153 必須故事来歴集

 (最新見直し2013.07.20日)


【知識教養】

「巳、己、已」
 「巳は上に、己は下に、しこうして中までなるは既に已みなむ」。

「昭和」
 「百姓昭明、万邦協和」(中国書経)より

「太平洋、大西洋」
 (解説)

 世界の三大海洋は、太平洋、大西洋、インド洋。太平洋の面積は1億6524万平方キロで、地球海洋面積の46%を占めている。地球上の陸地総面積よりも一回り大きい。大西洋は太平洋の半分の8244万平方キロ。

 太平洋の名前の由来は、マゼランに拠る。1519年、ポルトガル軍人マゼランが提督となって5隻の艦隊を率いてスペインを出港。南アフリカ南端の後のマゼラン海峡を越え、やがてグアム島を経てフィリピン諸島に至った。マゼランは、マゼラン海峡以降の広大な海の航海中幸運にも一度の暴風雨にも遭遇しなかったので、ラテン語で「Mar Pacifico」(太平なる海)と命名した。その漢字訳が「太平洋で」で、「太」を使う。

 大西洋は、中国の明国(1368年~1644年)で布教活動していたイタリア人宣教師マテオ・リッチが命名した。「大」を使う。

 太平洋は、「太平+洋」、大西洋は「大+西洋」ということになる。・

「馬鹿」
 絶大な権力を誇った秦の高官・趙高(ちょうこう)が、幼少の皇帝に鹿を「馬です」と言って献上した。皇帝が笑って左右を見わたすと、居並ぶ家臣は誰もが趙高を恐れ、口々に鹿を馬だと追従した。趙高のこの故事から「鹿を指さして馬と為(な)す」という慣用句が生まれている。権力をかさに着て間違ったことを強引に押し通す、という意味になる。「馬鹿(ばか)」の語源ともいわれるが、真偽のほどは定かでない。

 「馬鹿」は古くは、「破家」とも書かれた。家財を台なしにするほど愚か、の意味だろう。権力の横車を押し、国家の家財をも台無しにするのも「破家」ということになる。「史記」(秦始皇本紀)は、栄耀(えいよう)栄華の秦帝国も趙高の専横からほどなくして滅びた、と記している。(「2006.10.21日付け読売新聞編集手帳」参照)

「呉越」

 (解説)

 ライバル関係、敵味方のことを、呉越(ごえつ)と云う。呉も越も、中国の国の名前。両国とも互いに戦争することが多く、常に相手に戦意を抱いていた。遂に、紀元前473年呉王・夫差は、越王・勾践に敗れ国は滅びた。越も紀元前334年、楚によって滅ぼされる。春秋時代のこと。


「月旦」
 (解説) 

 後漢の許しょう(きょしょう)が毎月はじめに郷里の人々の批評をしたことから始まる故事で、人物評のことを云う。

皮肉
 (解説)

 中国禅宗の祖、達磨(だるま)大師は、門人に対して、「お前の得たものは皮だ」、「お前の得たものは肉だ」とかいって、門人の悟りの心のレベルをそれとなく、しかも辛辣に批評した。そこから「皮肉を云う」が婉曲的ではあるが辛辣な批判という意になり、これが昂じてあてこすりや嫌味なことを指すようになった。

「濫觴(らんしょう)」

 (解説)

 樹林を潜り野を流れ抜けて、谷川を降(くだ)って、やがてはとうとうたる大河ともなるべき水も、その流れのみなもとを求めて、山頂に辿り着いて見れば、そこは、やっと盃(さかずき)一つが浮かぶだけの広さしかない、小さな水溜りに過ぎなかった。事の起こりはまことに些細なことであっても、末端の方で意外に事が大きくなっている場合があるという喩え。


出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ)」
 中国の戦国時代の儒家で、孟子の性善説と反対の性悪説を主張していた荀子(じゅんし、筍況、(B.C.300~240頃)の次の言葉が遺されている。
 「学は以って已(や)むべからず。青は藍(あい)より出でて藍より青く、冰(こおり)は水これを為して、水より寒し。 木の直なるは縄(墨縄)に中るも、たわめてもって輪となさば、その曲、規(車輪)に中る。槁暴(こうばく=乾燥処理)ありといえども。また挺(の)びざるは、たわめしことこれをして然らしむ。故に木は縄(墨縄)を受くれば直く、金(属)は砥石に就かば利(するど)く、君子は、博(ひろ)く学びて日に己を参省せば(三省=反省を繰り返す)、知は明らかにして行い過ちなし。 故に高山に登らずば、天の高きを知らず。深渓(深い谷)に臨まずば、地の厚きを知らず。先王の遺言(古代の聖人君子の言葉)を聞かずば、学問の大なるを知らず」(「荀子」勧学篇)。

 
関連するところを現代口語で訳せば、「学問というものは止まる事がないものである。藍染めに於いて、青い色は藍(藍玉と呼ばれる染色の材料)から作り出すが、元の藍よりも鮮やかな青色をしている。冰は水から出来るものだが、水よりも冷たいものだ」という意味である。西暦1世紀の後半の後漢(ごかん)に編纂(へんさん)された「新論(しんろん)」にも次のような同じような記述がある。
 「青は藍より出でて藍より青し。染めて然(しか)らしむるなり。氷は水より生じて水より冷たし。寒さが然らしむるなり」

 この例えから、弟子が師匠に優る意に通じる。「藍」が師匠として、そこから作り出された「青」という弟子は元(師匠)の藍よりも優れていると例えられ、これを「出藍の誉れ」と云う。広辞苑は、「弟子がその師匠を越えてすぐれているという名声」と記している。中国の南北朝時代の北朝に李謐という人物が居た、李謐は初め孔潘に就いて学んでいたが、その進歩はめざましく、数年の後、孔潘は李謐の方が自分より学問が進んだと考え、自ら進んで李謐の弟子になった。この時、同門のものは筍況のこの言葉を引用して、李謐の優秀さと孔潘の実直さを褒め称えている。

 荀子のこの言葉にも拘わらず、世の大方は、弟子はいつまで経っても弟子であり、一人前或いは自分と同等と認めたがらない。ましてや、弟子の「弟子」になるなどとんでもない事例が多い。「学は、もって已むべからず」を踏まえないからであろう。もっぱら、「青は藍より出でて藍よりも青し」という言葉で表現されることが多く、水と冰のたとえは使われることはあまりない。(「出藍の誉れ」その他参照)

「矛盾」(韓非子)

 (解説)

 楚の国に盾と矛を売り歩く者がいて、まず男は立てを取り出して、「この堅牢な盾、どんな鋭い物で突こうが決して突き破られない丈夫な盾だ」と云って売っていた。次に矛を取り出して、「この矛の鋭い事、どんな盾でも突き通せない者は無い」と宣伝していた。見物人の中から、「それじゃ、その矛でその盾を突いたらどうなる」と云われ、商人は答えることができなかった、という話。


「統率」

「戦略」

「決断」

【人生】

【交際】

【処世】

【人物】

【練磨】

「水揚げ」
 (解説)

 水揚げの語源は、江戸時代初期、売春制度の確立と共に用いられるようになった。「色道大鏡(しきどうおおかがみ)」によれば、女郎の初仕事に新ぞう(船)を仕立て、これを買う者を水上の客と云い為したとある。「この名目、新ぞう女郎を舟に比していい出たる詞なり」。いわば進水式ということになる。ちなみに、水揚げ後の遊女を「新造」と云い、ここから転じて若妻のことを「御新造」というようになった。

「漁夫の利」

「三顧の礼」

「塞翁が馬」

 (解説)

 昔、中国の北方に塞翁という人が居り、飼っていた馬に逃げられ悲しんでいた。ところがやがてその馬は立派な別の馬を連れて帰ってきた。二頭の馬に良馬が生まれ、老人の子がこの馬に乗って遊んでいるうちに、馬から落ちて骨を折った。駆けつけた人々はそれに同情していた。やがて戦争となり、若者達は戦って十人中九人まで死んだが、足を折った老人の子は不具の為に闘わず、無事だった。このように、人間の幸不幸はめまぐるしく変わるものだという話。


「会稽の恥」
 敗戦者の恥辱

「刻舟求剣」
 (解説) 

 舟に刻みて剣を求む。秦代の書「呂氏春秋」に書かれている。楚の国の人が舟で川を渡っている時、大切な宝剣を水中に落とした。慌てて剣を落とした船べりの場所に印を刻み、舟を止めてこれを目印に川底を探した。しかし、僅かの間にも舟は動いており、見つかる筈も無い。手法を間違えた方法では実を結ばない、時勢の変化を見誤ってはならない、との戒め。

「君子の三畏」論語
 
 孔子曰く、君子に三畏有り。天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る。小人は天命を知らずして、畏れざるなり。大人に狎れ、聖人の言を侮る。

「背水の陣」

「三舎を避く」

「他山の石」
 「他人の謝った言行も、自分の行いの参考になる」の意。出典は、詩経の小雅「鶴鳴」(かくめい)の「他山の石、以って玉を攻(みが)くべし」。

「呉下の阿蒙」

「臥薪嘗胆」
 (解説)

 古代中国で宿命的な抗争を続けた呉越二国間の戦いの故事。紀元前496年、呉王こうりょは越との戦いに敗れ、息子の夫差に「越を忘れるな」と遺言して死んだ。その三年後、夫差は越軍を会稽山に囲み破壊寸前まで追い込む。但し、越王こうせんの和議の嘆願を受け入れ敗走させる。九死に一生を得たこうせんはこの恥を忘れず、国に帰るや臥薪(たきぎの上で寝る)し始め、常に干し肝(熊の胃という苦い薬)を身の回りに置き、飲食のたびになめ自戒し、ついに紀元前473年、呉王夫差を姑蘇山に囲み、これを滅ぼし会稽の恥をそそいだ。

「合従連衡」

「四面楚歌」
 (解説)

 このことわざの意味は、四方皆敵の孤立無援の窮地をあらわしている。楚の項羽が漢の高祖にガイ下(がいか)で包囲された。夜、項羽は自陣の四方に、楚歌を聞き、楚人が皆、漢に味方してしまったと驚いた故事から、孤立無援のことを四面楚歌といった。(「史記」)

「呉越同舟」

【酒池肉林】

「国士無双」

【酒池肉林】

「温故知新」

【社会批評】

【弱肉強食】
 (解説)

 唐の韓愈(かんゆ)が文暢(ぶんちょう)という僧侶の旅立ちの際に送った文章の一節に、鳥や獣の生存競争の厳しさを述べて、「弱の肉は強の食」と云ったところから来ている。韓愈が主張したのは、鳥獣世界の自然摂理となっている捕食関係(生物の食物連鎖現象)が、太古よりの人間世界にも当てはまり、禽獣同様の生存競争をしてきている。尭(ぎょう)、舜(しゅん)を始祖とする儒教の教化により始めて秩序ある文明世界になったのだ、ということであった。この比喩が「弱肉強食」という4字成語となり、伝えられていくことになった。

「鳴かず飛ばず」

「兵は死地なり」

「先んずれば人を制す」

「奇貨置くべし」

 (解説)

 このことわざの意味は、見込みのある珍しいものは貯えておくべきである。時期が来て売れば、大きな利益を得ることができる。物ばかりでなく、将来を期待できる人物はかくまっておくべきであるという意味もある。秦の太子であった子楚は秦王の人質として趙王の元に監禁されていた。呂不韋という商人が趙の都に行ったとき、子楚を気の毒に思い身柄を引き受けることを申し出たが、子楚は「まずあなたの家を興してから私のことを心配して欲しい」と承知することを渋った。そこで、呂不韋は「私の家はあなたの家が栄えると自然に繁盛するのです。だから将来のことを期待してあなたのことをかくまうのです。」と言った。果たせるかな、子楚は秦の昭王となり、呂不韋はその大臣として迎えられたという故事による。 


「四十にして惑わず」

「人生、意気に感ず」

「刎頸の交わり」

 (解説)

 このことわざの意味は、例え首を切られても悔いは無いというほどの親しい交わりのことを云う。趙の名将廉ぱ(れんぱ)は、後輩のりん相如(りんしょうじょ)が出世して、自分よりも上の位にいることを苦々しく思っていた。いつか彼を辱めてやると公言して憚らない廉ぱ。それを耳にした相如は、廉ぱを避けるので、側近の者はなぜかと聞いた。相如は、「趙国と秦国は一触即発の状態にある。にもかかわらず、秦が戦をしかけてこないのは、自分と廉ぱがいるからだ。その二人が相争っていたのでは、秦の思うつぼ。だから、廉ぱと私怨(しおん)を交えようとはしないのだ」。相如の人柄に感服した廉ぱは肌を脱ぎ、あばらのむちを負って、相如に深く謝罪し、以来二人は深い友情で結ばれたと伝えられている。「史記」と「十八史略」の中にある。


「愚公山を移す」
 (解説)

 このことわざの意味は、物事は急がず、無理をせず、こつこつと真面目に努力すれば必ず希望通りの事が成し遂げられるというたとえ。   昔、中国に愚公という老人がいた。この人は家族と共に二つの山を越えた所に住んでいたが、年齢も90に近いのでこの山歩きが辛くなった。 そこで家族を集めて「この二つの山をどこかに移そう」と相談した。家族の中に知者といわれる老人がいて、「あなたの年齢と体力でそのようなことは到底不可能だ」 と止めたところ、愚公は「私には子もあり、孫もある。そして、子や孫もやがて子や孫を作るから、子々孫々この仕事を受け継いでいけばよい。山はいつまでも今のままで、大きくはなるまい」と言った。時の天帝は愚公の根強さに感心し、山を他に移してやったという。このようないわれのことわざのようです。

 まあ、現実に山を移せるかどうかは別として、他の人々から見れば到底不可能なことを、子々孫々に渡るような長い時間をかけてでもやり通そうとした気概に感心したのでしょう。こういう話は少なくなりました。皆、小さな目先の成功ばかりを目指しているのが現代社会ではないでしょうか。  

「泰山は土壌を譲らず」

「水清ければ魚棲むまず」
 

「天知る地知る」
 (解説)

 このことわざの意味は、悪いことは誰も知るまいと思っても自然と現れるものであって決して隠し仰せるものでない。中国で王密という人が高官であった揚震の家を深夜密かに訪れて賄賂を送ろうとしたとき揚震はこういって断った。「天知る地知る我知る人知る」というもので、後年、「四知の戒め」 として尊ばれている。「今あなたが行おうとしている悪いことは、私とあなたの他に天地の神々と、やがて他の人が知ることになりましょう。  悪いことや不正は隠そうとしても、必ず現れるものです」。このような意味合いのことわざです。    

「三人行けば必ず我が師あり」

「忍の一字は衆妙の門」(呂本中〈りょほんちゅう〉)

「韓信の股くぐり 」(史記)

「曽参人を殺す (そうしんひとをころす)」

 (解説)

 このことわざの意味は、嘘でも度重ねて言われると、「あんなに言うのだから本当かも知れない」と信じるようになるたとえ。孔子の弟子であった曽参は、品行が良くそのうえ親孝行で母親の信頼を得ていた。ある時、そそっかしい者が母親のもとにとんできて「曽参が人を殺した」と言った。母は曽参を信頼していたので、これは虚言だと思って信じなかった。事実、これは曽参と同名の者がやったことで思い違いであった。ところが、その思い違いが広まって噂となり、二人目の男がまた母親に同じ事を告げた。このときも母は仕事の手をちょっと止めただけであったが、三度目の男がまた告げに来たとき、今度は「三度目の正直」ではないけれど、曽参の母は血相を変えて飛び出していってしまったという故事による。

 人間の信頼というものはかくも薄っぺらなものかと思わせられます。心の中では信じているのですが、何度も何度もこの場合は三度ですが、言われると自信がなくなってくるのですね。自分としてはまさかそんなことはあるまいと思っているのですが、ひょっとしたらという思いがよぎってくるのですね。そしてそれが疑いの心を呼び起こすことになります。    


「道は近きにありて遠きに求む 」

 (解説)

 このことわざの意味は、物事の真実は身近なところにあるものだが人は良く理屈をこね回して高遠な世界にそれを求めようとする。その結果、かえって真実を見つけにくくしている。難解な理論ばかりに走って、自分の足下を見つめようとしない学問の姿勢を戒めた言葉です。これは孟子の言葉のようです。非常に趣がある言葉です。良く人間を心得ている方なんでしょう。

 とかく人々は、自分の理論を発表しようとするときは難しく言ってしまいがちです。自分が何年間もかけて研究した論文をすぐに分かってたまるかとでも 言っているかのように難解な発表をする人が多いですね。でも、これはおかしいのです。本当にその事柄に精通している人は、その事柄を素人にも分かるように説明できます。本当に分かっているから、相手に合わせて説明ができるのですね。ところが、中途半端にしか分かっていない人は  自分が知っている言葉でしか説明ができません。たとえ話も無理です。質問しても分からないときは難しいことを言い出して煙に巻いてしまいます。  こんな学者が多いのではないでしょうか。   


「狡兎死して走狗烹らる」

「知らぬ顔の半兵衛」
 (解説)

 尾張の織田信長と美濃の斎藤龍興(たつおき)との間に戦いが始まろうとしていた。その時織田方では、斎藤家の軍師竹中半兵衛の知謀を警戒し、できれば味方につけて取り込もうと考えた。そこで前田犬千代を半兵衛に接近させた。犬千代は半兵衛の娘、千里と親しくなり、半兵衛の心を動かそうとしたが、半兵衛のほうが一枚上手。知らぬ顔をしながら、逆に犬千代を利用して織田方の情報を入手。斎藤家を勝利に導いたという。この故事から、知らぬ顔の半兵衛は、知っていながら知らないふりをして、相手の意にならないことの意に。

「百聞は一見に如かず」
 (解説)

 その昔、中国の漢の国で反乱が起った際に、鎮圧の命を受けた趙充国将軍は、「百聞は一見に如かず」と発して、直ぐに戦地に向かい、地形や兵力などを入念に調べて作戦を立て、一年後に平定した。物事を処理する上で、机上の空論の議論を費やすよりも実地の調査が肝心という意味で広く伝えられることになった。

「一張一弛(いっちょういっし)」
 (解説)

 出典は「例記」(らいき)。「張りて弛めざるは、文武も能くせざるなり。弛めて張らざるは、文武も為さざるなり。一張一弛(いっちょういっし)は、文武の道なり」(弓は張ったままにして弛めないと、弓の力が落ちるものであるが、そんなやり方では、文王・武王でも世の中を治められない。弦を張ることなく弓を緩めたままにしておくと、弓そのものが狂ってくるものだが、そんな治め方は文王も武王もとらなかった。弓は或る時は張り、又或る時は緩めるのが良いように、文王や武王は、寛大であったり厳格であったりの、ほどよい治め方をした)(文王・武王とは、殷王朝を倒して周王朝を建国した文王と武王父子を云う)

「八百長(やおちょう)」

 (解説)

 
八百屋の長兵衛(通称八百長)という人が相撲の年寄某とよく碁を打ち、適当に勝ったり負けたりするように手かげんをしたことから出た語という〕勝負事で、真剣に争っているように見せながら、前もって示し合わせたとおりに勝負をつけること。なれあい。いんちき。(三省堂の大辞林より)


【こんにゃく問答】
 (解説)

 落語の話で、仏教語を駆使した名作で、サゲ(落ち)も「見立て落ち」とよばれる傑出したものとなっている。同じ身振りを二人でそれぞれまったく違う意味にとる滑稽さが値打の落語となっている。三代目林家正蔵(俗に二代目といわれるが、正しくは三代目)の作といわれる。

 あるお寺のお坊さんが、旅の僧から問答を申し込まれた。問答に負けると、から傘一本で寺から追い出される。その話を聞いたコンニャク屋の主人が、「私が代わりに相手をしてみましょう」と買って出た。旅の僧がやって来た。コンニャク屋の主人は問答で何を聞かれても黙っていることにしていた。旅の僧は無言の行問答と勘違いし、両手の親指と人差し指とで小さな○(マル)を作った。コンニャク屋の主人は、両方の腕で大きなマルを作って見せた。次に、旅の僧が右手の10本の指を突き出すと、コンニャク屋の主人は右手の5本の指を広げる。最後に、旅の僧が右手の3本の指を突き出すと、コンニャク屋の主人が右の人差し指を目の下に当てアカンベエをした。

 旅の僧は恐れ入り、「大和尚の胸中は大海のごとし。十方世界は五戒で保つ。三尊の弥陀(みだ)は目の下にあり」、「到底拙僧の及ぶところにあらず。両三年修行を致しまして……」と述べ逃げ出した。曰く、お日様のつもりで○(マル)を出したらお月様と答えられた。次に、10本の指で「十方世界は」と問えば、「五戒で保つ」との仰せ。次に、指3本で「仏教で言う三千(さんぜん)世界、つまり大宇宙とは?」と問えば、「してはならない五つの戒めで保たれる」と答えられた。さらに「人が受ける四つの恩はどこにあるか」と問えば、「目の下にあり」と答える。これはかなわない。

 ところが、コンニャク屋の主人曰く、「問答なんてつまらないもんだなあ。お前のところのコンニャクはこんなに小さいだろうというから、いやこんなに大きいぞと言ってやった。10丁でいくらかと値を聞いてきやがった。500だって言ったら、一つ三文(さんもん)か?と聞いてくるから五文だと答えてやった。それを四文にまけろと言うから、アカンベエをしてやった。そしたら逃げていったよ。

 互いに全く別の話をしているのに、話はつじつまが合ってどんどん進展していくサマを面白おかしく語っており、ここから「こんにゃく問答」と云う言葉が生まれている。会話が一見通じているようで本当は全く噛み合っていないサマを云う。(モノローグ(monologue)は独白、ダイアローグ(dialogue)は対話)

【木鶏(もっけい)】

 (解説)

 木鶏(もっけい)とは、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす。

 故事では紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、闘鶏好きの王の下問に答える形式で最強の鶏について説明する。紀悄子に鶏を預けた王は、10日ほど経過した時点で仕上がり具合について、「どうだね?鶏は強くなったか?」と下問する。すると紀悄子は、 『まだ空威張りして闘争心があるからいけません』 と答える。更に10日ほど経過して王が「そろそろどうかな?」と下問すると、 『まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます』と答える。更に10日経過し、王が下問すると、 『目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません』 と答える。さらに10日経過して王が下問すると、『もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前に、かなう闘鶏はいないでしょう』 と答えた。上記の故事で荘子は道に則した人物の隠喩として木鶏を描いており、真人(道を体得した人物)は他者に惑わされることなく、鎮座しているだけで衆人の範となるとしている。これが木鶏の故事である。

 木鶏という言葉はスポーツ選手に使用されることが多く、特に日本の格闘技(相撲・剣道・柔道)選手が好んで使用する。昭和の大横綱の双葉山が、連勝記録が69でストップした日、「我、未だ木鶏たりえず」と安岡正篤に打電したという故事がある。


【杞憂(きゆう)】
 杞憂(きゆう)は、その昔、中国の杞の国の人が、天が落ちてこないか地が割れやしないのかを憂えたという故事に基づく、将来のことについてあれこれと無用の心配(取り越し苦労)をすること。「杞人の憂い」とも云う。

 (出典) 列子の天瑞編の第十四章より(小林信明著、明治書院、昭和42年5月25日初版の新釈漢文大系22列子)。
 杞國有人憂天地崩墜 身亡所寄 廢寢食者 又有憂彼之所憂者 因往曉之曰 天積氣耳 亡處亡氣 若屈伸呼吸終日在天中行止 奈何憂崩墜乎 其人曰 天果積氣 日月星宿不當墜邪 曉之者曰 日月星宿亦積氣中之有光耀者 只使墜 亦不能有所中傷 其人曰 奈地壞何 曉者曰 地積塊耳 充塞四虚亡處亡塊 若躇歩蹈終日 在地上行止奈 何憂其壞 其人舍然大喜 曉之者亦舍然大喜 

 長廬子聞而笑之曰 虹蜺也雲霧也風雨也四時也 此積氣之成乎 天者也山岳也河海也金石也火木也 此積形之成乎地者也 知積氣也知積塊也 奚謂不壞夫天地空中之一細物有中之最巨者難終難窮此固然矣難測難識此固然矣 憂其壞者誠爲大遠言其不壞者亦爲未是天地不得不壞則會歸於壞遇其壞時奚爲不憂哉 

 子列子聞而笑曰 言天地壞者亦謬言天地不壞者亦謬壞與不壞吾所不能知也 雖然彼一也此一也故生不知死死不知生來不知去去不知來壞與不壞吾何容心哉
 「杞憂」という題は引用者がつけたもので、『列子』の本文にはない。
 (原文)「杞国、有人憂天地崩墜、身亡所寄、廃寝食者。又有憂彼之所憂者」。
 (古文訳)杞の国に、人の天地崩墜(ほうつい)し、身寄するところ亡(な)きを憂(うれ)えて寝食を廃する者有り。又彼うるところあるをうる者有り
 (現代語訳)中国の杞(き)の国に、もし天が落ちてきて地が崩れたら、身の置き所がなくなってしまうと心配して、夜も眠れず、食事もできなくなってしまった者がいた。 そんな憂える男を心配した者がいた。
 (解説、語注)杞(き)の国とは、周代の国名。杞は小国ではあるが、周の武王が殷(いん)を滅ぼしたときに、かっての夏(か)王朝の聖王・禹(う)の子孫である東楼公(とうろうこう)を君主として封(ほう)じ、禹の祭事を継承させたという来歴を持つ格式ある国であった。現在の河南省杞県。開封の南東。
 (原文)因徃曉之曰、天積氣耳、亡處亡氣。若屈伸呼吸、終日在天中行止。奈何憂崩墜乎。
 (古文訳)因)りきてさとしていわく、積気せっきのみ。ところとしてきはし。屈伸くっしん呼吸ごとき、終日しゅうじつ天中てんちゅうりて行止こうしす。奈何いかん崩墜ほうついえんやと。
 (現代語訳) 彼はその男のもとへと出かけて行き諭して云った。天というものは大気の集まりだから、大気のない場所なんてものはない。 僕らの活動なんてものは、一日中、天の中で活動しているようなものだ。大気である天が墜ちるなんて心配しても仕方がないよ、と。
 (解説、語注)暁とは、諭す。積気(せっき)とは、積み重なった大気。天のこと。行止(こうし)とは、行くことと止(とど)まること。ふるまうこと。
 (原文)其人曰、天果積氣、日月星宿不當墜耶。曉之者曰、日月星宿亦積氣中之有光耀者。只使墜、亦不能有所中傷。
 (古文訳)其人曰く、天果たして積気ならば、日月じつげつ星宿せいしゅくまさつべからざるかと。これさと者曰く、日月星宿また積気中せっきちゅう光耀こうようなり。たといちしむるも、またあたやぶところあたわじと。
 (現代語訳) すると憂える男が問う。天が大気だとしても、太陽や月や星々といったものが墜ちてはこないだろうか、と。諭す者が云う。太陽や月や星々といったものは大気の中で光っているに過ぎない。もしも墜ちたとしても、僕達を傷つけるなんてことにはならないよ、と。
 (解説、語注)星宿(せいしゅく)とは、星座のこと。ここは星をいう。光耀 … 光り輝くこと。 中傷(ちゅうしょう)とは、当たって怪我をする。「中傷」の「中」は、あたるの意。落ちてきたものが当たって、けがをする。
 (原文)其人曰、奈地壞何。曉者曰、地積塊耳。充塞四虚、亡處亡塊。若躇歩跐蹈、終日在地上行止。奈何憂其壞。
 (古文訳)そ人曰く、くずるるを奈何いかんせんと。さと者曰く、積塊せっかいのみ。四虚しきょ充塞じゅうそくし、ところとしてかたまりきはし。躇歩ちょほ跐蹈しとうするがごときは、終日しゅうじつ地上りて行止こうしす。奈何いかんくずるるをえんやと。
 (現代語訳) 憂える男が問う。 地が壊れるのはどうだろうか、と。 諭す者が云う。 地なんてものは土の塊だ。 あたり一面に充塞して土のない場所なんてものはない。 僕らの行動なんてものは、一日中、大地の上で活動しているだけだ。 その地上が壊れるなんて心配しても仕方がないよ、と。
 (解説、語注)積塊(せっかい)とは、積み重なった土塊。大地のこと。四虚(しきょ)とは、四方の空間。充塞(じゅうそく)とは、いっぱいになってみちふさがる。「地積塊耳充塞四虚」とは、中国古来の考え方では「天円地方」であって天球という考えはあっても地球という考え方はない。それで、地は果てしなく広がって四方の空間(四虚)に充塞しているとする。躇歩蹈(ちょほしとう)とは、「躇」「」「蹈」のいずれも、地をふむ意。足を地に踏みつけて歩く。
 (原文)其人舍然大喜、曉之者亦舍然大喜。
 (古文訳)そ人舎然せきぜんとしていにぶ。さとまた舎然せきぜんとしていにべり
 (現代語訳) これを聞いた憂える男は、すっかりと安心して大変喜び、之を諭した者も一緒になって喜んだ。
 (解説、語注)舎然(「しゃくぜん」、「せきぜん」の両方の読みがある)とは、疑いや迷いがすっかりなくなり、さっぱりするさま。釈然。
 (原文)長廬子聞而笑之曰 虹蜺也雲霧也風雨也四時也 此積氣之成乎 天者也山岳也河海也金石也火木也 此積形之成乎地者也 知積氣也知積塊也 奚謂不壞夫天地空中之一細物有中之最巨者難終難窮此固然矣難測難識此固然矣 憂其壞者誠爲大遠言其不壞者亦爲未是天地不得不壞則會歸於壞遇其壞時奚爲不憂哉 
 (古文訳)長廬子ちょうろし聞きて之を笑ひて曰く、 虹蜺こうげいや、雲霧や、風雨や、四時や、これ積気の天に成る者なり。山岳や、河海や、金石や、水火や、これ積形の地に成る者なり。積気を知るや、積塊を知るや、なんぞ壊れずと謂はん。それ天地は、空中の一細物にて、有中の最も巨なる者なり。終り難く窮め難く、これ固より然り。測り難く識り難く、これ固より然り。その壊るを憂ふる者は、誠に大だ遠しと為す。 その壊れざると言ふ者も、亦た未だ是ならずと為す。天地は壊れざるを得ず、則ち会ふに壊るに帰す。その壊るに遇ふ時、奚為なんぞ憂へざらんや。
 (現代語訳) この話を聞いた長廬子が笑って云った。 虹だの、雲や霧だの、風雨だの、春夏秋冬だのといったものは「気」の積み重なったものである。 山岳だの、河海だの、金石だの、水火だのといったものは、積塊が地に集まりて成るものである。 天が積気であり、地が積塊であることを知りながら、なぜ壊れぬと云うことができようか。 天地というものは、この宇宙においてはほんの小さな存在ではあるが、有形万物の中では最も巨大なものである。 故にこれを窮め尽し、測り識ることが出来ぬことなどは、本より当然のことである。 そう考えれば、天地が壊れることを心配している者など話にならぬし、また、天地は壊れぬとする者も是とすることはできない。 天地も有形のものである以上、その他の有形万物と同様に、いつかは壊れざるを得ないであろう。 その壊れる時に遇えば、どうして憂えずに居られようか、と。
(4)「長廬子」の「廬」は、「盧」とする本もある。(5)「火木」は、一本には「水火」に作る。
 (原文)子列子聞而笑曰 言天地壞者亦謬 言天地不壞者亦謬 壞與不壞吾所不能知也 雖然彼一也此一也 故生不知死 死不知生 來不知去 去不知來 壞與不壞吾何容心哉
 (古文訳)子列子聞いて笑いて曰く、 天地は壊ると言ふ者も亦た誤りなり。天地は壊れずと言ふ者も亦た誤りなり。壊ると壊れざると、吾の知る能はざる所なり。然りと雖も、彼も一なり、此も一なり。故に生けるとき死を知らず、死するとき生を知らず、来るとき去るを知らず、去るとき来るを知らず。壊ると壊れざると、吾れ何ぞ心を容れんや、と。
 (現代語訳) これを聞いた列子が笑って云う。 天地が崩壊するというのも誤りであれば、天地は崩壊しないというのも誤りである。 崩壊するか否かは、どちらも一つの見解ではあるけれども、我々の知るところではない。生きている間は死後のことは分からないし、死んでしまったら生きている者のことは分からない。考えても分からぬことで悩むのは無駄なことだ。 崩壊しようがしまいが、そんなことに心を使ってもどうしようもない。こう考えることが肝要ではないのか。
 以上が「杞憂」の原文である。著者は中国の戦国時代の鄭(てい)の人であり、その名を列禦寇(れつぎょこう)と云う。道家の思想家としては列子(れっし)の名で知られている。老子よりややおくれ、荘子より前、孔孟の中間の頃の人ともいうが伝未詳である。唐の玄宗は冲虚真人と諡(おくりな)した。春秋戦国時代の著名な人物の多くは、司馬遷の『史記』によって伝えられているが、列禦寇は列伝を立てられていない為、その事績を知ることができない。列禦寇の著作とされる『列子』から、その人となりは恬淡(てんたん)としており、乱世に巻き込まれることなく、鄭(てい)の国に四十年間隠棲していたことが分かる。但し実在の人物ではなかったとする意見もあり実像は定かではない。『列子』という書の基本的な体裁は、前漢の時代には整っていたと考えられる。しかし、現在に伝わる『列子』に記されている内容のなかには、戦国時代の思想ではなく、漢から魏晋時代にかけての思想も幅広く含まれており、成立の過程についても諸説紛々(ふんぷん)としている。そういうベールに包まれてはいるが『列子』は同じく道家の必読の書である『荘子』と並び寓言(ぐうげん)に富んだ書として知られている。そのなかの一節に「杞憂」がある。
 中国故事「杞憂」の面白さは、「天が落ちてこないか地が割れやしないのか」の疑問に対して、入れ子構造のような手法で3人の回答者が登場し問答をしていることにある。天が崩落せず、地が陥没しない理由については、恵施(けいし)と黄繚(こうりょう)という人物が問答を交わしたことが『荘子』にも見えており、人々の議論の対象であったことが伺われる。杞憂の故事は中国の漢民族の理論好きな面を示しており、この点にも興味がわく。

【「九仞の功を一簣に虧く」(きゅうじんのこうをいっきにかく)】
 出典は「書経」にある「周の武王を家臣の召公が諌めた」話。周の武王が、殷の紂王を討ち、殷を滅ぼして新に周朝を創めてから間もなくのことです。周の威令は遠く四方の蛮夷の国々にまで及び、各地から貢物が献上されてきました。当時、西方に旅という国があり、旅からもゴウが献じられてきた。ゴウとは高さ四尺に及ぶ大犬のことで、能く人の意を解すという珍獣だった。この贈り物をまえにして、武王は大いに喜んだが、その時、召公が、珍奇なものに心を奪われて、せっかくの周王朝の創業を危うくしてはならないと諌めた言葉のなかに出てくる。「九仞」の「仞」は八尺のことで、「九仞」はその九倍ですから非常に高いものと言う意味です。例えば、土で山を築くときに「九仞」の一歩手前まで築いていてもそこで油断して怠れば山は完成しないし、それまでの努力(功)も無駄になってしまうと言うことです。「一簣」は、「一籠」で「一籠の土」ということです。あと「一籠」で九仞の高さになったのにを表しています。つまり「今一歩と言うところで油断したり、手違いをしたりすると失敗して、それまでやってきたことが無駄になる」と言う譬えである。

【「男子三日あわざれば、刮目してみるべし」()】
 原文は、「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」 。見所のある人物は3日も経つと見違える程成長しているものだと言う意味。出典は、三国志演義。三国志の3国の1国・呉の国に呂蒙という勇猛な武将がいた。呂蒙は勇猛さで呉の国はおろか他の2国の魏や蜀にもその名が響いていたが無学だった。君主の孫権が、少しは学問を学び人間の幅を広げるよう呂蒙に諭した。それから時が流れて、呉の国有数の知将魯粛が前線司令官として赴任する途中に呂蒙を訪ねた。呂蒙は、魯粛の赴任先の正面に、当時中国で最強と言われた蜀の関羽将軍が指揮官として居ると聞いて、関羽の性格を分析し、適切な献策をした。呂蒙は学問に励み、いつしか勇に智が伴う武将になっていた。武骨な呂蒙しか知らない魯粛は驚き、「いつまでも、呉の城下を走り回っていた蒙ちゃんと言う訳ではないなぁ(復た呉下の阿蒙にあらず)」と言ったところ、呂蒙は、「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」と言った。この故事による。





(私論.私見)