6章 戦後学生運動4期その2 1957(昭和32)年
 革共同登場

 (最新見直し2008.9.10日)

 これより前は、「4期その2、革共同登場」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1957(昭和32)年の学生運動史を概略する。この流れの詳論は「戦後学生運動4期その3、新左翼運動の揺籃」、概論は「革共同登場」に記し、ここでは枢要な事件の流れを採り上げ解析する。革共同独自の流れにつき「戦後学生運動史第4期その2、トロツキズム運動の誕生過程、分裂過程考」に記す。トロツキーについては「トロツキズム考」で考察する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。



【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

 1956年末から翌57年の初頭、志田派の巻き返しが現れた。「志田新党」、「民族共産党」、「第2共産党」などの報道が流れ始め、「志田テーゼ」なる秘密文書が党内、一般の新聞雑誌でも一斉に報じられ出した。「規律問題で同志を葬るのは官僚主義.封建主義である」、「われわれは志田問題を戦略戦術の問題で公然論争することを望む」と呼びかけていた。六全協以降、国際派の頭目宮顕グループにより党の機関が独裁的に制圧されつつある事態に対しての、旧党中央志田系による中央奪還を狙っての巻き返しであった。六全協以後の冷や飯組をくらった旧主流派が呼応する動きを見せ、春から夏にかけて近畿.四国.関東.北海道など旧主流派の強かった地域で活発となったが内部崩壊にあい自滅した。
【岸政権の登場】
 1957(昭和32).3.21日、石橋首相後継を廻って自民党の第4回党大会が開かれ、総裁公選で岸信介が第3代自民党総裁に選出された。A級戦犯「巣鴨組」の戻りには重光、賀屋興宣らがいるが、岸だけが首相の座についたことになる。岸はA級戦犯として収容された巣鴨プリズンから釈放されて8年2ヶ月、代議士になってから僅か3年10ヶ月で権力の頂点に立つことになった。時に60歳、まさに還暦に不死鳥の如く蘇り、「昭和の妖怪」と綽名されていくことになる。

 これについて、筆者はかく思う。岸は、釈放に当たって国際金融資本機関とエージェント契約していた節がある。それが岸の超スピード出世の裏意味である。日本左派運動は、こういう観点をからきし持っていない。この後、ブントが60年安保闘争を果敢に闘い抜くことにより岸政権を打倒するが、その意義はネオ・シオニズム派の頭目・岸を引き摺り下ろしたところに歴史的意義が認められるのではなかろうか。 

【日共第2回東京都党会議事件】

 もとへ。3.9日、日共内に注目されるべき事件が発生している。第2回東京都党会議は、六全協以後の党中央の指導ぶりに対する批判と追求の場となり大混乱に陥った。革新派(急進主義者)が、この間の党中央の分裂経過につき責任を明確にせよと迫り、このため党中央を代表して出席していた野坂、宮顕、春日(正)らが壇上で立ち往生させられた。都委員会の選挙では、元全学連委員長武井らの批判派が都委員に19名中10名、都書記に批判派の芝寛が選出されることになった。この結果に対し、宮顕は「中央の認めない決議は無効だ」として居直った。

 これについて、筆者はかく思う。宮顕組織論の本質はこういう危機の場合に露呈する。「中央の認めない決議が無効だ」とすれば、党内民主主義も何もあったものではない。党中央へのイエスしかできないということになる。こういう史実を踏まえて「民主集中制論の是非」を問わねばならないのではなかろうか。

 この経過を見て注目されるべきことがある。かっての全学連結成期の指導者であった武井、安東らが、この時点で東京都党委員になっており、特に武井が批判派として立ち現れてきていることである。武井、安東らは、この間一貫して宮顕派の傘下に入って相呼応して徳球系党中央の指導に楯突き、党内分裂期にもひたすら国際派として宮顕派と歩調を共にしてきた。これを考えると、この頃蜜月時代が終わったということになる。


 6.19日、岸首相が安保条約の再検討の構想を抱いて渡米した。アイゼンハワー大統領、ダレス国務長官と会談を精力的に行い、6.21日、日米共同声明を発して帰国した。先の1951年サンフランシスコ講和会議によって設定された日米間の基本コースの上に、日本が新たな政治的外交的地位を要求する「日米新時代」と称せられる第一歩を踏み出した。 


 6月、東京タワーの建設工事が始まった。総重量4千トンの鉄骨組みで地上333mを目指した。当時世界一のパリのエッフェル塔より12m高い自立式鉄塔で、開業したのは翌1958.12.23日。これにより、テレビ、ラジオの電波放出が始まり、観光名所ともなった。

 これについて、筆者はかく思う。東京タワーが順調に建設されていく経緯そのものが日本経済の活力と歩調を合わしており、日本左派運動の混迷と駄弁に拘らず戦後日本が再生していった様子を見て取るべきであろう。

【日共の労組闘争圧殺】

 7.9日、国労新潟地本が無期限順法闘争に突入した。国鉄当局の春闘処分に対して不当処分として全国の国鉄労働者が決起し、これに対し当局が新潟地本幹部2名と敦賀支部委員長等5名を逮捕したのに抗議して8地本がまず反撃に出た。特に新潟地本が戦闘的で、60箇所で職場集会に入り貨客車ダイヤが大混乱となった。国鉄当局は態度を硬化させ、7.15日、警察が更に5名の地方幹部を逮捕した。激怒した労働者が無期限のストライキに突入し、関東・関西・西部各ブロックもこれに呼応して7.16日より職場大会に入った。

 ところが、7.16日、国労本部が地本の反対を押し切って闘争中止指令を出し、大田−岩井の総評指導部もこれを支持した。地本は涙を呑んで闘争を打ち切り、立ち直った当局が一挙に処分攻勢に出た。地本と支部の指導的活動家(その殆どは共産党員と革同派幹部)の首切りを発表し、次いで第二組合が作られるという結果となった。

 問題は、この時の日共の態度であった。この間燃え広がる国鉄闘争にダンマリを決め込み、「党創立35周年記事」や「新しい段階を迎える沖縄の闘争記事」で紙面を埋めた。この闘争に始めて言及したのが7.17日で、アカハタは、「問題は、労働者階級の前衛、我が党がこの力量をいかに成長させ、自覚させ、結集させ、発揮させるかにかかっている」と党派的対応に終始したばかりか、「敵は優勢、味方は劣勢論」を頻りに説き始め「闘争は既に収拾の段階に入った」と圧殺に向けて奔走する始末であった。こうして、地方で闘いが起った場合これを中央が支援するのではなく逆に押さえ込みにかかるという「労組闘争圧殺に回る日共定式」が確立した。


【日共が「日本共産党党章草案」発表】

 9月、日共の中央委員会が正式に「日本共産党党章草案」を発表した。これにより党内で本格的な討論、論争が開始されることになった。東京都委員会がまっさきに反対決議を出し、構造改革論に近い見地から次のように批判していた。

 概要「党章草案は、アメリカ独占資本の権力という亡霊にしがみつき、これを過大評価する保守主義の間違いを犯している。 我々は、日本で国家権力を握っているのは、日本の独占資本だと考えている。従って、これを打倒する社会主義革命が 、我が国の唯一の革命であると考える。しかしわれわれは、当面すぐさま社会主義革命のための直接的闘争をやろうとは考えない。当面の戦いとしては、構造的改良を中心とする平和と独立と民主主義と生活の向上をめざす革命的改良の戦いを考える。民族の完全独立は、この革命的改良の戦いのなかで、またその一つとして貫徹される」(10.10日付け東京都委員会「保守主義と折衷主義を克服し、社会主義革命の目標に前進せよ」)。

 新規約草案についても、「党内民主主義の拡大でなくて縮小」であり、中央、特に中央常任委員会の一方的な権限の拡大であると批判した。こうした動きはこの時全国各地の党委員会に伝播しており、その様子を感じ取ってか、党は、翌58.1月の第17回拡大中委で1ヶ月後に予定していた第7回党大会を選挙への取り組みを口実に急遽延期することを決定している。


【日共の「50年問題総括」】

 11.5日、「50年問題」についての総括文書「50年問題について」が発表された。次のように総括されていた。

 概要「1950年のわが党の分裂は、わが党の歴史の中でも非常に不幸なできごとであった。それは全党に深刻な打撃を与え党の力を弱めただけでなく、分裂した双方の誠実な同志に大きな犠牲をこうむらせた。また多くの大衆団体に分裂と混乱を波及させた。1955年7月に開かれた第六回全国協議会は、この問題を根本的に解決し、党の統一と団結を回復することを決議した。この決議にもとづく全党の実践にもかかわらず、今日なお少なからぬ未解決の問題を残しており、党の統一についての障害となっている50年問題の原則的な分析と評価を行うことは、この状態を解決するためにかくことのできない課題となっている。徳田のこの問題における誤りは大きく、決定的である。徳田を中心とする『個人中心指導における避けがたい派閥的偏見』に基づく様々な抑圧と排除が、まじめな批判者と一部の分派活動家を混同して、50年の18中総以後から打撃主義的に無差別に行われていて、その後の事態が偶然でないことを明らかにした」(「日本共産党の65年」。

 文書は、「50年分裂」時代の反党中央国際派に対する名誉回復を行い、逆に旧徳球系指導幹部を「規約違反」で批判していた。四全協及びそれ以降の歩みを規約に拠らない非適法の会議としてその効力を正式に否定した。反対派のうち宮顕、春日(庄)派の分派活動を正当付け、特に宮顕の無謬性を凱歌していた。

 こうした「徳球家父長制批判総括」に対して、伊藤律の次のような徳球像は銘記されるに価するであろう。

 「徳田というのはガミガミ云うだけで理論も無く、怒鳴りつけて意見を押し付けるなどと宮本たちは云うが、それは労働者の階級的感情というものを全く判らない連中の言い草です。革命の先頭に立った徳田の激励叱咤には、労働者と人民に対する限りない慈しみと励ましの迫力がすごく溢れていました。丁度、雷雨が上がった後の澄み切った青空のように、底抜けに明るく爽快でした」(伊藤律「証言記録.同志長谷川浩を偲んで」)。

【「64カ国共産党.労働者党会議」】

 11.16−19日、モスクワで社会主義革命40周年祝典に合わせての「64カ国共産党.労働者党会議」に、日共を代表して志賀、蔵原が派遣された。大会は「社会主義12カ国モスクワ宣言」を発表した。これが1960年のモスクワ声明に至ることになる。「64カ国共産党.労働者党会議の平和の呼びかけ」が採択された。この時、ソ共は、スターリン批判と共に国際的な平和共存を強調し、新しい国際情勢の下での「資本主義国の社会主義への平和的移行の可能性」を提起した。中共がこの方針に反対し意見の食い違いが表面化した。



【この時期の学生運動の動き】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

 1957(昭和32).1.18−21日、全学連第10中委が衆院会館で開かれた。砂川闘争を総括、沖縄の永久基地化反対・英クリスマス島核実験反対等を闘争目標に設定、主流・反主流の論争が表面化した。多数派は、アメリカのアイゼンハワー大統領の年頭教書に反発して、沖縄の永久原爆基地化反対、日本本土の原爆基地化反対の闘争などアメリカの原水爆戦争政策即ちアイク.ドクトリンに反対して闘うことこそ全学連の第一義的任務であるという運動方針を決定した。少数派は国鉄運賃値上げ反対など、学生生活の擁護や民主主義教育擁護等の課題を主張した。
【トロツキズム考】
 1957年頃、日共のエセ共産党運動、国際共産主義運動の変調を背景として新左派潮流が誕生することとなった。これを一応新左翼と称することにする。新左翼が目指したのは、ほぼ共通してスターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰であり、必然的にスターリンと対立していたトロツキーの再評価へと向かうことになった。

 この間の国際共産主義運動において、トロツキズムは鬼門筋として封印されていた。つまり一種禁断の木の実であった。トロツキーを最簡略に紹介すれば次のように云える。
 「トロツキーはレーニンと並ぶロシア10月革命の立役者であり、10月革命政権の中枢で活躍する。レーニン没後スターリンとの政争で破れ、亡命先のメキシコでスターリンの刺客に暗殺された革命家である。勝てば官軍負ければ賊軍規定で、トロツキーはその後反革命の烙印を押され、反革命分子と規定された者はトロツキスト呼ばわりされることで汚名宣告されるという不名誉を蒙っていた」。

 ところで、スターリンとトロツキーの評価に関係するレーニンの遺書は次のように記されている。この遺書は、クループスカヤ夫人が1924.5月の第13回ソ連共産党大会の際に中央委員会書記局に提出した文書である。
 概要「同志スターリンは、書記長として恐るべき権力をその手中に集めているが、予は、彼がその権力を必要な慎重さで使うことを知っているかどうか疑う。一方、同志トロツキーはずばぬけて賢い。彼は確かに中央委員中で最も賢い男だ。さらに彼は、自己の価値を知っており、また国家経済の行政的方面に関して完全に理解している。委員会におけるこの二人の重要な指導者の紛争は、突然に不測の分裂を来すかも知れない」(1922.12.25)。
 「スターリンは、あまりに粗暴である。この欠点は、我々共産党員の間では、全く差し支えないものであるが、書記長の任務を果たす上では、許容しがたい欠陥である。それゆえ、私は、スターリンを、この地位から除いて、もっと忍耐強く、もっと忠実な、もっと洗練され、同志に対してもっと親切で、むら気の少ない、彼よりもより優れた他の人物を、書記長の地位に充てることを提案する。これは些細なことのように思われるかも知れないが、分裂を防止する見地からいって、かつ、既に述べているスターリンとトロツキーの関係からいって些細なことではない。将来、決定的意義を持つことになるかもしれない」(1923.1.4)。

 不幸にしてレーニンのこの心配は的中することとなった。レーニンの死後、この二人の対立が激化した結果、トロツキー派が敗北し、スターリン派が権力を握ることとなった。こうしてその後の国際共産主義運動は、スターリンの指導により担われていくことになった。(詳細は「ロシアマルクス主義運動考」(marxismco/roshia/roshia.htm)の該当箇所に記す)

 戦後の左翼運動のこの当時に於いて、スターリン主義のこの部分がにわかにクローズアップされてくることになった。特に、スターリン流「祖国防衛運動」に対置されるトロツキーの「永久革命論」(パーマネント・レボリューション)が脚光を浴び、席巻していくこととなった。こうして、この時期、日共批判の潮流がこぞってトロツキズムの開封へと向かうことになった。 

【第四インターナショナル日本支部準備会結成される】
 日本共産党の六全協後の頃より、トロツキズムの研究が盛んになり始めた。このグループを早い順に記せば、山西英一らの三多摩グルー プ、対馬忠行、太田竜(栗原登一)、内田兄弟らの「反逆者」グループ、黒寛グループ、現状分析研究会、大池文雄グループ等が認められる。

 1957.1.27日、黒寛、内田英世、太田竜の3グループにより「日本トロツキスト連盟」(第四インターナショナル日本支部準備会)が結成され、日本左派運動に於ける最初となる日本トロツキスト運動が生まれることとなった。連盟機関紙として「第四インターナショナル」、理論誌として内田兄弟の「群馬政治研究会」が発行していた「反逆者」を継続した。とはいえ当初は思想同人的サークル集団であった。草分けである三多摩グループは参加していない。

【第四インターナショナル日本支部準備会内で内田―太田論争発生】
 ところが、日本トロツキスト運動は、運動の当初より主導権をめぐって、あるいはまたトロツキー路線の評価をめぐって、あるいは既成左翼に対する対応の仕方とか党運動論をめぐってゴタゴタした対立を見せていくことになる。 

 1957.4月に「連盟」の全国代表者会議が開かれ、そこで「行動綱領草案」が採択されるが、その会議には関西から千葉、岡谷が出席している。その後、4月〜7月頃にかけて、太田の「対馬批判」(「反逆者」第8号、1957.1.1号)が始まり、ソ連の位置づけを廻って内田―太田論争が開始された。内田は、対馬忠行説の立場から「半資本主義的労働者国家説を主張して、国家資本主義論ではなかった」と主張した。黒寛も、この時点では同様の県下でイデオロギー的には内田に近かったにも拘らず太田を支持した。

 7月頃、このような経過と論争のなかで内田が離脱した。そのいきさつで、「第四インターナショナル」29号が欠版になっている。ただ内田は、「再度勉強し直そうというのが、組織をぬけた主な理由であった」と語っている。こうして、最初に「日本トロツキスト連盟」(日本支部準備会)を結成した中心人物の三人のうち、内田英世は1957.7月、太田との対立で組織を離脱することになる。

全学連10回大会

 6.3−6日、全学連10回大会が開かれ、270名の代議員、800名が参加した。原子戦争準備政策打破を中心とする平和擁護闘争推進を決議、規約改正(平和と独立強調)等を決定した。全学連はこの大会で「軌跡の再建」を遂げたと云われている。大会は9回大会路線の意義を再確認し、一層政治主義的傾向を強めた。

 大会は、「ストライキをやる目的は良いが、激しい形態をとるべきではない。その手段によって分裂を生む。それよりも集会程度の形態をとって、大勢の学生を集めて決議を行ったほうが効果がある」とする右翼反対派の主張を、「運動における無原則的な幅広理論であり、主体的条件を変える努力を怠る理論である」と規定して退け、「我々が強力な形態をとればとるほど対決する勢力との矛盾は鋭くなるが、我々の周りに結集する勢力も大きくなる」と闘争の意義を確認し、学生運動が独自に国際国内情勢を分析する能力を持ち、方針を立てていくという自律化を志向した。

 この時の人事で、委員長・香山健一(東大)、副委員長・小島弘(明大)、桜田健介(立命館大)、書記長・小野田正臣(東大)が選出され、その他森田実・島成郎・牧衰らが全学連中執、書記局に入り、以後全国学生運動の指導にあたることとなった。

 この大会で党の指示に従う高野派が敗退し、高野は書記長を辞め、その後は早大を拠点として全学連反主流派のまとめ役となっていく。これが日本共産党第7回党大会前の頃の動きである。この頃、後の「60年安保闘争」を担う人士が続々と全学連に寄り集うことになり、新しい活動家が輩出していった。


砂川闘争で米軍基地内突入

 7.8日、再び砂川基地拡張の強制測量が行われ、夏休み中であったが学生は労働者と共にかけつけ、警官隊と対峙した。この時数十名の学生が、有刺鉄線を切り倒して基地内に突入した。「米軍基地内に初めて日本人が公然と突入した」と気勢をあげた。9月になってこの基地突入者は逮捕され、9名の学生が起訴された。この事件は、東京地裁の判決で、「米軍基地の存在そのものが憲法違反であり、基地への侵入は無罪である」という「伊達判決」が下されたことで画期的な意味を持った。


 10月頃、黒田寛一を中心に学生.労働者.インテリ層で「弁証法研究会」がつくられその機関誌「探求」が発行された。この時期全学連内の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応し、急速にトロツキズムに傾いていくことになった。ただし、日本トロツキスト連盟の運動方針として「加盟戦術」による社会党・共産党の内部からの切り崩しを狙ったヤドカリ的手法を採用していたためか、自前の運動として左翼内の一勢力として立ち現れてくるようになるのはこの後のことになる。「加入戦術」と は、対象となる組織に加入し、内側から組織の切り崩しを行う戦術である。
「ジグザグ.デモかバレードか」の対立発生

 11.1日、「ジグザグ.デモかバレードか」を廻って全学連内に対立が発生している。第3回原水爆禁止世界大会の決議に基づく国際共同行動デーとして、全学連は中央集会に参加したあと国会、米英ソ三国大使館に決議文手交、東京駅までデモした。この時、全学連多数派のジグザグ.デモ指揮に対して、日共系が拒否すると云う事件が起こった。全学連中執は、「階級的裏切り行為」、「分裂行動」であるとして激しく非難し、2名の中執(早大.神戸大)を罷免した。

 この頃、全学連指導部内には、「現在の情勢はアメリカ帝国主義の核戦争体制が一層強化され国際緊張は激化しつつある。従って、これに対しては激烈な形態で闘争しなければならない」という多数派と、「社会主義勢力の強化によって国際緊張は緩和しつつあり、従って大衆運動は幅広くしなければならない」という少数派の対立が発生していた。こうした認識の違いが行動方針にも反映し、「ジグザグ.デモかバレードか」、「ストライキか授業放棄か」という対立まで引き起こしていた。

 これについて、筆者はかく思う。全学連指導部はジグザグ.デモを指揮し、宮顕系日共がこれを止めさせようとする。ここに、全学連運動を右翼的指導で統制しようとする「宮顕のジグザグ.デモ規制指導」が刻印されている。してみれば、その後の民青同系の穏和式バレードデモは必然の産物であったことになる。


【革共同誕生】
 12.1日、日本トロツキスト連盟は、日本革命的共産主義者同盟(革共同)と改称した。この流れには日本共産党京都府委員の西京司(京大)氏の合流が関係している。日本トロツキスト連盟の「加入戦術」が巧を奏してか、西京司氏は57.4月頃に「連盟」に加入してくることになり、その勢いを得てあらためて黒寛、太田竜、西京司、岡谷らを中心にした革共同の結成へと向かうことになった。

 この時点から日本トロツキスト運動の本格的開始がなされたと考えられる。この流れで58年前後、全学連の急進主義的活動家に対してフラク活動がかなり強力に進められていくことになった。この結果、全学連の急進主義的学生党員活動家の一部はこの潮流に呼応し、急速にトロツキズムに傾いていくことになった。但し、革共同内は、同盟結成後も引き続きゴタゴタが続いていくことになった。善意で見れば、それほど理論闘争が重視されていたということかも知れぬ。 

 新左翼運動をもしトロツキスト呼ばわりするとならば、日本トロツキスト連盟を看板に掲げたこの潮流がそれに値し、後に誕生するブントと区別する必要がある。そう云う意味において、日本トロツキスト連盟の系譜を「純」トロツキスト系と呼び、これに対しブント系譜を「準」トロツキスト系とみなすことを今はやりの「定説」としたい(日本トロツキスト連盟の系譜から後に新左翼最大の中核派と革マル派という二大セクトが生まれており、特に中核派の方にブントの合流がなされていくことになるので一定の混同が生じても致し方ない面もあるが)。

 これについて、筆者はかく思う。革共同は、「スターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰」を目指し、日共に変わる真の革命党派として日本トロツキズム運動を創始して行くことになったが、「徳球から宮顕への共産党内の宮廷革命」の変調さ告発に向かわず、むしろこれを是認する形でトロツキー理論即ちトロツキズムを憧憬し、返す刀でソ連式スターリニズム批判へと向かった。ここに幾分かの癖を認めるのは筆者だけだろうか。

【「勤評反対・民主教育擁護」闘争】
 12.4日、全学連・全教学協共催で「勤評反対・民主教育擁護」闘争が行われ、全国の教育系学生5万が各地で集会を開催し、東京の中央集会〔日比谷野音〕では1千名の学生が参加し、文部省・都庁に抗議デモ。

【島、生田、佐伯による新党画策】
 革共同は全学連の掌握に向かったが、この時期の全学連中央を形成しつつあった島−生田らの共産党内反宮顕派は革共同に合流せず、革共同に触発されながらも革共同とも違う新しい革命理論と党派の立ち上げに向かった。  

 12月、
島、生田、佐伯の三名は、12月、横浜の佐伯の家で秘密会合を開き、新党旗揚げのためのフラクション結成を決意している。彼らは、革共同派とも違う革命理論を創出し始め、12月の大晦日の夜、山口一理論文「10月革命の道とわれわれの道−国際共産主義運動の歴史的教訓」(後に結成されるブントの原典となったと云われている)と生田論文「プロレタリア世界革命万才!」を掲載した日本共産党東大細胞機関紙「マルクス・レーニン主義」第9号を刷り上げた。この論文が全学連急進主義者たちに衝撃的な影響を与えていくことになる。

 この時のことを島氏は後年次のように追想している。

 「既に、『スターリン主義』が単なる一思想ではなくソ連という強大な国家意思の実現と、その物質化されたものとの認識に到達した限り、『スターリン主義』日共は最早変え得る存在ではなく、打倒すべき対象であり、欲するところは、これに代わる新しき前衛の創設である。この立場に立った生田は、密かに、しかし容易ならぬ決意を持って『新しき前衛』の準備に着手した。1957年の暮れの或る日、この合議のため生田と私、そしてSが会した場所こそ、9年後、生田の灰を迎えねばならなかったあの横浜の寺の一隅であった。

 一方、党人としての生田は、この党の行方を見届けねばならぬ故に、六全協後の党内闘争の目標であった日共第7回大会に向け細心の組織化を行い、最も年少の代議員の一人になったのだ」(「生田夫妻追悼記念文集」の島氏の追悼文)。

 彼らは、日本トロツキスト連盟派のオルグに応じなかったグループということにもなるが、この頃トロツキー及びトロツキズムとは何ものであるのかについて懸命に調査を開始していった。ご多分に漏れず、彼らもまたこの時まで党のスターリン主義的な思想教育の影響を受けてトロツキズムについては封印状態であった。この時、対馬忠行、太田竜らの著作の助けを借りながら禁断の書トロツキー著作本を貪るように読み進めた。島・氏は、「戦後史の証言ブント」の中で次のように述べている。

 「一枚一枚眼のうろこが落ちる思いであった。決して過去になったものではない。現代の世界に迫りうる思想とも感じた」。

 これより後は、「5期その1、ブント登場 」に記す。



(私論.私見)