党史1、結党から本多虐殺まで

 更新日/2016.03.17日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは本多氏に面識はない。ただ非常に有能且つ好青年を経て名指導者に孵化していた人物だっただろうという推測をしている。中核派の党史はこの本多氏の軌跡と重なるので、その履歴を訪ねることで党史1とする。おいおいこのサイトも充実させようと思う。「革命的共産主義者同盟全国委員会 とは」その他を参照する。これに、もう一人の中核派指導者「北小路敏」氏の履歴を重ねることにする。

 2008.1.15日 れんだいこ拝


【本多氏の履歴その1、おいたちと青少年時代】

 1934.2.6日、父光治、母音美子さんの長男として、東京の下町、神田和泉町に出生。浅草鳥越で育つ。浅草柳北小学校に入学。父は全逓労働者。弟、妹各一名。第二次大戦の戦火がはげしくなるなかで、一家とともに埼玉県北足立郡足立町(現志木市)に疎開。同地で宗岡小学校を卒業。労働者の子、農民の孫として、革命家としての生来の資質をみがきあげ、終生それを誇りとしてきた。


 1936.8.4日、北小路敏が京都に生まれる。父親は京都市立中学校の国語科の教師で、京都旭丘中学事件の際の教頭で懲戒され、その後京都府議会議員を務めた北小路昂


 1946.4月、第二次大戦の軍事的敗北の翌年、旧制中学の最後の世代の一人として県立旧制川越中学校入学。戦後革命の敗北の嵐のなかで、政治的、思想的にめざめ、日本共産党の青年組織・青年共産同盟(のちの民主青年同盟)に加盟。埼玉県立川越高等学校卒業前にすでに日共に入党。高校および居住細胞で精力的に活動。いまでも故郷にはかれの支持者が数多くいる。


 1952.3月、川越高校卒業。1953.4月、早稲田大学第二法学部入学。


 1954.4月、早稲田大学第一文学部国史学科に転入学(1958年、中退)


 1954年、北小路敏が日本共産党に入党。


 早大新聞にて早くより編集長をつとめ、抜群の才をあらわし、多くの後輩を育てる。当時4百名いた日共早大細胞の指導的地位を占め、早大および首都の学生運動で大きな役割を演じる。


 1955.7月、日共の六全協に接し、指導方針に深い疑問を感じ、スターリン主義の反省への第一契機となる。


 1956.3月、ソ連共産党20回大会で「スターリン批判」。


 1956.4月、北小路敏が京都大学入学。


 1956.10月、ハンガリア革命に衝撃を受け、革命家として、人間的に悩みぬき、この現代史的問題性を深刻にとらえかえし、共産主義運動の根本的再生のため、反スターリン主義のたたかいを決意する。


 1957.1月、革命的共産主義者同盟創立される。


【本多氏の履歴その2、黒寛と歩む革共同時代】

 1957年末、黒田寛一の主宰する弁証法研究会に参加。日本トロツキスト連盟(トロ連)結成に参加する。


【革共同創設】
 1958年、革命的共産主義者同盟(革共同)の創成に加わり、黒寛らと「革命的マルクス主義グループ(RMG)」を形成する。やがて、トロツキーが作った国際組織第四インターナショナルへの合流を主張するトロツキー教条主義者太田竜・派に対して、「トロツキズムを乗り越えた新しい体系=反スターリン主義による前衛党建設」を主張して対立した。 

【革共同第一次分裂】

 1959.8.月、当時の第四インターナショナルの各国支部が展開していた社会民主主義政党もしくはスターリン主義的共産党への組織的な加入戦術を日本社会党に適用することを主張して却下された太田派が、革共同から離脱し日本トロツキスト同志会を結成する(「革共同第一次分裂」)。


 この間、日共早大細胞にて宮顕派を打倒、指導権を掌握する。日共早大細胞と早大新聞は、全学連の活動家=学生日共党員の「左への転換」の拠点の役割をはたした。


 この頃、反帝国主義・反スターリン主義の世界革命の綱額的立場を実践的=思想的に確立する。革共同内の対立はその後も続き、黒寛、本多らのRMGと西京司らの関西派との対立が発生した。


【「黒田・大川スパイ問題」発覚】
 1959年初頭、黒寛と大川による日本共産党の指導を受ける青年組織である民主青年同盟の情報を警視庁に売ろうとして未遂に終わったとされるスパイ事件が発覚(いわゆる「黒田・大川スパイ問題」)。本多は一貫して黒寛を弁護する。

【革共同第二次分裂、「革共同全国委」創設】
 1959.8.31日、革共同第一回大会で、黒寛が「スパイ行為という階級的裏切り」として除名される。本多は、黒寛と行動を共にし離党し、「反帝・反スターリン主義」をテーゼとする革命的共産主義者同盟全国委員会(革共同全国委)を創設する(「革共同第二次分裂」)。黒寛が議長、本多が書記長に就任する。本多は、機関紙「前進」をみずからガリ版で創刊。以後一貫して機関紙の指導にあたる。「この過程は、同時に、黒田による書記局活動の解体、非組織的逃亡、サークル主義的非実践性とのたたかいとしてはじめてかちとられた」とある(「本多延嘉書記長の略歴」)。
(私論.私見)
 本多氏の履歴に一片の曇りがあるとすれば、この時の対応ではなかっただろうか。「黒田・大川スパイ問題」は黒寛の公安内通性の馬脚を露した事件であり、これをもって関係を断つべきではなかっただろうか。革共同関西派との抗争は是としても、黒寛との共同性は以降は有り得てはならなかったのではなかろうか。結論的に云えば、これがやがて命取りとなったのではなかろうか。

 1959.9月、北小路敏が共産主義者同盟に加盟、日共京大細胞を解散させる。


 1960.4月、マルクス主義学生同盟結成。60年安保闘争を第1次ブントと競り合いしながら最先頭にたってたたかう。


 1960年、北小路敏が60年安保闘争で全学連委員長代行となり、国会南通用門で樺美智子さんが虐殺された6・15闘争の先頭に立つ。


 9月、マルクス主義青年労働者同盟(略称「マル青同」)の結成準備を進める。


「革共同全国委」が第1次ブントの戦旗派、プロレタリア通信派を吸収】
 60年安保闘争の総括を廻って、第1次ブントに対立が発生し、革共同全国委は理論闘争を仕掛けていく。「革命的な左翼組織として、唯一の党的組織-組織的に存在し、思想的にも体系化されている-を持つのは革共同全国委だけ」と云われる状態になり、第1次ブントの戦旗派、プロレタリア通信派の指導部を含む多数の活動家を取り込む事に成功する。清水丈夫、北小路敏、陶山健一らが知られている。この時、ブントの解体・吸収にめざましい指導的役割を演じる。

 1961.1月、「マル青同」(マルクス主義青年労働者同盟)を結成する。


 1961.3月、第一ブントの革命的戦旗派が革共同に結集する。追ってプロ通派も後追い合流する。


 1961.6月、北小路敏が革命的共産主義者同盟全国委員会に加盟する。全学連17回大会で委員長に就任する。


 1961.夏、革共同第1回大会。


 1962年、北小路敏が京都大学経済学部を卒業。革共同機関紙/前進の編集局員になる。


【黒寛が第6回参議院選全国区に出馬、落選】
 1962.6月、黒田寛一議長を第6回参議院議員通常選挙全国区に革共同全国委公認(マルクス主義青年労働者同盟、全学連推選)候補として擁立し、選挙スローガンに「米ソ核実験反対」、「憲法改悪阻止」、「大学管理制度改悪粉砕」、「闘う労働者党を創ろう」、「帝国主義打倒、ソ連官僚主義打倒」を掲げて選挙戦を戦う。結果は、大日本愛国党総裁・赤尾敏の12万票余に比しても大きく見劣りする約2万3千票余りで落選した。

【本多氏の履歴その3、黒寛派と対立、革共同全国委が分裂】

【「三全総」を廻る本多派と黒寛派の対立発生】
 1962.9月末、革共同第3回全国委員会総会(いわゆる「三全総」)で、同盟のボルシェビキ的強化・発展(地区党の建設)と、戦闘的労働運動の防衛と創造の路線を提起。革共同の革命党としての全面的飛躍をかけて、同盟内にはらまれていたサークル主義的体質の克服、革命的自己脱皮のたたかいを開始する。本多が起草した議案の「党建設方針」や「労働運動方針」(いわゆる「三全総」)をめぐって、黒寛との理論的対立が表面化する。書記長・本多派と議長・黒寛派の大論争に発展した。「革命的労働者党の現実の生きた階級闘争のなかでの創成と発展を主導」する。

 1962.10月末、「政治局内の本多フラクション」(本多、野島、陶山、北川、白井)が結成された。

【マル学同内部に深刻な対立発生】
 革共同全国委内の黒寛派と本多派の論争・抗争がマル学同内部にも波及し、四派連合問題を発生させた。マル学同内は、三派との統一戦線闘争を組んだことの是非をめぐって論争を激化させた。「東大銀杏並木6千名集会」は、ブント、社青同などのヘゲモニーで開かれ、マル学同はその呼びかけに応えるという形で参加したが、全学連委員長・根本仁は、四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた書記長小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義、ベッタリズム統一行動」と非難し、「反帝.反スターリニズム」の方針を貫徹し得なかったと総括した。後者は前者を「セクト主義」と非難し、引き続き四派連合の統一行動を続けるべきだとした。マル学同内部のこの対立は以降抜き差しならないところまで尾を引いていくことになった。 

 1963.1.12日、マル学同全学連第33回中執委開催されるが、深刻な対立を引き起こした。「統一行動の中で、他の分派、例えば社学同などを充分に批判できなかった」といった意見が出されて、内部の分裂が公然化した。

【「革共同の第三次分裂」発生】
 2.20日、革共同全国委政治局議長黒田寛一他3名の政治局員が、「最後の手紙」と呼ばれた党内闘争の宣言を発表し、事実上の組織分裂を引き起こした。黒寛派は、「日本革命的共産主義者同盟全国委員会革命的マルクス主義派」(革マル派)を結成し、機関紙「解放」を創刊し、反黒寛派は、「日本マルクス主義学生同盟中核派」(中核派)を結成し、機関紙「前進」を継承した。こうして、革共同全国委に分裂が発生し、中核派と革マル派が誕生することになった。これを革共同の第三次分裂と云う。

 この抗争は次のように決着することになる。革共同全国委の政治局内部では本多派が多数を占め、黒寛派についたのは後にJR東労組運動の指導者として台頭していく倉川篤(松崎明)と鈴木啓一(森茂)、根本仁(土門肇)らの少数であった。こうして黒寛派は、革共同全国委から出ていくことになり、新たに革共同・革命的マルクス主義派(革マル派)を結成することになった。これが革マル派の誕生である。

 マル学同の上部指導組織の革共同全国委で路線対立は当然のことながらマル学同内部にも対立を波及させていくことになった。しかし、マル学同では逆の現象が起き、革共同全国委では少数派だった黒寛派はマル学同ではむしろ圧倒的多数派であった。こうしてマル学同内部では革マル派が優勢を保ったため、本多派の方がマル学同全学連から追われ飛び出していくこととなった。「東京都内における学生活動家の数は、分裂当初、僅か18人になってしまった」と本多氏自身が語っている。本多派は以降新たにマル学同中核派を結成することになった。こうしてマル学同の学生組織も革マル派と中核派に分裂することとなった。この時期中核派は全学連学生運動内に「浮いた状態」になった。これより以後は、革マル派が正統全学連の旗を独占し続け、早稲田大学を拠点に革マル派全学連として存在を誇示し続けていくことに なる。

【「中核派と革マル派の対立の背景】
 この対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。古賀氏は、「戦後史の証言ブント」の中で次のように述べている。
 概要「革共同の中にも実践派と書斎-評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのことである」。

 他にも、大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。中核派は、大量に移入してきたブントの影響に拠ったものか元々のトップリーダー本多氏の気質として あったものか分からないが、他党派と共闘する中で競合的に指導性を獲得していこうとして運動の盛り揚げの相乗効果を重視しようとしていた。議会闘争にも取り組む姿勢を見せていた。黒寛の主体性論に基づく「他党派解体路線」は大衆蔑視のプチブル的主体性であり、「セクト主義、理論フェチ、日和見主義」 であるとも看做していた。

 これに対し、革マル派は、中核派は黒寛理論の生命線とも云うべき主体性論を欠いた「大衆追随主義、ズブズブ統一行動主義、過激主義」であると云う。例えば、こ の時期マル学同は他党派の集会に押し掛け攪乱する等の行動が見られたが、これは他党派は理論的に克服されるべき批判の対象であり、常に自派の質量的発展こそが正道であるとする「黒寛理論」的観点からなされているものであった。革マル派にとっては、「他党派解体路線」は理論の原則性として革命的主体理論と不即不離の関係にあり、曲げてはならない運動上の絶対基準原則であり、共闘による「水膨れ」は邪道でしかないと「我々は水ぶくれと寄せ集めによる『党建設』を絶対に拒否する」と理論化していた。

 運動論のこうした相違は当然組織論についても食い違いを見せることになる。情勢分析についても観点の相違が存在していた。中核派は革マル派に対して、「危機でないと論証力説して帝国主義と戦わないことが革命的であるかの如くに云う日和見主義」といい、革マル派は、中核派に対して、「主観主義的情勢分析、分析ならぬ信念に基づく危機感のあおり立て」と云う。

 も う一つの対立視点についても述べておく。両派とも綱領路線として「反帝・反スタ主義」を掲げるが、両派とも「反帝・反スタ」の比重について同時的に達成されねばならないとはするものの、幾分か中核派は帝国主義主要打撃論=反帝論より重視に近く、革マル派はスターリニスト主要打撃論=反スタより重視に近いという立場の違いがあったようである。この両派の対立の背景に、民青同系平民学連の進出に対する対応の仕方の違いも関係していたとの見方も ある。中核派の小野田らは、これに対処するには三派との協調が必要と主張 し、革マル派の根本らは、如何なる理由付けにせよ他党派との理論闘争を疎かにするような妥協を排し、断固思想闘争を展開することの必要性を強調した。

 党建設を廻っての意見の対立も深刻であった。立花隆・氏は、著書「中核対革マル」の中で次のように分析している。
 「革マル派は、『社会民主主義やスターリニズムかに真にイデオロギー的に組織的に脱却した革命的労働者のケルン(中核)作りが必要』と力説したのに対し、これに対し中核派は、『ケルン作りと云えば聞こえはいいが、要するに革マル派のやっていることは、サークル作り、喫茶店で革命をおしゃべりする人間を集めて、ネチャーエフ的陰謀主義的な組織を作れば革命が出来ると思っている』、『党が建設途上にあろうとも、その党が党として大衆の前で帝国主義に対して闘って行く必要性、党の為の闘いと同時に、党としての闘いを展開していくことを忘れている』と批判した」。
(私論.私見)
 これらの主張は、私には、どちらが正しいとかを決定することが不能な気質の違いのようなものではないかと思える。革共同とブントとの違いのカオス・ロゴス識別に従えば、 中核派はカオス派の立場に立っており、その意味では大量移入したブントの影響がもたらしたものとも考えられる。つまり、ブントが革共同全国委から中核派を引き連れて先祖帰りしたとみなすことが出来るかもしれない。実際に、中核派の以降の動きを見れば旧ブント的行動と理論を展開していくことになる。 鎌田氏はこれを「再生ブントという性格的側面を色濃く持っていた」と指摘している。

 立花隆は、「中核対革マル」文中で、「どこまで行っても、水掛け論である。双方の悪口、なかなかよく相手の特徴をついている。どちらが論理的に正しいかなどということは、決められない。それれを決めるのは、歴史だけである。何年か何十年か後に、どちらかの党派が革命をやり遂げることが出来たら、そちらが正しかったということになるのだし、どちらも出来なかったら、どちらも正しくなかったということになるのだろう」と述べているのが参考になる。

 こうなると党の建設方針から労働運動戦術から何から何まで対立していくことになるのも不思議ではない。してみれば、革マル派の方が革共同の正統の流れを引き継いでおり、この間のブントの移入と中核派としての分離の過程は肌触りの違う者が結局出ていったということになるようである。

【黒寛派が革マル派結成】
 1963.4.1日、革共同全国委の議長・黒寛(山本勝彦)、副議長・松崎明(倉川 篤)、森茂(鈴木啓一)、 山代冬樹(白井健一)、土門肇(根本仁)、西条武夫(木下宏)、朝倉文夫(池上洋司)、倉沢(小野田啓介)、杜学(藤原隆義)らが脱党して日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)を結成する(革共同第三次分裂)。「解放」を発刊する。

 本多派は中核派と称されるようになる。中核派に結集した主な人物は、本多延嘉、木下尊悟(野島三郎)、白井朗(山村克)、飯島善太郎(広田広)、小野田猛史(北川登)。第1次ブント系の清水丈夫(岡田新)、陶山健一(岸本健一)、田川和夫、北小路敏、小野田襄二、北川登ら。(白井、野島、北川、岸本は、それぞれ兄弟が革マル派幹部になった。姓が違うが革マルの山代、木下、倉沢、森茂らがそうであるとのこと)

【マル学同全学連が、革マル派全学連に純化する】

 4.1-2日、マル学同全学連第34回中執委が開かれ、統一行動を唱える6名の中執を罷免するという分裂劇が演じられた。統一行動を「野合」に過ぎぬと非難した根本派(→革マル派)と、それに反発して「セクト主義」だと非難を投げ返した小野田派(→中核派)に完全に分裂することになった。(乱闘の末、革マル派は中核派6名の中執罷免を決定した) 

 
7.5日、全学連20回大会で革マル派が主導権確立、根本仁(北海道学芸大)を委員長に選出した。革マル派は中核派130名の入場を実力阻止し、6中執の罷免を承認した。この時代議員の定員が満たされておらず、全学連の実質を喪失した事になった。以降革マル派全学連としてセクト化することになった。 


【分裂余話】
 この分裂によって数多くの悲劇が生まれた。横浜市立大生で中核派メンバー・奥浩平(21歳)が、革マル派活動家である早大生の恋人と組織の対立から引き裂かれることになり、1965.3月に自殺するという悲劇が発生した。死後刊行された奥の遺稿集「青春の墓標」はロングセラーとなり、二人の関係は「学生運動のロミオとジュリエット」と呼ばれた。

 また家族を引き裂いた例もある。革マル派の活動家・鈴木啓一は、弟で中核派の陶山健一と争うこととなった。1997.1.14日、陶山が京都市内の病院で死去すると、葬儀には中核派関係者が多数参列したが、鈴木は姿を現さなかったという。

 陶山健一の父親は名古屋商工会議所会頭を長年務めた。小学校の時、母方の実家に養子縁組された。左翼運動に走ったのは東大農学部入学後。卒業後は農林水産省に入ったが、懲戒免職処分となった。「岸本健一」の名で論文を機関紙に発表。また海老原事件の後、革マル派との調停に動いたとされている。

 「九・一三闘争において全都学生のまえで、いっきょにカクマルを粉砕。さらに六四年前半で圧倒的に全国的、全戦」とある。


【本多氏の履歴その4、中核派最高指導者時代前半】

【生田浩二の本多評】

 1964年、第1次ブントの島と並ぶ指導者の生田浩二が、東大大学院経済学研究所博士課程在籍のまま米国へ留学する。この時、「革共同は駄目だが、本多延嘉は凄い。知っておいた方がいいぞ」と言い残してアメリカへ留学したという挿話が小長井良浩の言として紹介されている。


 1964年、原子力潜水艦横須賀寄港阻止闘争。


 1964年秋、五全総の討論を主導。ベトナム・日韓を中軸に世界革命における民族・植民地問題の意義を鋭く提起し、革共同のベトナム・日韓闘争における指導的役割を確定する端緒をきりひらく、とある。


 1965年、ベトナム反戦、日韓闘争(日韓条約締結反対闘争)を指導する。


 1965.7月、北小路敏が、都議会「黒い霧」解散に際し、杉並から都政刷新運動を起こし都議会議員選挙に初挑戦する。


 1965.8月、反戦青年委員会結成。


 1966年夏、革共同第3回全国大会の草案を執筆。反帝国主義・反スターリン主義世界革命戦略を全面的に確立し、安保粉砕・日本帝国主義打倒の基本路線をうちだす。「戦後世界体制の根底的動揺と日帝の体制的危機」の世界史的認識を提起し、それにふさわしい同盟の戦闘体制の構築=同盟の決定的飛躍に、いっそう精力的に活動。十・八羽田からこんにちの同盟の基盤をきずく、とある。


 1966.8月、革共同第3回大会。


 1966年頃から激しさを増していったベトナム戦争に対して世界的な反戦運動が高まり、60年安保闘争以来低迷していた学生運動が昂揚し始める。本多の指導する中核派が戦闘左翼として頭角を現していく。


 1967年頃までは「我々こそが黒田哲学の真の継承者」と自称していた。これにより共に「反帝反スターリン主義」を基本スローガンとして掲げることになったが、革マル派の反スタ傾向に対して反帝傾向にシフトすると云う違いが認められる。これによると、ソ連、中共、北朝鮮、キューバなどの「現存社会主義国家」はスターリン主義官僚国家国家であり、「帝国主義と同等の打倒の対象」となる。日共も「革命を裏切ったスターリン主義政党であり国家権力と並ぶ打倒対象」としている。「唯一反スターリン主義の党が存在する日本の革命運動こそ世界で最も先進的である」という認識から、「まず日本革命を起こしてから、その権威で世界党を形成して世界革命へと広げる」という方針を掲げる。


 1967年、北小路敏が革共同政治局員になる。


 1967.4月、北小路敏が都議会議員補欠選挙で4万を超える票(共産党候補の倍)を得票。このとき区議に初当選した長谷川英憲氏とともに杉並革新連盟を結成し、社・共に代わる新たな政治潮流をつくりだす闘いを開始する。


【「激動の7ヶ月」牽引】
 1967.10.8日、アメリカのベトナム戦争政策を一貫して支持していた佐藤首相の南ベトナム訪問阻止羽田闘争を、三派全学連(中核派、ブント、社青同解放派)及び反戦青年委員会が初めてヘルメットと角材で武装して警察機動隊の阻止線を突破する。これ以降、「ベトナム反戦-日本の参戦国化阻止」を掲げて激しい街頭闘争を繰り広げることになる。この頃より、中核派は70年安保の前哨戦と位置づけ「激動の7ヶ月」と呼号して全力突入し、三派系全学連の主導権を握りつつ「佐藤訪ベトナム阻止第一次羽田闘争(67・10)」「第二次羽田闘争(67・11)」「三里塚新空港粉砕闘争(67・11~)」「佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争(68・1~)」「王子野戦病院設置阻止闘争(68・2~)の”激動の7か月”と呼ばれる4つの闘争を闘っていく。この期間、中核派が動員力、戦闘性において群を抜く存在となる。

 1968.1月、米原子力空母エンタープライズ佐世保寄港阻止闘争。


 1968.10.21日、米軍タンク車輸送阻止の新宿闘争(騒乱罪適用)。


 同時期、東大、日大をはじめ日本全国の大学で紛争が始まり、全学ストライキとバリケード封鎖の嵐が巻き起こった。全学共闘会議がこれを主導し、全共闘運動とも呼称される。中核派も含む新左翼諸党派は、この学生反乱を70年安保闘争と一体のものとして参画していく。全学共闘会議を主導し、「全国全共闘運動」の結成に尽力する。


【東大安田砦決戦】

 1969.1.18-19日、東大安田砦決戦が敢行される。中核派は法研棟を死守。革マル派は機動隊導入の直前に「敵前逃亡」し完全に孤立する。以降、「暴力的党派闘争による他党派解体と勢力拡大」を目指し始め、新左翼党派の最大勢力である中核派と解放派に向けられた。中核派、解放派、革マル派の三つ巴の党派戦争が始まる。


 1969.2月、北小路敏が杉並公会堂で野坂昭如氏、小田実氏とともに講演する。


 4.27日、本多延嘉が破壊活動防止法第40条違反(予備・陰謀)で逮捕される。71.3月末まで2年間未決勾留。獄中よりたえず同志を鼓舞。また獄中にて厳しい読書、研究プランを自らに課す。


 4.28日、沖縄闘争(破壊活動防止法適用)。銀座で市街戦。


 6月、北小路敏が杉並公会堂で大島渚氏、荒畑寒村氏とともに講演する。


 6月、都議会選挙。北小路敏が三度目の出馬するも落選する。北小路敏が、著書「歴史選択としての七〇年闘争」(自由国民社)を出版する。


 6.8日、アスパック粉砕闘争。中核派学生の乗っていた電車車両が切り離され全員逮捕される。


 8.17-18日、広島大学闘争。


 9.20-22日、京大時計台闘争。


 10-11月、「第1の11月決戦」――「沖縄奪還、安保粉砕・日帝打倒」「日帝のアジア侵略を内乱に転化せよ」のスローガンのもとにも学生とともに労働者が武装闘争に決起した。10.21日、国際反戦デー。新宿で市街戦。1600名が逮捕される(半数は労働者)。11.16-17日、佐藤訪米阻止闘争。蒲田で市街戦。2500名が逮捕される(半数は労働者)。16日、中核派主力は午後3時30分、東京駅に約200名の部隊を結集、途中品川駅で200の部隊と合流して400の部隊で午後4時20分に京浜東北線蒲田駅東口に到着。機動隊との戦闘状態に入り、火炎瓶と催涙弾が応酬するが、20分で壊滅させられた。あとは電車が到着するたび200、100の小部隊が投入されるが次々に粉砕されてしまう。


 この頃、革マル派との武装抗争が相次ぐ。


 1970.4.28日、全国全共闘と全国反戦、6月行動委が共催の4・28闘争。デモ解散地に革マル派1000名が突入しようとするのに対し入場を阻止する。


【70年安保闘争不発】
 1970.6月、70年安保闘争。武装をひかえた肉弾デモで闘うが平穏に終わる。

 1970.6月、北小路敏が60年安保闘争10周年集会(日比谷野外音楽堂)で記念講演する。


【華青闘告発と中核派の自己批判】
 1969.3月、華僑青年闘争委員会(華青闘)が結成され、日本政府が従来の出入国管理令に替わる新たな出入国管理法の制定の動きに対して、出入国管理法制定阻止運動の中心組織として活動した。他の新左翼党派もこの運動に共闘した。

 1970.7.7日、開催予定の「7・7盧溝橋33周年・日帝のアジア再侵略阻止人民大集会」の実行委員会事務局の人選を巡って華青闘と中核派が対立した。中核派は当初実行委員会事務局を構成していたベ平連など3団体を除外し、代わって全国全共闘(全共闘の全国組織)と全国反戦連絡会議(反戦青年委員会の全国組織)を入れるよう要求した。華青闘はこの両団体が入管法反対運動について具体的な活動をしていないことを理由に拒否したが、中核派は実行委員会において、この提案を承認させた。

 華青闘は当事者無視の中核派の行動に反発し、7.7日の集会当日に新左翼各派に対して訣別宣言を出した。この宣言を別名「華青闘告発」とも云う。「当事者の意向を無視し、自らの反体制運動の草刈場としてきた新左翼もまたアジア人民に対する抑圧者である」という痛烈な批判であった。華青闘はこの日をもって解散した。新左翼各派はこれに強い衝撃を受けて次々と自己批判を声明するに至り、マイノリティとの連携を模索するようになった。中核派は、闘う中国人青年からの糾弾を受けとめ自己批判して、「連帯戦略」を形成・深化させていった。これを「プロレタリア国際主義の7・7自己批判路線」。以降、中核派はありとあらゆる反権力的な大衆闘争にコミットしていく。

 7.7日、東京・日比谷野外音楽堂で全国全共闘主催の盧溝橋33周年・日帝のアジア侵略阻止人民集会を開催、4千名(うちべ平連550名)結集。席上、華青闘が、69年入管体制粉砕闘争と65年日韓闘争を通じて、日本階級闘争のなかに被抑圧民族問題を組み込むことを定着させなかったとして新左翼を批判した。中核派がこれを真剣に受け止めることになる。華青闘の新左翼批判の内容は次の通り。猛獣文士氏により「七・七集会における華青闘代表の発言」がサイトアップされており、これを転載しておく。 

七・七集会における華青闘代表の発言
中核派機関紙「前進」1970年7月13日3面)

 七・七人民大集会において華僑青年闘争委員会の代表が行った発言の要旨を次に掲載する。これはメモから再生したものなので不正確であることを免れないが、文責はすべて編集局にある。

 本日の集会に参加された抑圧民族としての日本の諸君!

 本日芦溝橋三十三周年にあたって、在日朝鮮人・中国人の闘いが日本の階級闘争を告発しているということを確認しなければならない。芦溝橋三十三周年の問題と、在日朝鮮人・中国人の問題とは密接不可分であり、日本人民はそれを知るべきである。諸君は日帝のもとで抑圧民族として告発されていることを自覚しなければならない。

 今日まで植民地戦争に関しては帝国主義の経済的膨張の問題としてのみ分析されがちであったが、しかし日本の侵略戦争を許したものは抑圧民族の排外イデオロギーそのものであった。

 今日、日・朝・中人民が分離されたかたちでマルクス主義が語られており、日本国家権力と日本人民、日本国家権力と中国人民、日本国家権力と朝鮮人民という形での分離が存在し、そういう形で植民地体制が築かれてきたが、それは分離したものではない。日本人民は三者の中でどうするのか。抑圧民族という自己の立場を自覚しそこから脱出しようとするのかそれとも無自覚のまま進むのか。立場は二つの分かれている。

 なぜわれわれは、本日の集会に向けての七・七実行委を退場しなければならなかったのか。闘う部分といわれた日本の新左翼の中にも、明確に排外主義に抗するというイデオロギーが構築されていない。日帝が敗北したとき、ポツダム宣言を天皇制が受けたかたちになり、日本人民がそれを避けられなかったところに、日本人民の排外主義への抵抗思想が築かれなかった原因がある。

 七・七集会を日本の新左翼が担うことは評価するが、それをもって入管体制粉砕闘争を怠ってきたことを免罪することはできない。七月三日の実行委員会に集中的にあらわれたように、七・七集会を全国反戦・全国全共闘の共催に使用とする八派のすべてが、入管闘争の一貫した取りくみを放棄しており六九年入管闘争を党派として総括することができなかった。また各派は、なぜ六五年日韓闘争において、法的地位協定の問題を直視しなかったのか。六九年入管闘争を闘っていたときも入管法を廃棄すればプロレタリア国際主義は実現することになるといった誤った評価が渦巻いていた。しかもそれは大学立法闘争にすりかえられ、十一月闘争の中で霧散し消滅し、今年一月、華青闘の呼びかけによってようやく再編されていったのだ。

 このように、勝手気ままに連帯を言っても、われわれは信用できない。日本階級闘争のなかに、ついに被抑圧民族の問題は定着しなかったのだ。日韓闘争の敗北のなかに根底的なものがあった。日本階級闘争を担っているという部分にあっても裏切りがあった。日共六全協にあらわれた悪しき政治的利用主義の体質を、われわれは六九年入管闘争のなかに見てしまったのである。今日の日共が排外主義に陥ってしまったのは必然である。

 われわれは、このかん三・五の「三・一朝鮮万才革命五十一周年入管法阻止決起集会」と四・一九の「南朝鮮革命十周年、全軍労闘争連帯、安保粉砕、沖縄闘争勝利、労学窓決起集会」で声明を出し、その内容を諸君らが受けとめ自らの課題として闘っていくことを要求した。四・一九革命に無知でありながら国際闘争を語るようなことでどうするのだ。

 われわれは戦前、戦後、日本人民が権力に屈服したあと、我々を残酷に抑圧してきたことを指摘したい。われわれは、言葉においては、もはや諸君らを信用できない。実践がされていないではないか。実践がないかぎり、連帯といってもたわごとでしかない。抑圧人民としての立場を徹底的に検討してほしい。

 われわれはさらに自らの立場で闘いぬくだろう。このことを宣言して、あるいは訣別宣言としたい。

 松下知・氏の 「同志横井勝を追悼する」(かけはし2001.3.26号)の該当箇所を確認しておく。
 「韓国では朴大統領三選反対闘争が激しく闘われていた。日本政府は出入国管理体制を強化する動きを示していた。いち早く入管体制粉砕の闘いを呼びかけ、東京入管闘を組織した。横井は東京入管闘の代表を務めた。革マル派を除く新左翼八派共闘に、この東京入管闘と全国反戦そして後に全国反軍が加わり、急進主義運動を牽引していった。

 一九七〇年の蘆構橋事件の記念日七月七日、華僑青年闘争委員会とともに、集会を組織しようとする会議の席上で中核派・山森の華青闘への差別発言があり(いわゆる「7・7」問題)、鋭く日本人側の資質が問われた。中核派は自己批判し、アジア人への「血債」を強調し、抑圧民族の自己否定へと転換した。第四インターは被抑圧民族の無条件防衛、統一朝鮮革命・アジア革命を強調した。

 華青闘の告発を受けて、横井はねばり強く何度も会議を続け、華青闘の告発の意味を全体のものとし、一国主義的新左翼党派を変えてアジア人民とともに進もうと努力した。新左翼諸党派での内ゲバが日常的になりつつあった時、もし横井の努力がなかったら、分裂・内ゲバになった可能性は否定できない。その後、沖縄復帰闘争の評価をめぐり、インター・中核派ブロックと返還粉砕派の解放派・ブントなどに分裂していった。明治公園での中核派と解放派の大衆的な内ゲバなどもあり、東京入管闘は機能停止していった」。

【本多氏の履歴その5、中核派最高指導者時代後半】

【革マル派の海老原君リンチテロ虐殺事件発生】

 8.4日、革マル派の東京教育大学(現・筑波大学)の学生だった海老原俊夫を法政大学構内に連れ込みリンチテロ致死させるという事件が発生する。革マル派は怒りを爆発させ報復を宣言。革マル派の凄まじい報復が始まる。中核派、解放派と革マル派の「内ゲバ」は殺人を目的化した「殺し合い」へとエスカレートしていくことになる。これの詳細は「党派間ゲバルトの経過と実態考」に記す。


 8.14日、革マル派が、法政大に侵入襲撃し、中核派学生を捕捉、十数人に陰湿なテロ。その時のテロが陰湿酸鼻なものであった。「海老原事件」以後、中核派拠点大学に対して革マル派の報復が全国大学で激化し、この中でいわゆる集団戦が大学構内や街頭・駅構内で展開され、中核派は、拠点大学から次々に撤退していった。


 1970年、「戦争と革命の基本問題」の骨格を執筆、内乱・内戦――蜂起の路線の確立を指導する。


 1971年、中核派は、69年のダメージのため70年は武装実力を控えていたのに比して71年に入りふたたび激しい街頭闘争を展開する。現段階は69年11月決戦で質的に一歩高めた階級闘争を、さらにもう一歩すすめるための「死闘的調整期」であるとした。


 2月 三里塚闘争に取り組み、三里塚第一次土地強制収用阻止闘争。3週間、激しい闘争が繰り広げられた。3月、7月、9月の行政代執行(強制代執行)において、他の新左翼党派と共に組織を挙げて現地闘争を牽引する。


 3月、破壊活動防止法違反で逮捕され、2年近く拘留されていた本多延嘉が釈放され復帰する。71年秋の「第二の十一月」を指導。非合法下における党の指導体制の確立に尽力。


 6.15-17日、沖縄返還協定阻止闘争。17日、59年並の武闘が復活。明治公園に中核派を中心とする2万人のデモ隊が結集、公園周辺にバリケードを築き1時間にわたって解放区を現出、爆弾が機動隊に投じられ、肉弾戦。逮捕者732名。


 7月、三里塚農民放送塔死守闘争。ダイナマイトが使用される。


 8.4日、革共同大政治集会ー秋期大決戦突入の号令。大衆によるコザ暴動、三里塚での農民の闘い、ノンセクトの爆弾闘争の頻発。これらの事件に中核派は影響を受け、「全人民的規模での10・8を!」と呼びかける。


 9月、「三里塚決戦」第二次土地強制収用阻止闘争。中核派は数千人の部隊を投入、あちこちで機動隊を文字通り撃退した。


 10.20日、横国大で革マル派の美術学校生・水山を殺害。


 10.21日、10.21国際反戦デーでゲリラ戦号令。「渋谷大暴動を」と扇動して取り組む。新橋、有楽町で解放区型闘争。210名逮捕。


 10.23日、首都圏の中核派拠点大学に革マル派がテロ攻撃。


 「1971年秋の第二の十一月」を指導、非合法下における党の指導体制の確立に尽力する。


  11.14日、沖縄返還批准阻止を掲げて渋谷で機動隊と衝突(渋谷闘争)、中核派活動家・大坂正明が21歳の警察官に火炎瓶を投げ付け殺害(渋谷暴動事件)する。


 11.19日、日比谷暴動闘争を取り組む。松本楼が放火され、警備員が殺害される。


 11月、「沖縄返還協定」批准阻止の「第2の11月決戦」をうちぬく(再度の破防法適用)。11.14日、渋谷闘争(機動隊員一名を殺害)、11.19日、日比谷暴動闘争に取り組む。星野文昭氏が逮捕され、星野氏は獄中闘争に入る。2010年現在36年。


 12.4日、11月決戦直後、革マル派の関西大学武装襲撃を受け、中核派副委員長の辻敏明(京大、22歳)、正田三郎(同志社大、23歳)の2名が虐殺された。これを「12.4反革命」と位置づけ、「12.4反革命」との闘いの先頭に立つ。


 12.15日、革マル派により中核派三重県委員長・武藤一郎が三重市でビラ配り中に襲撃、虐殺される。この時、カクマル派は、病院の医者のコメントを引いて「これは持病の結核と風邪により、急性肺炎を起こして死んだ」と声明。その他、この時期に中核派の三人の政治局員が革マル派のテロにあう。この間、中核派は為す術を持たない風であった。中核派はこの頃から革マル派をカクマルと呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出している「K=K連合」と批判し始めた。こうして、両派の後に引くに引けないテロ戦が開始されていくことになった。


 1972年、二重対峙・対カクマル戦争を内乱・内戦――蜂起のたたかいの端緒として積極的に位置づけ、戦略的防御の戦いのなかで全党の戦争体制、指導原則を強固に確立する。


 1972.6月、北小路敏が5・15「返還」直後の沖縄で初めて開かれた革共同政治集会(那覇市民会館)で基調報告。 


 夏、「レーニン主義の継承か、レーニン主義の解体か」を執筆。黒田=カクマルのレーニン主義を小ブル自由主義に反革命的に解体するペテン的論理を完膚なきまでに批判することをとおして、レーニン主義の全面的復権、世界史的激動の七〇年代にふさわしい創造的発展の基礎を確立する。


 1973.3月、対革マル戦争の路線対立で政治局員・田川和夫が除名される。


 1973年、革命的報復戦への突入を決断。「九・二一」の実現へ、政治的=組織的=軍事的指導を全一的に貫徹する。


 9月、部落問題をめぐる意見の対立から沢山保太郎が除名される。


 9.21日、「戦略的対峙段階」に突入し革命的報復戦を開始する。


 12月、北小路敏が国家権力の破防法弾圧と一体となったファシスト・カクマルの白色襲撃に対し、革共同集会で基調報告を行い断固たる戦闘宣言。


 1974.1.14日、中核派の指導者本多氏ら破防法被告団が、主任弁護人井上正治氏らと打合せ会を開いている席上、革マル派が襲撃し、本多、藤原慶久東京地区反戦世話人、青木忠元全学連書記長、松尾真全学連委員長等々がテロられ9名重体。


 1974.2.6日、琉球大学構内で、一般学生・比嘉照邦さんを「革マル派メンバー」と誤認して殺害する(琉球大学内ゲバ誤認殺人事件)。


 1974.2月、北小路敏がカクマルの襲撃を受け、重傷を負う。


 8.3日、戦略的総反攻段階に突入。以降、たぐいまれな精神力と体力とをもって全同盟の指導にあたり、勝利への道を驀進する。


 1975.3.6日、革マル派の機関紙「解放」発行責任者・堀内利昭(難波力)を東京都渋谷区日通航空新宿営業所内で鉄パイプで襲撃し殺害する。


【本多氏の履歴その6、革マル派により虐殺される】

 1975.3.14日未明、書記長・本多延嘉が埼玉県川口市戸塚の自宅マンションで就寝中、革マル派に殺害される(享年41歳)(中核派書記長内ゲバ殺人事件別章【本多延嘉著作選遺族は夫人・恵子さん、長男・力(ちから)君。

 「本多延嘉書記長の略歴」は次の評で結んでいる。

 「豊かな人間的感性にささえられたまれにみる理論家であり実践家であり、葬れてなおやむことのない不世出の革命の首領である本多書記長。われわれは、勝利をこの手ににぎりしめる日まで、本多書記長を先頭にたたかうであろう」。

 革マル派は、「解放」(3.24日付)で次のように宣言、犯行を認めた。

 「わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目、書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした」、「我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめ」、「殺害を目的としたものではなかった。わが戦士の燃えたぎる怒りが激しくて、結果として死亡ということになった」。

 「東京アウトローズWEB速報版は、2007.12.31日付の「【取材メモ】本多延嘉・中核派書記長「暗殺事件」」の中で次のように記している。

 「〝事件取材〟を長くやっていると、まったく別件の思い掛けない話が飛び込んでくる。都内でも有名な地上げ物件の取材をするため、関係者に会っていた際のことだ。この人は地上げについては肝心なことは何も言わなかったが、何故か急に、俺は学生の頃、中核派だったんだ、と話し始めた。71年11月の『渋谷暴動』(沖縄返還協定批准阻止闘争)で逮捕されたこともあったようだ。この時は、機動隊に攻撃を仕掛ける部隊に配属されたという。『たまたま、俺は寝過ごして、〝早朝召集〟に遅れてしまったことがある。これは後から知ったことだが、革マルがその時、死んでいる。地下に潜っていた当時の仲間と30年ぶりに最近会ったよ』。

 周知のように、中核派と革マル派は長期にわたる『内ゲバ』を繰り広げ、その死傷者は1000人に及ぶとされている(現在、両派は公式に表明していないが、実質上、内ゲバを停止した模様)。そうした内ゲバの中でも、『暗殺』と位置付けられているのが、75年3月14日に埼玉県川口市でおきた中核派・本多延嘉書記長に対するテロである。『犯行声明』を出した革マル派が、最初から本多書記長の殺人を目的としていたことは明らかで、このテロは革マル派が組織の総力をあげて実行したものであるとされる。

 『革マルは警察を装って本多さんが交通事故にあった、と夫人に電話した。当然、夫人は防衛上の観点から前進社(中核派の公然拠点)などに事実確認の電話をしている。ところが、夫人の電話はすべて革マルのアジトに繋がるように工作してあったのだ。本多さんの身の回りの物を持って出掛けた夫人を、革マルの別動隊が数時間にわたって追尾した結果、本多さんのアジトがわれてしまった』(前同)。この時、本多書記長の所在を知らされていたのは、夫人と極く限られた中核派最高幹部だけだったという
」。
(私論.私見)
 この話が何処まで本当か分かりはしない。真相が明らかになる日を待つしかなかろう。

【本多虐殺テロに関する立花隆証言】
 「月刊現代2009.1月号(最終号)」で、立花隆が「田中金脈追及『引越し』の顛末」の中で次のように記している。貴重と思われるので関係のくだりを引用しておく。
 「『現代』との仕事で、記憶に鮮明に残っている仕事としては、前記の『中核・革マル』がある。両派が展開した殺し合い戦争の記録は、両派の機関紙誌、パンフレットのたぐいを克明に読み込むところからはじめたが、最後に両派の指導者を直接インタビューした。そのときインタビューした中核派の本多延嘉書記長が、しばらくして、潜伏先の埼玉県下で革マル派のテロ部隊に惨殺されたとの報道を新聞で読んだときは、言葉を失うくらい驚いた。

 なぜその潜伏先が革マル派につかまれたのか。中核派の内部点検で、可能性の有る経路が逐一調べられた。そのときのインタビュー経緯も調べられ、担当編集者は相当厳しい追及を受けたと聞く。あのインタビューの日、東京郊外の街道筋で、中核派の防衛隊員に車で拾われ、それから延々と車で走りながら、何度も尾行の可能性を確認しつつ、埼玉県の奥へ奥へと入っていった。最後にたどりついたある田舎町の外れにある日本料理店の奥座敷に入ると、しばらくしてから本多書記長が防衛隊とともに入ってきた。数時間の取材をした後、我々はまた防衛隊の車に乗せられ、また延々と走ったあと、東京郊外の駅で降ろされた。途中、防衛隊は再び尾行の可能性を何度もチェックしていた」。
(私論.私見) 立花隆の中核派書記長・本多氏虐殺事件証言に対するれんだいこの重大推理考
 これを仮に「中核派書記長本多テロ事件に関する立花証言(略称「立花証言」)」と命名する。「立花証言」は貴重なことを伝えている。即ち、流布されている「夫人の電話盗聴によるアジト突き止め説」にも拘わらず、「担当編集者が相当厳しい追及を受けた」ことを明らかにしている。ということは、中核派は「夫人の電話盗聴によるアジト突き止め説」を納得していないことを窺わせよう。

 そういうセンテンスで「立花証言」を読むと、文中の「しばらくして」が気になる。インタビュー後の同日なのか数日後なのかはっきりしないが、「インタビュー後の同日」のようにも受け取れる。仮に同日的に理解すると、「立花インタビューのその日」に本多氏がテロられたことになる。しかし、防衛隊員は綿密周到な尾行チェックをしているからして、この線から追跡されたとは考えにくい。とすると、当時では知られていなかった発信機が付着されるなりしたことが考えられる。こうなると、防衛隊がいくら厳重に尾行対策していたとしてもお手上げであり、念入りな尾行証言は立花に暗にからかわれていることになる。「担当編集者が相当厳しい追及を受けた」について云えば、「立花インタビュー」に立ち会ったのが担当編集者と立花の二名だったのか他にも居たのか判明しない。いずれにせよ、れんだいこ式発信機付着説に従えば、「立花インタビューのお膳立てそのもの」が臭い話になろう。推定の話でしかないが疑念は消えない。

 「立花証言」の「しばらくして」を普通に読めば「インタビューの数日後」と理解すべきだろう。そうすると、上述の推測は成り立たない。が、れんだいこがなぜこういうことを問題するかと云うと「立花の胡散臭さ」を思う故である。この御仁には何かと「裏」が付き纏っている気がしてならない。典型的にはロッキード事件での立ち回りがそうだが極めて政治主義的な動きをしている。その他宮顕リンチ事件における機密資料の入手も然りで、「特別待遇」の臭いがしてならない。「立花のトップシークレットとの繋がり」が透けて見えてくることになる。以上、補足しておくことにする。 

 2009.1.4日、2014.10.05日再編集 れんだいこ拝

【本多書記長虐殺時の党内雰囲気考】
 本多書記長と3・14について」転載。
 75年3・14

 (***しかし、やはり党の指導者であったH書記長の死は大きかったと思う。□◯派のテロで暗殺されたのであるが、そのニュースを聞いたのは党本部の書記局の部屋であった。それはもうかつて味わったことのないようなショックを受けた。党本部は3階建てのビルであったけれど、建物全体が静まり返って重苦しい雰囲気に包まれたようだった。歯をくいしばって眼に涙をうかべる者もいた。

本多さんの人物像

 H氏はみんなから親しまれ尊敬されていたのだ。H氏はその当時の他派やガクセイ運動の指導者と比べてもけたちがいの人物であったと思う。彼の人物感を表する多くのエピソードがある。例えば、サンリズカ闘争の初期の頃、彼は農民の指導者の家を訪ねた時、神棚に手を合わせたという。彼にとっては唯物論者としての立場などよりも、農村の慣習をふまえ人間と人間の信頼関係を得ることこそが大事であったのであろうか。こんなことをさらっとできる人はその当時ほとんどいなかったと思う。また、彼は、機関紙やビラなどでは難解な言葉使いをことさら批判し平易な文章を心掛けろと口をすっぱくして言っていた。ほかのサヨクと言えば難解な言葉を書き連ねてそれが知的であるかのような時代にである。

 70年闘争で組織破防法が発動されいよいよ危ないかという時でも党の主要な政治局メンバーがさっさと地下に移動したのにほんとは一番危ない彼が最後まで残った。また党が彼に最強の防衛隊をつけようとした時拒否されたとも聞いた。遠く離れて防衛上も安全なところから指導すべきだという意見にもがんとして拒否されたとも聞いた。そのあたりも敵の情報網にひっかかる原因があったのかもしれない。なにか当時”義理と人情の**派”と一部で言われていたけれど、これはH氏の人柄に大いに関係していたにちがいない。つくづく惜しい人をなくしたと思った。もちろん残ったS氏などもりっぱな指導者ではあるけれど、やはりH氏あってのことではないだろうか。やはりH氏ならばついていこうという面はあったと思う。いわば例えは悪いがH氏は「仁侠」にも通ずるものがあった。

   【注】S氏、清水丈夫政治局員。後の「議長」


 「神棚に手を合わせた云々」は60年代当時としてはさほど意外では無い気もするが、実態はどうだったろう? 筆者との世代・年代の差、70年以降の時代の空気の差、みたいなものも感じるが?
 「決戦主義」と本多さんの持論

 **派は当時「決戦主義」などと揶揄されたものだが、しかしそんな他派の低レベルの批判などおかど違いであり、それこそはH氏の思想そのものであった。「革命党は負けがわかっていても(たとえ局面における戦術的勝利がほど遠い場合であっても)戦わなければならない時がある」というのがH氏の持論である。奴隷根性に堕ち、敗北主義にそまるよりも階級と人民に希望を与えるために党と活動家は犠牲になって戦え、ということであった。だからこそすべての党員がどんな時であろうと「H氏なら必ずやる」という確信をもっていた。敗北主義におちいることなど一度もなかった。どんな苦しい時でも楽観主義であった。「やる時はやるんだ」という気概をすべての党員が持っていたのだ。彼についていけばまちがいないという心情すらおれにもあった。

 「等価報復」「完全せん滅」

 だからこそ彼が亡くなった時の悲しみは例えようもなかった。党内も激高していた。党内でも最左派でならしていたB戦闘同志会などは「□◯派本部とD労会館に突入しよう!」とか叫んでいた。H氏がテロに遇ってから1週間後、6人の□◯派戦闘員がアジトで完全××されている。党のすべての人間がそれを長いこと(たった1週間であったのに)待ち望んでいた。みんながようやく半分くらい溜飲をさげたような気がしたと思う。それは史上に残るもっとも激烈な戦闘であったようだ。新聞各紙のトップをかざり、社会面は半分以上をさいて報道していたと思う。その後の「自民党本部火炎放射焼き討ち事件」に匹敵する扱いであった。周囲の電話何万回線も切断し、敵のアジトの鉄のドアをガソリンカッターで切断し、中のバリケードを打ち壊して突入し、一方の隊は隣の部屋からスレートを巨大なハンマーでたたき壊して突入したらしい。××された6人はH氏が受けたのと同じ打撃を全員が強制されたという。部隊は全員真っ赤な返り血をあびたらしい。 
 この当時から「等価報復」という言葉が使用されている。(H氏の暗殺者の凶器はまさかりであったらしい。それに対して1mもあるバールで報復したらしい。その後の政治集会で60年アンポゼンガクレンイインチョウで有名なK氏は「ファシストの脳天にバールを!」とアジっていた。)その事件の報道を聞いてすべての党員が手に手をとりあって「やった、ついにやった!」と叫んでいた。それからその後の1年近くはまさしく嵐のようなテロ合戦であった。銃火器だけは使わなかったけれど、何百人もの死傷者を出した戦争以外のなにものでもなかった。
 あえて言いたい。革マルは「左翼」ではない。「内ゲバ」ではない

 戦争以外のなにものでもない多くの戦闘行動に俺も数多く臨戦している。歴史的事実を風化させないために俺はあえていまだ生々しい記憶を掘り起こしている。ひとつことわっておくが□◯派はもはや決してサ翼ではない。敵対党派や文化人らににわとりの生首や猫の死体を宅急便で送ったりするのはサ翼ではない。敵対的な労組の幹部らを尾行し電話を盗聴しプライベートな醜聞をさがしまくりそれをネタに恫喝するのはサ翼ではない。他派をつぶすためにのみ軍事組織をつくり、他派の戦闘はすべて「権力の謀略」であるなどとうそでぬりかためるのもまたけっしてサ翼のやることではない。他派をウジ虫とか青虫とか公然と機関紙で言ってるのもまた□◯派の本質を表している。したがってこの戦争をひとくるめに「内ゲバ」と称するのは決して正しくない。サ翼の仮面を被った、史上もっとも暴力的な新興宗教団体と言った方がいいかもしれない。事実、党首の「くろカン」としょうする人物は彼等の集会では録音テープで登場する!彼等は総立ちになって拍手するらしい。


 これより以降は、「党史2、本多虐殺以降」で確認する。





(私論.私見)