蔵田対塩見論争考

 (最新見直し2008.9.12日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2008.8月、連合赤軍問題に関して蔵田論文が出され、塩見氏がこれに反論すると云う状況が生まれている。れんだいこ見解を出しておく。まず、両論文をサイトアップする。その際、段落等は、れんだいこが任意に変えた。

 2008.1.28日 れんだいこ拝


【蔵田論文】

 検証/連合赤軍総括から引き出す教訓と歴史責任  新左翼主義の主観的極限志向の果てに演じた、客観的背理の意味 蔵田計成

 ◇ 手法上にみる問題点

『実録』を製作した若松監督は「これが本当なんだ」という映像を残しておきたい(『情況』6月号、対談)と語っている。たしかに制作意図に関する限り、予想を裏切るものではなかった。歴史の事実を掘り起こし、社会的に問題を再提起した意味はある。とくに『実録』は事件性の解明が目的であり、事件の全体像を知るための証言として、また粛清する側の「理屈」を知るうえで貴重な手がかりを与えてくれる。

ただし、この場合の手がかりとは、描かれた事実関係、論理性、言語表現が、当事者の「評価と事実認定」に耐え得るということが前提となる。

この点に関して、ある事件当事者は「事実とは異なる場面が多すぎる」(加藤倫教、同上)と語っている。はたして「事実と異なる場面」が事件の本質にどの程度係わっているのか、気になるところである。以下、3つの問題点を提起しておきたい。

第1点、映画では、当時の歴史的背景を含めて、赤軍派、日共革左、統一赤軍→連合赤軍が展開した闘争過程を、時系列として追いながら、そのままあの「粛清事件」を経て「あさま山荘銃撃戦」へと至る作戦行動を描いている。だが、あの当時の連合赤軍事件がもたらした社会的衝撃性という点に関していえば『実録』の構成手法に不満が残る。世間に報道された事件は、それとは逆な経過をたどって伝えられたからである。

実際に粛清事件の全貌を世間が知ることになったのは、あさま山荘銃撃戦が終わった後である。つまり、9日間にわたって「銃撃戦」が展開され、その直後に「粛清事件」の全貌が暴露されるという大逆転を演じた。この大逆転は、当時の権力の「意図的操作」なのか、結果的に「そうなった」のかは、明確に検証されていない。もし、権力側の世論操作であったとすれば、泳がせ論に与するような愚は避けるべきである。

 
それはともかくとして、当時の連合赤軍事件全体が突き出した社会的衝撃と、『実録』が描いた一連の事件発生の経過との間にある、上記のような「時系列ギャップ」のために、『実録』は、結果的には連合赤軍粛清事件の「事件性」を強調した作品にとどまっている。そのために当時を知るものにとっては、構成手法上の配慮が欲しいところである。

第2点、連合赤軍は主観的には共産主義をめざしながら、結果的には「一挙的共産主義化」「敗北死」「総括」「粛清」という、革命とは無縁と思われる愚行を演じた。この愚行を「実録」という限定的な表現手法で描くとしても、無媒介的ともいえる手法を用いで描きあげることは、反共キャンペーン映画と紙一重という危険性を犯すことになる。たとえ、同じ連合赤軍事件を描いた他の2作品とは、次元が質的に異なるとはいえ、制作者の意図が別な側面から問われるのではなかろうか。

第3点、連合赤軍粛清事件の本質を解明するには、事件は複雑であり過ぎる。観客は、事件自体がもつ荷重さのまえに圧倒される他はない。とくに、画面が次々と演じる蟻地獄の凄惨さは、正視するに耐え難いのではないだろうか。スクリーンから目をすらそうと思った瞬間もあり、いくつかの問題が派生する。

観客の私が映像を冷静に見終えることができたのは、たんに、画面に映し出されるおびただしい衝撃的な事実を脳裏に刻み込んでおきたいという、個人的興味だけではなかった。映画『実録』を観た2人の友人も同じ思いを抱いたという。主観的には革命を熱望しながら、結果として革命とは無縁な蛮行を次々と演じている場面に向かって、「そんなのは革命ではないよ」と叫びたい衝動に駆られた、という。そう思った瞬間に「ゲバラは下山したい兵士に対して、金を与えて下山させた!」という事実を思い浮かべたのであった。おそらく、その際に「画面の事実」と「ゲバラ的事実」を重ね合わせて、その2通りの事実のあいだに存在する距離感を感じとることができなければ、私達は画面から、一瞬なりとも目を背けたかも知れない。それほどまでにこの事件が内包する闇の深さは計り知れないわけである。その深さゆえに、連合赤軍粛清事件は発覚直後から、彼岸視することを拒んだ人達は、誰もが「何故か!」とばかり、自分に対してくり返して発問し続けたのではないだろうか。

『実録』は、粛清する側の「理屈」はこと細かに解説してくれるが、粛清される側の無念さ、疑問、そこに至る「粛清の論理」にまでは踏み込んではいない。そのために、「何故か!」という設問に自問自答するための確かな手がかりを与えてくれない。この点も不満として残る。とはいえ、当事者達が書き残した著述さえも他者には届いていないのが実情であれば、それもやむを得ないのかも知れない。

たとえ、制作者の主観的意図が「本当の事実を描くこと」にあったとしても、また、そこで演じられた世界を「実録」という表現形式で描いたとしても、所詮は「フィクション」という個的世界に過ぎない、という事実を認めざるを得ない。この自明な事実を前提にしたとしても、注文はつけたくなる。

作品は「フィクション」という限界を突き抜けて一人歩きし、ある領域を越えていくはずである。そうだとすれば、連合赤軍兵士達のたどった軌跡のなかの主要な分岐点を、制作者の問題意識の範囲内で提示してもいいのではないだろうか、という点である。

おそらく、連合赤軍が最悪の結末にたどり着くまでには、幾つかの分岐点を通過したはずである。その分岐点という闘争の節目や転換点において展開された論争、対立点、論理、実践に向けたひとつ一つの選択と積み重ねが、最後には「粛清の論理」をつくりあげていったはずである。その個々の推移と事実のなかにこそ、最悪の事態の「回避」に向かわせるのではなくて、最悪の事態の「受容」「選択」に向かわせた根拠が明示されているはずである。惨劇に至るまでの「謎」を解くカギもここにある。

ところが客席の私たちは、悲劇的な結末に至るまでの「選択」の検証に立ち会うことがないままに、画面が描く外形的事件を知ることになる。おそらく、そのような立場におかれた観客は、ひと息つく場所さえ見つけることはできないだろう。もし、絶望や拒絶以外に別な場所を見出すことができないとすれば、また、客席の絶望感から抜け出すための「蜘蛛の糸」にも等しい一縷の希望を見出すことができないとすれば、『実録』の意味自体を問い直すべきなのかも知れない。

◇銃による殲滅戦兵士をめざした、一挙的共産主義化論の背理性

画面のエピローグのなかで、最年少の兵士が「俺達はみんな、勇気がなかったんだよ!」と叫ぶ。このセリフによって『実録』の論理は完結する。混乱の極にあったとはいえ、事件直後の森恒夫君や板東國男君も同じような立場を表明した。加藤倫教君は前出『情況』誌上で「勇気がなかった」という発言の事実関係を否定している。

ただし、ここで質したいことは事実関係ではない。

問題はどこにあるのか。果たして、あのような奥深い山岳の閉鎖空間において、誤謬の自縛から目覚めることことに出路を求めたり、それを正す「勇気」の問題に還元することによって、主題と結論に置き換えることができるのか、否かという、粛清事件の総括の中味である。

たとえ「森=永田式総括路線」に疑問を感じたとしても、中途半端という立場は許されない。曖昧な立場は、「総括」のやり玉に挙げられるわけであり、ことを覚悟しないかぎり、疑義表明はありえない。また、その総括路線に代わるだけの体系的な論理を内心においてさえも明確に対置しえないかぎり、面従する他はない。さらに、組織の心理学的帰結としても、結果的には誤りを演じる随伴者になる他に選択の余地はなかったのである。

このことからも類推できるように、権力打倒をめざしている指導部が、逆に、打倒対象になるという逆説的事実を確信するに至るまでには、幾つかの段階を経なければいけない。

さらに、組織の指導部が銃を手段にして権力を独占し、周囲も、外形的には銃撃戦へのあふれるほどの決意性によって指導部を支えていたという情況下において、内部の権力支配に向かって命をかけで闘うことをもって、果たして真の「勇気」といえるだろうか。

この論理は字義通りの精神主義である。「天皇制ファッシズムを許したのは、それと闘う勇気がなかったからだ」という坊主懺悔に直結している。この曖昧な論理を敷衍していくと、やがては悪政を許すことさえも「勇気」の問題に解消されてしまうだろう。

権力支配と闘うことの勇気の意味を全否定するつもりはないが、歴史を切り拓く出路は、抽象としての勇気を説くことの中に見出すことはできない。勇気という思想性の高みに至る回路は、闘争の政治的社会的普遍性、全体性を実現する過程における実践と理論の相互媒介を経てはじめて、いわば「自己形成論」「階級形成論」として獲得可能である。

その意味から考えてみても、先にもふれたような「銃を持つ革命戦士」をめざした「一挙的共産主義化論」は、革命や共産主義とは全く「無縁」である。そもそも、まともな共産主義者を自認する者であれば、エゴイズムを献身に対置するような倒錯を演じるはずはない。その根拠は、以下の私見の引用である。

「わが連合赤軍兵士達は、一挙的に、献身的に自己否定し、自己実現を目指そうとしたのであった。このような教義を呪文にした修養主義は共産主義とは無縁というべきである。結社における団結の質を、歴史の現実的諸関係や交通形態から切り離して論じるような観念論や、人間の思惟、精神的欲求、関心、好み、感情の変化などの根本的要因が、社会の物質的生活のうちに根拠をもっているという基本認識を欠落させたところから説きおこす修養主義的観念論の狂態とは訣別すべきである、と考える。連合赤軍は、現代の『聖マックス』に屈服・解体されたかの如くである」(『検証 内ゲバ』03年、社会批評社)

その意味からも、「勇気」を結語にすえた『実録』は、制作者の主観的意図にもかかわらず、諸刃の剣というに等しいのではなかろうか。

 ◇無責任な「森=永田」個人責任論

連合赤軍問題の歴史評価や総括を基底にした『実録』への「視座」という根本に係わる議論が、元赤軍派議長塩見孝也君のかねてからの持論である「森=永田責任論」として了解されるとすれば、それは歴史責任を放棄した見解というべきである。

「僕の意見を、じっくりと、聞き届けて下さり、ほぼ95%、映画に貫かれている」(塩見孝也 朝日新聞出版、『若松孝二 実録・連合赤軍』)という感想を寄せている。

ここでいう「僕の意見」とは「塩見史観」である。彼の歴史観に関しては、過去何回かにわたって、直接確かめた。私なりに到達した結論は「武装と軍事を突き出した、赤軍結成は歴史的に正当。自分は、異質な路線が連合することに反対したにもかかわらず、連合赤軍指導部は専断した。統一赤軍結成→連合赤軍→銃による殲滅戦に至る過程で派生した問題であり、粛清事件の責任は、森=永田にある」という立場である。

多くの言葉を費やす必要はないと思う。このような論理によって連合赤軍粛清問題の総括に終止符を打つとすれば、観念における歴史的悲劇の再演どころか、歴史の喜劇を演じることになる。しかも、『実録』が、次のような塩見自画像への評価に、有力な根拠を与えているという倒置現象が生じるとすれば笑止というべきである。

「僕は、ここでは赤軍派議長として、正当な歴史的評価が与えられ、登場してきています。これは、僕が、公的に復権されることとして、終生希っていた要望の実現でした」(同)

結論を先に言えば、連合赤軍粛清事件を正当に総括するためには、「新左翼(ブント)14年史」(厳密には「新左翼17年史」)の厳密な総括なしにはあり得ない、というのが私の立場である。これが「塩見歴史観」へのアンチテーゼでもある。

いまあらためて、連合赤軍粛清問題を考えるとき、事件によって「政治を捨てた」という深刻な衝撃の余震をいまだに肌で感じている人は、決して少なくない。惨劇の教訓を闇の中に葬り去らないためにも、誤りに至る歴史過程を、相互の実践における相互の媒介過程として、正当に跡づけ、過去の痛苦な歴史の教訓を学ぶことを通じてのみ、妥当な実践的、理論的、思想的戦略論、戦術論を構築するための糸口を見つけることができる。そのことによって革命する主体の思想=魂の問題として、あの「勇気」の意味を知ることも可能である。

◇問うべき歴史責任とは何か

既述したように「闘う勇気がなかった」をもって、悲劇の教訓に代置するとすれば、それは教訓の意味をはき違えることになる。真の教訓を引き出すことを可能にする最低限の与件とは何か。それは、その悲劇をもたらした直接的、間接的な歴史責任を引き受けようとする試みの内容にある。だからといって、その責任を制作者の意図に求めるべきではないことは、いうまでもない。

責任論の次元でいえば、森君は自死をもってその責任を果たそうとした。永田君や坂口君は獄中で極刑攻撃と闘うことによって、その責任と向き合っている。塩見君も獄中20年を受容してきた。植垣君も然り。板東君もいまなお命がけの闘いを自らに課すことによって、責任を果たそうとしている、と思われる。その家族さえも、責任を引き受けた。

政治的には赤軍派とほとんど無縁であり、戦術路線に対しても批判的でさえあった私自身、当時、入山直前に背広姿の森恒夫君、山田孝君等の自宅訪問を受けたことがある。後日の新聞報道ではじめて彼らの氏名を知った程度の関係だが、私の政治的立場は、あくまでも「大衆的街頭武装叛乱」を上限の形態とするという政治路線上の立場であった。そうした状態のなかで、何らの政治的一致点をもたない私達数名(菅孝行、丸山照雄、小沢遼子、松沢哲成等)も、事件が発覚した直後、いち早く「連合赤軍公判対策委員会」を立ち上げた。嘲罵の集中砲火の下で、「内乱罪適用」を弁護方針に掲げて初公判に備えることによって、自己の政治的社会的な責任を果たそうとした。この例にもあるように責任の果たし方はさまざまある。

『実録』の副題は『あさま山荘への道程』となっており、連合赤軍の過去の歴史過程のなかに、粛清の根拠を求めるという問題意識を出発点にしているが、そのような作品に対する映画評論上の評価や議論の内容に関してさえも、責任の所在は明確である。

繰り返すようであるが、事件に対する直接的な責任は、当事者の側にある。とりわけ赤軍派議長として、総路線を敷設し、赤軍派結成→統一赤軍→連合赤軍へと至る武装闘争を、その延長線上において論理的、思想的に直接牽引した責任を負うべきは、当然であるといいたい。

そのような言い方が酷いというのであれば、別な表現におき換えてもよい。つまり「森=永田責任論」を主張する塩見流総括の論理構成自体が、必然的に「勇気がなかった」という「勇気非在論」に、帰結させざるを得ない。その責任は見過ごすべきではないだろう。

責任論に関する限り、必ずしも当事者という特殊個人にとどまるものではない。第1次、第2次ブント結成を経て、赤軍派登場、連合赤軍結成、粛清(敗北)に至るブント14年間の歴史の担い手たち一人ひとりが、共有すべき歴史責任として自らに問うべきである、と言いたい。

「自分とは無縁だ!」と主観を弁じようとも、かつて、新左翼総体の戦列に加わったという事実、武装闘争へ寄せた漠たる期待感を抱いたという事実を消すことはできない。その延長線上で生起した直接的、間接的結果を含む過去の歴史に対しては、無関心を決め込むことはできても、過去の関係性を切断することはできない。少なくとも、そのかぎりにおいて当事者性に応分した責任は引き受けるべきではないだろうか。

敢えて想起してもらいたいことがある。あの「あさま山荘銃撃戦」の現場中継の画面の前で固唾をのんだ記憶を呼びさまして欲しい。9日間もテレビ中継に釘付けにしたものは何か。何が最高98%という異様な視聴率を記録したのだろうか。極論すれば、攻防の結末に食い入った度合いや、かつて赤軍派を生み出し、磁場を支えた分量だけでも、その責任の引き受け方があるのではないだろうか。

私達が、この期に及んでさえも背負うべき歴史責任とは「16の墓標」が刻んだ闇に伏在する歴史の真実を知ることでもある。そのことによって、真の教訓を引き出すことができる。その歴史課題はいまも野ざらしのまま残されている。

そのアプローチに必要な直近の手がかりは「新左翼(ブント)14年史」(日共革左の総括は当然)にある。58年第1次ブント結成から、72年連合赤軍敗北によって新左翼は、確実に一つの幕を閉じた。その前史を含めた新左翼(ブント)14年間の歴史過程の総括こそは、連合赤軍粛清事件を総括する上で、方法論的キーワードでもある。さらに、日共革左の独自総括も必要であるが、その指導メンバーの多くがブント系諸派を経ているという事実は、重要な意味をもっている。

なお、新左翼史の厳密な対象は、55年体制・日共6全協以後の、革共同、ブント、社青同、構造改革諸派、中国派系ML派、それに赤軍派と合流した日共革命左派神奈川県委員会=京浜安保共闘を含めた新左翼運動総体である。その意味では、「新左翼(ブント)14年史」というよりも「新左翼17年史」とすべきである。その場合は、一般的な「内ゲバ論」、革共同(黒田)主義に固有な側面をもつ「革共同・内ゲバ論」、連合赤軍「粛清論」を区別しつつ、併論することにもなるだろう。だが、ここではブント=赤軍派に限定して問題を提起してみたい。

◇60年安保闘争の総括における新左翼=ブント主義の問題点

冒頭に指摘しておきたいことは、60年安保闘争史に新しい事実関係を追加して、従来通りの現象論的な総括の上に「厚化粧」を施して、新左翼主義を論じることの無意味さである。何が厚化粧か、それを詳論するには多くの紙幅が要るので別稿にゆずるとして、以下は問題提起である。

連合赤軍粛清問題の起点ともいうべき最初の一行は、新左翼創成時点にまでさかのぼる。とくに運動組織論に深く係わる。

例えば、革共同の前衛党論=党組織論は「党のための闘い」論であり、党組織の拡大と発展を優先させた。これに対するブント前衛党論(党建設論=建党組織論)は「闘うための党」というというものであり、党組織の拡大よりも闘争の発展を優先させて、自己の最大の党派性として、革共同組織論に対置したという特徴をもっている。この前衛党論をめぐる両者のせめぎ合いが、新左翼運動の現代帝国主義論と並ぶ運動論上のモチーフでもあった。

さらに、ブントはこの前衛党論に加えて、「ブント主義」ともいうべき運動組織論があった。学生運動における「労学提携=同盟軍規定」にはじまり、「学生運動先駆性論」「捨て石運動論」といわれた革命求心主義路線があった。真の前衛党創成をめざしたブントは、全学連の学生運動に仮託して独自の運動を展開し、その急進的路線を疾駆したのである(これと似たような路線の呼称には、60年三池闘争において協会向坂派が用いた「一点突破全面展開」という用語がある)。

60年安保闘争においては、文字通り身に寸鉄を帯びないというにふさわしく、スクラムとジグザグデモを闘争手段にして「街頭実力闘争」を展開した。国民共闘会議の戦術方針や場所の設定よりも、一歩だけ「左」に戦術設定し、ひたすら自らの闘争を起爆剤と位置付けて、戦術形態をエスカレートさせていった。この闘争志向におけるエスカレート過程は、「行け行けドンドン主義」ともいうべき戦術的極限志向であった。その意味で、運動の幾何級数的飛躍をめざす「倍々ゲーム論」ともいえる。

極端な言い方ではあるが、この「倍々ゲーム路線」を継続するためには、決意性をかき立てることによってつくり出す「組織の共同幻想」に依存せざるをえない、という危険な仮構性を内包していた。とはいえ、このブント流の新左翼運動組織論は、極限形態において「6/15国会突入闘争」を打ち抜くことに成功した。その結果、「33万人の国会包囲デモ」を先導するという歴史的金字塔を打ち立てたのである。

ブント=全学連が闘った主要な闘争は4つある。その闘争は、正負の二面性を内包していた。また、その闘争を実現しえた背後には、目的意識性や論理性の他に、偶然性や幸運が介在していた。概括的に付記すれば、以下のような特徴点をもっていた。

 1/27 国会構内大抗議集会:国会正門のカンヌキは野次馬の手ではずされ、デモ隊員全員が国会請願を実現した、という偶然性もあった。

 1/16 岸渡米阻止羽田闘争:無血・奇襲作戦の成功が社会的衝撃をもたらした、という幸運。

 4/26 国会正門前バリケード突破闘争:学生運動の先駆的闘争によって血路を切り開く闘争路線(3000名労働者部隊によっても可能という路線)の挫折によってブント政治局は解体した。

  6/15  国会突入闘争:6/10ハガティー阻止羽田闘争の偶発的爆発と成功に触発されて、ブント=全学連が打ち抜いた闘争。この闘争を起爆剤として「6/18岸内閣打倒・国会解散・安保採決不承認・不当弾圧抗議」33万人国会包囲デモが実現。岸内閣打倒により「9条改憲路線」は挫折。

 
このように60年安保闘争における特徴点は、それらの闘争の成功が、さまざまな幸運や偶然性を「奇貨」としつつ、にもかかわらず、その政治的社会的高揚を歴史的に体現するものとして、目的意識的に自己貫徹することによってはじめて実現可能な闘争の結果であった、という点にある。

ところがブントは、厳密な総括をなし得ないまま自壊した。このあっけない崩壊によって、歴史における幸運や偶然性という特殊要因を捨象して、一般化した総括の余地を残すことになってしまった。その結果、「負の側面」が抉り出されないままに、「正の側面」だけが「ブント主義」として論理的・思想的に定式化されたこと。しかも、戦略・戦術路線の教条主義的エスカレートに帰結する論理的根拠を与えてしまった、ということである。

典型的な例は「プロ通派」(プロレタリア通信派)の総括にみることができる。第1次ブントが3分解するなかで、「産湯とともに赤子を流すな」という立場を出発点にして、「武装蜂起の思想の常識化」という結論を引き出した。つまり、60年安保闘争においては6/15国会突入闘争から、次なる6/18再突入によって政府危機から政治危機をつくり出せなかったのは「武装蜂起の思想がなかったからだ」という総括にたどり着いてしまった。

そのような総括が登場する議論の背景には、東大細胞意見書があった。東大細胞は60年安保闘争総括として、いち早く「6年安保批准阻止闘争を敗北に導いたのは、6/18再突入ができなかった、姫岡怜治の自己金融論における国家独占資本主義論にみる日和見主義があった」と主張することによって、ブント崩壊の直接的な引き金の役割を果たすことになった。このプロ通派の総括は、この6/18再突入路線論争をめぐる学生ブント内の論争を色濃く反映していたのである。

 「反東大フラク」として出発した「プロ通派」には、ブント=安保全学連の闘争を1年間にわたって指導してきた現役の学連指導部のうち11名中8名が結集した(学連書記局員のうち7名が東大本郷・駒場細胞の出身。それ以外の3名中、唐牛と篠原は戦旗派に、蔵田は革通派に合流)。

そのように学連書記局員を中心にして結成された「プロ通派」は、武装蜂起論に還元させて60年安保闘争を総括した途端に、挫折し、自己破産を宣告することになった。最後には、新たな「分派」(共産主義の旗派)結成を主張する3人衆に合流するか否か。それ以外に残された道は二者択一であった。革命を捨てるのか、捨てないのか。革命を捨てることを峻拒したカードル達は、結局は革共同全国委=探究派の軍門に降っていく他はなかった。

探究=黒田派は、60年安保闘争の全過程を通じても、決して身近なライバルではなかった。むしろ、6/15国会突入闘争を経てもなお侮蔑の対象でしかなかった。だから、その過去の「正当性」「妥当性」を理論的思想的基準にするわけにはいかなかった。唯一の基準は「論理的な整合性」であり、ある種の体系化された総括として己を納得させたに過ぎないのである。この論理的整合性を選択の判断基準にして、「半ば死ぬ思いで合流した」と語った旧友の後日談は、ある側面の真実を物語っている、といえるだろう。

そのプロ通派の総括を受け継いだ形の「京都府学連」(関西ブント)は、「政治過程論」を提起した。その内容を規定したものは、京都の学生運動が首都圏の闘争の実相を遠望する立場にあったという地政学的事実とは、相対的に無関係と思われる。むしろ当時のブントの問題意識と総括水準を反映していたというべきだろう。

首都圏の学生運動は「挫折感」を思い知る他はなかったが、多くのブント=社学同活動家達は、指導部を中心にしたブント内の党内闘争とは距離をおいて、6/15闘争直後の三池炭坑闘争、新島ミサイル基地反対闘争に参加した。とくに、革通派主導の「10/30池田内閣打倒全国学生ゼネスト」における首都圏の闘争においては、「マル学同ナンセンス!」という心情が、唯一の党派性となって多くの学生活動家を支えた。探究派「黒田組織論」「反帝反スタ論」など一顧だにしないという雰囲気であった。

首都圏学生細胞以外には、ほとんどの地方ブント組織は戦術論争を総括の軸にはすえなかった。機関紙「戦旗」を通じて流される綱領問題に関する根底的な総括に興味を示した。そうした地方組織のなかで関西ブントは唯一の例外であった。とくにブント=京都府学連は、運動論、運動組織論に関して独自の総括を獲得することによって、60年代においても60年安保闘争に倍する学生運動の健在を誇示することができた。

「政治過程論」は、他の分派からは「戦略論なき戦術論」と批判された。しかし、60年安保闘争がもつ歴史的意味、戦術的意義を総括するうえで、重要な政治的役割を果たしたことは確かである。

「政治過程として解明する中で、政治闘争の質的発展にとって決定的に重要なものは戦術である」として、「政府危機をつくり出す革命的戦術の導入」を強調して、「大戦術」「小戦術」を提起したのであった。なお、関西ブント「政治過程論」を色濃く継承したのは、赤軍派の「攻防の弁証法」「攻撃型階級闘争論」「前段階武装蜂起論」であった点は、意味をもつ。その継承性の内容に関しても別稿で論じることになる。

さらに、関西ブント「政治過程論」が参考にした主要文献は、ロシア10月革命の研究を中心に、マルクス「フランスの内乱」、レーニン「マルクス主義の三つの源泉:」などであった。また、「政治過程論」の基底的前提に欠かせない独自の資本主義論、現代帝国主義論はなかったが、初期ブント同様、基本的には宇野経済学に依拠していた。

資本主義現状分析では、東大細胞を主体にした「革命の通達派」(のちマル戦派)が、「世界帝国主義論」によって革命戦略綱領を構築しようとした。しかし、世界帝国主義論は、60年代の高度成長期の実態や現代資本主義の世界支配の構造を、分析的に提起できなかった。60年に「所得倍増政策」をひっさげて登場した池田内閣の財政政策に対しても、対決方針を提起することはできなかった。他の新左翼諸党派も同様であった。

その他、首都圏旧第1次ブント細胞でも、革共同「反帝反スタ論」に対抗してトロツキーの永続革命論を再検討したことなども、関西ブントの総括とは対照的であった。

いずれにせよ、強調しておきたいことは、第2次ブント結成から連合赤軍結成にいたる過程を知るうえで、「政治過程論」は重要な結節点になったという点である。先にみたように関西ブントが果たした歴史上の役割は重要であり、過小評価すべきではない。ブント結成から60年安保闘争に至る「ブント14年史」の「前期」(58年〜60年)から、「安後世代」(安保闘争後の世代)と称した60年代にいたる14年史の「中期」(61年〜67年)をつないだ、有力な理論的媒介項となったことも、その一つである。

◇70年安保・沖縄・全共闘運動における運動の転換

 新左翼の両輪ともいえる全学連・反戦青年委員会は、67年「10/8佐藤ベトナム訪問阻止羽田闘争」において、歴史的再登場を果たした、という見方は通説になっている。今は亡き政治指導部の一人が「青空が出現したような光景」と述懐したように、その前史は、7年間の苦闘の歳月であった。その苦闘の末に実現した歴史的再登場の意味については、必ずしも統一的見解はない。2点だけ指摘しておこう。第1、ベトナム民族解放闘争への国際的実践的連帯を実現したこと。第2、新左翼運動史上初めて「武装」の問題に直面する闘争になったこと。とくに、第2点はその後の軍事エスカレートの起点として重要な意味を持っている。

結果的にはこの10/8街頭実力闘争においては、その後に登場したジュラルミン盾と棍棒に象徴される「権力」「反革命暴力」に対する「武装の質」へ向かう転換点となった、といえるだろう。ブント内の一部では、新しい歴史的地平を切り開いた闘争として跡づけ「組織された暴力」「国際主義」と総括した。

だが、実際にはこの総括は「結果論」(府川充男、『情況』6月号)であった。この日の街頭実力闘争の場に初登場した「角材」は、対権力用ではなくて、完全に内ゲバ用であり、対権力との闘争に転用されたに過ぎない、という偶然性があった。ただし、秘密裏の戦闘作戦が成功したという「組織性」の一点においては、闘争の質的転換点であり、量的飛躍を含めて戦術的な意味を持っていたことは確かである。その点を含めて歴史的闘争であった。

その後、闘争の形態や規模は限定的とはいいながらも全学連、反戦青年委員会、全共闘、べ平連市民運動の領域に拡大していった。世界的にはベトナムにおける植民地革命戦争を頂点にした国際反戦運動の高揚、先進国における「68年革命」として総括されている都市ゲリラ戦=武装闘争が展開された。

こうした世界的規模の反戦闘争が高揚するなかで、国内では街頭武装叛乱、解放区、学園占拠闘争などの公然・非公然の大衆的街頭武装闘争が組織されていった。闘争形態に関しては、街頭実力闘争から街頭叛乱型武装闘争、非公然武装闘争へ拡大・発展した。党組織論に関しては、建党・建軍路線における大衆武装、地下軍事組織の問題を内包させながら「武器」の質的転換を含めて、「建党」「建軍」「戦略路線」「戦術形態」の転換を遂げた。さらに闘争組織形態に関しては、前衛党型組織論に対して、セクト、広範なノンセクト・ラディカル、黒ヘル集団、パルチザングループなどが合流した全共闘運動として、コンミューン型組織形態論の質をめざした。

このような爆発的な運動の展開過程のなかでブント「赤軍派」が結成された。「過渡期世界論」「攻撃型階級闘争論」「前段階武装蜂起論」を戦略ベースにして、「大阪戦争」「東京戦争」の名による交番襲撃、銃奪取、大菩薩軍事訓練、首相官邸武装占拠(構想)、「ハイジャック」「M作戦」「国際根拠地建設」路線など、武装=軍事エスカレーの一途をたどっていった。大衆闘争の場から召還し、戦闘集団へと組織純化したのである。この内容や路線の総括が、60年代の世界史の発展過程・形態の実態分析を含め国際階級闘争の根底的な解析のなかで検討されるべきである。

このような闘争の武装・軍事的飛躍過程は、明らかにブント主義的戦術の一面的な肥大化、「行け行けドンドン主義」「倍々ゲーム路線」」「戦術的極限志向」の過程であり、上記の検討を通してはじめてその功罪も解明されるはずである。精緻な総括は当事者をして語ってもらう他はないが、少なくとも、その原像には、第1次ブント結成を経て、ブント主義として関西ブントによって定式化された「政治過程論」「戦術志向への論理」があったことは既述した通りである。

だから、たんに問題はそのブント主義としての「革命求心主義」にあるのではない。それを自己貫徹するための諸条件の分析、方法、手段、可能性、展望に対する厳密さに欠け、主観主義的独善に媒介されて全面開花した、という点にある。そのなかで戦術目的、戦闘目的、戦略論、革命の根拠なども鮮明にすべきものとして総括すべきなのである。

「武装=軍事」を実行するには、自分たちが描く小国家像を提示し得るだけの、相対的な社会的政治的力量の獲得が不可欠な条件である。この点については、早くから榎原均が指摘していた通りである。ゲバ棒、鉄パイプ、火炎瓶という自衛武装の領域から、爆弾、銃器による「革命戦争」へと突き進むなかで、それが局地的ゲリラ戦による先端攻防であれ、全面的階級戦争であれ、また、プロ独の立場か、その否定の立場かを問わず、変革・革命運動の根本問題を含めて、政治目的、社会的条件、必然性、可能性は不断に、組織の内外に向けた疎通と合意獲得への試みを必要とする。その場合でも、目的意識性と社会的合意形成は表裏の関係にあり、対立概念としてとらえるべきではなく、独善を排した止揚概念としてとらえるべきであることはいうまでもない。

ところが、闘争の形態や武器質の転換過程においては、観念としての、また、論理としての「正当性」「整合性」「戦闘性」「左翼性」が、その戦闘的急進性ゆえに、価値付与され、政治的にも、党派的にも優位に立つ。その過程で必然的に左派のヘゲモニーが増大する。路線や戦術は歯止めを失い先鋭化の一途をたどっていくことは必定である。

また、主観主義的論理や、恣意的分析と思しき度合いに逆規定るかのごとく、現実とのズレや、普遍性・全体性の獲得という政治的社会的制動を背後に受けながら、現実の大衆闘争や大衆自体との接点の度合い、他者不在の度合いに応じて、論争は空中戦を演じることになる。最後的には社会的政治的接点切断したその瞬間から、閉鎖空間という独自の世界において自己運動をはじめ、唯軍主義路線は否定的な方向へと自己を純化していくほかはない。

統一赤軍→連合赤軍→粛清→銃撃戦という悲劇の結末は、「革命戦争」として銃による殲滅戦を自己目的とした「唯軍主義路線」「唯銃主義路線」と、その論理と思想の延長線上において引き起こされたことにある。

すでに指摘したように、連合赤軍兵士達は、軍事作戦の遂行を可能にするためには、自己犠牲、献身、英雄主義が不可欠であるとして、「銃を持つ革命戦士主体の形成」と称して、「一挙的共産主義化論」という超主観主義的観念論をつくりあげた。

この「共産主義化論」は先行的に提起されていたというが、すでに、その時点において破綻を宣告されたも同然である。「建党・建軍・階級形成論」に代置して、現在的には観念世界において実現可能な哲学を、自己=他者に強要するという芸当を演じようとして、「仮構の空間」「幻想の共同性」をふくらませていった、といえるだろう。いわば、観念世界における「共産主義化論」は、その極点において容易に否定的事態を予見させる。武装=軍事路線が胚胎する困難と危険性がもたらす相剋は、「粛清」という最悪の危険性を内包しつつ、全面的に外化するほかはないからである。

その背後には、政治路線の不一致や理論体系の欠落をはじめ、組織内部の個別具体的な要因や日常性が、錯綜しながら伏在していたのである。

そのような矛盾のルツボの真只中で演じられた粛清事件の根底的な要因としては、哲学の貧困、思想の未成熟に体現される「思想的敗北」をあげることができる。その不十分さが「銃による殲滅戦」という唯銃主義路線を遂行する過程において、精神主義的止揚という安易な根性論と結びつき、惨劇に至ったといえる。だから、連合赤軍の敗北の悲劇性は、他の誰よりも新左翼主義の自己貫徹をめざしながら、その主観的な極限志向が、結果的には客観的背理を演じたという事実にある、といえるだろう。

わき道にそれるが、この粛清問題に関するかぎり、ヨーロッパ新左翼とはきわめて対照的である。

ヨーロッパ新左翼は歴史的政治的「復権」を遂げて、現在的に政治の表舞台に登場し、一つの政治勢力として新たな共同体思想の獲得による歴史変革を目指して活動し得ている。この事実は示唆的である。同時期に都市ゲリラ戦を遂行した「西ドイツ赤軍」「イタリア赤い旅団」が内部矛盾の外貨減少を、ゼロとはいえないまでも、最小限にとどめたという事実は、教訓的である。このことの意味は、たんに粛清とは無縁であったという事実とどまらない。粛清の原因を軍事路線や武装闘争に求めても無意味な徒労である、という点である。その他にも身近な例がある。「人民総武装」という情況下で闘ったという立場の違いがあるとはいえ、武装闘争の最前線にあったアラブ「日本赤軍」も、武装=軍事路線→粛清とは無縁であった。

とはいえ、党派闘争や党内闘争の否定形としての「内ゲバ」「粛清」への危険性は、両者が位相を異にした側面をもっていながらも、歴史の変革主体が、主体の弱さ、困難さとして内在させている。この危険性は避けて通れない矛盾の一つである。であるにもかかわらず、未来への歴史の入り口をこじ開けるには、これらの矛盾を克服するほかはない。

かつて全共闘運動の経験を経た何人かのグル−プが、三宅島の地で、鉄道の枕木を再加工して超1級の建築物を完成させるという快挙を成し遂げた。彼らは建物を背に語ってくれたことがある。建築作業過程における類似の体験である。

「連合赤軍問題は、決して他山の石ではなかった! 協働目的を志向する際の、個の関係性を切り結ぶ日常過程で生じた深刻な実感をもった」という。

連合赤軍粛清問題は過ぎた歴史のほんの一幕に過ぎない。極論かも知れないが、半世紀に及ぶ新左翼運動の歴史年表の行間を埋める負の歴史は、党内闘争、党派闘争、内ゲバ、殺戮、粛清であった。それはいまもなお、歴史変革や日常的実践過程において共通に問われている克服すべき課題として、極限においてつながっている。それは主体の変革思想や革命観の根本に関わるイデオロギー的内実であり、共同体内の合意形成=統合の軸をめぐるヘゲモニー獲得の内実を規定するものである。また、より現在的には、変革志向の度合いに応じて生じる内在的矛盾を止揚するための作法を実践的に確立することでもある。その実践的基軸は「大同路線」である。それもたんなる数の論理や、戦術路線に還元されるべきではなくて、理念や思想の実現過程において実践的に獲得される「運動の質」である。

この個別具体的な実践過程における、個別具体的な積み重ねと総和が、歴史変革への巨大な民衆運動へのうねりをつくり出すことを可能にするはずである。(初出、『情況』08年8月号に加筆)


【塩見論文】
 蔵田計成氏に答える。「情況」8月号 「検証・連合赤軍総括から引き出す教訓と歴史的責任」 に対して

 2008年 9月 9日 塩見孝也
1.はじめに
 「情況」誌上では、これまで、僕の連合赤軍問題の見解は、この30年余同じことを言い続けているのですが、今年7月号『若松孝二、「実録連合赤軍」特集』で、結論部分を、さらっと展開した程度で、ほとんど展開していませんでした。

 しかしながら、次号の「情況」8月号では、「特集2:新左翼とは何だったのか」の中で、若松孝ニ「実録連合赤軍」批評に絡め、蔵田計成氏が「検証・連合赤軍総括から引き出す教訓と歴史的責任 - 新左翼主義の主観的極限志向の果てに演じた、客観的背理の意味」と題した文章を大上段に書いています。

 それを読んでみると、論旨の核心部分を不明にした、論理展開の仕方も整合性のない、決め付けばかりに思われましたので、それに対する「反批判」としての文章を、あえて書くことにしました。経過からして、わかりにくいかも知れませんが、「情況」8月号も合わせてお読みくださって、ご理解が得られれば、幸甚です。やや長文になってしまいましたがし、よろしくお願いいたします。

 なお、この文章は「情況」10月号あたりに掲載させていただく予定です。 ただし、枚数に限りのある「情況」の原稿では、もう少し短くまとめることになると思います。
2.蔵田氏の所論と、それに対する僕のコメント
 イ:蔵田氏は「歴史的検証」と称して、プロ通派・武装蜂起論→関西ブント・「政治過程論」→ブント再建・三派全学連→10・8・11・12闘争→第7回大会・「一向過渡期世界論」→赤軍派結成・「前段階決戦」らを蔵田流「ブント14年史」、として語り、この過程での「戦術駆使」による「行け行けどんどん」「倍々ゲーム」感覚に、「決定的問題があった。」と言う。

 しかし、何故それが問題であったのかについては、何の根拠も挙げていません。連合赤軍問題は、「同志粛清」、つまり「同志殺し」の問題であります。 これは、一般に政治・思想上の問題ですが、もっと分かりやすく言えば、民衆、人間の人間性、「命を最高尊貴し、それを社会的に輝かせる自主性」の問題に関わることであり、いってみれば、ヒューマニズムに反する行為(反ヒューマニズム、非、乃至、反ヒューマニズム、反人間中心主義、反民衆中心主義)についての問題であった、と思います。

 革命運動の大義の大義の核心はここにあります。つまり、「民衆、人間の人間性、《命を最高尊貴し、それを社会的に輝かせる自主性》」の問題にあります。連合赤軍事件は、この大義を、「同志殺し」をやることで、歴然とした形、内容において否定、裏切ったが故に、世間に衝撃を与え、民衆運動に多大な混乱と損害を及ぼしました。

 ところで、第一次ブント、第二次ブント、或いは、赤軍派は、それまで、積み上げられ、練り上げられてきた政治・思想路線、つまり上記の大義を裏切ったでしょうか。 中には、その未熟性故に、軍事至上主義的偏向や暴力的体質を有し、間違っていて、後に自己批判しなければならない問題を持った闘い、政治行動も含まれていますが、基本的に見れば、断じて、そうとは言えません。

 赤軍派の大阪戦争、東京戦争、大菩薩軍事訓練闘争、連続M作戦、6・17闘争らは未熟な武装闘争ではあれ、日本プロレタリア革命運動史上、初めて、自己の行動を権力問題、民衆権力闘争―武装闘争として、目的意識的に位置づけ、集団的、組織的に闘った闘争でした。

 また、「よど号」ハイジャック闘争は、日野原重明先生ら、乗客、乗員の方々を盾にした点では、軍事・戦術思想として、反民衆的戦術でしたし、後に、厳しく自己批判されました。とはいえ、田宮同志ら9人の赤軍派戦士達の、その無私性に基づく、勇敢さ、明晰な判断力ゆえに乗客、乗員の方々を傷つけたりすることなく、目的を貫徹しました。

 若干、敷衍すれば、革命左派の柴野君らの12・18闘争、あるいは2・17闘争も基本的にはそうでした。 
 蔵田氏は、これらのブントー赤軍派の戦いと革命左派(永田派)の2名処刑以前と、それ以降の革命左派→そして「連合赤軍派」=でっち上げの私党、『新党』の「同志殺し」を、混同してしまっています。

 僕は、2名処刑は知りませんでしたが、「統一赤軍」−野合「新党」のプロセス、間には、激しく、鋭い思想・理論闘争、政治的闘いが存在したことを無視しています。この、この、革命左派の前と後の区別ができて、いないのです。

 それ故、氏は、ブントが、たとえ、その階級基盤も、小ブルジョアの学生大衆に主要に置いていて、その未熟性と相俟って、もろもろの限界、欠点を抱えていたとは言え、いろんな困難を、乗り越え、前進し、民衆運動を発展させ、民衆も自分も革命化し、遂には、権力問題―武装闘争の地平にまで進んでいったこと、いわば世間的には「過激化」したこと、それ自体が問題である、と捉えています。

 これは、革命を目指すことを前提にすれば。仮に、蔵田氏が革命家足らんとするのであれば、とんでもない過ちと言わなければなりません。

 つまり、ブント−赤軍派−これを機軸とする新左翼運動の行き着く先、「極限」は「袋小路」であり、「同志殺し」が、始めから、約束されていたと、なってしまいます。

 革命は本質的にヒューマンなもので、かつ、それを実現せんとする「過激」性を要求します。言い換えれば、ヒュ―マンであろうとし、それを徹底して追求しようとすれば、革命を追求することになるということです。

 ところが、蔵田氏は、この、見解とは反対に、「過激化すること」が、すなわち「反ヒューマニズム(同時に、反民衆主義)を深める」、と勝手に思い込んでいるのです。

 僕の見地は、彼の意見とは全く違い、「ヒューマニズム(民衆中心主義を踏まえた、これと一体の人間中心主義)を押さえ、それを第一義に涵養してゆくものであれば、必要に応じて《過激化》することは、一向に構わないし、それは必然で、正しいことである。」「《過激化》することは、基本的に良いことだ」と言う見地です。

 一体、ブントに、基本的事柄として、反ヒュ―マンな行動が、彼のいう「ブント14年史」に存在したでしょうか。蔵田氏は挙げていません。

 第一次ブントの、反スターリン主義思想を根元に置いた60年安保闘争、関西ブントの大管法闘争や労働運動の組織化、全学連再建としての三派全学連の結成の志向、第二次ブントの全学連再建、ゲバ棒、ヘルメットで武装し、機動隊を打ち破った偉大な10・8−11・12闘争やその後のゲバ棒、火炎瓶で武装した東大闘争ら一連の戦い、――――― これらの闘いを単純に「行け行けどんどん」「倍々ゲーム」の否定的戦いとして捉えて良いのでしょうか!

 彼流に考えてゆけば、このような主張は、本質的には、穏健主義、秩序主義の賛美、而して、革命否定に行き着くことになります。

 この意味で、この小論は、現在も存在する沼地派の蒙昧極まる右翼日和見主義を表明する、最悪な文章と言わざるを得ません。
 ロ:蔵田氏は、連合赤軍事件を正面から、全然論じていません。

 今の左翼、ブント系で、まともにこの事件を論じ、解析する文章に僕は、ほとんどお目に掛かったことはありませんが、実は、氏は、永田さんの自己弁護、責任転嫁の連赤問題総括を取り入れ、世間一般にマスコミを通じて流布され、常識化されてきた、「《共産主義化》を含む過激主義、革命追求、権力闘争や武装闘争は、同志殺しに行き着く」、という俗論に立脚しています。

 そして、こういった風潮に拝跪し、これを、自分もブント(系)であるにも関わらず、「その下手人はブントであった」といっているわけです。 ≪新左翼主義の主観的極限思考の果てに演じた客観的背理≫≪「主観的には共産主義を目指しながら、結果的には「一挙的共産主義化」「敗北死」「総括」「粛清」と言う革命とは無縁な愚行を演じた。」と。

 永田(森)さんが、「主観的に、共産主義を目指していたか否か」は、怪しいものです。僕は、本質的には、個人利己主義に陥っていたと思っています。 「銃による殲滅戦」すら、味方の獄中赤軍派や獄外の同志達、或いは獄中、獄外の革命左派に向けられていたことは、すでに確認されている事柄です。

 氏は、この事実をどう見るのか。さらに、「極限思考の果ての背理」なる言辞を弄していますが、「どのような事情、構造、原因で、この“背理”が起こったのか」については、何も説明していません。「共産主義化」は、その言葉概念からすれば、何の基準、規定性も持っていません。したがって、いくらでも、恣意的な位置づけができます。この意味で、野合「新党」をでっち上げ、永田さん・森君が自己権力を固めるための、反対派の排除、抹殺、「粛清」のための道具であり、自己の権力を固め、同志、戦士たちを支配、抑圧するためのカムフラージュであったわけです。

 彼は、このカムフラージュの本質が、何であったかを見抜けず、逆に、森−永田達のこの本質を、擁護、防衛しているのです。 ここには、蔵田流の、連赤事件についての、永田さんらが、自己弁護、責任転嫁のために、ひねり出した連合赤軍事件の認識とその総括、つまり、「16の墓標」などが、暗黙の前提になっています。

 しかし、決め付けはあるが、全く、連合赤軍事件についての、具体的な事実関係の分析、検証は全くされていません。氏にあっては、連合赤軍事件では、ブント急進主義とは全く違う、「連合赤軍派」=「新党」のもう一つの主役である、革命左派の一部の永田(派)さんが主導的要因をなしていたことなど一顧だされていません。

 蔵田氏は、ブント世界だけしか、検証の視野がなく、連合赤軍事件には、もうひとつ、別の世界が存在していたことが分からないし、分かろうともしないのです。これは、連赤事件解明に於ける、絶対的に無視し得ない重大な事実関係、要因を無視する、非科学的で主観主義そのものと言えます。

 連赤事件は、森派と永田派の関係の中で、発生している以上、両者の関係の全体像を描いて、その上で、森派や赤軍派のポジションがどうであったかを、確定すべきでしょう。 先ず、氏には、こういった基本観点が欠けてしまっていることを指摘しなければなりません。

 一体、こういうやり方で、正当な連合赤軍事件の検証、総括が出来るでしょうか。全体像が欠ければ、その真相も、基本原因も見つけ出すことが出来ず、ある面では、副次的要因を、主要な要因と見誤ります。

 彼等が、ブント・赤軍派とは、全く違う世界に住み、スターリン主義を信奉、復権し、それを、先ず、2名処刑で実行し、永田さんが主導しつつ、中国革命を模倣し、山岳根拠地路線を採用し、この実績で、森派を、実質、毛沢東思想派に転向させてしまったこと、路線・イディオロギーの違う両グループが、軍事至上を名文に、野合「新党」をでっち上げ、「新党」反対派を粛清していったこと、「連赤」「新党」の残党部分が、権力に追い詰められる過程で、≪同志殺し≫の贖罪心から、日本、初の銃撃戦を闘ったこと、 これが、連赤事件の全体像であり、真相、原因と言えます。

 事件の基本性格は、大掴みに言えば、カンボジア・ポルポト派の行動に象徴される毛沢東思想−中国共産党の影響下で世界各地、中国本国で惹起された一連の国際的性格を持った「殺し」「暴行」事件の一部と言えます。

 日本の革命的左翼の主流、「過激派」は、「反スターリン主義」を掲げるブント系左翼が主流であったことは紛れもない事実ですが、ひとたび、目を世界に移せば、当時「第三世界」といわれていた地域での、「反帝・反植民地主義・反封建」の革命運動を主導していたのは、スターリン主義を否定してない毛沢東思想派であり、革命左派は、その日本での構成部分として、70年安保大会戦の中で、1970年以降、一時期ではあれ、ワンセットの「完成された」中国式、政治・軍事・思想路線を持って、強烈な衝撃を及ぼしつつ、日本民衆運動に登場してきていました。

 このような、外国権威に盲従する悪習は、日本民衆運動の中に、戦前、戦後を通じて、伝統的にあった、日本民衆運動の負の部分であり、弱さでした。 戦後の50年、第一次安保闘争の中でもありました。 後に、「所感派」と呼ばれました。

 権力問題―武装闘争の問題が提出された時、日本民衆は、自分の頭、自分の言葉で、日本民衆運動を総括しつつ判断することができないでいた、問題ですが、それが、革命左派の中で生じた、といえます。

 ちなみに、中国共産党は、ユーゴ・チトー共産主義者同盟とのスターリン主義の評価をめぐって、中ソ論争が始まる前の50年代中期から、論戦し、スターリン主義を擁護していました。

 繰り返しますが、連合赤軍問題の核心は、「急進主義、攻勢の戦略をとっていたか否か」にあるのではなく、主体建設において、「党」なるものを、民衆利益の上に置き、神格化し、そのことで、指導者を絶対化して、そのために、「同志を殺す」ことを、最高の「革命性」と思い込むこと、こういった民衆、人間の「命と自主性」を否定する、インチキ革命観、人間観、思想に関わる問題であり、つまり、スターリン主義を容認するか否かの問題であります。こういった事柄が、既に、日本民衆運動においては、克服されたように思われていました、とりわけブント世界では。

 しかし、権力問題、武装闘争の際、毛沢東の権威も加わって、革命左派の中から甦ってきた、と言えます。ブント、赤軍派潮流は、先進資本主義国の民衆、青年の感性、知性を代表し、スターリン主義を否定することでもって誕生した潮流であり、根底にヒューマンな感性、良き意味での、知性に裏付けられたロマンチシズムが存在し、「過激派」の最たる存在であったが、潮流的には、後ほど述べる、ヨーロッパ先進資本主義国の「過激派」と同質の「赤い旅団」「ドイツ赤軍」と同質な思想的質を持つ潮流であった、と思っております。

 氏の論法は、こういった世界に占める毛沢東思想派のポジションや特質とブントら新左翼系との厳然たる思想的違いを見ず、先験主義的に、赤軍派やブント潮流が「過激派であったから、“同志殺し”は起こった」と短絡的に独断し、思い込んでいるに過ぎません。

 ちなみに、赤軍派を機軸とする≪革命戦争派≫は、森君(派)が、毛沢東思想派に、実質、転向してゆくまで、数々の蜂起的闘争、武装闘争を追求しましたが、 こんなことは、起こしてないし、パレスチナ国際義勇軍を構成した、アラブ赤軍派支部(当時は、まだそうだと思います)の奥平、安田、岡本三君のリッダ闘争では、誠に、無私、ピュアーで、凶々しい限りの「同志殺し」などとはっ全く無縁な、ヒューマンでロマンチシズムの極限の様な戦いをやっています。

 氏が、「赤軍派やブントの極限志向」を問題にするなら、先ずスターリン主義の問題を押さえると同時に、他方では、このような「極限」を闘った人々の行動を指摘、論ずるべきではないか。

 離婚の際、女の側に、浮気乃至恋愛の事実があり、女の方が別れたく思っているのに、男の方は、離婚提起は、そうさせたのは自分の側の所為と一方的に思い込み、自分を責め抜くような例は良くありますが、蔵田氏の対応は、これに似通っています。
 
 何度も、繰り返しますが、蔵田氏は、「極限思考の背理」といいますが、「極限思考が何故、“背理”したのか、その原因、“背理”の構造”」については、全然述べていません。「背理」などといった、洒落た言葉を、氏は使いますが、ただ、それだけで、全然、説明できていないのです。

 僕は、そこに、『路線の相違の無視の野合』、『スターリン主義』(もうひとつ言えば、中国革命教条主義)が介在したから、“背理”したと断言できます。

 いやしくも、真に「思想運動」なら、何故、あの様な大量の「同志殺し」が、発生するのか、さらには、「新党」反対の意見書を持って行った加藤能敬君やその恋人、小嶋さんや彼等と同じ意見を持った、川島君と救援対策部として、良く会い、親密な尾崎君が、最初に「総括対象」にされたのか、全然説明しません。

 或いは、遠山さんと彼女が連れて行った進藤、行方、山崎ら三君が何故、集中的な総括対象とされたか、についても、全然説明できないのです。 こんな、一寸考えれば気がつくことが、氏には分からないのでしょうか。
 ハ:「とりわけ赤軍派議長として、総路線を敷設し、a,赤軍派結成→b,統一赤軍→c,連合赤軍へ,といたる武装闘争を、その延長線上において、d,論理的、思想的に、直接的に検した責任を負うべきは、当然であると言いたい」,僕は、蔵田氏が考える以上に、責任を取ってきたつもりですが、蔵田氏がこう言いたいのは百も承知であるが、何故そうなるかを彼は何の検証もしていないのです。

 aは事実です。しかし、b、cは、僕は接見禁止中であり、関わっていなかったが、「政治、思想第一」の僕は、共闘(連合)は是とするものの、「合流」、「新党」結成に、徹底的に反対していたわけで、永田さん、森君の「統一赤軍」、「連合赤軍」は、「新党」であり、僕が反対するのは、当然です。

 これは、獄中で、赤軍派と革命左派の諸氏が議論し、或いは、接見禁止解除後、僕と川島氏が議論し、はっきり確認したりしている、両派主流の人々の共同認識となった事柄です。

 おいおい、蔵田氏よ、何で、d,「論理的、思想的、直接的に」となるのですか?

 「論理的、思想的、直接的」とは、どんな意味の文言なのか。こんな蔵田氏発明の文言は、日本語の、どこを探しても存在しない文言である。 全く、奇妙きてれつな文言といえます。

 何故、こんな文章を書くか、といえば、彼が、上述の、スターリン主義思想の復活、復権、「野合」「新党」の強行、中国革命教条主義の基本モーメントを無視するか、入れたくないからです。

 隠れ家、軍事訓練基地を「山岳根拠地」と錯誤すること、2名処刑の決定、実行過程が、スターリン主義を復活させ、革命左派・永田派を変質させ、以降、この軌道の延長戦線上に、さらに、森君を巻き込みつつ、更なる変質を強めつつ、野合「新党」とこれと一体の「同志殺し」の事態が生み出されていったのです。

 もはや、スターリン主義を信奉していたとは言え、それは毛沢東思想の純なる信奉の故のことで、純なる人間中心主義、民衆中心主義が存在していた革命左派とは、違う集団に、それからの革命左派、永田派は変質していっている、といわざるを得ないのです。
 ニ:《無責任な「森、永田」個人責任論》、という主張について。

 僕は、永田さんのスタ―リン主義復権による主導性を主張していますが、決して彼女の個人責任、資質などを指摘したり、強調、主張してはいません。政治上、思想上での、スターリン主義信奉、毛沢東思想、中国革命教条主義が、基本原因である、という、事件の基本性格とこれに絡む政治上、思想上の問題を強調しているのです。

 氏は、僕や赤軍派や最後はブントまで攻撃しますが、肝心の永田さんや革命左派についての責任は、一言も言及していません。実際は、擁護しているのです。
 
 蔵田氏よ、なお、僕が、このような解析、総括をしているからといって、「赤軍派にまったく責任なし」と「居直っている」と錯誤したり、曲解しないで欲しい。このこともこの際、しっかり強調し、釘を刺しておきます。

 僕や赤軍派の人々(主に、後に、「プロ革派」を結成した人々を中心に)は、スターリン主義では、断じてないが、軍事至上主義的偏向、人民大衆、とりわけ、労働者階級との遊離、大衆路線の軽視を主要テーマにして、必死で、連赤事件以降、自己批判し、「プチブル革命主義をプロレタリア革命主義へ」とスローガン化して、権力問題の問題設定、国際主義の追求、武装闘争の実行の歴史的意義はしっかり押さえつつも、主として思想問題、階級依拠路線の弱さ、として、責任を引き受け、公然と自己批判し続けて来ました。

 僕は、その後も、出獄後も、僕の立場性とも関係してはいますが、自己の思想的、政治的営為の生命性を再生産してしか、生きられなかったが故に、いろんな時点で、いろんな所で、(たとえば、日の原先生のところ)自己批判し、責任を取り続けてきたと自負します。

 僕は、この30数年、自己批判し続け、それを、闘いの原動力にしてきました。今も、この姿勢は変わりません。 このことは、衆人の認めるところであり、蔵田氏は、この姿勢、方向を「新左翼運動全史」において、認め、支持してきたではありませんか。

 以上が、蔵田氏への反批判のエッセンスですが、このエッセンスに肉付けをする意味で、以下の文章を展開しておきます。その方が、蔵田氏に、答えるも礼を尽くす、事ともなりましょう。
3.蔵田氏に答える三つの観点について
 a)第一は、こういった持ち出し方についてです。

 そもそも、こういった≪ブントの歴史責任≫なる出し方は、普通、革命を成し遂げ、指導権を確立したような権威あるスターリン主義党の決議とか「党史」などで、良く使われる手法です。中国党には、中国党の歴史があり、党史も、「極左主観主義」とかの言葉も使われております。しかし、ブント系はスターリン主義ではないし、日本共産党のように、中国を真似たやり方を取るべきではありません。

 こんな手法、用語を前提にすること自体、日本民衆の闘いの歴史、ブントの歴史を一見わかった風に説明しつつも、本当はまったくわからなくさせてゆくのです。だから、ブント系左翼はこういった手法、作風から自由であるべきです。

 又、こういった形で、普遍的に問題を出し切れる、個人、グループ、政派、或いは、ネットワークはブント系に、その可能性を予感させる人、人々、グループは存在していますが、ところはあれ、今の所、在存しません。

 己の信ずるところに従って、これまでのブント運動を総括し、実践し、その実質を創出してゆくことが何よりも大切、と思います。ある面で、この言説は、ブント系の日和見主義者の沼地派の一種の政治的生理衝動といえないこともないが、蔵田氏は、沼地派すら代表してなく、彼だけを代表しているに過ぎません。
 b)第二は、連合赤軍事件を理由にし、こういった論を展開しているわけだが、その立論はお粗末の限りで、何の検証もないこと。

 連赤事件は、スターリン主義礼賛の毛沢東思想・中国革命教条主義の革命左派の一部、永田派が赤軍派の一部、森派を巻き込み、盲動主義的に惹起させた事件で、ブント、赤軍派の主要な流れとは基本的には異質な事件と考えます。

 何故なら、事件の政治的、思想的核心はスターリン思想の問題、中国派特有の「毛沢東思想は、革命闘争における精神的原爆である」といった類の、毛沢東と中国革命を金科玉条とする体質、作風、ここからの政治抜きの軍事至上主義、山岳根拠地路線の妄想やこの盲信からの、森派との野合推進、これらが基本動機、原因と言えます。

 それを、蔵田氏は強引に、無視し、ブントや赤軍派の「急進主義一般」の所為としようとしているわけです。赤軍派やブントの闘いを、連赤事件と絡ませ、その帰結と錯誤するから、こういった 2.のイのような、不自然で一面的な日和見主義の沼地派の言説が飛び出してくるのです。

 氏は、革命左派の連赤事件の事実関係の解析、永田さんらが自己弁護のために捻出した赤軍派やブントに責任転嫁した言説をそのまま鵜呑みにして、その後も発掘されてきた、革命左派、主として永田派のスターリン主義肯定、復権に基づいての2名処刑や野合「新党」でっち上げのために、この「新党」反対派を、「共産主義化」を名文、カムフラージュにして、排除、抹殺しようとした基本的諸資料、事実関係を全く見ようとしてないのです。

 この事実関係を覆す何の検証もしないまま、思い込み的に独断しているだけです。

 「反スタを掲げスタをやる」類の革共同の内ゲバ問題は、黒田哲学に起因する革共同独自の問題で、これはこれで、独自に総括されるべきであるが、このことや連赤事件を、重ねて見る、蔵田氏はパニックを起こし、赤軍派やブント系の革命闘争と混同し、味噌も糞も一緒くたにして、ブントや赤軍派の闘いを否定、清算しようとしているのです。

 ブント・ラジカリズムの70年安保大会戦における権力問題の提出、国際主義を追求した一連の革命的武装闘争は、あの奥平、安田、岡本君の無私の英雄的なリッダ闘争に極限を見ましたが、たとえ、当時の未熟性と一体の軍事至上主義的偏向故、その後、革命的に闘いつつも、敗北、挫折したにせよ、そして、二度とこういった形で追求されてはならないにせよ、日本で初めて、プロレタリア世界革命を目的として、公然と目的意識的、組織的に追及した輝ける革命闘争と言えます。

 僕はこういった革命家達の闘いを今でも誇りに思っています。従って、ブント運動やそこから生まれた赤軍派について、簡単に、「ブント運動や民衆運動後退の歴史責任」とか、「新左翼運動の破綻」とか、軽々に言い、清算して行ってもらっては、困る、と言わなければなりません。

 あくまでも、権力問題の提出、武装闘争の追求の意義を押さえつつ、ブントー赤軍派の流れの教条主義的固守でもなければ、否定、清算主義でもない、「止揚」「揚棄」「超克」「脱構築」の立場、観点、方法こそ、遵守されるべきです。

 蔵田氏はこういった感性、認識を、完全に消失してしまっているのである。このことは、総括の出発点を正しく設定していないことと関連し、いまだ、この「止揚」の政治的、思想的、理論的道筋を、氏がほとんど掴んでいないことと関連しています。 このことが、現在の「9条改憲阻止の会」における、氏の現状としても如実化している、と思います。

 こういった言説は、80年代から90年代の、世界と日本の民衆運動の後退期を反映したものでありますが、もっと長い目で見るべき、とも思います。

 世界資本主義の行きつまりが進展し、民衆運動が後退期から脱出し始めている現在、70年闘争をまともに総括し、これを、真に止揚する(超克する)主体の萌芽が、あちこちで形成される中で、こういった運動は、徐々に連赤事件とは厳格に区別されつつ、総括され、止揚された見地が、確立し、ブント−赤軍派の、その正反も含めて、総合的に、正しく復権されてゆくだろうと思っています。

 長年、連合赤軍問題、赤軍派、ブントの総括、責任を引き受けざるを得ず、また、それを引き受けてきたと自負する僕としては、それを、心底、願っています。
 c)第三は、b)でも、少し触れましたが、氏は何の責任ある総括上の指針も全く提示せず(出来ず)、ブント―赤軍派の闘いを無責任に否定、清算しているだけのように思えてなりません。
               
 氏が、まともに連合赤軍事件を検証しようとするのであれば、僕の総括を一応は紹介し、検討するぐらいの努力は積み上げるべきであろうが、それも全然やっていません。 今の時代、マルクス主義、レーニン主義を護教化するだけでは闘えず、真の意味でそれを止揚する(「超克する」、ある面で「脱構築する」)必要があります。 これは、労働者等人民大衆とともに闘い、その実践の営為から構築、創造してゆく以外にありません。 このことを、僕の連赤事件以降の思想的、政治的、理論的営為のアウトラインを提示しつつ、明らかにします。
4.補足
 以下、2点ばかり補足的に説明しておきます。
 1)連合赤軍事件の真相とその国際的性格について。

 先ず、赤軍派らブント、革命戦争派らが、あの70年安保大会戦において、日本プロレタリア革命闘争史上、初めて、公然と権力問題を提出し、目的意識的、組織的に武装闘争を闘ったこと、この画期的な歴史的意義はいくら強調しても強調したりない、と思います。

 蔵田氏は、このような意義を全く忘れるか、無視、抹殺しようとしているのです。このような、歴史的意義は、連合赤軍事件、「新党」デッチ上げとブント、赤軍派の戦いを混同しなければ、すっきりと見えて来ます。混同すれば、蔵田氏のように暗愚化し、赤軍派・ブント・新左翼の流れ、運動は不毛な「瓦礫の山」で、「袋小路」、死体処理場への道が約束されていた、と言った風な錯乱的意識、精神情況に陥ります。

 このような闘いは、「ただただの《行け行けドン》や『倍々ゲーム』を当て込んで、伊達や酔狂で出来ることではありません。日本民衆、民族の、かっての侵略戦争への正当な「国民的」規模の真摯な反省を、青年革命家たちが全存在を賭して、死刑、重刑攻撃を覚悟し、現実に実践した、内容、水準が込められています。

 日本戦後、第一期、第二期の青年であったブントや赤軍派の「社会主義革命」「世界革命」「プロレタリア独裁・暴力革命」−「反スターリン主義革命」、「過渡期世界論」「世界同時革命」「三ブロック階級闘争の結合」「前段階決戦論」などの革命的理論、路線の研鑽、創造の成果の上に到達した地平であったこと。こういった、日本民衆、ブントら新左翼の知的、理論的蓄積とその実践があったからこそ、出来た、といえます。

 武装闘争は、たとへ、それが学生大衆中心ではあれ、ベトナム−インドシナ革命を中心とする国際的、国内的な民衆運動の盛り上がりと密接に連携しつつなされていった点で、歴史的必然性があります。

 これを「主観主義」とか、「撥ねっ返り」とか、の言葉で、軽々に否定してもらっては困ります。確かに、この事件の総括は極めて困難で、一朝一夕には行きませんでした。 なぜなら、事実関係の調査が、ある面で、権力問題、武装闘争の問題レベルですから、これを調査して行く“目”の水準の問題があり、又当事者やブント系−赤軍派系の各人、各グループ、各派の政治的事情、思惑もからんで、隠蔽され、なかなか吐き出されて行かなかったことも関係しています。 だから、この事実関係の調査も時間をかけてしか進んでゆきませんでした。

 さらに、ネオリベのグローバル資本主義としての現代資本主義の新しい段階の到達、それにも基づく、世界的規模の巧妙で、計画的な、労働者等民衆を「迷妄」状態におとし込む資本の側の戦略的配置、攻撃があり、それに適応してゆくには、旧来のマルクス主義を「超克」、ないしは「止揚」の問題ともいえる、現代(先進国)革命の深く、根本的な問題が絡んでいますから、この総括過程は、長き後退戦を強いられざるを得ず、困難を極めました。

 しかし、繰り返しますが、総括の基本視点は、事件の事実関係の調査に基づくところから提出される事柄からして、この事件を主導した思潮は、ブント系の「過激主義」、ラジカリズム一般のせいではなく、スターリン主義潮流、毛沢東思想、中国革命教条主義の独自の流れから生まれた、と考えねばなりません。この事実関係の確認は、前述したように極めて重要です。

 このことを、永田さんらの居直りに乗せられて、蔵田氏のように、赤軍派−ブント系の「ラジカリズム一般」のせいにすると、ブントや赤軍派は否定され、認識上、精神上の袋小路に入り込んでしまい、ブント運動をどう止揚してゆくかの、手がかりも失い、ブントから他の潮流へ「転向」、文字通りの、資本の側への転向すら起こります。

 こういった迷妄から解放されれば、この事件が、中国派の所産で、赤軍派の一部、森派が、軍事至上主義、過渡期世界論−世界同時革命の否定、毛沢東思想への急傾斜、転向的動きと絡んではいますが、獄中にあった赤軍派主流は、思想的にも、政治的にも、理論的にも無関係なこと。森派が、永田らスターリン主義、中国派盲動主義に、政治的、思想的に屈服し、毛沢東思想派を無原則に許容して行ったことにあります。

 赤軍派を主軸とする、いわゆる「(蜂起)革命戦争派」の流れは、基本的には、イタリア「赤い旅団」、ドイツ「バーダーマインホフグループ(ドイツ赤軍派)」と同質の、先進資本主義国のマルクス主義「革命戦争派」の日本と世界の民衆が誇るべき流れでありますが、このもろもろの、武装闘争の歴史的な革命的意義と限界は、マルクス思想を信奉しつつも、その未熟性と一体の、唯軍事主義的傾向を持っていました。

 しかし、その主流は軍事第一でもって、政治路線や思想路線を否定するようなことはしていません。

 赤軍派は、スターリン主義の「一国社会主義」路線ではなく、「世界同時革命」路線であり、「民族民主主義、反米愛国」路線の「二段階」路線ではなく、「社会主義革命」路線であり、軍事的には「社会主義革命戦争」のプロレタリアートに依拠する「都市ゲリラ」戦争路線であり、山岳を根拠地とする農民に主として依拠する「遊撃戦争」路線では全くありません。

 このような路線の相違を無視し、軍事至上主義で、「新党」を無理やり追求したこと、この「野合」の政治判断の過ちは、その根底にスターリン主義の問題があるにせよ、大きな比重を持っています。

 赤軍派が、世界同時革命−国際主義を信奉していた以上、文化革命ら毛沢東の「継続革命」の影響を受けたり、「第三世界」の革命派との共闘を追求したりしたことは事実ですが、そのため、獄中でも、革命左派とも、共闘を追求し、論争をし合ったことも事実ですが、それは、良き共闘レベルの追求の範囲であり、スターリニズム批判や思想上、政治上、理論上の基本原則を軽視するもではありませんでした。逆に、共闘追求に伴う論争を通じて、主として獄中ではありましたが、外の同志もそうでしたが、双方で、合流、の方向は、厳しく否定されて行きました。
 2)赤軍派、ブント、新左翼は、どのように自己揚棄してゆくべきか。その、道筋をどう探ってゆくべきか。

連合赤軍事件の批判的総括、僕等自身の未熟性の克服のテーマの追求は、僕(ら)に、「自分にとっての革命の根拠」を問うこととなりました。

このことは、マルクス資本主義批判(経済学批判)、「資本論」の研究に至らしめ、資本主義の思想的批判、対象分析の方法、内容の獲得、そうすることによる、労働者階級の自己解放の能力、可能性、地位、役割への絶対的とも言える、全くの信頼と解放への方途の科学的獲得に至らしめました。

又他方、実践的には、労働者の生活感情、要求、労働・生活構造の知悉化要求、差し当たっての底辺労働者の解放運動への着手に至らしめました。

この思想的、政治的、理論的土台が、僕にとっては、獄中非転向闘争の土台となり、かつ、出獄後の18年の活動の土台ともなりました。

これは、マルクス思想に基づいて、まだまだ、未熟で、あやふやであった僕の思想的、理論的土台を、打ち固めてくれました。

又、その後の、哲学、人間観の確立、現代資本主義批判―現代先進資本主義国革命への接近、軍事思想、組織論の組み立て直しや民主主義論の確立、これと民族論における統一戦線論獲得のベースともなりました。 

このことは、僕にとって、連合赤軍問題総括の第二段階ともいえる水準、地平を僕にもたらしてくれました。出獄2年目、連赤事件以来20年後でありますが、その後、よりはっきりとこの道筋を確立してゆくこととなりました。

つまり、「人間の命の最高尊貴性 とそれを社会的に輝かせる人間の自主性」が、人間の本性であること。人間の労働、生産活動は、この本性を支えることとしてあること。」

人間を取り巻く、労働と生産の「社会諸関係」は、この本性、「命と自主性」を規定するものですが、より本源的には、このような社会的諸関係は「人間の命と自主性」をより良く発現してゆくために、人間が作り出していった関係構造であること。こういった事柄こそ、人間性の本質を捉える、もっとも深い基本観点であること、を自覚させてくれたのでした。

このように、僕は、僕の人間観、ヒューマニズムを措定してゆくこととなりました。

言い換えれば、マルクスの「フォイエルバッハ、第六テーゼ」の「人間とは、社会諸関係の総体である」のテーゼの「総体」の本質内容を「人間の命とそれを社会的に輝かせる自主性」として、措定し、「人間とは、命を最高尊貴し、それを社会的の輝かせる自主性をもった社会的存在」と再構成して、措定して行くこととなりました。

このことによって、現代革命による民主主義、直接民主主義、ネグリ流に言えば「権力を、労働者等民衆、人間が、そのそれぞれ性を発揮しつつ、自主的に、直接に構成してゆく問題、自主管理の問題」、民族共同体を、世界同時革命の観点で、再構成してゆく「ぱとり」論の確立、或いは、暴力論−軍事における非流血の大理念と自衛のための暴力の承認の関係、組織論における「何をなすべきか」の限界を超克する論理、ポストモダン論争における「小さな物語」と「大きな物語」の関係、マルクス思想とアナーキズムの関係ら、統一的、総合的に解析されて、捉えられてきています。

70年安保大会戦における総合的陣形が如何にあるべきであった、かも見えてきています。

こういった、問題的提起、思想的・政治的理論的営為は、僕の著作や「ぱとり」ウェブ上などいたるところで展開しています。

蔵田氏は「資本論」も読んでいず、労働現場からも何も学ばず、いわんや、真面目なマルキスト、革命家が辿りつつある、階級性の内実、思想上の人間性の措定などに下向してゆく道筋、そういったパラダイム転換などの重要性などについて何もわかっていず、予断と偏見のみを振りまいているのではないでしょうか。

また氏は、旧来の「左」「右」への往還、右往左往、そのマキャベリスティックにして、ボナパルチックな統一といった旧来の政治思考、手法から、一歩も出ることができていないのではないでしょうか。

 塩見孝也





(私論.私見)