◇ 手法上にみる問題点
『実録』を製作した若松監督は「これが本当なんだ」という映像を残しておきたい(『情況』6月号、対談)と語っている。たしかに制作意図に関する限り、予想を裏切るものではなかった。歴史の事実を掘り起こし、社会的に問題を再提起した意味はある。とくに『実録』は事件性の解明が目的であり、事件の全体像を知るための証言として、また粛清する側の「理屈」を知るうえで貴重な手がかりを与えてくれる。
ただし、この場合の手がかりとは、描かれた事実関係、論理性、言語表現が、当事者の「評価と事実認定」に耐え得るということが前提となる。
この点に関して、ある事件当事者は「事実とは異なる場面が多すぎる」(加藤倫教、同上)と語っている。はたして「事実と異なる場面」が事件の本質にどの程度係わっているのか、気になるところである。以下、3つの問題点を提起しておきたい。
第1点、映画では、当時の歴史的背景を含めて、赤軍派、日共革左、統一赤軍→連合赤軍が展開した闘争過程を、時系列として追いながら、そのままあの「粛清事件」を経て「あさま山荘銃撃戦」へと至る作戦行動を描いている。だが、あの当時の連合赤軍事件がもたらした社会的衝撃性という点に関していえば『実録』の構成手法に不満が残る。世間に報道された事件は、それとは逆な経過をたどって伝えられたからである。
実際に粛清事件の全貌を世間が知ることになったのは、あさま山荘銃撃戦が終わった後である。つまり、9日間にわたって「銃撃戦」が展開され、その直後に「粛清事件」の全貌が暴露されるという大逆転を演じた。この大逆転は、当時の権力の「意図的操作」なのか、結果的に「そうなった」のかは、明確に検証されていない。もし、権力側の世論操作であったとすれば、泳がせ論に与するような愚は避けるべきである。
それはともかくとして、当時の連合赤軍事件全体が突き出した社会的衝撃と、『実録』が描いた一連の事件発生の経過との間にある、上記のような「時系列ギャップ」のために、『実録』は、結果的には連合赤軍粛清事件の「事件性」を強調した作品にとどまっている。そのために当時を知るものにとっては、構成手法上の配慮が欲しいところである。
第2点、連合赤軍は主観的には共産主義をめざしながら、結果的には「一挙的共産主義化」「敗北死」「総括」「粛清」という、革命とは無縁と思われる愚行を演じた。この愚行を「実録」という限定的な表現手法で描くとしても、無媒介的ともいえる手法を用いで描きあげることは、反共キャンペーン映画と紙一重という危険性を犯すことになる。たとえ、同じ連合赤軍事件を描いた他の2作品とは、次元が質的に異なるとはいえ、制作者の意図が別な側面から問われるのではなかろうか。
第3点、連合赤軍粛清事件の本質を解明するには、事件は複雑であり過ぎる。観客は、事件自体がもつ荷重さのまえに圧倒される他はない。とくに、画面が次々と演じる蟻地獄の凄惨さは、正視するに耐え難いのではないだろうか。スクリーンから目をすらそうと思った瞬間もあり、いくつかの問題が派生する。
観客の私が映像を冷静に見終えることができたのは、たんに、画面に映し出されるおびただしい衝撃的な事実を脳裏に刻み込んでおきたいという、個人的興味だけではなかった。映画『実録』を観た2人の友人も同じ思いを抱いたという。主観的には革命を熱望しながら、結果として革命とは無縁な蛮行を次々と演じている場面に向かって、「そんなのは革命ではないよ」と叫びたい衝動に駆られた、という。そう思った瞬間に「ゲバラは下山したい兵士に対して、金を与えて下山させた!」という事実を思い浮かべたのであった。おそらく、その際に「画面の事実」と「ゲバラ的事実」を重ね合わせて、その2通りの事実のあいだに存在する距離感を感じとることができなければ、私達は画面から、一瞬なりとも目を背けたかも知れない。それほどまでにこの事件が内包する闇の深さは計り知れないわけである。その深さゆえに、連合赤軍粛清事件は発覚直後から、彼岸視することを拒んだ人達は、誰もが「何故か!」とばかり、自分に対してくり返して発問し続けたのではないだろうか。
『実録』は、粛清する側の「理屈」はこと細かに解説してくれるが、粛清される側の無念さ、疑問、そこに至る「粛清の論理」にまでは踏み込んではいない。そのために、「何故か!」という設問に自問自答するための確かな手がかりを与えてくれない。この点も不満として残る。とはいえ、当事者達が書き残した著述さえも他者には届いていないのが実情であれば、それもやむを得ないのかも知れない。
たとえ、制作者の主観的意図が「本当の事実を描くこと」にあったとしても、また、そこで演じられた世界を「実録」という表現形式で描いたとしても、所詮は「フィクション」という個的世界に過ぎない、という事実を認めざるを得ない。この自明な事実を前提にしたとしても、注文はつけたくなる。
作品は「フィクション」という限界を突き抜けて一人歩きし、ある領域を越えていくはずである。そうだとすれば、連合赤軍兵士達のたどった軌跡のなかの主要な分岐点を、制作者の問題意識の範囲内で提示してもいいのではないだろうか、という点である。
おそらく、連合赤軍が最悪の結末にたどり着くまでには、幾つかの分岐点を通過したはずである。その分岐点という闘争の節目や転換点において展開された論争、対立点、論理、実践に向けたひとつ一つの選択と積み重ねが、最後には「粛清の論理」をつくりあげていったはずである。その個々の推移と事実のなかにこそ、最悪の事態の「回避」に向かわせるのではなくて、最悪の事態の「受容」「選択」に向かわせた根拠が明示されているはずである。惨劇に至るまでの「謎」を解くカギもここにある。
ところが客席の私たちは、悲劇的な結末に至るまでの「選択」の検証に立ち会うことがないままに、画面が描く外形的事件を知ることになる。おそらく、そのような立場におかれた観客は、ひと息つく場所さえ見つけることはできないだろう。もし、絶望や拒絶以外に別な場所を見出すことができないとすれば、また、客席の絶望感から抜け出すための「蜘蛛の糸」にも等しい一縷の希望を見出すことができないとすれば、『実録』の意味自体を問い直すべきなのかも知れない。
◇銃による殲滅戦兵士をめざした、一挙的共産主義化論の背理性
画面のエピローグのなかで、最年少の兵士が「俺達はみんな、勇気がなかったんだよ!」と叫ぶ。このセリフによって『実録』の論理は完結する。混乱の極にあったとはいえ、事件直後の森恒夫君や板東國男君も同じような立場を表明した。加藤倫教君は前出『情況』誌上で「勇気がなかった」という発言の事実関係を否定している。
ただし、ここで質したいことは事実関係ではない。
問題はどこにあるのか。果たして、あのような奥深い山岳の閉鎖空間において、誤謬の自縛から目覚めることことに出路を求めたり、それを正す「勇気」の問題に還元することによって、主題と結論に置き換えることができるのか、否かという、粛清事件の総括の中味である。
たとえ「森=永田式総括路線」に疑問を感じたとしても、中途半端という立場は許されない。曖昧な立場は、「総括」のやり玉に挙げられるわけであり、ことを覚悟しないかぎり、疑義表明はありえない。また、その総括路線に代わるだけの体系的な論理を内心においてさえも明確に対置しえないかぎり、面従する他はない。さらに、組織の心理学的帰結としても、結果的には誤りを演じる随伴者になる他に選択の余地はなかったのである。
このことからも類推できるように、権力打倒をめざしている指導部が、逆に、打倒対象になるという逆説的事実を確信するに至るまでには、幾つかの段階を経なければいけない。
さらに、組織の指導部が銃を手段にして権力を独占し、周囲も、外形的には銃撃戦へのあふれるほどの決意性によって指導部を支えていたという情況下において、内部の権力支配に向かって命をかけで闘うことをもって、果たして真の「勇気」といえるだろうか。
この論理は字義通りの精神主義である。「天皇制ファッシズムを許したのは、それと闘う勇気がなかったからだ」という坊主懺悔に直結している。この曖昧な論理を敷衍していくと、やがては悪政を許すことさえも「勇気」の問題に解消されてしまうだろう。
権力支配と闘うことの勇気の意味を全否定するつもりはないが、歴史を切り拓く出路は、抽象としての勇気を説くことの中に見出すことはできない。勇気という思想性の高みに至る回路は、闘争の政治的社会的普遍性、全体性を実現する過程における実践と理論の相互媒介を経てはじめて、いわば「自己形成論」「階級形成論」として獲得可能である。
その意味から考えてみても、先にもふれたような「銃を持つ革命戦士」をめざした「一挙的共産主義化論」は、革命や共産主義とは全く「無縁」である。そもそも、まともな共産主義者を自認する者であれば、エゴイズムを献身に対置するような倒錯を演じるはずはない。その根拠は、以下の私見の引用である。
「わが連合赤軍兵士達は、一挙的に、献身的に自己否定し、自己実現を目指そうとしたのであった。このような教義を呪文にした修養主義は共産主義とは無縁というべきである。結社における団結の質を、歴史の現実的諸関係や交通形態から切り離して論じるような観念論や、人間の思惟、精神的欲求、関心、好み、感情の変化などの根本的要因が、社会の物質的生活のうちに根拠をもっているという基本認識を欠落させたところから説きおこす修養主義的観念論の狂態とは訣別すべきである、と考える。連合赤軍は、現代の『聖マックス』に屈服・解体されたかの如くである」(『検証 内ゲバ』03年、社会批評社)
その意味からも、「勇気」を結語にすえた『実録』は、制作者の主観的意図にもかかわらず、諸刃の剣というに等しいのではなかろうか。
◇無責任な「森=永田」個人責任論
連合赤軍問題の歴史評価や総括を基底にした『実録』への「視座」という根本に係わる議論が、元赤軍派議長塩見孝也君のかねてからの持論である「森=永田責任論」として了解されるとすれば、それは歴史責任を放棄した見解というべきである。
「僕の意見を、じっくりと、聞き届けて下さり、ほぼ95%、映画に貫かれている」(塩見孝也 朝日新聞出版、『若松孝二 実録・連合赤軍』)という感想を寄せている。
ここでいう「僕の意見」とは「塩見史観」である。彼の歴史観に関しては、過去何回かにわたって、直接確かめた。私なりに到達した結論は「武装と軍事を突き出した、赤軍結成は歴史的に正当。自分は、異質な路線が連合することに反対したにもかかわらず、連合赤軍指導部は専断した。統一赤軍結成→連合赤軍→銃による殲滅戦に至る過程で派生した問題であり、粛清事件の責任は、森=永田にある」という立場である。
多くの言葉を費やす必要はないと思う。このような論理によって連合赤軍粛清問題の総括に終止符を打つとすれば、観念における歴史的悲劇の再演どころか、歴史の喜劇を演じることになる。しかも、『実録』が、次のような塩見自画像への評価に、有力な根拠を与えているという倒置現象が生じるとすれば笑止というべきである。
「僕は、ここでは赤軍派議長として、正当な歴史的評価が与えられ、登場してきています。これは、僕が、公的に復権されることとして、終生希っていた要望の実現でした」(同)
結論を先に言えば、連合赤軍粛清事件を正当に総括するためには、「新左翼(ブント)14年史」(厳密には「新左翼17年史」)の厳密な総括なしにはあり得ない、というのが私の立場である。これが「塩見歴史観」へのアンチテーゼでもある。
いまあらためて、連合赤軍粛清問題を考えるとき、事件によって「政治を捨てた」という深刻な衝撃の余震をいまだに肌で感じている人は、決して少なくない。惨劇の教訓を闇の中に葬り去らないためにも、誤りに至る歴史過程を、相互の実践における相互の媒介過程として、正当に跡づけ、過去の痛苦な歴史の教訓を学ぶことを通じてのみ、妥当な実践的、理論的、思想的戦略論、戦術論を構築するための糸口を見つけることができる。そのことによって革命する主体の思想=魂の問題として、あの「勇気」の意味を知ることも可能である。
◇問うべき歴史責任とは何か
既述したように「闘う勇気がなかった」をもって、悲劇の教訓に代置するとすれば、それは教訓の意味をはき違えることになる。真の教訓を引き出すことを可能にする最低限の与件とは何か。それは、その悲劇をもたらした直接的、間接的な歴史責任を引き受けようとする試みの内容にある。だからといって、その責任を制作者の意図に求めるべきではないことは、いうまでもない。
責任論の次元でいえば、森君は自死をもってその責任を果たそうとした。永田君や坂口君は獄中で極刑攻撃と闘うことによって、その責任と向き合っている。塩見君も獄中20年を受容してきた。植垣君も然り。板東君もいまなお命がけの闘いを自らに課すことによって、責任を果たそうとしている、と思われる。その家族さえも、責任を引き受けた。
政治的には赤軍派とほとんど無縁であり、戦術路線に対しても批判的でさえあった私自身、当時、入山直前に背広姿の森恒夫君、山田孝君等の自宅訪問を受けたことがある。後日の新聞報道ではじめて彼らの氏名を知った程度の関係だが、私の政治的立場は、あくまでも「大衆的街頭武装叛乱」を上限の形態とするという政治路線上の立場であった。そうした状態のなかで、何らの政治的一致点をもたない私達数名(菅孝行、丸山照雄、小沢遼子、松沢哲成等)も、事件が発覚した直後、いち早く「連合赤軍公判対策委員会」を立ち上げた。嘲罵の集中砲火の下で、「内乱罪適用」を弁護方針に掲げて初公判に備えることによって、自己の政治的社会的な責任を果たそうとした。この例にもあるように責任の果たし方はさまざまある。
『実録』の副題は『あさま山荘への道程』となっており、連合赤軍の過去の歴史過程のなかに、粛清の根拠を求めるという問題意識を出発点にしているが、そのような作品に対する映画評論上の評価や議論の内容に関してさえも、責任の所在は明確である。
繰り返すようであるが、事件に対する直接的な責任は、当事者の側にある。とりわけ赤軍派議長として、総路線を敷設し、赤軍派結成→統一赤軍→連合赤軍へと至る武装闘争を、その延長線上において論理的、思想的に直接牽引した責任を負うべきは、当然であるといいたい。
そのような言い方が酷いというのであれば、別な表現におき換えてもよい。つまり「森=永田責任論」を主張する塩見流総括の論理構成自体が、必然的に「勇気がなかった」という「勇気非在論」に、帰結させざるを得ない。その責任は見過ごすべきではないだろう。
責任論に関する限り、必ずしも当事者という特殊個人にとどまるものではない。第1次、第2次ブント結成を経て、赤軍派登場、連合赤軍結成、粛清(敗北)に至るブント14年間の歴史の担い手たち一人ひとりが、共有すべき歴史責任として自らに問うべきである、と言いたい。
「自分とは無縁だ!」と主観を弁じようとも、かつて、新左翼総体の戦列に加わったという事実、武装闘争へ寄せた漠たる期待感を抱いたという事実を消すことはできない。その延長線上で生起した直接的、間接的結果を含む過去の歴史に対しては、無関心を決め込むことはできても、過去の関係性を切断することはできない。少なくとも、そのかぎりにおいて当事者性に応分した責任は引き受けるべきではないだろうか。
敢えて想起してもらいたいことがある。あの「あさま山荘銃撃戦」の現場中継の画面の前で固唾をのんだ記憶を呼びさまして欲しい。9日間もテレビ中継に釘付けにしたものは何か。何が最高98%という異様な視聴率を記録したのだろうか。極論すれば、攻防の結末に食い入った度合いや、かつて赤軍派を生み出し、磁場を支えた分量だけでも、その責任の引き受け方があるのではないだろうか。
私達が、この期に及んでさえも背負うべき歴史責任とは「16の墓標」が刻んだ闇に伏在する歴史の真実を知ることでもある。そのことによって、真の教訓を引き出すことができる。その歴史課題はいまも野ざらしのまま残されている。
そのアプローチに必要な直近の手がかりは「新左翼(ブント)14年史」(日共革左の総括は当然)にある。58年第1次ブント結成から、72年連合赤軍敗北によって新左翼は、確実に一つの幕を閉じた。その前史を含めた新左翼(ブント)14年間の歴史過程の総括こそは、連合赤軍粛清事件を総括する上で、方法論的キーワードでもある。さらに、日共革左の独自総括も必要であるが、その指導メンバーの多くがブント系諸派を経ているという事実は、重要な意味をもっている。
なお、新左翼史の厳密な対象は、55年体制・日共6全協以後の、革共同、ブント、社青同、構造改革諸派、中国派系ML派、それに赤軍派と合流した日共革命左派神奈川県委員会=京浜安保共闘を含めた新左翼運動総体である。その意味では、「新左翼(ブント)14年史」というよりも「新左翼17年史」とすべきである。その場合は、一般的な「内ゲバ論」、革共同(黒田)主義に固有な側面をもつ「革共同・内ゲバ論」、連合赤軍「粛清論」を区別しつつ、併論することにもなるだろう。だが、ここではブント=赤軍派に限定して問題を提起してみたい。
◇60年安保闘争の総括における新左翼=ブント主義の問題点
冒頭に指摘しておきたいことは、60年安保闘争史に新しい事実関係を追加して、従来通りの現象論的な総括の上に「厚化粧」を施して、新左翼主義を論じることの無意味さである。何が厚化粧か、それを詳論するには多くの紙幅が要るので別稿にゆずるとして、以下は問題提起である。
連合赤軍粛清問題の起点ともいうべき最初の一行は、新左翼創成時点にまでさかのぼる。とくに運動組織論に深く係わる。
例えば、革共同の前衛党論=党組織論は「党のための闘い」論であり、党組織の拡大と発展を優先させた。これに対するブント前衛党論(党建設論=建党組織論)は「闘うための党」というというものであり、党組織の拡大よりも闘争の発展を優先させて、自己の最大の党派性として、革共同組織論に対置したという特徴をもっている。この前衛党論をめぐる両者のせめぎ合いが、新左翼運動の現代帝国主義論と並ぶ運動論上のモチーフでもあった。
さらに、ブントはこの前衛党論に加えて、「ブント主義」ともいうべき運動組織論があった。学生運動における「労学提携=同盟軍規定」にはじまり、「学生運動先駆性論」「捨て石運動論」といわれた革命求心主義路線があった。真の前衛党創成をめざしたブントは、全学連の学生運動に仮託して独自の運動を展開し、その急進的路線を疾駆したのである(これと似たような路線の呼称には、60年三池闘争において協会向坂派が用いた「一点突破全面展開」という用語がある)。
60年安保闘争においては、文字通り身に寸鉄を帯びないというにふさわしく、スクラムとジグザグデモを闘争手段にして「街頭実力闘争」を展開した。国民共闘会議の戦術方針や場所の設定よりも、一歩だけ「左」に戦術設定し、ひたすら自らの闘争を起爆剤と位置付けて、戦術形態をエスカレートさせていった。この闘争志向におけるエスカレート過程は、「行け行けドンドン主義」ともいうべき戦術的極限志向であった。その意味で、運動の幾何級数的飛躍をめざす「倍々ゲーム論」ともいえる。
極端な言い方ではあるが、この「倍々ゲーム路線」を継続するためには、決意性をかき立てることによってつくり出す「組織の共同幻想」に依存せざるをえない、という危険な仮構性を内包していた。とはいえ、このブント流の新左翼運動組織論は、極限形態において「6/15国会突入闘争」を打ち抜くことに成功した。その結果、「33万人の国会包囲デモ」を先導するという歴史的金字塔を打ち立てたのである。
ブント=全学連が闘った主要な闘争は4つある。その闘争は、正負の二面性を内包していた。また、その闘争を実現しえた背後には、目的意識性や論理性の他に、偶然性や幸運が介在していた。概括的に付記すれば、以下のような特徴点をもっていた。
1/27 国会構内大抗議集会:国会正門のカンヌキは野次馬の手ではずされ、デモ隊員全員が国会請願を実現した、という偶然性もあった。
1/16 岸渡米阻止羽田闘争:無血・奇襲作戦の成功が社会的衝撃をもたらした、という幸運。
4/26 国会正門前バリケード突破闘争:学生運動の先駆的闘争によって血路を切り開く闘争路線(3000名労働者部隊によっても可能という路線)の挫折によってブント政治局は解体した。
6/15 国会突入闘争:6/10ハガティー阻止羽田闘争の偶発的爆発と成功に触発されて、ブント=全学連が打ち抜いた闘争。この闘争を起爆剤として「6/18岸内閣打倒・国会解散・安保採決不承認・不当弾圧抗議」33万人国会包囲デモが実現。岸内閣打倒により「9条改憲路線」は挫折。
このように60年安保闘争における特徴点は、それらの闘争の成功が、さまざまな幸運や偶然性を「奇貨」としつつ、にもかかわらず、その政治的社会的高揚を歴史的に体現するものとして、目的意識的に自己貫徹することによってはじめて実現可能な闘争の結果であった、という点にある。
ところがブントは、厳密な総括をなし得ないまま自壊した。このあっけない崩壊によって、歴史における幸運や偶然性という特殊要因を捨象して、一般化した総括の余地を残すことになってしまった。その結果、「負の側面」が抉り出されないままに、「正の側面」だけが「ブント主義」として論理的・思想的に定式化されたこと。しかも、戦略・戦術路線の教条主義的エスカレートに帰結する論理的根拠を与えてしまった、ということである。
典型的な例は「プロ通派」(プロレタリア通信派)の総括にみることができる。第1次ブントが3分解するなかで、「産湯とともに赤子を流すな」という立場を出発点にして、「武装蜂起の思想の常識化」という結論を引き出した。つまり、60年安保闘争においては6/15国会突入闘争から、次なる6/18再突入によって政府危機から政治危機をつくり出せなかったのは「武装蜂起の思想がなかったからだ」という総括にたどり着いてしまった。
そのような総括が登場する議論の背景には、東大細胞意見書があった。東大細胞は60年安保闘争総括として、いち早く「6年安保批准阻止闘争を敗北に導いたのは、6/18再突入ができなかった、姫岡怜治の自己金融論における国家独占資本主義論にみる日和見主義があった」と主張することによって、ブント崩壊の直接的な引き金の役割を果たすことになった。このプロ通派の総括は、この6/18再突入路線論争をめぐる学生ブント内の論争を色濃く反映していたのである。
「反東大フラク」として出発した「プロ通派」には、ブント=安保全学連の闘争を1年間にわたって指導してきた現役の学連指導部のうち11名中8名が結集した(学連書記局員のうち7名が東大本郷・駒場細胞の出身。それ以外の3名中、唐牛と篠原は戦旗派に、蔵田は革通派に合流)。
そのように学連書記局員を中心にして結成された「プロ通派」は、武装蜂起論に還元させて60年安保闘争を総括した途端に、挫折し、自己破産を宣告することになった。最後には、新たな「分派」(共産主義の旗派)結成を主張する3人衆に合流するか否か。それ以外に残された道は二者択一であった。革命を捨てるのか、捨てないのか。革命を捨てることを峻拒したカードル達は、結局は革共同全国委=探究派の軍門に降っていく他はなかった。
探究=黒田派は、60年安保闘争の全過程を通じても、決して身近なライバルではなかった。むしろ、6/15国会突入闘争を経てもなお侮蔑の対象でしかなかった。だから、その過去の「正当性」「妥当性」を理論的思想的基準にするわけにはいかなかった。唯一の基準は「論理的な整合性」であり、ある種の体系化された総括として己を納得させたに過ぎないのである。この論理的整合性を選択の判断基準にして、「半ば死ぬ思いで合流した」と語った旧友の後日談は、ある側面の真実を物語っている、といえるだろう。
そのプロ通派の総括を受け継いだ形の「京都府学連」(関西ブント)は、「政治過程論」を提起した。その内容を規定したものは、京都の学生運動が首都圏の闘争の実相を遠望する立場にあったという地政学的事実とは、相対的に無関係と思われる。むしろ当時のブントの問題意識と総括水準を反映していたというべきだろう。
首都圏の学生運動は「挫折感」を思い知る他はなかったが、多くのブント=社学同活動家達は、指導部を中心にしたブント内の党内闘争とは距離をおいて、6/15闘争直後の三池炭坑闘争、新島ミサイル基地反対闘争に参加した。とくに、革通派主導の「10/30池田内閣打倒全国学生ゼネスト」における首都圏の闘争においては、「マル学同ナンセンス!」という心情が、唯一の党派性となって多くの学生活動家を支えた。探究派「黒田組織論」「反帝反スタ論」など一顧だにしないという雰囲気であった。
首都圏学生細胞以外には、ほとんどの地方ブント組織は戦術論争を総括の軸にはすえなかった。機関紙「戦旗」を通じて流される綱領問題に関する根底的な総括に興味を示した。そうした地方組織のなかで関西ブントは唯一の例外であった。とくにブント=京都府学連は、運動論、運動組織論に関して独自の総括を獲得することによって、60年代においても60年安保闘争に倍する学生運動の健在を誇示することができた。
「政治過程論」は、他の分派からは「戦略論なき戦術論」と批判された。しかし、60年安保闘争がもつ歴史的意味、戦術的意義を総括するうえで、重要な政治的役割を果たしたことは確かである。
「政治過程として解明する中で、政治闘争の質的発展にとって決定的に重要なものは戦術である」として、「政府危機をつくり出す革命的戦術の導入」を強調して、「大戦術」「小戦術」を提起したのであった。なお、関西ブント「政治過程論」を色濃く継承したのは、赤軍派の「攻防の弁証法」「攻撃型階級闘争論」「前段階武装蜂起論」であった点は、意味をもつ。その継承性の内容に関しても別稿で論じることになる。
さらに、関西ブント「政治過程論」が参考にした主要文献は、ロシア10月革命の研究を中心に、マルクス「フランスの内乱」、レーニン「マルクス主義の三つの源泉:」などであった。また、「政治過程論」の基底的前提に欠かせない独自の資本主義論、現代帝国主義論はなかったが、初期ブント同様、基本的には宇野経済学に依拠していた。
資本主義現状分析では、東大細胞を主体にした「革命の通達派」(のちマル戦派)が、「世界帝国主義論」によって革命戦略綱領を構築しようとした。しかし、世界帝国主義論は、60年代の高度成長期の実態や現代資本主義の世界支配の構造を、分析的に提起できなかった。60年に「所得倍増政策」をひっさげて登場した池田内閣の財政政策に対しても、対決方針を提起することはできなかった。他の新左翼諸党派も同様であった。
その他、首都圏旧第1次ブント細胞でも、革共同「反帝反スタ論」に対抗してトロツキーの永続革命論を再検討したことなども、関西ブントの総括とは対照的であった。
いずれにせよ、強調しておきたいことは、第2次ブント結成から連合赤軍結成にいたる過程を知るうえで、「政治過程論」は重要な結節点になったという点である。先にみたように関西ブントが果たした歴史上の役割は重要であり、過小評価すべきではない。ブント結成から60年安保闘争に至る「ブント14年史」の「前期」(58年〜60年)から、「安後世代」(安保闘争後の世代)と称した60年代にいたる14年史の「中期」(61年〜67年)をつないだ、有力な理論的媒介項となったことも、その一つである。
◇70年安保・沖縄・全共闘運動における運動の転換
新左翼の両輪ともいえる全学連・反戦青年委員会は、67年「10/8佐藤ベトナム訪問阻止羽田闘争」において、歴史的再登場を果たした、という見方は通説になっている。今は亡き政治指導部の一人が「青空が出現したような光景」と述懐したように、その前史は、7年間の苦闘の歳月であった。その苦闘の末に実現した歴史的再登場の意味については、必ずしも統一的見解はない。2点だけ指摘しておこう。第1、ベトナム民族解放闘争への国際的実践的連帯を実現したこと。第2、新左翼運動史上初めて「武装」の問題に直面する闘争になったこと。とくに、第2点はその後の軍事エスカレートの起点として重要な意味を持っている。
結果的にはこの10/8街頭実力闘争においては、その後に登場したジュラルミン盾と棍棒に象徴される「権力」「反革命暴力」に対する「武装の質」へ向かう転換点となった、といえるだろう。ブント内の一部では、新しい歴史的地平を切り開いた闘争として跡づけ「組織された暴力」「国際主義」と総括した。
だが、実際にはこの総括は「結果論」(府川充男、『情況』6月号)であった。この日の街頭実力闘争の場に初登場した「角材」は、対権力用ではなくて、完全に内ゲバ用であり、対権力との闘争に転用されたに過ぎない、という偶然性があった。ただし、秘密裏の戦闘作戦が成功したという「組織性」の一点においては、闘争の質的転換点であり、量的飛躍を含めて戦術的な意味を持っていたことは確かである。その点を含めて歴史的闘争であった。
その後、闘争の形態や規模は限定的とはいいながらも全学連、反戦青年委員会、全共闘、べ平連市民運動の領域に拡大していった。世界的にはベトナムにおける植民地革命戦争を頂点にした国際反戦運動の高揚、先進国における「68年革命」として総括されている都市ゲリラ戦=武装闘争が展開された。
こうした世界的規模の反戦闘争が高揚するなかで、国内では街頭武装叛乱、解放区、学園占拠闘争などの公然・非公然の大衆的街頭武装闘争が組織されていった。闘争形態に関しては、街頭実力闘争から街頭叛乱型武装闘争、非公然武装闘争へ拡大・発展した。党組織論に関しては、建党・建軍路線における大衆武装、地下軍事組織の問題を内包させながら「武器」の質的転換を含めて、「建党」「建軍」「戦略路線」「戦術形態」の転換を遂げた。さらに闘争組織形態に関しては、前衛党型組織論に対して、セクト、広範なノンセクト・ラディカル、黒ヘル集団、パルチザングループなどが合流した全共闘運動として、コンミューン型組織形態論の質をめざした。
このような爆発的な運動の展開過程のなかでブント「赤軍派」が結成された。「過渡期世界論」「攻撃型階級闘争論」「前段階武装蜂起論」を戦略ベースにして、「大阪戦争」「東京戦争」の名による交番襲撃、銃奪取、大菩薩軍事訓練、首相官邸武装占拠(構想)、「ハイジャック」「M作戦」「国際根拠地建設」路線など、武装=軍事エスカレーの一途をたどっていった。大衆闘争の場から召還し、戦闘集団へと組織純化したのである。この内容や路線の総括が、60年代の世界史の発展過程・形態の実態分析を含め国際階級闘争の根底的な解析のなかで検討されるべきである。
このような闘争の武装・軍事的飛躍過程は、明らかにブント主義的戦術の一面的な肥大化、「行け行けドンドン主義」「倍々ゲーム路線」」「戦術的極限志向」の過程であり、上記の検討を通してはじめてその功罪も解明されるはずである。精緻な総括は当事者をして語ってもらう他はないが、少なくとも、その原像には、第1次ブント結成を経て、ブント主義として関西ブントによって定式化された「政治過程論」「戦術志向への論理」があったことは既述した通りである。
だから、たんに問題はそのブント主義としての「革命求心主義」にあるのではない。それを自己貫徹するための諸条件の分析、方法、手段、可能性、展望に対する厳密さに欠け、主観主義的独善に媒介されて全面開花した、という点にある。そのなかで戦術目的、戦闘目的、戦略論、革命の根拠なども鮮明にすべきものとして総括すべきなのである。
「武装=軍事」を実行するには、自分たちが描く小国家像を提示し得るだけの、相対的な社会的政治的力量の獲得が不可欠な条件である。この点については、早くから榎原均が指摘していた通りである。ゲバ棒、鉄パイプ、火炎瓶という自衛武装の領域から、爆弾、銃器による「革命戦争」へと突き進むなかで、それが局地的ゲリラ戦による先端攻防であれ、全面的階級戦争であれ、また、プロ独の立場か、その否定の立場かを問わず、変革・革命運動の根本問題を含めて、政治目的、社会的条件、必然性、可能性は不断に、組織の内外に向けた疎通と合意獲得への試みを必要とする。その場合でも、目的意識性と社会的合意形成は表裏の関係にあり、対立概念としてとらえるべきではなく、独善を排した止揚概念としてとらえるべきであることはいうまでもない。
ところが、闘争の形態や武器質の転換過程においては、観念としての、また、論理としての「正当性」「整合性」「戦闘性」「左翼性」が、その戦闘的急進性ゆえに、価値付与され、政治的にも、党派的にも優位に立つ。その過程で必然的に左派のヘゲモニーが増大する。路線や戦術は歯止めを失い先鋭化の一途をたどっていくことは必定である。
また、主観主義的論理や、恣意的分析と思しき度合いに逆規定るかのごとく、現実とのズレや、普遍性・全体性の獲得という政治的社会的制動を背後に受けながら、現実の大衆闘争や大衆自体との接点の度合い、他者不在の度合いに応じて、論争は空中戦を演じることになる。最後的には社会的政治的接点切断したその瞬間から、閉鎖空間という独自の世界において自己運動をはじめ、唯軍主義路線は否定的な方向へと自己を純化していくほかはない。
統一赤軍→連合赤軍→粛清→銃撃戦という悲劇の結末は、「革命戦争」として銃による殲滅戦を自己目的とした「唯軍主義路線」「唯銃主義路線」と、その論理と思想の延長線上において引き起こされたことにある。
すでに指摘したように、連合赤軍兵士達は、軍事作戦の遂行を可能にするためには、自己犠牲、献身、英雄主義が不可欠であるとして、「銃を持つ革命戦士主体の形成」と称して、「一挙的共産主義化論」という超主観主義的観念論をつくりあげた。
この「共産主義化論」は先行的に提起されていたというが、すでに、その時点において破綻を宣告されたも同然である。「建党・建軍・階級形成論」に代置して、現在的には観念世界において実現可能な哲学を、自己=他者に強要するという芸当を演じようとして、「仮構の空間」「幻想の共同性」をふくらませていった、といえるだろう。いわば、観念世界における「共産主義化論」は、その極点において容易に否定的事態を予見させる。武装=軍事路線が胚胎する困難と危険性がもたらす相剋は、「粛清」という最悪の危険性を内包しつつ、全面的に外化するほかはないからである。
その背後には、政治路線の不一致や理論体系の欠落をはじめ、組織内部の個別具体的な要因や日常性が、錯綜しながら伏在していたのである。
そのような矛盾のルツボの真只中で演じられた粛清事件の根底的な要因としては、哲学の貧困、思想の未成熟に体現される「思想的敗北」をあげることができる。その不十分さが「銃による殲滅戦」という唯銃主義路線を遂行する過程において、精神主義的止揚という安易な根性論と結びつき、惨劇に至ったといえる。だから、連合赤軍の敗北の悲劇性は、他の誰よりも新左翼主義の自己貫徹をめざしながら、その主観的な極限志向が、結果的には客観的背理を演じたという事実にある、といえるだろう。
わき道にそれるが、この粛清問題に関するかぎり、ヨーロッパ新左翼とはきわめて対照的である。
ヨーロッパ新左翼は歴史的政治的「復権」を遂げて、現在的に政治の表舞台に登場し、一つの政治勢力として新たな共同体思想の獲得による歴史変革を目指して活動し得ている。この事実は示唆的である。同時期に都市ゲリラ戦を遂行した「西ドイツ赤軍」「イタリア赤い旅団」が内部矛盾の外貨減少を、ゼロとはいえないまでも、最小限にとどめたという事実は、教訓的である。このことの意味は、たんに粛清とは無縁であったという事実とどまらない。粛清の原因を軍事路線や武装闘争に求めても無意味な徒労である、という点である。その他にも身近な例がある。「人民総武装」という情況下で闘ったという立場の違いがあるとはいえ、武装闘争の最前線にあったアラブ「日本赤軍」も、武装=軍事路線→粛清とは無縁であった。
とはいえ、党派闘争や党内闘争の否定形としての「内ゲバ」「粛清」への危険性は、両者が位相を異にした側面をもっていながらも、歴史の変革主体が、主体の弱さ、困難さとして内在させている。この危険性は避けて通れない矛盾の一つである。であるにもかかわらず、未来への歴史の入り口をこじ開けるには、これらの矛盾を克服するほかはない。
かつて全共闘運動の経験を経た何人かのグル−プが、三宅島の地で、鉄道の枕木を再加工して超1級の建築物を完成させるという快挙を成し遂げた。彼らは建物を背に語ってくれたことがある。建築作業過程における類似の体験である。
「連合赤軍問題は、決して他山の石ではなかった! 協働目的を志向する際の、個の関係性を切り結ぶ日常過程で生じた深刻な実感をもった」という。
連合赤軍粛清問題は過ぎた歴史のほんの一幕に過ぎない。極論かも知れないが、半世紀に及ぶ新左翼運動の歴史年表の行間を埋める負の歴史は、党内闘争、党派闘争、内ゲバ、殺戮、粛清であった。それはいまもなお、歴史変革や日常的実践過程において共通に問われている克服すべき課題として、極限においてつながっている。それは主体の変革思想や革命観の根本に関わるイデオロギー的内実であり、共同体内の合意形成=統合の軸をめぐるヘゲモニー獲得の内実を規定するものである。また、より現在的には、変革志向の度合いに応じて生じる内在的矛盾を止揚するための作法を実践的に確立することでもある。その実践的基軸は「大同路線」である。それもたんなる数の論理や、戦術路線に還元されるべきではなくて、理念や思想の実現過程において実践的に獲得される「運動の質」である。
この個別具体的な実践過程における、個別具体的な積み重ねと総和が、歴史変革への巨大な民衆運動へのうねりをつくり出すことを可能にするはずである。(初出、『情況』08年8月号に加筆)
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