19章 | 戦後学生運動9期その2 | 1971(昭和46)-1975(昭和50)年 |
70年代前半期の諸闘争 |
(最新見直し2008.9.11日)
これより前は、「第9期その1、70年安保闘争とその後」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
「れんだいこの学生運動論」は、前章70年安保闘争でもって一応終結させる。その理由は、学生運動のひながたが既に出尽くしており、70年代以降にはこれと云う新たな質が認められないからである。筆者が思うに、70年安保闘争を平穏無難にやり過ごすことによって、日本左派運動が醸し出す熱い政治の季節を基本的に終了させたのではなかろうか。70年代以降も諸闘争は続く。だがしかし、それ以前の学生運動との違いが明らかに認められ格段に質が落ちる。 それまでの学生運動は、時の政治課題に対して逸早く飛びつき情況打開の突破口的役割を任じ肉薄せんとしていたが、それ以降は政治闘争自体がアリバイ闘争化し始め、それも次第に衰微して行くことになる。どういう訳か権力中枢機関や国会に向かう闘争が組織されなくなり、散発的且つセンセーショナルな事件化が風靡し始めた。それが如何に過激に為されようともマスコミの好餌となるだけのものでしかなくなった。自然にそうなったのか誘導されたのかは分からないが、日本左派運動が隘路に陥ったのは確かである。 急進派は呼号するところの体制打倒に向かう訳でもなく、せいぜい抵抗運動を演じながら、どれもこれも潰えた。穏和派は社共政権構想をますます遠景に退け、左派運動と云うよりネオ・シオニズム配下的サヨ運動と云う化けの皮を正体露にしつつ潰えた。こうなると、そういうものを検証してみても政治論的には意味がないと考える。そういう理由で、「れんだいこの学生運動論は、前章70年安保闘争でもって一応終結させる」ことにする。 とは述べてみたものの、その後の70年代の闘争、80年代の闘争、90年代の闘争、2000年代の闘争を、やはりれんだいこ言葉で書き上げることにした。ここでは70年安保闘争後の1970年代前半期の学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動9期その2、安保闘争後より1975年までの闘争概略」と命名する。詳細は「戦後学生運動の考察/70年代の学生運動(1971-75)」、概論は「70年代前半期の諸闘争」に記し、この時期の枢要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。 れんだいこの処女作「学生運動論」では、70年代以降の闘争を省き、その代わりにその後の左派運動が陥った隘路の代表例として、「三里塚闘争概略」、「連合赤軍考概略」、「党派間ゲバルト考概略」、「日本赤軍考概略」、「よど号赤軍派考概略」を採り上げる。これらはいずれも日本左派運動が教訓にせねばならない内実を備えていると考えるからである。いずれも概論としたのは紙数の関係による。 |
【1971年から1975年の全体としての政治運動】 |
この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。 |
【宮顕が、プロレタリア独裁訳語問題に言及】 | |
6.23日、参院選挙が最終盤に入ったこの頃、宮顕・幹部会委員長が、プロレタリアート「独裁」表現を、「ディクタツーラ」に代えて使いたいと発表。6.25日、赤旗は、宮顕発言を次のように報じている。
6.27日、赤旗は、榊利夫の「訳語の問題の本質と無力な反共宣伝」を発表した。7.4日、赤旗は、蔵原惟人の「プロレタリア・ディクタツーラの訳語問題とそれに対する若干の反響について」を掲載した。 これについて、筆者はかく思う。「プロレタリアート独裁」の独裁は哲学的概念であることを知らせるのが肝心であり、独裁と云う用語を執権や執政に書き換えるのはお門違いではなかろうか。それを敢えてするのがいただけない。それと、史上の文書の独裁を書き換えるのは許されまい。 |
7.3日、志田重男死去(59歳)。鈴木卓郎の「共産党取材30年」は次のように記している。
「かって徳田全盛時代には武装闘争の総司令官であった志田も晩年は労務者となったりして細々と日陰暮らしを続け、『宮本では革命はできない。代々木は間違っている』と親しい友に語り残したまま、昭和46.7.3日、神戸市の病院で死亡、入院も火葬も偽名という哀れな最後だった。だが、志田は党を追われるころ警察から生活の援助を受け最後まで警察との関係は断たれていなかったというし、私は志田が警察の公舎で警察官の家族と一緒に記念撮影した写真を保存している。若い頃から共産党の闘士、火炎瓶で警察と闘い、そのウラで警察からカネを貰う-そういった人間を私は理解できない」。 |
、「それぞれの党の国際的な第一義的責務は、どのような形態でも、他党の内部問題への干渉を許さないこと、他党の分派の存在と闘争を支持、育成しないことである」。 |
11.17日、沖縄返還協定が衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発して、社会.共産両党と総評は国会請願デモ。11.24日、沖縄返還協定法案が衆院本会議で強行採決され、自然成立した。
6.11日、通産大臣の田中角栄が「日本列島改造論」発表。これが来る総裁選出馬に当たってのマニュフェストとなる。これは向こう受けを狙って付け刃で出したものではなかった。1966年に幹事長を辞任した翌年の1967年に就任した自民党都市政策委員長時代に、日本の産業・経済構造を研究し、1968・5月に「都市政策大綱」(議論の取りまとめは、麓(ふもと)邦明氏)としてその成果を発表していた延長線上のものであり、東京一極集中からいかにしてバランスの良い総合的国土活用ができるかの視点で、産業の適正配置と分散、高速道路網の整備、地方単位の快適生活環境都市づくり等を提言していた。
11.20日、総選挙に臨んで、NHKの「わが党はかく戦う」の座談会番組で、公明党の竹入委員長が、共産党の宮顕委員長に、「敵の出方論」の真意を質した際に、宮顕は次のように語っている。
「我が党の文献をよく読んでください。さようなことは一言も触れておりません」 |
これについて、筆者はかく思う。おかしなことである。竹入委員長の二の矢が無かったことによりそれ以上突っ込まれなかったが、党文献から「敵の出方論」を探し出すことはさほど困難なことではない。宮顕の二枚舌の例証である。
1973(昭和48).1.8日、パリのベトナム和平交渉が再開される。1.15日、ニクソン大統領が北爆中止命令を出す。1.27日、米、南.北ベトナム、臨時革命政府の4代表がベトナム和平協定と議定書に調印。1.28日、ベトナムの停戦が発効する。3.29日、アメリカ軍が、南ベトナムからの撤退を完了する。
1.13日、田中首相が、憲政史上初めて共産党首脳と個別会議を行う。
4.27日、ウォーターゲート事件が政治スキャンダルに発展。4.30日、ウォーターゲート事件で、リチャード・クラインディーンスト司法長官とハリー・ハルドマン、ジョン・アーリックマン両大統領補佐官が辞任する。5.17日、アメリカ、ウォーターゲート特別調査委員会の公聴会が始る。6.25日ウォーターゲート事件で上院の公聴会が開かれ、大統領の元法律顧問のJ.ディーンが証言する。この中で、ディーンは大統領執務室に録音装置があるのではないか、と証言し新たな展開が始まる。7.16日、ウォーターゲート事件で上院の公聴会が開かれ、ホールドマンの補佐のA.バターフィールドが大統領執務室に盗聴装置が存在することを証言する。8.15日、ウォーターゲート事件でニクソン大統領が、特別検察官A.コックスが要求するテープの提出要求を拒否する。
7.5日、日本共産党が、ソ連と中国の核実験にも反対するとの路線転換を表明する。宮顕は、核実験問題に対する一大政策転換を発表した。「共産党は、社会主義国の核実験には、賛成しないが余儀なくされたもの、防衛的、という見方をしてきた。しかし、この数年間のうちに重要な変化が起こった」として、従来の運動方針に固執しないと言明した。
8.8日、韓国の政治家キム・デジュン(金大中)氏、白昼(午後1時半ごろ)東京・飯田橋のホテルグランドパレス)から拉致さる→金大中事件発生=韓国の情報機関介入。8.13日、8日に誘拐された金大中がソウルで発見される。9.5日、金大中事件で、日本政府が容疑者として金東雲・駐日韓国大使館1等書記官の出頭を申し入れる。韓国側は拒否する。
10.5日、米空母ミッドウェーが横須賀に入港する。母港化反対のデモが起こる。
10.6日、エジプト、シリア両軍が、イスラエルに対する攻撃を開始する。第4次中東戦争の勃発。 10.7日、アラブ諸国が産油量を5%引き下げると発表する。10.8日、田中首相とコスイギン首相の日ソ首脳会談が17年ぶりに行われる。シベリア開発を話し合う。10.10日、田中首相訪ソ→日ソ共同声明に未解決の領土問題を盛り込む。10.22日、終結。
10.17日、第一次オイルショック。OPECが原油価格21%引き上げを発表。
10.17日、第一次オイルショック。石油輸出国機構(OPEC)機構が、石油の公示価格を1バーレルあたり3.01ドルから5.11ドルへと70%引き上げた(「原油価格21%引き上げを発表」)。いわゆる第一次石油危機が発生した。OPEC10ヵ国などがアメリカなどイスラエル支持国向けの石油生産削減を決定する。
10.18日、外務省に、クウェートから「各アラブ産油国は石油生産を削減することを決定した。ただしアラブにとっての友好国には影響を与えない」という電報が入る。
10.23日、第1次石油危機→メジャー、原油価格30%アップを通告→トイレットペーパー売り切れる→物不足バニック=日本列島を席巻(せっけん)=作られた物不足→卸売物価狂乱状態→高度経済成長の終焉。
10.25日、国際石油資本5社,原油の供給削減,石油危機深刻化。当時日本はすでに世界最大の原油輸入国であり、石油の九九・七%を輸入に依存し、うち八八%が中東からであった。備蓄も「四日分」に過ぎなかった。第一次石油危機は、中近東の安価な石油に依存し、これを大量に消費して高度成長経済を実現してきた日本経済に深刻な打撃を与えた。
11.11日、停戦協定締結。アラブ産油国の湾岸六カ国は、12.23日に原油公示価格を11.65ドルへの引上げを74.1.1日から実施することを決めた。僅か2ヶ月余りで約4倍、72年末に比べると4.7倍になった。
11.**日、日共が第12回党大会を開く。大会の眼目は、「民主連合政府綱領」の決定と、綱領の一部改正により、合法主義的純化、議会専一主義、反暴力主義の観点からの「国民的合意」を重視した党運動化指針を確立することにあった。宮本委員長から「民主連合政府はこれまでの宣伝のスローガンから実践のスローガンに変わった」と宣言され、その政府綱領案が発表された。天皇制に対する新見解「自然に熟し落ちるような形で解決することが望ましい」が出された。
プロレタリア独裁が執権に統一されるよう党綱領改訂の手続きがとられた。61年綱領が三点修正された。1.「ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、全ての人民大衆が、人類の進歩のために行っている闘争をあくまで支持する」のうち「ソ連を先頭とする」の削除、2.「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具に変え」の「道具」を「機関」に改める。3.「独裁」は、全て「執権」に改める。
党規約改正が行われ、岡正芳の「日本共産党規約の一部改正についての報告」に基づき、党規約の変更が為された。岡は、改正理由について次のように述べている。
「中央統制監査委員会が第7回大会で中央委員会と並ぶ大会選出機関とされたのは、1950年以後の党の分裂やそれと結びついた一部の財政活動の混乱などの教訓から、それらを防止しようとの第7回大会の特別の意志に基づくものであった。しかしその後、中央委員会を先頭とする全党の活動は画期的な前進を示し、設立当時の特殊事情も既に根本的に解決されているので、中央機関の活動を一層強力且つ効果的に進めるため、中央機関も民主集中の原則に基づく統一的体制を確立することがますます重要となってきた。こうして、統制委員会を中央委員会の下に置く第10回党大会の措置に続いて今回中央監査委員会も中央委員会の下に置き、その政治的組織的指導と結合して活動するよう規約改正を提案する」。 |
こうして、1966年の第10回大会における統制委員会の任命制に続いて、監査委員会もこの第12回大会において党大会選出項目から中央委員会の任命制となった。この時の改正理由は、「中央の民主集中指導体制を全体として首尾一貫したものとする」と言う論理であった。
津田道夫氏の「思想課題としての日本共産党批判」は次のように述べている。
「まず10回大会は、それまでの中央統制監査委員会を中央監査委員会と中央統制委員会に二分割し、中央監査委員会はこれを大会選出、中央統制委員会は、これを中央委員会の任命としたのである。これで、中央機関の構成法にかかわる第7回大会規約の民主的規定は、その大半が崩されるところとなった。そして、今回の第12回大会は、右のように分割された中央監査委員会をも大会選出ではなく、中央委員会任命としてしまった。何の事はない、中央委員会は、自分の任命した中央監査委員会の監査を受けるということになってしまったわけである」。 |
野坂議長、宮本委員長、不破書記局長体制を再選。
11.22日、田中内閣が、中東政策を親アラブへ政策転換する。新政策の骨子は1・武力による領土の獲得及び占領反対。2・1967年戦争の全占領地からのイスラエル兵力の撤退。3・同域内の全ての国の安全保障措置。4・パレスチナ人の正当な権利の承認と尊重。
【戦後左派運動流産の経緯】 | |||||||||||||||
|
|||||||||||||||
|
|||||||||||||||
1974(昭和49)年早々、「日共革命左派」、原田長司グループの「日本共産党(マルクス・レーニン主義)山口県準備委員会」、安斎庫治グループの「日本共産党再建準備委員会」の三者で「全国規模の前衛党建設」を目指した「全国三者協議会」の意思の統一ができず、結局成功しなかった。 8.5日ニクソン辞任。「ウオーターゲート事件」。8.9日、ジェラルド.フォードが第38代大統領に就任。副大統領はロックフェラーが指名された。 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は、次のように記している。
8.10日、大阪で、「日共糾弾共闘会議」(「日本共産党の労働組合支配介入糾弾共闘会議」)が結成される。労働時事通信は、「主要組合が機関決定を踏まえて公然と共闘会議を結成し、『日共糾弾』を唯一の闘争目標にすえ運動化を決意したことは、日本の労働運動史にも例がなく、今後の動向は国内はもとより国際的にも注目されると思われる」と記事紹介している。 会議は、田口全逓大阪地本委員長の司会で、林動力車労組大阪地本委員長を議長に選出し、林氏が経過報告も行った。「本格的に堕落した日共の体質とその政策を暴露し、とりわけその労働政策については徹底的に糾弾する体制を大衆に依拠して確立し、日共弾劾運動を一挙に盛り上げる」ことを確認した。その背景として、「毎年の春闘を牽引し、戦前・戦後を通じて常に先進的な役割を果たしてきた大阪の労働運動の前に、独占と対決して闘う関西の労働者の前に敵の露払いとして『日共』という名の妨害者がのさばり出てきていることが、当面の情勢の特徴の一つである。労働組合は、闘争すれば共通してこの『妨害物』にぶっつかる」という認識があった。 8.15日、ソウルの国立劇場で「光復節」(日本の敗戦により植民地から解放された記念日)の祝典で、在日韓国人2世の文世光が、演説をしていた朴大統領を狙撃。大統領は無事だったが、夫人の陸英修さんらが流れ弾に当たり、死亡した。世に「文世光事件」と云われる。8.19日、田中首相が、大統領夫人の国民葬に出席。日韓首脳会談で捜査協力を約束した。北朝鮮は、「事件は朴政権延命の為の陰謀」と反論。 「文世光事件」は、日韓の外交問題に発展し、国交断絶寸前まで至った。9.19日、椎名悦三郎自民党副総裁が特使として訪韓し、テロ対策を確約し、断行の危機を乗り越えた。朴大統領は、「断行で受ける経済的打撃の大きさを顧慮し、最悪の事態を避けた」と伝えられている。 10月、雑誌「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄-その金脈と人脈」が掲載された。これが以降の田中政界追放の狼煙となった。11.18日、兵庫県養父郡八鹿で「八鹿事件」が発生した。八鹿高校での同和教育を発端としていた。これを少し仔細に見るのに、同校部落問題研究会(旧社会科学研究会)は、設立以来6年経過していたがおざなりの学習会に陥っていたと云う。同研究会の一部メンバーがこれに飽き足らず、部落解放研究会の公認を学校当局に申し入れた。同校教頭はこれを認めたが、同行職員会議では教頭の確認を認めないという事態となり、教頭の生徒たちに対する約束は忠に浮いた。この間同校育友会(PTA)が間を取り持ったが、片山正敏教諭ら共産党系党員らはこれを拒否していた。既に部落研があるのに新たに解放研はいらないという理由であった。職員会議は概ねこれを支持していたようである。 11.18日、東京.迎賓館で田中.フォード会談。11.26日、田中退陣表明。在任期間2年4ヶ月で終わった。金脈追求で行き詰まる。河野洋平らが離党して新自由クラブを結党。後継総裁選びが難航した。「三角大福」と云われていた福田、大平、三木、中曽根が予想された。調停役は副総裁の椎名悦三郎。椎名の裁定で三木が指名された。12.9日、三木内閣発足。 12月、統一労組懇結成。共産党系の労組。20単産。12月、統一労組懇結成。共産党系の労組団体。20単産。全国47都道府県統一労組懇。組織人員約150万人。「総評を民主的、革新的に強化するという党の方針に基づいて」総評内の日共系労組の横断連絡組織として結成された。かっての産別会議的な階級的ナショナル.センターとしての確立を目指すべきの動きと、総評強化路線の一環として位置させて置くべきとの動きの理論的野合。 12.28日、共産党と創価学会の間で「十年協定」調印。後日判明したところによると、両者を取りもったのは作家の松本清張氏で74年10月、同氏の立ち会いのもとで共産党側から上田耕一郎・党任幹部会委員、創価学会側から野崎勲総務・男子部長らが松本氏宅で会談。5回の会談を経て同12月28日、「日本共産党と創価学会との合意についての協定」が締結され、翌29日には松本氏宅で宮本委員長と池田会長が懇談した、と云う。
この協定の意義は、これまで犬猿の仲であった共産党と創価学会が協定を締結し、限定的ではあれ政治的に共同戦線を取ることを確認したことにある。この間、共産党と創価学会は激しい支持者獲得争いが続けてきており、70年の創価学会言論弾圧問題では共産党が反創価学会キャンペーンを張り打撃を与えていただけに衝撃となった。但し、この運命がどうなるか。翌年公然化した途端に、早くも破綻し始めることになる。 |
|||||||||||||||
1975(昭和50).1.10日、赤旗は、「冤罪事件として確信のない事件を軽々に政治運動化することは無責任であり、狭山事件は無罪が確定していない」(「一般『刑事事件』と民主的救援運動」)と述べ、狭山闘争からの離脱を鮮明にした。日共系弁護士は、2.23日、弁護人を辞めた。 3月、日本共産党(左派)関東地方局派が結成される。代表・隅岡隆春、機関紙・人民新報、機関誌・理論と実践。隅岡隆春を中心とする「日共左派」の反主流グループ。いわゆる「蜜の世界論」について、中央委員会派がこれを中国の単なる外交路線として捉え「『第二世界』の帝国主義者や独占ブルジョアジーまでも統一戦線の獲得対象と理解するのは間違いである」と主張するのに対し、隅岡グループはこれを国際共産主義運動の路線として捉え、「『第三世界』の国々と人民は、自国に対し植民地関係にある『第二世界』の帝国主義には反対しなければならないが、米ソの植民地関係にある『第二世界』の二重性を重視し、これを一時的な『友』として利用し、当面の主敵である『米ソ』に集中砲火を浴びせるための統一戦線に組み込むべきである」と主張して「日共左派」から分派した。 4.13日、第8回全国統一地方選で、美濃部知事三選、共産党単独推薦の黒田了一氏が再選、神奈川で長洲一二が当選するなど、革新自治体がふえる。共産党は、県議選で後退、党勢拡大に陰り。 4.30日、解放戦線がサイゴンに無血入城し、南ベトナム・サイゴン政権のドン・バン・ミン大統領が無条件降伏してベトナム戦争(インドシナ30年戦争)終結。。米軍の援助を失った南ヴェトナム軍は総崩れし、当初2年はかかると見られていた、南の制圧を驚異的な速度で進め、4月には首都サイゴンに迫った。市内はパニックになり、米軍を支援していた関係者は粛正を恐れアメリカ大使館や空港に殺到した。アメリカもサイゴンからの撤退を開始。米大使グラハム・マーチンをはじめとするアメリカ人関係者、及び南ヴェトナム政府要人はヘリコプターで第七艦隊空母などへ脱出した。アメリカの戦死者.事故者約6万人、戦費1389億7400万ドルと発表された。ベトナム側犠牲者は200万人を超えた。(「ベトナム戦争の概略」) 5.11日、第8回中総で、臨時党大会を開くことが決定された。この時不破書記局長が、次のように述べている。
7.27日、「創価学会と日本共産党との合意についての協定」文書(「相互不干渉・共存の十年協定」)が創価学会.日本共産党の双方から発表された。「歴史的和解」であった。協定調印は、1974.12.28日であることが判明した。署名.捺印は、共産党は上田耕一郎、創価学会は野崎勲があたった。つまり調印から7ヶ月近く秘密にされたことになる。作家.松本清張氏の仲介の労であったことも判明した。公明党の竹入委員長、矢野書記長らには秘せられていたことも判明する。「頭越し」。このことが創価学会(秋谷.青木副会長)と公明党間に亀裂を走らせることになった。 7.30日、日共委員長・宮顕は、代々木の党本部で記者会見を行い、「救国.革新の国民的合意への道を寛容と相互理解にたってー今日の政治的、経済的、道徳的危機から抜け出し、日本民族の進路を民主的に確立するために」を発表。全文が7.31日の赤旗に掲載された。記者会見での質疑応答は、8.1日の赤旗に紹介された。 12.10日、赤旗は、「古びた反共理論と反動的裁判所資料の蒸し返しー『文春』立花隆氏の日本共産党研究なるものの特徴ー」を連載し始めた。12.11日、赤旗は、宮本の「スパイ挑発との闘争-1933年の一記録」を再録、全文公開して対抗した。 12.20日、「第7回中総」で、宮本委員長は、立花論文に触れて「歴史的ニヒリズムと特高警察史観」、「悪質な反共宣伝、反動裁判所資料の蒸し返し」によるものと反撃。「共.創十年協定」の破綻も追認した。 「阿修羅雑談専用22」の石工の都仙臺市氏の2007.1.31日付け投稿 「なにゆゑに田中角榮は總理大臣と成つたのか。サクラメンテの怪會談と云ふ謎」に次のような記述が為されている。貴重情報であるので転載しておく。
|
【この時期の学生運動の動き】 |
この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。 もうこの頃になると、本来の左派運動は何も展開できていない気がする。以降、80年代、90年代、00年代になると、これがますます定向進化し、2008年現在あるが如くになる。政治闘争的に見て枢要な件のみ確認する。 |
【1971年の動き】 |
2.17日、京浜安保共闘が、栃木県真岡市の銃砲店を襲い銃と銃弾を強奪した。赤軍派もМ作戦を展開し7月にかけて8件の郵便局、銀行などへの資金奪取作戦を敢行した。逐一は「」に記す。
2.22日、千葉県・公団、三里塚第一次土地収用強制代執行。この日、三里塚農民は、決死隊が立木に自らの体を鎖で縛り付けて抵抗した。実に、三週間にわたって機動隊との闘いが続けられた。逮捕者は487名、負傷者も重傷者41名を含む千名に及んだ。
2.28日、赤軍派の重信房子がレバノンへ出国。京大全共闘の奥平剛士と結婚入籍し、奥平房子名のパスポートで出発した。アラブ赤軍、後の日本赤軍となる。
6.17日、この日全国で「6.17闘争」が繰り広げられた。東京では中核派.第四インターを中心とした約1万名が明治公園で、反帝学評、フロント、ML派など反中核派系約1万名が宮下公園で集会を開いた。両者とも、乗用車、材木、看板などで街頭バリケードや、線路上への座り込み、機動隊への火炎ビン攻撃などを展開したが、これにたいして、機動隊もガス銃などで応戦し、熾烈な攻防戦が展開された。
集会終了後の午後8時50分頃、明治公園原宿付近で鉄パイプ爆弾が投げつけられ隊員37名が負傷した。赤軍派の仕業だった。集会後各派が街頭闘争に移り機動隊との熾烈な攻防戦が展開された。この事件の容疑者として、赤軍派中央軍の少年(17歳)ら二人が、殺人未遂容疑などで逮捕されたが、証拠不十分で処分保留となった。6月15日からこの17日までの3日間の闘争での逮捕者は
1,061人にものぼった。
7.15日、赤軍派・日共左派、「統一赤軍」(のち連合赤軍)結成を宣言。連合赤軍は南アルプスでの軍事訓練、新党理論の形成に向かったが、その過程でリンチ殺害事件を起こしていくこととなった。
8.21日、赤報隊が埼玉県の陸上自衛隊朝霞基地に侵入、自衛官を殺害、腕章などを盗む。菊井良治ら9名が実行犯として、後に滝田修こと竹本信弘.元京大助手が共犯として逮捕される。
9.16日、成田空港建設第二次強制代執行。三里塚農民の決死隊がヤグラや鉄塔に立てこもって抵抗した。東峰十字路での反対派学生集団と機動隊の衝突で堀田大隊機動隊員3名が火炎瓶や角材による攻撃で死亡、一小隊全滅、全員負傷。逮捕者375名。
10.16日、沖縄国会開会のさなか、東京など全国各地で、集会、デモが行われ、機動隊との衝突、交番への火炎ビン攻撃がおこった。
10.20日、革マル派の水道橋美術学院生水山敏美が、横浜国大富士見寮で中核派に殺され、他数名重傷。革マル派は「中核派絶滅」宣言を行い、予告通リ攻勢にでることになる。
10.23日、革マル派が、首都圏の中核派拠点大学に対する一斉テロ攻撃。11.1日、革マル派が、中核派の長谷川英憲杉並区議事務所を攻撃。11.8日、革マル派が、京都大学前でビラ配りをしていた中核派20名を襲撃。
11.10日、破防法違反容疑で松尾真中核派全学連委員長が逮捕される。
11.14日、国会で沖縄返還協定の強行採決のきざしがみえたこの日、全国32都度府県、80ヶ所に10万人が集まって阻止闘争が展開された。宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」を叫んで、渋谷に進撃、各所で機動隊と衝突した。200人の中核派部隊の火炎ビン攻撃をうけた渋谷署神山交番では、警備にあたっていた警官が火炎ビンで火だるまになり、病院で死亡した。また、午後2時ごろには、国電池袋駅で、中核派の学生、労働者がもちこんだ火炎ビンが、満員の山手線電車内で炎上、乗客らが重軽傷を負い、火炎ビンを浴びた中核派反戦青年委の女教師が病院で死亡した。深夜まで7時間にわたって渋谷駅や繁華街でのゲリラ戦が続き、この日の衝突で、313人が凶器準備集合罪などで逮捕された。
12月頃、香月徹氏が民青同系全学連機関紙「祖国と学問のために」(1971.12.1日)紙上で、純化する党中央の議会主義に批判的なコメントを載せている。
概要「院内でのどんな爆弾質問も、その破裂を引火して燃え上がるべき院外闘争の加熱化と相関することなしには佐藤内閣打倒のキメ手にはならない。国会というものは、それ自体として新しい政治、新しい歴史を生み出すことのない、いわば産婆役に他ならぬ。人民の闘争こそが、レーニンの云う人民大衆の自主的活動こそが歴史の母であり、云々」。 |
【1972年の動き】 |
2.17日、連合赤軍最高指導者森恒夫.永田洋子が群馬県妙義山アジト付近で逮捕された。
3.30日、大阪地評青年協集会の場で、解放派と革マル派との衝突がおこり、集会が一時的に混乱した。解放派は、組合青年運動の現段階及び共闘の現段階に配慮が足りなかった点があったとして、自己批判し、地評青年部段階へ提出した。
9.4日、反戦相模原闘争が主催されたが、この時中核派と革マル派がゲバルト会戦している。
【1973年の動き】 |
1.1日、連合赤軍最高指導者森恒夫が東京拘置所で首吊り自殺。
4月、「共産同」中間派の「荒派」でも、1972年の「5・13神田解放区闘争」で大量検挙されたことに対する責任追及をめぐって、党建設を重視する荒岱介派と武闘路線を重視する反荒岱介派が対立、翌1973.4月には、反荒岱介派の一部が「国際主義派」を名乗って分裂し、次いで同年6月には、反荒岱介派の多数を占める「大下敦史派」が分裂した。
10月、「マルクス主義者青年同盟」(マル青同)が結成されている。「ML同盟」の残存者である「全都解放委員会」と、元共産同政治局員の指導下にあった「レーニン研究会」とが、組織合同して発足した。
【1974年の動き】 |
1.14日、中核派の指導者本多氏ら破防法被告団が、主任弁護人井上正治氏らと打合せ会を開いている席上、革マル派が襲撃し、本多、藤原慶久東京地区反戦世話人、青木忠元全学連書記長、松尾真全学連委員長等々がテロられる。
1.31日、日本赤軍、パレスチナ.ゲリラとの共闘ゲリラ作戦第二弾。和光春生.山田とパレスチナ.ゲリラ2名がシンガポール島のシェル石油タンクを爆破。
2.6日、パレスチナ.ゲリラ5名がクウェートの日本大使館占拠、和光らの送還を日本政府に要求、政府はこれを呑み日航機を出し、日本赤軍.パレスチナ.ゲリラメンバー9名を南イエメンに運んだ。
8.14日、東アジア反日武装戦線が、東京・荒川橋で天皇の御召列車爆破計画を立て未遂に終わる。
8.30日、東アジア反日武装戦線が、東京丸の内の三菱重工を爆破、死者8名、負傷者385名。以降この種の爆弾テロが続く。
9.13日、先に逮捕された赤軍派メンバーの奪還目指して、和光.奥平純三、西川純がオランダ.ハーグのフランス大使館占拠、同年7月パリで逮捕された山田義昭の釈放を求め、奪還に成功した。日本赤軍単独の「独立作戦第一号」となった。
9月、赤軍派の武装堅持派、赤軍派(革命戦争編集委員会)を中心に赤軍派日本委員会結成。
10.14日、東アジア反日武装戦線が、東京・西新橋の三井物産爆破。11.25日、東京・日野市の帝人中央研究所爆破。12.19日、東京・銀座の大成建設ビル爆破。12.23日、東京江東区の鹿島建設資材置き場爆破。
1974年、革マル派は「党派闘争勝利宣言」を出し、それ以後の中核派などの内ゲバについて、「権力の謀略」という説を打ち出した。なおこの頃から、押されぎみであった中核派が攻勢に乗り出す。
【1975年の動き】 |
2.28日、東アジア反日武装戦線が、東京・北青山の間組本社爆破。4.19日、東京銀座の韓国産業研究所、兵庫県尼崎市のオリエンタル・メタル爆破。4.28日、千葉県市川市の間組作業所爆破。5.4日、間組江戸川橋工事現場爆破。
3.6日、革命マル派の機関紙「解放」の発行責任者・難波力こと堀内利昭が、東京渋谷区内の路上で中核派のテロにより殺された。
3.14日未明、中核派最高指導者本多延嘉書記長革マル派にテロられ死亡。革マル派は、「解放」(3.24日付)で次のように宣言、犯行を認めた。
「わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目、書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした」、「我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめ」、「殺害を目的としたものではなかった。わが戦士の燃えたぎる怒りが激しくて、結果として死亡ということになった」。 |
中核派の怒りは凄まじく、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。警視庁は19日に専従員配置を決定したが、報復は続いた。革マル派は「一方的テロ停止宣言」。しかし内ゲバを完全にやめたわけではなく、また中核派側の攻撃はおさまらず、死者は増えていくばかりとなる。この年だけで15人もの革マル派活動家が殺害された。(本件につき「中核派党史1、結党から本多虐殺まで」で別途考察)
4.6日、日比谷公園での全共闘1500名の集会に500名の革マル派が乱入。竹竿や投石による乱闘となり、両派30名が負傷。
5.13日白昼、「法政大会戦に革マル派全学連が大勝利」とある。 法大裏で戦闘となり、中核派の墨田区職員である革共同東京東武地区委員長(38歳)が死亡(中核派5人目の死者)、他に25名が重傷。
5.19日、警視庁が、東アジア反日武装戦線の佐々木規夫、大道寺将司ら8名を逮捕。
6.7日、中核派が、大阪産業大の革マル派シンパの一般学生(軍事責任者ともある)・小野正裕(武司)を虐殺、とある。
6.20日、中核派が、き革マル派の機関紙「解放」を印刷していた東京商工を襲撃、とある。
他方で、革マル派は、社青同解放派に対するテロを仕掛けている。6.24日、静岡県伊東市内にある歌手・加藤登紀子の別荘で戦闘。泊まって武闘訓練をしていたとみられる反帝学評の元九大生(26人)が死亡、9人重軽傷。加藤夫妻は「無関係」と記者会見を開いた。
6.26日、法大構内でヘルメット姿の両派約100名が鉄パイプ、旗竿で乱闘。機動隊が導入され、97名が逮捕された。負傷者は機動隊に保護された。
6.27日、埴谷雄高氏、対馬忠行、藤本進治氏を始めとする12名の文化人が、「革共同両派への提言」を発表し、内ゲバの終結を求めた。革マル派の随伴文化人高知聡氏の働きかけが大きかった。
「この提言に対し、革マル派は一部については不満を述べるものの、『我々の巨大な勝利を画するもの』と大きく評価し、一大キャンペーンに乗り出した。だが中核派は『怒りを込めてきっばりと拒否する』として、提言を弾劾する声明を発表した」(「検証内ゲバ」)。
7.17日、皇太子夫妻の沖縄訪問に反対して国電蒲田駅周辺で集会・デモを行なっていた革マル派、中核派の約200名が新橋駅山手線内回りホームで衝突。この衝突で1人が死亡、44名が重軽傷。136名が暴力行為の現行犯で逮捕されている。
7.19日、北海道警察本部爆破。反日武装戦線が犯行声明。
8.4日、日本赤軍によるクアラルンプール事件発生。和光.奥平.日高と他の3名の6名でマレーシア・クアラルンプールの米、スウェーデン両大使館を占拠、アメリカ領事などを人質にし、同年3月スェーデンのストックホルムで逮捕され、日本に強制送還された西川純ら2人と他の獄中赤軍メンバーの釈放を要求、政府は超法規的に5人を釈放、クアラルンプルに送る。の釈放を要求した。日本政府はこれに応じ「超法規的措置」で獄中7名の釈放が決められた。西川.戸平.元赤軍派坂東国男.松田久.東アジア反日武装戦線佐々木則夫らが釈放され、リビア入りした。
12.17日、戦旗派(西田派)、沖縄訪問の皇太子夫妻に「ひめゆりの塔」で火炎ビンを投擲。
これより後は、「9期その3、70年代後半期の諸闘争」に記す。
(私論.私見)