8章 戦後学生運動5期その2 1959(昭和34)年
 新左翼系全学連の発展

 (最新見直し2008.9.10日)

 これより先は、「5期その1、ブント登場」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1959(昭和34)年の学生運動史論を概略する。これを仮に「戦後学生運動5期その2、新左翼系全学連の発展概略」と命名する。詳論は「新左翼系=ブント・革共同系全学連の発展」、概論は「新左翼系全学連の発展」に記し、ここでは枢要な事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。



【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

 1959(昭和34).1.1日、キューバ革命が勝利した。フィデロ・カストロ達が2年余りの武力闘争の末、新米派バティスタ政権を打倒、革命政府を樹立した。これが、戦後から続く社会主義革命の最後となる。 

 1.6日、58年の秋から東京で開始された藤山外相とマッカーサー大使の交渉がこの日終了した。丸1年3ヶ月にわたる長期の改定交渉となった。

 1月、日本最大の炭鉱であった福岡の三井三池炭鉱の三井鉱山当局が、労働組合に対し、6千名に及ぶ希望退職をもとめた第一次合理化案を発表し、戦後最大で最後の労働争議がおこった。数年前から「エネルギー革命」により、中小の炭鉱が閉鎖され始めていた。


 3.3日、中国鄭州で、宮顕団長と毛沢東が会談。宮顕.鄧小平署名の「アメリカ帝国主義に反対する日中両国人民の偉大な闘争綱領」共同声明を発表した。 日共史によれば、毛沢東は会談の際に日本共産党の50年問題に触れ、中国共産党が当時日本問題に対して取った態度に誤りがあったと次のように自己批判したと伝えられている。

 「当時の党に対して内部干渉にわたるような措置があったこと、及び51年綱領の問題については主にスターリンが指導的な役割を果たしたことが事実であるとしても、中国共産党もこれに同調したという点においては正しくなかった」。

【「安保条約改定阻止国民会議」結成】

 3.28日、総評、社会党、中立労連、全日農、原水協、平和委、基地連、日中国交回復、日中友好、青年学生共闘会議など13団体が中央幹事団体となり、先の「警職法改悪反対国民会議」(以下、「国民会議」と略称する)を受け継いで「安保条約改定阻止国民会議」を結成した。全労、新産別は参加せず、共産党はオブザーバーとしての参加が認められ、幹事団体会議における発言を獲得した。同時に「安保改定阻止青年学生共闘会議」が結成され、社会党青年部、総評青対部、全日農青年部、民青、全学連(ブンド指導の)によって構成され、この青学共闘会議が安保国民会議に加盟した。以降、「国民会議」は二十数波にわたる統一行動を組織していくことになる。

 これについて、「左翼運動」は次のように評している。

 「安保改定阻止国民会議は、その結成経緯にもみられるように、社共の意見対立を含みながらも左翼勢力の大同団結による共闘組織であり、我が国の大衆運動史上特筆すべき、大規模なそして強力な反対運動の中心勢力を構成したのである」。

 4月、日共系の理論雑誌 「現代の理論」が大月書店から創刊されている。草案反対を表面的には主張せず、党内外のマルクス主義や非マルクス主義的進歩思想との交流によって、マルクス主義の創造的発展を図ることを編集方針にしていた。

 第1号は59.4月に、佐藤昇「社会主義権力の矛盾」を巻頭論文に据え、日高六郎「マルクス主義者への二、三の提案」、不破哲三「日本の憲法と革命」、田口富久治「ネオ・ファシズム」、今井則義「国家独占資本主義論における二つの潮流」で仕上げた。第2号は、「現代帝国主義」を表題として、杉田正夫、上田耕一郎、富塚文太郎、遠藤湘吉、井汲卓一、古在由重、増島宏が執筆し、代久二がトリアッティの「アントニオ・グラムシ」を訳出した。第3号は「現代のインテリゲンチャ論」を表題として編集を進めつつあった。


 5月頃、不破哲三は、前衛6月号紙上で「マルクス主義と現代イデオロギー」を発表し、「現代トロツキズム」批判を繰り広げている。「山口一理論文」、「姫岡怜治論文」を槍玉に挙げ、総論的な批判を加えている。今日これを読み直すとき、とても正視できない無内容な饒舌であることが判明する。まさに、当時の急進主義者の動きに水を浴びせ砂をかけることのみが目的であったことが分かる。次のように結んで本音を露にしている。

 概要「もはや理論的批判の必要はない。この反革命的反社会主義的本質を徹底敵に暴露して、政治思想的に粉砕し尽くすことだけが残っている」。


【宮顕派と春日(庄)派の対立表面化】

 6.29日、日共「第6中総」が開かれ、第7回党大会以後の中央委員会の中で、最も激しい論戦が交わされた。先に行われた4月の地方選挙、5月の参議院選挙の総括と安保をめぐる当面の闘争方針が課題となった。参議院選挙の総括に関して、党中央主流派は是認し、春日中央統制監査委員会議長をはじめ中央少数派は失敗とみなして対立した。

 論議は選挙問題から、安保改定の評価、綱領問題や次の第8回大会の問題、組織問題、特に中央委員会の在り方、宮顕に対する個人崇拝の傾向についてまで及んだ。この間の中央主流派による様々な政治工作に対する反対派の鬱憤が爆発した感があった。特に官僚主義的な党運営のやり方に対して、批判の声が挙げられた。

 会議は7.9日まで続き、さらに7.31-8.1日にかけても継続された。ここで春日は、主流派の圧力のもとに前衛8月号での選挙闘争総括論文において党の自己批判の必要を指摘したことに対する全文取り消しを強要され、7.9日付けアカハタ紙上に「発表手続きの誤りについて」の自己批判と論文の取り消しとを発表した。但し内容については譲らなかった。これ以後、彼の論文は、形式的な追悼文などのほかには党の機関誌から姿を消すことになった。


 「6中総」で、安保条約の改定をサンフランシスコ体制の再編補強と規定し、対米従属関係の維持と日米軍事同盟関係の補強による日本人民支配を維持推進する意図であると分析した。中央主流派の狙いは、安保闘争においては「挑発に乗るな」という抑制的態度を打ち出すところにあった。曰く、反米闘争の達成は長期にわたる困難な事業であるからして、当面はアメリカ帝国主義を暴露するにとどめて味方を極力温存すべきである云々。

 「6中総決議」で、理論雑誌「現代の理論」の廃刊を決定した。党中央主流は次のように論断して規律違反として摘発するところとなった。

 概要「理論と実践の統一に反するだけでなく、マルクス.レーニン主義党の組織原則ー規律に反している。この誤りの本質は、組織原則に対する修正主義的な歪曲である。こういうことを放置しておいては、分散主義.自由主義を一層はびこらす結果になり、党の統一と団結は妨げられる。内容において修正主義であり、形式において党中央の指導から離れた自由主義、分散主義である」。

【労学5千名の国会構内乱入事件発生】

 11. 27日、第8次統一行動。31都府県の全国700の共闘組織に結集する350万の大衆が立ち上がり、合化労連.炭労の24時間ストを中心に全国で数百万の大衆が行動に立ち上がった。東京には8万名が結集した。「警官隊が出動、国会に近づく各道路にバリケードがき築かれたが、労組員・学生達はこれを突破して進み、国会正門から首相官邸にいたる道路を埋め尽くした。こうして、労学5千名による「国会乱入事件」が発生した。これについては、学生運動の稿に記す。


 12.10日、全学連は1万5千名を結集し再度国会包囲デモを企画したが、社会党・総評が戦術ダウンをし始めていたこともあって、今度は分厚い警官隊の壁の前に破れた。安保闘争はこの後暫く鳴りを潜めることになった。
【最高裁が、「高度な政治判断案件の司法判断回避見解」打ち出す】

 12.16日、最高裁が、「在日米軍の存在が憲法違反かどうか」を問うた砂川事件に関連しての伊達判決の破棄を言い渡した。アメリカの軍事基地に反対し、その闘争に参加する者を犯罪者とみなすという政治的裁判であった。砂川事件は、「一体、条約と憲法ではどちらが優先されるのか」という論争の格好のテーマとなっていたが、既に「違憲である」とする伊達判決が出されていたのに対し、最高裁は次のような「高度な政治判断であり司法判決には馴染まない」法理論で処理した。以降、これが定式化される。

 概要「安保条約は高度の政治判断の結果。極めて明白に違憲と認められない限り、違法審査権の範囲外であり司法判決にはなじまない」。 


 12.25日、岸首相の日米安保条約の調印訪米に対しどう対応すべきか、安保国民会議全国代表者会議が開催され、地評代表のいくつかは「調印阻止闘争なしに安保闘争はありえない。ゼネストを基礎に羽田実力阻止」を主張したが、総評と日共が強硬に反対した。結局、12.26日、「羽田動員中止」方針が幹事会で決められた。この時、太田総評議長は、「宮顕だけには話がついている」と語っている。

【この時期の学生運動の流れ】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。  

全学連第7回大会
【全学連が意見書「日本共産党の危機と学生運動」を発表】 

 1959(昭和34).1.1日、全学連意見書「日本共産党の危機と学生運動」(責任者 香山健一)が発表されている。香山健一全学連委員長が責任者として作成されたが、全学連中央の統一見解としては採択されなかった。次のように主張していた。

 「現在の危機のうちで、何よりも深刻な点は、日和見主義.ブルジョア民族主義.官僚主義が共産党の公認の指導部の大多数を支配してしまったことにある」。

 「反スターリン主義の理論として喧伝されている“人民戦線戦術”“長期的平和共存”“革命の平和的移行”“各国の社会主義への道”“構造的改良”というフルシチョフ路線こそ、まさに、『一国社会主義論の絶対化』と『世界革命の放棄』によって、世界プロレタリアート解放の事業を裏切り続けてきたスターリン主義の現代版に外ならない修正主義であることを知ったのである。そして、われわれが実践のなかで痛感してきた党中央の右翼日和見主義、平和擁護運動における没階級的理論、民族主義、革命における二段階革命論が、まさにソ連共産党を先頭としたスターリン主義的指導部の理論よりの必然的結果であることを知った」。

 「党中央は自らの頭脳で自主的に思考する能力を完全に失っていた。それは共産主義者としての最も基本的、初歩的な能力の喪失を意味する」としたうえ、「我々はまずマルクス・レーニン主義の原点に立ち帰り、スターリン主義的な平和共存路線と訣別し、世界革命の一環として日本革命を闘い取ろう」。

 2月、岸内閣は安保改定に公然と乗り出した。この時革共同派が執行部を握った全学連は、「合理化粉砕の春闘を如何に闘うべきか、これこそまさに革命の当面の中心課題である」とし、「労働運動理論」を長々と述べる理論活動に傾斜しつつあった。ブント派はこれを思弁主義として退け、安保闘争を一直線の政治課題として捉える運動を指針させていった。
【全学連第14回大会でブントが主導権を奪い返す】
 6.5-8日、約1千名が参加し全学連第14回大会が開かれた。この大会は、ブント、民青同、革共同の三つどもえの激しい争いとなり、ブントが先の大会以来革共同に抑えられていた全学連の中央執行部の過半数を獲得し、主導権を再び奪い返して決着した。

 唐牛健太郎(北大)が委員長として選出され、書記長・清水丈夫、加藤昇(早大)と糠谷秀剛(東大法)、青木昌彦(東大)、奥田正一(早大)が新執行部となった。中執委員数内訳は、ブント17、革共同13、民青同0、中央委員数は、ブント52、革共同28、民青同30。

 こうして、ブントは、「ブント―社学同―全学連」を一本化した組織体制で60年安保闘争に突入していくことになった。唐牛新委員長下の全学連は、以下見ていくように「安保改定阻止、岸内閣打倒」のスローガンを掲げ、闘争の中心勢力としてむしろ主役を演じながら再度にわたる「国会突入闘争」や「岸渡米阻止羽田闘争」などに精力的に取り組んでいくことになった。

 なお、唐牛氏が委員長に目を付けられた背景として、星宮煥生氏が「戦後史の証言ブント」で次のように証言している。
 「唐牛を呼んだ方がいいで。最近、カミソリの刃のようなのばっかりが東京におるけども、あれはいかぬ。まさかりのなたが一番いいんや、こういうときは。動転したらえらいことやし、バーンと決断して、腹をくくらすというのはね、太っ腹なやつじゃなきゃだめだ。多少あか抜けせんでも、スマートじゃなくても、そういうのが間違いないんや」。

 この星宮提言により、島氏が北海道まで説得に行ったと云われている。

【ブントの感性考】
 6月頃、ブントのイデオローグ姫岡玲治が、通称「姫岡国家独占資本主義論」と云われる論文を機関紙「共産主義3号」に発表している。これがブント結成直後から崩壊に至るまでのブントの綱領的文献となった。

 この当時のブントは約1800名で、学生が8割を占めていたと云われている。この時期ブントは、「安保が倒れるか、ブントが倒れるか」と公言しつつ安保闘争に組織的命運を賭けていくことになった。この時の島氏の心境が「戦後史の証言ブント」の中で次のように語られている。
 「再三の逡巡の末、私はこの安保闘争に生まれだばかりのブントの力を全てぶち込んで闘うことを心に決めた」。
 「闘いの中で争いを昇華させ、より高次の人間解放、社会変革の道を拓くかが前衛党の試金石になる」。
 概要「日本共産党には、『物言えば唇寒し』の党内状況があった。生き生きとした人間の生命感情を抑圧し陰鬱な影の中に押し込んでしまう本来的属性があった。政治組織とはいえ、所詮いろいろな人間の寄り合いである。一人一人顔が違うように、思想も考え方もまして性格などそれぞれ百人百様である。そんな人間が一つの組織を作るのは、共同の行動でより有効に自分の考え、目的を実現する為であろう。ならば、それは自分の生命力の可能性をより以上に開花するものでなければならぬ。様々な抑圧を解放して生きた感情の発露の上に行動がなされる、そんなカラリとした明るい色調が満ち満ちているような組織。『見ざる、聞かざる、言わざる』の一枚岩とは正反対の内外に拓かれた集まり、大衆運動の情況に応じて自在に変化できるアメーバの柔軟さ。戦後社会の平和と民主主義の擬制に疑いを持ち、同じ土俵の上で風化していった既成左翼にあきたらなかった新世代学生の共感を獲ち得た」。

 これについて、筆者はかく思う。以上のような島氏の発想には、かなりアナーキー且つカオス的情緒があることが知れる。この「アナーキー且つカオス的情緒」は存外大事なものなのではなかろうか。この対極にあるのはロゴス的整合精神(物事に見通しと順序を立てて合理的に処そうとする精神)ということになろうが、この両者は極限期になればなるほど分化する二つの傾向として立ち現れ、気質によってどちらを二者択一するかせざるをえないことになり、未だ決着のつかない難題として存立しているように思う。

【「黒寛・大川スパイ事件」】
 この頃、革共同の代表的指導者・黒寛に纏わる重大背信事件「黒寛・大川スパイ事件」が発生している。黒寛の及ぼした学生運動への影響の大きさに鑑み、これを採り上げておく。「黒寛・大川スパイ事件」とは、時期は特定し無いが58年から59年頃のことと思われるが、流布されている話は次のようなものである。
 概要「大川なる者が、埼玉の民青の情報を入手できる立場を利用して、民青の情報を警察に提供することによって資金を稼いだらどうだろうか、と考えつき、大川はこのことを黒寛に相談したところ、黒寛はそれを支持した。二人は新宿の公衆電話から警視庁公安に電話し、用件を伝えた。公安の方は公衆電話の場所を聞いてすぐ行くからそこで待っていてくれと応答し、かれらはその場所でしばらく待っていた。が、“世界に冠たるマルクス主義者”である黒寛の小心によってか、大川の動揺によってか分からないが、かれらは次第につのってくる反革命的所業の罪深さを抑えることができなくなった。『おい、逃げよう!』といったのはどちらが先かは不明である。かれらは一目散にその場を逃げ出した。これが事件の顛末であるとされている事件である」。

 これについて、筆者はかく思う。非常に矮小化された話にされているがオカシイ。見てきた通りこの時点に於ける黒寛は、革共同第1次分裂で太田龍派を一掃後の最高指導者である。その指導者の公安との繫がりが見えているので有り由々しきことであろう。この事件は黒寛の正体が露見した事件であり、筆者は、左派運動内に回状が送付されるべきであったと考える。が、当時の革共同は仲間内で処理している。果たして適正対応だったであろうか、不審は消えない。これについての詳論は「黒寛・大川スパイ事件」に記す。  

【革共同第二次分裂】
 8.26日、革共同内に第二次分裂が発生している。革共同創立メンバーの一人西京司氏率いる関西派が、「黒寛・大川スパイ事件」を取引材料にしながら中央書記局を制し、革共同の主導権を獲得するべく画策したというのが真相であろう。西派はこの頃「西テーゼ」を作成し、同盟の綱領として採択を図ろうとしていた。この過程で黒寛の影響下にある探求派が対立し、関西派が政治局員・黒寛を解任した。黒寛は、本多延嘉氏らと共に革共同全国委員会(革共同全国委)を作り関西派と分離する。これがいわゆる「革共同第二次分裂」である。これについての詳論は「革共同の第二次分裂考」に記す。

【「全学連の国会乱入事件」】
 11.27日、安保改定阻止国民会議の第8次統一行動の国会デモで、全学連を主体とする労学5千名による「国会乱入事件」が発生している。全学連は、都教組などの労働者と共に、正門前を固める警官隊の警備を突き破って初めて国会構内に突入し、抗議集会を続行した。構内はデモとシュプレヒコールで渦巻いた。社共、総評幹部は、宣伝カーから解散を呼び掛けるが約三万余の群衆は動かない。約5時間にわたって国会玄関前広場がデモ隊によって占拠された。これがブント運動の最初の金字塔となった。

 政府は緊急会議を開き、「国会の権威を汚す有史以来の暴挙である」と政府声明を発表し、全学連を批判すると同時に弾圧を指示した。清水書記長、糠谷、加藤副委員長らに逮捕状が出された。日共は、翌日のアカハタ号外で突入デモ隊を非難し、常任幹部会声明「挑発行動で統一行動の分裂をはかった極左・トロツキストたちの行動を粉砕せよ」を掲載し全都にばらまいた。以降連日「トロツキスト集団全学連」の挑発行動を攻撃していくこととなった。

【民青同の「全学連の国会乱入事件」批判】
 この全学連主流派の「国会乱入事件」に関して、民青同の指導者・川上徹・氏は著書「学生運動」の中で次のように批判している。
 「自民党は、この事件以降、絶好の反撃の口実を与えられ、ジャーナリズムを利用しながら国民会議の非難の大宣伝を開始した。総評・社会党の中には、統一行動そのものに消極的行動になる傾向すら生まれたのである。運動が高揚期にあるだけに、一時的、局部的な敵味方の『力関係』だけで、戦術を決め、行動形態を決めることが、闘いの長期的見通しの中で、どういう結果を生むか、という深刻な教訓を残した」。

 これについて、筆者はかく思う。しかしこれは、私にはおかしな総括の仕方であるように思われる。一つはブントに対する「為にする批判」であるということと。一つは運動の経過には高揚期と沈静期が交叉して行くものであり、全体としての関連無しにこの時点での一時的後退をのみ部分的総括していることに対する反動性である。事実、翌60年より安保闘争がるつぼ化することを思えば、この時点での一時的沈静化を強調し抜く姿勢はフェアではない。

 後一つは、それでは自分たちの運動が何をなしえたのかという主体的な内省のない態度である。60年安保闘争後ブントは解体の憂き目に遭う。これにより、ブント的国会乱入運動が二度と組織される事が無くなった。川上氏は、ならばどう闘いを組織し、どこに向かえば良かったか示さねばなるまい。このような総括なしにブント的闘争を批判する精神は生産的でないと思われる。

 実際、上述したように批判を行う川上氏らが民青同系学生運動を指導しつつ70年安保闘争を闘うことになったが、この時のブントにまさる何かを創造しえたのだろうか。つつがなく70年安保が終えて、後は彼自身が査問されていく例の事件へ辿り着いただけではなかったのか。してみれば、「恣意的な批判の愚」は慎まねばならない、いずれ自身に降りかかってきたとき自縛となる、と私は思う。

 これより後は、「5期その3、60年安保闘争 」に記す。



(私論.私見)