| 第92部 | ほんみち派の第一次不敬事件、第二次不敬事件まで |

更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.8.22日
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| ここで、「ほんみち派の第一次不敬事件、第二次不敬事件まで」を確認しておく。 2007.11.30日 れんだいこ拝 |
| 1928(昭和3)年 |
1.5日、【本部】『道乃友』の題字を『みちのとも』に改める。
| 【大本教の躍進】 | |
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2.1日、大本教の出口王仁三郎の長女・直日が高見元男(後に日出麿)と結婚式を挙げる。3.3日、王仁三郎みろく大祭にて『弥勒下生の宣言』を行う。
5月、四国巡教『ふたな日記』執筆。7月、東北・北海道・千島・国後巡教、『東北日記』執筆。この間亀岡にては月宮殿を始め諸種の建築物の竣成を見る。 |
2.21日、大西の「岩戸古記」が224首で完結した。
| 【「ほんみち派第一次不敬事件」】 |
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3月初旬、ほんみち派の「研究資料」が完成する。3.20日頃、大西愛治郎の若宮・愛信が側近の幹部の楠平助に「奈良県庁に『研究資料』を直ちに持って行け」と激しく迫った。3.22日、幹部役員会が開かれ、概要「愛信の所作は、速やかに研究資料を世に公開し、来るべき大国難に備えるべしとの神示」と聞き分け、奈良県庁、警察その他に資料を送付することを決定した。 4.3日、警察・検察当局が報道管制を敷きつつ摘発に動いた。教義で天皇の神格を否定したとして、研究所を閉鎖し、4.9日、教祖・大西愛治郎夫妻が逮捕されたのを始め、天理研究会員約500名が拘引された。そのうち180名が不敬罪で起訴された。これを「ほんみち派第一次不敬事件」と云う。 |
3.19日、【本部】天理中学校設立認可(昭和5年5月25日開校式)。
4.26日、本部より「おふでさき」第一巻公刊(8.26日、全5巻公刊完了)。
8.23日、「ほんみち派第一次不敬事件」が記事解禁となり、各新聞社がトップ記事で報じた。
10.18日、真柱中山正善(23歳)が、山沢せつ(18歳)と結婚。
| 【天理教一れつ会創設】 | ||||||||
10.18日、中山正善天理教二代真柱がご自身の結婚の時に頂かれたお祝金のすべてを基金として拠出して「天理教一れつ会」を創設した。その趣旨は、次の通り。
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| 一般財団法人天理教一れつ会 〒632-8679 奈良県天理市守目堂町213番地の4 おやさとやかた真南棟3階。FAX 0743-63-0515 |
10.28日、「おふでさき」講習会。
| 10月、「泥海古記」(岩井尊人・著)発刊。但し、1930(昭和5).3.25日、安達内閣のもと発売禁止。同年7.5日、3版発行。1931(昭和6).9.26日、4版発行。1934(昭和9).8.26日、「泥海古記」7版発行。 |
本部よりお指図公刊。
12.26日、【本部】『おふでさき索引』出版。
天理教本部の教会数が、昭和3年時点で1万を越えて10342となり、信者数もすでに明治末から400万台といわれている。
| (お道の教勢、動勢) |
| 4.30日、増田甚七が出直し(亨年66歳)。1863(文久3)年5.20日、大和国式下郡八田村(現・奈良県磯城郡田原本町八田)生まれ。生家・笹村家より呉服商増田家(大和国添下郡柳町村‐現・奈良県大和郡山市柳町)に婿養子に入り甚七と改名(幼名・甚之助)。1886(明治19)年、二女の乳母のリウマチを平野楢蔵のおたすけでご守護頂き入信。郡山分教会(現大教会)2代会長。 |
| 8.6日、土佐卯之助が出直し(亨年74歳)。安政2年(1855)6月15日、周防国佐波郡向島‐(現・山口県防府市向島)生まれ。徴兵問題で徳島・撫養の山西回漕店に身を寄せる。明治11年(1878)、生家白井家より土佐家の養女まさの婿養子となる。この年、心臓脚気を博多藤次郎のおたすけでご守護頂き入信。翌年初参拝。おさづけ(明治21年) 撫養支教会(現大教会)初代会長。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』88「危ないところを」 99「大阪で婚礼が」 152「倍の力」 175「十七人の子供」) |
| (当時の国内社会事情) |
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1928年、治安維持法改正(緊急勅令により改正、最高死刑、目的遂行のためにする行為も対象)される。治安維持法が死刑に改悪される。 |
| (宗教界の動き) |
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1928(昭和3).4月、ほんみち第1次弾圧。岡田茂吉大本教から分離世界救世教開教。牧口常三郎日蓮正宗入信。カトリック大分司教区設置。※[ アメリカテネシー州で進化論教育裁判禁止側勝訴] |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1929(昭和4)年 |
3.28日、【本部】中山正善2代真柱様、東京帝国大学卒業。
4.23日、中山正善2代真柱様、25回目の誕生日を期して教務に専心(真柱事務室を設置)。
5.1日、天理教道友社から「天理教綱要」を出版。基本教義書として、1・泥海古記、2・みかぐらうた、3・おふでさき、4・おさしづ、5・天理教教典(明治教典)となる。
7月、地方別おさしづ講習会。
10.4日、【本部】2代真柱、朝鮮半島および中国大陸巡教に出発。
10.10日、朝鮮講習所創立10周年記念祭。
10.12日、2代真柱、御母堂ご一行が新義州教会ご参拝【京城年譜】
10.14日、2代真柱、御母堂ご一行が東清教会ご参拝【京城年譜】
10.15日、2代真柱、御母堂ご一行が關長教会ご参拝【京城年譜】
10.17日、婦人会満州出張所開所式。
| 【大竹忠治郎のブラジル布教】 |
| おやさと研究所長/永尾教昭「ブラジルの天理教②」参照。 1929年、大竹忠治郎がブラジルに渡る。筆舌に尽しがたい賑難の道中を通り天理教布教に専心する。大竹は、1936年にぢばで執行される教祖50年祭を目指して、前年に おぢば帰り団参を実現する。これがブラジルからの初めての帰参団体となった。1937年の立教百年祭にも団体を組織して帰参している。当時は船旅で、1935年の団参はブラジルから日本まで片道2ヵ月かかっている。1942年1月、ブラジルが枢軸国(日独伊)相手に参戦し、それに伴い日本とブラジルの国交は断絶となり、在伯日本人はドイツ人、イタリア人とともに当局の激しい弾圧を受ける。当地の天理教の指迎的立場にあった大竹は、1942年3月17日から1年3ヵ月、サンパウロの獄舎に収監された。この時、カトリックの布教師でもあった高齢の女性に匂いがけしている。 [註] (1)矢持善和 『親ひとすじー大竹忠治郎 の「手記」解説一』 (養徳社、平成 24年) (2) 『南海大教会史第3巻』(天理教南海大教会史料集成部、昭和51年) |
| (お道の教勢、動勢) |
| 10.29日、茨木基敬が出直し(亨年75歳)。 |
| (当時の国内社会事情) |
| 折口信夫・金田一京助民俗学会設立。 共産党弾圧。 |
| (宗教界の動き) |
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1929(昭和4).12月、神社制度調査会設置、神社は宗教にあらずと確認。宗教団体法案審議未了。 |
| 出居清太郎が、ほんみち天理三輪講系から造反した(東光会、修養団捧誠会)。 |
| この年、大本教の本部にいた谷口雅春が、生長の家を開教した。生長の家は、物質を否定し、生命の実相を説く観念中心主義の教義をかかげ、出版物を通じて布教を開始した。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1930(昭和5)年 |
| 【高知大教会の天理教総本部・昭和大改修への献木】 |
| 「天理教総本部の「昭和普請」献木」。 |
| 「天理教総本部・昭和大改修への献木」とは、昭和5年7月26日の天理教本部直属教会長会議が開催され、教祖五十年祭(昭和11年1月)・立教百年祭(昭和12年10月)執行の公示とともに、教祖殿改修と神殿増築の発表が行われた。この普請を「昭和普請」と呼ばれた。これに必要な用材を高知大教会が一手に引き受けることとなった。用材は、南礼拝場の御柱・天然桧40本のほか、小屋組用の栂材など全てを土佐材150万才(5,010㎥)の献納となる大事業である。この天理教本部南礼拝場の御柱・天然桧の大部分は、芳川山(旧大正営林署国有林)から搬出された。この高知の献木事業は「献木映画」として、昭和6年9月27日の芳川山における起工式から伐採・搬出、四万十川の流材の様子などの各場面を映像で記録されており、高知県林産業の貴重な資料となるもの。無声映画であるものの、活動弁士による解説台本(映画説明書)とともに15巻(1巻15分)が現存している。 |
9.14日、従来、一下り毎に「てんりおうのみこと」と唱えていたのを、今後は「なむてんりおうのみこと」と唱えることになった。
| 【「教祖50年祭、立教百年祭」の公示】 |
| 9.26日、「教祖50年祭、立教百年祭」の公示。本部が「神殿及び教祖殿の改築」を発表。教祖五十年祭に向かい現在の教祖殿と南礼拝殿の普請(いわゆる昭和普請)をする旨の発表がとなった。 |
| 【「ほんみち派第一次不敬事件裁判の経緯」】 |
| 大西は、懲役4年、他の被告は2年以下の判決が下された。いずれも執行猶予がついたが、大西は承服せず、幹部信徒5名と共に控訴した。二審判決は原判決を支持し、大西はさらに上告し大審院に持ち込まれた。昭和5.12.5日、原判決が破棄され、無罪を言い渡された。大西の精神鑑定の結果、「宗教的誇大妄想、宗教的憑依妄想を主徴とする特殊の精神病者」が心神喪失中に行った犯行であるとの理由で、無罪判決が下された。 大西は、無罪判決を獲得するや、公然と教団再建に乗り出し、拠点を大阪に定めた。住吉区内を転々とし、昭和8年に西成区松原通りに本邸を定め、昭和10.4月、教団施設を住吉区晴明通りに移し、信徒受付所の看板を掲げた。 |
10月、第3回教義講習会が開催され、松村吉太郎が講師を務める。
10.18日、【本部】天理図書館新築開館、天理図書館より『天理時報』 創刊。
| 【「教祖五十年祭」】 |
| 10.26日、教祖50年祭が執行された。上田ナライトが生前の教祖同様、拙絆などの下着をすべて赤衣(神が着る衣装とされる)に変えてつとめを行っている。 立教百年祭に関する諭達第5号公布、現在の教祖殿と南礼拝殿の普請(いわゆる昭和普請)をする旨の「神殿及び教祖殿の改築」を発表。 |
この年末、教会数が10614ケ所、教師数58107、教徒数202190。
この年、海外事情参考品室が開設され、現在の天理参考館の創始となる。
この年、小学校長を歴任した牧口常三郎と事業家の戸田城聖が、創価教育学会を創立した。これが後に創価学会になる。
| (お道の教勢、動勢) |
| (当時の国内社会事情) |
| (宗教界の動き) |
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この頃から太平洋戦争が始まるまでの時期に布教を始めるのは、天理教、金光教といった「古手の」新宗教と、天台宗、華厳宗東大寺のような、密教的色彩の濃い宗派などが主体である。一九三六年に、ホノルルとロサンゼルスで誌友会を結成した生長の家もここに含まれる。 天理教、金光教は、幕末維新期に活動の草創期があり、大正期には、全国的な組織となっていた。また、生長の家の教祖、谷口雅春は、大本教の出口王仁三郎のもとで、機関誌『神霊界』の編集などを行なっていたが、第一次大本事件ののち、大本教を去り、一九三〇年に独自に運動を始めた。それからまもない頃に海外布教を手がけたことになる。谷口雅春生長の家開教(大本教系)。
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| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1931(昭和6)年 |
1.7日、【本部】教祖50年祭、立教100年祭の教祖殿・神殿建築 計画発表。
| 【山中重太郎が、管長及び本部実権者・松村吉太郎を不敬罪で告訴】 |
| 4.2日、山中重太郎が、管長及び本部実権者・松村吉太郎を不敬罪で告訴。山中重太郎は右翼系の大日本大愛会の主宰者で、日清戦争の従軍記者。天理教の評判を聞いておぢばへ取材のため帰参、初代真柱や松村吉太郎とも面談。明治29年頃には熱烈な信者となり、教義書や教祖伝記などを数々出版したこともあるが、後に態度を変えて批判者となった。 |
6.26日、【本部】神殿・教祖殿起工式(昭和ふしんのはじまり)。
7.2日、【本部】『天理時報』第37号をもって天理図書館より道友社へ移管。
初夏、上田ナライトが胃腸障害となる。この時は二週間の療養で回復している。
9.26日、「泥海古記」(岩井尊人・著)4版発行される。
| (お道の教勢、動勢) |
| 10月、勝ひさのが、ほんみちから造反し天理三輪講を発足させた。 勝ひさのの履歴は次の通り。 岐阜県恵那郡遠山村に生まれる。大正10年、天理教入信。昭和3年、天理本道に改宗。昭和6年、天理本道を脱会。翌年、自分がかんろう台であるとの天啓を受け、昭和8年、天理三輪講を発足。本席・飯降伊蔵の後継者であるとして「二代大工」を名乗った。各地の天理教会へ匂いがけし、相当数の教会長や信者が帰衣、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)に教団施設を造営する。勝は、仏典、天理教教典、キリスト教聖書を研究し、自らを「弥勒菩薩」ろ、「天啓者」、「バプテスマのヨハネ」に当たるとし、昭和12年、「神通開闢(かいびゃく)」を発表。来る太平洋戦争を予言した。昭和14.6.1日、治安維持法違反、不敬罪で逮捕される。昭和16年、帰宅を許されたが、それから間もない4.5日に急死した。後継者として神一条教を開祖した米谷くにがいる。 |
| この年、山田梅次郎が天啓を受ける。関根豊松の愛町宣教所が名古屋市中区宮前町から名古屋市千種区春岡通りに移転する。 |
| (当時の国内社会事情) |
| (宗教界の動き) |
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1931(昭和6).1月、岩手県のかくし念仏弾圧。日本宗教平和会議。賀川豊彦『一粒の麦』。 |
| (当時の対外事情) |
| 1931(昭和6).9.18日、満州事変起る。 |
| (当時の海外事情) |
| 1932(昭和7)年 |
1932(昭和7).1.27日、教義及び史料集成部会議で、教祖50年祭までに教祖伝編集刊行を決定。
2.26日、本部神殿と教祖殿のふしんの石を本島より献納することをお決め頂く。瀬戸内海広島の心経山より本部教祖 殿の礎石の献石ひのきしん始まる。
| 【上田ナライトがまたもや病床に臥す】 |
| 3.23日、上田ナライトがまたもや胃腸障害で病床に臥すようになった。日に日に重体となり、天理教本部では神の重大な警告として受けとめ、全快のためのつとめが行われた。一か月後に床の上に起き上がれるまでによくなったが、足が不自由となり、立ち上がったり、正座ができないために、「おさづけ」を渡すことができなくなってしまった。このときの病気の要因は甥の楢太郎が天理教関係者の借金の肩代わりをして、それがもとで破産に追い込まれたことが関係していたといわれる。 |
5.18日、【本部】第1回全教一斉ひのきしんデー。8.18日、全国一斉路傍講演デー(現在の全教一斉にをいがけデー)始まる。
7.7日、後の三代真柱/中山善衛(ぜんえ)が誕生。
| 【松下幸之助の天理教本部訪問】 | ||||
1932年、ある日、松下幸之助は天理教の本部を見学、いたく感動し、次のような感慨を生んでいる。
この時の体験が「水道哲学」を生み出すことになる。1932年(昭和7年)5月5日、大阪堂島の中央電気倶楽部で開催された、松下電器製作所(当時)の第1回創業記念式で次のように社主告示をしている。これが「水道哲学」として知られている。
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8.18日、【本部】第1回全教一斉路傍講演デー。
12.9日、【本部】真柱様、朝鮮半島など巡教に出発(25日まで)。
この年、本島教会が、天理外国語学校前の天皇行幸記念門柱(現在の真南棟南 側の門柱)石材を献納。
| (当時の国内社会事情) |
| 満州事変。6月、特別高等警察(特高)が新設された。10月、共産党員及びその同調者約2200名が検挙検束された。 |
| (お道の教勢、動勢) |
| (宗教界の動き) |
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1932(昭和7).9月、上智大学生の靖国神社参拝拒否事件が続発。 |
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1932(昭和7)年、秋から、井出クニが春秋2回、上京する時は芹沢光治良夫邸に一泊するようになる。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1933(昭和8)年 |
| 旧暦1.1日、大本を皇道大本と復帰し、大本瑞祥会を解消する。2.6日、京都での対国際連盟緊急大会に昭和青年会を参加させる。3月、紀州熊野神宮に参拝し、国威宣揚の祈願をする。3月、国体会闡明運動を起こし、伊勢神宮ならびに香良洲神社に参拝。6.20日、生母世根子刀自、帰幽。10.4日、亀岡天恩郷にて『霊界物語』天祥地瑞の口述開始。 |
4.18日、教祖誕生祭開始。
5月、京大で滝川事件が起こった。滝川幸辰教官の「刑法読本」が反体制的との理由で文部省から休職処分に伏せられ、抗議運動が起こった事件を云う。
6.12日、【本部】真柱、ハワイ・アメリカ・カナダ巡教に出発(9.23日まで)。6.22日、真柱、ホノルル港ご到着。同日オアフ教会(瀬戸七郎治)、ホノルル教会(上野作次 郎会長)、カワイ教会(木村伊平会長)ご参拝。6.24日、ヒ ロ教会(尾立金左衛門会長)ご参拝。6.25日、マウイへ寄港、 船中にて谷川米四郎マウイ教会長にご挨拶。6.29日午後、エム・プレス・ジャパン号にご乗船。7.4日、ビクトリ ア港ご到着、同日バンクーバー教会(柴田エイ会長)ご参拝、7.6日、列車でご出発。8.30日、真柱、世界宗教大会(シカゴ)で講演。
7.10日、教校別科第50期卒業(本島より52名)。
8.26日、【本部】神殿礼拝場の立柱式。
10.25日、神殿改築で南礼拝殿完成。それまでの神殿は北礼拝殿だけだった。【本部】教祖殿新築落成奉告祭。前日、教祖殿遷座祭。教祖殿は同殿と御用場、双方をつなぐ合殿からなる。教祖殿には化粧室、浴室などを備え、茶菓やご膳を献じるなど、より一段と教祖におつかえできるようになり、存命の理が顕現された。9年2月から教祖にご覧いただく よう『みちのとも』、『天理時報』もお供え。
10.25日、教祖殿新築落成奉告祭。明治21年以来の三条の教憲朗読を止める。10.26日、【本部】親神様仮神殿に御遷座。
12月、旧教祖殿を新祖霊殿として使用するため、定位置たる西北隅に移転終わる。
この年、「Out of Tenrikyo」(岩井尊人著)が発行されている。
| (お道の教勢、動勢) |
| (当時の国内社会事情) |
| 1933(昭和8).2月、プロレタリア文芸作家の小林多喜二が東京築地警察署で虐殺された。 6月、共産党幹部の鍋山貞親、佐野学らが獄中で転向声明を発表した。 |
| 国際連盟脱退。京大滝川事件。 |
| (宗教界の動き) |
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1933(昭8)年、キリスト教系学校にも伊勢神宮大麻の奉祀強制。キリスト教信者の神社参拝拒否事件が続発。会津八一『法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究』。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| [ ナチス党政権獲得]。 |
| 1934(昭和9)年 |
1.27日、【本部】アメリカ伝道庁設立。
2.10日、教校別科第51期卒業(本島より40名、卒業生に向所トヨヱ)。
3.26日、【本部】本部神殿、礼拝場上棟式。
| 【教祖誕生祭始まる】 |
| 4.18日、教祖御誕生日に儀式祭典を初めて執行。この日より列席者一同にもお歌唱和を許される。神殿の儀を終えて、真柱が教祖の御昼食を給仕。 |
4.25日、かんろだい礎石献納石曳き団参 (約2,500名参加、丹波市駅前から本部正門前を経由し工作 場まで、その後お礼づとめ、記念撮影、前後6時間)。
4.28日、【本部】婦人会長に中山せつ様就任。
6.18日、【本部】真柱様、台湾・中国大陸および朝鮮方面巡教(8月6 日まで)。
7.10日、教校別科第52期卒業(本島より75名)。
8.26日、「泥海古記」(岩井尊人・著)7版発行される。
10.15日、【本部】本部神殿に雛型かんろだいを据える。二代真柱様の指導の下、本席時代に板張り二段だった甘露台(高さ六尺直径三寸の棒の上下に直径約一尺二寸厚さ三寸の板をつけたもので「雛型甘露台」と呼ぶ)を改め木製十三段の仮に「二代真柱甘露台」が据えられた。これにより「かぐらづとめ」が正式に勤められるようになった。
| 【神殿落成(神殿・南礼拝場)】 |
| 10.24日、神殿落成につき遷座祭。祭典様式変更。おつとめにお面を着用、かんろだいを囲んで立ちづとめ。 |
| 【木製十三段の雛型かんろだいが据えられる】 | |
| 10.25日、神殿改築落成(昭和普請竣工。神殿、南礼拝場、教祖殿が完成する。南礼拝場増築落成奉告祭でおつとめにお面を着用。天皇の先祖の御分霊としての鏡を廃止した。(神道式お社廃止) この時の「御鎮座祭文」は次の通り。
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| 「天理王命のつとめ」に働きの手をつける(「ちょとはなし」と「かんろだい」)。 |
10.26日、【本部】新祭式による秋季大祭、鳴物復元、をびやづとめ。をびや、はえでつとめなど一切のつとめに鳴り物を入れてつとめることになる。
| 【満州天理村開拓民派遣始まる】 |
| 11.4日、天理教が、国策にのる形で海外布教の実践として第1回天理村移民を満州へ出発させた。 |
| (お道の教勢、動勢) |
| 2.13日、小松駒吉が出直し(亨年70歳)。慶応1年(1865)2月15日、大阪市南区瓦屋町(現・大阪市中央区瓦屋町)生まれ。明治15年(1882、)コレラにかかり危篤のところを、泉田籐吉のおたすけでご守護頂き入信。教祖より赤衣(明治20年1月)・本席よりおさづけ(明治20年12月)。御津支教会(現大教会)初代会長。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』103「間違いのないように」) 渡辺よそが、ほんみち天理三輪講系から造反し、政子甘露台を開教する。 |
| (当時の国内社会事情) |
| 第四期国定教科書( 「忠良ナル臣民」)。 |
| (宗教界の動き) |
| キリスト教諸派来日。
この年、商人出身で大本教地方幹部の岡田茂吉が、世界救世教を開教した。自己にかかった観音の霊力で病気が治るとした。岡田は〈お光さま〉とよばれ、救世主〈明主〉として病貧争のない地上天国の実現を約束した。 |
| 1934(昭和9)年、井出クニが、右脚切断の診断を受けた芹沢光治良の岳父・藍川清成のお抱え運転手を治す。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1935(昭和10)年 |
1.27日、【本部】第5回教義講習会(1月29日まで)。
2.14日、【本部】毎年4月18日から27日までを教祖ご誕生奉祝旬間と定める。
4.18日、【本部】教祖御誕生奉祝(慶祝)旬間始まる。
4.23日、【本部】天理教よのもと会第1回総会開催。
5.26日、【本部】5月と8月を除く毎月18日を全教一斉にをいがけデーとすることに決定 (よのもと会主催、6月18日にその第1回)。
7.10日、教校別科第54期卒業(本島より98名) 。
10.1日、【本部】教祖ご生家の建物を誕生殿と命名。
10.3日、【本部】天理教校よのもと会により、よろづ相談所開設。
| 【当時の名おさとし人座談会】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「みちのとも昭和10年2月5日号」に当時活躍されていた先人達の「おさとし座談会」での語り内容が紹介されている。メンバーは次の通り。
「先人はどんな「おさとし」をしていたのか」。(※一部現代仮名遣いに直しています)
「馬を湖に連れて行くことは出来ても、水を飲ませることはできない」。水を飲ませる事に人間は関与できませんから、神様が働いて下さるように本気で徳積み(理づくり)をしていたのだと思います。 |
| 【教祖50年祭前弾圧事件】 |
| 12.16日、教祖50年祭の前月、天理教管長の中山正善の贈収賄容疑で、警察130名が丹波市の天理教本部を捜索、税務問題に関しと称し、特高警察の検索を受ける。4幹部が連行されている。 |
| 【天理よろづ相談所開設】 |
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この年、天理教の教理に基づく医学と信仰の「二つ一つ」による陽気暮らし世界実現に寄与せんとする施設「天理よろづ相談所」が開設されている。相談に携わる事情部講師は、教会本部や全国各地の直属教会から推薦を受けた現職の教会長、前会長、会長夫人、詰所(各大教会の天理宿泊所)の主任ら約80名で、365日24時間体制の交替制で任に当たっている。1か月8日以上勤務で宿直もある。 |
この年末、教会数が11949ケ所、教師数78508、教徒数281700。
| (お道の教勢、動勢) |
| (当時の国内社会事情) |
| 1935(昭10)年、政府、国体明徴を声明。この頃から、八紘一宇などのスローガンが掲げられるようになった。 |
| (宗教界の動き) | ||
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| 官幣社・国幣社199・府県社1016・郷社3607・村社44864・無格社61351・神職約15000人。 | ||
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12月、大本教第2次弾圧。岡田世界救世教熱海開教。谷口雅春生長の家創立(←大本教系)( 敬神尊皇 )。 |
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| 1935(昭和10)年、井出クニが、芹沢光治良の岳父・脳溢血の後遺症を持つ藍川清成とバセドー氏病の妻・金江を治す。 | ||
| 神戸にモスク創建。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1936(昭和11)年 |
| 【山田梅次郎が「 おうかんみち教」運動を開始する】 |
| 1936(昭和11).1.11日、山田梅次郎(1875.5.8日)~1941.11.8日)(明治8年―昭和16年)が天啓活動に入り天理教新派を立ち上げる。天理教教祖中山みきの夫、善兵衛の生まれ替わりの天啓者・人間甘露台であると唱え、「甘露水(神種)授け」という救済の秘儀を始める。同時に当時の天理教内部で廃止されていた「扇の授け(伺い)」、「息の授け」を復活させている。翌1937(昭和12)年、東京、奈良、長野でも「甘露水授け」を行い、一年余りの活動で組織を整え、12.23日、名古屋市内の自宅で、十天上王神月日大神の天降りを受け、天理神の口明場所「
おうかんみち教」を立教し教祖となる。地上的人間的顕現として親神の社となる。世界丸輪の大義を世に顕示し、神人合一、甘露合世界達設の大望事情を打ち出した。しかし、1938(昭和13).11.21日、治安維持法違反で検挙される。'1939(昭和14)年、一時保釈となるが、翌年、懲役5年の実刑判決を受け控訴。
1941(昭和16)年、控訴審で懲役2年、執行猶予4年の判決となるが同年死去した。享年67歳。 天啓までの履歴は次の通り。愛知県海部郡蟹江町出身。御神号を根株甘露台。農業を営む山田林吉・冨美の四男として生まれる。 8歳の時に父が没し、母は目を患い全盲となる。幼い頃から兄を助け家の仕事を手伝った。1899(明治32)年、臀部に腫れ物ができ天理教に入信。下駄、鍋蓋製造業を営むかたわら、天理教校別科を修了し、のちに権少講義になる。1912(大正元).10.23日、38歳の時、初めて神意を感得し、天の将軍月日大神の神がかりを教えとして大天啓者となる。1925年、天理研究会に入会し、1928(昭和3)年、『研究資料』を配布し検挙、起訴猶予処分となる。その後、天理三輪講、天理神の打開場所に入信。1931年、天啓を受け石の甘露台を造っている。(「山田梅次郎」その他参照) 「おうかんみち」教理は、御祭神として、宇宙を支配する元親神様「十天上王神」、人間創造人間魂の産み親神「月日玉神」、人間肉体の産み親神「岐美王神」を祀り、『三社三棟の親神様』と位置付けている。天の食物「甘露水」を授け、この甘露水を頂くと入込社となり、胸内に親神が宿り、心を育ててくれるというのが特色となっている。「扇の伺い」による天啓のなかには、国体の変革や理想世界実現に触れたもの、また敗戦や天変地異の予言ともとれるものも含まれている。(「おうかんみち教」) |
| 【教祖50年祭執行】 |
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【本部】教祖50年祭が盛大に執行された。1月26日から2月18日(陰暦正月26日)までを年祭期間とし(以降恒例)、1月26-28日、2月7日、2月18日の3 回祭典。期間中毎日おつとめを勤める。中山正善二代目真柱は、天理王命を祀るヤタ鏡とお社を廃止して、つとめのぢばに「かんろだい」を立て、教義を教祖が教えたかんろだいのつとめの理に復元する事を宣言した。帰参者100余万。南門(黒門)完成。 |
| 1.27日、【本部】両年祭記念に『おふでさき』『おさしづ』(第1巻)下付。 |
2.26日、教校別科第55期卒業(本島から165名、過去最多数)。
4.18日、教祖誕生奉祝旬間第一回。立教百年祭に関する諭達第6号公布。
4.18日、【本部】教祖誕生祭での奉祝歌奉唱始まる 木村光江作詞、内田甚太郎作曲「教祖御誕生祝歌。
4月、大西が、教団名を天理研究会から天理本道と改めた。信徒を動員し、天理教に徹底した匂いがけを行った。
| 6.5日、山中重太郎が「泥海古記」の編纂者・岩井尊人(元文部大臣平生○太郎氏の秘書官、後に天理教管長顧問)を不敬罪で告訴する。 |
| (お道の教勢、動勢) |
| 1.11日、天啓者を名乗る山田梅次郎が。「天啓者・人間かんろう台」であるとして、「甘露水授け」の秘義を始める。 |
| 1.25日、宮森與三郎が出直し(亨年80歳)。安政4年(1857)3月5日、大和国式下郡檜垣村(現・奈良県天理市檜垣町)生まれ。幼い頃、岡田家より宮森家へ養子入籍。明治10年(1877)、左腕の痛みから入信。おさづけ(明治14年)。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』69「弟さんは、尚もほしい」) |
| 7.20日、山澤為造が出直し(亨年80歳)。1857(安政4)年、1.12日、大和国山辺郡新泉村(現・奈良県天理市新泉町)生まれ。山澤良治郎の二男。妻(梶本)ひさは初代真柱の姉。 |
| 1936(昭和11)年、出直し(亨年71歳)。 永尾よしゑの履歴は次の通り。1866(慶応2)年、本席飯降伊蔵の長女として、出生。明治11年、12歳の時より三曲(三味線)を、教祖より三年間習う。1882(明治15)年、飯降一家お屋敷に伏せ込む。明治21年、永尾楢次郎と結婚。明治20年1.26日のおつとめで三味線をつとめる。 |
| (当時の国内社会事情) |
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2.26日、2.26事件。不穏文書臨時取締法制定される。7月、日支事変(日中戦争)が始まる。[日独伊防共協定]。 |
| (宗教界の動き) | ||
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1936(昭和11).3月、神政龍神会弾圧。9.27日、ひとのみち(PL教団の前身)初代教主御木徳一が教祖の地位を譲った翌日、警察に拘引され「ひとのみち事件」がはじまった。昭和12年に結社禁止になり解散する。(1946年、PL教団として発足する)。天津教弾圧。12月、新興仏教青年同盟弾圧。大日本観音会(のちの世界救世教)弾圧。満州・中華民国神社規則。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1937(昭和12)年 |
| 【上田ナライト出直し(75歳)】 | |
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1.12日、1877(明治10)年、上田ナライトが出直した(享年75歳)。上田ナライトの履歴は次の通り。
1863(文久3)年.2.23日、大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)生まれ。1876(明治9)、神経病のようなものをきっかけに入信。教祖より胡弓を教えて頂き、1878(明治12)年、「一身暮らし」と教祖にもらい受けられる。1907(明治40)年6.6日(陰暦4.26日)、伊降本席が後継指名し、明治40年より大正7年までおさづけの運びをつとめる。(稿本天理教教祖伝逸話篇48「待ってた、待ってた」) 最後までナライトに仕えた婦人が、随筆で次のように記している。
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1月、【本部】天理中学校校舎完成(現在の天理高校本館)。
2.10日、教校別科第57期生卒業。
4.25日、【本部】天理教会設立50年記念祭。正門(南門)に「天理教教庁」と「天理教教会本部」の看板が あがる。
| 【天理研究会が天理本道と改称】 |
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4月、大西派が教団名を天理研究会から天理本道と改称し、天理教に対して徹底した匂いがけを開始した。 |
| 【時局迎合で教義改竄】 |
| 「みかぐらうた」は、よろづよ、三下り目、五下り目が削除された。おふでさき、おさしずも各教会から回収され、天理教教典のみを教義として時勢に協力した。 |
| 【日中戦争の重大時局に処して諭達第7号公布】 | |
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7.26日、日中戦争の重大時局に処して諭達第7号公布。
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9月、天理本道派が、幹部(中井銀次郎、中川喜六、小浦芳雄ら)を天理教本部に派遣し、二大真柱正善との会見を望んだが拒否され、本部員の松村吉太郎らと会い、教義論を闘わせた。
| 【教祖50年祭、立教百年祭が執行される】 |
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10.26日、秋季大祭執行。本日より立教100年祭まで、毎朝本づとめを執行(11.28日まで)。11.22日、教祖50年祭、立教100年祭の記念品として「おふでさき索引」を下付。11.28日、立教百年祭執行。 |
| (お道の教勢、動勢) |
| 1.12日、上田ナライトが出直し(亨年75歳)。 |
| 2.27日、板倉槌三郎が出直し(亨年78歳)。万延1年(1860)2月18日、河内国高安郡恩智村(現・大阪府八尾市恩智)生まれ。明治9年、兄の病をきっかけに入信。中河分教会(現大教会)2代会長・平安支教会(現大教会)2代会長・水口大教会2代会長。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』56「ゆうべは御苦労やった」) |
| 12.23日、元天理教の講師、その後ほんみち、ほんみち天理三輪講へ移っていた山田梅次郎が天啓者として「天啓者・人間かんろう台」を名乗り、天理神之口明場所を開教。名古屋のほか東京、奈良、長野でも活動を行う。 |
| 石々川駒吉が、ほんみち天理三輪講系から造反し、三理三腹元を開教する。 |
| (当時の国内社会事情) |
| 7.7日、盧溝橋で日中両軍衝突、日中戦争(支那事変)勃発。大日本帝国と中華民国が、盧溝橋事件により全面戦争状態へ(昭和天皇名義での宣戦布告はされていない)。 |
7.26日、【本部】日中戦争の重大時局に処して諭達第7号公布。
10.26日、【本部】秋季大祭より立教100年祭(11月28日)まで、 毎朝本づとめを勤める。
11.28日(陰暦10月26日)、【本部】立教100 年祭執行。帰参者10数万人。祭典は午前11時より行われ、祭典の 実況が11時20分から59分まで、大阪放送局から全国 に中継放送された。
| (宗教界の動き) |
| 文部省思想局が「国体の本義」(当時は旧字体で「國體―」)を発行する。政府の刊行物に公式用語として現人神が記載され、天皇の神格性について言説化(言挙げ)された。「国体の本義」は必須の教材であった。 |
| 文相宗教団体代表に挙国一致運動を要望。文部省通達「皇祖皇宗がその神裔にあらせられる天皇に現われまし」。 |
| 新興仏教青年同盟弾圧解体。寺院境内地譲渡申請規則廃止。 |
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この年、大本教第二次不敬事件の裁判が開廷された。高山義三を始め多くの弁護士による弁護団が形成され、激しい法廷闘争が行われた。 |
| 牧口常三郎・戸田城聖創価教育学会発会。 |
| 1937(昭和12)年、井出クニが、芹沢光治良の義母・胃癌の藍川しむの寿命がないことを告げる。 |
| イエス之御霊教会教団設立。カトリック横浜・京都司教区設置。 |
| (当時の対外事情) |
| 上海事件。 |
| (当時の海外事情) |
| 1938(昭和13)年 |
天理本道派が、お指図を抜書きしたパンフレット10万部を7月まで全国1万2千の天理教の各教会に送り続けた。更に、一般社会宛の書信と題するパンフレットの作成に入った。
2.10日、天理教校別科第59期卒業(本島より104名)。
3.12日、衆議院国家総動員法委員会にて今井新造委員の天理教第1回審判。
3.16日、【本部】別科課程修了後に検定試験を行うことを発表。
4.3日、【本部】教会本部より全教会に『みちのとも』『天理時報』 を交付することになる。
4.10日、【本部】天理教校本科第1回入学式。
4.18日、天理教校よのもと会が天理教よのもと会と改称。
6.8日、樫原神宮建国奉仕隊結成式に天理教より1400名出席。
7.10日、以前より静養中の初代真柱様夫人、中山たまえが出直し(享年61歳)。二代真柱がそのつなぎを務めることになる。7.26日、【本部】2代真柱のおさづけのお運び初め。
| 【「ほんみち派第二次不敬事件」】 |
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8.12日、天理本道派が、1928(昭和3)年の「ほんみち派第一次不敬事件」に続いて書信№6「憂国の士に告ぐ」と題した書信を発表し、大阪朝日、大阪毎日の両新聞社へ届けた。10月半ば、天理本道派が、二人一組の説明班を編成し、書信、教理、教義解説書、泥海古記を持たせて警察署、検事局、憲兵隊へ出向かせ、配布した理由を説明させた。全国の信徒が約900万部を個別配布して廻った。11.21日早朝、警察検察当局が、天理本道派の大弾圧に乗り出した。第一次一斉検挙で約1千名の信徒が検挙、約400名が収監、149名が逮捕された。一斉検挙後も書信が配布され続け、当局が手を焼いた。翌1839(昭和14)年5月、第二次一斉検挙206名が逮捕され、全部で273名が起訴された。世にこれを「ほんみち第二次不敬事件」と云う。ちなみに昭和10年の「第二次大本弾圧事件」で起訴された信徒は61名である。 |
| 【中山正善2代真柱管長が文部省に呼び出され、時局協力を要請される】 |
| この頃、文部省が、全宗教団体に対して、国家非常時体制の強化を期して更に国家神道体制に翼賛するよう全面協力を要請していた。各宗教団体かその対応の道を歩み始めていた。 11.4日、天理本道派の第一次一斉検挙後、天理教本部の中山正善2代真柱管長が、監督官庁である文部省に呼び出され時局協力を要請された。そのときに求められたのは、現下の諸情勢に即応できるような革新的な体制を整備し実行するということであった。天理教は特に問題視されており、監視が一層厳しくなっているから猶予はできないとの指示であった。天理教本部は、当局の意を踏まえて協議した結果、次のような重要事項の改変、即ち教義儀式およびその他の行事は、すべて教典に依拠して行うこと。また、泥海古記、元初まりの話に関連する教理は、今後一切説かないことなどを決断した。「信仰的生命の浮沈に関わる事柄であったから、言語に絶した苦しい決断であった」(天理教事典第3版P206)。 |
| 【「中山正善管長が諭達第8号で、泥海古記教説禁止指示」】 | |
| 12.6日、日中戦争勃発後のこの頃、内務省や文部省宗教局の指示により、当時の軍部へ迎合する形で教内刷新を目的とした革新委員会(委員長・島村国次郎他委員12名)を設置し、二代真柱列席の元に於いて内務省と文部省宗教局より指示された事項に全て従うという決定を下した。この決断を本部教理では「革新」と云う。この後「革新」の名のもとに弾圧の時代
を歩むことになる。 これにより、天理教本部は、全ての教義を「天理教教典」(明治36年編集の明治教典)に依拠させ、教団内でかぐらづとめに於ける十柱面の着用中止。「みかぐらうた」から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除した新修御神楽歌の刊行、文部省の指示に則った「天理教教典衍義」を発表した。他にも、泥海古記に関する教説配布の禁止。全国各教会を通しての鉄材、金物の供出協力。天理教輸送部への満州、南方作戦の軍事物資と軍隊の輸送協力等が指示された。 青年会や婦人会、教師会などを統合した天理教一宇会を結成。天理市内の「詰所」の名称を使用中止し「寮」に改め、軍関係の宿泊施設として提供。「革新教理」と称して、軍部の要請に合わせての戦争協力教理を説明する「革新講習会」の定期的な開催。全国各地に「いざ、ひのきしん隊」の結成を奨励し、戦地への男子信者徴発協力、若草山炭坑掘りひのきしん等々、老若男女を問わず各地でひのきしんが行われた。強制、自発を問わず、あらゆる形で戦時国家体制に協力しこれが終戦まで続けられた。 12.26日、天理教本部の中山正善管長が諭達第8号を公布。「今や、皇国は八紘一宇の大理想を承け」、泥海古記に関する教説の禁止を指示した。諭達第8号発令後は、「泥海古記」、「お指図」、「お筆先」の引用自粛、信徒から冊子自体を回収し、滋賀県の板紙工場に送り板紙に変えた。
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この年、大本教第二次不敬事件の京都地方裁判所の第一審が開廷。以来、長年にわたる法廷での闘いが繰り広げられた。
| (お道の教勢、動勢) |
| 1938(昭和13)年の時事年鑑に、天理教の信者数4,559,000人の記述がある。天理教の信者数は明治末から大正・昭和初期にかけて大きく増加し、昭和初期にピークを迎え500万人以上にのぼったといわれている。特に教祖30年祭及び40年祭が執行された大正から昭和初期頃にかけて行われた「教勢倍加運動」によって信者を獲得しており、時を同じくして分派団体が多く発生している。文化庁の宗教年鑑令和2年版では120万1471人となっている。 教会数は2015年末の教内統計で1万6677とされている。 |
| この年、中村しげが天理教本部から造反し、太道教を開教する。会田ヒデが、ほんみち天理三輪講系から造反し、世界心道教を開教する。 |
| この年、「天啓者・人間かんろう台」であるとして天理神之口明場所を開教していた山田梅次郎が治安維持法違反で検挙される。昭和15年、実刑判決を受けて控訴。翌年、控訴審で執行猶予4年の判決を受けた後、急死している(亨年67歳)。山田梅次郎の弟子として江上寿胤(としたね)(おうかんみち教主)、岡本ツエ(日の本神誠講教主)、深沢まつ江(月日大還道祭主)、山田そめを(月日3世の道真知岳本部祭主)、山田金治(神和教会教主)などがいる。 |
| ほんみち―天理三輪講系の分派運動の展開は大正末から昭和10年代前半に集中している。この時の分派教団は多かれ少なかれ終末論的性格を分け持っているところに特徴がある。15年戦争や国際社会での日本の孤立化といった危機的状況を背景に、いずれも治安維持法や不敬罪で関係者が検挙されている。ここでも昭和10年・12年の教祖五十年祭・立教百年祭の年限に何らかの意味を感じ取った信者たちの動きがあった。 |
| (当時の国内社会事情) |
| (宗教界の動き) |
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招魂社を護国神社と改称。1938(昭和13).3月、大阪憲兵隊、管下のキリスト教会に質問状を出す。11月、ほんみち第2次弾圧。大日本立正佼成会( 妙法蓮華経) 開教←霊友会。大社国学館( 出雲)。鈴木大拙『禅と日本文化』。東京にモスク建設。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
| 1939(昭和14)年 |
1939(昭和14).1.1日、元旦祭より、かぐらにお面の着用をやめる。
| 2.1日、天理教校別科を廃止し、天理教校修養科新設。 |
2.2日、衆議院予算委員会で今井新造氏の発言。
3.13日、天理教本部が、文部省の宗教局長宛に報告書を提出。
3.18日、諭達8号の趣旨に基づき、「天理教よのもと会」は「天理教教師会」と改称する。
3月、各地方裁判所検事局の検事が東京に集合し、天理本道派を治安維持法違反と不敬罪で起訴する方針を決め、天理本道を次のように規定した。
| 天理本道は天理教本部に対立し、大西愛治郎を以って神格者たる甘露台にして究極に於いて世界の統治者たるべきものなりと為し、先ず我が国に於いて国体を変革し同人が独裁統治する社会を実現することを目的とする結社にして当面匂いがけその他宣伝啓蒙運動の方法等により我が国民の国体観念を変革することを任務とするものなり(「特高月報」昭和14.3月分所収) |
4.1日、「よろづよ8首」、三下り目、五下り目を削除した「新修御神楽歌」を刊行。「やまとのぢば」、「もとのかみ」、「じつのかみ」などがその対象となる。
5月、警察検察当局が、天理本道派の第二次一斉検挙に乗り出した。これらより206名が逮捕された。結局、374名が逮捕され、273名が起訴された。ちなみに昭和10年の「第二次大本弾圧事件」で起訴された信徒は61名である。
9月、内務省が、天理本道に解散命令を発する。これにより天理本道は、教団財産の整理を行わなければならないことになった。
12.1日、【本部】革新の徹底教化について告示第1号発表。おふでさきの引用自粛。
この年、 【本部】各教会下付の『おふでさき』、『おさしづ』を回収する。
| (お道の教勢、動勢) |
| 12.17日、増井りんが出直し(亨年97歳)。天保14年(1843)2月16日、河内国大県郡大県村(現・大阪府柏原市大県)生まれ。明治7年、失明をご守護頂き初参拝。教祖より「針の芯」のお許し・赤衣を頂く。教祖・本席のお守り役 別席取次人 息のさづけ。長男・幾太郎(1863‐1926)は大縣支教会(現大教会)初代会長。長女とみゑ(1867‐1908)は明治10年最初に三曲を教えられた控。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』36「定めた心」、44「雪の日」) |
| (当時の国内社会事情) |
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1939年、映画法制定される。 〔第二次大戦勃発〕。 |
| (宗教界の動き) |
| 大日本帝国陸軍は従軍神職制度を定め、各師団に3名、兵站監に2名、独立旅団に1名を配した。 |
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1939(昭和14).6月、日本灯台社弾圧。宗教団体法が制定され、1940(昭和15).4月より施行される。 |
| (当時の対外事情) |
| (当時の海外事情) |
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(私論.私見)