廣池千九郎考 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.9.9日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「廣池千九郎考」をしておく。天理教の研究の過程で、モラロジーの創始者・廣池千九郎考氏を知った。れんだいこは今のところ、氏の著作を何一つ読んでいないのだが、氏の生涯履歴に於ける天理教との邂逅と別離に興味が湧く。ネットで検索してみたところ、「千九郎の生涯と実績」で概要が分かる。とはいうものの、れんだいこの関心である「天理教との邂逅と別離の必然過程」の検証にはなっていない。そこで、本サイトで愚考しておくことにする。 気づくことは「廣池史観」はかなり重要で、れんだいこに示唆的であるということか。とりあえずこう確認しておく。「ウィキペディア廣池千九郎」、「廣池千九郎と天理教本島支教会 - モラロジー研究所」、桜井良樹「大正時代末期の天理教団と広池千九郎/天理教団からの離脱」、「廣池千九郎と諸岡長蔵」、「廣池千九郎と矢納幸吉会長」その他参照。 2007.12.28日 れんだいこ拝 |
【廣池千九郎(ひろいけ ちくろう、1866.3.29-1938.6.4)の履歴】 | |
大分県中津市出身。慶應義塾の関連校である中津藩の中津市学校に学び、歴史学者として数々の論文・書物を著し、その後、法学を学んで早稲田大学講師、伊勢の神宮皇學館教授などを歴任する。また、当時の国家的事業である「古事類苑」(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912(大正元).12.10日、東京帝国大学より法学博士号を取得し、日本で135人目の法学博士となる。 「末は博士か大臣か」と言われていた時代、一世一代の輝かしい栄誉を得た。その後、道徳の科学的研究を深め、1928(昭和3)年、人類普遍の道徳原理を世に問う「道徳科学の論文」を著し、「モラロジー(道徳科学)」を提唱する。この頃から「三法よし」の教えを説く。歴史家、法学者、哲学者、教育者、慈善家にしてモラロジーの提唱者となり、現在のモラロジー研究所の前身となる道徳科学研究所の創設者として知られる。1935(昭和10)年、モラロジーに基づく社会教育と学校教育を行う道徳科学専攻塾(現在の公益財団法人モラロジー研究所、学校法人廣池学園)を千葉県柏市に設置した。 生涯に渡って様々な号を使っている。「鵬南」、「扇城」、「西海」、「蘇哲」、「幹堂」など。なお、幹堂は麗澤大学第3代学長・モラロジー研究所所長を務める四代目の本名となっている。 | |
1866(慶応2).3.29日、豊前国下毛郡鶴居村(現在の大分県中津市大字永添)で廣池半六・りえ夫妻の長男として生まれた。 | |
1875(明治8)年、永添小学校に入学。 | |
1879(明治12)年、今日の中学校課程に当たる慶應義塾の姉妹校・中津市学校に編入学する。 | |
1880(明治13)年、14歳のとき、卒業。同年7月、永添小学校の助教(補助教員)となる。 | |
1883(明治16).7月、永添小学校を辞職し、大分県師範学校の入学試験を受けたが不合格となり、麗澤館という私塾に入る。麗澤館では、生涯の師の一人、小川含章と出会う。(千九郎は後年、この出会いが源となって、新科学道徳科学が成立するに至ったと述べている。)麗澤館で勉学に励み、再度、師範学校を受験したが失敗。師範学校に入学することをあきらめて「応請試業」(入学しないで学力認定試験によって卒業資格を得る試験)に臨み合格、教師(訓導)の資格を得る。 | |
1885(明治18)年、19歳のとき、下毛郡の形田小学校教師となる。千九郎が目指したのは、偉大なる教育者ペスタロッチだった。しかも、歴史学に興味を持ち、自らも学ぶことを続けた。 | |
1886(明治19)年、下毛郡樋田村の児童の半分程度しか登校してこなかったため夜間学校を設立。「遠郷僻地夜間学校教育法」(稿本)を著す。 | |
1887(明治20)年、万田小学校に赴任する。下毛郡が養蚕業を主な産業としながら、その蚕種の製法があまりに粗製乱造であるのを見かねて、蚕業に関する内外の文献を研究し「蚕業新説製種要論」を著し、村民の指導にもあたる。 | |
1888(明治21)年、中津高等小学校に赴任。ここでも、現在の技術家庭科にあたる手工科を設けたり、寄宿舎を設置するなど、さまざまな工夫を凝らし教育の改善を図る。道徳(修身科)の教科書「新編小学修身用書」全3巻を編集刊行。 | |
1889(明治22)年、23歳のとき、歴史に関する最初の著述「小学歴史歌」を発行する。7.21日、春子と結婚(18歳)。大洪水や大火での災害救援活動に取り組む。 | |
1891(明治24)年、「大分県共立教育会」の中に日本最初の教員互助会を設立するなど、地域の教育改善に取り組む。 | |
1892(明治25)年、「中津歴史」を発行。 | |
1893(明治26)年、名声高まり歴史家へ転身する。京都へ向かい、月刊誌「史学普及雑誌」を発行する。「日本史学新説」など多くの著述をものにする。 | |
1894(明治27)年、富岡鉄斎と出会う。史実に基づく皇室研究による「皇室野史」を発行。歴史から法制史研究へ向かう。同年2月、長男千英(ちぶさ)が生まれる。この頃、文人画家の富岡鉄斎と出会い、大きな影響を受ける。古本屋の店頭に置いてあった穂積陳重の論文を読み、「東洋法制史」の研究が未開拓であることを知り、和漢の法律の比較研究を開始する。 | |
1895(明治28)年、京都市参事会の委嘱で「平安通志」の編纂や古文書の整理を依頼され全体の約3分の1の編纂にあたる。その他、「京華要誌」上下全2冊の編纂、醍醐寺三宝院の寺誌編纂や比叡山延暦寺の古文書の整理などにもたずさわる。国学者井上頼国との初面談で「古事類苑」の編纂事業参加の要請があり東京へ上京することとなる。 | |
1896(明治29)年、観光案内ガイド「京都案内記」の発行。「史学普及雑誌」を廃刊し、東京へ向かう。上京して、 神宮司庁から国を挙げての「古事類苑」の編修員を嘱託され、編纂に携わり全巻数の4分の1以上を担当する。古事類苑編纂当時の千九郎の読書量について当時の新聞にも紹介され、東京帝国図書館の蔵書をほとんど閲覧したので「図書館博士」と云われたとか、「上野の図書館の書物をほとんど閲覧した人がいる。それは廣池千九郎大人という人だ」(万朝報)と報じられたこともある。 | |
1899(明治32)年、本郷春木町に大火が発生した際、数千人の罹災者のために、千九郎夫妻は、朝から午後まで約10回もご飯を炊き、おにぎりを作り配った。その援助活動は新聞にも報道され、市からも被災者救助の功で表彰された。 | |
1900(明治33)年、1902(明治35)年にかけて、「高等女学読本」、「女流文学叢書」、「高等女学読本参考書」を編集。 9.9日(陰暦8.16日)夜9時頃、本席おさしづ刻限話「数無い偉い者出て来る」予言。
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1903(明治36)年、早稲田大学講師になり、日本で最初の「東洋法制史」と「支那文典」の講義を担当する。 | |
1904(明治37)年、この頃から法学者穂積陳重に師事する。 | |
1905(明治38)年、専任の講師に昇格。画期的な文法書「支那文典」を発行。続いて「東洋法制史序論」を発行し、「東洋法制史」という新しい学問領域の確立する。「倭漢比較律疏」や「大唐六典」の研究にも着手する。その他、大宝令 の独訳や「歴代御伝」と名付けた歴代天皇の伝記や皇室制度の編纂、国史大系、群書類従などの校訂などを行っている。 | |
1906(明治39)年、文法に関する画期的な研究「日本文法てにをはの研究」を発行する。その内容は、驚くほどの革新性に満ちていた。 | |
1907(明治40)年、伊勢の神宮皇學館教授となり古代法制、東洋家族制度、東洋法制史、国史、歴史研究法、神道史、宗教史などの講義を担当する。永年のテーマであった国体の研究が実を結び始める。本席出直し。 | |
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1908(明治41)年、「伊勢神宮」を発行し、日本皇室の万世一系を称える。東洋法制史研究のための学術調査のため、約40日間中国に旅行し、帰国後、恩師の穂積陳重らのすすめにより学位論文の執筆に精根を傾ける。 | |
同年10月頃、神道史を講義する責任上、「教派神道十三派」について研究する必要を感じた千九郎は、実際の教化の方法や信徒の活動の様子などの調査研究を始める。この頃、長年の苦労が健康を徐々にむしばんでいた。千九郎は併行して天理教研究始める。 |
【廣池博士入信の情況】 | ||||||||||
1909(明治42).43歳の時、3月、廣池が神道史研究の過程で現代神道の一教派である天理教に関心を抱き、学術調査のため天理教本部を訪れる。これは、博士が神宮皇学館で憲法と神道史を担当することになったことから現代の神道各派の調査が必要になり、その一環としてのものであった。博士が質問し、それに中山真之亮天理教初代管長らが答えるやり取りがされた。 同年春、
10月、宗教の持つ実践性が人間を変革する様子に感動し、同時に、天理教教理に触れ得心し天理教に入信する。天理教勢山支教会の矢納幸吉会長(58歳)と知己を得て、博士の矢納会長詣でが始まる。広池博士逝去前年に記された「広池千九郎日記」(第六冊目)に次のように記されている。
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廣池千九郎は、教祖中山みき、その教理につき次のように評している。
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1910(明治43)年、「支那古代親族法の研究」を主論文とし「支那喪服制度の研究」と「韓国親族法親等制度の研究」の二部を副論文として東京帝国大学へ提出する。その後、論文は審査会を満場一致で通過。この年、辞職。 | ||||||||||
この年、天理教勢山支教会矢納幸吉を日記の中で「我を育てた勢山会長」と記す。天理教の中山真之亮管長に面会、教理結集の仕事を依頼される。面会時、管長は非常に喜び、「教祖が、今に世界に二人とないえらいものを神が引き寄せると言うておられたことを聞いておるが、貴君がその人であったかもしれない」と語ったという。天理教本部から三教会同に関する講演の依頼を受けて、以後全国各地で講演活動を展開する。 | ||||||||||
この講演を契機に当時各地で起きていた労働問題解決にも尽力し始める。三重紡績会社(現東洋紡績津工場)をはじめ富士瓦斯紡績会社、三越呉服店(三越百貨店)、内外通運(現日本通運)等で労働者に対して講演を行う。一方、実業家、政治家、軍人等が中心となって結成された「帰一協会」、「日本海員掖済会」、「日本工業倶楽部」でもたびたび講演する。参加者には山県有朋、東郷平八郎、松方正義、大隈重信、渋沢栄一、西田幾多郎、森鴎外といった著名人の名前もある。 | ||||||||||
1912(大正元).9.20日頃、風邪を引き、病状が次第に悪化し、12.6日、最悪の状態に陥る(「大正元年の大患」)。この時、廣池千九郎は「天理教に道具として引き寄せられたと自覚していた」と思われる。物質的な治療は尽きるところ死を待つのみと悟り、「神に二十年の延命祈願」をする。次のように「心定め」している。
12.10日、東京大学より法学博士の学位を授与され、日本で第135番目の法学博士号を取得する。これにより学者としての地位を不動なものにする。その後、廣池の研究は法制史の枠を超え、究極のテーマである国体つまり日本のアイデンティティの研究へと傾倒してゆく。 12.27日、天理教初代管長中山真之亮が、幹事松村吉太郎を勢山支教会に派遣し、広池に天理教本部入りを要請し、広池が受け入れる。病状回復へ向かう。 |
【廣池博士入信後の履歴】 | |||
1913(大正2)年1月、古神道と現代神道(教派神道)を比較研究し、天理教教理の体系的研究を進めていた千九郎が、天理教本部から教育顧問ならびに天理中学校の校長として招聘される。千九郎には早稲田大学や慶応義塾などから招聘の話がきていたが、それらのすべてを断り、この要請に応じ天理教教育顧問、天理中学校校長に就任する(1915年まで)。千九郎は、教祖の孫に当る天理教の管長・中山真之亮と同年齢で、面会するたびに、管長の慈愛あふれる人柄に感銘を受け、尊敬の念を抱いてきた。管長も同様に千九郎の卓越した学識、真摯な求道の姿に関心を寄せていた。二人は胸襟を開いて語り合う間柄となり、信頼関係を深めた結果であった。 | |||
天理中学校の校長となった千九郎は、「教育の要は慈悲寛大の精神にある。人生の目的は徳性の涵養であり、身体の健康と才学はあくまでもその目的を達する手段に過ぎない。但し、徳を修め、健全な身体を持っていても、学力や才知がないと、道徳を活用して天職を十分に全うできない」(「伝記/廣池千九郎」、モラロジー研究所刊)の信念を持って教職員と学生に愛情を注いで行った。 | |||
1914(大正3).12.31日、千九郎の最良の理解者であった管長にして初代真柱の中山新治郎が急逝出直し(享年49歳)。千九郎が教内での後ろ盾を失う。 | |||
1915(大正4).1.12日、千九郎は、管長の追悼講演会で、故管長と共に作り上げようとしてきた天理教会改革プランの一端を次のように明らかにした。
これが、応法派の反発を招き予測しなかった方向へと発展する。このとき千九郎は、問題の原因は、すべて自分の不徳によるものであると深く反省し、教育顧問と校長を辞任することになる。 この年、学位論文をまとめて「東洋法制史本論」を発刊する。大阪毎日新聞、東京朝日新聞、読売新聞、大阪朝日新聞、報知新聞、万朝報など多くの新聞、雑誌が書評を出す。続いて「伊勢神宮と我国体」を発刊する。 この頃の「広池千九郎日記」は次のように記している。
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1916(大正5)年、元旦の「広池千九郎日記」は次のように記している。
実業家、政治家などに対する重大な警告として「日本憲法淵源諭」等を再刊する。 4.4日、千九郎が天理中学校長、天理教教育顧問を辞任する。 4.12日時事新報の廣池千九郎談は次の通り。
この頃より全国へ出かけての講演旅行を本格化する。 6.6日の「広池千九郎日記」は次のように記している。
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1916(大正5)年、 労資の思想善導に取り組み、労資協調の祖と云われる。井出くにむほん。教祖三十年祭。 | |||
1917(大正6)年、2.15日、浅草蔵前東京工業高校講堂で、「工場主の利益の保護と職工の幸福獲得の方法について」と題する講演を行っている。 この年、「日本憲法淵源論」を刊行。新思想の提言を行い、 「知」を超えた平和論を打ち出す。「助け一條乃御話」 起稿。 |
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1918(大正7)年、2.5日、大阪府南区教育会で、「国体論」と題した講演を行い次のように述べている。
「富豪、資本家、会社・商店の経営者、重役、高級職員各位並に官憲に稟告」を発行する等、労働問題の重要性を指摘し、道徳的解決に取り組む。同時に国際紛争の解決に向けても尽力する。全国へ出かけての講演旅行を本格化する。「帰一協会」を結成し、日本の思想界を統一する。「斯道会」を結成し、国民道徳を推進する。これらの研究、運動が基礎となり、後年「道徳科学の論文」の発表へとつながっていくことになる。 12.17日、神戸商工会議所で行った講演で次のように述べている。
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1919(大正8)年、1924(大正13)年までの5年数ヶ月の間、瀬戸内海にある天理教本島支教会会長/片山好造氏の招請により、原則的に年2回同地を定期的に訪れ、滞在し、「モラルサイエンス」の研究に取り組んでいる。高野友治氏の「伝道者」は次のように記している。
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1920(大正9)年、華族会館で講演し、上層階級を教化する。政・官界要人へ働きかける。モラル・サイエンスの研究を本格化し、資金援助を募る。 | |||
1922(大正11)年、「モラロジー研究所及びモラロジー・アカデミーの性質ならびに組織」を著す。11.10日、天理教の「助け一條の御話」頒布。 | |||
1924(大正12)年、全国の温泉地を巡り治療をしながらの執筆。経営指導で「三方よしの経営」を唱える。この年、 モラロジー研究所の設立を構想する。 その後国民道徳運動の活動に没頭し、道徳科学(モラル・サイエンス)を研究。その研究成果や各地で公演した内容をまとめて、1926(昭和元)年、日本および世界の普遍的な道徳原理の必要性を世に問う「道徳科学の論文」を上梓。自らの道徳科学をモラロジーと名づけ、道徳科学研究所を拠点に著述・講演活動を行った。当時の英字新聞ジャパン・タイムズにも掲載された。 |
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1926(大正15).8.17日、「道徳科学の論文」の原稿が完成する。 | |||
1927(昭和2)年、プロ・デューティ・ソサイティの設立。 学術用語「モラロジー」の誕生。 | |||
1928(昭和3)年、「道徳科学の論文」を出版。序文を新渡戸稲造、白鳥倉吉、阪谷芳郎が提供している。最高道徳という価値観を生む。刊行後の研究課題として限りなく広く多様な構想を持つ。 |
【廣池博士離教、その後の履歴】 | |
1929(昭和4)年、1月、二代真柱にお願いして、天理教籍を離れ、廣池個人として道徳科学を世界に普及することになった。社会教育のためのテキストとして「孝道の科学的研究」と「新科学モラロジー及び最高道徳の特質」を出版する。 | |
1930(昭和5)年、財界、産業界、軍部などで平和のための講演を行う。昭和初期から始まる軍部の中国大陸進出に際しては、政府、軍部の要人に対して積極的に働きかけ、軍事的な行動を諌め、提言を行っている。 | |
1931(昭和6)年、道徳科学研究所(財団法人Moralogyモラロジー研究所) を設立する。以来、倫理道徳の研究と、それに基づく「心の生涯学習」を提唱・推進する文部科学省所管の社会教育関係団体として、一貫して道徳性・人間性を育てる研究活動・生涯学習活動・出版活動を展開した。モラロジーの語源は、道徳を表すモラル(moral)と学を表すロジー(logy)による。人間、社会、自然のあらゆる領域を研究対象とし、人間がよりよく生きるための指針を探求し提示することを目的とした。 大阪毎日新聞社主催の講演会開催。この時、新渡戸稲造が、廣池の紹介講演を行い、「廣池先生の研究の世界的意義」と題して、概要「廣池先生こそ西洋の思想界が待ち望んでいる東方の光の一つである」と紹介した。この頃より首相や軍の指導者など要人への働きかけを強める。 |
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1932(昭和7)年、若槻礼次郎前首相や鈴木貫太郎侍従長、大迫尚道大将、斎藤実首相らに書簡や面談などを通して戦争回避を提言する書簡を提出。国際紛争の道徳的解決のため積極的に働きかけた。第一回モラロジー講習会を開催する。 | |
「天理教教理惣説」を著わし始めている。
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1933(昭和8)年、 斎藤実首相への進言。1934(昭和9)年、支援の輪が広がり、東葛飾に約十万坪の土地を取得する。 | |
1935(昭和10)年、モラロジーに基づく教育機関として道徳科学専攻塾を千葉県東葛飾郡小金町(現在の千葉県柏市)に開校、これは今日の学校法人廣池学園に至っている。男女共学・全寮制・生涯学習、つめ込みなし、試験なしを教育の特色とした。5.3日、孔子と顔回の子孫が来塾。11月、前首相斎藤実が来塾する。その他ハーバード大学教授など国家要人が来塾。モラロジー経済学のレコード吹き込み。 | |
1936(昭和11).7月、元首相若槻礼次郎が来塾する。 | |
1937(昭和12).4月、賀陽宮恒憲王が台臨。8月、ハーバード大学教授デ・ハース博士が来塾する。温泉付き社会教育施設として群馬県利根郡水上村(現・みなかみ町)の谷川温泉を購入した。次のように述べている。
昭和12年の開設後、次第に宿泊施設や講堂を整備し、廣池の考案した独特な浴場で身体を癒しながら、社会に必要とされる人材育成のための研修を行っている。敷地内には、廣池千九郎谷川記念館と谷川麗澤館(廣池が晩年に住居した建物)が建てられている。 |
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1938(昭和13).6.4日、群馬県水上町の大穴温泉(群馬県利根郡水上村)で逝去(享年72歳)。 辞世の句「とこしべのたましいひ」。この地に大穴記念館があり、廣池の業績と事跡を紹介している。畑毛温泉・富岳荘。賀陽宮殿下の台臨と御前講義。 |
【廣池千九郎の天理教入信考】 |
Re:れんだいこのカンテラ時評358 | れんだいこ | 2007/12/28 |
【廣池千九郎考】 れんだいこは、木下尚江に続いて廣池千九郎に興味を覚えたので記しておく(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/omithisonogode n/senkuroco.htm) 興味深いことは次のことである。後にモラロジーの創始者として知られる千九郎は、いわば在野系の博学者であったが、数々の論考が認められて1903(明治35)年、早稲田大学講師。1906(明治39)年、伊勢の神宮皇學館教授を歴任。「神道史」、「宗教史」、「東洋法制史」などの講義を担当する。いわば功なり名を遂げたその身で、1909(明治42)年、学術調査のため天理教本部を訪れ、翌年入信している。 天理教教育顧問・天理中学校校長を務めるかたわら、天理教本部から三教会同に関する講演の依頼を受けて、以後全国各地で講演活動を展開する。1912(大正元)年、東京大学より法学博士の学位を授与される。これにより学者としての地位を不動なものにする。その後、廣池の研究は法制史の枠を超え、究極のテーマである国体つまり日本のアイデンティティの研究へと傾倒してゆく。 千九郎は天理教の初代真柱の知遇を得、いわばスポークスマンのような活躍をしていたが、真柱没後、本部との折り合いが悪くなり天理教と決別している。その後、1915(大正3)年、「東洋法制史本論」、「伊勢神宮と我国体」を発刊。1916(大正4)年、「日本憲法淵源諭」等を出版する。これらの研究が基礎となり、後年「道徳科学の論文」の発表へとつながっていくことになる。 千九郎は、労資の思想善導に取り組み、労資協調の祖と云われる。経営指導で「三方よしの経営」を唱える。これが後にモラロジー研究所設立構想へと至ることになる。 その後の評価は別として、れんだいこは、千九郎氏の履歴に興味を持つ。彼ほどに日本学を造詣せしめた者が何ゆえに天理教に入信したのだろうか。その時の動機は、初代真柱との親交のみではなく、天理教教義の奥深さに傾倒したゆえにであったのではなかろうか。ズバリで云えば、教祖中山みきが開陳した「元始まりの理話し」(「泥海こふき」とも呼ばれる)に被れたのではなかろうか。 れんだいこは今、この「元始まりの理話し」にぞっこん惚れ直そうとしている。現代世界を牛耳る国際金融資本帝国主義がイデオロギーとしているユダヤ-キリスト教聖書の天地創造譚、戦前の皇国史観に基く記紀神話譚に抗すべきもう一つの神話がここにあり、その完成度、思想の良質性は群を抜いているのではなかろうか。そう思い始めたからである。 今日、何も分かっていない手合いが宗教の意義と価値を貶め、くだらない政治しかしていないのに政治優位論を掲げ、科学的という冠詞を付けただけで科学的になったと勝手に了解する程度の貧困な頭脳で、独特の教義を掲げているのに、それを思想と呼ぶ。この手合いに対して、中山みき思想とその重層的弁証法的理論構造を学ぶよう説いてみたい。 千九郎の「三方よしの経営理論」の中身がわからないが、恐らく、階級闘争史観のアンチテーゼとして打ち出したものではないかと思われる。れんだいこは、千九郎の恐らく穏和主義的な「三方よしの経営理論」ではなく、中山みき的な「谷底せりあげ救済、高山後回し的世直し、世の立て替え」理論に基く急進主義的な「三方よしの経営理論」を唱えてみたい衝動がある。 そういうなんやかやで、先駆者千九郎の意義と価値をも見直したい。思えば、幕末維新以来の日本のインテリゲンチュアは、学べば学ぶほどネオ・シオニズム学で染められ、却って馬鹿になるだけの官学界からは出てこず、いわば異端の在野の中からのみ生まれてくるのは不思議でもなんでもないのかも知れない。そういう気づきを与えてくれる点でも千九郎の意義は高い。 2007.12.28日 れんだいこ拝 |
2017.9.29日、「廣池千九郎(モラロジー) と 天理教の関係1」。
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【廣池家系図】 |
廣池千九郎の長男・廣池千英(ひろいけ ちぶさ)
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廣池千英の長男・廣池千太郎(ひろいけ せんたろう)
https://www.reitaku-u.ac.jp/about/president.html |
廣池千太郎の長男・廣池幹堂(ひろいけ もとたか)
https://www.reitaku-u.ac.jp/about/president.html |
(私論.私見)
桜井良樹の論文「大正時代末期の天理教団と広池千九郎」は教祖40年祭前後の天理教団(本部)の様子を理解する上で貴重な資料だと思います。
参考資料 ①「大正時代中期の天理教団と広池千九郎」
②「明治末期の社会・天理教・広池千九郎」
③「天理教の大正デモクラシー」(金子 明)