第9期その2 1971 「70年安保闘争」後の流動

 更新日/2024(平成31.5.1栄和改元/栄和6)年.1.26日

 これより前は、「第9期その1、70年安保闘争とその後」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「70年安保闘争後の流動」について記す。



【1971年の動き】 「戦後史71年当時」

 1.25日、赤軍派・日共左派共同政治集会(東京・千代田公会堂)”蜂起-戦争勝利”を確認。


 1.31日、三里塚強制収用阻止、友納糾弾集会に2千名結集(千本町公園)。


【「建国記念日」集会】
 2.11日、「建国記念日」のこの日、全国各地で「奉祝」「反対」両派の集会や行事がさまざまに行われた。反対派の紀元節粉砕闘の「紀元節粉砕、労学市民中央総決起集会」が日比谷野外音楽堂で開催され2000名参加。「侵略を賛美する靖国法案粉砕」、「三里塚闘争勝利」、「入管法粉砕」などさまざまなプラカードが並んだが、そのなかで中核派の「天皇制イデオロギー打倒」のスローガンが学生運動の中で初めて登場した。
 ブント戦旗派と叛旗派約180名が日比谷公園内の図書館前付近で竹ざおでなぐりあう内ゲバを演じた。両派とも一団となって低い姿勢で竹ざおをハリネズミのようにした陣形で激突。しばし竹ざおのバチバチという打ち込む音がしていたが、M氏ら数人が一斉に掛け声を上げながら脇から叛旗派を攻撃。それをきっかけに叛旗派はズルズルと後退し総崩れとなった」ことで戦旗派が叛旗派を公園から追い出す。ブント内の内ゲバはその後も続き、明大内でも戦旗派(和泉・本校)と情況派(生田)、神田地区でも明大の戦旗派と専大の「さらぎ派」との間で抗争が行われた。

【京浜安保共闘が、栃木県真岡市の銃砲店を襲い銃と銃弾を強奪】
 2.17日、京浜安保共闘が、栃木県真岡市の銃砲店を襲い銃と銃弾を強奪した。この銃が後に連合赤軍の軽井沢あさま山荘銃撃戦に使われることになる。赤軍派もМ作戦を展開し7月にかけて8件の郵便局、銀行などへの資金奪取作戦を敢行した。

【千葉県・公団が三里塚第一次土地収用強制代執行】
 2.22日、千葉県・公団が、三里塚第一次土地収用強制代執行。この日、三里塚農民は、決死隊が立木に自らの体を鎖で縛り付けて抵抗した。実に、三週間にわたって機動隊との闘いが続けられた。逮捕者は400名を越し、負傷者も重傷者41名を含む千名に及んだ。

 2.22日、赤軍派、資金徴発闘争、千葉辰巳郵便局襲撃。


 2.27日、赤軍派、資金徴発闘争、千葉高師郵便局襲撃。


 2.28日、赤軍派の重信房子がレバノンへ出国。京大全共闘の奥平剛士と結婚入籍し、奥平房子名のパスポートで出発した。


 3.4日、赤軍派、資金徴発闘争、千葉夏見郵便局襲撃。


 3.9日、赤軍派、資金徴発闘争、横浜銀行相武台支店襲撃。


 3.22日、赤軍派、資金徴発闘争、仙台銀行黒松支店襲撃。


 3.25日、三里塚現地、機動隊4千名が全関東から動員。地下壕に全面攻撃。


 3月、革マル派が野戦病院の車を襲撃する事件が起きる。三里塚を闘う全戦線が「抗議声明」を出した。以来、革マル派の救対は救援連絡センターに出入りできなくなった。


【4.28日、沖縄返還協定調印阻止闘争】
 4.28日、沖縄返還協定調印阻止闘争。全国全共闘連合・全国反戦集会開催。各地で集会、デモ。

 東京の日比谷公園で「沖縄変換協定粉砕!5月調印阻止中央集会」集会。1万4000名参加。関西地方委、さらぎ派、神奈川左派等の反日向(荒)派連合の「12.18ブント」と荒・戦旗派が日比谷公会堂前で衝突、12.18ブントが敗北する。荒岱介が次のように記している。
 「七一年の四・二八闘争で、ブント内分派闘争の決着をつける展開になっていった。当日は250人ぐらいの竹竿部隊が日比谷公園前で相互対峠し、集会参加者が見守るなか一斉にゲバルトになった。最初は(戦旗派と)赤軍派残党や関西派を中心にした二一・一八ブントとの対決だった。。ゲバルトそのものは牛乳ピンを投げ、鉄パイプを持った迎撃隊を作った私たち(戦旗派)の勝ちだった。竹竿でのゲバルト戦は、投石や欽パイプには勝てない。戦術をエスカレートしたほうがいつも戦術的には有利なのだ。つぎは息をつく暇もなく、叛旗派の竹竿部隊が私たちの前に立ちはだかった。これも数秒で私たちの完勝だった」。

 5.15日、赤軍派、資金徴発闘争、横浜銀行阪東支店~横浜南吉田小学校襲撃。


 5.19日、全国全共闘連合・全国反戦集会。沖縄全島ゼネスト連帯、返還協定粉砕、調印実力阻止中央総決起集会が清水谷公園で開催。5500名参加。


【ブント戦旗派が「階級的暴力の原則的駆使に関する我々の立場」を発表】
 5月、ブント戦旗派が、5.23日付け「戦旗266号」に「階級的暴力の原則的駆使に関する我々の立場」を発表し、次のように述べている。
 概要「これまでの第二次ブントの総括をかけた『党の革命』の推進過程を、決してプロレタリア的に正常なものと考えてはならない。余りに長期にわたって打ち続く階級内部の対立の末止揚は敵権力を利するのみであり、かつ唯一の前衛を求めて闘いに決起してくるプロレタリア人民には混乱を与えるばかりである。我々は内ゲバの止揚を提起する。小原則的な大衆闘争の組織化を通じての党派闘争という、本来の領域への我々の闘いの止揚と、敵権力との闘いへの全面突入を訴える」(荒岱介編著「ブントの連赤問題総括」)。

 5.30日、全国全共闘連合・全国反戦集会。沖縄返還協定粉砕、調印実力阻止全国総決起集会が明治公園で開催。1万2千名参加。青山交差点付近で機動隊と衝突。200名逮捕。


 5.31日、「三里塚・芝山連合空港反対同盟」が、「国利をいうものは人民の皆殺しを厭わない 三里塚・第二次強制執行に対する戦いの準備会議」を発表。


 6.11日、三上治・神津陽らの中大ブントが、東京池袋の豊島公会堂で開かれた共産同政治集会のさなか、叛旗・情況連合が戦旗派連合にゲバルトを仕掛け、分裂確定。叛旗派が結成される。


【社青同解放派と中核派が衝突する】
 6.15日から17日まで、新左翼系を中心に全国で沖縄返還協定粉砕、調印実力阻止闘争が展開された。

 6.15日、明治公園で解放派と中核派の大規模な内ゲバが演ぜられた。「2000名近くの青ヘルの解放派が演壇前を占拠して鉄パイプを手に中核派粉砕のシュプレヒコールを上げているところへ、3000名の中核派のゲバルト部隊が公園入口から登場し、解放派に正面から突撃、大合戦になった」。まるで戦国合戦のようであり、党派同士の内ゲバでは学生運動史上最大のものとなった。

 この6.15の衝突後、8派の中から中核派と4トロが抜けることになり、実質的に「全国全共闘、全国反戦の八派共闘」が崩壊する。「社青同解放派と中核派の対立」につき、解放派の「沖縄解放」と中核派の「沖縄奪還」論の対立があった。その遠因として、中核派が70年の7.7から(69年の秋の痛手から回復しきらず70年6月はろくに戦っていない)血債・懺悔に入り、直前の71年5.30での衝突で解放派を部落差別者として糾弾し、しこりを残した。(この糾弾の先頭に立った部落研の澤山自身が差別を振り回して党内をかき回したので、後に粛清される)

【沖縄返還協定調印阻止「6.17闘争」闘争】
 6.17日、この日全国296ヶ所で「6.17闘争」が繰り広げられた。中核派と反帝学評の党派間抗争により共同集会が開けず、全国全共闘系の集会は分裂集会となった。1970年初頭から形骸化していた全国全共闘は、この日以降、全共闘型共同集会は開催されていないという意味で、この日で実質的に消滅したことになる。

 東京の明治公園に「全国全共闘、全国反戦」主催の共同総決起集会が開催され、中核派.第四インターを中心とした約1万4000名が参加した。反帝学評、フロント、ML派、(プロ学同)、明大の黒ヘル部隊など反中核派系約1万名が渋谷区の宮下公園、べ平連が中央区坂本公園とそれぞれ独自の集会を開いた。

 集会後、各派が街頭闘争に移り、乗用車、材木、看板などで街頭バリケードや、線路上への座り込み、機動隊への火炎ビン攻撃などを展開し機動隊との熾烈な攻防戦を展開した。機動隊もガス銃などで応戦した。宮下公園派はデモに移ると間もなく一部学生がデモコースから外れて国電渋谷駅付近の繁華街へ吹き出し、火炎瓶を投げて荒れた。さらに約300人が同公園近くの山手線に乱入、線路上で激しい投石、このため山手線は一時、内、外回りともストップした。この時、機動隊はデモ隊列に次々と高濃度の催涙ガス弾の水平撃ちをしている。催涙弾は頭部、頚部を狙い撃ちし、眼前で炸裂して、白い毒粉をあびせかけるといった恐るべき凶器と化した。デモ参加者ほとんど全員が大量の粉を浴び、即日あるいは1-2週間たってから顔、首、肩、胸、足などに、しっしん、水泡ができ、その後さらに全身に症状が広がり、リンパ腺がはれあがり、全身がだるく、37~39度の熱が出て、痛み、かゆみで不眠、食欲不振におちいっている。(いつの時点からかは分からないが、法務省令は人体に向かっての直撃禁止、警告の義務を明記している)

 6月15日からこの17日までの3日間の闘争での逮捕者は 1,061人にのぼった。この3日間は新左翼運動の1つの転換点となった。


【赤軍派が鉄パイプ爆弾を機動隊に投擲(とうてき)】
 中核派系の明治公園集会終了後の午後8時50分頃、原宿付近で鉄パイプ爆弾が投げつけられ腹部裂傷、大腸露出の重傷を負った2名を含む隊員37名が負傷した。赤軍派の仕業だった。後に、森恒夫の指示によって、青砥幹夫と酒井隆樹が明治公園のデモ隊にまぎれて、機動隊に鉄パイプ爆弾を投げつけたことが判明する。「爆弾を赤軍派に提供したのは、1968年に誤爆事件を起こしたアナキストの背叛社にいた牧田であると本人が表明していた」(「千坂恭二FB証言」)との言がある。

 事件の全貌は、1972年に連合赤軍メンバーが逮捕されて青砥幹夫が自供するまで判明しなかった。この事件の容疑者として、赤軍派中央軍の少年(17歳)ら二人が殺人未遂容疑などで逮捕されたが、証拠不十分で処分保留となっている。同年9.25日、警視庁公安部特捜本部は、
松江相銀米子支店強奪事件で逮捕され鳥取拘置所に収監されていた男を殺人未遂などで逮捕している。

【沖縄で革マル派の琉球大生死亡事件発生】
 6.19日、日共系の沖縄人民党、民青と革マル派の抗争で、と革マル派の琉球大生・町田宗秀氏が死亡する事件が発生した。革マル派は「町田宗秀リンチ殺害事件」として糾弾闘争に入り、埴谷雄高、対馬忠行、高知聴ら九氏が「日共スターリン主義者に対する抗議と糾弾のための思想戦線統一を訴える共同 声明、とある。

 6.22日、米国務省、日米安保条約の継続維持確認の声明。


 6.24日、赤軍派、資金徴発闘争、横浜銀行妙蓮寺支店襲撃。


 7.9日、キッシンジャーが北京へ忍者外交。周恩来と会談。頭越し外交で日本に衝撃。


【赤軍派・日共左派、「統一赤軍」(のち連合赤軍)結成を宣言】
 7.15日、赤軍派・日共左派、「統一赤軍」(のち連合赤軍)結成を宣言。機関紙「銃火」創刊準備号で、「統一された『赤軍』の下に結集し、徹底的に遊撃戦を闘い日本革命戦争の大飛躍を!」を発表。連合赤軍は南アルプスでの軍事訓練、新党理論の形成に向かったが、その過程でリンチ殺害事件を起こしていくこととなった。

 7.23日、赤軍派、資金徴発闘争、松江相互銀行米子支店襲撃。


 7.26日、三里塚の農民放送塔撤去などの強制執行。5日間にわたって死守戦が闘われ、逮捕者292名、負傷者500名を越えた。


 1971年、尾形史人(オガタフミヒト)が中核派系全学連・副委員長に選出される。履歴は次の通り。1950年、茨城県土浦市に生まれる。1959年、一家でブラジルへ移民。1962年、ブラジルから一家で帰国。1966年、神奈川県立横浜緑ヶ丘高校に入学。1968年、「反戦高協・神奈川県委員会」結成に参加。1969年、法政大学法学部政治学科に入学。1985年、三里塚闘争に関連した容疑で逮捕される。1987年、裁判で、「現住建造物放火」罪等で懲役七年の判決、確定。新潟刑務所に下獄、服役。1992年、満期出所。
【中核派が秋季大決戦突入の号令】
 8.4日、中核派が革共同政治集会を開催し、秋季大決戦突入を指令する。次のように述べている。
 「問題の一切は前衛党にかかっている。この内乱的死闘の中にまさに革命の現実性を見抜き、ためらうことなく革命の旗をかかげ、革命に勝利するまで連続的な内乱的死闘を貫き通す前衛こそが、いま最も求められている。革共闘はこの光栄ある任務を自ら引き受けることを8.4集会において全人民の前に宣言したのである」。

 中核派の秋季決戦方針に対し、革マル派は次のように論評した。
 「結成以来10年目、いまブクロ派は崩壊直前にある。まさに棺桶に片足を突っ込んでいるというにふさわしい状態である。東拘置に入院したにも拘わらず、週刊誌の読み過ぎでパラノイアを何ら癒し得なかったわが武井=本田の『秋季決戦』なるものは、破れかぶれの最後のアガキ以上のものではない。『日帝にとって秋の闘いの爆発は、〝死の宣告〟に等しい国』『われわれは火の玉集団』と化し『絶滅をも覚悟して』『全てをかけきった闘い』を、などと彼らは空叫びする。何のことはない、『このままいても破産する。そんじゃ一発やらかそう』という程度の追い詰められたブクロ派官僚のヤブレカブレの最後のあがきというわけだ。彼らは今、『死んで名を残す』という60年安保ブント的心境で『秋期決戦』を夢見て死にいたる最後の盲動にうってでようと思い描いている。だが彼らのいうこの『70年闘争の決着』なるものは、突きつけられた破産の自己確認を回避し続けてきた武装蜂起主義の決着であり、中核派組織の決着であろう」。

 8.6日、広島反戦集会。統一赤軍結成のビラ。


 8.7日、麹町の警視総監公社爆破未遂事件。時限爆弾が仕掛けられる。


 8.15日、ニクソンがドル防衛のため新経済政策発表。「ニクソン.ショック」といわれる。金とドルの交換一時停止。10%の輸入課徴金など東京外国為替市場はドル売り殺到。円高、ドル安となる。


 8.21日、赤報隊(赤衛軍)が埼玉県の陸上自衛隊朝霞基地に侵入、自衛官を殺害、腕章などを盗む。菊井良治ら9名が実行犯として、後に滝田修こと竹本信弘.元京大助手が共犯として逮捕される。


 8.22日、目黒の警視庁職員寮で、消火器爆弾が爆発する。


 8.26日、国鉄成田線に消火器爆弾が仕掛けられているのが発見される。


 8月、京浜安保共闘による印旛沼事件。


 沖縄返還協定調印。


 9.14日、統一赤軍結成集会、500名結集。


【三里塚闘争】
 9.16日、成田空港建設第二次強制代執行。ヤグラや鉄塔に決死隊が立てこもって抵抗した。東峰十字路での反対派学生集団と機動隊の衝突で堀田大隊機動隊員3名が火炎瓶や角材による攻撃で死亡、一小隊全滅、全員負傷。逮捕者375名。

 この事件について戸村委員長は次のように言明した。

 「きょうの学生たちの行動は、決してわれわれ反対同盟の方針から跳ね上がったものではなく、われわれと一体となって戦ったものである」。

 中核派は、三里塚9月決戦を次のように総括した。

 「三里塚第二次決戦は、民衆の権力との暴力的闘いの歴史に於ける画期的事態を切り拓いたのである。機動隊権力に対する完膚無きまでの勝利は闘う人民を勇気づけ、圧倒的自信を与えた。『死んでもアッタリマエダ』『もっとブッ殺してやりてぇぐらいだ』と吐き捨てるようにいう農民、寄せられた全国からの熱狂的支持-民衆の機動隊に対する憎悪。足りないのは革命的左翼の怒りであり、暴力的闘いである。もっともっと暴力的闘いを展開しなければならない。我々は余りにおとなしやかに過ぎるのだ」。

 9.22日、市ヶ谷の第四機動隊の寮で爆弾が爆発する。硫酸を利用した起爆装置を用いた新型であった。


 9.25日、沖縄国会のヤマ場を前に、中核派らの沖縄青年委員会のメンバー4人が、皇居内、宮内庁にレンタカーで乗りつけ、発煙筒、火炎ビンを投げつける事件があった。


 10.1日、三里塚芝山連合空港反対同盟・青年行動隊の 三ノ宮文男(さんのみや・ふみお)。「空港を、この地にもってきたものをにくむ」、「三里塚空港粉砕ノ最後まで、三里塚に生きつづけてください」との遺書をもって抗議自殺(享年22歳)。 


【中華人民共和国が国連で代表権獲得】
 10月、中華人民共和国が国連で代表権を得た。その結果、中華民国(台湾)が脱退することになった。

 10.4日、沖縄青年委員会が、中核派機関紙前進554号に、「全ての沖縄青年は富村奪還・批准爆砕の先頭に」を発表。


 10.16日、沖縄国会開会のさなか、東京など全国各地で、集会、デモが行われ、機動隊との衝突、交番への火炎ビン攻撃がおこった。


 10.18日、西新橋の郵便局で、小包爆弾が2個爆発。一つは、後藤田警察庁長官宛てのもの、一つは今井新空港公団総裁宛てのものであった。起爆装置の失敗で早く爆発したと推定されている。


 10.19日、沖青同3名が、衆議院本会議場で爆竹を鳴らす。同日、沖縄青年同盟が、「全ての在日沖縄人は団結して決起せよ!」を発表。


【中核派の革マル派テロ】
 10.20日、中核派が、革マル派の活動家・美術学院院生・水山敏美を横浜国大富士見寮で虐殺、他東工大生と教育大生の数名が重傷した。次のような背景があった。横浜国大は元々中核派の拠点校だったが、革マル派が横浜国大富士見寮に他大学の革マル派学生を含めて泊まり込んでいた。この頃、中核派が武闘路線の為に学生の学外活動が多くなり、その手薄に乗じて革マル派が勢力を伸張し始めていた。10.20日当日は臨時学生大会を開催し、中核派執行部を追い出す手はずになっていた。そのぶち壊しを狙っての中核派の襲撃であった。

 これに対し、革マル派は「革マル恐怖症-殺人狂乱患者に落ちぶれたブクロ派を絶滅せよ」と題した「中核派絶滅宣言」を発表し、予告通リ攻勢にでることになる。次のように述べている。
 「〝本来の戦線〟において『革マル派の時代』をめざして着実に闘っている我が同盟にとって、既に生命のつきたブクロ派などは、もはやとるに足らぬ対象でしかない。とはいえ、彼らが左翼としての最低の一線を踏み外し、反革マル殺人狂乱患者に落ちぶれたかぎり、我々は革命的左翼としての己の責任にかけて彼らを絶滅する以外にない。むしろここに至っては、一切の怯ダは犯罪的でさえあるのだ。今やブクロ派絶滅の党派闘争を一切の手段と形態と方法を駆使しながら、断固として押し進めなければならない」。

 この時、中核派は海老原君事件の時と同様に沈黙している。これに対して中核派も、「無条件かつ全面的な宣戦布告、カクマルに対する全面的せん滅戦争」を宣言、両派の全面的なテロ戦争が開始された、とある。

【1971.10.21国際反戦デー集会】
 10.21日、10.21国際反戦デー集会。

 反中核派系デモの道中、反帝学評と機動隊の衝突があった。反帝学評が近くのプリンスホテルに投石して窓ガラスを壊し、機動隊が放水車から着色液を放水した。解散地点である東京・港区の芝公園(東京タワーや増上寺を取り巻くような形の細長い公園)23号地付近まで来たとき、デモ隊でごった返す公園内に向けて機動隊が催涙弾を次々に打ち込み催涙弾粉がデモ隊の上に降り注いだ。解散地点である芝公園23号地にデモ隊が入る時、公園の入り口を両側から固めた機動隊の列の間をデモ参加者が1人1人通され、足元をライトの明かりで照らされ、靴に青い色の着色液が付いた学生が次々と逮捕された。その後、突然機動隊が公園内になだれ込み公園内は大混乱となった。デモ参加者は公園の入り口からは脱出できず斜面側に追い込まれ、高い鉄条網を乗り越えて裏手の墓地から避難した。夜の暗い中、鉄条網をよじ登り裏手の墓地に入り脱出することができた。

【黒ヘル、RG派が都内連続交番爆破】
 10.23日、黒ヘル、RG派が都内連続交番爆破(代々木・清水橋、杉並・四面道、板橋・仲宿、同・養育院前、中野警察署、本郷・弥生町)、爆発3ケ所、発見4ケ所。この日から、各警察署に爆発物警戒取締本部が設けられる。

 10.23日、革マル派が、首都圏の中核派拠点大学に対する一斉テロ攻撃。


 11.1日、革マル派が、中核派の長谷川英憲杉並区議事務所を攻撃。


【中核派が、「11.14東京大暴動」指令】
 11.1日、中核派が、「11.14東京大暴動」を打ち出す。機関紙「前進」は次のように呼号した。
 「遂に我々は、日本階級闘争がこの71年秋に自ら引き寄せた最高にして最大の決戦の時を、喜びをもって宣告することができる。それは11月14日である。騒乱ではもはや物足りない。首都に大暴動を! これがスローガンだ。潮は満潮だ。堰を切れ!全ての戦士は全国至る処から総結集し、11.14東京大暴動一点に、自らの経験と英雄的行動力を総爆発させねばならぬ。全ての戦士が自らの最も得意とする武器を直ちに準備し、全ての戦士は、最低限火炎ビンを製造する必要がある」。

 間もなく、大暴動の場所が渋谷に設定され、「前進」は、渋谷周辺の詳細な地図が入った号外を刊行した。機動隊のみならず、私服刑事をも殲滅の対象とすること、警察官のピストルの奪取まで含む一切の武器を用い、「一人でも二人でも、いや何十人も殲滅せよ」と扇動した。 

【革マル派が京都大学で中核派20名を襲撃。同日夕刻、前進社関西支社を襲撃】
 11.8日、革マル派が、京都大学前でビラ配りをしていた中核派20名を襲撃。同日夕刻、前進社関西支社を襲撃。中核派は、次のように声明している。
 「我々の手による武装闘争の発展と、『機動隊殲滅!内乱的死闘』路線の全人民的貫徹に大いにあわてふためき、71年は『昼寝の季節』を決め込んで惰眠をむさぼっているところをガタガタに揺さぶられ、今や『かってない動乱と混乱』に見舞われているが、かの右翼メンシェヴィキ=革マル派にほかならない。追い詰められた彼らは、ただその唯一の延命を社共既成指導部との癒着とわが革命的左翼の闘いを失敗せしめることのみを目的にした武装反革命に求めてくるのである。

 実際に彼らの『戦略』はあげて夜も日も明かないほどの他力本願主義なのである。官許運動たる革マル派は、国家権力の公認の下にわが運動を潰すための尖兵として我々に対する最も悪質な武装反革命として登場しようとしている。とりわけそれは、国家権力の11月決戦を失敗させようという陰謀の格好の部隊として登場しようとしているが、我々はこうした国家権力と革マル派の有無相通じた背後からの攻撃を、11月決戦への武装襲撃として受け止め、断固として撃退し、粉砕しなければならない」。

 11.5日、赤軍派・日共革左などの10名初の特別公開指名手配。


 11.10日、破防法違反容疑で松尾真中核派全学連委員長が逮捕されている。中核派4人目の破防法逮捕者となった。


 11.10日、沖縄現地で、全軍労、県教組、官公労などによる、協定粉砕、批准阻止の空前といわれる島ぐるみのゼネストが行われた。中核派が「ゼネストを暴動へ」のスローガンで闘い、浦添市勢理客交番前で機動隊2個小隊70名を数百名の部隊で襲い、機動隊員1名が死亡させられた。これに呼応して、本土でも、各地で集会、デモ、機動隊との衝突がおこった。


 11.11日、東京地検の婦人用便所、荒川署の署長公舎で爆弾が爆発する。


【中核派が「11.14東京大暴動(渋谷大暴動)」】
 11.14日、国会で強行採決のきざしがみえたこの日、全国32都度府県、80ヶ所に、10万人が集まって、阻止闘争が展開された。この日、宮下公園での集会を禁止された中核派5000名は「11.14東京大暴動(渋谷大暴動)」を叫んで渋谷に進撃した。警察当局は全国から警察官を動員し厳戒態勢を敷いていたが、中核派の学生、労働者の一部がスーツ姿などで渋谷駅周辺に紛れ込み後方支援したことで不意を突かれて防戦一方となり、中核派部隊400名の火炎ビン攻撃により現場は大混乱に陥り暴動化した。各所で機動隊と衝突し、渋谷署神山交番で警備にあたっていた警官が火炎ビンで火だるまになり病院で死亡した。また、午後2時ごろには、国電池袋駅で、中核派の学生、労働者がもちこんだ火炎ビンが、満員の山手線電車内で炎上、乗客らが重軽傷を負い、火炎ビンを浴びた中核派反戦青年委の女教師が病院で死亡した。深夜まで7時間にわたって渋谷駅や繁華街でのゲリラ戦が続き、この日の衝突で、313人が凶器準備集合罪などで逮捕された。渋谷大暴動闘争は、全体的には大したことなく封殺された。
 殉職した中村警部補(当時巡査、21歳)は新潟県警から派遣され、関東管区機動隊新潟中央小隊27名の一員として神山派出所周辺の警備にあたっていた。 しかし、突然中核派の学生ら150名に襲撃されたため小隊は撤退を試みたが、火炎瓶を投げ込まれ大苦戦を強いられた。ガス銃を装備していた中村警部補が応戦するもガス弾を撃ち尽くしてしまい、複数の中核派の学生に鉄パイプで暴行を受け、火炎瓶により火だるまになり死亡した。
 渋谷暴動事件の事態を重く見た警察当局は、渋谷暴動事件を扇動した中核派委員長を逮捕・起訴するとともに、中村警部補(当時巡査)を殺害した実行犯の割り出しに全力を上げ、事件現場の様子の聞き込みなどから実行犯として中核派の大坂正明、星野文昭、荒川碩哉、奥深山幸男ら7名を実行犯として割り出し指名手配に踏み切る。実行犯は事件直後から逃亡していたが星野文昭、荒川碩哉、奥深山幸男ら6名は、1972年から1975年の間に逮捕・起訴された。但し、主犯格の大坂正明の消息は1973年を最後に途絶えた。

 その後、大坂正明以外の6名は刑が確定し、星野文明には無期懲役、荒川碩哉には懲役13年、奥深山幸雄は1979年に懲役15年が言い渡された。深山幸雄は、精神疾患のため1981年に公判停止になるが、何としても懲役刑を確定させたい検察庁は弁護人や支援者の批判を省みず公判再開を目指した。長らく公判停止の状況が続く中、2010年には病状安定とも報じられたが、2017年、奥深山幸雄は入院先の病院で死亡している。1987年に最高裁で無期懲役が確定した星野文明は、2019年に肝臓がんのため収容先の東日本成人矯正医療センターで死亡している。1986年に獄中結婚をした星野文明は、支援者らとともに死の直前まで無罪を訴え続け、再三にわたり再審請求を行っていたが、取り上げられることはなかった。星野文明は獄中で数々の絵画を描き続け、2001年からは「星野文昭絵画展」を全国で開催しており、現在でも中核派のシンボリックな存在であり続けている。刑期を終え出所した者、無実を訴えながらも病死した者などさまざまな結末を迎えている。


 渋谷暴動事件の主犯格であり、中核派で「軍団長」と呼ばれていた大坂正明には賞金300万円がかけられ、さまざまな情報が警察当局に寄せられた。46年が経過した2017年、大阪府警察が広島市安佐南区の中核派のアジトに踏み込んだ際に公務執行妨害を働いたため現行犯逮捕され、その後DNA鑑定で本人であることが証明され逮捕された。中村警部補(当時巡査)殺害及び暴動を引き起こした罪により殺人・放火・傷害・凶器準備集合のほか公務執行妨害の容疑がかけられている。大坂正明は逮捕後も一貫して無罪を主張しており、当時の記録や証拠も少ないことなどから裁判は紛糾することが予想されている。
 1971年11月14日、永田典子(ながた・のりこ)(大阪府吹田市立青山台中学校教育労働者、大阪北摂地区反戦青年委員会)が、沖縄返還協定批准阻止・渋谷暴動闘争に決起。国電池袋駅ホームで機動隊の襲撃を受け、機動隊が爆発させた火炎びんの炎を浴びて大火傷を負い、13日間にわたるたたかいの末、27日逝去、虐殺さる(享年27歳)。

 11.17日、沖縄返還協定は衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発して、社会.共産両党と総評は国会請願デモ。


【沖縄批准反対闘争で中核派のデモ禁止】
 11.19日、沖縄批准反対闘争。この日、中核派の集会とデモの申請は、集会だけが許可されデモが禁止された。新左翼各派1万9千名が日比谷公園などに終結した。警備側は主力を配備し、完全包囲した。日比谷公園の各入り口に阻止戦をはって封鎖した機動隊と強行突破しようとする中核派が衝突。中核派は、公園の外に打って出られないまま暴動化し公園内の松本楼に火をつけ炎上させた。さらに、国電有楽町駅周辺から銀座一帯、大手町のオフィス街などで、火炎ビンを投げ、バリケードを築くなどのゲリラ戦が展開された。日比谷、丸の内周辺以外でも、各派によるバリケード市街戦が、都内各地で行われた。この日の逮捕者は1886名の大量逮捕となった。1969年11.16、17日の佐藤首相訪米阻止闘争時の1985名につぐ大量逮捕となった。中核派は、10.21で280名、11.14で310名、11.19で1880名、都合2400名を超える逮捕者を出し、壊滅的な打撃を受けた。 11.20日、中核派の集会デモに対し、全面的な禁止措置が取られた。

 11.24日、沖縄返還協定法案が衆院本会議で強行採決され、自然成立した。


【新左翼各派の沖縄闘争論考】
 日本左派運動はこの時、様々な沖縄闘争論を唱えている。但し、沖縄返還拒否論は見当たらず、いわゆる日米政府主導式の返還そのものを認めつつ、様々な理屈をつけて異議を唱えるという立場から理論を弄んだ風がある。原則的主張として、ML派の「沖縄解放=独立論」が注目される。同派は、沖縄史を踏まえて沖縄人民の主権を打ち出し、沖縄人民に対する帝国主義的支配と干渉、帝国主義打倒の闘争を沖縄人民と合流させるべきだとした。これに似たものとして第四インターの「解放=自治論」、社労同の「自治権論」、共労党の「永続的解放論」がある。

 これに対し、中核派は「沖縄奪還論」を主張し、「沖縄返還は、沖縄をアジアにおける帝国主義の軍事的要塞とすることにある」として、日米政府式の返還に異議を唱え粉砕闘争を繰り広げた。共産同戦旗派は、日米共同声明路線に基づく沖縄返還は、「米帝の基地機能維持→自衛隊の補助的同居」として「日米共同反革命前線基地化阻止」とした。共産同、統社同、怒濤派、前衛派等も同様の闘争論を展開した。

 革マル派は例によってややこしい理論で、「沖縄施政権返還というブルジョア的解決」に反対としながらも、「返還」を前提としつつこれによってもたらされる一切の現実と対決していかなければならないとした。「米核戦略に従属した沖縄の施政権返還反対!」と「復帰運動ののりこえ」と、全軍労大量解雇=基地合理化反対闘争を革命的に推進すると主張した。
(私論.私見) 新左翼各派の沖縄闘争論考
 これについて筆者は思う。後付けで云えることであるが、沖縄返還は正の面としては施政権の返還であり、これは素直に政府自民党の外交功績として認めて良かったのではなかろうか。問題は、「返還のされ方」にあった。「核付き、基地付き返還」は、「沖縄の現実が本土に持ち込まれる」危険性があった。「沖縄返還に伴う密約問題」もあった。そういう意味で沖縄闘争の必要性はあった。しかし、論をどう組み立てるべきであったか。原則論的には、何より沖縄人民自身が沖縄独立を求めるのか本土復帰を願っているのか確認すべきで、この確認を経て「日米政府主導の疑惑的な沖縄返還」に対する闘争を組織すべきであったのではなかろうか。重要なことは、「何でも反対粉砕」ではなく、いわば「革命論的な立場からの沖縄闘争論の理論的創造」にあったのではなかろうか。新左翼系各派の沖縄闘争論が、これを為し得ていたように思われない。この労を取らずに各様に取り組み、アリバイ闘争に堕してしまったのではなかろうか。今後この傾向がこの後定式化すると云う意味で、沖縄闘争論の後遺症は大きいものがあるように思われる。

【中核派の渋谷大暴動考】
 この時期、新左翼の最大党派・中核派の暴動路線について確認しておきたい。中核派の暴動路線は、1960年代後半の「激動の7か月」以来の武装闘争の向自化として必然的に生み出されたものであり、赤軍派の軍事的暴力革命闘争の中核派版とでも云えよう。赤軍派のそれが予行演習段階で封殺されたのに比して、中核派は一定の物質力でもって貫徹したことになる。この闘争は、革マル派との党派間ゲバルト闘争と並行的に遂行された。

 これについて筆者は思う。この時の暴動路線闘争は戦後急進主義運動の定向進化の帰結であり、その成果と限界を見定めて、何がしか有益な理論的総括を獲得すべきではなかったか。筆者的見解によれば、暴動闘争は所詮、政権交代、体制打倒に結びつかない抵抗運動段階の過激闘争でしかなく、それに費消する莫大なエネルギーを相応しい戦闘に活用する道を探る契機にすべきではなかったか。そうすれば、日本左派運動の新たな地平を切り拓くことができたのではなかろうか。つまり、ここで、70年安保闘争総括と合わせていわゆる暴力革命運動に対する理論的切開を為すべきであったのではないのか。このことは暴動路線闘争の全否定を意味しない。日本左派運動急進主義派の定向進化の帰着点を見つめ捉え返し、軌道転換を探る機会とすべきだったのではなかろうか。尤も、これは後付けで云えることである。その後、筆者が獲得した「戦後日本=プレ社会主義論」を媒介させずには総括できないであろう。当時、この見立てを持ち得なかった中核派が、暴動闘争失敗後の新展望創出に欠けたのも致し方ない。史実は、海老原君事件以降、防戦一方に追いやられた革マル派との党派間戦争にのめり込んで行くことになった。局面的には止むを得なかったとすべきであろうが、暴動路線闘争に代わって獲得すべき理論の貧困がついて回っていることには変わりない。

 11月、「烽火」派から赤報派分裂。 左派グループも、内部での指導責任をめぐる対立などから、「関西派」「右田派」「神奈川左派」「赤報派」に分裂した(この頃合同関西派3分裂)。


【中核派の劣勢、「カクマル全面的殲滅戦争宣言」】
 12.4日、革マル派のテロにより、中核派の活動家・辻敏明(京大、時計台死守兄弟闘争時の決死隊隊長、中核派学生同盟副委員長)、正田三郎(同志社大、中核派同志社大支部キャップ)が死亡。以降、中核派も「無条件且つ全面的に宣戦布告、カクマルに対する全面的殲滅戦争」を宣言。両派の全面的なテロ戦の展開となった。この時点から、中核派は、革マル派をカクマルと呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出している「K=K連合」と認識し始めた。

 「K=K連合」につき、中核派最高指導者の本田氏は、立花隆・氏との対談で次のように述べている(「中核VS革マル」)。
 「革マル派もはじめから反革命だったわけではなく、出発当初は、単なる日和見主義だったと思うんです。しかし、自分の日和見主義の合理化をはかっていくうちに、次第に自己を反革命として完成していった。つまり、初めは闘わないことが正しいことだと主張していただけなのが、それでは間に合わなくなって、闘う部分を武装襲撃するという挙にでてきた。

 百歩譲って、彼らの見解が正しいとしても、彼らのいき方もあり、我々のいき方もあるんだから、それぞれのやり方で競い合えば良い。ところが彼らは、小ブル雑派の解体と称して、我々の運動に対する白色襲撃を路線として打ち出してきた。自分たちの路線上の破産を白色襲撃によって突破しようというだけではなしに、中核派に対する権力の未曾有の大弾圧を利用して、むしろこれに協力するような形でこうした襲撃が開始されたところにもう一つの特徴がある。

 権力はカクマルのそういう変質過程を冷静に見ていて、よしカクマルは使えるということで使っただけではなしに、カクマルもそういう権力の意志を自分にとって利益になるものだとはっきり自覚しながら襲撃を加えてきた。これがカクマルの反革命への転落ということであり、K=K連合ということだ」。
 1971年12月4日、辻 敏明(つじ・としあき)(京都大生、マル学同中核派副委員長)が、関西大学費闘争の最中、同大千里山キャンパスでカクマル白色テロ部隊と激突。辻と正田三郎の二人が集中的に鉄パイプで殴打、虐殺さる(享年22歳)。  
 1971年12月4日、正田三郎(しょうだ・さぶろう)(同志社大生、マル学同中核派)が、関西大学費闘争の最中、同千里山キャンパスでカクマル白色テロ部隊と激突。辻敏明と正田の二人が集中的に鉄パイプで殴打、虐殺さる(享年23)。   

 12月、円レートが一ドル360円から308円に切り上げられた。


 12月、RG派の竹内毅特別公開指名手配。


 12.12日、後に反日武装戦線となるグループが、熱海市伊豆山にある興亜観音像と殉国七士の碑を同時爆破する。興亜観音像は、戦後の国際軍事法廷で、南京攻略戦の際に大虐殺を指揮したとされて責任を問われA級戦犯として処刑された陸軍大将。松井石根の建立したものであり、殉国七士の碑は処刑されたA級戦犯を慰霊したものであった。


【革共同中核派の三重県委員長/武藤一郎が虐殺される】
 12.15日、革マル派のテロにより、中核派の三重県委員長・武藤一郎が三重市でビラ配り中に襲撃され死亡。この時、革マル派は、病院の医者のコメントを引いて「これは持病の結核と風邪により、急性肺炎を起こして死んだ」と声明している。
 1971年12月15日、武藤一郎(むとう・いちろう)(三重大出身、革共同三重県委員長)が、三重大構内でビラまき中を東海カクマルの白色襲撃を受け、虐殺さる(享年28歳)。   

【土田國保警視庁刑務部長宅で郵便小包爆弾爆発】
 12.18日、豊島区雑司ヶ谷の土田國保警視庁刑務部長宅で郵便小包に偽装した小包み爆弾が爆発、夫人が即死、子供1人が重傷。

 11.24日、自民党が、沖縄返還協定を衆議院で単独採決する。 


 12.24日、東京新宿三丁目の交番でクリスマスツリーに見せかけた時限爆弾が爆発、警官.通行人ら7名が重軽傷。


 1971年末ころには、共産同は、四分五裂の状態となった。


 秋頃、共労党は、沖縄闘争や武装闘争の在り方をめぐって「労働者党派」、「プロレタリア革命派」、「赤色戦線派」の三つに分裂した。 


【赤軍派が京浜安保共闘との提携模索】
 12月、赤軍派は、「銃のみが政権を生み出す」をスローガンに武装闘争を行っていた毛沢東主義の小党派である日本共産党神奈川県常任委員会革命左派=京浜安保共闘との提携を始めた。当初は、革命左派(京浜安保)が以前に武器奪取を目的に交番を襲撃した際に射殺された活動家の追悼集会を合同で開いたり、革命左派(京浜安保)が銃砲店から強奪した武器を「購入」してM作戦に使うなど、あくまで別の組織としての提携活動であった。この頃、両組織主流派幹部は統合し、連合赤軍中央委員会を名のった。

 中核派が、東京都杉並区区議選に参戦し、長谷川英憲氏を立候補させ、1万票近くを獲得し最高位当選している。


 12月、革マル派による関西大学構内ゲバルト察人事件。


 1971(昭和46)年の内ゲバ事犯による死傷者数は425人、うち死亡者4人[50]。


これより後は、「70年代前半の学生運動(1972-75)」に記す。





(私論.私見)

1975年(昭和50年)

  • 3月
    • 6日 - 東京の路上で、中核派が革マル派幹部(33歳)を殺害。革マル派機関紙発行責任者内ゲバ殺人事件[71]。
    • 14日 - 埼玉のアパートで、革マル派が中核派の最高指導者(41歳)を殺害。中核派書記長内ゲバ殺人事件(本多延嘉氏)[72]。
    • 20日 - 東京のマンションで、中核派が、革マル派郵便局員2名を(25歳、28歳)を殺害[73]。
    • 27日 - 神奈川の路上で、中核派が革マル派川崎市役所職員(26歳)を殺害。川崎市女子職員内ゲバ殺人事件。[74]。
  • 4月
    • 1日 - 東京の喫茶店で、中核派が革マル派元全学連中央執行委員(27歳)を殺害[75]。
    • 26日 - 東京の喫茶店で、中核派が革マル派政治局員ら(32歳、23歳)を殺害[76]。
  • 5月
    • 7日 - 鹿児島のアパートで、中核派が革マル派高校教諭(41歳)を殺害[77]。
    • 25日 - 岡山大で、マル青同がノンセクトの岡山大生(18歳)を殺害[78]。
  • 6月
    • 4日 - 大阪市立大で、革マル派30数人と中核派約40人が衝突、革マル派の大阪経済大生3名(21歳、24歳、25歳)が死亡[79]。
    • 19日 - 東京の路上で、中核派が革マル派郵便局員(22歳)を殺害。[80]。
    • 24日 - 静岡で、革マル派が革労協数10人を襲撃、革労協の元九州大生(26歳)を殺害[81]。
  • 10月
    • 27日 - 革労協が革マル派東大生(22歳)を東京で殺害。[82][83][84][85]

1975(昭和50)年の内ゲバ事犯による死傷者数は563人、うち,死亡者20人[50]

1976年(昭和51年)

  • 2月 - 所沢市の喫茶店にいた中核派系活動家が襲われて1人が死亡。後日、革マル派系の機関紙で襲撃状況が詳報された[86]。

1976(昭和51)年の内ゲバ事犯による死傷者数は195人、うち,死亡者3人[50]

1977年(昭和52年)

  • 2月 - 革マル派による革労協書記長内ゲバ殺人事件
  • 4月15日の浦和車両放火内ゲバ殺人事件(浦和市内ゲバ殺人事件)では、浦和市内の県道上において、革労協が、革マル派幹部4人をマイクロバスに閉じ込めて全員を焼き殺した[44][87]。革マル派らの乗車するマイクロバスを、2台の貨物自動車で前後から襲い、つるはし等で車の窓ガラスを破壊し、ガソリンを注ぎ込み、放火するという手口だった[44]。

1977年の内ゲバ事犯による死傷者数56人、うち死亡者10人[50]。

1978年(昭和53年)

  • 1978年(昭和53年)1月27日には、茨城県の水戸市と勝田市において、茨城大学革マル派学生活動家の居宅等4箇所を同時に襲撃した。窓ガラス、出入口等を破壊して侵入し、就寝中の被害者の頭部などを鈍器で殴打して3人を殺害、3人に重軽傷を負わせた[50][88]。
  • 2月10日の大阪市内内ゲバ殺人事件では、活動家1人の居室を,鉄パイプ等を所持した5人が襲撃して殺害した[88]。
  • 9月30日の横浜国大内ゲバ殺人事件では、構内にいた30数人を,対立する20数人が襲撃して鉄パイプ等による乱闘となり,1人が死亡し,2人が負傷した[88]。

発生件数32件、死者数7人、負傷者数45人[89]。死傷者数53人とも[88]。

1979年(昭和54年)

  • 5月 - 中核派による津市内内ゲバ殺人事件[90]。
  • 11月 - 革マル派が東京、神奈川の革労協アジト3箇所を襲撃[90]。

1979(昭和54)年の内ゲバ事犯による死傷者数40人(うち死者8人)[91]。鉄パイプ、ハンマー、斧、アイスピック等で殺害し又は負傷させる手口が依然続いた[91]。

1980年代

1980年代にも内ゲバ事件は発生した。徐々に発生件数は減少したものの、死者数は1980年に8人、1981年2人、1982年1人、1986年2人、1988年1人、1989年3人で、合計17人だった。

  • 1980年(昭和55年)9月に発生した、革労協による東成区路上内ゲバ事件では、盗難車両で相手車両をはさんで停車させ、鉄パイプに出刃包丁を取り付けた凶器で攻撃した[92]。同年10月30日の大田区南千束路上内ゲバ殺人事件では、白昼、南千束の路上で、武装した中核派10数人が、東京工業大生ら革マル派学生5人を鉄パイプ,ハンマー等で襲撃し、全員を殺害した[93][94]。1980年の内ゲバ事犯による死傷者数40人(うち死者8人)[93]。
  • 1981年(昭和56年) 7月11日、革労協による7.11渋谷区本町内ゲバ殺人事件では、就寝中あるいは出勤途上の被害者を襲撃し、頭部や顔面等を鉄パイプ等でめった打ちにして殺害した[95][96]。1981年の内ゲバ事犯による死傷者数8人、うち死者2人[96]。
  • 1982年(昭和57年)2月24日の2.24荒川区南千住内ゲバ殺人事件では革労協が、就寝中の革マル派活動家の部屋に押し入り、その頭部を鉄パイプ等でめった打ちにして殺害した[97][98]。1982年の内ゲバ事犯による死傷者数8人、うち死者1人[98]。
  • 1983年(昭和58年)の内ゲバ事犯による負傷者数5人[99]。
  • 1984年(昭和59年)、中核派が成田闘争での主導権をめぐって第4インターに対しテロを開始した[100]。1984年の内ゲバ事犯による負傷者数12人[99]。
  • 1985年(昭和60年)2月、革マル派による和光大事件。革マル派が中核派に対し7年ぶりに攻撃姿勢に転じたとされる[101]。1985年の内ゲバ事犯は中核派と革マル派の間で発生し、負傷者数は22人だった[102]。
  • 1986年(昭和61年)1月20日午前10時30分頃、京都大学教養部A1号館廊下で、革マル派が中核派で全学連副委員長代行の京大生(25歳)を鉄パイプ様のもので頭部を乱打し、殺害した(京都大学教養部構内内ゲバ殺人事件)[103][104][105]。同年9月1日、国鉄分割・民営化にからんで、中核派が、革マル派だとして国鉄労組幹部を殺害した(真国労大阪地本書記長内ゲバ殺人事件)[106][103]。1986年の内ゲバ事犯による死傷者数12人(うち死者2人)[103]
  • 1987年(昭和62年)10月30日、赤羽駅で、革労協が革マル派だとしてJR東日本社員を襲撃(JR東日本赤羽駅構内内ゲバ事件)[107]。1987年の内ゲバ事犯による負傷者数は4人。いずれも国鉄分割・民営化に絡んで発生した労組幹部等に対する路上襲撃事件であった[108]。5年ぶりに革労協狭間派による革マル派に対する内ゲバ事件が発生した[108]。
  • 1988年(昭和63年)3月、中核派が、革マル派だとしてJR東日本労組高崎地本委員長を殺害。1988年の内ゲバ事犯による死傷者数23人、うち死者1人[109]。
  • 1989年(昭和64/平成元年)2月8日、中核派が、革マル派だとしてJR労組幹部を殺害(東鉄労水戸地本組織部長殺害事件)[110]。同年6月25日、埼玉県川口市で革労協狭間派が元最高幹部を殺害(革労協元幹部内ゲバ殺人事件)[111]。同年12月2日、革労協狭間派が、革マル派だとしてJR組合幹部を殺害[110]。1989年の内ゲバ事犯による死者3人。いずれも新東京国際空港反対闘争に関連する[112]。

1990年代

1990年代には1980年代よりもさらに内ゲバ事件の発生件数は減少した。

  • 1990年(平成2年)の内ゲバ事犯による負傷者数2人[113]
  • 1991年(平成3年)の内ゲバ事犯による負傷者数7人[113]
  • 1992年(平成4年)の内ゲバ事犯による負傷者数3人[113]
  • 1993年(平成5年)の内ゲバ事犯による死傷者数3人、うち死者1人[113]
  • 1995年(平成7年)の内ゲバ事犯による負傷者数4人[114]
  • 1996年(平成8年)5月14日、神奈川県で、革労協狭間派が革マル派学生を襲撃し、1名を殺害[115]。1996年の内ゲバ事犯による負傷者数9人、うち死者1人[114]
  • 1998年(平成10年)の内ゲバ事犯による負傷者数8人[114]

1999年(平成11年)〜2004年(平成16年):革労協現代社派と革労協赤砦社派

  • 1999年(平成11年)5月 - 革労協狭間派が現代社派と赤砦社派に分裂し、以降殺人を伴う内ゲバの応酬を繰り返す。1999年は3名の活動家が殺害された。[116]。1999年の内ゲバ事犯による死傷者数4人、うち死者3人[117]
  • 2000年(平成12年)2月 - 革労協現代社派と革労協赤砦社派の内ゲバで2名が殺害[116]。2000(平成12年)の内ゲバ事犯による死傷者数13人、うち死者4人[117]。
  • 2001年(平成13年)5月 千葉県で、革労協赤砦社派が革労協現代社派の活動家を殺害[118]。
  • 2004年(平成16年)6月2日 - 東京の路上で革労協現代社派が革労協赤砦社派の活動家2名を殺害[119]。