第1次ブント理論考

 (最新見直し2009.1.18日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、第1次ブント理論の骨格を確認しておくことにする。

 2006.4.26日再編集 れんだいこ拝














(私論.私見)



昭和の抵抗権行使運動(70)

『独立左翼論』を読む(6)


 さて、以上のような動向と革共同の思想について、三上さんは次のように論評している。


 革共同は古典的な革命像からブントや全学連の行動をプチブル急進主義やブランキズムとして批判しつつ、他方でそれがスターリン主義を暴露したところに意味を与えていた。これは一方で伝統的左翼の枠組みというか、思考形態に支配されつつあったことを意味する。他方でブントや全学連の大衆運動として実現したものをスターリン主義批判として意味づけようとしたのである。

 東大細胞の意見書はより急進的な方針を準備していたらというものであるから、革共同のブランキズム批判とは対極にあるようにみえるが、古典的な革命像という枠組みに思考が呪縛されているという意味では共通しているのである。それほど、フランス革命からロシア革命にいたる中で形成された革命の像や理念は強力な影響力があったのである。レーニン的な前衛党の指導という理念は特にそうだったのである。

 革共同とブント諸派の差異はブントが実現した大衆運動の意味を、スターリン主義批判に見いだすのとそれを無意識的にだがもっと大きな歴史的なものとみるかにあった。意識的にはその歴史的意味が分からなかったということで共通している。ただブントは自ら解体することで、自己の実現した大衆運動の意味の理解は既存の左翼理念では理解不可能であることを告知した。ブント諸派はブントの実現した大衆運動の歴史的意味を無意識のうちに評価していた。

 それを除けば意見書を出した東大細胞のグループもプロ通派も前衛党が主体であるという伝統左翼の思考の中にあった。前衛党が主体ではなく、大衆運動こそが主体であるという独立左翼的な発想はどこにもなかった。革共同や「戦旗」派の一部に見られるような、ブントの大衆運動はプチブル急進主義だという批判に対して、反発する部分の中にブントの実現した大衆運動の意味を守ろうとする部分が存在したに過ぎなかった。

(中略)

 僕は革共同の欺瞞的な態度には怒りを持っていたが、批判は難しかった。労働者階級に基盤を持つ前衛党の建設というのは左翼的な正論であったからだ。それは古典的な左翼論理だった。

 確かに、僕はロシア革命をイメージした革命像を歴史的真理とすることに疑念を持っており、こういう正論にも疑いを持っていたから、それにやすやすといかれることはなかった。ロシア革命以来、歴史的な真理として流布されてきた革命のイメージや像に疑念を持ち、それを自覚すれば革共同のような共産党の原理主義的な修正にやすやすといかれはしない。が、それに代わる革命の像やイメージは未知の領野にあり、その分だけ自己主張することは難しかったのである。

 安保闘争でのブントの闘争をプチブル急進主義やブランキズムとして批判しながら、それがスターリン主義の批判をやったところはいいということには胡散臭さと疑問を感じていた。僕らが安保闘争を通して実現しつつあるものは、ロシア革命の像やイメージとは別の革命(高度資本主義下での革命)という未知の世界を切り開いていくものであって、それをスターリン主義批判という狭い思想に矮小化してもらいたくなかった。



 「革共同の欺瞞的な態度」については、吉本隆明さんも次のように批判している。

「革共全国委が共同をブランキズムとし、市民主義の運動をプチブル運動として、頭のなかに馬糞のようにつめこんだマルクス・エンゲルス・レーニンの言葉の切れつばしを手前味噌にならべたてて、原則的に否定するとき、彼らは資本主義が安定した基盤をもち、労働者階級がたちあがる客観的基盤のない時期 ― いいかえれば前期段階における政治闘争の必然的な過程を理解していないのだ。プチブル急進主義と民主主義しか運動を主導できない段階が、ある意味では必然的過程として存在することを理解できないとき、その原則マルクス主義は、『マルクス主義』主義に転化し、まさに今日、日共がたどっている動脈硬化症状にまで落ちこまざるをえないのである。」(『擬制の終焉』)

 これを引用して、三上さんは言う。

 これは1960年のブントの実現した大衆運動を起源とする運動が論理を獲得したことを意味する。その端緒に立ったのである。かつてのブントや全学連の指導部にいた連中が、革共同に移行するか、いなくなるかの中で、僕らは中央的な政治集団なしで闘いを持続するしかなかった。前衛的な政治集団としてではなく、せいぜいのところ大学単位の左翼グループとして安保闘争後の歩みを始めるが、吉本さんがこのころ書かれた論文は強い援護の役割を果たした。