち,周縁i切な存在となり得たIl寺,みきは教祖とし ての具体的な宗教活動に入っていくことになる.そしてその営みとは構造の中にいる人間に対し,構 造の抑圧がもたらす苦難から人!習を解放することにあったと言えるのである 2 )呪術的カリスマの開示 みきが「貧への落ち切り」を通じて社会構造のj奇縁に位置し得た11 寺,みきはいよいよ新しい世界の 統合への一歩を踏みだすことになる.1853年の「においがけJ,翌1854ij三の「をびや計二 LJ の始めに よって,みきによる宗教活動は開始されたと言ってよいが5) この!呪術的カリスマの発揚をきっかけ にみきは新しい世界=聖なるコスモスを徐々に開示していく. みきによる救済の例の多くは病気治しに関するものである u教祖{云」及び『逸話篇』には多くの 事例が語られているが,字しを出させる話([1"逸話篇dJp.86) ,雨ごいのっとめ(u"教祖伝j p.263) 等 を捻くと大半が出産・病気を目的としたものである.これは当時の民衆が病気その他のi民民俗宗教 を土台とするシャーマニスティックな力1] 持祈祷などによる治療を日常的なものとして受け入れられて おり,みきに降りた神が人々の間に浸透していくためには 何よりもまず病気治しの力が求められた からでもあろう.またこれは実際に病気,そしてそれに連続する形で死の問題が人間にとって最大の 問題でもあったことに他ならない. 1854年に始めた「をびゃ許LJ は,親子I]Jの守護さえあれば安産が得られるというものであったが, やがて口伝えによってみきは安産の神様生神さまとして近隣の人々の知るところとなり,初産を前 にして心配している人や,産後の患いでj未に臥している人,お産の重いのを苦にしていた人々がみき のところへ不思議な救けを貰いにきたのであった (u教祖伝j p.4 3). Iをびゃ許LJ を得たものはJl夏 帯いらず,毒忌みいらず,党れ物いらず,身のけがれもなしとし寸具合にみきは当時の習俗・慣行 を打破し,安産を保証したのである.このように「をびゃ許LJには11ヨ来から人!1{J を縛ってきた諸々 のタブーを取り払うという意味もあった.この「をびゃ許しj の功験によって,みきに降りた神の効 61 力が民衆の1M] で次第に認められるようになり,みき自身が生子III として,人々の信仰を集めていくとこ ろとなったのである. みきのネIj1 は安産だけのネ111 で、はなかった rこの神様は,をびゃだけの神様でございますか.J と尋ね られて rそうゃない.万病救けるネIj1 やで、」とみきは答えている (11逸話篇.n p.p.1 69-172). みきは, 胃病・Jl旬痛・かいせん .13 良病を初め棟々な病気に対し 儀礼を施し人々を救けた.そしてみきの教え を信じたものには, また自ら救いの能力が与えられ,陽気ぐらしの実現とし寸宗教的理想世界のため に遡進すべき存在としての人間になる,という生まれ変わりの意識が芽生えてくるのである. 初期の天理教は,生神的な存在であったみきを中心とし その周りのみきによってお陰が得られて 信者となった人々によって構成されていたが,この当時の天理教の宗教的状況の特徴は,島菌も指摘 するようにカリスマの多元性にあった(島産i,1982). みきは最初期の熱心な弟子たちに,同様の宗 教活動を行うことを許している.霊能者はみき一人だけでなく,みきによって救けられた人々のなか にも,ネ111 の意志を直接伝え, I呪宇野を教え,寄跡を予言するという i呪術的カリスマを行使することがで きる者がいたのである.そして彼らの活動と共にみきの教えは広まっていったのであった. このみきによる救けは誰にでも効きiヨがあるものではなかった.そこには前提条件として,みきに よる神の教えを信じ切ることが必要とされていたのである.みきは救けを通して自己の新しい世界観 を開示し,民衆にとっての新しい聖なるコスモスを打ち建てようとしたのである. 3 )教祖カリスマの成立 天理教を初めとする民衆宗教は,その時代において作り出された抑圧的な状況に置かれていた民衆 の苦しみ,悩みを解決し,民衆が切実に生きるための問いに対して真撃に応えようとしたからこそ教 勢を拡大し得たと言える.この教勢の拡大はひとり教祖の力だけによるものではないが,信徒たちの 共同体の中心には必ず教祖がおり,この教祖が神と人間との間を仲介することにおいて民衆が置かれ ている苦悩から人i習を解放しようとするのである.先に述べてきたようにみきは「貧への落ち切りJ を実践することによって,財産はもとより,村の中における社会的地位,家庭の中における母とし て,嫁としての地位を初めとするあらゆる世俗の殻を脱ぎ捨て,それまで生きていた!日い世界からの 引退を行った.いわば社会の構造の枠内から離れ, J司縁に位置することによって新しい神と人間との i習を付1介したのである.このイli J介の最初の具体的な行為は呪術的なカリスマの発揚とも言える病気治 しの実践であった r をびゃ~!I二 lJ を初めとする治病行為は,みきに降りた神の評判を高めたのみな らず,当時の民衆の生活を縛っていた様々なタブーを廃する意味も有していたが, しかしこの呪術的 カリスマというべき直接的な救済行為は,みきの宗教活動の第一歩にすぎなかった.当時の社会にお いて病気治ーし等に異能を発揮した人物はみきだけではなかったろうし,またそれだけで教祖になれる 訳でもない.西山(1985) は教祖になるための条件として,単に異能を発揮して一時的に人々の錨別 的な救済要求にJ;0じるのみではなく,人々に自三と自己を取り巻く環境世界の究極的な存在理由につ いての説明と日常的な生活規範とを含んだ,多少とも筋道の立った「教え」が提示されねばならない としている.そこで次ぎに,みきによって行われた一連の宗教活動を押さえながら,みきによって行 われた宗教活動の持つ意味を考えてみようと思う. 62 その後のみきの宗教活動のなかで重要なモメントを時代を追って整理してみると次の4点に整理す ることができる 1 )宗教儀礼の確立ー「つとめ場所J (祭儀場)の完成. (1 864年) 2 )聖典の作成開始一『おふでさき」の執筆. (1869年-) 3) 1] 寺1M] ・空間の中心軸の措定一「ぢばj の設定. (1 875:Ij::.) 4 )権力との闘し三一官憲による度重なる拘留. (1882年-) まず第一に行われたのが,新しい宗教儀礼の!?i 技会で、ある. 1864 (元治元)年に,教祖の意志に基づ いて,みきによって救けられた人々の自発的な寄進により「つとめ場所」が完成するG) この場所で 新しいリズムと新しいダンスを伴った神への礼賛の儀礼が行われることになる.ここで行われた儀礼 は Iみかぐらうた」とi呼ばれる「つとめ」の地歌にq毒物をつけて歌い踊るものであったが,そこに は新しい人間世界の創造が象徴的に表現され,新しいネ11Jによる秩序のイメージが込められており,そ こにはこれまで、の宗教儀礼で、行われていたものとは別個の宗教的志向性が看取されるのである.この 新しい宗教1J'0志向性とは 既存の構造をカオスへ戻した教祖による世界再統合への試みであると解釈 できょう.荒木(1987) が指摘するように,教祖がIEI き構造にとらわれた人々に自らの宗教体験 (神)をもたらすために利用するすべての材は, IEI し)-1立界・ 11ヨい構造に所属している.かぐらも,腕 りも,鳴物のリズムもそれ自身は何ら天理教における新しい富 IJ :iきではない. しかしそこで志向されて いるものは新しい意味世界であり,天理教で、行われるつとめは,新しい世界のリズム(秩序)の創造 を意味する物として理解することができるのである. この教祖による新しい世界の創造は,引き続し3てネ 11J の啓示の書において具体的に人々に対して示さ れていくことになる.天理教の聖典とH乎び得る書(U"みかぐらうたJ], U"おふでさきJ], U" iJt二海:吉記J]) がこの i時期から次々と書き綴られていくことになるが,その中でも1869 (1 明治 2)年から1881 (明治 14) 年にかけて断続的に執筆された「おふでさき』は,みきによる新しい神観・人間観の開示を始め とする世界の新しい創造神話的な意味を持っている.みきによってイメージされた神は,万物の創造 者であり,完全無欠にして全知全能なる,唯一千Ijlである.そしてこの神のもとに創造された人間はみ な平等であることが主張されている7) みきによる新しい世界の創造が,最も鮮明に現われているの がこの神観と人間観である.唯一絶対なる神のもとでの人間の平等は,天理教の世界観,救済観の根 本であるといってもよいであろう.村上(1980) も指摘するように 幕末維新期に生まれてきた民衆 宗教に共通する特徴の一つに新しい人間観の降立がある.人間は如来の子であるとして平等をi唱えた-尊如来きの.天!帽を万物の根源とし人間はその分身であり神心不二であるとし,人間の平等と尊 厳を宗教的に基礎づけた黒住宗忠.ネ111 の氏子としてあらゆる人間の平等を説いた金光大手iJl. 彼らと仁iコ 山みきのj苛には共通のモティーフが存在している.それは当時の歴史的状況が民衆に対しでもたらし た,社会的な抑圧からの解放である.それは人間が人間らしく生きるための主張である.これは神懸 かり以前のみきにおいて体現されていた113 い構造の中での人関の生き方の限界と,「貧への落ち切 りJ によって開示された新しい人間の在り方が,みきの内面において宗教的に昇華されることによっ 63 て生まれてきたものであろう. この聖よj~.の編纂による新しい世界観の開示を, 1]寺I'MJ的に,また空間的に意味付けたのがみきによる 宇'1~3I1iIII の設定で、ある.この宇宙111111の設定は「ぢば定めJ という宗教的行為によって象徴的に表現され ているR) rぢばJ (地場)とは,ネ111が人11Jりを初めとするあらゆる生命を創造したところであり,宇宙 の仁 j二1心であり,始原の1:1 こi心である.この宇宙軌をi二|こI心に「つとめ」が行われるとき,全人類の救済は IIJrit になる.そしてこの宇宙の意味世界の中心に教祖は立つのである.ここに教祖のカリスマが硲立 するといってもよいであろう.すなわち個人を対象としての治病行為を開立台した段階(I呪術的カリス マの開示)から,共同体,そして世界の全体を癒しの対象とする(教祖カリスマの雄立)段結へと移 行したのである.ここにおいては,社会全体の生の回復が希求されていると言えよう.新たな意味世 界の中心に立った教祖にとって, I日い世界の価値観によって支えられている権力というものは何ら意 味を持ち得なかったに違いない.みきの晩年は官憲を中心にとする厳しい弾圧との闘し1であったが, 弾圧に屈しないみきの姿が何よりの信者が求めるモデルではなかったであろうか. 以上みてきたみき及び、I~f.l教期の天理教が持っていた特徴は次の 4 点に整理できょう. 1) 至高の範 型となる天啓者=生千IIJ 教祖の存在. 2) I日来の社会構造や価値観を根底から覆すべく実践された,み きの生死を賭した宗教活動. 3) 直接的な救いの業の存在. 4) これらの宗教活動に基づいた,民衆 のための新しい世界・新しい人間の開示. このような天理教の信仰が教祖仁!こi山みき i中心とするものであることは,疑いのないところである. したがって天啓者=生神みきの死後教団が大きな転機に立たされることは当然のことであった.それ ではみさの死後,教団にどのような変容が現われてくるのであろうか. E 教祖の死と分派教団の展開 盟-1 教祖の死という問題 仁i コ山みきは1887 (明治 20) 年2月18日に 90歳で亡くなった.教祖の死が信者たちに大きな動揺をあ たえ,ひいては教団の様態さえも変えてしまうことは珍しくはないが,天理教のように生神的な宗教 性を持つ教祖によって担われていた教団にとっては,教祖=生ネ111 の死は不可避であるとはいえ,信徒 たちに極めて大きな動揺を与えることになる.特にみきは生前から常々定命115才を主張しており, 信者たちもみきが115才まで生きると確信していただけに,みきの死は教団の中に危機的な状況を生 み出した. )11 村(1987) によれば,集団の中枢的存在の喪失というこれまで経験したことのない事態 に産面した際に,集団をどのような形態において存続させ,集団の統合的拠点をどのように再構築す るかが教団の幹部にとって緊急の課題となるわけである.島菌(1982) は,教祖が死んで, もはや記 憶の中の存在になったときに,教祖が神から選ばれた存在であるゆえんと,人類史上において教祖が 占める特殊な位置についての神話が成立してくると言う.神に選ばれた人間としての教祖の神話は, 人類史において教祖を決定的な意味を持つ存在とするが,これを教祖が至高のカリスマ者としての性 格を得たと説明するのである.けれどもたとえ教祖が至高のカリスマ者としての性格を帯びたとして も,それによって教団の危機が回避されるかと言うと必ずしもそうではない.むしろ生神としての教 64 lli が持っていたカリスマそのものの継承が 明硲な形で、人々に示されることが必要である.天王m,金 光,大本といった教団はしづぶれも創 II ,~者の死後,教団の分裂を回避し統合の拠点として始原的存在 "1 たる教祖像を構築して,教祖カリスマをililJ 度化することが最大の諜;速で、あった(JII村 1987).多く の信徒たちがみきに求めていたのは新しい世界を開示した千 の言葉を伝える天啓者(十1I1 意の取次 者)としての役割であったことは想像に難くない.事実最初に制度化されてくるのが千1I1 意の取次者と しての本席・伊降伊蔵の設定であったり)教祖カリスマは,本席という制度において, 1す1-1昨伊蔵が継 承していくことになったわけである. しかし教祖の死後,教i豆iがその弟子たちによって担われていく ようになるとき,そこには必然的に変容が生じてくることになる.なぜならば,教祖と弟子たちとで はその立脚点(宗教的実存)が全く異なっているからである (Wach,]., 1988). みきの死後教団は様々な点で変容を余儀なくされることになるが,数ある変容の仁1:1でも,分派教団 の出現は特筆されるべきであろう.教祖の在世1:1二iにおいても異端活動が全くみられなかったという訳 ではないが,教祖の死後になって,この天理教を揺さ振るような異端的活動が生まれて来ることにな る.天理教ではこれらの運動を異端として厳しく排除していったが,これらの活動の仁iこiでも最大の規 模となり大きな影響を与えたのが大西愛治郎による天理研究会(後に天理本道,現ほんみち)の運動 である.大西はもともと天理教の布教師であったが, 1913 (大正 2)年にネ111 からの啓示を受け天啓者 としての自覚を持つことによって天理教から独立し 新たにほんみちを問教することになった.大西 は19才の時に天理教に入信,以降やjJ 懸かりの体験を機にほんみちを!靖子文するに至るまで,天理教徒と して模範的といえる信仰の道を歩んでいた.その大西がなぜ天理教から~Ijれ独自の教団を開くに至っ たのであろうか.本章ではこの大西によるほんみち!?司教に意、味を手がかりとして,教祖亡き後の天理 教の変容の問題を考えてみたい. 111-2 天理教徒としての大西愛治郎 大西は1881 (明治14) 年,奈良県宇陀郡宇太村で、岸同家の末子として生まれた.岸!司家は愛治~r~の 祖父の代の頃までは名字帯万を許された!日家であったが,愛治郎が生まれた頃には家産も傾き,また その頃次兄がノイローゼ,長兄がIm:J丙による失明,母がヲこ宮内で、重病と相次ぐ家族の不幸に見舞わ れていた.岸i司家にあって五体満足に育ったのは愛治郎だけで、あり,愛治郎は悪因縁の家に生まれた との自覚を持ちながら少年時代を過ごすことになる.愛治郎の青年時代の宗教体験を考える上で,こ の岸関家が悪IEl縁の家であり,そこに生まれた自分も悪因縁の身であるに違いないという硲信は重要 な点である.愛治郎が将来,宗教者として生きていこうという決心は この時点で半ば決まっていた といってもよい.愛治郎は1898 (1 明治31) 年長兄の!俣病がもとで天理教に入信している.愛治郊の実 家のあった奈良県宇陀郡は天理教の本部のある丹波市UIT (現天理市)とは20k111 程しか離れておら ず,明治初期にはみきの教えはこの地に伝わっていたと考えられ,病気治しの宗教としての天理教に 愛治郎が救いを求めたものと考えられる. しかし彼が天理教に入信し,その後に天理教徒として熱心 に信仰を続けていくようになるのには, さらに実存的な体験があった.それは1899 (明治32) 年,母: の病気が悪化した際に得た神秘体験10)である.愛治郎はこの神秘体験により天理教のi中心的教義のー 65 つである i fW 二物の迎Ll i) を身をもってま1]ることにより,天理教のネ1I1 の実在を体験したのである.これ こそが愛治f~l~が頑なまでに仁1=1L1 Jみきの教えに傾倒し,宗教者として一生を送ることを決意した理由で あり, また彼の~I:.?J.主を通じての信fíiJの根底となったと考えられる. 翌1900 (明~5'33) 年, 20才の!侍に本席・伊r~年伊h~~から「さづけ」を受けた愛治郎は, 2 おO代カか、ら 3ωO 代の 前?手訪 l iTド土半!ド三にカか、けて ,i を1概j 群!f 洋f宇主引(:,幻 馬i J 悦先刻j括舌すると,教tl~ ・ 1:]ご1iJ Jみきの宗教生活の追体験にあったと言うことができる.教祖仁1=l iJ Jみきを範と する愛治郎の青年時代に培われた関心は,生涯を通じて彼の信仰を支えていたが 当時の彼の宗教生活 は次の5点にまとめることができょう. 1) 単独布教の実践. 2) 病者 弱者を1:] コ心とする弐衆救済. 3 )夫婦揃つての信仰実践. 4) 教祖を範型とする「貧への落ち切りJ・5 )みきの思想、の研究. ここから看取されることは,大西が徹底的に教祖・ヰ1 UJ みきの生き方を範型として生きぬこうとす る決意であり,事実またその通りの生き方をしていた点にある.教祖・中LL!みきの生き方の全体を至 高のパラダイムとして,大西は生きていたといえる.ではなぜ、その大西が天理教の本部に対し反旗を 翻し,新たな教屈を建てることになるのか,その当時の天理教の状況と,大西の千Ill~かりの体験を中 心に考察しよう. 日]- 3 当時の天浬教の状況 1 )外在的状況 天理教は明治10年代から,天理王命による「三千世界の救けJ を約束し, 1ヨ本と世界の天理教化を 目指す活発な布教活動を展開していた.先述した『みかぐらうたjJIiおふでさきjJIi 泥海古記』といっ た布教の原典というべき教義書が作成され12) 戦争や災害を媒介として起こる当時の社会不安の浸透 と共に教会・信者が激増していた.それに伴って天理教に対する官憲・既成宗教・ジャーナリズム等 による弾圧や批判が激しさを増していくことになったのである. 天理教に対し最初に敵意を示したのは近在の111 伏,祈祷師,千41職等,それまで治病行為によって生 計をたてていた人々である.教祖伝には,金剛院の僧,大手IJ 神社の神職,不動院のLIJ伏等がみきの家 に押し掛けて乱暴を働いたことが記載されている(Ii教祖伝jJ p.4 7, p.62). しかし天理教の発展が大 和地方に留まらず全国的に広まり始めると,今度は既成仏教(特に真宗や真言宗)の側から激しい反 天理教の運動が行われるようになった.なぜなら天理教がその教勢を伸ばすに連れて檀家が減少し, 経済的にも利害の対立があっただけでなく,天;理教において救いを得た人々がそれまでの既成仏教に 対し,一斉に蜂起したからである.これに対して既成仏教の側から,天理教徒の埋葬を拒否したり, 天理教撲滅後援会を開くなど天理教に対して激しい弾圧が行われたのであった. また宮憲とのI~~いも当時の天理教にとって不1iJ避な問題であった.みきは晩年の13年間で18[8]の拘 留処分を受けているが,これはみきが,や13 の教えが常に政治権力に優先すると考えていたからであ り,みきにとっては既成の価値観を支えてきた政治権力との妥協は考えられないことであった.これ に対して当局では, 1896 (明治29) 年に内務大臣の名で天理教を初めとする邪教の禁圧を全国のj有ー県 庁に秘密通達している.この司11 令に基づいて各府県は管内の警察署に天理教の取締りを命じ,真正面 66 から天理教と対決する姿勢を打ち出したのであるI:l) さらにこの既成宗教や官憲による弾圧に追い打ちをかけたのがジャーナリズムである.天理教は淫 記邪教であるとのキャンペーンが行われ,新開・雑誌・書籍を問わず,天理教に対ーする批判は日i手に 強まっていった.天理教は搾取とJI 文奪の宗教であるといった反天理教の世論は高まり,これらの反天 理教キャンペーンによって布教活動にも影響が出るようになっていたのである. これらの指弾i圧やt 批1-北守 tじ凶土 4半判 iド: 教にとつてi衝重窃J~撃墜が大きカか、つたのが政j府府有背:による 5手弘持ij半iドi圧でで、あつた. 政府による弾圧はみきの死去後も継続 し, 日常の宗教活動も|主1~1íí:をきたす危険性があったのである.救国後継者にとっては,信仰を守り教 団を維持していくために,明治政府の公認宗教となることの必要性を痛感していくことになる.そこ で日清・日露戦争においては多額の国防献金を行い,また災害や公共事業などに対する積極的寄付, あるいは労働奉仕の提供など,社会・国家に対し天理教は協力的態度を取っていく.そしてJ899 (1 努 治32)-]910 (向 43) 年にかけて 51支にわたる独立請願運動の末,ょうやく教派神道13派のーっとし て独立するのである. しかしながらこれで救出の安定がはかられた訳ではなく,翌1911 (明治44) 年 には天理H教独立公認取り ?ì~í し案が議会へ~Æ:U~I されるなど,以後も信者に対して明治政府への随JI演を強 調せざるを得なかったのであった.政府からの公認を得るために, J京典の一つであった liiJEi1i]:古記』 を IITI 収・廃棄し教義を変え天皇ilJljに随JII~ した líl明治教~j!..Bを作成し,教育勅語の普及に努力するな ど,天理教は自らの信仰を守るために,はからずもみきの教えを1113 げた形でlil 家と妥協していかねば ならなかったのである. 2 )内在的:1 犬況 天理教が変容を余儀なくされたのは,政府その他の外圧もさることながら,宗教者としての教祖・仁iコ 山みきの死が大きかったことは言うまでもない.先述したように,定命J15歳のみきがなぜ90歳にして亡 くなってしまったのか.教祖の死には天理教の宗教的中心を失わせたのみならず,そのネIjl 言に対する信 用が失われる危険性も存在していたのである.当日の「おさしづ」では「子供(人間)可愛いがゆえ に,その成長を促そうとこれから先に25年ある命を縮めて,突然身を1¥きした」とある1,1) これはすなわ ち教祖の25年早い死に対する教屈の公式の見Wi:で、もあるわけであるが,この説明だけで、信者の動揺を紡 ぐことは困難であった.教祖カリスマの後継をとごうするかが 教団にとって最大の問題となるのである. 天:F_lli教はここで聖地に付加 1ilii 値を与え, ~寺7JUなj湯河í"1生を作り I~~I していく.すなわち天理i教は,みき 亡き後の親子Ij1 のやしろを庄屋敷村のJ =jJ111 家の γぢば=甘露台」に定着させ,そこから今まで通りに 人々を救うのだという論理を打ち出したのである.すなわちこれは みきの有していた生神的な教祖 のカリスマを「ぢ、ば」という場所にI~I定することを意味していた.みきに降りたネ111が天理教の救いの 根源であることは教理上の真実であったが,民衆が実際に求めていたのは,そのような観念的な問題 よりも,神の言葉を語る強い宗教的な力を持った人間の存在であったのではないだろうか. したがっ て,神の意志の取次者をどうするのかとし寸問題が次ぎに生じてくることとなるわけである.そこで 神意の取次者として本!?吉が設けられ,みきの片腕であった伊降伊J裁が初代本席になった.ただしこの 本席の設定までにはかなり激しい内部対立があり,みきの孫である中U-I真之亮は, JJ二むなく伊降伊蔵 67 を本!?古とすることを承知するのである. しかしその後も仁iコiJJ家の一族をiヤ心とするグループによる教 区!の権力の集怜:イヒが行われ, 1907 (明治 40) 年に伊昨伊i誌が亡くなると, 2代自の本席となった上回 ナライトは事実上ネ111意を取り次ぐことができないものとし15) 名実ともに 2代目真柱中山JI善が教内 の実権を掌1:1二iに収めることになるのである.この結果教内にはもはや千111 意を直接取り次ぐことができ るものがし】なくなることになり,天理教の生子111教祖=天啓者を中心とする宗教性そのものが危機に曝 されていくことになったと言えるだろう.教担の死後に起こってきた教自の変容は,自ずと教団の宗 教的求心力を弱めることになるが,このような折りに教内に新しい生神的な天啓者への待望!惑が生ま れてきたとしても不思議はない.特に教祖の定命が115才であると考えられていたこともあり,その 継I~I にあたる1913 (大正 2)年に,教祖の後継者が誕生するのではないかという待望感が教内に生ま れていたのであった.大西の宗教運動が生まれてくるのは,このようなまさに天理教が危機に瀕して いた時で、あったので、ある. 田-4 天啓者・大西愛治虫I~ 1908 (明治 41)年, 26歳で天理教の山口宣教所の所長となり,翌年秋にはiJ_j仁i県教会組合の常任議 員に選出されますます繁忙の度合いを強めた大西は, 1913年ほんみち関教の契機となる r-I 主宣言台人の 理の御踏み定めj と呼ばれる神秘体験を受ける.この宗教体験において,大西は自らが新しい天啓者 となるのだという自覚を得るのであるが,これは教団の内部に大きな波紋を蒔起こすことにもなっ た.大西が新しい天啓者であると主張することは 取りも産さず天理教の持つ宗教的インテグリ ティーへの挑戦を意味するからである.この神秘体験については次のように語られている(梅原, 1986, p.p.90-92). i; 明から胸のつかえが激しく,見るものすべてがむさ苦しくなり,部屋の間々まで拭き掃除をし白衣に着 替えてみても効果はなかった.とうとう衣訟を脱ぎ捨ててしまい妻子にも着物を脱ぐように命じた.大西夫 妻は子供たちを背負い 見えない力に引きずられるようにして部屋の仁1:1をぐるぐるまわり歩いた.夫妻は何 かに取りつかれたように夜半すぎまでIHllJ 続けていたが不意に足がぴたりととまった.大西は導かれるよう にして南東の方から躍敷の1:1: 1央に進み出ると r-.yIJ澄ましてt:J-~~台」と三度唱えた. 1I1~え終わった瞬間 rこ こがIJ~~f=ì なのだ.J と電光のようにひらめいた. この特に大西は r土地ではなく,人の甘露台なのだ. 自分こそその甘露台なのである.J と倍ーった と伝えられている.この宗教体験にはいくつもの重要な意味が秘められているが,分けても次の二つ の重要なモティーフを指摘することができょう. 第一に,この体験は全体として, 1875 (明治 8) 年に教祖・中山みきが中山家の敷地を歩き回り, 甘露台の場の設定を行ったという始原の教祖の宗教体験の追体験であり,この追体験が神の意志に よってなされたと大西が自覚することによって,教祖の後継者としての自らの宗教的権威を正当化す る,聖なる出来事になったという点で、ある.大西の伝記によれば,大西が教祖中山みきの宗教的歴程 を範型!としつつ歩んできたことは間違いないが,それだけでは他の熱心な信者と何ら変わるところは ないのであり,大西が新しい宗教運動の中心になることを説明できない. しかしこの神秘体験は,大 68 西にとって宗教体験の上で、も教祖の追体験をすることによって,天i芸者としての自らの資質を正当化 する体験となったとして理解できるのである. 第二に,この体窓会はイニシエーションのプロセスとしてJl日wょすることができる. イニシエーションの目的として, その{儀義ネ札しの前 f後妥における人|問間芦習iの宗教i的 :1 拘i 内守. t七担社 するj点; 1ミliacle (1965) は j土!上:会的地{位立を i決夫定i的 ~I 杓i 内守に変更 られることになるのでで、ある.大西は自分が天J芸者であることを何度も否定しようとし,それ以前の自 分と新しい自分とのI1JJで激しい葛藤を行っている.しかしついには古い自分を脱ぎ捨て,新たな宗教 的人間として立ち上がるのである.ここにそれ以前の-人 IM'J ・-天理教徒としての大西愛花i1~1~は消 え,新たに天啓者,ネIjl 意を伝え,万人の救済を希求する生神として,大西は生まれ変わるのである. それは特に, JJ 旬のつかえ 見るものすべてがむさ苦しくな1') ,拭き掃除をし,白衣を着て,さらにそ れでも足りずにとうとう裸になってしまったという記述に象徴的に表3)I されていると言えるだろう. すなわち大pJ.iはこの宗教体験により,それまでの世界,それまでのI~I己の宗教的様態と決別し,そこ に新たな自己を確立し, 1司1I寺に,新しい人間・新しい世界の創造を志向したと言えるのである. 今までみてきたように,教祖を至高のパラダイムとして宗教的実践を行ってきた大西は,教祖の死 後,危機的状況にliiI3りつつあった天理教にあって,自らの神秘体験を期に新しい天啓者としての自覚 が生じて来ることになった.大西はこの神秘体験により新しい人間として生まれ変わったのであ る. しかし先に述べたような新しい1~lcの確立 新しい世界の創造は 創111~宗教の教祖たちにおける それとは質的な相違があることに留意しなければならない.自IJ n日宗教の教祖たちが, 113 来の社会構 造・世界観を転倒し,そこに全く新しい宗教的世界観を打ち建てようとしたのに対して,大ill:iの志向 した宗教的世界観は,あくまでも教祖・仁I::JLL!みきを範型とする,天理教の宗教伝統の内部においてで あり,天理教そのものの宇宙観を打ち壊そうとするものではなかった.大西の青年時代は,天理教徒 として徹底的に生きぬいてきた時代であった.悪因縁の家に生まれ また自分も悪因縁の持ち主であ ることを硲信していた大西は, Iヨ:の病気の際に得た,千111の実在体験をきっかけに天理教に入信.この 時すでに一生を天理教徒として生きぬく決意を回めていた.ただし大西にとっての天理教という意味 は,教祖・中山みきの人生全体を範として,自己の生き方をシリアスに問うていくことを意味してい たのである.みきの死後 世俗の論理に流され I'j 司教期に天理教が有していた民衆宗教性が失われつ つあった天理教に大西自身が信仰の拠り所を見失いつつあったとも言えるだろう.大西がネIjl 秘体験 によって,天啓者としての新たな生を降立したのも,そこには天理教徒としての自己のアイデンテイ ティーを統合したいという止むに止まれぬ意識が内在していたと考えることもできょう.大西の主張 が教白内に広く向調者を得,やがて独自の教団として独立していく背景として,教祖の死後に生起し てきた天理教内部の矛盾的・危機的状況がそれだけ深刻なものであったと考えることができょう. 教祖の死後,天理教はi童家神道体fIllJに組み込まれてし、く過程において I~:~教期に持っていた国家宗 教(エリートの宗教)や文明に対ーする鋭しサJl 判といった,天理教が本来持っていた民衆宗教としての 宗教的パワーを喪失しつつあった.みきが社会の構造のj奇縁に引き込み,世俗の価値観,及び秩序を 根底から突き動かすことによって,人間世界の更新,いわば世直しをもたらそうとするような宗教的 69 パワーを天辺教は失いつつあった.大it1iによる天出教を教組在世1:1:1の在り )=j に戻そうという宗教的,志 向性は,天JJJI教が本来持っていたlHJ教~mの民衆宗教的パワーを取り戻さんとするものであ 1') ,天fl11 教 を始jBI の!日 jミに回帰させることによって 天理教における失われたコスモスを再型化する試みといえよう 由-5 大izi 以降の分派教1 :11とその特鍛 大西を~l三千'1 ',天啓者 r人IIn-j二台」としたほんみちは,天理教が出家子 l /l :ì道体 ilnJ にまHみ込まれる i祭 に廃棄した u'iJ=t:海~I~'~むを原典とし,治安維持法違反の事件で 2)支の厳しい弾圧を受けたことで知ら れているが,これも天主II教がj~fJ教j引に持っていた反権力性といった民衆宗教性を展開したものであっ たといえる. ほんみちの「人の甘露台」による天啓の継承は,教t/3在世rlサミらの天理教信者の心を捉え,天王!日教 内の最大の分派活動になったが,このことは同11寺に, 1むの「人の台J r新たな天啓者Jの/J:J ,JJI をi唱えることによる分派活動の誘沼にもなった.大iLJ:i以降の主な rI~I :Fr-j 主主主台」を挙げてみると,天 理三11論議を I~f.lし 1 たlJ券ひさのによる安子 I:J~\t台.天草Ift1jl之打開場所を開いた渡辺そょによる政子 台.天理千!Il 之jコIJ十j場所ーを開いた LLJ EEI 締次郎の根株tJ 露台(締の木ttilW; 台),おうかんみちを m~J し E た江 上寿j乱のひょうたんの木ItsW;台,大阪の娘で、ある大凶玉を真正甘露台とする天理みろく会(現ほんぶ しん)等,幾多の人li{J が自らが天啓者であるとして新しい教団をIJfJ し1ているのである16) しかし彼ら の宗教的志向性は,大西が目指した教祖カリスマの継承による改革者的な通勤とは必ずしもi可じでは ない.むしろそこには天啓者の出現=教祖カリスマの継承よりも,初期の天理教において行なわれて いた直般的な癒しの技1;1 すの継承=呪術カリスマの継承が重要な問題とされているように忠われる.例 として,天理教系の諸教j王iの草分けといえる天主i討中之口IJi~J場所とその系列教団を検討しよう. 山田梅次郎は, I~I らを善兵衛の生まれ変わりであるとして,天啓者「根株(梅の本)-IJ~f=ìJ を名 乗 1') ,1937 (l1ij 和12) 年に教団をl'jrJ し1た.梅次郎は1899 (1 明治32) 年に病気を契機として天理教に入 信し,その後天理教の教sili も務めたが, 1912 (大正元)年に突然のネIjl 懸かりをし,霊力を得たとされ る.その後梅次郎は大it1iの天理研究会を初めとして,当時成立していたいくつかの天理教系の教団を 遍jE するIi)この頃から梅次郎は子111 の言葉が得られるようになり,梅次郎の天啓を求めて人々が参集 して来るようになる.梅次郎は天啓により,信者に γ甘露水さつ>ttJ と呼ばれる救済の秘儀を行な い,あわせて当時すでに天理教内において公式iめには廃止されていた「扇のさづけJ ・「息のさづ け」による直接的な癒しを行なっていた18) そして「甘露水さづけ」を受けたものは,修業と心がけ 次第でだれでも「扇の侭しVができるものとされたのである.けれども1938 (昭和 13) 年に天理神之 口開場所関係者の検挙・結社禁止処分,及び1941 (昭和16) 年の梅次郎の死によって教団は壊滅的な 打撃を被ることとなった. しかし梅次郎から「甘露水さづけJ を受け r震の伺し¥J ができるように なっていた有力信者や梅次郎の子供述は,それぞれ独自に活動を再会することになる19) それらの中 でも代表的な教団が 江上寿j乱を教祖とするおうかんみちである. おうかんみちの教祖江上寿j乱は1928 (Bij 和3)年に千rllの導きにより天理教に入信.以後大西愛治郎 と同様に,天理教の布教師として単独布教に全力を尽くしたが,やがて天啓者不在の天理教の信仰に 70 疑問を抱くようになった.その折りに山日31 毎次郎が天理教祖予言実現の天啓者,すなわち「人のせ露 台」であることを知IJ 参集,梅次郎のもとで天理事11之口開場所の信者として信仰を続けていくことに なる. しかし彼は一信者であると問時に 1梅の木1=1-露台J の後継者,次ぎなる 't:I-~客台」になるべ き人間であるとの神言を受けていた.江仁は 中山みき,大西愛性出mの両者の声を開くとし寸ネ Ijl 秘体 !挨によ 1') ,自らが「ひょうたんの木甘露台」であるとの自覚を得, 1'.毎次郎の死後,新たな天啓者とし て教団を降立していくのである20) どうして山田や江上らが新しい教屈を立て得たのかという問題を考える必要がある.彼らは天啓者 を名乗ったが,みきや大西のように世界観を開示することもなければ,新たな教えを開くということ もなかった.それではなぜ彼らのもとに人々が参集したのだろうか.それは彼らが天啓者として '.It 露水」を授けることによって畏衆を救済することができたという点にある 1"1::1" 露水さづ、け」とは人 IUj がネ 111 の子として神聖を回復し,卒中心、に成り立つために「甘露水J という聖なるものを授け渡す儀式 で,扇をmし3 て水を飲ませる 7与を取るものであるが,彼らはこの儀礼を通じて,直殺ネ111の意志を取り 次ぐことによ V) ,救いを求める人々に対し,より直接な救済を可能としたのである. 「さづitt j は γつとめ」と共に天理教において「たすけ一条の道」と呼ばれる特別な救済の手段で あった.問教j羽の天理教においては「扇のさつqtj を初め, 1 fD:IJ\~,む, 'H~j, 1恵、 j,1煮たものぢきも つj,1水j,1あしきはらし¥j,1ておどり j,1かんろだしり,外の各種の「さつ苧け」が存在していた. 教祖在世中は教祖,教祖の死後は本時からこのネ111 意の取次が信者に対してなされていたのである. し かし伊降伊蔵の死後,教内にはもはや神意を取り次ぐことのできるものはいなくなり,これらの「さ づけ」は最も形式的な「あしきはらいのさづけ」を除いでほぼ全面的に禁止されてしまったのであ る.天理教では 1~Ij}R-;'j (教会本部で月に 1Iillづっ 9lill,取次人から親子IIIの話を li4~J く制度)の中に 「さづけ」を組み込んでし1く形で制度化を図ったが,その結果として直接に救いを求める民衆に応え る手段を自ら狭めていくことになったのである. ほんみちの場合にしても 教団が大きくなるに連れ,天啓者と一般の信者が会うことは密難になっ ており,これらの教屈は民衆の切実な悩みに対して,産接的にI~'わる救済技術を持っているという点 で,原和j天理教が持っていた民衆宗教性を現代に受け継いで,展開している教団であるということも できょう. 以上みてきたように,山田梅次郎と江上寿j乱はともに,自らが天啓者であることを自覚することに よって教団を起こしたのであるが,同じ天啓者として天理教から分派した 大西愛治郎とは自ずと宗 教的な志向性は異なっていたものと思われる.つまり大西が,生神としての教祖のカリスマを継承し ようとしたのに対して 梅次郎らは癒しの技術としての いわば呪術カリスマの継承者として民衆に 受け入れられたという点である.このような直援的な癒しが信者たちの関心の中心となる教団では, 次第に天啓者の持つ宗教的意義も柏対的に小さくなっていくことになる.このことは「自称せ露台」 が数多く現われたことによっても天啓者の相対化が推し進められることになったであろうし,またそ の天啓者が結局は血統によって私物化されてしまう危険性があったことも理由の一つであろう21) さ らに時代の変遷により民衆のニーズも変化してきたということもあろう.すなわち世界の全人類の救 71 j斉者,この世における唯一の天啓者よりも,日常生活の中でι三起してくる個人的な問題を伺えば応え てくれる霊能者の方が,民衆にとってより必要とされていると言えるかもしれない.そこで最初から 天啓者によらず,むしろ天啓者不在を説く天理教系の教団もJJL われてきている. N カリスマの継承形態と分派教団 1V -1 天;理教の変容と教祖カリスマの継承 本章では,これまで検討してきた天理教系教団の成立過程をカリスマの継承という視点から整理す る.天理教祖の死後その生神的な教tl~1 カリスマを継承したのが伊降伊蔵であった.伊j哉はみきの一番 弟子であり, 1882 (明治 15) 年からは仁!コ U-l家に住み込み,みきのもとで樹jいていた. 1すl蔵は幕末の頃 に,みきから「扇のさづけ」を受け, さらに1875 (明治 8)年頃には「言!この計二しJ (扇を持って願 い人の!日互いを開くと,言葉の指図がでるというもの)を貰い,みきの片腕としてや1言を取り次ぐこと を許されていた.教祖の死という教団にとって最大の危機の際,教祖の死の意味をネ111 に尋ねたのも伊 蔵であった. '=1::1 U-lみきが!ヨらの宗教的志向性を開示していくにあたって, まず病気治しといった直接 的な救済技術の発露による呪術的カリスマの発揚があった.この時期には,弟子たちもまた,神の意 志を直接伝える救済技術を行使することが許されており いわば神の力は多数の霊能者の能力によっ て示されたのであり,カリスマの多元性が容認されていたのであった. しかし次第に,教内における 呪術的なカリスマはみきのもとに統合されるようになり,やがてみきに生神的な教祖カリスマが成立 するのである.ここにみきの人格全体が,信者にとっての絶対の基準とな1) ,みさは信者にとって至 高のパラダイムとなるのである. したがってみきの死は信仰の中心の喪失を意味し,教団は最大の危 機を迎えたのである.みきの死後みきの継承者となったのは伊蜂伊蔵であったが,彼の持つ宗教性は 一点において決定的に異なっていた.みきも伊i蔵も天啓者とし1う意味では同じであったが,みきが生 神であったのに対して,伊蔵は必要に応じた13寺に,ネ!~懸かりという手段(媒介)を通して,神の意志 を伝達したに過ぎなかった.すなわち伊j哉は有能な霊能者ーではあったが,生神的な教祖のカリスマを 継承するには至らなかったのである. 教祖が死んで聖なる象徴として管理されるようになった時,教団には様々な変容が生じてくるが, 天理教の場合その変容の最たることが民衆宗教性の後退であった.伊降伊蔵が1907 (明治40) 年に死 ぬと,天啓者の制度そのものが実質的に廃止され,教祖のカリスマは「ぢばJ という宇宙軸に回定さ れることとなった.その結果天理教は,神意を直接取り次ぐもののいない宗教になったのである.ま た当時の歴史的状況の中で天理教は,はからずもi童家の構造に組み込まれていくことになり,反権力 性といったみき在世中の教えを後退させることにもなったのである. みきの死後間もなく飯田岩治郎による水屋敷事件22),茨木基敬による茨木事件23)など異端が相次い だが,これらの異端活動の中で最大の影響を与えたのが大西によるほんみちの問教である.ほんみち は,天理教が国家林道体制に組み込まれる際に廃棄した F泥海古記』をj京典とし, 1928 (昭和 3) 年・ 1938 (1 司13) 年には治安維持法違反の事件で厳しい弾圧を受けたことで知られているが,これも 天理教が関教期に持っていたj支権力性といった民衆宗教性を展開したものであった.天理教の布教師 72 であった大西愛治郎は,当時の天理教の状況に疑問を抱き,天理教のHj~~jJ-を新たに解釈し直すことに よって,民族的・位界的な救済を目指すただ一人の天啓者,人のt:l- 露台の出現を主張し,自らがその 天啓者であるとした.大西の宗教運動は天理教のコスモロジーを原初に戻そうという改革運動として 理解できるが,これをカリスマという点から論じれば,大凶は仁1=1 iJ_Jみきの持っていた生神的な教祖カ リスマを継承しようとしたと言えるであろう.そうであるからこそ大西による宗教逆説jは教祖在世i二十i からの信者たちの心を捉え,大きな運動として展開していくことが-11]' 能となったのである. 1¥1- 2 I況や 1:-[ カリスマの継承と現代における天理教系教団 この大西による新たな宗教運動に呼応する形で,幾多の人11JJ-tl-~~台が現われたが,その草分けとな る教団の一つに天理!神之口開場所がある.天理子1]1之口I~I~場所の創始者で、あるiJ_JEEI1毎次郎は 1根株 (梅の木)甘2215? 」であると称し,仁iコLU 善兵衛の生まれ変わりであるとして自らこそ天啓者であると 確信することにより I~司教する.梅次長r;はプミ[生jと i司様に,天115を出すことによって終末論的な世直しを 襟傍し,国家と対的二する姿勢をみせていたが, 1928 (昭和 13) 年の治安維持法違反事科こによる検挙と 1931 (昭和 16) 年の梅次郎の死によって,天理ネ中之口開場所は壊滅的な打撃を受けた. しかし梅次郎 により「甘露水さつ>'lt J を受けていた信者たちは敗戦後にそれぞれが教団を再興し,現在「天理事I1 之 口!?司場所系教包J は十数教団あり,それらの教屈の多くは梅次郎を教祖または開祖として位置付け, それぞれ梅次郎による天啓や遺言 遺品などをもとに梅次郎の後継者としている:24) ところがこれら の諸教団の仁iコで明確に自己が天啓者であることを主張しているのは,おうかんみちの江上寿胤 (1 ひょうたんの木甘露台J) だけであり,むしろ例外的とさえ言えるのである.それどころか甘露 台霊理斯道会のように天啓者の存在を明確に否定する教団も誕生している.これにはどのような意味 があるのだろうか. この問題を考えるに当たって,まず同じ天啓者とは言っても,大西と梅次郎や江上とのi習には宗教 的志向性の相違があることを押さえておく必要ーがあろう.大西が仁iコ111 みきの生神的な教祖カリスマを 継承する形で新しい教団を建てたのに対して,徳次郎らは直接的に民衆と関わる救済技術を持ってい たが故に教団を建て得たのであり,その意味で生子11!13~な要素よりも癒しの技術,すなわちみきによる 呪術的カリスマを継承する形で教団を成立させたのである.天nHt中之口開場所系の教団は,天理教が 問教期に持っていた直按的な救済の手段としてのさづけを前面に打ちi出して,民衆のニーズに応える ことに宗教活動の仁1:1心を置いていると言えるのである.天i芸者の存在が相対的に小さくなっていくの も,世界人類の救済者・この世における唯一の天啓者よりも 日常生活の中で、生起してくる個人的な 問題に対して個人に即した具体的な救済を提示する霊能者の方が必要とされるからであると言っても よいであろう.言い換えれば, Bit が本当の天啓者なのかという観念的な問題よりも, どこにいけば救 けが得られるかどうかが重要なのである. V 場所の宗教と天啓者の宗教ーおわりにかえて 以上本稿で、は,天理教系教団の分派形成をカリスマの継承という視点から,検討してきた.本稿で 73 得られた知見を整理すると~j,-I~のようになろう. 教団にとって決定的とも言える危機は,あらゆるものの範型であり,その意味で絶対的とも言える 基準であった教祖の不可避的な死である.教祖の死後,宗教的指導者を失った教団は様々な点で、変容 を余儀なくされることになるが,天浬教の場合その要因は2点あった.一つは歴史的状況がなせる政 府による宗教弾圧行為(外119) であり,もう一つは教囲内部におけるみきの宗教性(カリスマ)の継 承の問題(内因)である.前者において天理教は,みき在世1=1こ iに持っていた反権力性といった民衆宗 教性を後退させることになり,世俗の構造に取り込まれていくことになった.教祖の肉体的な死は弟 子たちにとっては教祖の宗教活動の完成で、あり,教祖の物語の一応の完結であり,その帰結として, 弟子たちによって教担2のや 11 格化・絶対化カfもたらされることになる. しかしこのことは同H寺に,教祖 のj晋縁性の死も意味することになる.つまり教祖は死ぬことにより 弟子たちによって聖なる象徴と して管理されることとなり,再び世俗の構造の中へと編入されてしまうことになるのである.教祖に 続いて,ネ11 1意の取り次ぎ者となった伊符伊絞までが死ぬと 教内にはもはや千IIJ意を取り次ぐことがで きる者がし 1なくなり,天理教がみきの生神的な宗教性において成立したという根幹までが揺らいでい くこととなったのである. 天理教では,人類を含む万物創造の起源であるとした聖地(ぢば)に救済の根源を定めた.すなわ ち親子11 1が聖地に宿って,永iJJ に民衆を救うという論理に活路を求めたのである.聖地には甘露台と1I乎 ばれるモニユメントが設置され rぢ、ば」を 1m 方からIHlむ形で,神殿が建築され,ひいては天理教の 世界観が構築されていった.生子ljl 教祖の教祖カリスマを信仰のエートスとしていた天理教は教祖の死 後,その教祖カリスマを型地に移管することによって,教団を存立していく方向を模索したのであ る rぢ、ば J という特定の場所に実在の根源を求め,この特定の場所を信仰が導く意味世界の中心と して, リアリティーが付与されていった rぢ、ばj をI~コ心として,踊りや歌を用いた信仰{義礼が{確立 され,教典も編纂されたのである.天理教はいわば「場所の宗教化」を[:gjることを通して,教祖の死 という危機を克服しようとしたのである. しかしながらこの場所の宗教化によって,教団の危機を完全に克服することは不可能であった.教 内の動揺は,やがて異端活動-分派教団の発生という形で顕在化していくことになる.大西愛治郎は このような教内の危機において,生子111的なみきの教祖カリスマを継承する形で,天理教における失わ れたコスモスを回帰させょっとした.すなわち大西は自らが天啓者であるとして 人類の救済を志向 したのである.この大西の活動が多くの天理教徒の信仰を集め得た理由として 天理教内にあった天 啓者待望が指摘されよう.天啓者の宗教としての天理教の宗教性は,場所のリアリティーだけでは不 十分であったともいえる. 天理教からの分派教団は大西以降にもみられるが,LL!白梅次郎を書IJ 始者とする天理神之口開場所お よび天理神之口開場所系の諸教窃は,みきの最初見~の宗教活動で行なわれていた儀礼(扇の伺い)な どを中心とする直接的な救済技術による癒しを,教団の活動の根幹においている.いわば呪術的なカ リスマの継承をもとに活動が行なわれているといえる.現代の新宗教の運動をみるとき,聖なるもの との交流による直接的な癒しを活動の中心におく教団は数多くあり25),これらの教団は現代の新宗教 74 の在り方を11 司う契機ともなるであろう. 現地調査及び資料収集に際しましては,天到!教,ほんみちを虫色めとする教1:11 関係者の皆様方に,記11協力をいた だきました.記して惇く御礼LjIし上げます 本稿は筑波大学に提出したJ989年度修士論文の-部を)JII':' f!:修正したものであり iiJ f究の付子はJ988年度11 :4(~;'; 教学会学術大会において発表した.研究のとりまとめには,、!勺主]J:(J'.,主文部省科学研究資刻印UJ金~í~,,~芸研究 (C) ( 2) i ~守統的 j是村システムにおける女性のj支部に!共jする地翌日学的{iJI:究J (代去者 UI 林 WJ,諜J出許号 09680152) と平成1J年度文部省科学1i31究y.Ji:i:il 山UJ 金奨励liJf 究 (A) í計約i受容の弔(", 関する{ijf究 J(代表者 松井王子f,;1 思想番号 J1780061)の乱;を利用した