7章 戦後学生運動5期その1 1958(昭和33)年
 ブント登場

 (最新見直し2008.8.11日)

 これより前は、「4期その2、革共同登場」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1958(昭和33)年の学生運動史を概略する。この時期、共産党内反宮顕派が、革共同にやや遅れてブントを結成し、革共同と競うかのごとく60年安保闘争へ向かって進撃を開始する。これを仮に「戦後学生運動第5期その1、ブント登場史概略」と命名する。詳論は「新左翼系=ブント・革共同系全学連の自律」、概論は「ブント登場」に記し、ここでは枢要な事件を採り上げ解析する。ブント史については別稿「第一次ブント運動考」に記す。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。



【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

 1958(昭和33).1.8日、日共は、「国会解散と総選挙に全力を集中するため」という理由付けで第7回党大会の延期を決定した。党中央は、党章草案が党綱領として正式に党大会で採択される為にあらゆる手段を弄して画策していった。その為になりふり構わぬ宮顕派のヘゲモニー確立の為に党内人事に全力を注いでいった。 
 5月、「現代マルクス主義−反省と展望」三冊(第一巻「マルクス主義と現代」、第二巻「マルクス経済学の展開」、第三巻「現代革命の諸問題」)が刊行された。既に第一弾として上田の「戦後革命論争史上下二巻」が出版されていた。続いて「現代資本主義双書」も刊行されていた。豊田四郎、田沼肇、長洲一二の「現代資本主義とマルクス経済学」、井汲卓一の「国家独占資本主義」、村田陽一の「現代民主主義の構造」、不破哲三の「社会主義への民主主義的な道」等々が発表された。安東は「戦後日本共産党私記」で次のように評している。
 「そこには長洲と同様に、構造的改良に基づく現代先進国革命の路線として、トリアッティを先頭とするイタリア・マルクス主義への共感が熱っぽく説かれ始めていた」。

 7月、不破哲三は、「講座・現代マルクス主義V、現代革命の展望」において、「社会主義への民主主義的な道」論文を発表した。次のように評されている。
 概要「コミンテルン時代の古い革命論の図式が反ファッショ人民戦線時代に事実上の修正を蒙ってきた経緯を跡付けた上で、イタリア共産党の構造改革路線を中心に『社会主義への民主主義的な道が社会主義革命の一般的法則にまで高められた』理論的過程を論証した」。

【日共第7回党大会】
 7.23日、日共第7回党大会が開かれた。大会は51年綱領を廃止し、新綱領の継続審議を申し合わせた。日共第7回党大会は、六全協においては中央委員になお多数の旧徳球派が残存していたのを排斥し、新しい宮顕系主流派閥の形成と官僚主義に道を開いたところに意味があった。宮顕は、「この党大会を経て、いろいろな理論問題を解明した」と豪語したが、実際には「アメリカ帝国主義+日本独占資本=二つの敵論に基く二段階革命論を基調とする敵の出方論」を主張する宮顕派と、「日本独占資本のみの一つの敵論に基く一段階革命論を基調とする平和主義革命論」を主張する春日(庄)派との間の論争に決着がつかず持ち越された。

 この大会で、宮顕らしい「排除の論理」の押し付けが次のように伝えられている。反宮顕派の東京都委員・芝氏が代議員として送り出されてきていた事態に対処した宮顕は、理論闘争ではなく、戦前の獄中闘争時代の「哀しい生き様」の暴露と指弾で対応した。芝代議員に対し、宮顕とぬやまひろしこと西沢隆二が一緒になって壇上から、「戦前の黒い前歴」を暴き出し、「芝君の転向は悪質であった」と批判した。その内容たるや、「刑務所で一等飯を食ったか、三等飯を食ったか。一等飯を食ってた奴は買収されていたからであろう」というお粗末な罵声であった。芝氏は泣き、眼を真っ赤にして「チクショウ、宮顕の奴‐‐‐」と唇を噛み締めていた様子が伝えられている。

 これについて、筆者はかく思う。これは、当人は百合子の差し入れで特上生活を確保していたというのに、そうした己の行状を問わず人に厳しい噴飯ものの謂いによる攻撃であった。但し、この当時に於いては宮顕のそうした素性はヴェールに包まれていた為、芝氏は抗弁できなかった。「それなら何故今まで都委員長の地位を認めていたのか」と反論するのが精一杯で、これに対して宮顕は、「武士の情けというか、あるいはいずれ正規の大会を経て人事を正すまでは黙認してきた」と切り捨てている。「非転向12年の宮顕神話」の金棒がこういう場合に振り回されるという好例がここにある。「非転向12年の宮顕神話」を突き崩さねばならない所以がここにある。

 もとへ。この時、党中央は、代議員を異常な監禁状態に置いていた。三浦つとむの「社会党党員協議会をめぐって」(「現代思想」1961.10月号)は次のように評している。

 「代議員は一人残らず宿舎にカンヅメにされていたが、これは代議員達が会場の外で自主的に討論することを阻止する為の対策だと云われ、病人が出たとき看護の任にあたるとして配置された党員も、実は『監護』のための目付け役であろうとされる状態にあった」。

 この大会で、 「5つの教訓」が定式化された。要するに、「党中央の統一と団結をまもることこそ、党員の第一義的任務」、「いかなる場合にも規約遵守」、「党の内部問題を党外に持ち出さず」、「党中央の理論学習」と云う党中央に都合の良いばかりの「宮顕式民主集中制」の押し付けであった。

 これについて、筆者はかく思う。「5つの教訓」は、徳球党中央時代には宮顕自身が公然たる反党中央活動していたと云うのに、自身が党中央に納まるや、徳球時代よりも酷い党中央による締め付けと党員の恭順を説いていた。しかし、これを訝る者は居なかった。 

 8.18−20日、第2回中総で、綱領問題小委員会、党の歴史に関する小委員会、戦後労働運動の総括のための三小委員会を中央委員会内に設けることを決定し、各委員を選出した。小委員会は58年から61年にかけて29回開かれ討議されることになった。但し、党の歴史に関する小委員会、戦後労働運動の総括のための小委員会は有名無実化させられた。


 9.11日、岸首相の意向を受け、藤山外相が渡米し、ダレス国務長官と安保改定の正式交渉に入った。10.4日、条約改定のための第一回会談が開かれた。以降、59年いっぱい続けられ、60.1.6日の妥結まで公式に計25回、極秘裏におびただしい回数で会談が持たれ、丸1年3ヶ月にわたる長期の改定交渉が続けられることになる。
【警職法闘争】
 10.8日、岸内閣が、警察官職務執行法警職法改悪を抜き打ち的に国会に上程してきた。左派勢力は、「警職法改正は、その次に予定されている安保条約改定に対する反対運動を弾圧するための準備であるとともに、民主主義を破壊して警察国家を再現しようとするものである」という位置付けから、安保反対闘争の前哨戦として、警職法改正反対闘争に入っていった。

 10.9日、岸首相は、NBC放送記者ブラウンと会見して次のように述べている。
 概要「私は中共を非難する。彼等は侵略者である。最大限の日米協力ができるような安保条約の改定を行う用意をしている。しかし、憲法は改正されなければならない。何となれば、現在のところでは、我々は軍隊を海外に派遣することは禁ぜられているからである。憲法第9条(戦争放棄を規定したもの)を廃止する時期がきた」。

 10−11月、警職法改正法案が突如国会に提出されてきたことを受けて、共産党、社会党、総評などの諸団体が一斉に反対闘争に立ち上がった。この時社会党・ 総評など65団体による「警職法改悪反対国民会議」が生まれ、全学連もそのメンバーに入った。

 (高見圭司氏が「55年入党から67年に至る歩み」で、この頃の社会党の国会闘争の様子を次のように伝えている。
 「国会は連日の実力阻止闘争で肉弾戦が闘われた。当時、その翌年の勤評反対闘争、さらに58年の警職法反対闘争でも、社会党の国会議員は、今のような『絶対反対はしない』などというような腰抜けでなく、とくに戦前の運動経験をもつ御老体が先頭に立って院内で身体を張って“実力阻止”をしばしばくりひろげたのである。私は、このような雰囲気のなかで、25歳という若さもあって、社会党秘書団の先頭に立って身体をぶっつけて闘った。そして私はこの実力闘争で目立つようになり、一時は自民党の代議士を殴ったという理由で、自民党の田村元という若い代議士が私を告訴しようとしたこともあった。この当時、実力戦の小休止の時間には、社会党の控室でじゅうたんの上に白墨で円を書き、秘書団のわれと思わん者たちが相撲をとったものである。この相撲のまわりには代議士や秘書団が群がり熱のこもった声援が飛んだ。そして、当時の社会党秘書団といえば団結カの強いことで有名であり、国会内の衛士は秘書団10名に対して30名の衛士で対決しても散を乱して逃げることがしばしばであった。自民党の日当で雇われた浅草あたりの暴力団などは社会党の秘書団の前では団結力がないため絶えず蹴ちらされていた。このような戦闘性を含んだ社会党は60年安保に至るまで強烈な“セックス・アッピール”があったのである」。

 10.23日、日共は、アカハタで「安保条約破棄は当面の闘争の重要な環」と主張しつつ「地評は共闘を警職法闘争に利用している」と批判している。大衆が警職法闘争に立ち上がっているときに、こういうことを云い触らすのは、警職法闘争放棄の要求以外の何ものでもなかった。労働者からは「共産党は遂に民同と結婚してしまった」と嘆かれた。

 10.28日、総評は第三次統一行動。警職法反対と勤務評定反対を統一要求に掲げていた。東京では4会場に分かれて、「警職法改悪粉砕.民主主義擁護、日中関係打開、生活と権利を守る国民中央集会」。中央集会には8万の労学、四谷会場には労1万、全学連2万が結集。

 11.5日、警職法阻止闘争は全国ゼネストに発展し、全学連4千名が国会前に座り込んだ。1万余の学生と、労働者が国会を包囲した。全国で450万人の労働者がなだれ込み、全学連は全国63都市で40万を動員した。驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、自民党は1ヶ月後に法案採決強行を断念した。警職法闘争の経験が以降 「国会へ国会へ」と向かわせる流れをつくった点で大きな意味を持つことになった。



【この時期の学生運動の流れ】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

【「島−生田」ライン」への人材結集】
 全学連指導部の主流は革共同に合流せず、共産党内反党中央派として自律形成し始めることになった。公然と党に反旗を翻しつつ独自の学生運動路線の模索へと突き進んでいくことになった時期であり、全学連運動のターニングポイントになる。これを指導したのが「島−生田」ラインであり、追ってブントを立ち上げる。日共のクビキから離れた全学連は急進主義運動に傾斜しつつ勇躍発展していく。

 この頃、ブントを率いる島氏の回りに次第に人材が寄ってくることになった。ブントに結集した人材は今日的にも興味深いものがある。島、生田は当然として他にも、香村正雄(東大経済卒、現公認会計士)、古賀康正(東大農卒、現農学者)、鈴木啓一(東大文卒、現森茂)、樺美智子(東大文、安保闘争で死亡)、倉石庸、少し後から多田靖、常木守等が常駐化した。

 翌1959.2.15日、機関紙「共産主義」が創刊されるが、論客として佐伯(東大卒、山口一理論文執筆他)、青木昌彦(東大卒、現経済学者、姫岡論文執筆)、片山○夫(早大卒、現会社役員)、生田、大瀬振、陶山健一が活躍した。これについては、「ブントに結集した俊英考」に記す。

【社学同の創設】
 1958(昭和33).5.25日、全学連の推進体となっていた反戦学同が第4回全国大会を開催した。全学連大会に先立って開かれたこの大会で、反戦学同を発展的に解消し、組織の性格を従来の反戦平和を第一義的目標としたものから社会主義の実現をより意識的革命的に発展させるべきであるとの立場に改め、名称も日本社会主義学生同盟(社学同)と変え、た。これが社学同の第一回大会となった。

 社学同は、「日本独占資本が復活強化した」との評価を前面に出し、アメリカ帝国主義への従属国家論を主張する宮顕派の党章草案と決定的に対立する現状分析論を獲得し、路線へと踏み出していくことになる。

【全学連第11回大会、先駆性理論を打ち出す】
 5月、全学連第11回大会が開かれ、党中央に批判的な社学同派が、高野ら日共民青同派(早大・教育大・神戸大など)と乱闘を演じつつ圧倒した。この時期全学連主流派は、学生運動理論における「先駆性理論」を創造していた。全学連第11回大会は、「先駆性理論」を媒介させ「層としての学生運動論→労・学提携同盟軍規定論→先駆性理論、反帝闘争路線」に至る画期的方針を採択した。

 「先駆性理論」とは、概要「学生運動は本質的に社会運動であり、政治闘争の任務を持つ。学生が階級闘争の先陣となって労働者、農民、市民らに危機の警鐘を乱打し、闘争の方向を指示するところに意義がある。国会デモその他の高度の闘争形態を模索しつつ、『労働運動の同盟軍』として労働者、農民、市民に対する『学生の先駆的役割』を自覚せねばならない」とする学生運動理論であった。この背景にあった認識は前衛不在論であり、「前衛不在という悲劇的な事態の中で、学生運動に自己を仮託させねばならなかった日本の革命的左翼」(新左翼20年史)とある。

 ちなみに、革共同はこの「先駆性理論」とも違う「転換理論」に拠っていた。「転換理論」とは、概要「プロレタリアートと利害関係を同じくする学生の運動は、階級情勢の科学的分析のもとに、プロレタリアート同盟軍として階級闘争の方向に向かわざるを得ないことからして、学生は革命運動を通して自分自身を革命の主体に変革させていくことになる」というものであった。

 これについて、筆者はかく思う。どちらもよく似てはいるが、ブントは共産党の伝統的な学生運動理論と決別し、より感性的行動論的に自らを位置づけているのに対し、革共同は共産党の伝統的な学生運動理論と折衷させ、ブント理論に対してやや思弁的組織論的に位置づけているという違いが認められる。こうした学生運動に対する位置づけは、追ってマルクーゼの「ステューデントパワー論」が打ち出されるに及び、その影響を受けて更に「学生こそ革命の主体」という考えにまで発展していくことになる。
 
 もとへ。宮顕の指導する党中央は、「先駆性理論」に対して次のように罵倒している。
 「戦術的には政治カンパニア偏重の行き過ぎの誤りを犯すものであり、学生が労働者や農民を主導するかの主張は思い上がりである」。

 これに対し、全学連指導部は次のように自讃している。
 「戦後10年を経て、はじめて日本学生運動が、日本のインテリゲンチャが、そして日本の左翼が、主体的な日本革命を推進する試練に耐える思想を形成する偉大な一歩を踏み出しつつあることを、全学連大会は示しているのである」。

 これについて、筆者はかく思う。どちらの謂いが正論か、筆者には自明である。それにしても、宮顕的批判は、何とも冷酷高飛車な説教ではなかろうか。日共史の数ある指導者の中で、このような変調指導した者は、宮顕以前には居ないのではなかろうか。些細な事かもしれないが、筆者にはこう云うことが気に掛かる。

【「6.1日共本部占拠事件」】
 全学連第11回大会の成り行きを憂慮し事態を重視した党中央は締めつけに乗り出し、全学連大会終了の翌日の6.1日、同大会に出席した学生党員代議員約130名を代々木の党本部に集め「全学連大会代議員グループ会議」を開いた。ここで稀代の事件が起こっている。

 会議は冒頭から議長の選出を巡って大混乱となり、全学連主流派と党中央の間に殴り合いが発生した。遂に党の学生対策部員であった津島薫大衆運動部員を吊し上げ、暴行を加える等暴力沙汰を起こした上、鈴木市蔵大衆運動部長の閉会宣言にもかかわらず、学生党員が議長となって紺野与次郎常任幹部会員らの退場を阻みながら議事を進め、次のような決議を採択した。
 概要「現在の党中央委員会はあまりにも無能力である。故に、党の中央委員全員の罷免を要求する。及び全学連内の党中央派を除名する」。

 これを「全学連代々木事件」叉は「6.1日共本部占拠事件」と云う。この事件は、全学連指導部の公然たる党に対する反乱となった。そればかりか、全学連によって「党中央委員全員罷免」なる珍妙な決議が歴史に刻印されたことになる。この瞬間より党は全学連に対するヘゲモニーを失った。

【日共の学生党員処分】
 宮顕は、ここに至って最終的に学生の説得をあきらめ、学生党員処分に乗り出していくことになった。「世界の共産党の歴史にない党規破壊の行為であり、彼らは中委の権威を傷つける『反党反革命分子』である」とみなし、それら学生党員の責任を追及し、同年7月、「反党的挑発、規律違反」として規約に基づき香山健一全学連委員長、中執委星宮、森田実らを党規約違反として3名を除名。土屋源太郎ら13名を党員権制限の厳格処分に附した。年末までに72名が処分された。紺野もその責任を問われて、常任幹部会員を解かれた。ちなみに紺野は徳球系の残存幹部であったことが注目される。日共は、党内反対派の制圧の手段としてこれを徹底的に利用していくことになった。

【島、生田らが「全学連党」の結成を公然化させる】
 島、生田らは、7月の日本共産党第7回党大会に「全学連党」代議員として参加した。しかし、10日間もの間旅館に缶詰で外部と一切遮断されると云う、家父長的と云われる徳球時代にはあり得なかったやり方と、次から次へと宮顕方針が決議されていく大会運営を見て、日共との決別を深く決意するところとなった。

 大会は政治報告で、学生運動に対して次のように述べていた。
 概要「学生運動は全学連を中心に平和、独立、民主主義を目指す人民の闘争の中で次第に重要な役割を果たしている。同時に、学の生活経験の浅いことからおこりがちな公式主義、一面性と独断、せっかちで持続性に乏しいという弱点を克服し、一層広範な学生を統一行動に組織するように指導しなければならない」。

 8.1日、党大会終了の翌々日のこの日、島は全学連中執、都学連書記局、社学同、東大細胞党員の主要メンバーを集め、大会の顛末を報告すると共に、新しい組織を目指して全国フラクションを結成していくことを公然と提起した。

【革共同第一次分裂】
 この流れに並行して7月頃、革共同内で黒寛派対太田龍派が対立し内部分裂を起こしている。これを「革共同第一次分裂」と云う。詳論は「「戦後学生運動史第4期その2、トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」」に記す。

 これにより太田派が革共同から分離し、関東トロツキスト連盟を結成することとなる。太田は、トロツキーを絶対化し、トロツキズムを純化させる方向で価値判断の基準にする「純粋なトロツキスト」(いわゆる「純トロ」)の立場を主張し、黒寛は「トロツキズムを批判的に摂取していくべき」との立場を見せており、そうした理論の食い違い、第四インターの評価をめぐる対立、大衆運動における基盤の有無とかをめぐっての争いが原因とされている。

 太田派はその後、純正トロツキズムの方針に従い日本社会党への「加入戦術」を採りつつ、学生運動民主化協議会(「学民協」)を作り、当時の学生運動の中では右寄りな路線をとっていくことになった。太田氏はその後トロツキズムと決別しアイヌ解放運動に身を投じ、更にその後「国際金融資本を後ろ盾とするフリーメーソン等々の国際的陰謀組織」の考究に向かい、2008年現在もネオ・シオニズム研究の第一人者となって警鐘乱打し続けている。「太田龍の時事寸評」で健筆を奮っていることでも知られている。

 これについて、筆者はかく思う。太田氏は、トロツキズムを極限まで突き詰めていくことによりネオ・シオニズム性を確認し、放擲するところとなった。我々は、この理論的果実を継承すべきではなかろうか。

【全学連第12回臨時大会で日共と最終的に決別】
 9.4−5日、全学連第12回臨時大会を開いた。反代々木系を明確にさせた全学連執行部(全学連主流派)は、「学生を労働者の同盟軍とする階級闘争の見地に立つ学生運動」への左展開を宣言した。「日本独占資本との対決」を明確に宣言し日共式綱領路線との訣別を理論的にも鮮明にした。

 ここに日共は、1948年の全学連結成以来10年にわたって維持してきた全学連運動に対する指導権を失うこととなった。この後、全学連主流派に結集する学生党員はフラクションを結集し、機関紙「プロレタリヤ通信」を発刊して全国的組織化を進めていくことになった。全学連主流派のこの動きは、星宮をキャップとする革共同フラクションの動きと丁々発止で競り合いながら進行していた。

【全学連の勤評、警職法闘争】
 この間全学連は、8.16日、和歌山で勤務評定阻止全国大会の盛り揚げに取り組んだことをはじめ9月頃「勤評闘争」に取り組んでいる。9.15日、勤評粉砕第一波全国総決起集会。東京で、約4千名が文部省包囲デモ。

 10−11月には警職法改正法案が突如国会に提出されてきたことを受けて、全学連は、社会党、総評など65団体による「警職法改悪反対国民会議」に加盟し、共同戦線化させた。全学連は非常事態を宣言、最大限の闘いを呼び掛け、次のように檄を飛ばしている。
 「ためらうことなくストライキに!国会への波状的大動員を、東京地評はゼネストを決定す、事態は一刻の猶予も許さない、主力を警職法阻止に集中せよ」。

 10.28日、「警職法阻止全国学生総決起集会」に取り組み、労・学4万5000名が四谷外堀公園に結集しデモ。11.5日、警職法阻止全国ゼネストに発展し、全学連4千名が国会前に座り込んだ。1万余の学生と労働者が国会を包囲した。驚くほどの速度で盛り上がった大衆運動によって、1ヶ月後に法案採決強行を断念させた。警職法阻止闘争は国会前座り込みを創出し、この時の経験が以降「国会へ国会へ」と向かわせる闘争の流れをつくった点で大きな意味を持つことになった。

【日共の全学連批判】
 この頃、日共の全学連批判は強まり、全学連指導部を「跳ね上がりのトロツキスト」と罵倒していくことになった。この当時の文書だと思われるが、(恐らく宮顕の)「跳ね上がり」者に対する次のような発言が残されている。
 「今日の大衆の生活感情や意識などを無視して、自分では正しいと判断して活動しているが、実際には自分の好みで、いい気になって党活動をすること、大衆の動向や社会状態を見るのに、自分の都合のいい面だけを見て、都合の悪い否定的な面を見ず一面的な判断で党活動をすること、こうした傾向は大衆から嫌われ、軽蔑され、善意な大衆にはとてもついていけないという気持ちをもたせることになる」。

 これについて、筆者はかく思う。この言辞は典型的な云い得云い勝ちなものでしかなかろう。なぜなら、「自分の好みで、いい気になって党活動をする」のは自然であり、誰しも「自分の好み」から逃れることができないのに、これを批判するとしたら神ならではの御技しかなかろう。にも拘らず、おのれ一人は「自分の好み」から逃れているように云い為す者こそ臭いと云うべきではなかろうか。それと、「善意な大衆」とは何なんだ。嫌らしいエリート臭、真底での大衆蔑視が鼻持ちならない。

 更に云えば、2008年現在、この頃に比べて政治反動が大きく進んでいるが、これに対する政治的取り組みが全く為されていない、社共の万年野党的立場からのアリバイ的口先批判のみが空気抜きのように告げられ事足りている。これを思えば、当時の全学連運動の確かさと能力が評価されて然るべきであろう。

 付言すれば、この時島氏は、宮顕党中央の変調を鋭く指摘している
 「警職法提出の10.7日、社会党、総評、全学連らがこぞって反対声明を発し戦いの態勢を整えているそのときに『アカハタの滞納金の一掃』を訴え、一日遅れて漸く声明を出した」。
 「反動勢力が全学連の指導する学生運動の革命的影響が勤評闘争.研修会ボイコット闘争などにおいて労働者階級に波及するのを恐れて、この攻撃に集中しているその最中、全労、新産別らのブルジョアジーの手先の部分の攻撃と期を一にするかの如く、代々木の中央は、『全学連退治』に乗り出し、この革命的部分を敵に売り渡すのに一役買っている」。
 「何時も後からのこのこついて来て、『諸君の闘争を支持する』とかよわく叫ぶだけだ」。
 概要「戦いの高揚期にきまって、『一部のセクト的動機がある』だの、『闘争を分裂させるものであって強化するものではない』などといい、全労.新産別らの自民党の手先に呼応している」。

【ブント結成】
 12.10日、除名組活動家にして全学連主流派の全国のフラク・メンバー約45名が中心になって、六全協以降続けてきた党内の闘いに終止符を打ち、新しい革命前衛党として「日本共産主義者同盟(共産同またはブントとも云う)」を結成した。ちなみに、ブント(BUNT)とはドイツ語で同盟の意味であり、党=パルタイに対する反語としての気持ちが込められていた。

 「共産同(ブント)」と名乗ったことについて、島氏は後年次のように述べている。
 「あまりたいした意味はないが、まだ当時、綱領、規約もなく、党という感じではなく、それかといって名がないのも困るので捜したら、エンゲルスの『共産同』というのがあり、これがいちばんよさそうだということできめてしまった」と述べている」(1971.1.29付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」)。

 ブントは次のように宣言し、新左翼党派結成を目指すことになった。
 「組織の前に綱領を!講堂の前に綱領! 全くの小ブルジョアイデオロギーにすぎない。日々生起する階級闘争の課題にこたえつつ闘争を組織し、その実践の火の試練の中で真実の綱領を作り上げねばならぬ」(「新左翼の20年史」)。

 ブントの学生組織として「社会主義学生同盟(社学同)」の結成も確認された。古賀(東大卒)と小泉(早大)の議長の下で議事が進行していき、島がブント書記長に選ばれ、書記局員には、島、森田、古賀、片山、青木の5名が選出された。島は、学連指導部から退きブントの組織創成に専念することになり、学生党員たちに日共を離党してブントへ結集していくよう強く促していくことになった。当時のこのメンバーには、今も中核派指導部にいる北小路敏、清水丈夫らがいることが注目される。北海道からも灰谷、唐牛ら5名が参加している。


 ここに、先行した「純」トロツキスト系革共同と並んで、「準」トロツキスト系ブントという反代々木系左翼の二大潮流が揃い踏みすることになった。この流れが後に新左翼又は極左叉は過激派と云われることになる源流である。この両「純」・「準」トロツキスト系は、反日共系左翼を標榜することでは共通していたが、それだけに反日共系の本家本流をめぐって激しい主導権争いしていくことになった。

 日共の公式的見解からすれば、このブント系もトロツキストであり、あたかも党とは何らの関係も無いかのように十派一からげに評しているが、それは宮顕流の御都合主義的な歪曲であり、史実は違って上述の通りであるということが知られねばならない。

【ブント誕生考】
 これについて、筆者はかく思う。このブントの党史を巨視的に見れば、戦後の党運動における徳球系と宮顕系その他との抗争にとことん巻き込まれた結果の反省から、党からの自立的な新左翼運動を担おうとした気概から生まれた経緯を持つように思われる。理論的には、国際共産主義運動のスターリン的歪曲から自立させ、驚くべき事に自ら達が新国際共産主義運動の正統の流れを立て直そうと意気込みつつ悪戦苦闘して行った流れが見えてくる。この意味で、ブントは革共同と共に時代の双生児として生まれたことになる。

 ブント発生を近視的に見れば、「50年問題について」の総括後の当時の党が宮顕式右翼主義路線に純化しつつあった状況とその指導に対する強い反発にあった様が伺える。宮顕路線の本質が運動を作り出す方向に作用するのではなく、運動を押さえ込み右派的統制主義の枠内に押し留めようとすることに重点機能していることを見据え、これに反発した学生党員の「内からの反乱」としてブントが結成されたという経過が踏まえられねばならないと思う。このセンテンスからすれば、元来党とブントは近い関係にあり、ブントとはいわば「急進的な潮流の党からの出奔」とみなした方が的確と言えることになる。

 ブントは、宮顕式日共理論の反革命性、日本左派運動の抑圧に対する疑惑であり、これに代わる「労働者階級の新しい真の前衛組織」の創出を目指した。この観点から、日共理論に対して悉くアンチテーゼを創出していくことになった。次のような特徴が認められる。
 学生運動を政治運動を担う一翼として位置づけ、労働運動の先駆的同盟軍と規定した。
 日共の「二段階革命論式民族解放民主革命理論」に対して、「一段階革命論式社会主義革命路線」を掲げた。
 日共の平和共存的一国社会主義に対し世界永続革命、議会主義に対しプロレタリア独裁、平和革命に対し暴力革命、スターリン主義に対しレーニン主義と云う風に対比させた。
 代々木官僚に反旗を翻しただけでなく、本家のソ連・中国共産党をもスターリン主義と断罪した。
 日共に代わる真の革命党派として打ち出し、「全世界を獲得せよ」と宣言した。

 筆者は、これらのブント理論は宮顕式日共理論の反動性に対するアンチテーゼとしては正しかったと思う。しかしながら、今日的時点で気づくことであるが、近現代世界を真に支配する国際金融資本の動向に対して皆目無知な革命理論に傾斜していることが判明する。ブント理論のこの欠陥が、その後のブント運動の破産を予兆しているように思う。この負の面故に革命運動的に突出すればするほど現実と照応しなくなると云う形で突きつけられていくことになる。60年安保闘争後の四分五裂で現実化するが、その後を継承した第二次ブントにも立ち現われていくことになる。

 もとへ。こうした党内急進主義者たちのブント化の背景にあったもう一つの情勢的要因は、先行する革共同系の動きにあった。つまり、ブントは、一方で代々木と対立しつつ他方で革共同とも競り合った。この時のブントと革共同の理論的な相違について、島氏は次のように解説している。対立の第一点は、トロツキーの創設した第4インターの評価である。この時点の革共同は、トロツキー及び第4インターを支持するかどうかが革命的基準であるとしていた。これに対し、ブントは、第4インターにそれほどの価値を認めず「世界組織が必要なら自前で新しいインターナショナルを創設すれば良い」としたようである。

 第二に、ソ連に対する態度に違いが見られた。この時点の革共同は「反帝・反スタ」主義確立前であり、「帝国主義の攻撃に対する労働者国家無条件擁護」に固執していた。これに対し、ブントは、「革命後50年近くも経過して強大な権力の官僚・軍事独裁国家となり、労働者大衆を抑圧し、しかも世界革命運動をこの権力の道具に従属させ続けてきたソ連国家はもはや打倒すべき対象でしかない」とした。

 更に、島氏は、私が最も嫌悪したのは革共同の「加入戦術」であったと云う。「自分たちの組織はまだ小さいから既成の、可能性のある社会党などに加入してその中で組織化を行おう」という姿勢に対して、これをスケベ根性とみなした。「私たちは既成の如何なる組織・思考とも決別し、自らの力で誰にも頼らず新しい党を創ろうとし、ここに意義を見いだしていた」という。

 その他セクト主義、労働運動至上論等々の意見の相違を見て、ブントは翌59.4月頃には革共同派との決別を決意していた。古賀氏は後になって「陽気で野放図で少しおめでたいようなブントに対し、革共同は深遠な哲学的原理を奉ずる陰気な秘密結社のようだった」と当時を回想している。(第1次ブントの理論については「第1次ブント理論考」で概括する)   

 然しながら、ブントは、日共批判、革共同対抗から出自したものの徹底さに於いて頗(すこぶ)る曖昧な面を残していた。というか、党派形成期間が僅か2年という短命に終わったことを思えば、余りにも時間が少なかったのかも知れない。但し、この当時のニューマに於いて、日共運動批判から始めたにも拘らず相変わらず宮顕を「戦前唯一非転向闘士聖像」視しており、「左派運動撲滅請負闖入者」と見なす視点はない。闘わない日共に対して個別課題に応じた批判を展開し急進的運動を繰り広げるが、日共式組織論、運動論、歴史論、否それら総体の左派運動総体の全面的再検証、新左派運動創造という視点まで行き着くことができなかった。

 ブントのこの観点の弱さが、60年安保闘争後の総括を廻っての分裂に繋がる。第1次ブント解体後、ブント圏内に認識の仕方と行動的手法において際限なく分裂化していくことになり、結果ブント系諸派を生み出していくこととなる。しかし、何がしか大いなる教訓を遺したのがこの時のブント運動であつたと思われる。

【第一次ブント最初期のメンバーについて】
 この頃ブントを率いる島氏の回りに次第に人材が寄ってくることになった。追悼 今野求 島成郎 野村豊秋 さらぎ徳二 原之夫」その他を参照する。

 
1957.12月の「島成郎、生田浩二、佐伯秀光三名の秘密会議」を細胞核として、キラ星の如くな人間群像が参集して来た。島の妻・島美喜子、香村正雄(東大経済卒、現公認会計士)、古賀康正(東大農卒、現農学者)、鈴木啓一(東大文卒、現森茂)、樺美智子(東大文、安保闘争で死亡)、倉石庸、 少し後から多田靖、常木守等がアジトに常駐するようになる。青山(守田典彦)も。シンパ文化人として吉本隆明、マルクス主義理論家として廣松渉(ひろまつわたる、門松暁鐘)が早くより登場する。

 他に世間に知られているところとして、東大系で森田実、中村光夫、富岡倍雄、星野中、長崎浩、林紘義、西部邁(「60年安保――センチメンタル・ジャーニー」)。早大系で小泉修吉、佐久間元、蔵田計成、下山ら。中央大系で由井格。京大系で今泉、小川登。後に中核派指導部を構成する陶山健一、田川和夫、北小路敏、清水丈夫、藤原慶久、小野正春らが参集する。北海道学連から灰谷慶三、唐牛ら5名が参加している。ちなみに、佐伯(山口一理)と片山(佐久間元)と小泉は神奈川県立希望ヶ丘高校以来の同窓であったと云う。その他、後に大学教授、弁護士、評論家として登場する数多くの面々がいる。

【全学連が第13回臨時大会で革共同が三役独占】
 12.13−15日、全学連第13回臨時大会が開かれた。人事が最後まで難航したが、塩川委員長、土屋書記長、清水書記次長、青木情宣部長となった。革共同系とブント系が指導部を争った結果、革共同系が中枢(委員長、副委員長、書記長の三役)を押さえ、革共同の指導権が確立された大会となった。つまり、革共同の全学連への影響力が強まり、この時点で指導部を掌握するまでに至ったことになる。

 「日本革命的共産主義者同盟小史」は、次のように記している。
 「ブント結成に対してJRの関西の指導部はむしろ攻勢的であった。星宮たちはブントは所詮寄り合い世帯の連合体に過ぎないのであり、JR派が強固に結集して、ブント内で多数派工作を展開すれば、ブントの多数派はJRによって制することが可能であるという展望をたてていた。このブントへの方針は、黒田の反スタ統一戦線という誤った路線に一脈通ずる側面もあったが、この方針の中心はむしろ、ブント内党派闘争を通じて多数派を獲得しようとする統一戦線戦術の立場にあったということができる。事実、ブント結成に到る期間、理論上も、学生運動の実践上もそのヘゲモニーはJR派が掌握していたのである。したがって、星宮のブントへの攻勢的方針には理実的根拠が存在していたといえよう」。

 その為、全学連指導部の内部でブントと革共同の対立という新たな派閥抗争が発生することとなった。その後も革共同系とブント系は運動論や革命路線論をめぐっての対立を発生させ、指導権を争っていくことになる。が、その後の史実から見て、多くの学生はブントを支持し流れていったようである。

 なお、この時の議案は、安保闘争を革共同式に「安保改定=日本帝国主義の地位の確立→海外市場への割り込み、激化→必然的に国内の合理化の進行」という把握による「反合理化=反安保」と位置づけていた。

 しかし、こうした革共同理論に基づく「反合理化闘争的安保闘争論」は、この当時の急進主義的学生活動家の気分にフィットせず、むしろ、安保そのもので闘おうとするブントの主張の方に共感が生まれ受け入れられていくことになった。ブントは、革共同的安保の捉え方を「経済主義」、「反合理化闘争への一面化」とみなし、「安保粉砕、日本帝国主義打倒」を正面からの政治闘争として位置づけていくことを主張し対立するようになった。  

【日共のブント粉砕声明】
 12.25日、日共は幹部会を開催し、幹部会声明で「学生運動内に巣くう極左日和見主義反党分派を粉砕せよ」と、全学連指導部の極左主義とトロキツズムの打倒を公言し、「島他7名の除名について」と合わせてブント結成後旬日も経たないうちの12.25.27日付け「アカハタ」紙上の一面トップ全段抜きで幹部会声明を掲載した。

 これより後は、「5期その2、新左翼系全学連の発展 」に記す。



(私論.私見)