か行 | ・快刀乱麻を断つ |
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・蝸牛角上の争い | |
・和氏の璧 | |
・苛政は虎よりも猛し | |
・鼎の軽重を問う | |
・株を守りて兎を待つ | |
・画竜点睛 | |
・完璧 | |
・管鮑の交わり | |
・危急存亡の秋 | |
・疑心暗鬼を生ず | |
・木に縁りて魚を求む | |
・杞憂 | |
・漁夫の利 | |
・金科玉条 | |
・愚公山を移す | |
・唇亡びて歯寒し | |
・鶏口牛後 | |
・傾城傾国 | |
・鶏鳴狗盗 | |
・月下老 | |
・捲土重来 | |
・黔驢の技 | |
・高山流水 | |
・呉越同舟 | |
・虎穴に入らずんば、虎子を得ず(2013.11.10加筆訂正) | |
・五十歩百歩 | |
・壺中の天 | |
・琴柱に膠す |
さ行 | ・塞翁が馬 |
---|---|
・先んずれば人を制す | |
・三顧の礼 | |
・三舎を避ける | |
・紙上に兵を談ず | |
・死馬の骨を買う | |
・四面楚歌 | |
・食指が動く | |
・唇歯輔車 | |
・助長 | |
・水魚の交わり | |
・推敲 | |
・赤縄を結ぶ | |
・喪家の狗 |
た行 | ・大器晩成 |
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・太公望 | |
・蛇足 | |
・橘化して枳となる | |
・断腸 | |
・智者の一失、愚者の一得 | |
・朝三暮四 | |
・朝令暮改 | |
・鉄杵を磨く | |
・天衣無縫 | |
・怒髪天を衝く | |
・虎の威を借る狐 |
な行 | ・鳴かず飛ばず |
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・嚢中の錐 |
は行 | ・敗軍の将は兵を語らず |
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・背水の陣 | |
・杯中の蛇影 | |
・白眼 | |
・尾生の信 | |
・顰に倣う | |
・羊を亡いて牢を補う | |
・匹夫の勇 | |
・髀肉の嘆 | |
・百聞は一見に如かず | |
・船に刻みて剣を求む | |
・刎頸の交わり | |
・北行して楚に至る |
ま行 | ・麻姑掻痒 |
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・先ず隗より始めよ | |
・耳を掩いて鐘を盗む | |
・矛盾 | |
・無用の用 | |
・孟母三遷 | |
・孟母断機 |
や行 | ・病膏肓に入る |
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・羊頭狗肉 |
ら行 | ・乱世の英雄 |
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・梁上の君子 | |
・良薬は口に苦し |
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目 次
(一) 葉公、竜を好む (二) 髀肉の嘆
(三) 洛陽の紙価貴し (四) 破天荒
(五) 覆水、盆に返らず (六) 宋襄の仁
(七) 鼎の軽重を問う (八) 蟷螂の斧
(九) 三遷の教え (十) 四面楚歌
(十一)梁上の君子 (十二)石に漱ぎ、流れに枕す
(十三)画竜点睛 (十四)推敲
(十五)燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや (十六)涙を揮って馬謖を斬る
(十七)鶏鳴狗盗 (十八)鶏を割くに焉くんぞ牛刀を用いん
(十九)杞憂 (二十)邯鄲の夢
(二一)矛盾 (二二)晏子の御
(二三)月下氷人 (二四)白眼視
(二五)管鮑の交わり (二六)背水の陣
(二七)蛇足 (二八)臥薪嘗胆
(二九)掣肘 (三十)刎頸の交わり
はじめに
所謂故事成語とは、隣邦中国の歴史の中で起こつた史実そのもの、或ひは其の歴史の中で述べられた言葉を言ふ。其等には海を越え時代を超えて、現代に生きる我々の人生に対する箴言ともなる重みがある。
又、勿論其処には其の時代を生きた人々の生き生きとした姿がある。悲しみに暮れて涙を流す者、怒りに眉をつり上げる頑強な武将、人の生きるべき道を穏やかに説く君子、多種多様な人物がここには登場する。併し何れをとつても彼等は自らの人生を見事に生き抜いて居る。其の彼等の確かな息遣いを感じ取つて呉れる事を願ふ。
(一)葉公、竜を好む 名を好んで実を好まないこと 『荘子』
〔書き下し文〕
葉公子高の竜を好むや、彫文之を書く。是に於いて天竜聞きて之を示し、頭を窓より窺ひ、尾を堂に敷く。葉公之を見て、五色主無し。
〔解釈〕
葉(しょう)という所の王たる子高(しこう)という人物は大変に竜が好きであって、そのお屋敷に彫り込んだ装飾はすべて竜を彫り込み描いたものであったという。さてその噂を天上の竜が耳にして、その姿を地上の世界に示し、その頭を子高のお屋敷の窓から入れ、長い尾を部星中に引きずった。葉公(子高)はこれを見て顔の色がいろいろに変わった。
〔補説〕
中国人にとって竜は吉事をもたらす伝説上の生き物だとされている。ここでも葉公は自らの幸福と政治的安定等を祈っていたのであろう。ところが、その現れるはずのない竜が現れたのである。それも自分の目の前に。葉公の驚きようはただものではない。顔色がコロコロと変わったと言う。ここで「五色」とは文字通り「五つの色」であるが、ちなみに青・赤・黄・白・黒を指す。
(二)髀肉の嘆
英雄が天下無事のために功績をあげることができないのを嘆くこと 『十八史略』
〔書き下し文〕
劉備汝南より荊州に奔り、劉表に帰す。嘗て表の坐に於いて、起ちて厠に至る。還りて慨然として流涕す。表怪しみて之を問ふ。備曰く、「常時身鞍を離れず。髀肉皆消ゆ。今復た騎せず。髀の裏肉生ず。日月は流るるが如く、老の将に至らんとするに、功業建たず。 是を以て悲しむのみ。」と。
〔解釈〕
劉備玄徳は汝南より荊州に奔り、劉表という人物のもとへ逃げ込んだ。ある日、劉表の座敷で話をしていたが、立って厠へ行った。厠から帰って来ると劉備は嘆きうなだれて涙をはらはらと流したのである。劉表は不審に思い、なぜ泣くのかと問うた。劉備が言うには、「私は常に(戦場に馬を走らせていたので)馬の鞍から身が離れるということはなかった。だからももの肉は(鞍に擦れて)全く消えてなくなっていたのだ。ところが今はあれから再び馬に乗っていない。ももの内側にぜい肉がついてしまった。月日の経(た)つのは水が流れるかのごとく、老境はもうすぐそこまで来ているというのに、私の功績はいっこう立たない。ですから悲しんでいるのです。」と。
〔補説〕
出典は『十八史略』だが、もとは『三国志』である。劉備玄徳とは蜀の皇帝となり、関羽、張飛、諸葛孔明らと活躍をする人物だが、この時はまだ鳴かず飛ばずの状態であった。男たるもの、戦に行って手柄をあげるのが生きがいであった時代である。
(三)洛陽の紙価貴し 著作が盛んに世に行われること 『晋書』
〔書き下し文〕
左思字は太沖、斉国の臨?の人なり。貌寝口訥にして辞藻荘麗なり。『斉都賦』を造り、一年にして乃ち成る。復た三都を賦せんと欲して、思ひを構ふること十稔。賦成るに及び、時人未だ之を重んぜず。張華見て曰く、「班張の流なり。」と。是に於いて競ひて相伝写し、洛陽之が為に紙貴し。
〔解釈〕
左思という人物、字は太沖、斉国の臨?県の出身であった。身体は小さく、言葉は少ない人物であったが、彼の作った詩や文章は壮麗であった。『斉都賦』を造ったが、この作品は一年かかってようやく出来上がったものである。また今度は『三都賦』を作ろうと思い、十年間構想を練った。ようやくまあその賦が出来上がったのだが、当時の人々はまだこの作品を立派だと価値を認めなかった。張華という人物がこの作品を見て言った、「これは(漢の)班(はん)固(こ)(の『両都賦』)や張衡(こう)(の『二(に)京(けい)賦』)と肩を並べる程の作品だ。」と。そこで人々は先を争ってこの作品を写すようになり、このために洛陽では紙の値段が高くなったということだ。
〔補説〕
文中の「賦」とは詩歌の意。
(四)破天荒 率先して人の今だなさぬことをなすこと 『事類全書』
〔書き下し文〕
唐の荊州、毎解挙人多く名を成さず。号して天荒と曰ふ。蛻劉舎人荊州の解を以て及第するに至りて、破天荒と曰ふ。
〔解釈〕
唐の荊州の地では「解試」の試験がある度に、合格者すなわち「挙人」は今まで多くの試験があったのに、誰一人として出なかった。そこで人々はこの荊州の地を「天荒の地(立派な智者の輩出されない土地)だ。」と呼んだ。ところが、劉蛻という舎人が荊州の解試に合格し、そこで人々は「破天荒だ(ついに天荒を破ったぞ)。」と言い合った。
〔補説〕
中国で官吏となるにはまず初めに「解試」という地方政府の試験を受け、それに合格した後、次に「会試」という中央政府の試験を受けなければならない。この両方に合格した者を「挙人」と言う。なお文中の「舎人」とはある家の書生のことである。
(五)覆水盆に返らず
いったん成し終わったことは取り返しがつかないこと 『拾遺記』
〔書き下し文〕
太公初め馬氏を娶る。書を読みて産を事とせず。馬去らんことを求む。太公斉に封ぜらる。馬再び合せんことを求む。太公水一盆を取りて地に傾け婦をして水を収めしむ。惟だ其の泥を得たり。太公曰く、「若能く離れて更に合せんや。覆水定めて収め難し。」と。
〔解釈〕
太公(太公望呂尚)という人物は最初に馬氏を妻とした。ところが太公望は本ばかり読んで全く生活の面を顧みなかった。妻の馬氏は家を出たいと願った。(その後)太公望は斉の国に領地をもらった。そこで馬氏はもう一度妻になりたいと願い出た。太公望は盆に水を入れ、それを地面にこぼして、婦人にその水を盆に返すように命じた。妻はただただその泥をつかむだけだった。そこで太公望が言った、「お前は一度私のもとを離れ、再び一緒になるということはできないのだ。一度こぼれた水は何としても取り戻せないのだよ。」と。
〔補説〕
文中の「若」という字はここでは「なんぢ」と読んで「お前、あなた」の意。あるいは「ごとし」と読んで「~のようだ。」の意になることもある。漢文において「わかい」の意には「少、壮」等の字が用いられる。また「令婦収水。」の部分は使役形。「AをしてBせしむ。」の形に読む。「使」、「教」、「令」、「遣」などの字は使役の助動詞として「しム」と訓読する。
(六)宋襄の仁 いらぬ仁義だて 『十八史略』
〔書き下し文〕
宋は子姓、商紂庶兄微子啓の封ぜられし所なり。後世春秋に至り、襄公茲父といふ者有り。諸侯に覇たらんと欲して、楚と戦ふ。公子目夷、其の未だ陣せざるに及び之を撃たんと請ふ。公曰く、「君子は人を阨に困しめず。」と。遂に楚の敗る所と為る。世笑ひて以て宋襄の仁と為す。
〔解釈〕
宋の国は「子(し)」という姓の国で、殷の紂王の腹違いの兄である微子啓という人物が領地を与えられた所であった。後世、春秋時代になって襄公、名は茲父という王が即位した。諸侯の覇者となろうとして楚の国と戦った。(その時)その子である目夷という人物がまだ楚の国が戦陣を立てていないうちに攻め込もうと願い出た。ところが襄公は「君子たる人物は人が困っている時にはその人を更に苦しめないものだ。」と言った。そのままやがて、楚の国に敗れてしまった。世の人々はこれを笑って「宋襄の仁」と呼んだ。
〔補説〕
襄公は儒家の思想を律儀に守ろうとしたのであろうか。君子ばっているうちに楚の国に敗れてしまう。およそ宋の国はこのように笑われる人がよく登場する。最後の「AのBする所と為る。」は受身形の一種で「AにBされる。」と訳す。
(七)鼎の軽重を問う 天子の位を奪おうとすること 『春秋左氏伝』
〔書き下し文〕
楚子陸渾の戎を伐ちて、遂に洛に至り、兵を周の境に観す。定王 王孫満をして楚子を労はしむ。楚子鼎の軽重を問ふ。対へて曰く、「徳に在りて鼎に在らず。周の徳衰へたりと雖も、天命未だ改まらず。鼎の軽重、未だ問ふべからざるなり。」と。
〔解釈〕
楚の荘王(楚子)は陸渾の戎を討って、そのままの勢いで洛陽までやって来た。(そして)周の国境に兵を示した。(周の)定王は王孫満という人物に楚子をねぎらわせた。楚子は周の鼎の重さはどのくらいかと聞いた。(王孫満は)答えて言う、「問題は徳の在り方にあるのであって、鼎が重いかどうかにあるのではありません。周の徳は衰えたとはいっても天命は未だ改まってはおりません。(我が周の徳こそが天子の徳であり、あなたの楚の国は未だ臣下たる国であります。)あなたはまだ鼎の軽重などを問うことなどできないのです。」と。
〔補説〕
鼎の大きさが国家の力を象徴する時代の話である。勢いに乗じて周の鼎の軽重を問う楚の荘王。しかし天子の王室たるプライドをもって反駁(はんばく)する王孫満。その語気は強い。五文字の後、四文字のリズムが続く。なお、「未」の字は再読文字。「いまダ~ず。」と訓読する。
(八)蟷螂の斧 己の力量を知らずして大敵に向かうこと 『韓詩外伝』
〔書き下し文〕
斉の荘公出猟す。蟷螂有り、足を挙げて将に其の輪を搏たんとす。其の御に問ひて曰く、「此れ何の虫ぞや。」と。御曰く、「此れは是れ蟷螂なり。其の虫たるや、進むを知りて退くを知らず、力を量らずして軽く敵に就く。」と。荘公曰く、「以て人たらば、必ず天下の勇士たらん。」と。是に於いて車を廻らせて之を避く。而して勇士之に帰す。
〔解釈〕
斉の荘公が猟に出た。その時一匹のカマキリが足を挙げて今にも彼の馬車の車輪を打とうとしていた。荘公は御者に聞いて言った、「これは何の虫だ。」と。御者が答える、「これはカマキリという虫でございます。この虫は進むことは知っていますが、退くことは知らないのです。また自分の力も知らないで軽々しく敵に向かいます。」と。荘公が言う、「もしこれが人間なら必ずや天下の勇士であろう。」と。こういう訳で馬車を後戻りさせてそのカマキリを避けた。こんなことがあってから世の中の勇士が荘公のもとに集まって来た。
〔補説〕
「将」は再読文字。「まさニ~(ント)す。」と読む。
(九)三遷の教え 母が子に対して用意周到なる教育を施すこと 『列女伝』
〔書き下し文〕
孟軻の母、其の舎墓に近し。孟子の少きとき、嬉戯するに墓間の事を為し、踊躍築埋す。孟母曰く、「此れ以て子を居く所に非ざるなり。」と。乃ち去りて市に舎す。其の嬉戯するに賈衒を為す。孟母曰く、「此れ以て子を居く所に非ざるなり。」と。乃ち去りて学宮の旁に舎す。其の嬉戯するに乃ち爼豆を設け、揖譲進退す。孟母曰く、「此れ真に以て子を居くべし。」と。遂に之に居る。
〔解釈〕
孟子の母はその家が墓地の近くにあった。子供の孟子が幼い頃、彼は一人遊びの中で墓地でやる葬式の真似ばかりして、泣き悲しんで墓を築いたり埋めたりしていた。母は言った、「ここは子供を住まわせるべき場所ではない。」と。そこでその場所を去って今度は市場のそばに家を構えた。孟子は今度は商売の真似ばかりして遊んだ。母が言う、「ここ
も子供を住まわせる場所ではない。」と。そこでその場所を去って次に学校のそばに家を移した。すると孟子は祭祀に用いるまな板やたかつきを並べて両手を胸に組んだり、他人を先に立てて自分が後になって神に参拝する真似をして遊ぶようになった。母が言う、「こここそが本当に子供を住まわせるべき場所だ。」と。そこでそのままここに住んだ。
〔補説〕
有名な故事である。孔子の教えを受け継いだ孟子に、学問することのできる環境づくりりをしたのは他ならぬ、彼の母親であった。儒教集団は古くは葬式屋の集団であったらしいが、孟子の時代になるとすでに学問の対象からは外れていたことが分かる。それよりも祭祀のやり方を学ぶ方が大切だと考えられたのであろう。母親はこここそ最適な環境だと判断している。さて、この母は教育熱心であったようで、別の故事には、孟子が学問を中途半端であきらめようとしたことに対し、彼女は途中まで織っていた布の糸をぷつりと切って見せ、せっかく努力したことも途中でやめれば何にもならないということを示した、というのがある。
(十)四面楚歌 敵に囲まれて一人の味方もないこと 『史記』
〔書き下し文〕
項王の軍垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重なり。夜漢軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや。」と。
〔解釈〕
項王(項羽)の軍隊が垓下という場所にとりでを築いた。兵隊は少なく、食糧は尽きてしまった。(劉邦の率いる)漢の軍隊及び諸侯の兵隊がこれを数重に取り囲んだ。夜、漢軍のどこかしこで皆が楚の国の歌を歌うのを耳にし、項羽は随分驚いて言った、「漢は既に我が楚の兵を手にしたのか。何と楚の人々の多いことか。」と。
〔補説〕
始皇帝の亡き後、秦の国は既に倒れかかっていた。この機に乗じて倒秦の連合軍を挙げたのが項羽と劉邦であった。しかしやがてこれら二人の仲も割れ、お互いに戦いを始めた後の話であり、いよいよ劉邦の漢軍が楚の項羽軍を追い込んだときのくだりである。自分の味方であるはずの楚の人々が敵の軍にいて、故郷の歌を歌っているのだから、さすがに項羽も覚悟を決めた。最後の「何ぞ楚人の多きや。」は詠嘆形である。
(十一)梁上の君子 泥棒のこと 『後漢書』
〔書き下し文〕
陳寔太丘の長に除す。時に歳荒す。盗有り、夜其の室に入り、梁上に止まる。寔陰かに之を見、子孫を呼び色を正し之に訓へて曰く、「夫れ人自ら勉めざるべからず。不善の人、未だ必ずしも本より悪ならず。習ひて以て性と成り、遂に此に至る。梁上の君子是れなり。」と。盗大いに驚き、自ら地に投じて、稽首して罪に帰す。寔曰く、「君の状貌を視るに、悪人に似ず。当に貧困に由るべし。」と。絹二匹を遣らしむ。是より一県復た盗窃無し。
〔解釈〕
陳寔という人物が太丘という土地の長になった。ある時不作の年になった。泥棒が夜、彼の部屋にしのび込み、梁(はり)の上に隠れていた。陳寔はひそかにこれを見、子孫を呼び、顔色を正して彼らに諭(さと)して次のように言った、「そもそも人間たるものは自分で努力をしなくてはならない。世の悪い人々も元から悪人ではないのだ。良くない習わしを学んで、それが天性となり、そのまま悪い人間になってしまうのだ。あの梁の上にいる人間もその類いだ。」と。泥棒は随分驚き、自分から床に降りて来て額をこすりつけて謝罪した。陳寔は言った、「君の容貌を見るに、悪人とは思えない。きっと貧困のために仕方なくやったことであろうと。(陳寔は)絹二匹を与えてやった。このこと以来、彼の県内には一人も泥棒が出なくなった。
〔補説〕
陳寔は後漢の人。どうも仁者であったようだ。「梁」とは屋敷の柱と柱とを固定する横木を言う。その上に潜んでいた泥棒に絹を二匹も与える。「一匹」は反物で二反、二匹は従って四反である。ずいぶんな贈り物だ。
(十二)石に漱ぎ、流れに枕す 負け惜しみの強いこと 『晋書』
〔書き下し文〕
孫楚少き時隠居せんと欲し、王済に謂ひて、当に「石に枕し流れに漱がんと欲す」と云ふべきを、誤りて「石に漱ぎ流れに枕す」と云ふ。済曰く、「流れは枕すべきに非ず。石は漱ぐベきに非ず。」と。楚曰く、「流れに枕する所以は、其の耳を洗はんと欲すればなり。石に漱ぐ所以は其の歯を礪かんと欲すればなり。」と。
〔解釈〕
孫楚は若い時に隠棲(いんせい)生活を送ろうと思い、王済という人物に、「石に枕し清流に口すすいで過ごそうと思う。」と云うべきところを、間違って「石に口すすいで流れに枕する」と言ってしまった。王済が言う、「流れには枕することはできない。石では口をすすぐわけにはいかないだろう。」と。孫楚が言う、「流れに枕する理由は、その耳を洗おうとするからだ。石で口をすすぐ理由は、その歯を磨こうとするからなのだ。」と。
〔補説〕
夏目漱石がそのペンネームを取ったことで有名な故事である。自分も負け惜しみの強い人物だということで「漱石」としたのであろう。さて登場人物の孫楚という人物は晋の時代の人であるが、若くして隠遁(いんとん)しようと考えている。魏・晋・南北朝は動乱の時代であり、老荘思想が横行して人々は隠遁的な生活を欲したと言われる。また文中の「所以」は「ゆゑん」と読み、①「方法・手段」、②「原因・理由」の意味を持つ。ここでは②。
(十三)画竜点睛 事物の眼目となる点 『水衡記』
〔書き下し文〕
張某、金陵の安楽寺に于いて、四竜を壁に画き、睛を点ぜず。毎に曰く、「之を点ずれば即ち飛げ去らん。」と。人以て誕と為す。因りて其の一に点ずれば、須臾にして雷電壁を破り、一竜雲に乗りて上天す。睛を点ぜざる者は、皆在り。
〔解釈〕
張某という人物が金陵の安楽寺において、四匹の竜を壁に描いたが、瞳は入れなかった。そして彼は常に言っていた、「これに瞳を入れるとこの竜はすぐに飛び去ってしまうだろう。」と。人々はこの言葉をでたらめだと思っていた。そこで(張某は)そのうち一つの竜の絵に瞳を書き入れると、すぐに稲妻が壁を破って一匹の竜が雲に乗って天に昇って行った。瞳を書き入れていない竜は皆そのままであった。
〔補説〕
「誕」は「でたらめ、嘘」の意。「須臾」は「わずかな時間」のことで、「すぐに」などと訳される。
(十四)推敲 文章の字句を練ること 『素雑記』
〔書き下し文〕
賈島初め挙に京師に赴く。一日驢上に於いて句を得たり。云ふ、「鳥は宿る池辺の樹、僧は敲く月下の門。」と。始め推の字を着けんと欲し、又敲の字を着けんと欲す。之を練りて未だ定まらず。遂に驢上に於いて吟哦し、時時手を引きて推敲の勢ひを作る。時に韓愈吏部権の京尹たり。島覚えず衝きて第三節に至る。左右擁して尹前に至る。島具さに得る所の詩句を対へて云云す。韓馬を立てて良久しくして島に謂ひて曰く、「敲の字に作る佳し。」と。遂に轡を並べて帰る。
〔解釈〕
賈島という人物は初め科挙に応ずるため都に赴いた。ある日、驢馬の上でふと詩句を思いついた。それは、「鳥は宿る池辺の樹、僧は敲く月下の門」という句であった。初めは「推」の字を置こうと思い、次に「敲」の字を置こうと考えた。何度も「推」「敲」いずれの字か良いか考えたが未だ決定できなかった。そのまま驢馬の上で口に出して詩吟をし、時々は手を伸ばして「推(お)」したり「敲(たた)」いたり、その格好をしてみたりした。時にあの韓愈吏部という人物が仮の市長代理をやってい(て向こうからやって来)た。賈島は気づかずにその一行の三番目の隊列の中まで入り込んでしまった。韓愈の側近の者達は彼を捕らえ韓愈の前に引き連れて来た。賈島は詳しく考えついた詩句を述べた。韓愈は馬を止めてしばらく考えた後に賈島に言った、「敲の字に作るのが良いだろう。」と。そのまま二人は馬と驢馬の轡を並べて帰った。
〔補説〕
何故、かの韓愈は「敲」の字の方がふさわしいと言ったのだろう。静かな月夜に僧侶の門を叩く音だけがすることの面白さを認めてのことか。なお、賈島はやがて立派な詩人になり、『長江集』という作品を残している。
(十五)燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや
小人には大人物の考えていることはわからないこと 『史記』
〔書き下し文〕
陳勝は、陽城の人なり。字は渉。〔中略〕陳渉少き時、嘗て人と傭耕す。耕を輟めて壟上に之き、帳恨すること之を久しくして、曰く、「苟くも富貴なりとも相忘るること無からん。」と。傭者笑ひて応へて曰く、「若傭耕を為す。何ぞ富貴ならんや。」と。陳渉太息して曰く、「嗟乎、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」と。
〔解釈〕
陳勝は、陽城の生まれである。字は渉と言う。〔中略〕陳渉が若い時、かつて人と一緒に雇われて農耕していた。耕す手を止めて小高い丘の上に行き、長い時間ため息をついて次のように言った、「もしも富貴な身となってもお互いに忘れることが無いようにしよう。」と。雇い主が笑って答えて言った、「お前はを雇われて耕作をしている身だ。どうして富貴な身分になることがあろう、いや、そんなことがあるはずがないじやないか。」と。陳渉は大きなため息をついて言った、「ああ、燕や雀のようなつまらぬ人物にどうして鴻鵠のような大きな鳥の抱いている志が分かるであろう、いや分かるはずがない。」と。
〔補説〕
「傭」とは「人を雇う」の意。「帳」は「失意」の意。「燕雀」はここでは雇い主を指すのであろう。一方、「鴻鵠」は陳渉自身を指しているのであろう。顔師古の『考証』には次のように記されている。「鴻とは大鳥なり。水に居る。鵠とは黄鵠なり。一挙千里。」とある。なお、文中の「何~也。」「安~哉。」は反語形。
(十六)涙を揮って馬謖を斬る
かわいいからといって法をまげずに罰すべきは罰すること 『十八史略』
〔書き下し文〕
明年大軍を率ゐて、祁山を攻む。戎陣整斉、号令明粛なり。始め魏昭烈既に崩じ数歳寂然として聞くこと無きを以て、略備ふる所無し。猝に亮の出づるを聞き、朝野恐懼す。是に於いて天水・安定等の郡、皆亮に応じ、関中響震す。魏主長安に如き、張某をして之を拒がしむ。亮馬謖をして諸軍を督して街亭に戦はしむ。謖亮の節度に違ふ。張某大いに之を破る。亮政を為すに私無し。馬謖素より亮の知る所と為る。敗軍するに及び、流涕して之を斬り、而して其の後を憐む。
〔解釈〕
(諸葛亮孔明は)明年、大軍を率いて、祁山という場所を攻めた。兵士の隊列はきちんと整っており、号令は明らかで粛然としていた。初め魏の国は、蜀の国の昭烈皇帝が崩じてから既に数年、ひっそりとして何の噂も聞くことがないので、ほとんど(蜀の国に対する)備えをしていなかった。にわかに諸葛亮の軍隊が出動したのを聞き、朝廷も在野の人民も慌てて恐れた。そこで天水・安定等の郡の軍隊は、いずれも諸葛亮の軍隊に応じ、関中の地は震えるごとく動揺した。魏の国の王は長安に逃げ、張某に命じてこの諸葛亮の進軍を防がせた。諸葛亮は馬謖という将軍に諸軍を指揮して街亭という場所で戦わせた。馬謖は諸葛亮の指図に背いた。張某は大いにこの馬謖の軍を破った。さて諸葛亮という人間は政治をする上で私心をさし挟まぬ人物であった。馬謖は平生から諸葛亮から信用されていた。敗軍したことで、涙を流してこれを斬った、しかし彼の残された遺族を厚く世話した。
〔補説〕
三国時代の蜀の国の参謀・諸葛亮孔明。思想史上では彼は法家思想に属される。しかし、日頃から信頼している馬謖を斬らねばならぬ段になって、孔明は涙を流している。実は同様のことがその前に関羽との間にあった。厳正な処分を下そうと主張する孔明と、関羽は自分の兄弟とも言える人物だからそれはならぬ、と反駁する蜀王・劉備玄徳。この時は孔明が引き下がった。鋭敏な頭脳と、ある意味では残酷な所も持ち合わせた英才・孔明。そんな人物をこの時代は求めていたのだろう。
(十七) 鶏鳴狗盗 卑しい人のこと 『史記』
〔書き下し文〕
秦の昭王孟嘗君を囚へ、謀りて之を殺さんと欲す。孟嘗君人をして昭王の幸姫に抵り解かんことを求めしむ。幸姫曰く、「妾願はくは君の狐白裘を得ん。」と。此の時孟嘗君一狐白裘有るも、秦に入りて之を昭王に献じ、更に他の裘無し。孟嘗君之を患ひ、遍く客に問ふ。能く対ふるもの莫し。最下の坐に能く狗盗を為す者有り。曰く、「臣能く狐白裘を得ん。」と。乃ち夜狗と為り、以て秦宮の蔵中に入り、献ずる所の狐白裘を取りて至り、以て幸姫に献ず。幸姫為に昭王に言ふ。昭王孟嘗君を釈す。出でて函谷関に至る。関の法鶏鳴きて客を出だす。客に鶏鳴を為す者有り。鶏悉く鳴く。是に於いて関を開きて之を出だす。
〔解釈〕
秦の昭王が孟嘗君を捕らえ、だまして彼を殺そうとした。孟嘗君は人を昭王のお気に入りの姫のもとに行かせ、解放してくれることを(昭王にお願いしてほしいと)依頼させた。その姫が言う、「私は(其の報酬として)願わくはあなたの狐の白毛の皮衣をいただきたい。」と。この時、孟嘗君は狐の白毛の皮衣を一枚だけ持っていたが、秦に入った時にこれをを昭王に献上してしまっていて、もう他には無かった。孟嘗君はこれを心配し、従えて来た食客全員に問うた。しかしその心配に応えることのできる者はいなかった。一番下の席に犬の真似をして盗みをなすことのできる者がいた。その者が言う、「私なら狐の白い皮衣を手に入れて見せましょう。」と。そこで夜、犬の真似をして、秦の宮殿の蔵の中に入り、昭王に献上していた狐の白い皮衣を盗んで来て、かの姫に献上した。姫はそこで昭王に孟嘗君を解放するように言った。昭王は孟嘗君を釈放した。(孟嘗君一行は)秦の国を出て函谷関に至った。関所の決まりでは鶏が鳴いてから、つまり朝になってから客を出すことになっていた。孟嘗君一行の食客の中に鶏の鳴き声のもの真似ができる者がい(て鳴い)た。すると本物の鶏が一斉に鳴いた。そこで関所を開けてこの一行を通らせてやった。
〔補説〕
「裘」は「皮衣」の意。中原中也の詩『汚れちまつた悲しみに』に「たとへば狐の革裘(かわごろも)」と出てくる、あれである。文中の「使」は「しム」と読んで使役形を作る。
(十八)鶏を割くに焉くんぞ牛刀を用ゐん
つまらぬことに大人物・大手腕を使う必要はないこと 『論語』
〔書き下し文〕
子武城に之き、弦歌の声を聞く。夫子と莞爾して笑ひて曰く、「鶏を割くに焉くんぞ牛刀を用ゐんや。」と。子游対へて曰く、「昔、偃や諸を夫子に聞けり。曰く、『君子道を学ベば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使ひ易きなり。』」と。 子曰く、「二三子、偃の言は是なり。前言は之に戯むれしのみ。」と。
〔解釈〕
孔子が武城という街に行き、弦歌の音を聞いた。先生はにっこりと笑って言った、「鶏を割くのにどうして牛を切る大きな刀を用いる必要があろう。」と。子游が答えて言った、「昔、私は次の事を先生から聞きました。先生はおっしやいました、『君子たる立派な人物が(礼楽の)道を学べば人を愛し、小人たるつまらぬ人間でも(礼楽の)道を学べば使いやすくなる。』」と。孔子は言った、「お前たちよ、偃の言葉は正しい。先ほどの私の言葉は冗談に過ぎない。」と。
〔補説〕
「鶏を割くのに……」の孔子の言葉は孔子自ら口にしているように、もともと本気ではない。若い門人の子游が礼楽の政治を実践していることに内心喜んでいるのである。しかし武城という街は小さな街であった。こんな小さな街で礼楽の政治は少し大袈裟じやないのかね、という冗談だったのである。しかし若くまじめな子游には通じない。先生ご自身がおっしやたのではありませんか、と反駁(はんばく)している。孔子もさすがに非を認めねばならぬ。その後すぐに素直に謝っている。ちなみにこの子游の教えを、その後受け継いだのが、かの荀子である。
(十九)杞憂 無用の心配のこと 『列子』
〔書き下し文〕
杞国に、人の天地崩墜して、身の寄する所亡きを憂へて、寝食を廃する者有り。又彼の憂ふる所あるを憂ふる者有り。因りて往きて之を暁して曰く、「天は積気のみ。處として気亡きは亡し。屈伸呼吸のごときは、終日天中に在りて行止す。奈何ぞ崩墜を憂へんや。」と。其の人曰く、「天は果たして積気なるも、日月星宿、当に墜つべからざるか。」と。之を暁す者曰く、「日月星宿も亦た積気中の光耀有る者のみ。只ひ墜ちしむるも亦た中傷する所有る能はず。」と。其の人曰く、「地の壊るるを奈何せん。」と。暁す者曰く、「地は積塊のみ。四虚に充塞し、處として塊亡きは亡し。躇歩のごときは、終日地上に在りて行止す。奈何ぞ其の壊るるを憂へんや。」と。其の人舍然として大いに喜ぶ。之を暁す者も亦た舍然として大いに喜べり。
〔解釈〕
杞という国に、天地が崩れ落ちて、身の置き場がなくなってしまうことを心配して、寝食をも忘れた人がいた。またその人がそうやって心配しているのを心配している人もいた。そこで心配しているその人の所へ行って教え諭(さと)して言うには、「天は気が積み重なっただけのものだ。気のない所はない。屈伸や呼吸のごとき行為は、一日中天の中において行われている。どうして(天が)崩れて落ちると心配する必要があろう。」と。その人が言った、「天は果たして気の積み重ねであっても、太陽や月や星などは、さぞや落ちないことがあろうか。」と。彼を諭している人が言った、「太陽、月、星も気の積み重なったもので、光っているに過ぎない。たとえ落ちたとしても怪我をさせることはできないのだ。」と。その人が言う、「土地の崩れるのをどうしよう。」と。諭す者が言う、「地は土の塊に過ぎない。四方の果てまでいっぱいに充塞しており、土の塊がない所はない。地に足をつけ踏み歩くような事は、一日中地上において行われているじゃないか。どうして土地が崩れるような事を心配する必要があろうか。」と。その心配していた人はさっぱりとして大いに喜んだ。彼を諭していた者もまたさっぱりとして大いに喜んだ。
〔補説〕
周の頃の話である。科学的知識のなかった時代のことなので、現代人の我々からすれば、心配する内容も実にお粗末と言わざるを得ない。さて、文中の「A亡きは亡し。」の形は二重否定。また「只」の字は「もシ」と読んでもよい。仮定の用法である。また「舍」の字は「釈」の字に等しい。なお、注意してもらいたいが、「舎」の字ではない。
(二十)邯鄲の夢 一生の栄枯盛衰は一時の夢に過ぎないこと 『枕中記』
〔書き下し文〕
開元十九年道者呂翁邯鄲の邸舎の中に于いて少年廬生に値ふ。自ら其の困を歎ず。翁嚢中の枕を操りて之に授けて曰く、「此を枕せば当に子をして栄適意のごとくならしむべし。」と。生寐中に清河崔氏の女を娶り、進士に挙げられて甲科に登り、河西隴右の節度使に官し、尋いで中書侍郎・同中書門下平章事に拝せられ、大政を掌ること十年、趙国公に封ぜられ、三十余年中外に出入して、崇盛比無し。老いて骸骨を乞ふも許されず。官に卒す。欠伸して寤む。初め主人黄粱を蒸して饌を為る。時に尚ほ未だ熟せざるなり。呂翁笑ひて謂ひて曰く、「人世の事、亦た猶ほ是くのごとし。」と。生曰く、「此れ先生吾が欲を窒ぐ所以なり。敢て教へを受けざらんや。」と。再拝して従ひて去る。
〔解釈〕
開元十九年に道士の呂翁が邯鄲の宿屋の中で少年の廬生に出会った。(廬生は)自分の身の貧困を嘆いた。呂翁は袋の中から枕を取り出して彼に与えて言った、「これを枕にして寝れば、お前はきっと栄達を思いのままにできるだろうよ。」と。廬生はその夢の中で、清河の崔氏の娘を娶(めと)り、一番の成績で進士に合格し、河西隴右の節度使の役職に就き、続いて中書侍郎・同中書門下平章事に任ぜられ、大政を掌ること十年の後、趙国公に出世し封ぜられ、三十余年間、朝廷の内外に出入りして、その権勢の高さは比べものにならぬほどであった。老いて辞職を願ったが許されなかった。そのまま官職についたまま死んだ。……(そんな夢から)あくびをして目が覚めた。この夢を見る前、宿屋の主人が黄粱を蒸してめしを作っていた。ところが夢から覚めた時、やはりまだ炊けていなかった。呂翁は笑って言った、「人の世の事とは、ざっとこのようなものだ。」と。廬生が言う、「これこそ呂翁先生が私の欲望をふさぐおつもりでなさった事なのだ。どうして先生の教えを受けないでいられよう。」と。再拝して呂翁の弟子となり、その場を去った。
〔補説〕
呂翁はまぎれもなく隠者であろう。老子・荘子の流れを汲む人物である。世俗的な欲望にかられている廬生に、脱俗の教えを諭(さと)したというところか。さて、文中の「当」の字は再読文字で、「まさニ……ベシ」と読む。また「未」の字も同様に「いまダ……ず」と読む。また「猶」の字は「なホ……ごとシ」と読む。最後の「敢不……。」の形は反語形。「あヘテ……ざらんや。」と訓読する。
(ニ一) 矛盾 つじつまが合わないこと 『韓非子』
〔書き下し文〕
楚人に盾と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉めて曰く、「吾が盾の堅きこと、能く陥す莫きなり。」と。又其の矛を誉めて曰く、「吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無きなり。」と。或るひと曰く、「子の矛を以て、子の盾を陥さば何如。」と。其の人応ふる能はざるなり。
〔解釈〕
楚の国の人に盾と矛とを売る者がいた。まずこの盾を誉めて言う、「私の盾の堅いことときたら、何物も突き通すことはできない。」と。次にその矛を誉めて言う、「私の矛の鋭利なことは、物の中で突き通さないものは何もない。」と。(それを聞いていた)ある人が言った、「お前さんの矛で、お前さんの盾を突いたならどうなるのかね。」と。その商人は答えることができなかった。
〔補説〕
これも有名な故事である。「与」の字は「A与B」となると「AとBと」と訓読する。また「何如」は「いかん」と読み、様子・状態を問う疑問詞のはたらきをする。
(二二) 晏子の御
わずかな地位を頼んで驕り高ぶる器量の小さい者のこと 『史記』
〔書き下し文〕
晏子斉の相と為る。出づ。其の御の妻、門間より其の夫を窺ふ。其の夫相の御と為り、大蓋を擁し駟馬に策ち、意気揚揚として、甚だ自得せり。既にして帰る。其の妻去らんことを請ふ。夫其の故を問ふ。妻曰く、「晏子は長六尺に満たず。身斉国に相として、名は諸侯に顕る。今妾其の出づるを観るに、志念深し。嘗に以て自ら下る者有り。今子は長八尺、乃ち人の僕御たり。然れども子の意自ら以て足れりと為す。妾是を以て求むるなり。」と。其の後夫自ら抑損す。晏子怪しみて之を問ふ。御実を以て対ふ。晏子薦めて以て大夫と為す。
〔解釈〕
晏子という人物が斉の国の大臣になった。(ある日)外出した。その御者の妻が、門の間よりその夫を見ていた。その夫は大臣の御者となって、大蓋を立て四頭立ての馬車に鞭打って、意気揚々としていて、たいそう得意気であった。やがて家に帰ってきた。その妻は彼のもとを去ることを願い出た。夫はその理由を問うた。妻が言うには、「晏子様は背丈が六尺に満たない。しかしその身は斉国の大臣として、名は諸侯に知られている。今私はかの方の外出なさるのを見るに、考えの深い方でいらっしゃいます。いつでもへりくだって謙虚でいらっしやいます。今あなたは背丈が八尺もあるのに、他人様の御者にしかなれません。そのくせあなたの心は自ら満足しておられます。私はこういう訳で去ることを求めるのです。」と。その後夫は自らへりくだるようになった。晏子は不審に思って訳を聞いた。御者はありのままを答えた。晏子は彼を推薦して大夫としてやった。
〔補説〕
「従」は「自」の字と同じく「~より」と読み、起点の意を表す。また「大蓋」は馬車の上に立てる大きな傘のような屋根を言う。
(二三) 月下氷人 仲人のこと 『晋書』
〔書き下し文〕
策枕字は叔徹、術数占候を善くす。令狐策夢に氷上に立ちて氷下の人と語る。枕曰く、「氷上は陽たり、氷下は陰たり。陰陽の事なり。君氷上に在りて氷下の人と語る。陽陰と語ると為す。媒介の事なり。君当に人の為に媒を作し氷溶けて婚成るべし。」と。会太守田豹、策に因りて子の為に張公徴の女を求む。仲春にして婚を成す。
〔解釈〕
策枕という人物は字を叔徹と言い、はかりごとと占いを得意としていた。令狐策という人物が夢の中で氷の上に立って氷の下の人と語った。策枕が言う、「氷の上は陽であり、氷の下は陰である。つまり君の夢は陰陽の事なのだ。君は氷の上にいて氷の下の人と語った。陽が陰と語るという事だ。媒介の事である。君はきっと誰かの為に仲人をして氷が溶ける頃に婚姻が成立するだろう。」と。たまたま太守の田豹という人物が、策枕を頼って息子の為に張公徴の娘を求めた。仲春の季節になって成婚した。
〔補説〕
この話の他に『続幽怪録』の中に、月に向かって仙人が天下の婚姻を調べているという話があり、これと合わせて「月下氷人」という言葉が仲人を指すようになった。なお、『続幽怪録』によると夫婦となる二人は赤い糸ならぬ、赤い縄で結ばれているのだそうで、中国の夫婦は日本の夫婦よりも強い結び付きがあるようだ。
(二四) 白眼視 冷淡な目つきのこと 『晋書』
〔書き下し文〕
阮籍礼教に拘らず。能く青白眼を為し、礼俗の士を見れば、白眼を以て之に対す。喜の来たり弔するに及び、籍白眼を作す。喜悦ばずして退く。喜の弟康之を聞き、乃ち酒を持し琴を挟んで造る。籍大いに悦び乃ち青眼を見はす。是に由りて礼法の士、之を疾むこと仇のごとし。
〔解釈〕
阮籍は礼儀や教化にかまわない人物であった。彼は黒眼と白眼を使い分ける事ができ、礼儀や風習にこだわる人を見ると、白眼をしてその人と対した。喜という人物が来て喪を弔した時に、阮籍は白い眼をした。喜は気分を害して帰った。喜の弟の康という人物がこの話を聞き、そこでまあ酒を携え琴を脇にかかえてやって来た。阮籍は随分喜んで、そこで黒い眼を見せた。こういうわけで礼法を重んじる人達は、阮籍の事をまるで敵のように憎んだ。
〔補説〕
阮籍・康ともに竹林の七賢人である。彼らの生きた時代は王朝の交替激しく、民心は不安定な状態となっていた。そこで隠遁的な老荘思想が流行し、竹林の七賢人は酒を飲み、琴を弾じて清談にふけった。ここでも康が持って来た酒と琴とに阮籍は喜んでいる。 なお、文中の「見」の字は「現」の字に等しい。
(ニ五) 管鮑の交わり 親密な交際のこと 『史記』
〔書き下し文〕
管仲曰く、「吾始め困しみし時、嘗て鮑叔と賈す、財利を分かつに多く自ら与ふ。鮑叔我を以て貪と為さず。我の貧しきを知ればなり。吾嘗て鮑叔の為に事を謀りて更に窮困す。鮑叔我を以て愚と為さず。時に利と不利と有るを知ればなり。吾嘗て三たび仕へて三たび君に逐はる。鮑叔我を以て不肖と為さず。我の時に遭はざるを知ればなり。吾嘗て三たび戦ひ三たび走る。鮑叔我を以て怯と為さず。我に老母有るを知ればなり。公子糾敗れ、召忽之に死す。吾幽囚せられて辱しめを受く。鮑叔我を以て恥無しと為さず。我の小節を羞ぢずして功名の天下に顕れざるを恥づるを知ればなり。我を生む者は父母、我を知る者は鮑子なり。」と。
〔解釈〕
管仲が言う、「私は昔貧しかった時、かつて鮑叔と一緒に商売をして、利益を自分の方に多く取った。鮑叔は私のことを貪欲だとはしなかった。私の貧しさを知っていたからだ。私はかつて鮑叔の為に事を計画してやったが更に彼を困らせる結果となってしまった。鮑叔は私のことを愚かだとはしなかった。時勢には有利と不利とが有るという事を知っていたからである。私はかつて三度仕官して三度とも君主からクビにされた。鮑叔は私のことを役立たずとはしなかった。私が時勢に合わないのを知っていたからである。私はかつて三度戦に行き三度とも逃げた。鮑叔は私のことを臆病者だとはしなかった。私には年老いた母がいるのを知っていたからである。(私の主君である)公子の糾が敗れ、(同僚の)召忽がこの為に死んだ。私は牢屋に入れられて辱しめを受けた。鮑叔は私のことを恥知らずだとはしなかった。私が小さな節義を恥じず功名が天下に現れない事を恥じるのを知っていたからである。私を生んだ者は父母であるが、私を理解してくれる者は鮑叔である。」と。
〔補説〕
対句を多用した簡潔な文章であるが、この管仲とは春秋時代に、斉の桓公を補佐して桓公を諸侯のはたがしらとした人物である。管仲の「管」と鮑叔の「鮑」とを取って「管鮑の交わり」と言う。
(二六) 背水の陣
全力を尽くして成敗を試みんと覚悟を決める態度のこと 『十八史略』
〔書き下し文〕
三年、韓信・張耳兵を以ゐて趙を撃ち、兵を井?口に衆めんとす。趙王歇及び成安君陳余之を禦ぐ。李左車余に謂ひて曰く、「井?の道、車軌を方ぶるを得ず、騎列を成すを得ず。其の勢ひ糧食必ず後ろに在らん。願はくは奇兵を得て間道より其の輜重を絶たん。足下溝を深くし壘を高くし、与に戦ふこと勿れ。彼前みて闘ふを得ず、退きて還るを得ず、野に椋むる所無し。十日ならずして、両将の頭、麾下に致すべし。」と。余は儒者にして自ら義兵と称し、奇計を用ゐず。信間かに之を知り、大いに喜び乃ち敢て下る。未だ井?口に至らずして止まり、夜半に軽騎二千人を伝発し、人ごとに赤幟を持ち、間道より趙の軍を望ましむ。戒めて曰く、「趙我が走るを見ば、必ず壁を空しくして我を逐はん。若ら疾く趙の壁に入り、趙の幟を抜きて、漢の赤幟を立てよ。」と。乃ち万人をして先づ水を背にして陣せしむ。平旦大将の旗鼓を建て、鼓行して井?口を出づ。趙壁を開きて之を撃つ。戦ふこと良久し。信・耳佯りて鼓旗を棄てて、水上の軍に走る。趙果たして壁を空しくして之を逐ふ。水上の軍皆殊死して戦ふ。趙の軍已に信等を失ひて壁に帰り、赤幟を見て大いに驚き、遂に乱れて遁走す。漢軍夾撃して大いに之を破り、陳余を斬り、趙歇を禽にす。
〔解釈〕
(漢の)三年、(漢の高祖の臣下の)韓信と張耳の二人が兵を率いて趙の国を撃つ事になり、兵を井?口という場所に集めようとした。趙王の歇及び成安君たる陳余がこれを防ぐ事になった。李左車という人物が陳余に向かって言う、「井?口の道は、車が車輪を並べる事ができないほど狭く、騎兵は列を成す事もできません。敵の勢いは食料が必ずや隊列の後ろに置かれるでしょう。願わくは奇兵を賜り間道より敵の兵糧を積んだ車を絶ちましょう。あなたは溝を深くしとりでを高く築いて、一緒に戦ってはなりませぬ。敵は前へ進んで闘う事ができず、退いて戻る事もできない、野に於いて椋奪する事もできない。十日もたたないうちに、二人の将軍の首は、あなたのもとへ持って来る事ができましょう。」と。陳余は儒者であり自ら義兵と称していて、奇計を用いなかった。韓信はひそかにこの事を知り、大いに喜んでそこでまあ思い切って趙へ攻め込んだ。まだ井?口に至らないうちに兵を止め、夜半に身軽な騎兵二千人に命令を伝えて出発させ、全員赤いのぼりを持たせ、抜け道から趙の軍の見張りをさせた。また戒めて次のように言った、「趙は私が退却するのを見れば、必ずや城を空にして私を追って来るだろう。お前たちは素早く趙の城に入り、趙ののぼりを抜いて、我が漢の赤いのぼりを立てよ。」と。そして一万人に(別動隊として)まず川を背にして陣を敷かせた。夜が明けて(本隊は)大将の旗を立て鼓を打って、鼓を打ちながら行進し井?口を出た。(それを見て)趙は城を開いてこれを撃った。ややしばらく戦った。韓信・張耳はかなわぬふりをして鼓と旗とを棄てて、川を背にした軍に向かって逃げた。趙軍は予測通り城を空けてこれを追った。川を背にした軍は皆死を覚悟して戦った。趙の軍はやがて韓信等を討ちそこなって城に帰ったが、(敵の)赤いのぼりを見て大変驚き、そのまま乱れて敗走した。漢軍は挟み撃ちして大いにこれを破り、陳余を斬り、趙王の歇を捕虜とした。
〔補説〕
陳余は自ら儒者を気取っているうちに敵に殺されてしまった。このような戦乱の世では、それでは通用しないのであろう。これが有名な「井?口の戦」である。なお、漢の高祖とは本書(十)『四面楚歌』において楚の項羽を倒した漢軍の大将だった人物である。
(ニ七) 蛇足 要らぬ付け足しのこと 『戦国策』
〔書き下し文〕
楚に祠る者有り。其の舎人に卮酒を賜ふ。舎人相謂ひて曰く、「数人にて之を飲まば足らず。一人にて之を飲まばり餘り有り。請ふ地に畫きて蛇を為し、先づ成る者酒を飲まん。」と。一人の蛇先づ成る。酒を引きて且に之を飲まんとす。乃ち左手に卮を持ち右手もて地に畫きて曰く、「吾能く之が足を為さん。」と。未だ成らず。一人の蛇成る。其の卮を奪ひて曰く、「蛇固より足無し、子安くんぞ能く之が足を為さんや。」と。遂に其の酒を飲む。蛇の足を為る者、終に其の酒を亡へり。
〔解釈〕
楚の国に祭祀をする者がいた。その召し使いに杯に入った酒をふるまった。召使いたちはお互いに言い合った、「数人でこの酒を飲むと足らない。一人で飲めば余る。どうかこのようにしないか、地面に蛇の絵を描き、最初に完成した者が酒を飲む事にしよう。」と。ある一人の蛇の絵が最初に出来上がった。酒を手元に引いて今にも飲もうとした。そこでまあ左手で杯を持ち右手で地面に描きながら言った、「私はこの足を描くことができる。」と。未だ完成しなかった。そのうちに他のもう一人の蛇の絵が出来上がった。その杯を奪って言う、「蛇にはもともと足は無い、君はどうしてその足を描く事ができるのかい。」と。そのままその酒を飲んでしまった。蛇の足を描いた者は、とうとうその酒を飲めずじまいだった。
〔補説〕
有名な故事であるので多くの説明は必要無かろう。文中の二つの「つひニ」だが、一般に「遂」の方は「そのまま」というニュアンスを示し、「終」の万は「とうとう、しまいには」の意を示す。
(二八) 臥薪嘗胆 讎(あだ)を報いんとして苦心すること 『十八史略』
〔書き下し文〕
呉、越を伐つ。闔廬傷つきて死す。夫差立つ。子胥復た之に事ふ。夫差復讎せんと志す。朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰く、「夫差、而越人の而の父を殺したるを忘れたるか。」と。周の敬王二十六年、夫差越を夫椒に敗る。越王勾践、余兵を以て会稽山に棲み、臣と為り妻は妾と為らんと請ふ。子胥言ふ、「不可なり。」と。太宰某越の賂を受け、夫差に説きて越を赦さしむ。勾践国に反り、胆を坐臥に懸け、即ち胆を仰ぎて之を嘗めて曰く、「女会稽の恥を忘れたるか。」と。国政を挙げて大夫種に属し、范蠡と兵を治め、呉を謀るを事とす。越、十年生聚し、十年教訓す。周の元王四年、越、呉を伐つ。呉三たび戦ひ三たび北ぐ。夫差姑蘇に上り、亦成を越に請ふ。范蠡可かず。夫差曰く、「吾以て子胥を見る無し。」と。幎冒を為りて乃ち死す。
〔解釈〕
呉の国が、越の国を攻撃した。呉王の闔廬は傷ついて死んだ。その子の夫差が即位した。子胥という臣下は再びこれに仕えた。夫差は越に報復しようと考えていた。朝晩薪の中に体を横たえ、出入りする度にその人に次のように言わせた、「夫差よ、あなたは越の国の人があなたの父を殺したのを忘れたのか。」と。周の敬王の二十六年、夫差は越の国を夫椒という場所で敗った。越王の勾践は、生き残った兵を率いて会稽山に立て籠もり、自分は(夫差の)臣下となり妻は妾となろうと願い出た。子胥が言う、「だめです。(ここで越を滅ぽさねばなりません。)」と。執政の大臣であった某という人物は越の国から賄賂を受け、夫差を説得して越を許すように言った。勾践は自分の国に帰り、獣の胆を寝起きする所に懸けて、その胆を仰いでは嘗めて次のように言った、「お前は会稽山で受けた恥を忘れたのか。」と。国の政治は全て家老の種という人物に委嘱し、范蠡という家来と兵を磨き、呉を破る事ばかり考えていた。越の国は、十年間民を養い国を富まし、次の十年間は教育や訓練をした。周の元王の四年、越は、呉を伐った。呉は三度戦って三度とも逃げた。夫差は姑蘇という場所に逃げ上り、また和睦を越に申し出た。范蠡は拒否した。夫差が言う、「私は子胥の顔を(あの世で)見る事ができない。」と。死者が付ける布を顔にかぶせて死んだ。
〔補説〕
いずれもすさまじい執念である。薪を下にして背中に痛みを覚えた夫差も、肝を嘗めてその苦味に耐えた勾践も。それにしても呉と越はかように仲が悪い。「呉越同舟」という言葉も有名である。
(二九) 掣肘 干渉して妨げること 『孔子家語』
〔書き下し文〕
子賤魯に仕へて、単父の宰と為る。魯の君の讒言を聴いて己をして其の政を行ふを得ざらしめんことを恐れ、君の近吏二人を請ひて、之と倶に官に至る。子賤二吏をして書せしむ。書するに方り輒ち其の肘を掣く。書善からざれば則ち従ひて之を怒る。二吏之を患へ、帰りて君に報じて曰く、「子賤臣をして書せしむ。而して臣が肘を掣く。書悪しければ又臣を怒る。邑吏皆之を笑ふ。此れ臣が之を去りて来りし所以なり。」と。魯君以て孔子に問ふ。孔子曰く、「子賤は君子なり。意ふに此れを以て諫めを為すか。」と。公寤り、大息して歎じて曰く、「此れ寡人の不肖なり。寡人子賤の政を乱し、而も其の善を責むること数なり。」と。遽に愛する所の使ひを発して、子賤に告げて曰く、「今より以往、単父は吾が有に非ざるなり。子の制に従はん。」と。子賤敬して詔を奉じ、遂に其の政を行ふを得。是に於いて単父治まる。
〔解釈〕
子賤という孔子の門人が魯の国に仕え、単父という場所の宰となった。魯の君主がある人物からの讒言を聴いて自分に政治を行う事をさせないようにするのではないかと心配し、君主の近臣二人に依頼し、彼と一緒に赴任場所に赴いた。子賤はその二人の役人に字を書かせた。書き始めるとその度ごとにその肘を引っ張った。書いた字がうまく書けていないとそこでこの役人を叱った。二人の役人はこれに困り、国に帰って魯君に告げて言った、「子賤は私共に字を書かせました。しかし私共の肘を引っ張るのです。書いた文字が下手であると又私共を叱り付けます。村の役人たちはみんな私共を笑います。これが私共が彼から逃げて来た理由であります。」と。魯君はそこで孔子に相談した。孔子が言う、「子賤は君子たる人物です。思うにこういう手段で諫めをしようとしたのではないでしょうか。」と。魯公は悟り、大きな息をして嘆いて言った、「これは私が馬鹿であった。私は子賤の政治に干渉し、しかもその政治が悪い、政治が悪いと責めた事が度々あったよ。」と。早速お気に入りの使いを発して、子賤に告げて次のように言った、「今より以後、単父の地は私の所有だとは思わない。お前のやりたいように治めよ。」と。子賤は感激して詔を心にし、ついに政を行う事ができるようになった。こういう訳で単父の地はよく治まった。
〔補説〕
「輒」の字は「すなはチ」と読み、「その度ごとに」という意である。また「寤」の字は「悟」の字に等しい。なお、ここでの魯公とは哀公のことである。
(三十) 刎頸の交わり
生死を共にし首をはねられても悔いないほどの親しい関係のこと 『史記』
〔書き下し文〕
既に罷めて国に帰る。相如が功大なるを以て、拝して上卿と為す。位廉頗の右に在り。廉頗曰く、「我趙の将と為り、攻城野戦の大功有り。而るに藺相如は徒だ口舌を以て労と為し而も位我が上に居り。且つ相如は素賤人なり。吾之が下と為るに忍びず。」と。宣言して曰く、「我相如を見ば必ず之を辱しめん。」と。相如聞きて肯へて与に会はず。相如朝する時毎に、常に病と釈して、廉頗と列を争ふを欲せず。已にして相如出でて廉頗を望見す。相如車を引きて避け匿る。是に於いて舎人相与に諫めて曰く、「臣の親戚を去りて君に事ふる所以の者は、徒だ君の高義を慕へばなり。今君廉頗と列を同じくす。廉君悪言を宣ぶ。而して君畏れて之に匿る。恐懼すること殊に甚だし。且つ庸人すら尚ほ之を羞づ。況んや将相に於いてをや。臣等不肖なり。請ふ辞し去らん。」と。藺相如固く之を止めて曰く、「公の廉将軍を視るや秦王に孰与れぞ。」と。曰く、「若かざるなり。」と。相如曰く、「夫れ秦王の威を以てすら、而も相如之を廷叱し、其の群臣を辱しむ。相如駑なりと雖ども、独り廉将軍を畏れんや。顧みて吾之を念ふに、彊秦の敢へて兵を趙に加へざる所以の者は、徒だ吾が両人の在るを以てなり。今両虎共に闘はば、其の勢ひ倶には生きず。吾が之を為す所以の者は、国家の急を先にして私讎を後にするを以てなり。」と。廉頗之を聞き、肉袒して荊を負ひ、賓客に因りて藺相如の門に至り、罪を謝して曰く、「鄙賤の人、将軍寛くするの此に至るを知らざるなり。」と。卒に相与に驩して、刎頸の交はりを為す。
〔解釈〕
既に会見を終えて国に帰った。藺相如の功績が大きかったので、上卿に任ぜられた。その位は廉頗の上になった。廉頗が言う、「わしだって趙の将軍となって、城攻めや野での戦に大功があったのだ。それなのに藺相如はただ言葉だけで働きがあったとして位はわしの上にいる。その上相如はもともと卑しい身分の出身なのだ。わしはあいつの下となる事に我慢ならぬ。」と。そして宣言した、「わしは相如を見たら必ずやつを辱しめてやろう。」と。相如はこれを聞いて決して廉頗に会おうとはしなかった。相如は朝廷に出る度毎に、常に病気といいわけして、廉頗と席を争う事をしないようにした。やがて相如が外出をしていると廉頗の姿を遠くに見た。相如は車を引き返して避け姿を隠した。こういうわけで家来たちが一緒に相如を諫めて言った、「私共が親戚を去ってあなたに仕えた理由は、ただあなたの気高い行いを慕えばこそです。今あなたは廉頗殿と位を同じくしています。廉頗殿はあなたの悪口を述べました。そうするとあなたは恐れて逃げ隠れしていらっしやいます。その恐れ様といったらひど過ぎます。それに平凡な人物ですらこのような事は恥ずかしいと思います。将軍や宰相の身分にある人物ならばなおさらであります。私共は愚かであります。どうかお暇をいただきここを去らせていただきたい。」と。藺相如は固くこれを制止して言った、「お前たちが廉将軍を見て取るに秦の国王とどちらがこわいかね。」と。言う、「(廉頗殿は)秦の王には及びません。」と。相如が言う、「そもそも秦の王の威力をもってして、しかも私はこの王を朝廷で叱り付け、秦の群臣を辱しめたのだ。私は確かに愚か者だが、ただ廉将軍だけを恐れるような事があろうか。振り返って私が考えてみるに、強い秦の国が決して兵を我が趙の国に送り込んで来ない理由は、ただただ私と廉頗殿との二人がいるからである。今この二匹の虎とも言える二人が共に戦ったならば、その勢いは両方共には生きられぬ。私がこのような態度をする理由は、国家の大事を第一に考えて私的な恨み事を二の次にしようとしているからである。」と。廉頗がこの藺相如の言葉を噂で聞き、肌脱ぎになっていばらを背負い、相如の食客を頼ってその門に至り、それまでの罪を謝って言った、「私は心卑しく識見のない人間で、将軍がここまで寛大にせられたわけを知りませんでした。」と。ついにお互いともに親しくなり、首を刎ねられても悔いないほどの交わりを誓い合った。
〔補説〕
藺相如はこのくだりの前の部分で、秦の国での会見へ趙王に随行し、その席で見事に趙の窮地を脱する務めを果たした。彼は趙の宝であるところの「璧(璧玉)」を秦に奪われる事なく会見を終えた。これが有名な故事「完璧」の話である。右の部分はその後に続く部分であって、冒頭の「既に会見を終えて」はそのことを言っている。さて、文中の「不肯……」、「不敢……」はいずれも「あヘテ……ず。」と読み、「決して……しない。」という強い否定の意となる。また「況ンヤ……ヲヤ。」の句形は抑揚形と言い、「まして……ならばなおさらだ。」と基本的に訳される。最後に、この「刎頸の交わり」は本書(二五)の故事成語「管鮑の交わり」と等しい。
おわりに
古来より伝わつてゐるいはれのある事柄を理解し、実生活と結びつける事が出来れば、其の意味する所の奥深さを、より認識する事が出来るだらう。昔の出来事が身近な現実の出来事となる事は、同時に実生活を豊かなものにしていく事につながる。
繰り返し鑑賞して呉れる事を願ふと共に、以上の三十の故事のみにとどまらず、更に自分なりに研鑽を積んで呉れる事を期待したい。
『漢文故事成語三十選』
目 次
(一) 葉公、竜を好む (二) 髀肉の嘆
(三) 洛陽の紙価貴し (四) 破天荒
(五) 覆水、盆に返らず (六) 宋襄の仁
(七) 鼎の軽重を問う (八) 蟷螂の斧
(九) 三遷の教え (十) 四面楚歌
(十一)梁上の君子 (十二)石に漱ぎ、流れに枕す
(十三)画竜点睛 (十四)推敲
(十五)燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや (十六)涙を揮って馬謖を斬る
(十七)鶏鳴狗盗 (十八)鶏を割くに焉くんぞ牛刀を用いん
(十九)杞憂 (二十)邯鄲の夢
(二一)矛盾 (二二)晏子の御
(二三)月下氷人 (二四)白眼視
(二五)管鮑の交わり (二六)背水の陣
(二七)蛇足 (二八)臥薪嘗胆
(二九)掣肘 (三十)刎頸の交わり
はじめに
所謂故事成語とは、隣邦中国の歴史の中で起こつた史実そのもの、或ひは其の歴史の中で述べられた言葉を言ふ。其等には海を越え時代を超えて、現代に生きる我々の人生に対する箴言ともなる重みがある。
又、勿論其処には其の時代を生きた人々の生き生きとした姿がある。悲しみに暮れて涙を流す者、怒りに眉をつり上げる頑強な武将、人の生きるべき道を穏やかに説く君子、多種多様な人物がここには登場する。併し何れをとつても彼等は自らの人生を見事に生き抜いて居る。其の彼等の確かな息遣いを感じ取つて呉れる事を願ふ。
(一)葉公、竜を好む 名を好んで実を好まないこと 『荘子』
〔書き下し文〕
葉公子高の竜を好むや、彫文之を書く。是に於いて天竜聞きて之を示し、頭を窓より窺ひ、尾を堂に敷く。葉公之を見て、五色主無し。
〔解釈〕
葉(しょう)という所の王たる子高(しこう)という人物は大変に竜が好きであって、そのお屋敷に彫り込んだ装飾はすべて竜を彫り込み描いたものであったという。さてその噂を天上の竜が耳にして、その姿を地上の世界に示し、その頭を子高のお屋敷の窓から入れ、長い尾を部星中に引きずった。葉公(子高)はこれを見て顔の色がいろいろに変わった。
〔補説〕
中国人にとって竜は吉事をもたらす伝説上の生き物だとされている。ここでも葉公は自らの幸福と政治的安定等を祈っていたのであろう。ところが、その現れるはずのない竜が現れたのである。それも自分の目の前に。葉公の驚きようはただものではない。顔色がコロコロと変わったと言う。ここで「五色」とは文字通り「五つの色」であるが、ちなみに青・赤・黄・白・黒を指す。
(二)髀肉の嘆
英雄が天下無事のために功績をあげることができないのを嘆くこと 『十八史略』
〔書き下し文〕
劉備汝南より荊州に奔り、劉表に帰す。嘗て表の坐に於いて、起ちて厠に至る。還りて慨然として流涕す。表怪しみて之を問ふ。備曰く、「常時身鞍を離れず。髀肉皆消ゆ。今復た騎せず。髀の裏肉生ず。日月は流るるが如く、老の将に至らんとするに、功業建たず。 是を以て悲しむのみ。」と。
〔解釈〕
劉備玄徳は汝南より荊州に奔り、劉表という人物のもとへ逃げ込んだ。ある日、劉表の座敷で話をしていたが、立って厠へ行った。厠から帰って来ると劉備は嘆きうなだれて涙をはらはらと流したのである。劉表は不審に思い、なぜ泣くのかと問うた。劉備が言うには、「私は常に(戦場に馬を走らせていたので)馬の鞍から身が離れるということはなかった。だからももの肉は(鞍に擦れて)全く消えてなくなっていたのだ。ところが今はあれから再び馬に乗っていない。ももの内側にぜい肉がついてしまった。月日の経(た)つのは水が流れるかのごとく、老境はもうすぐそこまで来ているというのに、私の功績はいっこう立たない。ですから悲しんでいるのです。」と。
〔補説〕
出典は『十八史略』だが、もとは『三国志』である。劉備玄徳とは蜀の皇帝となり、関羽、張飛、諸葛孔明らと活躍をする人物だが、この時はまだ鳴かず飛ばずの状態であった。男たるもの、戦に行って手柄をあげるのが生きがいであった時代である。
(三)洛陽の紙価貴し 著作が盛んに世に行われること 『晋書』
〔書き下し文〕
左思字は太沖、斉国の臨?の人なり。貌寝口訥にして辞藻荘麗なり。『斉都賦』を造り、一年にして乃ち成る。復た三都を賦せんと欲して、思ひを構ふること十稔。賦成るに及び、時人未だ之を重んぜず。張華見て曰く、「班張の流なり。」と。是に於いて競ひて相伝写し、洛陽之が為に紙貴し。
〔解釈〕
左思という人物、字は太沖、斉国の臨?県の出身であった。身体は小さく、言葉は少ない人物であったが、彼の作った詩や文章は壮麗であった。『斉都賦』を造ったが、この作品は一年かかってようやく出来上がったものである。また今度は『三都賦』を作ろうと思い、十年間構想を練った。ようやくまあその賦が出来上がったのだが、当時の人々はまだこの作品を立派だと価値を認めなかった。張華という人物がこの作品を見て言った、「これは(漢の)班(はん)固(こ)(の『両都賦』)や張衡(こう)(の『二(に)京(けい)賦』)と肩を並べる程の作品だ。」と。そこで人々は先を争ってこの作品を写すようになり、このために洛陽では紙の値段が高くなったということだ。
〔補説〕
文中の「賦」とは詩歌の意。
(四)破天荒 率先して人の今だなさぬことをなすこと 『事類全書』
〔書き下し文〕
唐の荊州、毎解挙人多く名を成さず。号して天荒と曰ふ。蛻劉舎人荊州の解を以て及第するに至りて、破天荒と曰ふ。
〔解釈〕
唐の荊州の地では「解試」の試験がある度に、合格者すなわち「挙人」は今まで多くの試験があったのに、誰一人として出なかった。そこで人々はこの荊州の地を「天荒の地(立派な智者の輩出されない土地)だ。」と呼んだ。ところが、劉蛻という舎人が荊州の解試に合格し、そこで人々は「破天荒だ(ついに天荒を破ったぞ)。」と言い合った。
〔補説〕
中国で官吏となるにはまず初めに「解試」という地方政府の試験を受け、それに合格した後、次に「会試」という中央政府の試験を受けなければならない。この両方に合格した者を「挙人」と言う。なお文中の「舎人」とはある家の書生のことである。
(五)覆水盆に返らず
いったん成し終わったことは取り返しがつかないこと 『拾遺記』
〔書き下し文〕
太公初め馬氏を娶る。書を読みて産を事とせず。馬去らんことを求む。太公斉に封ぜらる。馬再び合せんことを求む。太公水一盆を取りて地に傾け婦をして水を収めしむ。惟だ其の泥を得たり。太公曰く、「若能く離れて更に合せんや。覆水定めて収め難し。」と。
〔解釈〕
太公(太公望呂尚)という人物は最初に馬氏を妻とした。ところが太公望は本ばかり読んで全く生活の面を顧みなかった。妻の馬氏は家を出たいと願った。(その後)太公望は斉の国に領地をもらった。そこで馬氏はもう一度妻になりたいと願い出た。太公望は盆に水を入れ、それを地面にこぼして、婦人にその水を盆に返すように命じた。妻はただただその泥をつかむだけだった。そこで太公望が言った、「お前は一度私のもとを離れ、再び一緒になるということはできないのだ。一度こぼれた水は何としても取り戻せないのだよ。」と。
〔補説〕
文中の「若」という字はここでは「なんぢ」と読んで「お前、あなた」の意。あるいは「ごとし」と読んで「~のようだ。」の意になることもある。漢文において「わかい」の意には「少、壮」等の字が用いられる。また「令婦収水。」の部分は使役形。「AをしてBせしむ。」の形に読む。「使」、「教」、「令」、「遣」などの字は使役の助動詞として「しム」と訓読する。
(六)宋襄の仁 いらぬ仁義だて 『十八史略』
〔書き下し文〕
宋は子姓、商紂庶兄微子啓の封ぜられし所なり。後世春秋に至り、襄公茲父といふ者有り。諸侯に覇たらんと欲して、楚と戦ふ。公子目夷、其の未だ陣せざるに及び之を撃たんと請ふ。公曰く、「君子は人を阨に困しめず。」と。遂に楚の敗る所と為る。世笑ひて以て宋襄の仁と為す。
〔解釈〕
宋の国は「子(し)」という姓の国で、殷の紂王の腹違いの兄である微子啓という人物が領地を与えられた所であった。後世、春秋時代になって襄公、名は茲父という王が即位した。諸侯の覇者となろうとして楚の国と戦った。(その時)その子である目夷という人物がまだ楚の国が戦陣を立てていないうちに攻め込もうと願い出た。ところが襄公は「君子たる人物は人が困っている時にはその人を更に苦しめないものだ。」と言った。そのままやがて、楚の国に敗れてしまった。世の人々はこれを笑って「宋襄の仁」と呼んだ。
〔補説〕
襄公は儒家の思想を律儀に守ろうとしたのであろうか。君子ばっているうちに楚の国に敗れてしまう。およそ宋の国はこのように笑われる人がよく登場する。最後の「AのBする所と為る。」は受身形の一種で「AにBされる。」と訳す。
(七)鼎の軽重を問う 天子の位を奪おうとすること 『春秋左氏伝』
〔書き下し文〕
楚子陸渾の戎を伐ちて、遂に洛に至り、兵を周の境に観す。定王 王孫満をして楚子を労はしむ。楚子鼎の軽重を問ふ。対へて曰く、「徳に在りて鼎に在らず。周の徳衰へたりと雖も、天命未だ改まらず。鼎の軽重、未だ問ふべからざるなり。」と。
〔解釈〕
楚の荘王(楚子)は陸渾の戎を討って、そのままの勢いで洛陽までやって来た。(そして)周の国境に兵を示した。(周の)定王は王孫満という人物に楚子をねぎらわせた。楚子は周の鼎の重さはどのくらいかと聞いた。(王孫満は)答えて言う、「問題は徳の在り方にあるのであって、鼎が重いかどうかにあるのではありません。周の徳は衰えたとはいっても天命は未だ改まってはおりません。(我が周の徳こそが天子の徳であり、あなたの楚の国は未だ臣下たる国であります。)あなたはまだ鼎の軽重などを問うことなどできないのです。」と。
〔補説〕
鼎の大きさが国家の力を象徴する時代の話である。勢いに乗じて周の鼎の軽重を問う楚の荘王。しかし天子の王室たるプライドをもって反駁(はんばく)する王孫満。その語気は強い。五文字の後、四文字のリズムが続く。なお、「未」の字は再読文字。「いまダ~ず。」と訓読する。
(八)蟷螂の斧 己の力量を知らずして大敵に向かうこと 『韓詩外伝』
〔書き下し文〕
斉の荘公出猟す。蟷螂有り、足を挙げて将に其の輪を搏たんとす。其の御に問ひて曰く、「此れ何の虫ぞや。」と。御曰く、「此れは是れ蟷螂なり。其の虫たるや、進むを知りて退くを知らず、力を量らずして軽く敵に就く。」と。荘公曰く、「以て人たらば、必ず天下の勇士たらん。」と。是に於いて車を廻らせて之を避く。而して勇士之に帰す。
〔解釈〕
斉の荘公が猟に出た。その時一匹のカマキリが足を挙げて今にも彼の馬車の車輪を打とうとしていた。荘公は御者に聞いて言った、「これは何の虫だ。」と。御者が答える、「これはカマキリという虫でございます。この虫は進むことは知っていますが、退くことは知らないのです。また自分の力も知らないで軽々しく敵に向かいます。」と。荘公が言う、「もしこれが人間なら必ずや天下の勇士であろう。」と。こういう訳で馬車を後戻りさせてそのカマキリを避けた。こんなことがあってから世の中の勇士が荘公のもとに集まって来た。
〔補説〕
「将」は再読文字。「まさニ~(ント)す。」と読む。
(九)三遷の教え 母が子に対して用意周到なる教育を施すこと 『列女伝』
〔書き下し文〕
孟軻の母、其の舎墓に近し。孟子の少きとき、嬉戯するに墓間の事を為し、踊躍築埋す。孟母曰く、「此れ以て子を居く所に非ざるなり。」と。乃ち去りて市に舎す。其の嬉戯するに賈衒を為す。孟母曰く、「此れ以て子を居く所に非ざるなり。」と。乃ち去りて学宮の旁に舎す。其の嬉戯するに乃ち爼豆を設け、揖譲進退す。孟母曰く、「此れ真に以て子を居くべし。」と。遂に之に居る。
〔解釈〕
孟子の母はその家が墓地の近くにあった。子供の孟子が幼い頃、彼は一人遊びの中で墓地でやる葬式の真似ばかりして、泣き悲しんで墓を築いたり埋めたりしていた。母は言った、「ここは子供を住まわせるべき場所ではない。」と。そこでその場所を去って今度は市場のそばに家を構えた。孟子は今度は商売の真似ばかりして遊んだ。母が言う、「ここ
も子供を住まわせる場所ではない。」と。そこでその場所を去って次に学校のそばに家を移した。すると孟子は祭祀に用いるまな板やたかつきを並べて両手を胸に組んだり、他人を先に立てて自分が後になって神に参拝する真似をして遊ぶようになった。母が言う、「こここそが本当に子供を住まわせるべき場所だ。」と。そこでそのままここに住んだ。
〔補説〕
有名な故事である。孔子の教えを受け継いだ孟子に、学問することのできる環境づくりりをしたのは他ならぬ、彼の母親であった。儒教集団は古くは葬式屋の集団であったらしいが、孟子の時代になるとすでに学問の対象からは外れていたことが分かる。それよりも祭祀のやり方を学ぶ方が大切だと考えられたのであろう。母親はこここそ最適な環境だと判断している。さて、この母は教育熱心であったようで、別の故事には、孟子が学問を中途半端であきらめようとしたことに対し、彼女は途中まで織っていた布の糸をぷつりと切って見せ、せっかく努力したことも途中でやめれば何にもならないということを示した、というのがある。
(十)四面楚歌 敵に囲まれて一人の味方もないこと 『史記』
〔書き下し文〕
項王の軍垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵之を囲むこと数重なり。夜漢軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃ち大いに驚きて曰く、「漢皆已に楚を得たるか。是れ何ぞ楚人の多きや。」と。
〔解釈〕
項王(項羽)の軍隊が垓下という場所にとりでを築いた。兵隊は少なく、食糧は尽きてしまった。(劉邦の率いる)漢の軍隊及び諸侯の兵隊がこれを数重に取り囲んだ。夜、漢軍のどこかしこで皆が楚の国の歌を歌うのを耳にし、項羽は随分驚いて言った、「漢は既に我が楚の兵を手にしたのか。何と楚の人々の多いことか。」と。
〔補説〕
始皇帝の亡き後、秦の国は既に倒れかかっていた。この機に乗じて倒秦の連合軍を挙げたのが項羽と劉邦であった。しかしやがてこれら二人の仲も割れ、お互いに戦いを始めた後の話であり、いよいよ劉邦の漢軍が楚の項羽軍を追い込んだときのくだりである。自分の味方であるはずの楚の人々が敵の軍にいて、故郷の歌を歌っているのだから、さすがに項羽も覚悟を決めた。最後の「何ぞ楚人の多きや。」は詠嘆形である。
(十一)梁上の君子 泥棒のこと 『後漢書』
〔書き下し文〕
陳寔太丘の長に除す。時に歳荒す。盗有り、夜其の室に入り、梁上に止まる。寔陰かに之を見、子孫を呼び色を正し之に訓へて曰く、「夫れ人自ら勉めざるべからず。不善の人、未だ必ずしも本より悪ならず。習ひて以て性と成り、遂に此に至る。梁上の君子是れなり。」と。盗大いに驚き、自ら地に投じて、稽首して罪に帰す。寔曰く、「君の状貌を視るに、悪人に似ず。当に貧困に由るべし。」と。絹二匹を遣らしむ。是より一県復た盗窃無し。
〔解釈〕
陳寔という人物が太丘という土地の長になった。ある時不作の年になった。泥棒が夜、彼の部屋にしのび込み、梁(はり)の上に隠れていた。陳寔はひそかにこれを見、子孫を呼び、顔色を正して彼らに諭(さと)して次のように言った、「そもそも人間たるものは自分で努力をしなくてはならない。世の悪い人々も元から悪人ではないのだ。良くない習わしを学んで、それが天性となり、そのまま悪い人間になってしまうのだ。あの梁の上にいる人間もその類いだ。」と。泥棒は随分驚き、自分から床に降りて来て額をこすりつけて謝罪した。陳寔は言った、「君の容貌を見るに、悪人とは思えない。きっと貧困のために仕方なくやったことであろうと。(陳寔は)絹二匹を与えてやった。このこと以来、彼の県内には一人も泥棒が出なくなった。
〔補説〕
陳寔は後漢の人。どうも仁者であったようだ。「梁」とは屋敷の柱と柱とを固定する横木を言う。その上に潜んでいた泥棒に絹を二匹も与える。「一匹」は反物で二反、二匹は従って四反である。ずいぶんな贈り物だ。
(十二)石に漱ぎ、流れに枕す 負け惜しみの強いこと 『晋書』
〔書き下し文〕
孫楚少き時隠居せんと欲し、王済に謂ひて、当に「石に枕し流れに漱がんと欲す」と云ふべきを、誤りて「石に漱ぎ流れに枕す」と云ふ。済曰く、「流れは枕すべきに非ず。石は漱ぐベきに非ず。」と。楚曰く、「流れに枕する所以は、其の耳を洗はんと欲すればなり。石に漱ぐ所以は其の歯を礪かんと欲すればなり。」と。
〔解釈〕
孫楚は若い時に隠棲(いんせい)生活を送ろうと思い、王済という人物に、「石に枕し清流に口すすいで過ごそうと思う。」と云うべきところを、間違って「石に口すすいで流れに枕する」と言ってしまった。王済が言う、「流れには枕することはできない。石では口をすすぐわけにはいかないだろう。」と。孫楚が言う、「流れに枕する理由は、その耳を洗おうとするからだ。石で口をすすぐ理由は、その歯を磨こうとするからなのだ。」と。
〔補説〕
夏目漱石がそのペンネームを取ったことで有名な故事である。自分も負け惜しみの強い人物だということで「漱石」としたのであろう。さて登場人物の孫楚という人物は晋の時代の人であるが、若くして隠遁(いんとん)しようと考えている。魏・晋・南北朝は動乱の時代であり、老荘思想が横行して人々は隠遁的な生活を欲したと言われる。また文中の「所以」は「ゆゑん」と読み、①「方法・手段」、②「原因・理由」の意味を持つ。ここでは②。
(十三)画竜点睛 事物の眼目となる点 『水衡記』
〔書き下し文〕
張某、金陵の安楽寺に于いて、四竜を壁に画き、睛を点ぜず。毎に曰く、「之を点ずれば即ち飛げ去らん。」と。人以て誕と為す。因りて其の一に点ずれば、須臾にして雷電壁を破り、一竜雲に乗りて上天す。睛を点ぜざる者は、皆在り。
〔解釈〕
張某という人物が金陵の安楽寺において、四匹の竜を壁に描いたが、瞳は入れなかった。そして彼は常に言っていた、「これに瞳を入れるとこの竜はすぐに飛び去ってしまうだろう。」と。人々はこの言葉をでたらめだと思っていた。そこで(張某は)そのうち一つの竜の絵に瞳を書き入れると、すぐに稲妻が壁を破って一匹の竜が雲に乗って天に昇って行った。瞳を書き入れていない竜は皆そのままであった。
〔補説〕
「誕」は「でたらめ、嘘」の意。「須臾」は「わずかな時間」のことで、「すぐに」などと訳される。
(十四)推敲 文章の字句を練ること 『素雑記』
〔書き下し文〕
賈島初め挙に京師に赴く。一日驢上に於いて句を得たり。云ふ、「鳥は宿る池辺の樹、僧は敲く月下の門。」と。始め推の字を着けんと欲し、又敲の字を着けんと欲す。之を練りて未だ定まらず。遂に驢上に於いて吟哦し、時時手を引きて推敲の勢ひを作る。時に韓愈吏部権の京尹たり。島覚えず衝きて第三節に至る。左右擁して尹前に至る。島具さに得る所の詩句を対へて云云す。韓馬を立てて良久しくして島に謂ひて曰く、「敲の字に作る佳し。」と。遂に轡を並べて帰る。
〔解釈〕
賈島という人物は初め科挙に応ずるため都に赴いた。ある日、驢馬の上でふと詩句を思いついた。それは、「鳥は宿る池辺の樹、僧は敲く月下の門」という句であった。初めは「推」の字を置こうと思い、次に「敲」の字を置こうと考えた。何度も「推」「敲」いずれの字か良いか考えたが未だ決定できなかった。そのまま驢馬の上で口に出して詩吟をし、時々は手を伸ばして「推(お)」したり「敲(たた)」いたり、その格好をしてみたりした。時にあの韓愈吏部という人物が仮の市長代理をやってい(て向こうからやって来)た。賈島は気づかずにその一行の三番目の隊列の中まで入り込んでしまった。韓愈の側近の者達は彼を捕らえ韓愈の前に引き連れて来た。賈島は詳しく考えついた詩句を述べた。韓愈は馬を止めてしばらく考えた後に賈島に言った、「敲の字に作るのが良いだろう。」と。そのまま二人は馬と驢馬の轡を並べて帰った。
〔補説〕
何故、かの韓愈は「敲」の字の方がふさわしいと言ったのだろう。静かな月夜に僧侶の門を叩く音だけがすることの面白さを認めてのことか。なお、賈島はやがて立派な詩人になり、『長江集』という作品を残している。
(十五)燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや
小人には大人物の考えていることはわからないこと 『史記』
〔書き下し文〕
陳勝は、陽城の人なり。字は渉。〔中略〕陳渉少き時、嘗て人と傭耕す。耕を輟めて壟上に之き、帳恨すること之を久しくして、曰く、「苟くも富貴なりとも相忘るること無からん。」と。傭者笑ひて応へて曰く、「若傭耕を為す。何ぞ富貴ならんや。」と。陳渉太息して曰く、「嗟乎、燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや。」と。
〔解釈〕
陳勝は、陽城の生まれである。字は渉と言う。〔中略〕陳渉が若い時、かつて人と一緒に雇われて農耕していた。耕す手を止めて小高い丘の上に行き、長い時間ため息をついて次のように言った、「もしも富貴な身となってもお互いに忘れることが無いようにしよう。」と。雇い主が笑って答えて言った、「お前はを雇われて耕作をしている身だ。どうして富貴な身分になることがあろう、いや、そんなことがあるはずがないじやないか。」と。陳渉は大きなため息をついて言った、「ああ、燕や雀のようなつまらぬ人物にどうして鴻鵠のような大きな鳥の抱いている志が分かるであろう、いや分かるはずがない。」と。
〔補説〕
「傭」とは「人を雇う」の意。「帳」は「失意」の意。「燕雀」はここでは雇い主を指すのであろう。一方、「鴻鵠」は陳渉自身を指しているのであろう。顔師古の『考証』には次のように記されている。「鴻とは大鳥なり。水に居る。鵠とは黄鵠なり。一挙千里。」とある。なお、文中の「何~也。」「安~哉。」は反語形。
(十六)涙を揮って馬謖を斬る
かわいいからといって法をまげずに罰すべきは罰すること 『十八史略』
〔書き下し文〕
明年大軍を率ゐて、祁山を攻む。戎陣整斉、号令明粛なり。始め魏昭烈既に崩じ数歳寂然として聞くこと無きを以て、略備ふる所無し。猝に亮の出づるを聞き、朝野恐懼す。是に於いて天水・安定等の郡、皆亮に応じ、関中響震す。魏主長安に如き、張某をして之を拒がしむ。亮馬謖をして諸軍を督して街亭に戦はしむ。謖亮の節度に違ふ。張某大いに之を破る。亮政を為すに私無し。馬謖素より亮の知る所と為る。敗軍するに及び、流涕して之を斬り、而して其の後を憐む。
〔解釈〕
(諸葛亮孔明は)明年、大軍を率いて、祁山という場所を攻めた。兵士の隊列はきちんと整っており、号令は明らかで粛然としていた。初め魏の国は、蜀の国の昭烈皇帝が崩じてから既に数年、ひっそりとして何の噂も聞くことがないので、ほとんど(蜀の国に対する)備えをしていなかった。にわかに諸葛亮の軍隊が出動したのを聞き、朝廷も在野の人民も慌てて恐れた。そこで天水・安定等の郡の軍隊は、いずれも諸葛亮の軍隊に応じ、関中の地は震えるごとく動揺した。魏の国の王は長安に逃げ、張某に命じてこの諸葛亮の進軍を防がせた。諸葛亮は馬謖という将軍に諸軍を指揮して街亭という場所で戦わせた。馬謖は諸葛亮の指図に背いた。張某は大いにこの馬謖の軍を破った。さて諸葛亮という人間は政治をする上で私心をさし挟まぬ人物であった。馬謖は平生から諸葛亮から信用されていた。敗軍したことで、涙を流してこれを斬った、しかし彼の残された遺族を厚く世話した。
〔補説〕
三国時代の蜀の国の参謀・諸葛亮孔明。思想史上では彼は法家思想に属される。しかし、日頃から信頼している馬謖を斬らねばならぬ段になって、孔明は涙を流している。実は同様のことがその前に関羽との間にあった。厳正な処分を下そうと主張する孔明と、関羽は自分の兄弟とも言える人物だからそれはならぬ、と反駁する蜀王・劉備玄徳。この時は孔明が引き下がった。鋭敏な頭脳と、ある意味では残酷な所も持ち合わせた英才・孔明。そんな人物をこの時代は求めていたのだろう。
(十七) 鶏鳴狗盗 卑しい人のこと 『史記』
〔書き下し文〕
秦の昭王孟嘗君を囚へ、謀りて之を殺さんと欲す。孟嘗君人をして昭王の幸姫に抵り解かんことを求めしむ。幸姫曰く、「妾願はくは君の狐白裘を得ん。」と。此の時孟嘗君一狐白裘有るも、秦に入りて之を昭王に献じ、更に他の裘無し。孟嘗君之を患ひ、遍く客に問ふ。能く対ふるもの莫し。最下の坐に能く狗盗を為す者有り。曰く、「臣能く狐白裘を得ん。」と。乃ち夜狗と為り、以て秦宮の蔵中に入り、献ずる所の狐白裘を取りて至り、以て幸姫に献ず。幸姫為に昭王に言ふ。昭王孟嘗君を釈す。出でて函谷関に至る。関の法鶏鳴きて客を出だす。客に鶏鳴を為す者有り。鶏悉く鳴く。是に於いて関を開きて之を出だす。
〔解釈〕
秦の昭王が孟嘗君を捕らえ、だまして彼を殺そうとした。孟嘗君は人を昭王のお気に入りの姫のもとに行かせ、解放してくれることを(昭王にお願いしてほしいと)依頼させた。その姫が言う、「私は(其の報酬として)願わくはあなたの狐の白毛の皮衣をいただきたい。」と。この時、孟嘗君は狐の白毛の皮衣を一枚だけ持っていたが、秦に入った時にこれをを昭王に献上してしまっていて、もう他には無かった。孟嘗君はこれを心配し、従えて来た食客全員に問うた。しかしその心配に応えることのできる者はいなかった。一番下の席に犬の真似をして盗みをなすことのできる者がいた。その者が言う、「私なら狐の白い皮衣を手に入れて見せましょう。」と。そこで夜、犬の真似をして、秦の宮殿の蔵の中に入り、昭王に献上していた狐の白い皮衣を盗んで来て、かの姫に献上した。姫はそこで昭王に孟嘗君を解放するように言った。昭王は孟嘗君を釈放した。(孟嘗君一行は)秦の国を出て函谷関に至った。関所の決まりでは鶏が鳴いてから、つまり朝になってから客を出すことになっていた。孟嘗君一行の食客の中に鶏の鳴き声のもの真似ができる者がい(て鳴い)た。すると本物の鶏が一斉に鳴いた。そこで関所を開けてこの一行を通らせてやった。
〔補説〕
「裘」は「皮衣」の意。中原中也の詩『汚れちまつた悲しみに』に「たとへば狐の革裘(かわごろも)」と出てくる、あれである。文中の「使」は「しム」と読んで使役形を作る。
(十八)鶏を割くに焉くんぞ牛刀を用ゐん
つまらぬことに大人物・大手腕を使う必要はないこと 『論語』
〔書き下し文〕
子武城に之き、弦歌の声を聞く。夫子と莞爾して笑ひて曰く、「鶏を割くに焉くんぞ牛刀を用ゐんや。」と。子游対へて曰く、「昔、偃や諸を夫子に聞けり。曰く、『君子道を学ベば則ち人を愛し、小人道を学べば則ち使ひ易きなり。』」と。 子曰く、「二三子、偃の言は是なり。前言は之に戯むれしのみ。」と。
〔解釈〕
孔子が武城という街に行き、弦歌の音を聞いた。先生はにっこりと笑って言った、「鶏を割くのにどうして牛を切る大きな刀を用いる必要があろう。」と。子游が答えて言った、「昔、私は次の事を先生から聞きました。先生はおっしやいました、『君子たる立派な人物が(礼楽の)道を学べば人を愛し、小人たるつまらぬ人間でも(礼楽の)道を学べば使いやすくなる。』」と。孔子は言った、「お前たちよ、偃の言葉は正しい。先ほどの私の言葉は冗談に過ぎない。」と。
〔補説〕
「鶏を割くのに……」の孔子の言葉は孔子自ら口にしているように、もともと本気ではない。若い門人の子游が礼楽の政治を実践していることに内心喜んでいるのである。しかし武城という街は小さな街であった。こんな小さな街で礼楽の政治は少し大袈裟じやないのかね、という冗談だったのである。しかし若くまじめな子游には通じない。先生ご自身がおっしやたのではありませんか、と反駁(はんばく)している。孔子もさすがに非を認めねばならぬ。その後すぐに素直に謝っている。ちなみにこの子游の教えを、その後受け継いだのが、かの荀子である。
(十九)杞憂 無用の心配のこと 『列子』
〔書き下し文〕
杞国に、人の天地崩墜して、身の寄する所亡きを憂へて、寝食を廃する者有り。又彼の憂ふる所あるを憂ふる者有り。因りて往きて之を暁して曰く、「天は積気のみ。處として気亡きは亡し。屈伸呼吸のごときは、終日天中に在りて行止す。奈何ぞ崩墜を憂へんや。」と。其の人曰く、「天は果たして積気なるも、日月星宿、当に墜つべからざるか。」と。之を暁す者曰く、「日月星宿も亦た積気中の光耀有る者のみ。只ひ墜ちしむるも亦た中傷する所有る能はず。」と。其の人曰く、「地の壊るるを奈何せん。」と。暁す者曰く、「地は積塊のみ。四虚に充塞し、處として塊亡きは亡し。躇歩のごときは、終日地上に在りて行止す。奈何ぞ其の壊るるを憂へんや。」と。其の人舍然として大いに喜ぶ。之を暁す者も亦た舍然として大いに喜べり。
〔解釈〕
杞という国に、天地が崩れ落ちて、身の置き場がなくなってしまうことを心配して、寝食をも忘れた人がいた。またその人がそうやって心配しているのを心配している人もいた。そこで心配しているその人の所へ行って教え諭(さと)して言うには、「天は気が積み重なっただけのものだ。気のない所はない。屈伸や呼吸のごとき行為は、一日中天の中において行われている。どうして(天が)崩れて落ちると心配する必要があろう。」と。その人が言った、「天は果たして気の積み重ねであっても、太陽や月や星などは、さぞや落ちないことがあろうか。」と。彼を諭している人が言った、「太陽、月、星も気の積み重なったもので、光っているに過ぎない。たとえ落ちたとしても怪我をさせることはできないのだ。」と。その人が言う、「土地の崩れるのをどうしよう。」と。諭す者が言う、「地は土の塊に過ぎない。四方の果てまでいっぱいに充塞しており、土の塊がない所はない。地に足をつけ踏み歩くような事は、一日中地上において行われているじゃないか。どうして土地が崩れるような事を心配する必要があろうか。」と。その心配していた人はさっぱりとして大いに喜んだ。彼を諭していた者もまたさっぱりとして大いに喜んだ。
〔補説〕
周の頃の話である。科学的知識のなかった時代のことなので、現代人の我々からすれば、心配する内容も実にお粗末と言わざるを得ない。さて、文中の「A亡きは亡し。」の形は二重否定。また「只」の字は「もシ」と読んでもよい。仮定の用法である。また「舍」の字は「釈」の字に等しい。なお、注意してもらいたいが、「舎」の字ではない。
(二十)邯鄲の夢 一生の栄枯盛衰は一時の夢に過ぎないこと 『枕中記』
〔書き下し文〕
開元十九年道者呂翁邯鄲の邸舎の中に于いて少年廬生に値ふ。自ら其の困を歎ず。翁嚢中の枕を操りて之に授けて曰く、「此を枕せば当に子をして栄適意のごとくならしむべし。」と。生寐中に清河崔氏の女を娶り、進士に挙げられて甲科に登り、河西隴右の節度使に官し、尋いで中書侍郎・同中書門下平章事に拝せられ、大政を掌ること十年、趙国公に封ぜられ、三十余年中外に出入して、崇盛比無し。老いて骸骨を乞ふも許されず。官に卒す。欠伸して寤む。初め主人黄粱を蒸して饌を為る。時に尚ほ未だ熟せざるなり。呂翁笑ひて謂ひて曰く、「人世の事、亦た猶ほ是くのごとし。」と。生曰く、「此れ先生吾が欲を窒ぐ所以なり。敢て教へを受けざらんや。」と。再拝して従ひて去る。
〔解釈〕
開元十九年に道士の呂翁が邯鄲の宿屋の中で少年の廬生に出会った。(廬生は)自分の身の貧困を嘆いた。呂翁は袋の中から枕を取り出して彼に与えて言った、「これを枕にして寝れば、お前はきっと栄達を思いのままにできるだろうよ。」と。廬生はその夢の中で、清河の崔氏の娘を娶(めと)り、一番の成績で進士に合格し、河西隴右の節度使の役職に就き、続いて中書侍郎・同中書門下平章事に任ぜられ、大政を掌ること十年の後、趙国公に出世し封ぜられ、三十余年間、朝廷の内外に出入りして、その権勢の高さは比べものにならぬほどであった。老いて辞職を願ったが許されなかった。そのまま官職についたまま死んだ。……(そんな夢から)あくびをして目が覚めた。この夢を見る前、宿屋の主人が黄粱を蒸してめしを作っていた。ところが夢から覚めた時、やはりまだ炊けていなかった。呂翁は笑って言った、「人の世の事とは、ざっとこのようなものだ。」と。廬生が言う、「これこそ呂翁先生が私の欲望をふさぐおつもりでなさった事なのだ。どうして先生の教えを受けないでいられよう。」と。再拝して呂翁の弟子となり、その場を去った。
〔補説〕
呂翁はまぎれもなく隠者であろう。老子・荘子の流れを汲む人物である。世俗的な欲望にかられている廬生に、脱俗の教えを諭(さと)したというところか。さて、文中の「当」の字は再読文字で、「まさニ……ベシ」と読む。また「未」の字も同様に「いまダ……ず」と読む。また「猶」の字は「なホ……ごとシ」と読む。最後の「敢不……。」の形は反語形。「あヘテ……ざらんや。」と訓読する。
(ニ一) 矛盾 つじつまが合わないこと 『韓非子』
〔書き下し文〕
楚人に盾と矛とを鬻ぐ者有り。之を誉めて曰く、「吾が盾の堅きこと、能く陥す莫きなり。」と。又其の矛を誉めて曰く、「吾が矛の利なること、物に於いて陥さざる無きなり。」と。或るひと曰く、「子の矛を以て、子の盾を陥さば何如。」と。其の人応ふる能はざるなり。
〔解釈〕
楚の国の人に盾と矛とを売る者がいた。まずこの盾を誉めて言う、「私の盾の堅いことときたら、何物も突き通すことはできない。」と。次にその矛を誉めて言う、「私の矛の鋭利なことは、物の中で突き通さないものは何もない。」と。(それを聞いていた)ある人が言った、「お前さんの矛で、お前さんの盾を突いたならどうなるのかね。」と。その商人は答えることができなかった。
〔補説〕
これも有名な故事である。「与」の字は「A与B」となると「AとBと」と訓読する。また「何如」は「いかん」と読み、様子・状態を問う疑問詞のはたらきをする。
(二二) 晏子の御
わずかな地位を頼んで驕り高ぶる器量の小さい者のこと 『史記』
〔書き下し文〕
晏子斉の相と為る。出づ。其の御の妻、門間より其の夫を窺ふ。其の夫相の御と為り、大蓋を擁し駟馬に策ち、意気揚揚として、甚だ自得せり。既にして帰る。其の妻去らんことを請ふ。夫其の故を問ふ。妻曰く、「晏子は長六尺に満たず。身斉国に相として、名は諸侯に顕る。今妾其の出づるを観るに、志念深し。嘗に以て自ら下る者有り。今子は長八尺、乃ち人の僕御たり。然れども子の意自ら以て足れりと為す。妾是を以て求むるなり。」と。其の後夫自ら抑損す。晏子怪しみて之を問ふ。御実を以て対ふ。晏子薦めて以て大夫と為す。
〔解釈〕
晏子という人物が斉の国の大臣になった。(ある日)外出した。その御者の妻が、門の間よりその夫を見ていた。その夫は大臣の御者となって、大蓋を立て四頭立ての馬車に鞭打って、意気揚々としていて、たいそう得意気であった。やがて家に帰ってきた。その妻は彼のもとを去ることを願い出た。夫はその理由を問うた。妻が言うには、「晏子様は背丈が六尺に満たない。しかしその身は斉国の大臣として、名は諸侯に知られている。今私はかの方の外出なさるのを見るに、考えの深い方でいらっしゃいます。いつでもへりくだって謙虚でいらっしやいます。今あなたは背丈が八尺もあるのに、他人様の御者にしかなれません。そのくせあなたの心は自ら満足しておられます。私はこういう訳で去ることを求めるのです。」と。その後夫は自らへりくだるようになった。晏子は不審に思って訳を聞いた。御者はありのままを答えた。晏子は彼を推薦して大夫としてやった。
〔補説〕
「従」は「自」の字と同じく「~より」と読み、起点の意を表す。また「大蓋」は馬車の上に立てる大きな傘のような屋根を言う。
(二三) 月下氷人 仲人のこと 『晋書』
〔書き下し文〕
策枕字は叔徹、術数占候を善くす。令狐策夢に氷上に立ちて氷下の人と語る。枕曰く、「氷上は陽たり、氷下は陰たり。陰陽の事なり。君氷上に在りて氷下の人と語る。陽陰と語ると為す。媒介の事なり。君当に人の為に媒を作し氷溶けて婚成るべし。」と。会太守田豹、策に因りて子の為に張公徴の女を求む。仲春にして婚を成す。
〔解釈〕
策枕という人物は字を叔徹と言い、はかりごとと占いを得意としていた。令狐策という人物が夢の中で氷の上に立って氷の下の人と語った。策枕が言う、「氷の上は陽であり、氷の下は陰である。つまり君の夢は陰陽の事なのだ。君は氷の上にいて氷の下の人と語った。陽が陰と語るという事だ。媒介の事である。君はきっと誰かの為に仲人をして氷が溶ける頃に婚姻が成立するだろう。」と。たまたま太守の田豹という人物が、策枕を頼って息子の為に張公徴の娘を求めた。仲春の季節になって成婚した。
〔補説〕
この話の他に『続幽怪録』の中に、月に向かって仙人が天下の婚姻を調べているという話があり、これと合わせて「月下氷人」という言葉が仲人を指すようになった。なお、『続幽怪録』によると夫婦となる二人は赤い糸ならぬ、赤い縄で結ばれているのだそうで、中国の夫婦は日本の夫婦よりも強い結び付きがあるようだ。
(二四) 白眼視 冷淡な目つきのこと 『晋書』
〔書き下し文〕
阮籍礼教に拘らず。能く青白眼を為し、礼俗の士を見れば、白眼を以て之に対す。喜の来たり弔するに及び、籍白眼を作す。喜悦ばずして退く。喜の弟康之を聞き、乃ち酒を持し琴を挟んで造る。籍大いに悦び乃ち青眼を見はす。是に由りて礼法の士、之を疾むこと仇のごとし。
〔解釈〕
阮籍は礼儀や教化にかまわない人物であった。彼は黒眼と白眼を使い分ける事ができ、礼儀や風習にこだわる人を見ると、白眼をしてその人と対した。喜という人物が来て喪を弔した時に、阮籍は白い眼をした。喜は気分を害して帰った。喜の弟の康という人物がこの話を聞き、そこでまあ酒を携え琴を脇にかかえてやって来た。阮籍は随分喜んで、そこで黒い眼を見せた。こういうわけで礼法を重んじる人達は、阮籍の事をまるで敵のように憎んだ。
〔補説〕
阮籍・康ともに竹林の七賢人である。彼らの生きた時代は王朝の交替激しく、民心は不安定な状態となっていた。そこで隠遁的な老荘思想が流行し、竹林の七賢人は酒を飲み、琴を弾じて清談にふけった。ここでも康が持って来た酒と琴とに阮籍は喜んでいる。 なお、文中の「見」の字は「現」の字に等しい。
(ニ五) 管鮑の交わり 親密な交際のこと 『史記』
〔書き下し文〕
管仲曰く、「吾始め困しみし時、嘗て鮑叔と賈す、財利を分かつに多く自ら与ふ。鮑叔我を以て貪と為さず。我の貧しきを知ればなり。吾嘗て鮑叔の為に事を謀りて更に窮困す。鮑叔我を以て愚と為さず。時に利と不利と有るを知ればなり。吾嘗て三たび仕へて三たび君に逐はる。鮑叔我を以て不肖と為さず。我の時に遭はざるを知ればなり。吾嘗て三たび戦ひ三たび走る。鮑叔我を以て怯と為さず。我に老母有るを知ればなり。公子糾敗れ、召忽之に死す。吾幽囚せられて辱しめを受く。鮑叔我を以て恥無しと為さず。我の小節を羞ぢずして功名の天下に顕れざるを恥づるを知ればなり。我を生む者は父母、我を知る者は鮑子なり。」と。
〔解釈〕
管仲が言う、「私は昔貧しかった時、かつて鮑叔と一緒に商売をして、利益を自分の方に多く取った。鮑叔は私のことを貪欲だとはしなかった。私の貧しさを知っていたからだ。私はかつて鮑叔の為に事を計画してやったが更に彼を困らせる結果となってしまった。鮑叔は私のことを愚かだとはしなかった。時勢には有利と不利とが有るという事を知っていたからである。私はかつて三度仕官して三度とも君主からクビにされた。鮑叔は私のことを役立たずとはしなかった。私が時勢に合わないのを知っていたからである。私はかつて三度戦に行き三度とも逃げた。鮑叔は私のことを臆病者だとはしなかった。私には年老いた母がいるのを知っていたからである。(私の主君である)公子の糾が敗れ、(同僚の)召忽がこの為に死んだ。私は牢屋に入れられて辱しめを受けた。鮑叔は私のことを恥知らずだとはしなかった。私が小さな節義を恥じず功名が天下に現れない事を恥じるのを知っていたからである。私を生んだ者は父母であるが、私を理解してくれる者は鮑叔である。」と。
〔補説〕
対句を多用した簡潔な文章であるが、この管仲とは春秋時代に、斉の桓公を補佐して桓公を諸侯のはたがしらとした人物である。管仲の「管」と鮑叔の「鮑」とを取って「管鮑の交わり」と言う。
(二六) 背水の陣
全力を尽くして成敗を試みんと覚悟を決める態度のこと 『十八史略』
〔書き下し文〕
三年、韓信・張耳兵を以ゐて趙を撃ち、兵を井?口に衆めんとす。趙王歇及び成安君陳余之を禦ぐ。李左車余に謂ひて曰く、「井?の道、車軌を方ぶるを得ず、騎列を成すを得ず。其の勢ひ糧食必ず後ろに在らん。願はくは奇兵を得て間道より其の輜重を絶たん。足下溝を深くし壘を高くし、与に戦ふこと勿れ。彼前みて闘ふを得ず、退きて還るを得ず、野に椋むる所無し。十日ならずして、両将の頭、麾下に致すべし。」と。余は儒者にして自ら義兵と称し、奇計を用ゐず。信間かに之を知り、大いに喜び乃ち敢て下る。未だ井?口に至らずして止まり、夜半に軽騎二千人を伝発し、人ごとに赤幟を持ち、間道より趙の軍を望ましむ。戒めて曰く、「趙我が走るを見ば、必ず壁を空しくして我を逐はん。若ら疾く趙の壁に入り、趙の幟を抜きて、漢の赤幟を立てよ。」と。乃ち万人をして先づ水を背にして陣せしむ。平旦大将の旗鼓を建て、鼓行して井?口を出づ。趙壁を開きて之を撃つ。戦ふこと良久し。信・耳佯りて鼓旗を棄てて、水上の軍に走る。趙果たして壁を空しくして之を逐ふ。水上の軍皆殊死して戦ふ。趙の軍已に信等を失ひて壁に帰り、赤幟を見て大いに驚き、遂に乱れて遁走す。漢軍夾撃して大いに之を破り、陳余を斬り、趙歇を禽にす。
〔解釈〕
(漢の)三年、(漢の高祖の臣下の)韓信と張耳の二人が兵を率いて趙の国を撃つ事になり、兵を井?口という場所に集めようとした。趙王の歇及び成安君たる陳余がこれを防ぐ事になった。李左車という人物が陳余に向かって言う、「井?口の道は、車が車輪を並べる事ができないほど狭く、騎兵は列を成す事もできません。敵の勢いは食料が必ずや隊列の後ろに置かれるでしょう。願わくは奇兵を賜り間道より敵の兵糧を積んだ車を絶ちましょう。あなたは溝を深くしとりでを高く築いて、一緒に戦ってはなりませぬ。敵は前へ進んで闘う事ができず、退いて戻る事もできない、野に於いて椋奪する事もできない。十日もたたないうちに、二人の将軍の首は、あなたのもとへ持って来る事ができましょう。」と。陳余は儒者であり自ら義兵と称していて、奇計を用いなかった。韓信はひそかにこの事を知り、大いに喜んでそこでまあ思い切って趙へ攻め込んだ。まだ井?口に至らないうちに兵を止め、夜半に身軽な騎兵二千人に命令を伝えて出発させ、全員赤いのぼりを持たせ、抜け道から趙の軍の見張りをさせた。また戒めて次のように言った、「趙は私が退却するのを見れば、必ずや城を空にして私を追って来るだろう。お前たちは素早く趙の城に入り、趙ののぼりを抜いて、我が漢の赤いのぼりを立てよ。」と。そして一万人に(別動隊として)まず川を背にして陣を敷かせた。夜が明けて(本隊は)大将の旗を立て鼓を打って、鼓を打ちながら行進し井?口を出た。(それを見て)趙は城を開いてこれを撃った。ややしばらく戦った。韓信・張耳はかなわぬふりをして鼓と旗とを棄てて、川を背にした軍に向かって逃げた。趙軍は予測通り城を空けてこれを追った。川を背にした軍は皆死を覚悟して戦った。趙の軍はやがて韓信等を討ちそこなって城に帰ったが、(敵の)赤いのぼりを見て大変驚き、そのまま乱れて敗走した。漢軍は挟み撃ちして大いにこれを破り、陳余を斬り、趙王の歇を捕虜とした。
〔補説〕
陳余は自ら儒者を気取っているうちに敵に殺されてしまった。このような戦乱の世では、それでは通用しないのであろう。これが有名な「井?口の戦」である。なお、漢の高祖とは本書(十)『四面楚歌』において楚の項羽を倒した漢軍の大将だった人物である。
(ニ七) 蛇足 要らぬ付け足しのこと 『戦国策』
〔書き下し文〕
楚に祠る者有り。其の舎人に卮酒を賜ふ。舎人相謂ひて曰く、「数人にて之を飲まば足らず。一人にて之を飲まばり餘り有り。請ふ地に畫きて蛇を為し、先づ成る者酒を飲まん。」と。一人の蛇先づ成る。酒を引きて且に之を飲まんとす。乃ち左手に卮を持ち右手もて地に畫きて曰く、「吾能く之が足を為さん。」と。未だ成らず。一人の蛇成る。其の卮を奪ひて曰く、「蛇固より足無し、子安くんぞ能く之が足を為さんや。」と。遂に其の酒を飲む。蛇の足を為る者、終に其の酒を亡へり。
〔解釈〕
楚の国に祭祀をする者がいた。その召し使いに杯に入った酒をふるまった。召使いたちはお互いに言い合った、「数人でこの酒を飲むと足らない。一人で飲めば余る。どうかこのようにしないか、地面に蛇の絵を描き、最初に完成した者が酒を飲む事にしよう。」と。ある一人の蛇の絵が最初に出来上がった。酒を手元に引いて今にも飲もうとした。そこでまあ左手で杯を持ち右手で地面に描きながら言った、「私はこの足を描くことができる。」と。未だ完成しなかった。そのうちに他のもう一人の蛇の絵が出来上がった。その杯を奪って言う、「蛇にはもともと足は無い、君はどうしてその足を描く事ができるのかい。」と。そのままその酒を飲んでしまった。蛇の足を描いた者は、とうとうその酒を飲めずじまいだった。
〔補説〕
有名な故事であるので多くの説明は必要無かろう。文中の二つの「つひニ」だが、一般に「遂」の方は「そのまま」というニュアンスを示し、「終」の万は「とうとう、しまいには」の意を示す。
(二八) 臥薪嘗胆 讎(あだ)を報いんとして苦心すること 『十八史略』
〔書き下し文〕
呉、越を伐つ。闔廬傷つきて死す。夫差立つ。子胥復た之に事ふ。夫差復讎せんと志す。朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰く、「夫差、而越人の而の父を殺したるを忘れたるか。」と。周の敬王二十六年、夫差越を夫椒に敗る。越王勾践、余兵を以て会稽山に棲み、臣と為り妻は妾と為らんと請ふ。子胥言ふ、「不可なり。」と。太宰某越の賂を受け、夫差に説きて越を赦さしむ。勾践国に反り、胆を坐臥に懸け、即ち胆を仰ぎて之を嘗めて曰く、「女会稽の恥を忘れたるか。」と。国政を挙げて大夫種に属し、范蠡と兵を治め、呉を謀るを事とす。越、十年生聚し、十年教訓す。周の元王四年、越、呉を伐つ。呉三たび戦ひ三たび北ぐ。夫差姑蘇に上り、亦成を越に請ふ。范蠡可かず。夫差曰く、「吾以て子胥を見る無し。」と。幎冒を為りて乃ち死す。
〔解釈〕
呉の国が、越の国を攻撃した。呉王の闔廬は傷ついて死んだ。その子の夫差が即位した。子胥という臣下は再びこれに仕えた。夫差は越に報復しようと考えていた。朝晩薪の中に体を横たえ、出入りする度にその人に次のように言わせた、「夫差よ、あなたは越の国の人があなたの父を殺したのを忘れたのか。」と。周の敬王の二十六年、夫差は越の国を夫椒という場所で敗った。越王の勾践は、生き残った兵を率いて会稽山に立て籠もり、自分は(夫差の)臣下となり妻は妾となろうと願い出た。子胥が言う、「だめです。(ここで越を滅ぽさねばなりません。)」と。執政の大臣であった某という人物は越の国から賄賂を受け、夫差を説得して越を許すように言った。勾践は自分の国に帰り、獣の胆を寝起きする所に懸けて、その胆を仰いでは嘗めて次のように言った、「お前は会稽山で受けた恥を忘れたのか。」と。国の政治は全て家老の種という人物に委嘱し、范蠡という家来と兵を磨き、呉を破る事ばかり考えていた。越の国は、十年間民を養い国を富まし、次の十年間は教育や訓練をした。周の元王の四年、越は、呉を伐った。呉は三度戦って三度とも逃げた。夫差は姑蘇という場所に逃げ上り、また和睦を越に申し出た。范蠡は拒否した。夫差が言う、「私は子胥の顔を(あの世で)見る事ができない。」と。死者が付ける布を顔にかぶせて死んだ。
〔補説〕
いずれもすさまじい執念である。薪を下にして背中に痛みを覚えた夫差も、肝を嘗めてその苦味に耐えた勾践も。それにしても呉と越はかように仲が悪い。「呉越同舟」という言葉も有名である。
(二九) 掣肘 干渉して妨げること 『孔子家語』
〔書き下し文〕
子賤魯に仕へて、単父の宰と為る。魯の君の讒言を聴いて己をして其の政を行ふを得ざらしめんことを恐れ、君の近吏二人を請ひて、之と倶に官に至る。子賤二吏をして書せしむ。書するに方り輒ち其の肘を掣く。書善からざれば則ち従ひて之を怒る。二吏之を患へ、帰りて君に報じて曰く、「子賤臣をして書せしむ。而して臣が肘を掣く。書悪しければ又臣を怒る。邑吏皆之を笑ふ。此れ臣が之を去りて来りし所以なり。」と。魯君以て孔子に問ふ。孔子曰く、「子賤は君子なり。意ふに此れを以て諫めを為すか。」と。公寤り、大息して歎じて曰く、「此れ寡人の不肖なり。寡人子賤の政を乱し、而も其の善を責むること数なり。」と。遽に愛する所の使ひを発して、子賤に告げて曰く、「今より以往、単父は吾が有に非ざるなり。子の制に従はん。」と。子賤敬して詔を奉じ、遂に其の政を行ふを得。是に於いて単父治まる。
〔解釈〕
子賤という孔子の門人が魯の国に仕え、単父という場所の宰となった。魯の君主がある人物からの讒言を聴いて自分に政治を行う事をさせないようにするのではないかと心配し、君主の近臣二人に依頼し、彼と一緒に赴任場所に赴いた。子賤はその二人の役人に字を書かせた。書き始めるとその度ごとにその肘を引っ張った。書いた字がうまく書けていないとそこでこの役人を叱った。二人の役人はこれに困り、国に帰って魯君に告げて言った、「子賤は私共に字を書かせました。しかし私共の肘を引っ張るのです。書いた文字が下手であると又私共を叱り付けます。村の役人たちはみんな私共を笑います。これが私共が彼から逃げて来た理由であります。」と。魯君はそこで孔子に相談した。孔子が言う、「子賤は君子たる人物です。思うにこういう手段で諫めをしようとしたのではないでしょうか。」と。魯公は悟り、大きな息をして嘆いて言った、「これは私が馬鹿であった。私は子賤の政治に干渉し、しかもその政治が悪い、政治が悪いと責めた事が度々あったよ。」と。早速お気に入りの使いを発して、子賤に告げて次のように言った、「今より以後、単父の地は私の所有だとは思わない。お前のやりたいように治めよ。」と。子賤は感激して詔を心にし、ついに政を行う事ができるようになった。こういう訳で単父の地はよく治まった。
〔補説〕
「輒」の字は「すなはチ」と読み、「その度ごとに」という意である。また「寤」の字は「悟」の字に等しい。なお、ここでの魯公とは哀公のことである。
(三十) 刎頸の交わり
生死を共にし首をはねられても悔いないほどの親しい関係のこと 『史記』
〔書き下し文〕
既に罷めて国に帰る。相如が功大なるを以て、拝して上卿と為す。位廉頗の右に在り。廉頗曰く、「我趙の将と為り、攻城野戦の大功有り。而るに藺相如は徒だ口舌を以て労と為し而も位我が上に居り。且つ相如は素賤人なり。吾之が下と為るに忍びず。」と。宣言して曰く、「我相如を見ば必ず之を辱しめん。」と。相如聞きて肯へて与に会はず。相如朝する時毎に、常に病と釈して、廉頗と列を争ふを欲せず。已にして相如出でて廉頗を望見す。相如車を引きて避け匿る。是に於いて舎人相与に諫めて曰く、「臣の親戚を去りて君に事ふる所以の者は、徒だ君の高義を慕へばなり。今君廉頗と列を同じくす。廉君悪言を宣ぶ。而して君畏れて之に匿る。恐懼すること殊に甚だし。且つ庸人すら尚ほ之を羞づ。況んや将相に於いてをや。臣等不肖なり。請ふ辞し去らん。」と。藺相如固く之を止めて曰く、「公の廉将軍を視るや秦王に孰与れぞ。」と。曰く、「若かざるなり。」と。相如曰く、「夫れ秦王の威を以てすら、而も相如之を廷叱し、其の群臣を辱しむ。相如駑なりと雖ども、独り廉将軍を畏れんや。顧みて吾之を念ふに、彊秦の敢へて兵を趙に加へざる所以の者は、徒だ吾が両人の在るを以てなり。今両虎共に闘はば、其の勢ひ倶には生きず。吾が之を為す所以の者は、国家の急を先にして私讎を後にするを以てなり。」と。廉頗之を聞き、肉袒して荊を負ひ、賓客に因りて藺相如の門に至り、罪を謝して曰く、「鄙賤の人、将軍寛くするの此に至るを知らざるなり。」と。卒に相与に驩して、刎頸の交はりを為す。
〔解釈〕
既に会見を終えて国に帰った。藺相如の功績が大きかったので、上卿に任ぜられた。その位は廉頗の上になった。廉頗が言う、「わしだって趙の将軍となって、城攻めや野での戦に大功があったのだ。それなのに藺相如はただ言葉だけで働きがあったとして位はわしの上にいる。その上相如はもともと卑しい身分の出身なのだ。わしはあいつの下となる事に我慢ならぬ。」と。そして宣言した、「わしは相如を見たら必ずやつを辱しめてやろう。」と。相如はこれを聞いて決して廉頗に会おうとはしなかった。相如は朝廷に出る度毎に、常に病気といいわけして、廉頗と席を争う事をしないようにした。やがて相如が外出をしていると廉頗の姿を遠くに見た。相如は車を引き返して避け姿を隠した。こういうわけで家来たちが一緒に相如を諫めて言った、「私共が親戚を去ってあなたに仕えた理由は、ただあなたの気高い行いを慕えばこそです。今あなたは廉頗殿と位を同じくしています。廉頗殿はあなたの悪口を述べました。そうするとあなたは恐れて逃げ隠れしていらっしやいます。その恐れ様といったらひど過ぎます。それに平凡な人物ですらこのような事は恥ずかしいと思います。将軍や宰相の身分にある人物ならばなおさらであります。私共は愚かであります。どうかお暇をいただきここを去らせていただきたい。」と。藺相如は固くこれを制止して言った、「お前たちが廉将軍を見て取るに秦の国王とどちらがこわいかね。」と。言う、「(廉頗殿は)秦の王には及びません。」と。相如が言う、「そもそも秦の王の威力をもってして、しかも私はこの王を朝廷で叱り付け、秦の群臣を辱しめたのだ。私は確かに愚か者だが、ただ廉将軍だけを恐れるような事があろうか。振り返って私が考えてみるに、強い秦の国が決して兵を我が趙の国に送り込んで来ない理由は、ただただ私と廉頗殿との二人がいるからである。今この二匹の虎とも言える二人が共に戦ったならば、その勢いは両方共には生きられぬ。私がこのような態度をする理由は、国家の大事を第一に考えて私的な恨み事を二の次にしようとしているからである。」と。廉頗がこの藺相如の言葉を噂で聞き、肌脱ぎになっていばらを背負い、相如の食客を頼ってその門に至り、それまでの罪を謝って言った、「私は心卑しく識見のない人間で、将軍がここまで寛大にせられたわけを知りませんでした。」と。ついにお互いともに親しくなり、首を刎ねられても悔いないほどの交わりを誓い合った。
〔補説〕
藺相如はこのくだりの前の部分で、秦の国での会見へ趙王に随行し、その席で見事に趙の窮地を脱する務めを果たした。彼は趙の宝であるところの「璧(璧玉)」を秦に奪われる事なく会見を終えた。これが有名な故事「完璧」の話である。右の部分はその後に続く部分であって、冒頭の「既に会見を終えて」はそのことを言っている。さて、文中の「不肯……」、「不敢……」はいずれも「あヘテ……ず。」と読み、「決して……しない。」という強い否定の意となる。また「況ンヤ……ヲヤ。」の句形は抑揚形と言い、「まして……ならばなおさらだ。」と基本的に訳される。最後に、この「刎頸の交わり」は本書(二五)の故事成語「管鮑の交わり」と等しい。
おわりに
古来より伝わつてゐるいはれのある事柄を理解し、実生活と結びつける事が出来れば、其の意味する所の奥深さを、より認識する事が出来るだらう。昔の出来事が身近な現実の出来事となる事は、同時に実生活を豊かなものにしていく事につながる。
繰り返し鑑賞して呉れる事を願ふと共に、以上の三十の故事のみにとどまらず、更に自分なりに研鑽を積んで呉れる事を期待したい。