19章 戦後学生運動9期その2 1971(昭和46)-1975(昭和50)年
 70年代前半期の諸闘争

 (最新見直し2008.9.11日)

 これより前は、第9期その1、70年安保闘争とその後に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「れんだいこの学生運動論」は、前章70年安保闘争でもって一応終結させる。その理由は、学生運動のひながたが既に出尽くしており、70年代以降にはこれと云う新たな質が認められないからである。筆者が思うに、70年安保闘争を平穏無難にやり過ごすことによって、日本左派運動が醸し出す熱い政治の季節を基本的に終了させたのではなかろうか。70年代以降も諸闘争は続く。だがしかし、それ以前の学生運動との違いが明らかに認められ格段に質が落ちる。

 それまでの学生運動は、時の政治課題に対して逸早く飛びつき情況打開の突破口的役割を任じ肉薄せんとしていたが、それ以降は政治闘争自体がアリバイ闘争化し始め、それも次第に衰微して行くことになる。どういう訳か権力中枢機関や国会に向かう闘争が組織されなくなり、散発的且つセンセーショナルな事件化が風靡し始めた。それが如何に過激に為されようともマスコミの好餌となるだけのものでしかなくなった。自然にそうなったのか誘導されたのかは分からないが、日本左派運動が隘路に陥ったのは確かである。

 急進派は呼号するところの体制打倒に向かう訳でもなく、せいぜい抵抗運動を演じながら、どれもこれも潰えた。穏和派は社共政権構想をますます遠景に退け、左派運動と云うよりネオ・シオニズム配下的サヨ運動と云う化けの皮を正体露にしつつ潰えた。こうなると、そういうものを検証してみても政治論的には意味がないと考える。そういう理由で、「れんだいこの学生運動論は、前章70年安保闘争でもって一応終結させる」ことにする。

 とは述べてみたものの、その後の70年代の闘争、80年代の闘争、90年代の闘争、2000年代の闘争を、やはりれんだいこ言葉で書き上げることにした。ここでは70年安保闘争後の1970年代前半期の学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動9期その2、安保闘争後より1975年までの闘争概略」と命名する。詳細は「戦後学生運動の考察/70年代の学生運動(1971-75)」、概論は「70年代前半期の諸闘争」に記し、この時期の枢要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。

 れんだいこの処女作「学生運動論」では、70年代以降の闘争を省き、その代わりにその後の左派運動が陥った隘路の代表例として、「三里塚闘争概略」、「連合赤軍考概略」、「党派間ゲバルト考概略」、「日本赤軍考概略」、「よど号赤軍派考概略」を採り上げる。これらはいずれも日本左派運動が教訓にせねばならない内実を備えていると考えるからである。いずれも概論としたのは紙数の関係による。


【1971年から1975年の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。

 1971(昭和46).1.9日、日共が、「革新三目標」による統一戦線を提唱。「革新三目標」とは、1・日米軍事同盟の解消・中立、2・大資本中心の政治打破、国民の命と暮らしを守る、3・軍国主義の全面復活・強化に反対・議会の民主的運営と民主主義の確立。
 6.17日、沖縄返還協定調印(宇宙中継)。 
【宮顕が、プロレタリア独裁訳語問題に言及】
 6.23日、参院選挙が最終盤に入ったこの頃、宮顕・幹部会委員長が、プロレタリアート「独裁」表現を、「ディクタツーラ」に代えて使いたいと発表。6.25日、赤旗は、宮顕発言を次のように報じている。
 「(プロレタリアート独裁の)適切な訳語ないし用語法については、今後とも研究者間で更に検討されることが望ましいが、現在我々は、次のような一応の成案を持つ。まず、ラテン語の原語『ディクタツーラ』をそのまま使うことであり、特に日本語に訳すならば『執権』、『執政』といった訳語がより適切である。また、原語にそのような注をつけて使うことも出来よう。更に、翻訳でなく我々自身が『プロレタリアートのディクタツーラ』の内容を表現する場合には『労働者階級の権力』、『労働者階級の政治支配』といった言葉を使うことも出来る」。

 6.27日、赤旗は、榊利夫の「訳語の問題の本質と無力な反共宣伝」を発表した。7.4日、赤旗は、蔵原惟人の「プロレタリア・ディクタツーラの訳語問題とそれに対する若干の反響について」を掲載した。

 これについて、筆者はかく思う。「プロレタリアート独裁」の独裁は哲学的概念であることを知らせるのが肝心であり、独裁と云う用語を執権や執政に書き換えるのはお門違いではなかろうか。それを敢えてするのがいただけない。それと、史上の文書の独裁を書き換えるのは許されまい。

 7.3日、志田重男死去(59歳)。鈴木卓郎の「共産党取材30年」は次のように記している。
 「かって徳田全盛時代には武装闘争の総司令官であった志田も晩年は労務者となったりして細々と日陰暮らしを続け、『宮本では革命はできない。代々木は間違っている』と親しい友に語り残したまま、昭和46.7.3日、神戸市の病院で死亡、入院も火葬も偽名という哀れな最後だった。だが、志田は党を追われるころ警察から生活の援助を受け最後まで警察との関係は断たれていなかったというし、私は志田が警察の公舎で警察官の家族と一緒に記念撮影した写真を保存している。若い頃から共産党の闘士、火炎瓶で警察と闘い、そのウラで警察からカネを貰う-そういった人間を私は理解できない」。

 これについて、筆者はかく思う。志田は要するに使い捨てにされたということであろう。


 7.9日、キッシンジャーが北京へ忍者外交。周恩来と会談。頭越し外交で日本に衝撃。8.15日、ニクソンがドル防衛のため新経済政策発表。「ニクソン.ショック」といわれる。金とドルの交換一時停止。10%の輸入課徴金など東京外国為替市場はドル売り殺到。円高、ドル安となる。 
 8.19日、宮顕委員長を団長とするソ連、ルーマニア、イタリア、北ベトナムの4カ国訪問団が出発。9月、宮顕は、ルーマニアのブカレストでチャウシェスク書記長との会談後、両党共同声明を発表し、自主独立路線を宣言した。注目される点は次のくだりである。
、「それぞれの党の国際的な第一義的責務は、どのような形態でも、他党の内部問題への干渉を許さないこと、他党の分派の存在と闘争を支持、育成しないことである」。
 
 これについて、筆者はかく思う。党内問題への干渉は許されないとしても、友誼的勧告はむしろ常時行われるべきではなかろうか。「他党の分派の存在と闘争を支持、育成しない」はケースバイケースであろう。

 9.13日、中国で林彪派がクーデター失敗。
 10.25日、中国の国連復帰が可決され、中華民国(台湾)は逆に国連から脱退していくことになった。この時、日本の福田外相は、米日が共同提案国になり、「逆重要事項指定決議案」(中華民国(台湾)の国連追放には、3分の2以上の表決を必要とするというもの)と二重代表制決議案(北京と台北の両政権に国連議席を認めるというもの)を提出したが否決され、アルバニア決議案が(圧倒的多数?、4票差ともある)で可決された。これにより中華人民共和国の国連加盟が実現し、中華民国の代表は議場を去った。福田外相のロビー活動は裏目に出、日中関係悪化を招くことになった。

 11.17日、沖縄返還協定が衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発して、社会.共産両党と総評は国会請願デモ。11.24日、沖縄返還協定法案が衆院本会議で強行採決され、自然成立した。


 1972(昭和47).1月、「日共革命左派」、原田長司グループの「日本共産党(マルクス・レーニン主義)山口県準備委員会」、安斎庫治グループの「日本共産党再建準備委員会」の三者で「全国規模の前衛党建設」を目指した「全国三者協議会」を結成、同年8月には、これを「前衛党建設を目指すマルクス・レーニン主義者全国協議会」に発展させる。
 2月、宮顕委員長が家移り。東京都杉並区上高井戸から東京都多摩市連光寺に移転した。敷地約200坪、周囲を高いブロック塀で囲い、家族の他防衛隊員が常駐。以降毎週一回、党本部で開かれる党中央常任幹部会会議の前日には、上田、不破、榊、岡本博之、小林栄三、若林ら私設秘書幹部も含めて謀議を凝らして行くことになった。
 2.21日、ニクソンが訪中して毛沢東首席と会談、2.27日、日米中共同声明を発表。日本之頭越し外交となり二度目の「ニクソンショック」といわれる。 
 3.27日、衆議院予算委員会で、社会党の横路孝弘・楢崎弥之助氏が沖縄返還に当たっての外務省の極秘電報「密約」を漏洩し爆弾発言となった。安川外務審議官付きの秘書・蓮見喜久子から毎日新聞記者・西山太吉氏に渡された外務省の機密文書コピーが横路氏に渡ったものであったこれを「外務省公電漏洩事件」と云う。

 密約は、沖縄返還交渉の過程で、日米間に為された、軍用地地主への復元補償費400万ドルを日本が肩代わりするというものであった。これをきっかけに、国家機密や政府の情報開示に対する国民の「知る権利」運動に関心が高まっていくことになった。この事件は、外務省の過剰機密姿勢、西山記者の取材姿勢、横路議員の出所漏洩姿勢、西山記者逮捕の是非等々に後足の悪さを残すことになった。

 3.30日、南ベトナム解放軍が1968年以来の大攻勢を開始する。4.6日、アメリカが大規模な限定北爆を再開する。4.16日、アメリカ軍がハノイ、ハイフォンへの爆撃を再開する。5.1日、北ベトナム軍・南ベトナム解放戦線が、南ベトナムの要所のクアンチを占領する。5.4日、ベトナムで臨時革命人民委員会が成立する。5.8日、ニクソン米大統領が北ベトナムの全港湾機雷封鎖を発表する。5.10日、北ベトナムが、アメリカの北爆強化と機雷封鎖に抗議する民主共和国声明を発表する。5.10日、南ベトナムのチュー大統領が全土に非常事態宣言を発する。

 6.11日、通産大臣の田中角栄が「日本列島改造論」発表。これが来る総裁選出馬に当たってのマニュフェストとなる。これは向こう受けを狙って付け刃で出したものではなかった。1966年に幹事長を辞任した翌年の1967年に就任した自民党都市政策委員長時代に、日本の産業・経済構造を研究し、1968・5月に「都市政策大綱」(議論の取りまとめは、麓(ふもと)邦明氏)としてその成果を発表していた延長線上のものであり、東京一極集中からいかにしてバランスの良い総合的国土活用ができるかの視点で、産業の適正配置と分散、高速道路網の整備、地方単位の快適生活環境都市づくり等を提言していた。


 6.17日、佐藤首相が引退声明し自民党内の後継争いが始まった。7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催され、田中角栄が第6代自民党総裁に選出された。7.7日、第一次田中内閣が発足した。
 8.31日、ハワイのクイリマホテルで日米首脳会談(田中.ニクソン会談)。アメリカ側は、ニクソン、キッシンジャー、日本側は田中、牛場信彦駐米大使。その後、ロジャーズ国務長官、大平外相が加わっている。この席で、中国問題、特に日中交渉、国際収支問題、日米貿易不均衡問題等が包括的に話し合われている。この時、竹下副幹事長、金丸国会対策委員長、亀岡経理局長等20数人が同行しており、その中の大物議員の一人が「ニクソンがロッキード、ロッキードと言うので困ったよ」とオフレコで語っている。これが後のロッキード事件の際に「この時、ロッキード密約があった」とまことしやかに噂される事になった。
 9.25日、田中首相と大平外相が中国へ。9.29日、「不正常な状態(戦争状態)の終了、中国が唯一の合法的政府であることを認める」など共同声明に調印し日中国交回復の道を切り開いた。これに反発した若手タカ派が青嵐会を結成した。
 10.9日、第4次防衛力整備計画が正式決定される。

 11.20日、総選挙に臨んで、NHKの「わが党はかく戦う」の座談会番組で、公明党の竹入委員長が、共産党の宮顕委員長に、「敵の出方論」の真意を質した際に、宮顕は次のように語っている。

 「我が党の文献をよく読んでください。さようなことは一言も触れておりません」

 これについて、筆者はかく思う。おかしなことである。竹入委員長の二の矢が無かったことによりそれ以上突っ込まれなかったが、党文献から「敵の出方論」を探し出すことはさほど困難なことではない。宮顕の二枚舌の例証である。


 1973(昭和48).1.8日、パリのベトナム和平交渉が再開される。1.15日、ニクソン大統領が北爆中止命令を出す。1.27日、米、南.北ベトナム、臨時革命政府の4代表がベトナム和平協定と議定書に調印。1.28日、ベトナムの停戦が発効する。3.29日、アメリカ軍が、南ベトナムからの撤退を完了する。


 1.13日、田中首相が、憲政史上初めて共産党首脳と個別会議を行う。


 4.27日、ウォーターゲート事件が政治スキャンダルに発展。4.30日、ウォーターゲート事件で、リチャード・クラインディーンスト司法長官とハリー・ハルドマン、ジョン・アーリックマン両大統領補佐官が辞任する。5.17日、アメリカ、ウォーターゲート特別調査委員会の公聴会が始る。6.25日ウォーターゲート事件で上院の公聴会が開かれ、大統領の元法律顧問のJ.ディーンが証言する。この中で、ディーンは大統領執務室に録音装置があるのではないか、と証言し新たな展開が始まる。7.16日、ウォーターゲート事件で上院の公聴会が開かれ、ホールドマンの補佐のA.バターフィールドが大統領執務室に盗聴装置が存在することを証言する。8.15日、ウォーターゲート事件でニクソン大統領が、特別検察官A.コックスが要求するテープの提出要求を拒否する。 

 7.5日、日本共産党が、ソ連と中国の核実験にも反対するとの路線転換を表明する。宮顕は、核実験問題に対する一大政策転換を発表した。「共産党は、社会主義国の核実験には、賛成しないが余儀なくされたもの、防衛的、という見方をしてきた。しかし、この数年間のうちに重要な変化が起こった」として、従来の運動方針に固執しないと言明した。

 8.8日、韓国の政治家キム・デジュン(金大中)氏、白昼(午後1時半ごろ)東京・飯田橋のホテルグランドパレス)から拉致さる→金大中事件発生=韓国の情報機関介入。8.13日、8日に誘拐された金大中がソウルで発見される。9.5日、金大中事件で、日本政府が容疑者として金東雲・駐日韓国大使館1等書記官の出頭を申し入れる。韓国側は拒否する。

 9.26日、田中首相が、ヨーロッパ・ソ連訪問に出発する。

 10.5日、米空母ミッドウェーが横須賀に入港する。母港化反対のデモが起こる。

 10.6日、エジプト、シリア両軍が、イスラエルに対する攻撃を開始する。第4次中東戦争の勃発。 10.7日、アラブ諸国が産油量を5%引き下げると発表する。10.8日、田中首相とコスイギン首相の日ソ首脳会談が17年ぶりに行われる。シベリア開発を話し合う。10.10日、田中首相訪ソ→日ソ共同声明に未解決の領土問題を盛り込む。10.22日、終結。

 10.17日、第一次オイルショック。OPECが原油価格21%引き上げを発表。

 10.17日、第一次オイルショック。石油輸出国機構(OPEC)機構が、石油の公示価格を1バーレルあたり3.01ドルから5.11ドルへと70%引き上げた(「原油価格21%引き上げを発表」)。いわゆる第一次石油危機が発生した。OPEC10ヵ国などがアメリカなどイスラエル支持国向けの石油生産削減を決定する。

 10.18日、外務省に、クウェートから「各アラブ産油国は石油生産を削減することを決定した。ただしアラブにとっての友好国には影響を与えない」という電報が入る。

 10.23日、第1次石油危機→メジャー、原油価格30%アップを通告→トイレットペーパー売り切れる→物不足バニック=日本列島を席巻(せっけん)=作られた物不足→卸売物価狂乱状態→高度経済成長の終焉。

 10.25日、国際石油資本5社,原油の供給削減,石油危機深刻化。当時日本はすでに世界最大の原油輸入国であり、石油の九九・七%を輸入に依存し、うち八八%が中東からであった。備蓄も「四日分」に過ぎなかった。第一次石油危機は、中近東の安価な石油に依存し、これを大量に消費して高度成長経済を実現してきた日本経済に深刻な打撃を与えた。

 11.11日、停戦協定締結。アラブ産油国の湾岸六カ国は、12.23日に原油公示価格を11.65ドルへの引上げを74.1.1日から実施することを決めた。僅か2ヶ月余りで約4倍、72年末に比べると4.7倍になった。

 11.**日、日共が第12回党大会を開く。大会の眼目は、「民主連合政府綱領」の決定と、綱領の一部改正により、合法主義的純化、議会専一主義、反暴力主義の観点からの「国民的合意」を重視した党運動化指針を確立することにあった。宮本委員長から「民主連合政府はこれまでの宣伝のスローガンから実践のスローガンに変わった」と宣言され、その政府綱領案が発表された。天皇制に対する新見解「自然に熟し落ちるような形で解決することが望ましい」が出された。

 プロレタリア独裁が執権に統一されるよう党綱領改訂の手続きがとられた。61年綱領が三点修正された。1.「ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、全ての人民大衆が、人類の進歩のために行っている闘争をあくまで支持する」のうち「ソ連を先頭とする」の削除、2.「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具に変え」の「道具」を「機関」に改める。3.「独裁」は、全て「執権」に改める。

 党規約改正が行われ、岡正芳の「日本共産党規約の一部改正についての報告」に基づき、党規約の変更が為された。岡は、改正理由について次のように述べている。

 「中央統制監査委員会が第7回大会で中央委員会と並ぶ大会選出機関とされたのは、1950年以後の党の分裂やそれと結びついた一部の財政活動の混乱などの教訓から、それらを防止しようとの第7回大会の特別の意志に基づくものであった。しかしその後、中央委員会を先頭とする全党の活動は画期的な前進を示し、設立当時の特殊事情も既に根本的に解決されているので、中央機関の活動を一層強力且つ効果的に進めるため、中央機関も民主集中の原則に基づく統一的体制を確立することがますます重要となってきた。こうして、統制委員会を中央委員会の下に置く第10回党大会の措置に続いて今回中央監査委員会も中央委員会の下に置き、その政治的組織的指導と結合して活動するよう規約改正を提案する」。

 こうして、1966年の第10回大会における統制委員会の任命制に続いて、監査委員会もこの第12回大会において党大会選出項目から中央委員会の任命制となった。この時の改正理由は、「中央の民主集中指導体制を全体として首尾一貫したものとする」と言う論理であった。

 津田道夫氏の「思想課題としての日本共産党批判」は次のように述べている。

 「まず10回大会は、それまでの中央統制監査委員会を中央監査委員会と中央統制委員会に二分割し、中央監査委員会はこれを大会選出、中央統制委員会は、これを中央委員会の任命としたのである。これで、中央機関の構成法にかかわる第7回大会規約の民主的規定は、その大半が崩されるところとなった。そして、今回の第12回大会は、右のように分割された中央監査委員会をも大会選出ではなく、中央委員会任命としてしまった。何の事はない、中央委員会は、自分の任命した中央監査委員会の監査を受けるということになってしまったわけである」。

 野坂議長、宮本委員長、不破書記局長体制を再選。

 11.22日、田中内閣が、中東政策を親アラブへ政策転換する。新政策の骨子は1・武力による領土の獲得及び占領反対。2・1967年戦争の全占領地からのイスラエル兵力の撤退。3・同域内の全ての国の安全保障措置。4・パレスチナ人の正当な権利の承認と尊重。











【戦後左派運動流産の経緯】
 

 





 1974(昭和49)年早々、「日共革命左派」、原田長司グループの「日本共産党(マルクス・レーニン主義)山口県準備委員会」、安斎庫治グループの「日本共産党再建準備委員会」の三者で「全国規模の前衛党建設」を目指した「全国三者協議会」の意思の統一ができず、結局成功しなかった。

 「日本共産党革命左派九州党」を発展的に解消して「日本労働党」を結成するに至った。72年に大隅鉄二らの「日本共産党革命左派」、原田長司グループ、および安斎庫治グループの三者によって「前衛党をめざすマルクス・レーニン主義全国協議会」を結成し、組織の大同団結を目指した。が、各派の思惑違いもあって、この組織統一には失敗し、大隅鉄二らの「日本共産党革命左派」が「日本労働党」を結成するに至った。
代表・大隅鉄二、機関紙・労働新聞、機関誌・労働党。

 68年に「日共左派」から除名された大隈鉄二は、翌69年6月、「日共革命左派」を結成し、「日中国交回復運動」を柱として組織活動を開始した。そのころ「日共(革命左派)神奈川県委員会」の土屋三男グループが武闘派に転じた川島壕と袂を分って組織に合流したため、関西、関東地区に進出、71年10月には「関西地方委」、72年3月には「関東地方委」を組織した。その後一時、安斎庫治、原田長司らと「前衛党の建設」を目指したが、香料問題などの基本事項について意思統一ができなかったため両グループと手を切り、74年1月「日本労働党」を結成した。最近では、来たるべき衆議院選に5名の立候補者をたてて積極的な政治宣伝活動を展開すると宣伝している。

 4.11日、日教組が結成以来初めての全日ストを打つ。文部大臣奥野誠亮。
 4.16日、赤旗に、「教師は労働者であるが、教育の専門家として『聖職性』の側面を持つ」との主張を掲載。教師聖職論争展開される。
 4.17日、赤旗・主張欄で、「教師=聖職論をめぐって」論文が発表される。教師「聖職」論を展開。5.5日、社会党が批判。

 「自民党の教師=聖職論に単純に機械的に反発して、教師は労働者であるだけで聖職ではないなどというのも、正しくありません。専門家たる教師の活動は、子供の人格形成にも文化の発展にも、直接の重大な影響をもっています。この意味では、教師は確かに聖職といっても良いでしょう」。

 以降、党中央は、「教師の労働基本権や組合活動、政治活動の制限を是認」する側に明確に立つことになった。共産党中央の「聖職論」は自民党に歓迎され、これをきっかけにして公明党も「使命職論」を、民社党が「勤労者の性格を持った聖職論」を発表していくことになった。社会党中央は反発し、機関紙・社会新報で批判していくことになった。当然日教組大会の争点となってくことになった。当時共産党中央は、部落解放同盟との対立の際に「教育の中立性論」をいい始めており、このたびの教師聖職論と教育の中立論が両輪となってその後の運動の性格を規定させていくこととなった。 

 6.26日、7月の参院選を前にして、毎日新聞が「(各党首)陣頭に聞く」のインタビュー連載を企画した。6.26日付けの第2回目に春日民社党委員長のインタビューとなった。この時春日氏は、共産党の戦前のリンチ事件を取り上げ、「極悪非道ですよ、共産党は。反対者を殺すのだから。昭和8年、宮本顕治や袴田里見が何をやったか、予審調書を見れば分かる。連合赤軍の集団リンチ殺人事件とどこが違うか。口ではない。彼等が何をやったかだ。それをもとに判断するしかないじゃありませんか」と述べ、共産党を攻撃した。

 共産党は直ちにこれに反撃し、6.28日付け赤旗で、宮本太郎広報部長による談話「低劣な中傷について」を発表した。「公党の指導者に対する許し難い中傷を加えている。これは、昭和8年当時、秘密警察のスパイが、査問中特異体質のため死亡した事件を特高警察が『リンチ・殺人事件』としてデッチアゲたことを取り上げ、我が党の宮本委員長らに殺人者と云う悪質な中傷を加えたものであり」、「だが、この『事件』が、警察の捏造であったことは、戦前の暗黒政治下の裁判所でさえ事実上認めざるを得なかったところであり、さらに、戦後昭和22.5.29日に、治安維持法を撤廃した勅令735号(昭和20年12.29日)によって、将来にわたって刑の言い渡しを受けなかったものとすると、東京地検も確認している」、「春日氏が『予審調書を見れば分かる』などといって、宮本書記長の予審調書があるかのように云っているのは、明白なデマである」。
 7月、日本共産党(マルクス・レーニン主義)全国委員会が結成される。代表・安斎庫治、機関紙・プロレタリア。「日共左派」の結成に参加したものの、福田正義と対立、除名された原田長司(日共《ML》中国地方委)グループと、同じく服だから追放され「日共再建準備委」を組織して活動していた安斎庫治派が74年7月に組織統合した組織である。一時は「労働党」と三者で「前衛党を目指すML主義者全国委」の結成を企図したが、日本労働党の旗揚げによりその目論見が頓挫し、機関紙活動を主とする現況となっている。

 8.5日ニクソン辞任。「ウオーターゲート事件」。8.9日、ジェラルド.フォードが第38代大統領に就任。副大統領はロックフェラーが指名された。

 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は、次のように記している。

 「ニクソンの共和党側が民主党の本部に盗聴器を仕掛けたという、はなはだ胡散臭いウォーターゲート事件の大騒動でニクソンは大統領を辞任するのだが、ここでフォード副大統領が昇格するという不思議なことが起る。副大統領が大統領の辞任に伴って昇格するのがなぜ不思議かといえば、実はニクソンの辞任の前に副大統領も辞めさせているからだ。そうして代えておいたフォードがまた大統領に交代する。更に、フォードが自分の後釜として任命したのがロックフェラーなのである。つまり、正副大統領のどちらも選挙されていないのだ。

 アメリカ政治史上未曾有の珍事態となってこの騒ぎは終結するが、あまりにも見え透いたロックフェラーとキッシンジャーの、つまりはヤダヤの政治謀略というほかはない」。

 8.10日、大阪で、「日共糾弾共闘会議」(「日本共産党の労働組合支配介入糾弾共闘会議」)が結成される。労働時事通信は、「主要組合が機関決定を踏まえて公然と共闘会議を結成し、『日共糾弾』を唯一の闘争目標にすえ運動化を決意したことは、日本の労働運動史にも例がなく、今後の動向は国内はもとより国際的にも注目されると思われる」と記事紹介している。

 会議は、田口全逓大阪地本委員長の司会で、林動力車労組大阪地本委員長を議長に選出し、林氏が経過報告も行った。「本格的に堕落した日共の体質とその政策を暴露し、とりわけその労働政策については徹底的に糾弾する体制を大衆に依拠して確立し、日共弾劾運動を一挙に盛り上げる」ことを確認した。その背景として、「毎年の春闘を牽引し、戦前・戦後を通じて常に先進的な役割を果たしてきた大阪の労働運動の前に、独占と対決して闘う関西の労働者の前に敵の露払いとして『日共』という名の妨害者がのさばり出てきていることが、当面の情勢の特徴の一つである。労働組合は、闘争すれば共通してこの『妨害物』にぶっつかる」という認識があった。

 8.15日、ソウルの国立劇場で「光復節」(日本の敗戦により植民地から解放された記念日)の祝典で、在日韓国人2世の文世光が、演説をしていた朴大統領を狙撃。大統領は無事だったが、夫人の陸英修さんらが流れ弾に当たり、死亡した。世に「文世光事件」と云われる。8.19日、田中首相が、大統領夫人の国民葬に出席。日韓首脳会談で捜査協力を約束した。北朝鮮は、「事件は朴政権延命の為の陰謀」と反論。

 「文世光事件」は、日韓の外交問題に発展し、国交断絶寸前まで至った。9.19日、椎名悦三郎自民党副総裁が特使として訪韓し、テロ対策を確約し、断行の危機を乗り越えた。朴大統領は、「断行で受ける経済的打撃の大きさを顧慮し、最悪の事態を避けた」と伝えられている。

 文世光はその場で逮捕され、10.7日、ソウル地裁で初公判。10.19日、死刑判決。12.17日、上告棄却で死刑確定。12.20日、死刑執行。大法院(最高裁)の判決から死刑執行までの期間があまりに早すぎ、様々な憶測を呼んでいる。死人に口なしで、事件の真相は謎のまま今日に至っている。

 在日韓国人作家の梁石日氏が「死は炎のごとく」(毎日新聞社)でこの事件を検証している。使用された拳銃は、大阪市のある交番から奪取された2丁のうちの一つで、残りの1丁は文世光の天井裏から発見された。その奪取経緯は不明。文世光は、総連(在日本朝鮮人総連合会)の幹部から朴大統領暗殺の指令を受けていたと云われているが、これも確証はない。文世光が厳しい警護の中をどのように潜り抜けて拳銃を持ち込んだのか、これまた不明。

 10月、雑誌「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄-その金脈と人脈」が掲載された。これが以降の田中政界追放の狼煙となった。11.18日、兵庫県養父郡八鹿で「八鹿事件」が発生した。八鹿高校での同和教育を発端としていた。これを少し仔細に見るのに、同校部落問題研究会(旧社会科学研究会)は、設立以来6年経過していたがおざなりの学習会に陥っていたと云う。同研究会の一部メンバーがこれに飽き足らず、部落解放研究会の公認を学校当局に申し入れた。同校教頭はこれを認めたが、同行職員会議では教頭の確認を認めないという事態となり、教頭の生徒たちに対する約束は忠に浮いた。この間同校育友会(PTA)が間を取り持ったが、片山正敏教諭ら共産党系党員らはこれを拒否していた。既に部落研があるのに新たに解放研はいらないという理由であった。職員会議は概ねこれを支持していたようである。

 7.30日、八鹿高校落解放研究会が公認された。実際には、教師達の反対の中で校長が職権によって認知するという難産であった。片山教諭らは部室を与えずという作戦に出るという徹底的な敵対に終始した。このような中での誕生となったこともあって、顧問を引き受ける教諭が居なく教頭がその任を引き受けることとなった。部落研にいた部落出身生徒は全員解放研に移籍した。全21名のメンバーのうち18名が該当し、部落研に残ったメンバーは全員非部落出身者という構図となった。11.12日解放研メンバーが同校同和対策室主任の高本教諭に話し合いの場をつくるよう求めた。11.16日高本教諭はこれを職員会議に諮ったところ、「解放研との話し合いには応じない」を決議することとなった。その理由として、「①・何を、どういうことを話し合うのか。②・話し合いをどのように進めていくのか。③・時間設定はどうするのか。④・そういった点について充分に打ち合わせできていない」ということになった。高本教諭は、解放研の生徒たちにこの結論を伝えるため出向いていった。この話し合いの最中、約40名の教諭がやってきて高本教諭を連れ出し校外に去った。

 11.18日、憤慨した解放研の生徒全員21名(うち女子13名)が職員室前に座り込んだ。その際の要求は、解放研に3名の顧問をつけること、解放研と教師達との話し合いを持つこと、現在の八鹿高校に於ける同和教育が部落解放に適切でないことを認めることであった。この日教師団は無視し続け、平常どおりの授業が続けられた。11.19日農業科の生徒を中心とした約130余名が座り込みに加わった。この異常事態の最中、授業は何ごともなく続けられた。PTAや県教委が動き出し、教師達に話し合いを持つよう説得したが、教師団はこれを拒否しつづけた。この間、部落解放同盟、自治労、兵庫教組など労働組合・民主団体が八鹿高校差別教育糾弾共闘会議を結成するに至った。

 11.21日、解放研の生徒全員21名は断食闘争(ハンガーストライキ)に突入した。生徒会執行部は、教師達に「私たちは絶対に彼等を死なせてはならないのです。執行部は先生達にどうしても話し合いさしてほしい。絶対話し合いをしてほしいです」と悲痛な訴えを行った。こうした要請に対する教師達の解答は、①・解放研設立要求以前の5月時点に返すこと。②・解放同盟など外部団体と手を切ること。③・これを確認して後話し合うかどうか職員会議で決めるであった。部落解放同盟南但地区連絡協議会各支部は解放研の生徒たちを励まし、支持する一方共産党系教師達がこれを極端に嫌うという構図が現出しこう着状態となった。

 11.22日、前日城崎温泉で一泊して会議を開いた教師団は貸しきりバスで出勤してきた。示し合わせた通り「本日の授業は中止する」と宣言して、図書館に集まった。午前9時半、ハンスト中の生徒たちに目もくれず、約50名の教師が集団で下校し始めた。ハンストを心配して詰め掛けていた解放同盟員や共闘会議のメンバーは、教師達の下校を阻止しようとし始めた。実力連れ戻し行使が発生し、もみ合いとなり、双方に負傷者が出た。この経過には、共産党系教員を指導する党中央機関の介在が見え隠れしている。赤旗のタイミングの良いキャンペーンもこれを例証している。「(負傷した教諭の)誇大な入院劇の演出」(社会新報)、「逆吊り」、「血の海と化す流血の場」なるものがおどろおどろしく報じられることになった。

 11.18日、東京.迎賓館で田中.フォード会談11.26日、田中退陣表明。在任期間2年4ヶ月で終わった。金脈追求で行き詰まる。河野洋平らが離党して新自由クラブを結党。後継総裁選びが難航した。「三角大福」と云われていた福田、大平、三木、中曽根が予想された。調停役は副総裁の椎名悦三郎。椎名の裁定で三木が指名された。12.9日、三木内閣発足。

 12月、統一労組懇結成。共産党系の労組。20単産。12月、統一労組懇結成。共産党系の労組団体。20単産。全国47都道府県統一労組懇。組織人員約150万人。「総評を民主的、革新的に強化するという党の方針に基づいて」総評内の日共系労組の横断連絡組織として結成された。かっての産別会議的な階級的ナショナル.センターとしての確立を目指すべきの動きと、総評強化路線の一環として位置させて置くべきとの動きの理論的野合。

 上田は、元々統一労組懇結成には時期尚早論で反対。宮顕と秘書グループのイニシアチブで進められた。

12.28日、共産党と創価学会の間で「十年協定」調印後日判明したところによると、両者を取りもったのは作家の松本清張氏で74年10月、同氏の立ち会いのもとで共産党側から上田耕一郎・党任幹部会委員、創価学会側から野崎勲総務・男子部長らが松本氏宅で会談。5回の会談を経て同12月28日、「日本共産党と創価学会との合意についての協定」が締結され、翌29日には松本氏宅で宮本委員長と池田会長が懇談した、と云う。

 協定の内容(要旨)は次のようなものであった。

【1】  共産党と創価学会は相互の自主性を尊重し両組織間の相互理解に最善の努力をする。
【2】  創価学会は共産主義を敵視する態度をとらない。共産党は布教の自由・信教の自由を無条件で擁護する。
【3】  双方は信義を守り今後、一切の双方間の誹謗中傷は行わない。話し合いを尊重し、両組織間、運動間のすべての問題は協議によって解決する。
【4】  双方は民衆の側に立つ姿勢を堅持し、それぞれの信条と方法で社会的不公平をとりのぞき、民衆の福祉の向上を実現するために努力しあう。
【5】  双方は世界恒久平和の目標に向かって互いの信条と方法で最善の努力を傾ける。核兵器全廃の共通課題に対して互いの立場で協調しあう。
【6】  日本に新しいファシズムを目指す潮流が存在しているとの共通の認識に立ち英知を発揮し未然に防ぐ努力を互いの立場で行う。政治的自由、信教の自由をおかすファシズムの攻撃に対しては断固反対し相互に守りあう。
【7】  この協定は向こう10年を期間とする。10年後は協議する。

 この協定の意義は、これまで犬猿の仲であった共産党と創価学会が協定を締結し、限定的ではあれ政治的に共同戦線を取ることを確認したことにある。この間、共産党と創価学会は激しい支持者獲得争いが続けてきており、70年の創価学会言論弾圧問題では共産党が反創価学会キャンペーンを張り打撃を与えていただけに衝撃となった。但し、この運命がどうなるか。翌年公然化した途端に、早くも破綻し始めることになる。

 1975(昭和50).1.10日、赤旗は、「冤罪事件として確信のない事件を軽々に政治運動化することは無責任であり、狭山事件は無罪が確定していない」(「一般『刑事事件』と民主的救援運動」)と述べ、狭山闘争からの離脱を鮮明にした。日共系弁護士は、2.23日、弁護人を辞めた。

 党中央のこの見解は、司法・検察側と全く同一の論理であって、それまで冤罪事件として一定の弁護・支援活動をしてきた行動を否定したことになる。明らかな弁護方針の転換となった。

 2月、ロッキード事件発生。(「(別章)ロッキード事件」で論考)

 3月、日本共産党(左派)関東地方局派が結成される。代表・隅岡隆春、機関紙・人民新報、機関誌・理論と実践。隅岡隆春を中心とする「日共左派」の反主流グループ。いわゆる「蜜の世界論」について、中央委員会派がこれを中国の単なる外交路線として捉え「『第二世界』の帝国主義者や独占ブルジョアジーまでも統一戦線の獲得対象と理解するのは間違いである」と主張するのに対し、隅岡グループはこれを国際共産主義運動の路線として捉え、「『第三世界』の国々と人民は、自国に対し植民地関係にある『第二世界』の帝国主義には反対しなければならないが、米ソの植民地関係にある『第二世界』の二重性を重視し、これを一時的な『友』として利用し、当面の主敵である『米ソ』に集中砲火を浴びせるための統一戦線に組み込むべきである」と主張して「日共左派」から分派した。

 4.13日、第8回全国統一地方選で、美濃部知事三選、共産党単独推薦の黒田了一氏が再選、神奈川で長洲一二が当選するなど、革新自治体がふえる。共産党は、県議選で後退、党勢拡大に陰り。

 4.30日、解放戦線がサイゴンに無血入城し、南ベトナム・サイゴン政権のドン・バン・ミン大統領が無条件降伏してベトナム戦争(インドシナ30年戦争)終結。。米軍の援助を失った南ヴェトナム軍は総崩れし、当初2年はかかると見られていた、南の制圧を驚異的な速度で進め、4月には首都サイゴンに迫った。市内はパニックになり、米軍を支援していた関係者は粛正を恐れアメリカ大使館や空港に殺到した。アメリカもサイゴンからの撤退を開始。米大使グラハム・マーチンをはじめとするアメリカ人関係者、及び南ヴェトナム政府要人はヘリコプターで第七艦隊空母などへ脱出した。アメリカの戦死者.事故者約6万人、戦費1389億7400万ドルと発表された。ベトナム側犠牲者は200万人を超えた。(「ベトナム戦争の概略」)

 5.11日、第8回中総で、臨時党大会を開くことが決定された。この時不破書記局長が、次のように述べている。

 意訳概要「フランス共産党のマルシェ同志の最近の教訓によると、ソルジェニツィン問題とか強制収容所問題などで反共攻撃が繰り返されていた時には、党員も活動に実が入らなくなっていた。これに対して、党がこれらの問題でも積極的に攻勢に出て、フランス共産党こそ過去、現在を通じて自由の守り手であり、未来においても自由と民主主義を守り抜くこと、我々の目指す社会主義はフランスの色彩を持つ社会主義だ。フランスの方針はモスクワではなく、パリで決定されるのだという問題を全面的に押し出して攻勢的に打って出たときは、党員が俄然やる気となった。これを思えば、自由と民主主義の守り手としての党の意義を攻勢的に打って出ることにより、我が党の中にある革命的エネルギーが本格的に発揮される」。

 7.27日、「創価学会と日本共産党との合意についての協定」文書(「相互不干渉・共存の十年協定」)が創価学会.日本共産党の双方から発表された。「歴史的和解」であった。協定調印は、1974.12.28日であることが判明した。署名.捺印は、共産党は上田耕一郎、創価学会は野崎勲があたった。つまり調印から7ヶ月近く秘密にされたことになる。作家.松本清張氏の仲介の労であったことも判明した。公明党の竹入委員長、矢野書記長らには秘せられていたことも判明する。「頭越し」。このことが創価学会(秋谷.青木副会長)と公明党間に亀裂を走らせることになった。

 この協定で、共産党は、宗教論の新解釈と国定イデオロギーの非強制面の理論的成果を得た。この協定が発表されるや共産党はこれをあたかも「共同闘争」のように扱い宣伝攻勢を掛けた。これに竹入公明党委員長ら党側が猛反発し、野崎総務は「共存の可能性を探ったものにすぎず組織的共闘は約束していない」と言明。これに共産党が反発し、協定はすぐに形骸化する。

 76年8月に宮顕委員長が池田会長に協定順守の会見を申し込むが、学会側はこれを拒否。「10年協定」は1年後には崩壊し、共産党と創価学会・公明党の共同闘争の試みは何ら実を結ばないまま破綻することになった。

 7.30日、日共委員長・宮顕は、代々木の党本部で記者会見を行い、「救国.革新の国民的合意への道を寛容と相互理解にたってー今日の政治的、経済的、道徳的危機から抜け出し、日本民族の進路を民主的に確立するために」を発表。全文が7.31日の赤旗に掲載された。記者会見での質疑応答は、8.1日の赤旗に紹介された。

 宮顕は、この提案を基礎に「一握りの反民族的反動勢力を除く善意ある保守主義者も含め、99%の圧倒的多数の国民的合意」を訴えた。「新種新型の統一戦線」であった。

 12.10日、「文芸春秋」1976.1月号発売。立花隆氏による「小畑中央委員リンチ死事件」論文が発表された。宮本の「特異体質によるショック死」説を否定し、「リンチはあった。スパイとされた小畑の死因は傷害致死」と暴露した。この間ロッキード事件の発生のため、宮顕の査問事件の追及は沙汰止みとなっていたが、これによって一挙に火を噴いていくことになった。

 12.10日、赤旗は、「古びた反共理論と反動的裁判所資料の蒸し返しー『文春』立花隆氏の日本共産党研究なるものの特徴ー」を連載し始めた。12.11日、赤旗は、宮本の「スパイ挑発との闘争-1933年の一記録」を再録、全文公開して対抗した。

 12.20日、「第7回中総」で、宮本委員長は、立花論文に触れて「歴史的ニヒリズムと特高警察史観」、「悪質な反共宣伝、反動裁判所資料の蒸し返し」によるものと反撃。「共.創十年協定」の破綻も追認した。  「阿修羅雑談専用22」の石工の都仙臺市氏の2007.1.31日付け投稿 「なにゆゑに田中角榮は總理大臣と成つたのか。サクラメンテの怪會談と云ふ謎」に次のような記述が為されている。貴重情報であるので転載しておく。
 一九七五年一二月、猶太長老會議(ブナイブリス)の重要會議が開催された。此の會離には、ロスチャイルドなど世界のさうさうたる猶太系實力者が出席し、來るべき二一世紀に向けての1/4世紀(二五年間)に準備すべきプログラム、「資本主義第三世代」を作成した。此のプログラムによると、世界は既に第一世代、第二世代を終了してをり、速やかに第三世代に移行すべき段階に到つてゐるとの事であつた。其れは次の通りである。

● 資本主義第一世代―マルクス資本論が書かれた頃の英吉利の如き古典的資本主義
● 資本主義第二世代―ケインズなどの修正資本主義
● 資本主義第三世代―情報化社會、脱工業化社會など新しい社會に對應するもの

 猶太勢力は此の來るべき第三世代の世界を制覇する爲次の三大産業を完全なる支配下に置く事を決定した。

1、エネルギー産業(石油、石炭、原子力、ウラン濃縮、プルトニウム抽出)
2、食糧
3、情報産業(コンピューター、エレクトロニクス、通信情報組織)

 其の他舊來の産業、例えぱ鐵鋼、造船、自動車、家庭電機、纖維、航空産業などは世界支配の爲に絶對必要なものではないので他に讓つておく。此の爲亞米利加の多國籍企業ですら整理、統合、吸收、合併させ、無駄なものは切り捨て、地球綜合企業體なる新しい資本主義を形成する事にしたのである。此れは「エネルギー、食糧、情報」の獨占によつて世界支配を行はうとする二一世紀の基本戰略であつた。


【この時期の学生運動の動き】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

 もうこの頃になると、本来の左派運動は何も展開できていない気がする。以降、80年代、90年代、00年代になると、これがますます定向進化し、2008年現在あるが如くになる。政治闘争的に見て枢要な件のみ確認する。

【1971年の動き】

 1971.1.25日、赤軍派と革命左派の共同政治集会が東京・千代田公会堂で開かれ、「蜂起-戦争勝利」を確認した。その後両派は競うようにして「銃と資金の強奪(М作戦)」に向かった。これをマスコミが仰々しく採り上げ、運動側に「革命的陶酔」が醸成されるという、「唯武器派とマスコミの擬似共闘」が生まれた。

 2.17日、京浜安保共闘が、栃木県真岡市の銃砲店を襲い銃と銃弾を強奪した。赤軍派もМ作戦を展開し7月にかけて8件の郵便局、銀行などへの資金奪取作戦を敢行した。逐一は「」に記す。


 2.22日、千葉県・公団、三里塚第一次土地収用強制代執行。この日、三里塚農民は、決死隊が立木に自らの体を鎖で縛り付けて抵抗した。実に、三週間にわたって機動隊との闘いが続けられた。逮捕者は487名、負傷者も重傷者41名を含む千名に及んだ。


 2.28日、赤軍派の重信房子がレバノンへ出国。京大全共闘の奥平剛士と結婚入籍し、奥平房子名のパスポートで出発した。アラブ赤軍、後の日本赤軍となる。


 4.28日、沖縄闘争。

 6.17日、この日全国で「6.17闘争」が繰り広げられた。東京では中核派.第四インターを中心とした約1万名が明治公園で、反帝学評、フロント、ML派など反中核派系約1万名が宮下公園で集会を開いた。両者とも、乗用車、材木、看板などで街頭バリケードや、線路上への座り込み、機動隊への火炎ビン攻撃などを展開したが、これにたいして、機動隊もガス銃などで応戦し、熾烈な攻防戦が展開された。

 集会終了後の午後8時50分頃、明治公園原宿付近で鉄パイプ爆弾が投げつけられ隊員37名が負傷した。赤軍派の仕業だった。集会後各派が街頭闘争に移り機動隊との熾烈な攻防戦が展開された。この事件の容疑者として、赤軍派中央軍の少年(17歳)ら二人が、殺人未遂容疑などで逮捕されたが、証拠不十分で処分保留となった。6月15日からこの17日までの3日間の闘争での逮捕者は 1,061人にものぼった。


 6.19日、真相が定かではないが、沖縄で日共系の沖縄人民党と革マル派が衝突し、「琉球大生の革マル派活動家・町田宗秀虐殺」事件が発生した。埴谷雄高、対馬忠行、高知聴ら九氏が「日共スターリン主義者に対する抗議と糾弾のための思想戦線統一を訴える共同声明」を発表し、抗議している。 

 7.15日、赤軍派・日共左派、「統一赤軍」(のち連合赤軍)結成を宣言。連合赤軍は南アルプスでの軍事訓練、新党理論の形成に向かったが、その過程でリンチ殺害事件を起こしていくこととなった。


 7.26日、千葉県・公団が三里塚の農民放送塔撤去などを強制撤去執行した。新左翼急進主義各派は、三里塚闘争に向かった。5日間にわたって死守戦が闘われ、逮捕者292名、負傷者500名を越えた。

 8.21日、赤報隊が埼玉県の陸上自衛隊朝霞基地に侵入、自衛官を殺害、腕章などを盗む。菊井良治ら9名が実行犯として、後に滝田修こと竹本信弘.元京大助手が共犯として逮捕される。


 9.16日、成田空港建設第二次強制代執行。三里塚農民の決死隊がヤグラや鉄塔に立てこもって抵抗した。東峰十字路での反対派学生集団と機動隊の衝突で堀田大隊機動隊員3名が火炎瓶や角材による攻撃で死亡、一小隊全滅、全員負傷。逮捕者375名。 


 9月、沖縄返還を迎え、新左翼系各派が様々な論理で闘争に取り組んだ。9.25日、沖縄国会のヤマ場を前に、中核派らの沖縄青年委員会のメンバー4人が、皇居内、宮内庁にレンタカーで乗りつけ、発煙筒、火炎ビンを投げつける事件があった。

 10.16日、沖縄国会開会のさなか、東京など全国各地で、集会、デモが行われ、機動隊との衝突、交番への火炎ビン攻撃がおこった。


 10.20日、革マル派の水道橋美術学院生水山敏美が、横浜国大富士見寮で中核派に殺され、他数名重傷。革マル派は「中核派絶滅」宣言を行い、予告通リ攻勢にでることになる。


 10.23日、革マル派が、首都圏の中核派拠点大学に対する一斉テロ攻撃。11.1日、革マル派が、中核派の長谷川英憲杉並区議事務所を攻撃。11.8日、革マル派が、京都大学前でビラ配りをしていた中核派20名を襲撃。


 11.10日、破防法違反容疑で松尾真中核派全学連委員長が逮捕される。


 11.10日、沖縄現地で、全軍労、県教組、官公労などによる、協定粉砕、批准阻止の空前といわれる島ぐるみのゼネストが行われたが、これに呼応して、本土でも、各地で集会、デモ、機動隊との衝突がおこった。

 11.14日、国会で沖縄返還協定の強行採決のきざしがみえたこの日、全国32都度府県、80ヶ所に10万人が集まって阻止闘争が展開された。宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」を叫んで、渋谷に進撃、各所で機動隊と衝突した。200人の中核派部隊の火炎ビン攻撃をうけた渋谷署神山交番では、警備にあたっていた警官が火炎ビンで火だるまになり、病院で死亡した。また、午後2時ごろには、国電池袋駅で、中核派の学生、労働者がもちこんだ火炎ビンが、満員の山手線電車内で炎上、乗客らが重軽傷を負い、火炎ビンを浴びた中核派反戦青年委の女教師が病院で死亡した。深夜まで7時間にわたって渋谷駅や繁華街でのゲリラ戦が続き、この日の衝突で、313人が凶器準備集合罪などで逮捕された。


 11.19日、新左翼各派1万9000名が日比谷公園などに集まり、日比谷公園の各入り口に阻止戦をはって封鎖した機動隊と衝突。この時公園内の松本楼炎上。中核派の犯行。さらに、国電有楽町駅周辺から銀座一帯、大手町のオフィス街などで、火炎ビンを投げ、バリケードを築くなどのゲリラ戦が展開された。日比谷、丸の内周辺以外でも、各派によるバリケード市街戦が、都内各地で行われ、この日の逮捕者は1886名の大量逮捕となった。1969年11.16、17日の佐藤首相訪米阻止闘争時の1985名につぐ大量逮捕となった。11.20日、中核派の集会デモに対し、全面的な禁止措置が取られた。

 12月頃、香月徹氏が民青同系全学連機関紙「祖国と学問のために」(1971.12.1日)紙上で、純化する党中央の議会主義に批判的なコメントを載せている。

 概要「院内でのどんな爆弾質問も、その破裂を引火して燃え上がるべき院外闘争の加熱化と相関することなしには佐藤内閣打倒のキメ手にはならない。国会というものは、それ自体として新しい政治、新しい歴史を生み出すことのない、いわば産婆役に他ならぬ。人民の闘争こそが、レーニンの云う人民大衆の自主的活動こそが歴史の母であり、云々」。

 12.4日、革マル派のテロにより、中核派の活動家・辻敏明(京大)、正田三郎(同志社大)が死亡。以降、中核派も「無条件且つ全面的に宣戦布告、カクマルに対する全面的殲滅戦争」を宣言。両派の全面的なテロ戦の展開となった。この時点から、中核派は、革マル派をカクマルと呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出している「K=K連合」批判を開始した。
 12.15日、革マル派のテロにより、中核派の三重県委員長・武藤一郎が三重市でビラ配り中に襲撃され死亡。この時、革マル派は、病院の医者のコメントを引いて「これは持病の結核と風邪により、急性肺炎を起こして死んだ」と声明している。
 12.24日、東京新宿三丁目の交番でクリスマスツリーに見せかけた時限爆弾が爆発、警官.通行人ら7名が重軽傷。
 12月、日共は第6回中委を開き、 合理的な理由もないままに突如「民青の対象年齢引き下げ」を決定し、その押しつけを民青同に迫っていくことになった。党中央は、これを「踏み絵」にしつつ反対派を浮き彫りにさせて行き翌年の新日和見事件へと至る。
 12月、赤軍派は、「銃のみが政権を生み出す」をスローガンに武装闘争を行っていた毛沢東派の日本共産党神奈川県常任委員会革命左派=京浜安保共闘との提携を始めた。
【1972年の動き】

 2月、赤軍派中央委員重信房子が奥平と共にパレスチナ入り。PFLP(パレスチナ解放人民戦線)との連帯共同。

 2.17日、連合赤軍最高指導者森恒夫.永田洋子が群馬県妙義山アジト付近で逮捕された。


 2.19日、連合赤軍メンバー坂口弘ら5名が長野県軽井沢の「浅間山荘」に乱入し、管理人夫人牟田泰子(31才)を人質にしてたてこもった。 あさま山荘事件発生。警察1500名が出動し、10日間にわたる銃撃戦の末逮捕した。この救出作戦中、警官2名が死亡、23名の負傷者が出た。この経過が現場中継され国民の多くが釘付けとなった。2.28日銃撃戦の末逮捕される。
 3.7日、連合赤軍メンバー12名のリンチ殺人遺体が発見される。京浜安保共闘時代の2名を含めて犠牲者14名。新左翼にショックを与える。 

 3.30日、大阪地評青年協集会の場で、解放派と革マル派との衝突がおこり、集会が一時的に混乱した。解放派は、組合青年運動の現段階及び共闘の現段階に配慮が足りなかった点があったとして、自己批判し、地評青年部段階へ提出した。


 4.28日、沖縄、東京、大阪で労学業会が持たれたが、大阪集会で解放派と革マル派との衝突が発生、この中で革マル派系の木下氏が死亡するという事件が発生。この事件より、解放派と革マル派の党派間戦争に突入した。 
 5.7日、民青同幹部の党員会議が開かれ、党中央指令による「民青の対象年齢引き下げ」を協議したが紛糾した。党中央は、会議直後一斉に「査問」に着手した。川上徹氏(民青同系全学連初代委員長・民青同中央執行委員)始め有数の幹部達が捕捉され、分派活動をしていたという理由づけで一網打尽的に処分を受けることとなった。その実数は、宮地氏の「新日和見主義『分派』事件」で明らかにされている。詳細は「新日和見主義事件解析」に記す。
 5.13日、共産同戦旗派約600名が、神田周辺で、「御茶の水解放区闘争」と云われる火炎瓶闘争を敢行した。128名が逮捕され、これを契機として、戦旗派内に闘争の指導責任をめぐっての内紛が激化していくことになる。 
 5.30日(日本時間5.31日)、イスラエルのテルアビブ国際空港で日本赤軍3名が乱射事件。24名の死者、80名以上の負傷者発生。襲撃した奥平剛士(26才.京大)、安田安之(24才.京大)の2名はその場で射殺された。岡本公三(24才.鹿児島大)は逮捕され軍事法廷で終身刑の判決を受け収容された。パレスチナ入りした日本赤軍の旗揚げ的な意味を持った軍事行動となった。

 9.4日、反戦相模原闘争が主催されたが、この時中核派と革マル派がゲバルト会戦している。


 11.9日、早大で革マル派による「川口君リンチ殺害事件」が発生した。革マル派による早大文学部2年生の川口大三郎(20才)君を中核派とみなしたリンチ殺害事件であることが判明した。革マル派は、事件に対し、概要「追及過程での意図せぬ事態、ショック症状による死亡---党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない。一部の未熟な部分によって起こった事態---率直な自己批判を行う」と表明した。早大生が激しく反発し、革マル派の暴力的キャンパス支配と相俟って政治責任を問う前代未聞の闘争が始まる。
【1973年の動き】

 1.1日、連合赤軍最高指導者森恒夫が東京拘置所で首吊り自殺。


 4月、「共産同」中間派の「荒派」でも、1972年の「5・13神田解放区闘争」で大量検挙されたことに対する責任追及をめぐって、党建設を重視する荒岱介派と武闘路線を重視する反荒岱介派が対立、翌1973.4月には、反荒岱介派の一部が「国際主義派」を名乗って分裂し、次いで同年6月には、反荒岱介派の多数を占める「大下敦史派」が分裂した。


 7.20日、テルアビブ事件1年2ヶ月後日本赤軍・丸岡修とパレスチナ.ゲリラ4名が日航ジャンボ404便をオランダ.アムステルダム空港離陸後ハイジャックした。「日本とパレスチナの革命を結合する世界革命戦争」を唱えた。3日間各地を転々としてリビア・ベンガジ空港で人質解放、機体を爆破した。
 9.15日、社青同解放派が、神奈川大で革マル派の金築寛(東大生)と清水徹志(国際基督教大生)君を虐殺。その経緯は次の通り。9.14日未明、反帝学評約50名が「9.15ミッドウェー母港化反対闘争」に向けて拠点校の神奈川大学に泊まり込んでいたところ、翌15日午前1時45分頃、覆面姿の革マル派約150名が鉄パイプで襲撃し、相互に多数の負傷者が出た。この間、反帝学評約20名がレンタカーで動向視察していた革マル派2名(東大生、元キリスト教大生)を捕まえ、鉄パイプで滅多打ちにして殺害し、現場から5km離れた浄水場裏に遺棄した。これ以後、反帝学評(社青同解放派)も革マル派との抗争を開始した。
 9-10月、中核派と革マル派の一進一退的襲撃戦が交差する。
 9月、蜂起派から、蜂起左派分裂。「右田派」も、1972.5月の「自衛隊西部方面総監部爆弾事件」や同年7月の「自衛隊市ケ谷駐屯地火炎車事件」の総括をめぐって紛糾を続け、翌1973.9月には、「誤りの責任は非公然軍事指導部にある」とする右田昌人議長派に反対する佐藤秋雄派が「蜂起左派」を名乗って分裂したほか、中間派も存在し、現在、三つのグループに分れている。

 10月、「マルクス主義者青年同盟」(マル青同)が結成されている。「ML同盟」の残存者である「全都解放委員会」と、元共産同政治局員の指導下にあった「レーニン研究会」とが、組織合同して発足した。


【1974年の動き】

 1974年、革マル派は「党派闘争勝利宣言」を出し、それ以後の中核派などの内ゲバについて、「権力の謀略」という説を打ち出した。この頃までは、革マル派の相対的優位が続いていたが、押されぎみであった中核派が次第に攻勢に転じ始める。この年、内ゲバで6名死亡、297名重軽傷を負う。

 1.14日、中核派の指導者本多氏ら破防法被告団が、主任弁護人井上正治氏らと打合せ会を開いている席上、革マル派が襲撃し、本多、藤原慶久東京地区反戦世話人、青木忠元全学連書記長、松尾真全学連委員長等々がテロられる。


 1.31日、日本赤軍、パレスチナ.ゲリラとの共闘ゲリラ作戦第二弾。和光春生.山田とパレスチナ.ゲリラ2名がシンガポール島のシェル石油タンクを爆破。


 2.6日、パレスチナ.ゲリラ5名がクウェートの日本大使館占拠、和光らの送還を日本政府に要求、政府はこれを呑み日航機を出し、日本赤軍.パレスチナ.ゲリラメンバー9名を南イエメンに運んだ。


 8.14日、東アジア反日武装戦線が、東京・荒川橋で天皇の御召列車爆破計画を立て未遂に終わる。


 8.30日、東アジア反日武装戦線が、東京丸の内の三菱重工を爆破、死者8名、負傷者385名。以降この種の爆弾テロが続く。 


 9.13日、先に逮捕された赤軍派メンバーの奪還目指して、和光.奥平純三、西川純がオランダ.ハーグのフランス大使館占拠、同年7月パリで逮捕された山田義昭の釈放を求め、奪還に成功した。日本赤軍単独の「独立作戦第一号」となった。


 9月、赤軍派の武装堅持派、赤軍派(革命戦争編集委員会)を中心に赤軍派日本委員会結成。


 10.14日、東アジア反日武装戦線が、東京・西新橋の三井物産爆破。11.25日、東京・日野市の帝人中央研究所爆破。12.19日、東京・銀座の大成建設ビル爆破。12.23日、東京江東区の鹿島建設資材置き場爆破。


 1974年、革マル派は「党派闘争勝利宣言」を出し、それ以後の中核派などの内ゲバについて、「権力の謀略」という説を打ち出した。なおこの頃から、押されぎみであった中核派が攻勢に乗り出す。


【1975年の動き】

 2.28日、東アジア反日武装戦線が、東京・北青山の間組本社爆破。4.19日、東京銀座の韓国産業研究所、兵庫県尼崎市のオリエンタル・メタル爆破。4.28日、千葉県市川市の間組作業所爆破。5.4日、間組江戸川橋工事現場爆破。


 3.6日、革命マル派の機関紙「解放」の発行責任者・難波力こと堀内利昭が、東京渋谷区内の路上で中核派のテロにより殺された。


 3.14日未明、中核派最高指導者本多延嘉書記長革マル派にテロられ死亡。革マル派は、「解放」(3.24日付)で次のように宣言、犯行を認めた。

 「わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目、書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした」、「我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめ」、「殺害を目的としたものではなかった。わが戦士の燃えたぎる怒りが激しくて、結果として死亡ということになった」。

 中核派の怒りは凄まじく、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。警視庁は19日に専従員配置を決定したが、報復は続いた。革マル派は「一方的テロ停止宣言」。しかし内ゲバを完全にやめたわけではなく、また中核派側の攻撃はおさまらず、死者は増えていくばかりとなる。この年だけで15人もの革マル派活動家が殺害された。(本件につき「中核派党史1、結党から本多虐殺まで」で別途考察)


 4.6日、日比谷公園での全共闘1500名の集会に500名の革マル派が乱入。竹竿や投石による乱闘となり、両派30名が負傷。


 5.13日白昼、「法政大会戦に革マル派全学連が大勝利」とある。 法大裏で戦闘となり、中核派の墨田区職員である革共同東京東武地区委員長(38歳)が死亡(中核派5人目の死者)、他に25名が重傷。


 5.19日、警視庁が、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫、大道寺将司ら8名を逮捕。


 6.7日、中核派が、大阪産業大の革マル派シンパの一般学生(軍事責任者ともある)・小野正裕(武司)を虐殺、とある。


 6.20日、中核派が、き革マル派の機関紙「解放」を印刷していた東京商工を襲撃、とある。


 他方で、革マル派は、社青同解放派に対するテロを仕掛けている。6.24日、静岡県伊東市内にある歌手・加藤登紀子の別荘で戦闘。泊まって武闘訓練をしていたとみられる反帝学評の元九大生(26人)が死亡、9人重軽傷。加藤夫妻は「無関係」と記者会見を開いた。


 6.26日、法大構内でヘルメット姿の両派約100名が鉄パイプ、旗竿で乱闘。機動隊が導入され、97名が逮捕された。負傷者は機動隊に保護された。


 6.27日、埴谷雄高氏、対馬忠行、藤本進治氏を始めとする12名の文化人が、「革共同両派への提言」を発表し、内ゲバの終結を求めた。革マル派の随伴文化人高知聡氏の働きかけが大きかった。

 「この提言に対し、革マル派は一部については不満を述べるものの、『我々の巨大な勝利を画するもの』と大きく評価し、一大キャンペーンに乗り出した。だが中核派は『怒りを込めてきっばりと拒否する』として、提言を弾劾する声明を発表した」(「検証内ゲバ」)。


 7.17日、皇太子夫妻の沖縄訪問に反対して国電蒲田駅周辺で集会・デモを行なっていた革マル派、中核派の約200名が新橋駅山手線内回りホームで衝突。この衝突で1人が死亡、44名が重軽傷。136名が暴力行為の現行犯で逮捕されている。


 7.19日、北海道警察本部爆破。反日武装戦線が犯行声明。


 8.4日、日本赤軍によるクアラルンプール事件発生。和光.奥平.日高と他の3名の6名でマレーシア・クアラルンプールの米、スウェーデン両大使館を占拠、アメリカ領事などを人質にし、同年3月スェーデンのストックホルムで逮捕され、日本に強制送還された西川純ら2人と他の獄中赤軍メンバーの釈放を要求、政府は超法規的に5人を釈放、クアラルンプルに送る。の釈放を要求した。日本政府はこれに応じ「超法規的措置」で獄中7名の釈放が決められた。西川.戸平.元赤軍派坂東国男.松田久.東アジア反日武装戦線佐々木則夫らが釈放され、リビア入りした。


 12.17日、戦旗派(西田派)、沖縄訪問の皇太子夫妻に「ひめゆりの塔」で火炎ビンを投擲。


 これより後は、9期その3、70年代後半期の諸闘争に記す。





(私論.私見)