第92部 |
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ほんみち派の第一次不敬事件、第二次不敬事件まで |
更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.8.22日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「ほんみち派の第一次不敬事件、第二次不敬事件まで」を確認しておく。
2007.11.30日 れんだいこ拝 |
【大本教の躍進】 |
2.1日、大本教の出口王仁三郎の長女・直日が高見元男(後に日出麿)と結婚式を挙げる。3.3日、王仁三郎みろく大祭にて『弥勒下生の宣言』を行う。
- 今日こそは五十六年七ヶ月みろくの神世の初めなりけり
- 諸方面、諸ぼさつひきい、弥勒ぼさつ高天原より今日下生せり
- 万代の常夜のやみもあけはなれ、みろく三会のあかつきよし
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5月、四国巡教『ふたな日記』執筆。7月、東北・北海道・千島・国後巡教、『東北日記』執筆。この間亀岡にては月宮殿を始め諸種の建築物の竣成を見る。
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2.21日、大西の「岩戸古記」が224首で完結した。
【「ほんみち派第一次不敬事件」】 |
3月初旬、ほんみち派の「研究資料」が完成する。3.20日頃、大西愛治郎の若宮・愛信が側近の幹部の楠平助に「奈良県庁に『研究資料』を直ちに持って行け」と激しく迫った。3.22日、幹部役員会が開かれ、概要「愛信の所作は、速やかに研究資料を世に公開し、来るべき大国難に備えるべしとの神示」と聞き分け、奈良県庁、警察その他に資料を送付することを決定した。
3.22日、高田警察、3.23日、奈良県庁、、警察部保安課、3.24日、同内務部、3.26日、一般社会への喧伝開始。研究資料の配布先は、内閣、各省、府県庁、警察署、外国公使館、貴族院衆議院各議員、知名士、有力者に配布された。教内は、「高山に対する神の思惑の打ち出し」と位置づけた。
4.3日、警察・検察当局が報道管制を敷きつつ摘発に動いた。教義で天皇の神格を否定したとして、研究所を閉鎖し、4.9日、教祖・大西愛治郎夫妻が逮捕されたのを始め、天理研究会員約500名が拘引された。そのうち180名が不敬罪で起訴された。これを「ほんみち派第一次不敬事件」と云う。
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4.26日、本部より「おふでさき」第一冊公刊(8月、全5巻公刊完了)。
8.23日、「ほんみち派第一次不敬事件」が記事解禁となり、各新聞社がトップ記事で報じた。
10.18日、真柱中山正善(23歳)が、山沢せつ(18歳)と結婚。
10月下旬、「おふでさき」講習会。
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10月、「泥海古記」(岩井尊人・著)発刊。但し、1930(昭和5).3.25日、安達内閣のもと発売禁止。同年7.5日、3版発行。1931(昭和6).9.26日、4版発行。1934(昭和9).8.26日、「泥海古記」7版発行。 |
治安維持法が死刑に改悪される。
1927(昭和2)年、金融大恐慌。
本部よりお指図公刊。
天理教本部の教会数が、昭和3年時点で1万を越えて10342となり、信者数もすでに明治末から400万台といわれている。
(お道の教勢、動勢) |
4.30日、増田甚七が出直し(亨年66歳)。文久3年(1863)5月20日、大和国式下郡八田村(現・奈良県磯城郡田原本町八田)生まれ。生家・笹村家より呉服商増田家(大和国添下郡柳町村‐現・奈良県大和郡山市柳町)に婿養子に入り甚七と改名(幼名・甚之助)。明治19年(1886)、二女の乳母のリウマチを平野楢蔵のおたすけでご守護頂き入信。郡山分教会(現大教会)2代会長。 |
8.6日、土佐卯之助が出直し(亨年74歳)。安政2年(1855)6月15日、周防国佐波郡向島‐(現・山口県防府市向島)生まれ。徴兵問題で徳島・撫養の山西回漕店に身を寄せる。明治11年(1878)、生家白井家より土佐家の養女まさの婿養子となる。この年、心臓脚気を博多藤次郎のおたすけでご守護頂き入信。翌年初参拝。おさづけ(明治21年) 撫養支教会(現大教会)初代会長。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』88「危ないところを」 99「大阪で婚礼が」 152「倍の力」 175「十七人の子供」) |
(当時の国内社会事情) |
1928年、治安維持法改正(緊急勅令により改正、最高死刑、目的遂行のためにする行為も対象)される。
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(宗教界の動き) |
1928(昭和3).4月、ほんみち第1次弾圧。岡田茂吉大本教から分離世界救世教開教。牧口常三郎日蓮正宗入信。カトリック大分司教区設置。※[ アメリカテネシー州で進化論教育裁判禁止側勝訴]
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1929(昭和4).5.1日、天理教道友社から「天理教綱要」を出版。基本教義書として、1・泥海古記、2・みかぐらうた、3・おふでさき、4・おさしづ、5・天理教教典(明治教典)となる。
7月、地方別おさしづ講習会。
この年、大本教の本部にいた谷口雅春が、生長の家を開教した。生長の家は、物質を否定し、生命の実相を説く観念中心主義の教義をかかげ、出版物を通じて布教を開始した。
(お道の教勢、動勢) |
10.29日、茨木基敬が出直し(亨年75歳)。 |
(当時の国内社会事情) |
折口信夫・金田一京助民俗学会設立。 共産党弾圧。 |
(宗教界の動き) |
1929(昭和4).12月、神社制度調査会設置、神社は宗教にあらずと確認。宗教団体法案審議未了。
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出居清太郎が、ほんみち天理三輪講系から造反した(東光会、修養団捧誠会)。 |
1930(昭和5).2.11日、天理教校よのもと会発会式。
3.25日、 安達内閣のもと、「泥海古記」(岩井尊人・著)が発売禁止される。但し、7.5日、3版が発行されている。
【高知大教会の天理教総本部・昭和大改修への献木】 |
「天理教総本部の「昭和普請」献木」。 |
「天理教総本部・昭和大改修への献木」とは、昭和5年7月26日の天理教本部直属教会長会議が開催され、教祖五十年祭(昭和11年1月)・立教百年祭(昭和12年10月)執行の公示とともに、教祖殿改修と神殿増築の発表が行われた。この普請を「昭和普請」と呼ばれた。これに必要な用材を高知大教会が一手に引き受けることとなった。用材は、南礼拝場の御柱・天然桧40本のほか、小屋組用の栂材など全てを土佐材150万才(5,010㎥)の献納となる大事業である。この天理教本部南礼拝場の御柱・天然桧の大部分は、芳川山(旧大正営林署国有林)から搬出された。この高知の献木事業は「献木映画」として、昭和6年9月27日の芳川山における起工式から伐採・搬出、四万十川の流材の様子などの各場面を映像で記録されており、高知県林産業の貴重な資料となるもの。無声映画であるものの、活動弁士による解説台本(映画説明書)とともに15巻(1巻15分)が現存している。 |
9.14日、従来、一下り毎に「てんりおうのみこと」と唱えていたのを、今後は「なむてんりおうのみこと」と唱えることになった。
【「教祖50年祭、立教百年祭」の公示】 |
9.26日、「教祖50年祭、立教百年祭」の公示。本部が「神殿及び教祖殿の改築」を発表。教祖五十年祭に向かい現在の教祖殿と南礼拝殿の普請(いわゆる昭和普請)をする旨の発表がとなった。 |
【「ほんみち派第一次不敬事件裁判の経緯」】 |
大西は、懲役4年、他の被告は2年以下の判決が下された。いずれも執行猶予がついたが、大西は承服せず、幹部信徒5名と共に控訴した。二審判決は原判決を支持し、大西はさらに上告し大審院に持ち込まれた。昭和5.12.5日、原判決が破棄され、無罪を言い渡された。大西の精神鑑定の結果、「宗教的誇大妄想、宗教的憑依妄想を主徴とする特殊の精神病者」が心神喪失中に行った犯行であるとの理由で、無罪判決が下された。
大西は、無罪判決を獲得するや、公然と教団再建に乗り出し、拠点を大阪に定めた。住吉区内を転々とし、昭和8年に西成区松原通りに本邸を定め、昭和10.4月、教団施設を住吉区晴明通りに移し、信徒受付所の看板を掲げた。 |
10月、第3回教義講習会が開催され、松村吉太郎が講師を務める。
【「教祖五十年祭」】 |
10.26日、教祖50年祭が執行された。上田ナライトが生前の教祖同様、拙絆などの下着をすべて赤衣(神が着る衣装とされる)に変えてつとめを行っている。
立教百年祭に関する諭達第5号公布、現在の教祖殿と南礼拝殿の普請(いわゆる昭和普請)をする旨の「神殿及び教祖殿の改築」を発表。 |
この年末、教会数が10614ケ所、教師数58107、教徒数202190。
この年、海外事情参考品室が開設され、現在の天理参考館の創始となる。
この年、小学校長を歴任した牧口常三郎と事業家の戸田城聖が、創価教育学会を創立した。これが後に創価学会になる。
(宗教界の動き) |
この頃から太平洋戦争が始まるまでの時期に布教を始めるのは、天理教、金光教といった「古手の」新宗教と、天台宗、華厳宗東大寺のような、密教的色彩の濃い宗派などが主体である。一九三六年に、ホノルルとロサンゼルスで誌友会を結成した生長の家もここに含まれる。
天理教、金光教は、幕末維新期に活動の草創期があり、大正期には、全国的な組織となっていた。また、生長の家の教祖、谷口雅春は、大本教の出口王仁三郎のもとで、機関誌『神霊界』の編集などを行なっていたが、第一次大本事件ののち、大本教を去り、一九三〇年に独自に運動を始めた。それからまもない頃に海外布教を手がけたことになる。谷口雅春生長の家開教(大本教系)。
賀川豊彦神の国運動。新興仏教青年同盟結成。戸田城聖創価教育学会創立( ←日蓮正宗)。牧口常三郎『創価教育学大系』。霊友会( 法華経日蓮系)
結成。キリスト教55団体神社参拝強制配慮請う。
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【山中重太郎が、管長及び本部実権者・松村吉太郎を不敬罪で告訴】 |
4.2日、山中重太郎が、管長及び本部実権者・松村吉太郎を不敬罪で告訴。山中重太郎は右翼系の大日本大愛会の主宰者で、日清戦争の従軍記者。天理教の評判を聞いておぢばへ取材のため帰参、初代真柱や松村吉太郎とも面談。明治29年頃には熱烈な信者となり、教義書や教祖伝記などを数々出版したこともあるが、後に態度を変えて批判者となった。 |
初夏、上田ナライトが胃腸障害となる。この時は二週間の療養で回復している。
9.26日、「泥海古記」(岩井尊人・著)4版発行される。
(お道の教勢、動勢) |
10月、勝ひさのが、ほんみちから造反し天理三輪講を発足させた。
勝ひさのの履歴は次の通り。
岐阜県恵那郡遠山村に生まれる。大正10年、天理教入信。昭和3年、天理本道に改宗。昭和6年、天理本道を脱会。翌年、自分がかんろう台であるとの天啓を受け、昭和8年、天理三輪講を発足。本席・飯降伊蔵の後継者であるとして「二代大工」を名乗った。各地の天理教会へ匂いがけし、相当数の教会長や信者が帰衣、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)に教団施設を造営する。勝は、仏典、天理教教典、キリスト教聖書を研究し、自らを「弥勒菩薩」ろ、「天啓者」、「バプテスマのヨハネ」に当たるとし、昭和12年、「神通開闢(かいびゃく)」を発表。来る太平洋戦争を予言した。昭和14.6.1日、治安維持法違反、不敬罪で逮捕される。昭和16年、帰宅を許されたが、それから間もない4.5日に急死した。後継者として神一条教を開祖した米谷くにがいる。 |
この年、山田梅次郎が天啓を受ける。関根豊松の愛町宣教所が名古屋市中区宮前町から名古屋市千種区春岡通りに移転する。 |
(宗教界の動き) |
1931(昭和6).1月、岩手県のかくし念仏弾圧。日本宗教平和会議。賀川豊彦『一粒の麦』。
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(当時の対外事情) |
1931(昭和6).9.18日、満州事変起る。 |
1932(昭和7).1.27日、教義及び史料集成部会議で、教祖50年祭までに教祖伝編集刊行を決定。
【上田ナライトがまたもや病床に臥す】 |
3.23日、上田ナライトがまたもや胃腸障害で病床に臥すようになった。日に日に重体となり、天理教本部では神の重大な警告として受けとめ、全快のためのつとめが行われた。一か月後に床の上に起き上がれるまでによくなったが、足が不自由となり、立ち上がったり、正座ができないために、「おさづけ」を渡すことができなくなってしまった。このときの病気の要因は甥の楢太郎が天理教関係者の借金の肩代わりをして、それがもとで破産に追い込まれたことが関係していたといわれる。 |
7.7日、後の三代真柱/中山善衛(ぜんえ)が誕生。
この年、全国一斉ひのきしんデー(現在の全教一斉ひのきしんデー)。全国一斉路傍講演デー(現在の全教一斉にをいがけデー)始まる。
【松下幸之助の天理教本部訪問】 |
1932年、ある日、松下幸之助は天理教の本部を見学、いたく感動し、次のような感慨を生んでいる。
「宗教は非常に尊いが、それは人びとに安心立命を与える教えを提供しているからであろう。われわれ生産人は、そういう精神的な喜びは与えられないが、しかし生活になくてはならない物資を提供している。そうすると形はちがうが、その尊さには変わりはないのではないか」。(「私の行き方 考え方」、) |
「世の中の求めのないところ、いかなる職業も成り立ち得ないのです。その意味ではお互いの仕事、職業は、自分でやっているというよりも、社会にやらせてもらっているのだということになると思います。そのように考えますと、そこには一つの大きな安心感と感謝の気持ちとが起こってくるのではないでしょうか」。(「折々の記」、1983年) |
「宗教の場合は、なんとかして多くの人を救おうという信念に立っているが、われわれは、ともすれば自分のために商売をしている、というところにちがいがあるのではなかろうか。しかし、われわれの生産という仕事は、決して自分のためにやっているものではない。これは世の多くの人びとの物質的な必要を満たしているのである。人びとのお役に立っている。だから、これは、生産という一つの尊い使命を遂行していることにほかならない」。(「折々の記」、1983年) |
この時の体験が「水道哲学」を生み出すことになる。1932年(昭和7年)5月5日、大阪堂島の中央電気倶楽部で開催された、松下電器製作所(当時)の第1回創業記念式で次のように社主告示をしている。これが「水道哲学」として知られている。
「産業人の使命は貧乏の克服である。その為には、物資の生産に次ぐ生産を以って、富を増大しなければならない。水道の水は価有る物であるが、乞食が公園の水道水を飲んでも誰にも咎められない。それは量が多く、価格が余りにも安いからである。産業人の使命も、水道の水の如く、物資を無尽蔵にたらしめ、無代に等しい価格で提供する事にある。それによって、人生に幸福を齎し、この世に極楽楽土を建設する事が出来るのである。松下電器の真使命も亦その点に在る」。 |
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(当時の国内社会事情) |
満州事変。6月、特別高等警察(特高)が新設された。10月、共産党員及びその同調者約2200名が検挙検束された。 |
(宗教界の動き) |
1932(昭和7).9月、上智大学生の靖国神社参拝拒否事件が続発。
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1932(昭和7)年、秋から、井出クニが春秋2回、上京する時は芹沢光治良夫邸に一泊するようになる。
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旧暦1.1日、大本を皇道大本と復帰し、大本瑞祥会を解消する。2.6日、京都での対国際連盟緊急大会に昭和青年会を参加させる。3月、紀州熊野神宮に参拝し、国威宣揚の祈願をする。3月、国体会闡明運動を起こし、伊勢神宮ならびに香良洲神社に参拝。6.20日、生母世根子刀自、帰幽。10.4日、亀岡天恩郷にて『霊界物語』天祥地瑞の口述開始。 |
1933(昭和8).2月、プロレタリア文芸作家の小林多喜二が東京築地警察署で虐殺された。
4.18日、教祖誕生祭開始。
5月、京大で滝川事件が起こった。滝川幸辰教官の「刑法読本」が反体制的との理由で文部省から休職処分に伏せられ、抗議運動が起こった事件を云う。
6月、共産党幹部の鍋山貞親、佐野学らが獄中で転向声明を発表した。
10月、神殿改築で南礼拝殿完成。それまでの神殿は北礼拝殿だけだった。
10.25日、教祖殿新築落成奉告祭。明治21年以来の三条の教憲朗読を止める。
12月、旧教祖殿を新祖霊殿として使用するため、定位置たる西北隅に移転終わる。
この年、「Out of Tenrikyo」(岩井尊人著)が発行されている。
(当時の国内社会事情) |
国際連盟脱退。京大滝川事件。 |
(宗教界の動き) |
1933(昭8)年、キリスト教系学校にも伊勢神宮大麻の奉祀強制。キリスト教信者の神社参拝拒否事件が続発。会津八一『法隆寺、法起寺、法輪寺建立年代の研究』。
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【教祖誕生祭始まる】 |
1934(昭和9).4.18日、教祖御誕生日に儀式祭典を初めて執行。この日より列席者一同にもお歌唱和を許される。神殿の儀を終えて、真柱が教祖の御昼食を給仕。 |
8.26日、「泥海古記」(岩井尊人・著)7版発行される。
【神殿落成(神殿・南礼拝場)】 |
10.24日、神殿落成につき遷座祭。祭典様式変更。 |
【木製十三段の雛型かんろだいが据えられる】 |
10.25日、神殿改築落成(昭和普請竣工。神殿、南礼拝場、教祖殿が完成する。南礼拝場増築落成奉告祭でおつとめにお面を着用。天皇の先祖の御分霊としての鏡を廃止した。(神道式お社廃止) 二代真柱様の指導の下、本席時代に板張り二段だった甘露台を改め木製十三段の「雛型甘露台」が据えられた。これにより「かぐらづとめ」が正式に勤められるようになった。
この時の「御鎮座祭文」は次の通り。
「真座のまなか、ぢばにお鎮り頂きました親神様の御前に眞柱中山正善慎んで申上げます。只今仮の御座所で申上げました通り、立教百年祭を御迎へする仕度として親神様の御守護の下に神殿の改築と礼拝殿の増築をさせて頂きました。とり別(わ)け神殿は親神様の思召しに則(のっと)り、芯を土台に四方正面に形造り、ひながたではありますが、木製の甘露台をも造らせて頂きました。従って今後は陽気神楽のつとめを始め、一切の神事をお言葉に則り勤行(ごんぎょう)させて頂きたく存じて居りますが、然し成人への道すがら中で御座いますので、御思召にかなはぬ点も沢山ある事と存じます。何卒私共子供の心をおくみ下さいまして、今日からはこの甘露台にお鎮りの上、子供等がまごころこめて御願ひ申上げる事柄を御聞き取り下され、ろくぢにふみならす親神様の御心を畏(かしこ)み、尚も世界たすけの為に勇ましく働かせて頂く私共の堅い決心を御受け下さいまして、一列一体の道を早くおつけ下さいますよう一同に代って慎んで申上げます」。(田川虎雄「祭文のてびき」30P参照) |
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「天理王命のつとめ」に働きの手をつける(「ちょとはなし」と「かんろだい」)。 |
10.26日、をびや、はえでつとめなど一切のつとめに鳴り物を入れてつとめることになる。
【満州天理村開拓民派遣始まる】 |
11.4日、天理教が、国策にのる形で海外布教の実践として第1回天理村移民を満州へ出発させた。 |
(お道の教勢、動勢) |
2.13日、小松駒吉が出直し(亨年70歳)。慶応1年(1865)2月15日、大阪市南区瓦屋町(現・大阪市中央区瓦屋町)生まれ。明治15年(1882、)コレラにかかり危篤のところを、泉田籐吉のおたすけでご守護頂き入信。教祖より赤衣(明治20年1月)・本席よりおさづけ(明治20年12月)。御津支教会(現大教会)初代会長。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』103「間違いのないように」)
渡辺よそが、ほんみち天理三輪講系から造反し、政子甘露台を開教する。 |
(当時の国内社会事情) |
第四期国定教科書( 「忠良ナル臣民」)。 |
(宗教界の動き) |
キリスト教諸派来日。
この年、商人出身で大本教地方幹部の岡田茂吉が、世界救世教を開教した。自己にかかった観音の霊力で病気が治るとした。岡田は〈お光さま〉とよばれ、救世主〈明主〉として病貧争のない地上天国の実現を約束した。
この年、大本教の別働隊として昭和神聖会が設立され、皇道維新、祭政一致などを訴えて雑誌やパンフレットを発刊、王仁三郎は自ら政治について語り、紙幣1000億円の発行や5年ほどすべての税金の廃止を発表するなど、大本教が政治への傾斜を深めていた。
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1934(昭和9)年、井出クニが、右脚切断の診断を受けた芹沢光治良の岳父・藍川清成のお抱え運転手を治す。 |
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【大本教の絶頂】 |
2.7日、大本教は、亀岡穴太の瑞泉郷(聖師の生家)で神聖神社鎮座祭を挙行。3.6日、台湾宣教。この後、神聖会のことでは活動を止められる。8.11日、亀岡で神聖歌劇公演、自ら脚本を書かれる。8.22日、16ミリフィルムで『昭和の七福神』を撮影。10.8日、大本映画部が聖師伝『霊山修行』の撮影開始。10.31日、第一回『歌祭り』が亀岡天恩郷で挙行される。11.17日、第二回『歌祭り』が北陸別院で挙行される。この頃、大本検挙の閣議決定が行われる。12.6日、島根へ向かわれる。
昭和8年から10年にかけて天声社は組織的にも整備され、総務部、営業部、雑誌部、代理店部、倉庫部、工場経理部、文選部、欧文部、鋳造部、製本部、銅版部(旧明鏡館)、写真部(旧智照館)などに分かれていた。幹部は高木鉄男を中心に中山勇次郎、土井三郎、河津雄次郎などが補佐するという陣容であった。工場は木造一部二階建で、その二階は聖師の部屋にあてられた。聖師はたびたび訪問されてはその部屋から熱心に作業をご覧になり、社員はそれをまた喜びとしていた。仕事はそれぞれの分担に従って進められたが、例えば紙型場では当時まだ自動圧搾の技術が確立していなかったため、毎日のように雁皮紙を貼り合わせ特殊ブラシで叩き紙型をつくった。再版の際にはこの紙型から鉛版をつくり印刷場へまわされた。
昭和神聖会結成以来その活動はいやがうえにも盛り上がり、またたく間に日本全土にひろがっていった。しかし、一方では当局が着々と秘密裡に膨大な大本の刊行物を集め、調査に乗り出していた。当局にとって皇道大本は国家神道体制の枠からはずれた異端な存在だけにとどまらず、国家権力にとって危険な存在とうつるようになってきた。昭和十年の初めから極秘に進められた弾圧の準備は、十月にはほぼでき上がった。その至上命令は「大本を地上から抹殺する」ことであった。当時の大本教の公称信者数は40万人、実勢は20万人とされている。
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【当時の名おさとし人座談会】 |
「みちのとも昭和10年2月5日号」に当時活躍されていた先人達の「おさとし座談会」での語り内容が紹介されている。メンバーは次の通り。
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芦田義宣 |
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岩井孝一郎 |
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岡島藤人 |
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柏木庫治 |
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小西浪一 |
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河野誠 |
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田代澤治 |
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中澤隼人 |
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渡邊伊勢吉 |
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上田理太郎 |
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高野友治 |
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「先人はどんな「おさとし」をしていたのか」。(※一部現代仮名遣いに直しています)
柏木 |
私はどんな病人や事情の人に対しても、絶対に、身上さとし、いんねんや埃のさんげをさせない。と言うと妙に聞こえるかも知れませんが、私の主義は、「助ける理が助かる」といふ教理を強調し、それを実行させるのです。「神様は、助ける理が助かると仰せられている。だから人助けをしなさい、そのまま助かる人になりなさい。私のように天理教の先生になりなさい」こう話します。 |
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何と言うても喜びと勇みとが病人には第一必要条件だ。私は大きな声で怒鳴る「病気じゃありゃせん」。病気に関する話は一切しない。正直な所、実はおさとしを知らないんです。(一同大笑)病人を喜ばせ勇ませ、病人と無二の友人になる。そして、前に話した「助けたら助かる」理を強調して実行さす。この手です。渡邊さんの「この手」です。万病一式です。 |
常岡 |
私には何の準備もない。白紙で行って、その人に言うべき事だけを言う。およそ、お助け人は、神の思惑を言うのが本質的使命であると思う。神の思惑を言わして頂くには、日々常に、絶えず自分のものを放していく。つまり、絶えず伏せ込んだ理を頂戴していく事にあると思う。 |
芦田 |
私はお助け上の実際の経験はあまり持ち合わせてはいない。が、今もそう思っていますが、「お助けを乞われた時に受けた感じ」これがほとんどお助けの成績を左右しているように思われる。(中略)おさとしは、浮かぶ理が天の理で、それより他には何もない。しかし、その浮かぶ理が神の声となって病人に伝わる場合と、伝わらない場合とがある。それは助け人衆が神様に近づいている時と、遠ざかっている時の相違ですね。 |
小西 |
大体病むと言うことは、人間心を台としているから、肉体の悩みが起こるのであって、人間心の裏を通すのがお助けの道であると思う。それで私は病んでいる姿を見てやる。そして見上に現れている人間心の裏を通すと言う事にしています。が結局は納消ですね。 |
中澤 |
今神様は何の要求をされているかと言うことを見極める。言葉を変えれば旬々の神様の思召をしっかりと掴んでおたすけの座に侍るのが大切だと思います。 |
渡邊 |
私は身上事情の人に会うと、その人をほめ上げる。決して、喜ばすために上手を使うのではない。私の信仰からその人の身上事情を喜ばずにはいられないのです。神様は可愛いからこそ子供を叩いておられる。親神様のお慈悲だ。神様の思召に添うて行かれる道に導かれたことは、実に貴方は徳者だ、因縁の良い人だ、このみちの時旬に引出されるとはどんなに幸福なことかも知れない。身上事情はみちの花ということを強調するのです。これが徹底すれば、憂鬱が消し飛んでしまう、必然的に喜びが湧く、これが御守護頂く台となるのです。 |
岡島 |
私は、おさとしをする自信がありません。病人の枕元でお話をするような勇気がありません。病人の姿を見ると一も二もなく同情してしまう。苦しかろう、一緒に神様にお願い致しましょうと心から病人の苦しみに泣いてしまうのです。が、相談を受ければ、相談はします。自分から口を切っておさとしする勇気はありません。 |
河野 |
私はどんな場合でも、必ず助かることを前提とする。そして病人を勇ませる、喜ばせる。大病の時なら、私はそのいえに泊まり込んで、出来る限りの心を尽くして、病人の世話をさして貰う。(中略)大体病んでいる人は自分の徳の自覚が足りないのです。人には大なり小なり徳はあるものです。そん得の自覚が足りないから、ここに悩みが生まれるのではありませんか。自分の徳の自覚が生まれてくれば、卑下する事もなくなりましょうし、喜びもたんのうも出来る。助かる理が生まれてくる、徳を自覚さす、これはたしかに病人にとっては大きな喜びです。その喜びを足場としてお助けにかかります。 |
「馬を湖に連れて行くことは出来ても、水を飲ませることはできない」。水を飲ませる事に人間は関与できませんから、神様が働いて下さるように本気で徳積み(理づくり)をしていたのだと思います。 |
【第二次大本弾圧事件】 |
12.8日、「第二次大本弾圧事件」が発生。内務省警保局長唐沢俊樹の直接の指示のもと、警官隊500名が綾部町の大本教本部、亀岡町の大本教天思郷の両聖地を急襲した。徹底した弾圧が行われ、綾部・亀岡の聖地は跡形も無く破壊、関連施設も競売に付された。両本部にはダイナマイト数千発がぶち込まれ、鉄骨はガスで焼き切られ、樹木は切りたおされ、石段さえも削りつぶされて、一帯は見る影もない荒野と化してしまったと云う。
教主王仁三郎は巡教先の松江市で検挙され、京都市の中立売署に留置された罪名は不敬罪並びに治安維持法違反。出口宇智麿は東京で逮捕された。四谷愛住町の昭和神聖会本部、杉並区方南町の皇道大本紫雲郷別院なども捜索を受けた。さらに出口一族では五十麿、日出麿も逮捕、有力幹部の岩田久太郎、栗原白嶺らも逮捕された。2代教主も、翌11.3月に女性でただ一人検挙された。取り締まりは地方の支部や関連機関にも及び、約3千名が取調べを受け、200名が逮捕され、教団幹部61名が検挙・王仁三郎ら8名が起訴された。
この時の激しい拷問で16名が死亡している。岩田久太郎は獄死、栗原白嶺(七蔵)は翌年3.9日、中立売署の独房でハンカチで首吊り自殺、出口日出麿は発狂し入院、。王仁三郎も度々病院に入院したという記録がある。王仁三郎は昭和17年に保釈されている。王仁三郎の霊界物語などの諸著は安寧秩序紊乱によって発売頒布禁止処分となった。
第一次大本事件が一応の収束を見せるのと前後して、王仁三郎はエスペラントの導入・ラマ教との提携など様々な活動を展開する。その一方で、頭山満・内田良平ら右翼人士との交流を行い、昭和神聖会を結成して軍事教練などを施したり、三月事件では自ら資金や人員の提供を申し出るなど、「昭和維新」の実現のために急進的な行動を取るようになっていった。
第二次大本事件は、当初共産主義運動を壊滅させる目的をもって施行された治安維持法を宗教団体に適用した最初の案件であった。この事件により信教の自由が国民から奪われ、強引な手法によって戦時体制へと国民の意識を集中させていくことになった。
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【教祖50年祭前弾圧事件】 |
12.16日、教祖50年祭の前月、天理教管長の中山正善の贈収賄容疑で、警察130名が丹波市の天理教本部を捜索、税務問題に関しと称し、特高警察の検索を受ける。4幹部が連行されている。
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【天理よろづ相談所開設】 |
この年、天理教の教理に基づく医学と信仰の「二つ一つ」による陽気暮らし世界実現に寄与せんとする施設「天理よろづ相談所」が開設されている。相談に携わる事情部講師は、教会本部や全国各地の直属教会から推薦を受けた現職の教会長、前会長、会長夫人、詰所(各大教会の天理宿泊所)の主任ら約80名で、365日24時間体制の交替制で任に当たっている。1か月8日以上勤務で宿直もある。
その後、1966(昭和41)年に「財団法人 天理よろづ相談所(憩の家)」、更に2011(平成23)年に「公益財団法人 天理よろづ相談所(憩の家)」と改称され現在に至っている。組織は、高度な医療を提供する「身上部」、人々の苦悩の解決指導に当たる「事情部」、生活上の諸問題および医療従事者の養成に関する世話取りを行う「世話部」から構成され、この三部の緊密な連携のもとに人々の救済に努めている。
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この年末、教会数が11949ケ所、教師数78508、教徒数281700。
(宗教界の動き) |
1935(昭10)年、政府、国体明徴を声明。この頃から、八紘一宇などのスローガンが掲げられるようになった。 |
官幣社・国幣社199・府県社1016・郷社3607・村社44864・無格社61351・神職約15000人。 |
12月、大本教第2次弾圧。岡田世界救世教熱海開教。谷口雅春生長の家創立(←大本教系)( 敬神尊皇 )。
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1935(昭和10)年、井出クニが、芹沢光治良の岳父・脳溢血の後遺症を持つ藍川清成とバセドー氏病の妻・金江を治す。 |
神戸にモスク創建。 |
【山田梅次郎が「 おうかんみち教」運動を開始する】 |
1936(昭和11).1.11日、山田梅次郎(1875.5.8日)~1941.11.8日)(明治8年―昭和16年)が天啓活動に入り天理教新派を立ち上げる。天理教教祖中山みきの夫、善兵衛の生まれ替わりの天啓者・人間甘露台であると唱え、「甘露水(神種)授け」という救済の秘儀を始める。同時に当時の天理教内部で廃止されていた「扇の授け(伺い)」、「息の授け」を復活させている。翌1937(昭和12)年、東京、奈良、長野でも「甘露水授け」を行い、一年余りの活動で組織を整え、12.23日、名古屋市内の自宅で、十天上王神月日大神の天降りを受け、天理神の口明場所「
おうかんみち教」を立教し教祖となる。地上的人間的顕現として親神の社となる。世界丸輪の大義を世に顕示し、神人合一、甘露合世界達設の大望事情を打ち出した。しかし、1938(昭和13).11.21日、治安維持法違反で検挙される。'1939(昭和14)年、一時保釈となるが、翌年、懲役5年の実刑判決を受け控訴。
1941(昭和16)年、控訴審で懲役2年、執行猶予4年の判決となるが同年死去した。享年67歳。
天啓までの履歴は次の通り。愛知県海部郡蟹江町出身。御神号を根株甘露台。農業を営む山田林吉・冨美の四男として生まれる。 8歳の時に父が没し、母は目を患い全盲となる。幼い頃から兄を助け家の仕事を手伝った。1899(明治32)年、臀部に腫れ物ができ天理教に入信。下駄、鍋蓋製造業を営むかたわら、天理教校別科を修了し、のちに権少講義になる。1912(大正元).10.23日、38歳の時、初めて神意を感得し、天の将軍月日大神の神がかりを教えとして大天啓者となる。1925年、天理研究会に入会し、1928(昭和3)年、『研究資料』を配布し検挙、起訴猶予処分となる。その後、天理三輪講、天理神の打開場所に入信。1931年、天啓を受け石の甘露台を造っている。(「山田梅次郎」その他参照)
「おうかんみち」教理は、御祭神として、宇宙を支配する元親神様「十天上王神」、人間創造人間魂の産み親神「月日玉神」、人間肉体の産み親神「岐美王神」を祀り、『三社三棟の親神様』と位置付けている。天の食物「甘露水」を授け、この甘露水を頂くと入込社となり、胸内に親神が宿り、心を育ててくれるというのが特色となっている。「扇の伺い」による天啓のなかには、国体の変革や理想世界実現に触れたもの、また敗戦や天変地異の予言ともとれるものも含まれている。(「おうかんみち教」) |
【教祖50年祭執行】 |
1936(昭和11).1.26日ー28日、教祖50年祭が盛大に執行された。中山正善二代目真柱は、天理王命を祀るヤタ鏡とお社を廃止して、つとめのぢばに「かんろだい」を立て、教義を教祖が教えたかんろだいのつとめの理に復元する事を宣言した。
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2.26日、2.26事件。
【大本教裁判と天声社解体】 |
前回の大正10年の検挙では、結局、恩赦で免訴となったものの弁護側は王仁三郎の精神鑑定を訴えており、天理研究会の大西愛治郎の不敬事件も精神鑑定によって大審院(今の最高裁)で無罪になっていた。そこで警察側は神庭会議というものが大本教内部で行われていた事を証拠に、王仁三郎が精神異常でも王仁三郎の意見に賛同する神庭会議の出席者は常人なので、王仁三郎の責任も問えるといった形で、王仁三郎の無罪判決を阻止しようと手早く準備を始めていた。
3.13日、大本教の聖師ら教団幹部8名が、「治安維持法違反」と「不敬罪」で起訴された。その時を待っていたかのように、皇道大本、昭和神聖会、昭和坤生会、昭和青年会、更始会、大日本武道宣揚会、人類愛善会、明光社に解散命令と建造物破却命令がだされた。
天声社は事件当日より操業ストップしていたが、4.24日、工場の倉庫に在庫していた用紙全てが京都市内の洋紙店へ6千円で売却された。また印刷機会も京都市内の印刷会社へ約1万円で売却することが決まり、5.10日より解体、搬出がはじまった。5.5日、休刊となっていた「神の国」、「瑞祥新聞」、「真如の光」、「エス文OOMOTO」などの機関誌が廃刊処分となった。5.11日、工場の床板、天井の撤去がはじまった。この作業も急ピッチで進められ、六棟すべてが他の神殿や建造物とともに解体、破却された。当時、工場や売店にあった約8万4千冊の書籍や機関誌も、すべて神苑内の窪地に積み上げられて焼却された。その炎は夜空を焦がし、余燼は一ヵ月余りもくすぶりつづけた。亀岡の工場は解体後亀岡町営住宅として、旧第一天声社の工場だった神光社は綾部商工会へ売却されて、再利用された。さしもの山陰一をほこった新鋭の印刷工場は、無残にも地上から姿を消した。 |
4.18日、教祖誕生奉祝旬間第一回。立教百年祭に関する諭達第6号公布。
4月、大西が、教団名を天理研究会から天理本道と改めた。信徒を動員し、天理教に徹底した匂いがけを行った。
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6.5日、山中重太郎が「泥海古記」の編纂者・岩井尊人(元文部大臣平生○太郎氏の秘書官、後に天理教管長顧問)を不敬罪で告訴する。 |
(お道の教勢、動勢) |
1.11日、天啓者を名乗る山田梅次郎が。「天啓者・人間かんろう台」であるとして、「甘露水授け」の秘義を始める。 |
1.25日、宮森與三郎が出直し(亨年80歳)。安政4年(1857)3月5日、大和国式下郡檜垣村(現・奈良県天理市檜垣町)生まれ。幼い頃、岡田家より宮森家へ養子入籍。明治10年(1877)、左腕の痛みから入信。おさづけ(明治14年)。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』69「弟さんは、尚もほしい」) |
7.20日、山澤為造が出直し(亨年80歳)。1857(安政4)年、1.12日、大和国山辺郡新泉村(現・奈良県天理市新泉町)生まれ。山澤良治郎の二男。妻(梶本)ひさは初代真柱の姉。 |
1936(昭和11)年、出直し(亨年71歳)。
永尾よしゑの履歴は次の通り。1866(慶応2)年、本席飯降伊蔵の長女として、出生。明治11年、12歳の時より三曲(三味線)を、教祖より三年間習う。1882(明治15)年、飯降一家お屋敷に伏せ込む。明治21年、永尾楢次郎と結婚。明治20年1.26日のおつとめで三味線をつとめる。
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(当時の国内社会事情) |
1936年、不穏文書臨時取締法制定される。 7月、日支事変(日中戦争)が始まる。[日独伊防共協定]。
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(宗教界の動き) |
1936(昭和11).3月、神政龍神会弾圧。9.27日、ひとのみち(PL教団の前身)初代教主御木徳一が教祖の地位を譲った翌日、警察に拘引され「ひとのみち事件」がはじまった。昭和12年に結社禁止になり解散する。(1946年、PL教団として発足する)。天津教弾圧。12月、新興仏教青年同盟弾圧。大日本観音会(のちの世界救世教)弾圧。満州・中華民国神社規則。
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【上田ナライト出直し(75歳)】 |
1.12日、1877(明治10)年、上田ナライトが出直した(享年75歳)。上田ナライトの履歴は次の通り。
1863(文久3)年.2.23日、大和国山辺郡園原村(現・奈良県天理市園原町)生まれ。1876(明治9)、神経病のようなものをきっかけに入信。教祖より胡弓を教えて頂き、1878(明治12)年、「一身暮らし」と教祖にもらい受けられる。1907(明治40)年6.6日(陰暦4.26日)、伊降本席が後継指名し、明治40年より大正7年までおさづけの運びをつとめる。(稿本天理教教祖伝逸話篇48「待ってた、待ってた」)
最後までナライトに仕えた婦人が、随筆で次のように記している。
「昭和十二年の一月に七十五歳で亡くなられたが、その朝、正装し、威容を正して机に向い、立派に松竹梅の絵を描き、それに辞世の詞……松竹梅でおさめまいらせ候と、たしかこんな詞をみごとな手蹟で書き加えて、教祖様(おばあさま)のところへ参りますと、その婦人に話して、掌をあわせてそのまま静かに息を引きとった」云々。 |
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【天理研究会が天理本道と改称】 |
4月、大西派が教団名を天理研究会から天理本道と改称し、天理教に対して徹底した匂いがけを開始した。
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7.7日、日中戦争(支那事変)勃発。
【時局迎合で教義改竄】 |
「みかぐらうた」は、よろづよ、三下り目、五下り目が削除された。おふでさき、おさしずも各教会から回収され、天理教教典のみを教義として時勢に協力した。 |
【日中戦争の重大時局に処して諭達第7号公布】 |
7.26日、日中戦争の重大時局に処して諭達第7号公布。
「身を軍籍に奉じて、国家の為に赴く者にありては、挺身武人の亀鑑を垂れ、銃後にありては、身を持すること険素に、勇躍以て奉公の事に従い、率先ひのきしんに参じて、邦家の緩急に応え、教祖様垂示の大精神を発揮して、敢然時艱を克服する為、一手一つに、感奮興起すべき至旬なりと確信す」。 |
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9月、天理本道派が、幹部(中井銀次郎、中川喜六、小浦芳雄ら)を天理教本部に派遣し、二大真柱正善との会見を望んだが拒否され、本部員の松村吉太郎らと会い、教義論を闘わせた。
【教祖50年祭、立教百年祭が執行される】 |
10.26日、秋季大祭執行。本日より立教100年祭まで、毎朝本づとめを執行(11.28日まで)。11.22日、教祖50年祭、立教100年祭の記念品として「おふでさき索引」を下付。11.28日、立教百年祭執行。
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(お道の教勢、動勢) |
1.12日、上田ナライトが出直し(亨年75歳)。 |
2.27日、板倉槌三郎が出直し(亨年78歳)。万延1年(1860)2月18日、河内国高安郡恩智村(現・大阪府八尾市恩智)生まれ。明治9年、兄の病をきっかけに入信。中河分教会(現大教会)2代会長・平安支教会(現大教会)2代会長・水口大教会2代会長。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』56「ゆうべは御苦労やった」) |
12.23日、元天理教の講師、その後ほんみち、ほんみち天理三輪講へ移っていた山田梅次郎が天啓者として「天啓者・人間かんろう台」を名乗り、天理神之口明場所を開教。名古屋のほか東京、奈良、長野でも活動を行う。 |
石々川駒吉が、ほんみち天理三輪講系から造反し、三理三腹元を開教する。 |
(当時の国内社会事情) |
大日本帝国と中華民国が、盧溝橋事件により全面戦争状態へ(昭和天皇名義での宣戦布告はされていない)。 |
(宗教界の動き) |
文部省思想局が「国体の本義」(当時は旧字体で「國體―」)を発行する。政府の刊行物に公式用語として現人神が記載され、天皇の神格性について言説化(言挙げ)された。「国体の本義」は必須の教材であった。 |
文相宗教団体代表に挙国一致運動を要望。文部省通達「皇祖皇宗がその神裔にあらせられる天皇に現われまし」。 |
新興仏教青年同盟弾圧解体。寺院境内地譲渡申請規則廃止。
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この年、大本教第二次不敬事件の裁判が開廷された。高山義三を始め多くの弁護士による弁護団が形成され、激しい法廷闘争が行われた。
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牧口常三郎・戸田城聖創価教育学会発会。
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1937(昭和12)年、井出クニが、芹沢光治良の義母・胃癌の藍川しむの寿命がないことを告げる。 |
イエス之御霊教会教団設立。カトリック横浜・京都司教区設置。
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天理本道派が、お指図を抜書きしたパンフレット10万部を7月まで全国1万2千の天理教の各教会に送り続けた。更に、一般社会宛の書信と題するパンフレットの作成に入った。
3.12日、衆議院国家総動員法委員会にて今井新造委員の天理教第1回審判。
4.18日、天理教校よのもと会が天理教よのもと会と改称。
6.8日、樫原神宮建国奉仕隊結成式に天理教より1400名出席。
7.10日、以前より静養中のたまえ様が出直され、二代真柱様がそのつなぎを務めることになる。
【「ほんみち派第二次不敬事件」】 |
8.12日、天理本道派が、1928(昭和3)年の「ほんみち派第一次不敬事件」に続いて書信№6「憂国の士に告ぐ」と題した書信を発表し、大阪朝日、大阪毎日の両新聞社へ届けた。10月半ば、天理本道派が、二人一組の説明班を編成し、書信、教理、教義解説書、泥海古記を持たせて警察署、検事局、憲兵隊へ出向かせ、配布した理由を説明させた。全国の信徒が約900万部を個別配布して廻った。11.21日早朝、警察検察当局が、天理本道派の大弾圧に乗り出した。第一次一斉検挙で約1千名の信徒が検挙、約400名が収監、149名が逮捕された。一斉検挙後も書信が配布され続け、当局が手を焼いた。翌1839(昭和14)年5月、第二次一斉検挙206名が逮捕され、全部で273名が起訴された。世にこれを「ほんみち第二次不敬事件」と云う。ちなみに昭和10年の「第二次大本弾圧事件」で起訴された信徒は61名である。
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【中山正善2代真柱管長が文部省に呼び出され、時局協力を要請される】 |
この頃、文部省が、全宗教団体に対して、国家非常時体制の強化を期して更に国家神道体制に翼賛するよう全面協力を要請していた。各宗教団体かその対応の道を歩み始めていた。
11.4日、天理本道派の第一次一斉検挙後、天理教本部の中山正善2代真柱管長が、監督官庁である文部省に呼び出され時局協力を要請された。そのときに求められたのは、現下の諸情勢に即応できるような革新的な体制を整備し実行するということであった。天理教は特に問題視されており、監視が一層厳しくなっているから猶予はできないとの指示であった。天理教本部は、当局の意を踏まえて協議した結果、次のような重要事項の改変、即ち教義儀式およびその他の行事は、すべて教典に依拠して行うこと。また、泥海古記、元初まりの話に関連する教理は、今後一切説かないことなどを決断した。「信仰的生命の浮沈に関わる事柄であったから、言語に絶した苦しい決断であった」(天理教事典第3版P206)。 |
【「中山正善管長が諭達第8号で、泥海古記教説禁止指示」】 |
日中戦争勃発後のこの頃、内務省や文部省宗教局の指示により、当時の軍部へ迎合する形で教内刷新を目的とした革新委員会(委員長・島村国次郎他委員12名)を設置し、二代真柱列席の元に於いて内務省と文部省宗教局より指示された事項に全て従うという決定を下した。この決断を本部教理では「革新」と云う。
これにより、天理教本部は、全ての教義を「天理教教典」(明治36年編集の明治教典)に依拠させ、教団内でかぐらづとめに於ける十柱面の着用中止。「みかぐらうた」から「よろづよ八首」、「三下り目」、「五下り目」を削除した新修御神楽歌の刊行、文部省の指示に則った「天理教教典衍義」を発表した。他にも、泥海古記に関する教説配布の禁止。全国各教会を通しての鉄材、金物の供出協力。天理教輸送部への満州、南方作戦の軍事物資と軍隊の輸送協力等が指示された。
青年会や婦人会、教師会などを統合した天理教一宇会を結成。天理市内の「詰所」の名称を使用中止し「寮」に改め、軍関係の宿泊施設として提供。「革新教理」と称して、軍部の要請に合わせての戦争協力教理を説明する「革新講習会」の定期的な開催。全国各地に「いざ、ひのきしん隊」の結成を奨励し、戦地への男子信者徴発協力、若草山炭坑掘りひのきしん等々、老若男女を問わず各地でひのきしんが行われた。強制、自発を問わず、あらゆる形で戦時国家体制に協力しこれが終戦まで続けられた。
12.26日、天理教本部の中山正善管長が諭達第8号を公布。「今や、皇国は八紘一宇の大理想を承け」、泥海古記に関する教説の禁止を指示した。諭達第8号発令後は、「泥海古記」、「お指図」、「お筆先」の引用自粛、信徒から冊子自体を回収し、滋賀県の板紙工場に送り板紙に変えた。
「そもそも教典は本教教義の根幹たり。然るに泥海古記の教説に流れて、ややもすれば、国民的信念を謬らしむるの誹りを招き、為に教旨の真意を害うこと大なるものありたり。之教義の根本を逸脱して、本末を錯倒したるに因る。余は教内総監の責に顧み深く戒慎の意を致すと共に、自今専ら教典を以て、教義の根源となし、之に基づき多いに国体の精華を発揚して、健全なる国民精神の振起に努むるは勿論、泥海古記に関連する一切の教説儀式及び行事は断じて行わざるを表明する」。 |
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この年、大本教第二次不敬事件の京都地方裁判所の第一審が開廷。以来、長年にわたる法廷での闘いが繰り広げられた。
(お道の教勢、動勢) |
1938(昭和13)年の時事年鑑に、天理教の信者数4,559,000人の記述がある。天理教の信者数は明治末から大正・昭和初期にかけて大きく増加し、昭和初期にピークを迎え500万人以上にのぼったといわれている。特に教祖30年祭及び40年祭が執行された大正から昭和初期頃にかけて行われた「教勢倍加運動」によって信者を獲得しており、時を同じくして分派団体が多く発生している。文化庁の宗教年鑑令和2年版では120万1471人となっている。
教会数は2015年末の教内統計で1万6677とされている。 |
この年、中村しげが天理教本部から造反し、太道教を開教する。会田ヒデが、ほんみち天理三輪講系から造反し、世界心道教を開教する。 |
この年、「天啓者・人間かんろう台」であるとして天理神之口明場所を開教していた山田梅次郎が治安維持法違反で検挙される。昭和15年、実刑判決を受けて控訴。翌年、控訴審で執行猶予4年の判決を受けた後、急死している(亨年67歳)。山田梅次郎の弟子として江上寿胤(としたね)(おうかんみち教主)、岡本ツエ(日の本神誠講教主)、深沢まつ江(月日大還道祭主)、山田そめを(月日3世の道真知岳本部祭主)、山田金治(神和教会教主)などがいる。 |
ほんみち―天理三輪講系の分派運動の展開は大正末から昭和10年代前半に集中している。この時の分派教団は多かれ少なかれ終末論的性格を分け持っているところに特徴がある。15年戦争や国際社会での日本の孤立化といった危機的状況を背景に、いずれも治安維持法や不敬罪で関係者が検挙されている。ここでも昭和10年・12年の教祖五十年祭・立教百年祭の年限に何らかの意味を感じ取った信者たちの動きがあった。 |
(宗教界の動き) |
招魂社を護国神社と改称。1938(昭和13).3月、大阪憲兵隊、管下のキリスト教会に質問状を出す。11月、ほんみち第2次弾圧。大日本立正佼成会(
妙法蓮華経) 開教←霊友会。大社国学館( 出雲)。鈴木大拙『禅と日本文化』。東京にモスク建設。
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1939(昭和14).1.1日、元旦祭より、かぐらにお面の着用をやめる。
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2.1日、天理教校別科を廃止し、天理教校修養科新設。 |
2.2日、衆議院予算委員会で今井新造氏の発言。
3.13日、天理教本部が、文部省の宗教局長宛に報告書を提出。
3.18日、諭達8号の趣旨に基づき、「天理教よのもと会」は「天理教教師会」と改称する。
3月、各地方裁判所検事局の検事が東京に集合し、天理本道派を治安維持法違反と不敬罪で起訴する方針を決め、天理本道を次のように規定した。
天理本道は天理教本部に対立し、大西愛治郎を以って神格者たる甘露台にして究極に於いて世界の統治者たるべきものなりと為し、先ず我が国に於いて国体を変革し同人が独裁統治する社会を実現することを目的とする結社にして当面匂いがけその他宣伝啓蒙運動の方法等により我が国民の国体観念を変革することを任務とするものなり(「特高月報」昭和14.3月分所収) |
4.1日、「よろづよ8首」、三下り目、五下り目を削除した「新修御神楽歌」を刊行。
5月、警察検察当局が、天理本道派の第二次一斉検挙に乗り出した。これらより206名が逮捕された。結局、374名が逮捕され、273名が起訴された。ちなみに昭和10年の「第二次大本弾圧事件」で起訴された信徒は61名である。
9月、内務省が、天理本道に解散命令を発する。これにより天理本道は、教団財産の整理を行わなければならないことになった。
12.1日、おふでさきの引用自粛。この年、お筆先、おさしづを回収する。
12.17日、増井りんが出直し(亨年97歳)。
(お道の教勢、動勢) |
12.17日、増井りんが出直し(亨年97歳)。天保14年(1843)2月16日、河内国大県郡大県村(現・大阪府柏原市大県)生まれ。明治7年、失明をご守護頂き初参拝。教祖より「針の芯」のお許し・赤衣を頂く。教祖・本席のお守り役 別席取次人 息のさづけ。長男・幾太郎(1863‐1926)は大縣支教会(現大教会)初代会長。長女とみゑ(1867‐1908)は明治10年最初に三曲を教えられた控。(『稿本天理教教祖伝逸話篇』36「定めた心」 44「雪の日」) |
(当時の国内社会事情) |
1939年、映画法制定される。 〔第二次大戦勃発〕。
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(宗教界の動き) |
大日本帝国陸軍は従軍神職制度を定め、各師団に3名、兵站監に2名、独立旅団に1名を配した。 |
1939(昭和14).6月、日本灯台社弾圧。宗教団体法が制定され、1940(昭和15).4月より施行される。
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(私論.私見)