戦後学生運動9期その3 | 1976-1979 | 70年代後半期の諸闘争 |
(最新見直し2006.10.15日)
これより前は、「9期その2、70年代前半期の諸闘争」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、1975年から1979年までの学生運動史を概括する。これを仮に「戦後学生運動 9期その3、1976年より1979年までの諸闘争概略」と命名する。詳細は「戦後学生運動の考察/70年代の学生運動(1975-79)」、概論は「70年代後半期の諸闘争」に記し、この時期の枢要事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。 この時期よりほぼ完全に政治闘争が行われなくなる。「党派間ゲバルト」と日本赤軍のテロ事件のみが残ったという時代に入り、この両者も次第に収束する事により政治闘争そのものが社会から消えて行くことになる。 |
【1976年から1979年の全体としての政治運動】 |
この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。 |
【戦後革命流産の経緯】 | |||||||
1976. 1.8(1.14?)日、周恩来中国首相死去。 1.27日、春日一幸民社党委員長が、衆院本会議で「宮本のスパイ査問事件」を質問している。「共産党は、リンチによる死亡者の死因は特異体質によるショック死だとしているが、真実は断じて一つ」として、事件の究明と戦後の宮顕の公民権回復に関しても疑義を次のように表明し、政府の見解を迫った。
鈴木卓郎「共産党取材30年」は次のように記している。
1.30日、塚本民社党書記長がスパイ査問事件についての詳細な質疑を行い、果ては宮顕の「復権問題」、刑の執行停止に伴う残余の期間にまで及ぶ質問(衆院予算委員会)が為された。稲葉法相は、質問に答え、「宮本、袴田らの手で行われた凄惨なリンチ殺人事件」の事実を認めている。 不破書記局長が、衆院予算委員会での春日質問を非難、「国会を反共の党利党略に利用するもの。宮本委員長の復権は法的に決着済み。暗黒政治の正当化だ」と反論。但し、「判決に不服なら再審の請求という手段がある」という稲葉法相の指摘に対してはノーコメントで通している。 1月末、自民党が「共産党リンチ事件調査特別委員会」を設置した。 この件に関するマスコミの報道は次の通り。朝日新聞「歴史の重み、矮小化の恐れ、醜聞の立証に終始する政争次元の論議は疑問」という見出しで、「この事件を論ずるためには、小畑氏の死因の究明ではなく、こうした政治社会的な背景の分析に力点が置かれるべきであり、しかもそれが戦争から敗戦につながった歴史への反省を込めて行われるべきであろう」。毎日新聞「取り上げる意義どこに 資格回復の是非いまさらに論議しても---」。読売新聞コラム「共産党は好きでないが」と前置きして、「春日演説が暗黒政治と軍国主義の復活を推進することになりはしないか」と憂えた。 1.30日、公明党・矢野書記長は、衆院予算委員会で次のように述べた。
2.2日、社会党・成田委員長は遊説先の佐賀市で記者会見し次のように述べた。
2.4日、アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード社の贈収賄工作が証言された。「ピーナッツ100個(暗号領収書、ピーナッツ1個は100万円で、100個は1億円)」などロッキード社不法献金の証拠資料が公表された。日本の場合、小玉、丸紅、全日空、小佐野賢治らを通じて、約36億円の工作資金が流れたといわれた。こうして「ロッキード事件」が勃発した。 鈴木卓郎の「共産党取材30年」は次のように記している。
4.4日、フランス共産党のマルシェ書記長来日。4.8、9日、レセプション。この時、宮顕は、「これまでのようにマルクス、エンゲルス、レーニンの一言一句を金科玉条にしない」、「マルクス・レーニン主義と言えば、ロシア型社会主義と誤解される。これからは科学的社会主義と呼びたい」、「既にプロレタリア独裁を執権に変えたが、さらに次の党大会ではこの項を削除したい」、「マルクスの言う暴力(ゲバルト)とは、日本語の強力(フォース)と訳すのが適切だ」等々述べた(鈴木卓郎「共産党取材30年」)。 4.10日、共同声明発表。そこには、「日本共産党とフランス共産党は、民主主義的変革の段階でも、社会主義の段階でも、自由と人権の拡大、普通選挙の結果の尊重、複数政党制の尊重、民主主義の持続的発展を保障する意思を重ねて確認する。両党は、国家によってどのような思想をも押し付けたり、またいかなる思想や信仰を禁止したりすることを認めない。思想には思想をもって対応し、広範な国民の支持をえるものである」と声明されていた。 4.5日、中国天安門事件発生。 5.11-12日、共産党の「第8中総」が開かれ、宮本委員長が臨時党大会を提起。「全国民の耳目がロッキード捜査の進展に集中している」時の異例の党大会提起であり、「政治は一寸先は分からん」という中での大激動に対するタイムリーな予測がピタリと当たることになった。6.8日、平野謙氏が「リンチ共産党事件の思い出」を出版。袴田里見の訊問・公判調書全文が発表された。6.11日付け赤旗に、袴田里見の「スパイ挑発との闘争と私の態度」が発表された。 7.27日、7.27日早朝、田中が外国為替法違反、受託収賄罪容疑で東京地検特捜部に逮捕された。法相稲葉修。(前首相逮捕は、昭電疑獄の前首相芦田均についで、日本憲政史上2人目)
第13回党大会を目前にして、党内に「党報」を配り、共産党第13回臨時党大会で決議予定の三議案について討議に付した。プロレタリアート独裁とマルクス・レーニン主義規定の放棄の是非を廻って党内論議が諮られた。140通を越す意見書が出され、この中から51通が選ばれて4.14日付けの党特別号№1が発表された。続いて、7.19日に意見書40通掲載の党特別号№2、7.25日に意見書55通掲載の党特別号№3が発表された。しかし、この経過は、№1に掲載された反対意見を№2と№3で袋叩きにする猿芝居じみたものでしかなかった。
同宣言は、共産党が次の点で従来の見解を改めた。1、私有財産の保障として「独立・民主日本はもちろん、社会主義日本に移行した段階でも、勤労者の私有財産は保障される」。2、議会制民主主義を守るとして「国民主権の立場から、独立・民主日本でも、社会主義日本でも普通選挙権にもとづく国会を名実ともに最高機関とする民主主義国家体制が確立、堅持される」。3、複数政党制と連合政権を志向するとして「反対党をふくむ複数政党制をとり、すべての政党に活動の自由を保障し、選挙で国民多数の支持をえた政党または政党連合で政権を担当する」。4、政権交代制を保障するとして「この議院内閣制(議会多数派で組織)によって、政権交代制は当然維持される」。5、宗教や言論の自由の保障するして「言論、出版その他表現の自由を、用紙や印刷手段の自由な利用の保障などを含め、擁護する」、「表現手段などに恵まれない人々に対しても、自己の思想や主張などを発表し得るように物質的な保障を確立する」、「この物質的な保障は、あくまで表現の自由の不可侵を前提としたものであり、それを検閲や統制の手段とすることは許されない」。これについて、筆者はかく思う。この宣言の歴史的意味は認められようが、ならば「61年綱領」に残滓的に見られる「『敵の出方論』に立った暴力革命の方針に基づいて我が国の革命を遂行するという綱領の基本路線や革命勢力としての基本的性格を明示した党規約」との整合性が危ぶまれることになる。この問題をどのように処理していくのかが見所となる。 この時 「用語革命」が前回大会に引き続き為された。綱領から先の大会で、プロレタリア独裁が執権に統一され、「ソ連を先頭とする社会主義陣営、全世界の共産主義者、全ての人民大衆が、人類の進歩のために行っている闘争をあくまで支持する」の「ソ連を先頭とする」が削除され、「国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具に変え」の「道具」を「機関」に改められたが、このたび「マルクス・レーニン主義」が削除され「科学的社会主義」との表記に改変された。前大会で「プロレタリアート執権」と変更された「執権」が削除され「労働者階級の権力」に書き改められている。 9.9日、毛沢東中国共産党主席死去。 10.5日、自民党の「共産党リンチ事件調査特別委員会」が、①・事件は捜査当局によるデッチアあげでなく、緻密に計画された犯行である。②・小畑達夫の死因は外傷性ショック死である、との報告を発表。
12.17日、三木が辞任表明。総選挙敗北。12.24日、福田内閣発足。 「三木おろし」の経緯からして、福田政権の主流派は「挙党協」を構成していた福田・大平・田中派となった。三木・中曽根派は反主流に追いやられた。
12.28日、共産党13中総が開かれ、宮本委員長の参院選全国区出馬が発表される。宮本委員長の選挙区割りは東京都全体となった。百万票以上、10位以内の当選が目指された。高原晋一常任幹部会委員が、財政経営委員会責任者、財政部長兼任のまま、選挙対策局長に任命された。子飼いの懐刀高原の裁量のままに湯水の如く選挙費用が使われていくことになった。三種類の宣伝文書(一冊平均百円としても1億5千万円)、「必勝袋」(一冊平均百円としても3億円)と称する全国用宣伝文書(候補の紹介、党の政策、赤旗号外、各種ビラ)。これまで金権選挙に負けたと批判しながら、当の本人の出馬ともなるとそれを上回ることをして恥じない。 |
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1977. 2.5日、常任幹部会が、袴田の党規律違反問題調査のための「調査委員会」の設置を決める。責任者は不破。 6.23日、元中央委員広谷俊二(元中央青年学生部長)の除名を発表。これは、雑誌「中央公論昭和52年4月号」誌上での田原総一朗氏の「党内から出た宮本日本共産党委員長への異議申し立て-元中央委員から党機関部員まで、現役党員の直言!」に、広谷氏の取材協力が判明し責任を取らされたものであった。 昭和51年末の総選挙で議席を半減させた日本共産党は、これを教訓に速やかに党を立て直して「民主連合政府」構想を再び軌道に乗せ直すための諸活動に取り組んだ。しかし、党内には総選挙での敗北を契機として、将来への展望を失ったことによるざ折感、党活動に対する息切れ、党中央に対する不信感等から党活動に対する消極的傾向が広がり、そうしたなかで広谷俊二元中央委員・青年学生部長のように「宮本路線」、「宮本体制」を真っ向から批判する意識的な「新日和見主義」の動きも現れた。このような動きに対し、党中央は、6月23日広谷俊二元中央委員を除名するなど厳しい措置を採るとともに、党員に対する締め付け、督励を行ったが、党員の活動意欲を盛り上げることができず、党勢は引き続き後退を続けた。 7.23日、文部省は新学習指導要領で、君が代を国歌と規定、告示した。 8.3日、77年原水爆禁止世界大会が14年ぶりに統一大会として開催された。広島。 8.10日、狭山差別裁判、最高裁上告を棄却。無期懲役の判決が確定。8.23日、狭山差別裁判勝利総決起集会。 10.17日-22日、日共が、第10回党大会を開く。大会の眼目は、 選挙連敗について総括。公明・民社・新自クを自民党政治の補強勢力と批判。民主連合政府について、「より長期的な視野で展望することが必要」と決議。野坂議長7選、宮本委員長、不破書記長を3選。袴田失脚(副委員長・常任幹部会員の全役職剥奪される。更に、12月30日付けで除名)、岡正芳閉居が判明。これまで宮本委員長を支えてきた戦前派幹部を多数更迭し、若手幹部で宮本委員長を支える新指導部を選出した。宮本氏は、袴田粛清担当で大活躍し、私的分派ボスの栄光と権威を守りぬいた小林中央委員・元宮本秘書の功績を高く評価し、常任幹部会員へと2段階特進させた。 12.17日、三里塚、第一期工区内の小泉英政氏所有の農地を強制収用。 |
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1978.1.4日、赤旗は、1.6日に発行される「週刊新潮」(1.12日号)の袴田手記「昨日の同士・宮本顕治」に先回りして、長文の反論を掲載。 6.21日、防衛庁が有事防衛研究着手を表明。 6月、ベトナムがカンボジアに侵入。 8月、中国がベトナムに侵入。 8.12日、日中平和条約調印。中国の黄華外交部長と日本の園田直外相は両国政府を代表して署名、中日平和友好条約に北京で調印。 10.23日、日中平和友好条約の締結。1972年に田中内閣で成し遂げられた日中国交回復の総仕上げとなった。鄧小平中国副首相がやってきた。 11.1日、初の自民党党首予備選が告示された。この時党員は158万人、党友19万人、郵便による予備選投票で上位二人を選出し決選投票を行なう。決選投票は、党所属の国会議員の投票となる。 11.10日の読売新聞は、予備選の動向について「福田氏トップ、中曽根氏大平氏を急追」、「福田首相は過半数を握った」と大きく報じた。11.16日の毎日新聞世論調査では、総裁候補に関する一般の支持率として、福田24%、中曽根21%、大平17%としていた。11.21日の朝日新聞調査では福田28%、中曽根15%、大平13%と報じている。この頃、福田首相は、さかんに「予備選挙で二位になった候補は本選挙を辞退すべきだ」、「予備選挙で百点以上差がついたときには、本選挙は行なうべきではない」と発言しており、結果的にこれが命取りになる。 11.26日、予備選挙投票、27日開票。結果は、事前予想に反して大平55万0891票(748点)、福田47万2503票(638点)、中曽根29万0987票(93点)、河本8万8091票(46点)。大平が、110点もの差をつけて福田に圧勝した。(田中派の大平支持で予想を覆して大差となる) 12.7日、第一次大平内閣発足。竹下登衆院予算委員長。大平首相の政治哲学が次の様に明かされている。「政(まつりごと)は小魚を煮るが如し」。「政治は小魚を丁寧に煮る慎重さがなければいけない。ともすれば、丁寧に政治をする部分が欠けることになる。自戒せねばならない」。 12.11日、米中国交正常化。 袴田里見除名。 「前衛」(1979、昭和54.1月号)に、不破書記局長が、「科学的社会主義か『多元主義』か」論文を発表。14万4千語、実に100Pにわたって多元的社会主義を提唱する「田口富久治理論」批判大キャンペーンを行なった。1978.11月から1980.3月まで、不破が田口批判「前衛」論文の執筆を2回為している。 12.28日、イラン反政府暴動が最大規模に発展。ホメイニ師を最高指導者と仰ぐ民衆がイランのパーレビ国王と衝突。これにより世界の10%を占める原油生産が全面的に停止、輸出も79.3月始めまで止まる。 |
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1979.1.1日、米中が国交回復。米は台湾と断行、相互防衛条約を破棄。 1.9日、トーマス・P・チータム米グラマン社前副社長が、同社の早期警戒機(E2C)対日売り込みに関連して、疑惑の政治家名を明らかにして、岸、福田、松野、中曽根の4名を挙げた。捜査当局がダグラス・グラマン疑惑の解明に動くことになった。第二次ロッキード事件として大騒ぎとなった。 1.9日、東京地検特捜部はこのダグラス・グラマン両社の航空機売りこみにからむ疑惑について法務省に米側資料の入手を要請、捜査を開始した。捜査の中心は、両社の販売代理店である日商岩井であったが、2月1日、グラマン疑惑の重要人物であり、東京地検に召還されていた日商岩井島田三敬(みつたか)常務が東京・赤坂のビルから飛び降り自殺し、捜査は難航する。 1.30日、通常国会再開。冒頭からダグラス・グラマン疑惑で荒れた。衆院ロッキード問題調査特別委員会が「航空機輸入調査特別委員会」と改称された。特別委員会は、ダグラス・グラマン疑惑はもちろん、民間機、航空機の売り込みにかかわる、すべての疑惑を調査することになった。野党は、岸・松野らの証人喚問を要求したが拒否した。日商岩井の植田三男社長、海部八郎副社長らが喚問となった。 2.9日から国会(衆院予算委員会)で疑惑解明の集中審議を開始、防衛庁に強力な影響力を持つ岸信介元首相と太いパイプで結ばれた日商岩井の植田三男社長・海部(かいふ)八郎副社長らと松野頼三元防衛庁長官を証人喚問した。 参院予算委で航空機疑惑集中審議最中の4月2日には海部が外為法違反容疑で特捜部に逮捕されるが、この時、伊藤栄樹法務省刑事局長(1925年2月名古屋市の生まれ。学徒出陣で海軍に入隊。戦後の司法修習生の1期生で、1949年に検事任官。東京地検特捜部検事、法務省人事課長、東京地検次席検事、法務省刑事局長、事務次官、東京高検検事長などを経て、1985年12月に検事総長に就任。1988年3月24日、病気のため任期を約2年残して退官した)は、「捜査の要諦(ようてい=肝心なところ)はすべからく、小さな悪をすくい取るだけでなく、巨悪を取り逃がさないことにある。もし、犯罪が上部にあれば徹底的に糾明し、これを逃さず、剔抉(てっけつ=あばき出すこと)しなければならない」と述べ、政界中枢への波及を示唆した(「巨悪を逃さず」はこの年の流行語なる)。 4.16日、検察側の総指揮官であった検事総長が定年で神谷尚男から辻辰三郎に交代した。神谷は「サヨナラ記者会見」で「検察の捜査力はまだまだ頼むに足る。私は事件途中で去るが、背後に検察の意気込みを感じながらやめるのはうれしい」との言葉を残した。 結局、同社から総額5億円を受け取った松野元防衛庁長官(79年7月に議員辞職。10月の総選挙でも落選)が“灰色高官”として浮上しただけで、捜査中に明らかになったダグラス社と元首相のかかわりが示唆する内容が記されていた「海部メモ」に名前の出た岸信介元首相については、検察側の事情聴取もなく、また証人喚問すらなされず、捜査は79年5月に未解明のままで打ち切られた(刑事訴追を受けた政治家はゼロ)。 2.12日、イラン革命政権樹立。1.16日、シャー・パーラビは国外から発せられるホメイニ師の演説に呼応する国民を抑えきれないと悟ると、時の首相シャープール・バフティヤールの進言でエジプトに亡命し王朝は崩壊する。2.1日、皇帝と入れ替わりにホメイニ師が帰国し、首相をメフディー・バザルガンに任命する。こうして国家元首が二人となり、帝国は真っ二つに割れる。ついに、革命派と皇帝派が戦闘に突入する。2.11日、帝国正規軍が中立を宣言するにいたり、勢いづいた革命派は宮殿を攻撃、ついに皇帝派は消滅する。 5.23日、狭山差別裁判「狭山再審要求総決起集会」に1万8千名参加、38名逮捕される。 6.28日、東京サミットが元赤坂の迎賓館で開幕。出席者の顔ぶれは、カーター米大統領、ジスカールデスタン仏大統領、シュミット英首相、アンドレオッティ伊首相、クラーク加首相、ジェンキンスEC委員長。 6.28―29日、東京の元赤坂の迎賓館でで第5回先進国首脳会議開催(東京サミット)。出席者の顔ぶれは、カーター米大統領、ジスカールデスタン仏大統領、シュミット英首相、アンドレオッティ伊首相、クラーク加首相、ジェンキンスEC委員長。7.17日、防衛庁が防衛力整備五ヵ年計画を発表した。問題は、国防会議や閣議決定を経る事無く決定.発表されたことにあつた。 名古屋大学教授の田口富久治氏が党内民主主義への問題提起をしていくことになる。田口教授は共産党が65年に結成した「憲法改悪阻止各界連絡会議」(憲法会議)の代表幹事で、「先進国革命と多元的社会主義」を著し、その中で共産党が閉鎖的集団ではなく、国民に向かって“開かれた党”(新しい型の党)へ脱皮することが必要だと次のように力説した。概要「共産党が政権が握ると一党独裁になるとの危惧の念が国民の間に強いが、決して根拠がないわけではなく、既存の社会主義国の歴史的現実が示されているとおりだ。日本共産党は複数制を公約しているが、たとえ複数政党制がとられた場合でも、共産党が圧倒的な支配政党としての地位を確立すれば、他の政党が共産党をチェックする機能は著しく弱まることになりかねない。そうなれば支配政党である共産党の組織・運営が“一枚岩主義”では『支配政党の組織的質が国家体制の政治的質を規定』するのは避けられないので、党と国家との癒着による一党独裁の危険が生じる。 「前衛」9月号に、田口氏の不破論文に対する反対大論文100P「多元主義的社会主義と前衛党組織論-不破哲三氏の批判に答える-」が発表された。この中で、田口氏は、新しい党のビジョンとして次の5項目を提示した。 11.19日、第二次大平内閣発足。竹下登蔵相。 10月-11月自民党内は、大平・田中連合対福田・三木・中曽根連合の「自民党40日間抗争」に突入。総選挙の敗北で、福田・三木・中曽根各氏ら非主流派が大平首相の退陣を要求。福田・大平会談で辞任を迫られた大平首相は、「辞めろということは、私に死ねと言うことだ」と反発した。こうして党内調整がつかないまま首相指名選挙が行われに至る。
10.26日、伊藤律が病監から釈放される。中連部のL氏は、「日共はあなたを隔離査問するからと、長い間ここに入れたままほったらかしにした。あなたの病状を考えると、これ以上このままにしておくわけにはいかない。中共中央は革命的人道主義の立場から、あなたを釈放することに決定しました。今後あなたは公安部とは無関係であり、中国に留まるも日本に帰るも全く自由です。ただ一つ、中国にいる間は政治見解を公表しないで下さい」と伝えている。 10.26日、韓国の朴大統領暗殺される。 11.6日、衆議院本会議における首相指名選挙。自民党から異例の現職首相大平氏と前職首相福田氏が立候補するという椿事となった。投票結果は、大平正芳135、福田赳夫125、飛鳥田一雄107、竹入義勝58、宮本顕治41、佐々木良作36、田英夫2、無効7。決選投票で、大平139、福田121、白票1、無効251となり、大平首相が首相に再任指名された。こうして、決選投票の末辛うじて大平氏が首相に再選された。 11.19日、第二次大平内閣発足。竹下登蔵相。 12.15日、宮本委員長を団長とする訪ソ団が出発した。メンバーは、団長・宮本顕治(幹部会委員長)、団員・上田耕一郎(副委員長)、西沢富夫(副委員長)、金子満広(書記局次長)、榊利夫(理論委員長)、立木洋(国際部長)、宇野三郎(宮本委員長秘書)の7名その他であった。第一回目の会談が行われたが、ソ連側代表はブレジネフ党書記長、スースロフ政治局員、ポノマリョフ准政治局員、アファナシェフ中央委員、フェドセーエフ中央委員、ウイヤノフスキー国際部副部長、コワレンコ国際部日本課長らであった。 もう一つ、社会主義政党間の在り方を廻って討議しており、この間の日ソ両党の不正常な関係の清算を図った。日共側から見れば、「ソ連側に『志賀問題』での誤りを認めさせ、両党間の交流関係を一応正常化させた」ということになる。その他これも日共側から見てのことであるが、「各国人民が民族自決権に基づいて真に自主的、民主的に自国の変革と建設の事業を効果的に推進しうるために反革命の輸出に反対するとともに、革命の輸出にも反対する」(「革命の輸出路線反対」)、「各党がその歴史的条件と具体的情勢に基づいて、自国の社会進歩と変革、社会主義への移行、社会主義、共産主義の建設の道の選択に際し、自主的に決定する権利を持っていることを確認する。その際、外部からのいかなる干渉も許されない、双方は改めてこのことを確認する」(「公党間相互の内政不干渉」)を引き出すことに成功した、ということになる。 12月、ソ連がアフガニスタンに侵入。 12.27日、ソ連がアフガニスタンに侵攻。現地にソ連と通謀する共産主義政権が誕生したが、これに対してムジャヒディン (=聖戦を行う人々)と呼ばれるゲリラ勢力が立ち上がり抵抗していくことになる。西側諸国は経済制裁やモスクワ五輪ボイコットでソ連に抗議し、結局ソ連軍はその後も約10年にわたってアフガニスタンに駐留することになるものの山岳地帯での戦闘にてこずり多くの犠牲者を出して、1988.4月アフガニスタン和平協定に調印して撤退する。まもなく現地の共産主義政権も崩壊する。 |
【この時期の学生運動の動き】 |
この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。 |
【1976年の動き】 |
2.23日、三里塚現地総決起集会。
4.28日、沖縄デー。
5.23日、狭山差別裁判勝利中央統一集会。
10.21日、国際反戦デー。
「天皇在位50年記念式典粉砕」が闘争課題となり、式典当日の11月10日には、全国73箇所に約1万1,900人(うち、新左翼系42箇所、約6600人)を動員して、集会、デモ等の式典粉砕闘争が行われた。11月2日からの前段闘争でも、全国58箇所に約6,300人(うち、新左翼系33箇所、約1,800人)を動員して、集会、デモ等に取り組んだ。また、この闘争を通じて、日本武道館その他に対し火炎びんが投てきされるなど10件の「ゲリラ」事件が敢行された。この式典粉砕闘争をめぐって、公務執行妨害等で極左暴力集団等58人が検挙された。
【1977年の動き】 |
2.11日、革労協書記局長で解放派筆頭総務委員・中原一こと笠原正義氏が、茨城県取手駅付近で革マル派に襲われた。車に乗っていたところを乗用車に挟み撃ちされ、降りてきた6名に鉄パイプでメッタ打ちにされて翌12日頭蓋骨骨折で死亡した。事件後革命マル派は次のように声明した。
「革労協の最高指導者である中原一に対して、革命的鉄槌を下した。これはあくまでも、我々労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的戦いである」。 |
これに対し解放派は、「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」と声明し、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の前面に踊り出ることとなった。
4.15日、解放派が、埼玉県浦和市内で、革マル派4名焼死させる。4.17日、革労協活動家が犯行声明を出す。「革マル政治局員藤原隆義ら4人を打倒!2.11中原同志暗殺に対する怒りの革命的テロル炸裂!更に、すさまじい革命的テロルの猛攻を黒田ら反革命頭目の頭上に」。
4.17日、三里塚、空港粉砕・鉄塔死守・仮処分粉砕・全国総決起集会に2万3千名結集しデモ。
5.6日、三里塚強制代執行。反対同盟と支援学生らが抗議集会とデモ。ゲリラ攻撃。5.8日、三里塚、千代田農協前の抗議集会。機動隊のガス銃により東山薫・氏が二日後に死亡。5.9日、三里塚、柴山町長宅火炎瓶攻撃。21日に機動隊員1名ね死亡。5.29日、三里塚、反対同盟が、革マル派に対し成田闘争からの追放を宣言。
10.9日、三里塚空港粉砕、ジェット燃料輸送阻止集会に2万2千名参加。
【1978年の動き】 |
1.27日、解放派は、「2.11反革命一周年決戦へ全党全軍総決起」をうたい、勝田市.水戸市などの茨城県下で革マル派3名を殺害、3名に重症を負わせた。
78年以降、党派間ゲバは中核、解放両派の革マル派への熾烈な復讐戦として、一方的に、革マル派の死者が増加する。が、81年以降、次第にそれも減少の方向に向かってきた。それまでの死者の合計80人のうち中核派による革マル派の殺害43名、解放派の革マル派殺害22名、革マル派の中核、解放両派殺害14名、その他1名である。
2.6日、三里塚、横堀、要塞攻防戦。二日間にわたる激闘。45名逮捕。
3.26日、開港予定日を4日後に控えた成田空港の管制塔に第四インターなどのゲリラ部隊が突入、三里塚空港内に地下排水溝から侵入、管制塔内部を破壊、開港を二ヶ月遅らせる。3.30日、開港延期。
5.20日、成田空港開港。中核派が、東京航空管制部の通信ケーブル切断。
7.2日、三里塚「7.2飛行阻止総決起集会」に5200名参加。深夜までゲリラ攻撃、58名逮捕される。
9.2-3日、中核派が大阪、神戸、岡山、鳥取で同時多発ゲリラ。
8.17日、三里塚「百日闘争」現地に7200名結集しデモ。
78年以降、党派間ゲバは中核、解放両派の革マル派への熾烈な復讐戦として、一方的に、革マル派の死者が増加する。が、81年以降、次第にそれも減少の方向に向かってきた。それまでの死者の合計80人のうち中核派による革マル派の殺害43名、解放派の革マル派殺害22名、革マル派の中核、解放両派殺害14名、その他1名である。
【1979年の動き】 |
3.25日、三里塚「管制塔突入1周年、二期工事阻止」に6100名参加。
3月、連合赤軍分離公判組の吉野雅邦と事件当時の少年に対しては無期懲役と懲役13年の判決が言い渡された。
3月、赤軍派(プロ革)分裂。塩見グループが「日本社会科学研究所(マルクス・レーニン主義・毛沢東思想)」を結成。
4.11日、革マル派280名と革労協260名が、総評主催の「全国青年労働者層決起集会」会場でゲバルト。
5.20日、三里塚「開港阻止闘争1周年現地総決起集会」に8800名参加。
9月、労共委(怒涛派)が日共(ML)を統合した。
10.30日、革労協が、10.31狭山集会の前段闘争で検察庁合同庁舎へ火炎放射器でゲリラ攻撃。
11.2日、戸村一作成田空港反対同盟委員長死亡。
11.16日午後7時10分頃、新宿区愛住町の外苑東通り路上で、若い男2人が10数人のグループに取り囲まれ、大型ハンマーや鉄パイプで全身メッタ打ちにされ、1人が死亡、もう1人も翌日病院で亡くなった。襲ったグループはトラックで逃走、トラックは2km離れた新宿6丁目に乗り捨てられていた。これは10月に横浜市内で盗まれた車両だった。死亡したのは横浜国大教育学部S(26歳)、北大生K(26歳)。所持品などから革マル派の活動家とわかった。
これより後は、「10期その1、1980年代の諸闘争」に記す。
(私論.私見)