連合赤軍考概略

 更新日/2023(平成31.5.1栄和改元、栄和5)年.1.21日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「連合赤軍考概略」をものしておく。「どーか誰にも見つかりませんようにブログ」の「日本赤軍と連合赤軍~8」その他参照。

 2008.1.29日 れんだいこ拝


【結成前の両派の足取り】
【革命左派】  1966.4月、社学同(社会主義学生同盟)ML派の元委員長・河北三男と東京水産大卒で、後援会費闘争を指導していた川島豪(岐阜大中退、東京水産大)が「警鐘派」(機関紙名がグループ名)を創立する。中国のプロレタリア文化大革命を熱烈に支持し、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想を指導理念とし、プロレタリア独裁の旗を掲げた。

 川島豪が次第に理論的指導者となる。川島の持論は、「革命は労働者階級から盛りあがる力によってなされるもので、労働者の苦労を知らない革命家は真の革命家とはいえない」で、これにより学生は学業を捨て、進んで労働者となった。
【革命左派】  1967年、プロレタリア文化大革命の評価を廻って日中共産党が対立し、日共(宮顕派)が党内の親中共派を除名する。中国のプロレタリア文化大革命を支持して日共を除名されたグル―プは様々に分岐する。この流れから「銃口から政権が生まれる」という毛沢東思想に基く武力革命を呼号する「神奈川左派(日本共産党左派神奈川県委員会)」が創設される。
【革命左派】  1968.3月、「警鐘」が、「神奈川左派(日本共産党左派神奈川県委員会)」と組織合同する。最高指導者は小林赤彦。
【赤軍派】  1968.12月、ブント内で、さらぎ徳二、松本礼二ら関東派と塩見孝也、高原浩之ら関西派の対立が深まり、関西派が主流派から外されていった。

 【1969年の歩み】

【革命左派】  4.12日、日共左派神奈川県委員会で、米軍基地攻撃など過激な武装闘争を主張する川島豪グループと、従来の「新聞発刊」を組織建設の要として「党建設」を重視すべきであると主張する望月登グループ(木下(川北)派)との間で対立が起こり、川島グループが、「日本共産党(革命左派)神奈川県委員会」(通称「京浜安保共闘」、代表・川島豪、機関誌・解放の旗)を結成して分離独立した。こうして、「神奈川左派」から「革命左派」が分裂した。

 表向きには横浜国立大・石井勝を常任委員長に、妻の石井功子を副委員長にすえていたが、実際は社学同ML派から「警鐘」経由で「神奈川左派(日本共産党左派神奈川県委員会)」に合同した川島豪が指導していた。

 他に労対に坂口弘、機関紙に柴野晴彦(後に上赤塚派出所襲撃事件で死亡)、大衆組織に東京水産大・中島衝平(真岡・猟銃強盗事件で逮捕)が分担していた。この常任委の下には「日本青年共産同盟神奈川県委員会」(青共同)と、秘密組織の軍事委員会が置かれていた。

 創設当時はあくまでも労働運動中心だったが、川島が次第に武装闘争支持路線に傾いた事により軍事的闘争に手を染めるようになる。川島は、ML派との党派闘争以降、一路左傾する。人民軍創建-「遊撃戦争路線」を提唱し、米ソ大使館火炎瓶闘争や愛知外相訪米・訪ソ闘争を提唱する。
【革命左派】  4.20日、革命左派が、5、60名の参加で京浜安保共闘の結成大会を開く。
【赤軍派】  4月、第二次ブント共産同関西派の塩見派が最初の会合を持つ。
【赤軍派】  4.28日、「沖縄闘争」。その総括をめぐって第二次ブント共産同内に深刻な対立が発生した。共産同主流派も含め新左翼各派が自画自賛的に「闘争は勝利した」旨総括したのに対し、最過激派に突出し始めた共産同の塩見派は、「67.10.8羽田闘争以来の暴力闘争が巨大な壁に逢着した」(69.10「理論戦線」9号)として敗北総括し、「11月決戦期に、これまでどおりの大衆的ゲバ棒闘争を駆使しても敗北は決定的である。早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起すべきである」(前記「理論戦線」9号)と本格的軍事路線化を指針させた。

 この塩見理論が、「暴力闘争の質的転換の是非」をめぐる党内論争に発展 し、主流派の仏(さらぎ)派が「時期尚早」としたことから組織分裂が決定的になった。これが「ブント大分派闘争」の始まりとなる。塩見派は、共産同から分立し関西派→赤軍派の結成に向かうことになった。
【赤軍派】  5月、第二次ブント共産同から関西を中心とする軍事武闘路線派が分派宣言し赤軍派(議長・塩見孝也)を結成した。塩見議長(京大)の下、京大、同志社、立命を中心とする関西系の約400名の活動家が結集した。これを仮に関西系塩見派と命名する。
【赤軍派】  赤軍派が「赤軍派通達」を発行。
【赤軍派】  7.2日、共産同関西派の「マル秘通達」が関東派に伝わり、関東派の議長・仏徳二はこの日、関西系塩見派を除名にする声明を出した。これにより関西、関東の両派の対立は激化することになった。
【赤軍派】  7.5日、関西系塩見派150名が、明大和泉校舎でブントの拡大中央委員会を急襲した。ブント議長・仏(さらぎ)徳二氏を拉致・監禁・リンチして重傷を負わせ、その結果、さらぎ議長は逮捕される。この事件が「ブント大分派闘争」を不可逆的なものにした。
 急を聞いて駆けつけた関東派が、東京歯科大学にいた塩見たちを襲い、関西派の29名を捕虜とした。自己批判に応じた25名を釈放し、塩見、花園紀夫、望月上史、物江克男の幹部4名が1号館4階の法学部長室に監禁された。3週間後の7.24日、監視の隙をつき、消火用ホースとカーテンを使って外壁を伝い脱出。この時、望月が転落し、2ヵ月後の9.29日、意識不明のまま死亡した。
【革命左派】  7月、「革命左派」の軍事委員会が創設され、キャップ・内藤(後に脱落)、石井勝、坂口、柴野らが指導部を構成し、「米軍基地などを攻撃目標にして反米愛国闘争をすすめねばならぬ」として「反米愛国行動隊」が編成された。その中に坂口、吉野、寺岡らがいた。米、ソ大使館同時火炎瓶襲撃はその第一戦であり、ソ連大使館を襲ったのが寺岡だった。
【革命左派】  8.14日、「革命左派」の大衆組織「京浜安保共闘」が結成される。青共同の行動部門として組織されたもので、青共同の議長を兼ねる坂口が指導者となって、「京浜労働者反戦団」、「学生戦闘団」、「婦人解放同盟」、「反戦平和婦人の会」の3組織に共闘体制をとらせたものだった。さらに救援対策組織として「神奈川人民救援会」があった。京浜安保共闘は赤軍派に比べ女性の台頭が目立つ組織で、永田口洋子、石井功子、川島陽子が「京浜安保のおんな3戦士」と評されていた。
【赤軍派】  8.22日、ブント第9回大会で関西系塩見派13名が除名された。
【赤軍派】  8.26日、塩見孝也を議長とするブント(共産主義者同盟)「関西派」は、神奈川県城ヶ島のユースホステルに集まり、「共産同赤軍派」を独立させることを正式に決定した。政治局員は、塩見孝也、高原浩之、八木健彦、田宮高麿、上野勝輝、花園紀男、堂山道生の7名。

 赤軍派は、共産同ブント「関東派」(戦旗派、叛旗派、情況派)の「大衆的ゲバルト」の延長上で革命を夢見る理論を批判し、「革命の決め手は大衆」ではなく軍である」とする「塩見理論」を掲げていた。赤軍派の指導者となった塩見孝也氏は当時、組織内で「日本のレーニン」と呼ばれており、その理論は「一向一揆論」と名づけられて高い評価を受けていた(塩見氏のペンネームは「一向健」)。

【赤軍派結成】
 8.28日、共産主義者同盟赤軍派結成総会開催。塩見孝也、高原浩之らの共産同少数派は、新たに「共産主義者同盟 赤軍派」を発足させた。この時の政治局員は、議長・塩見孝也(京都大学)、局員・田宮高麿(大阪市立大学)、上野勝輝(京都大学)、堂山道生(同志社大学)、高原浩之(京都大学)、花園紀男(早稲田大学)、八木健彦(京都大学)の7名。

 その建軍アピールにおいて「革命の軍団を組織せよ!すべての被抑圧人民は敵階級、敵権力に対する自らの武装を開始せよ!」と宣戦布告した。赤軍派は、「これまでの平和革命と暴力革命を廻る論争の致命的欠陥は、軍隊の問題を避けてきたことであった」として、「武装建軍闘争」を呼びかけていた。「前段階武装蜂起」 を唱え、学生活動家=革命軍兵士の位置づけで「武装蜂起的に70年安保闘争を闘おう」という点で、どのセクトよりも突出した理論を引き下げて注目を浴びた。実際に機動隊に対する爆弾闘争、交番襲撃、銀行M資金作戦等のウルトラ急進主義化で存在を誇示した。

 当初メンバーは京大、同志社大、立命館大などの活動家約400名であり、それまでの街頭闘争ではそれ以上の戦いは出来ぬ、それまで依拠してきたブント主義も革命的敗北主義であるとして、「前段階武装蜂起-世界革命戦争、世界党-世界赤軍-世界革命戦線」、「革命には軍事が不可欠であり、革命は革命戦争により勝ち取られる」という新路線を打ち出していた。

【革命左派】  9.1日夜、「革命左派」の反米愛国行動隊10名が東京水産大の寮の一室に集まり、米・ソ大使館襲撃のほかに、外相出発の4日朝には羽田空港に突入するという作戦が幹部から隊員に打ち明けられた。羽田襲撃には海から空港へという作戦が立てられ、泳ぎのできる5名が選ばれた。

 坂口ら羽田襲撃組5名は、9.3日夕方の五反田で開かれた「外相出発阻止前夜集会」に出席後、空港近くの平和島に向かい、昭和島に移動、京浜六区に向かった。翌朝9.4日、「反米愛国」の旗を持ち、外相が乗っているであろう特別機に向かって走り出し、滑走路に向かってゆっくり移動しかけていた特別機に向けて火炎瓶を投げつけた。特別機は黒煙が舞い上がったために緊急停止。坂口、寺岡、吉野など5名は逃げようともせず逮捕された。羽田空港付近でも火炎瓶を投擲し、柴野、大槻ら4名が加わり大槻が逮捕された。

 この後、川島や石井勝ら幹部が次々と逮捕され10名に及び組織的打撃を受けたが壊滅はしなかった。残存メンバーは後に上赤塚交番襲撃事件などに関わり、柴野の死後、石井や川島の妻が地方に追いやられ、永田、坂口、吉野といったメンバーが台頭していった。
【革命左派】  9.3日午後9時50分、「革命左派」が、赤坂のアメリカ大使館の霊南坂で火炎瓶闘争。実際の顛末は次の通り。警備の赤坂署員が不審な二人組を発見、職務質問しようとしたところ、男の一人がカバンから火炎瓶を取り出し警官へ投げつけた。もう一人が大使館の庭に2本の火炎瓶を投げ込み、鉄柵を乗り越えようとした。二人は放火未遂の現行犯で逮捕された。その2分後、1.5km南のソ連大使館正門で火炎瓶を持った男を突進してくるのを立ち番中の麻布署員が発見、男を取り押さえた。寺岡など2名が逮捕された。

 この男たちも新左翼勢力であるように見られたが、ほとんど何も話さず、正体はしばらくわからなかった。男の1人は「反米愛国」と書かれた布を腹に巻きつけていたので、当初は「右翼ではないか」という見方をする人もいた。やがて、この男たちが「京浜安保共闘」と判明した。

 この一連の闘争がマスコミに報ぜられ、で京浜安保共闘が一気に名を挙げた。愛知外相訪米訪ソ阻止闘争は、革命左派が警察に過激派としてマークされるようになった最初の事件だった。
【革命左派】

 「革命左派」の金子は、闘争が終わった後、救援対策組織が全くないことを知り、弁護士を探したり寝る間も惜しんで奔走した。最初は恋人である吉野のためであったが、結果的に全員の救援活動をすることとなる。

【赤軍派】  9.3日、赤軍派が葛飾公会堂で旗揚げ大会「赤軍派大政治集会」を開いた。議長・塩見孝也、軍事委員長・田宮高麿、大衆組織として革命戦線創設が明らかにされた。
【赤軍派】  9.4日、結成されたばかりの赤軍派が日比谷野音で開かれた全国全共闘結成大会に公然登場し、入場を阻止しようとする300名のブント主流派をわずか100名で撃破し陣取った。赤軍派は、革命戦争を宣言し、赤軍派の存在が脚光を浴びた。
【赤軍派】  9.21-22日、赤軍派は、秋季武装蜂起に使う武器調達のため、大阪市の阿倍野派出所(署金塚交番)、阪南交番など3箇所を襲撃(「大阪戦争」)。警官4名を負傷させるも拳銃奪取に失敗する。「大阪戦争」と銘打った計画は惨憺たる大失敗に終わった。
【赤軍派】  9.30日、「日大奪還闘争」をスローガンに神田-本郷一帯で同時多発ゲリラ闘争を展開し、奪った武器を使い政府高官を殺害し、首相官邸などを襲おうとしたが不発に終わった。武器を奪うことに失敗した赤軍は東京の本富士警察署と西五反田派出所を火炎ビン襲撃している。本富士署を焼き討ちし署長室を炎上させている(「東京戦争」)。この時不在で難を逃れた本富士署長が、後にオウム事件の最中に狙撃され重傷を負った国松警察庁長官とのことである。本富士警察署襲撃には高校生11名を含めた総勢28名の赤軍兵士が計画に関与し、西五反田派出所にも総勢13名の赤軍兵士が関与していた。本富士警察署襲撃事件は火炎瓶の投擲は成功したがピストルを奪うことはできず。西五反田派出所襲撃計画は、交番を覗きに行ったが何もせずに引き揚げてきた。本富士警察署襲撃事件に関与した高校生が警察に捕まり、その高校生の口から襲撃に関与した全員の名前が警察側に露見し、芋づる式に36名が検挙された。
【赤軍派】  10.16日、赤軍派の梅内恒夫が、福島医科大学で鉄パイプ爆弾を完成させた。梅内恒夫は青森県八戸市の出身で福島医大学生運動のリーダーであった。空手部に所属し且つブント。梅内は東北地方に於けるブントのリーダーであり赤軍派の武闘路線を支持していた。「みちのく赤軍」系の異例の系譜の人物であったが、梅内は理系の知識を活かして都市ゲリラ戦に必要な爆弾を研究、実験をして都市ゲリラ戦に威力を発揮するパイプ爆弾の開発を手掛け成功させた。梅内は阿武隈上流の山間の某所で、自家製の鉄パイプ爆弾の爆破実験を行なった。威力は壮絶で阿武隈川に鉄パイプ爆弾を投げ入れると10mにも及ぶ水柱が上がった。20m四方の人間を吹き飛ばせるだけの威力が確認された。
【革命左派】  10.21日、「革命左派」の軍事組織が横田基地・米軍機を標的にダイナマイト闘争。
【赤軍派】  10.21日、赤軍派が、10.21日、国際反戦デーで、新宿駅で鉄パイプ爆弾を登場させた。中野坂上でピース缶爆弾によるパトカー爆破を狙ったが、爆発寸前に発見され失敗する。
【赤軍派】  10.24日、赤軍派が、警視庁、9機動隊舎にピース缶爆弾を投げるが不発。
【赤軍派】  10.29日、赤軍派は、この間の戦いを「ブルジョワジーとその番兵を皆殺しにする戦いではなかった」と総括した田宮高麿ら赤軍政治局は、「今後は、せん滅戦が必要である」として爆弾闘争にとりかかった。

 11月の「佐藤首相訪米阻止闘争」に照準を合わせて武装蜂起の準備に入る。その内容は、日本刀や猟銃で武装した50-100名の部隊が、ダンプカーに分乗して首相官邸に突入、占拠するというものであった(「首相官邸武装占拠計画」)。当然、首都東京の主要拠点では、他の過激派(中核派やML派)が鉄パイプや火炎瓶を用いた従来型の武装闘争を繰り広げている、というのがその前提だった。
 10.29日、鉄パイプ爆弾「キューリー」を入手した赤軍派が首相官邸襲撃を計画する。東京・赤羽台団地の一室に塩見孝也、上野勝輝、八木建彦、松平直彦、重信房子、田宮高麿が集合した。首相官邸襲撃を実行する前に、革命兵士たる赤軍兵士に武器の取扱い方を教える軍事訓練を行なう事を申し合わせ、場所として山梨県の大菩薩峠が選ばれた。首相官邸襲撃は攻撃隊と突入占拠隊と道路防護隊を組織し、同年11.6日もしくは翌7日に決行を予定していた。官邸を占拠し、三日間も持ちこたえられたら成功、その間に佐藤栄作首相もしくは警察官を人質として、その人質解放の条件として政治犯の釈放を要求するというものであった(決行予定日は最終的に7日に決定)。
【赤軍派】  10.30日、塩見の命を受けた2名が青森県弘前市の弘前大学付近になる喫茶店で、梅内の部下から17本のパイプ爆弾を受け取った。青森からの帰途、福島医大に立ち寄って、17本の鉄パイプ爆弾は東京へと持ち込まれた。その鉄パイプ爆弾は、形状が野菜の「キュウリ」に似ていた事から赤軍派内では隠語で「キューリー」と呼ぶことになった。梅内は赤軍派内では「爆弾の神様」とまで崇められるようになる。また、この爆弾の神様「梅内直系の部下」と呼ばれた青砥幹夫と植垣康博らが、後の連合赤軍による地獄のベースキャンプの参加者となる。
 「みちのく赤軍」は次の通り。
梅内恒夫 福島医大生
青砥幹夫 弘前大生
植垣康博 弘前大生
穂積満 弘前大生
【革命左派】  10.31日、革命左派が、岐阜県内の石灰採掘現場からダイナマイト15本と電気雷管30個を奪取。

【赤軍派の「大菩薩峠事件」】
 11.5日午前6時頃、「赤軍派」が首相官邸を襲撃するための軍事訓練を行うためハイキングを装い大菩薩峠に結集していた。2.26事件をヒントにしたといわれ、首相官邸を占拠した後、人民政府の成立を全世界に宣言するつもりだったという。ところが、主力部隊が山梨県塩山市の大菩薩峠にある福ちゃん荘に着いたところで53名(うち高校生9名)が爆発物取締法違反、凶器準備集合罪の容疑で一網打尽に逮捕された(「大菩薩峠事件」)。これによって首相官邸襲撃計画も消えた。大菩薩峠に公安警察を導いたのは赤軍派内のスパイだったと云われている。政治局員7名中、上野勝輝、花園紀男、常山道生、八木健彦の4名が逮捕され、残ったのは塩見孝也、田宮高麿、高原浩之の3名のみとなり、更に塩見と田宮に対しては逮捕状も出した。警察は赤軍派の組織力と赤軍派が開発した鉄パイプ爆弾とを把握し、その後、赤軍派は危険視され、極めて重点的な取り締まりの対象とした。
 赤軍派旗揚げ大会の会場として、偽名で葛飾公会堂の予約をした「謎の美女」の正体は早期から警察にマークされていた。女の名は重信房子といい、明治大学二部の学生であった。大菩薩峠事件の後、間もなくして重信房子は「東京都公安条例違反」という罪名で逮捕された。同容疑で留置されたが重信は完全黙秘をし、三日後に釈放。しかし、これは警察の方便であり、警察署の階段を降りたところで再び「兇器準備集合罪」の容疑で重信を逮捕し、23日間拘留。重信房子は、この際の警察側の手法に怒りをおぼえ、闘志を燃やしたとされる。
 政治局員が不足してしまった事から、不足してしまった政治局員を補填する必要性が生じた。そこで白羽の矢が立ったのが、赤軍派創立メンバーでありながら、この五ヵ月前、関東派(仏徳二襲)を襲撃した際に、敵前逃亡したままになっていた〝森恒夫〟であった。その行方不明になった森恒夫はというと、大阪市東淀川区の町工場で板金工になって生活していたが、その森を、改めて赤軍派の政治局員(幹部)として招聘する道筋を立てた。森は、復帰の条件としてビラ配りなどの新米兵士の仕事を割り当てられたが、森は、その下働きにも応じ、赤軍派の政治局員になった。(それまで森は創設メンバーではあったが「政治局員」になった事はなかった。また、この森恒夫が赤軍派の幹部に収まる敵前逃亡者でありながら幹部として復帰した経緯については映画「実録・連合赤軍~あさま山荘への道程」でも描かれている。

【革命左派】  11.5-6日、「革命左派」の軍事組織が、10月31日に盗んだダイナマイトを厚木基地に仕掛ける その後も何回か仕掛けるが全て未遂に終わる(立川基地)。
【赤軍派】  赤軍派は、大菩薩峠事件を頂点とするいわゆる前段階武装蜂起に失敗し、12月から翌1970.1月にかけて、一国内での武装闘争には限界があるとして、労働者国家を根拠地として武装蜂起の世界性と永続性を図るべきであるという国際根拠地論を提唱し、国際根拠地建設に向った。「労働者国家」(北朝鮮、ベトナム、アルバニア、キューバなど)に武装根拠地を建設して世界革命の根拠地にし、後進国における革命戦争と日米の革命戦争を結合して単一の世界革命戦争を展開する」という内容のものであった。
【革命左派】  11.6日、革命左派が、米軍厚木基地にダイナマイトを仕掛けようとしたが失敗する。
【赤軍派】  11.12日、大菩薩峠の失敗に学んだ赤軍派は、着眼点を海外へ向けた。大菩薩峠での完全敗北から僅か1週間後、小俣昌道(京都大学全共闘議長)を「赤軍国際部長」という肩書きで羽田空港から渡米させている。米国のブラックパンサー党はじめ、海外の過激派勢力との連携を本格的に模索するようになっていた。つまり、日本を脱出して国際規模で革命戦争を模索するという、その画期的な発想の転換が起こった事を暗示している。その国外脱出の第一弾が「よど号ハイジャック事件」となる。
【革命左派】  11.16-17日、革命左派が、米軍立川基地にダイナマイトを仕掛けるが不発。
【革命左派】  12.8日、「革命左派」の川島豪ら25名が逮捕される。この間40名近くが脱落し残った幹部は、永田洋子(24歳、共立薬科大)、阪口弘(23歳、東京水産大)、吉野雅邦(21歳、横浜国大)、寺岡恒一(21歳、横浜国大)らになった。
【革命左派】  12.24日、「革命左派」の「愛知外相訪米訪ソ阻止闘争」実行メンバーが保釈される。坂口、寺岡、吉野らが革命左派党員になる。
【革命左派】

 12.30日、「革命左派」の川島と共に組織を創設した河北三男(創設者)がゲリラ路線に反対し別組織を作るべく「革命左派」から離脱した。河北氏は1975年、逝去する。

【革命左派】  「革命左派」には、理論派で「革命左派」の公然組織の議長を務めていた牧田明三(横浜国大)がいた。牧田の恋人は目黒滋子(京浜安保)だった。「革命左派」の内部でも永田への不満を抱えている者は少なくなかった。理論派リーダーの牧田は、永田が女性兵士にまで実弾を使用しての射撃訓練をさせた事に腹を立てて永田に反論した。(以下の箇所は「赤い雪」から引用する)「こういう事は、やはり、獄中にあるとはいえ、最高指導者の川島豪に相談すべきじゃないだろうか。あなたは唯銃主義に取り憑かれているんじゃないか」と批判した。カッとなった永田は、生まれつき足の悪い牧田に対して、「ふんっ、ビッコのくせにえらそうなツラするんじゃないよ!」と罵倒した。理論派の牧田が永田の率いる京浜安保共闘に見切りをつけ去った。牧田の恋人の目黒滋子も早々に姿を消した。

【1970年の歩み】

【赤軍派】  1.16日、赤軍派が、東京神田駿河台の全電通労働会館ホールで800名の蜂起集会。前田祐一(中央大生)が北海道、東北、北陸、九州などを駆けまわって搔き集めてきた若者たちであった。この時、世界革命戦線構築の為の「国際根拠地建設、70年前段階蜂起貫徹」を打ち出した。その壇上で物江克男(滋賀大)が演説した。
 「諸君、赤軍は、大菩薩峠の敗北から僅か二か月で浮上した。われわれは、温存されたエース級の戦士の手で必ず武装蜂起を実現する。戦いは一国のみにとどまるものではない。外国で義勇軍を編成するために、既に同志の一人を海外へ派遣した。今後さらに外国へ要員を送り出す」。
【赤軍派】  1月、森恒夫が赤軍派に復帰する。関東派との党派闘争から逃亡していた森が、田宮の許可を得て復帰した。
【革命左派】  指導者の川島の逮捕、河北の離脱後の革命左派が、永田、坂口、中島、柴野、石井の5名からなる常任委員会による集団指導体制をとることになった。
【革命左派】  1.31日、、前年9月のアメリカ大使館火炎瓶攻撃により逮捕されていた革命左派の寺岡恒一が懲役2年、執行猶予3年の判決。
【革命左派】  2.3日、前年9月の愛知外相途米時に滑走路に火炎瓶を投げつけた坂口弘に懲役7年、吉野雅邦に懲役5年の判決。
【赤軍派】  2.7日、大阪で1500名の蜂起集会。
【赤軍派】  3.15日、赤軍派最高幹部の塩見議長が破壊活動防止法違反(予備、陰謀)で逮捕された。中央委員の前田裕一も。この時までに222名が逮捕され、続いてNo22の高原浩之氏も逮捕される。赤軍派は、指揮命令系統の中枢と実力部隊の大半を失った。その後の赤軍派は武装蜂起路線から不連続ゲリラへと路線変更を余儀なくされ、資金かせぎの強盗(マフィア作戦)、ハイジャック(フェニックス作戦)、猟銃強奪(アンタッチャブル作戦)へと向った。
【赤軍派】  3.30日、京大全共闘の板東が、赤軍派中央委員に任命される。

【赤軍派の「よど号ハイジャック事件」】
 3.31-4.3日、国際根拠地論に基づく赤軍派のよど号ハイジャック事件起こる。赤軍派軍事委員長・田宮高麿(当時27歳、大阪市立大)をリーダーとした9名(田宮高麿、小西隆裕、田中義三、安部公博、吉田金太郎、岡本武、若林盛亮、赤木志郎、高校生の少年A、岡本武は日本赤軍に加わった岡本公三の実兄)がフェニックス作戦と称して、日航機よど号(日本航空351便、ボーイング727型機、石田真二機長を含めた乗員7名、122名の乗客)をハイジャックし北朝鮮入りした。この時までを仮に第一次赤軍、以降を仮に第二次赤軍と命名する。

 赤軍派メンバーは決行に当たって犯行声明文を残している。田宮は次のように述べている。
 「われわれは明日、羽田を発たんとしている。われわれは如何なる闘争の前にも、これほどまでに自信と勇気と確信が内から湧き上がってきたことを知らない。最後に確認しよう。われわれは “明日のジョー” である」。
 田宮高麿ら赤軍派ハイジャック犯9名が爆弾らしきものを見せながら、「このまま北朝鮮の平壌へ行け」と機長に命じた。石田機長が機転を利かせて実際には燃料は満タンであったが「燃料が不足している」と説明し、同機は福岡空港に燃料補給の為、緊急着陸する事となった。離陸から約1時間半後の概ね午前9時前後、福岡空港にて乗客の中から女性と子供とが解放された13時58分、よど号は福岡空港を離陸する。同日15時18分、よど号は平壌空港と偽ったソウル郊外の金浦空港に着陸する。この仕掛けを見破ったのは田宮高麿であったという。見破った理由には諸説あるようで、一説にハイジャック犯は韓国軍の制服を見て気付いたといい、また異説もある。

 金浦空港で、よど号事件は膠着状態に突入する。打開策はなく金浦空港での膠着状態は三昼夜続いた。人質になっている乗客・乗員の疲労が蓄積してゆく。ここで山村新治郎運輸政務官(当時36歳)が「乗客の身代わりとして人質になる」と名乗り出る。するとトントン拍子に運び、山村政務官は日本を発って韓国入りし、全ての乗客と引き換えに山村政務官が「よど号」に乗り込んだ。石田機長と別の乗務員3名、それと山村政務官、それとハイジャック犯9名を乗せた「よど号」は平壌空港へ発ち、4月3日、平壌空港に降り立った。その後、ハイジャック犯らは北朝鮮に亡命したという形となった。身代わりとなった山村新治郎政務官は「男・山村新治郎」として一躍脚光を浴びて、政治家としても運輸大臣にまで登り詰めた。しかし、1992年4月12日、精神疾患を患った長女に刺殺されるという悲劇的な最期となった。また、石田真一機長も一躍「時の人」となったが、それが仇となって週刊誌に愛人問題をすっぱ抜かれ、不本意な形で日本航空を退社する羽目になった。(別冊宝島『日本の未解決事件100』(宝島社)参照)

【赤軍派】  よど号ハイジャック事件から6月にかけて、PBМ作戦を追求している。Pはペガサス作戦の略で世界的党派闘争。Bはプロンコ作戦の略で日米同時蜂起計画、即ちペンタゴン突入と霞ヶ関同時占拠闘争。Мはマフィア作戦の略で資金収奪作戦即ち銀行強盗闘争を意味していた。
 5.9日、重信房子が殺人予備罪及び爆発物取締法違反容疑で逮捕(二度目)される。23日間拘留される。
【革命左派】  5月、「革命左派」の坂口が獄中の川島豪に面会した際に「スタンバイ」と言い片目を瞑り暗黙で奪還命令を出した。これが「最高指導者奪還命令」と云われる。
【革命左派】  5.26日、「革命左派」が、横田基地にダイナマイトを仕掛け爆発させる。
【革命左派】  5.31日、「革命左派」が、立川基地にダイナマイトを仕掛け爆発させる。
【赤軍派】  6.7日早朝、赤軍派の実質的な最高幹部となっていた政治局員・高原浩之が恋人の遠山美枝子と朝帰りしたところを警察官に待ち伏せされ逮捕される。これによりPBМ作戦は中止された。遠山美枝子は赤軍派内では合法活動を担当していたので逮捕は免れた(遠山は留置場に入っている同志たちへの接見や差し入れといった合法的な任務に従事していた)。

 次から次へと幹部「政治局員」が居なくなった事で、押し出されるようにして森恒夫が赤軍派の最高幹部になった。(赤軍派残党の弁によると、第一次赤軍派と第二次赤軍派に分けて語っており、塩見、高原、田宮らが居なくなって森恒夫が最高幹部になって以降は「第二次赤軍派」という具合に切り離して語ろうとする者が少なくないという)
【赤軍派】  6.9日、赤軍派第二次政治局員の物江克夫が逮捕される。
【赤軍派】  6.18日、赤軍派国内委員の佐藤公彦が逮捕される。
【革命左派】  6.24日、「革命左派」が、米軍大和田基地(埼玉県新座市)にダイナマイトを仕掛け爆発させる。
【赤軍派】  6.30日、赤軍派国際委員の上原敦男が逮捕される。
【赤軍派】  7.11日、赤軍派第二次政治局員の川島宏が逮捕される。
【革命左派】  7月、寺岡恒一が常任委員に就任。
【革命左派】  8.15日、革命左派が、名古屋で中京安保共闘を結成する.常任委員から派遣された雪野建作(横浜国大)が組織し、東海高校全学中央闘争会議の主要メンバーの一人、高校3年の加藤倫教をオルグした。既に兄の加藤能敬(和光大)がメンバーであった。この中京安保共闘から加藤3兄弟の末弟・元久、寺林真喜江、小嶋和子、山本順一夫妻たちが連合赤軍に合流する。
【革命左派】  9月、「革命左派」で、投票により永田が委員長に選任される。獄外の最高指導者となる。
【革命左派】  11月、「革命左派」が拡大党会議を開き、川島が主張していた政治ゲリラ闘争から軍事闘争へ戦術転換する。柴野晴彦が、赤軍派に対し、「連続蜂起・国際根拠地路線」を「待機主義」と批判し、「遊撃戦争路線」の採用を訴える。これに赤軍派内部から花園・松平が呼応する。

【革命左派の「志村署上赤塚交番襲撃事件」】
 赤軍派が「よど号事件」を起こし、その後も都市にアジトをつくっての都市ゲリラ展開、更にはM作戦(エロイカ作戦)で世間を賑わせていた頃、「革命左派」でも赤軍派の派手な活躍に触発されるようにして過激化に拍車がかかっていった。
 12.18日、永田洋子と坂口弘の命令で「革命左派」の4名(柴野春彦(横浜国立大)をリーダーとする渡辺正則(横浜国大)、大槻節子(横浜国大)、佐藤安治(三菱自動車工業厚生部勤務))が大槻節子が運転する日産ブルーバードに3名の男たちが乗り込み、東京都練馬区の志村署上赤塚交番襲撃に向う。柴野は上赤塚派出所の約80m手前で、大槻に車を停車するように合図した。大槻節子は運転手兼待機が役割であり柴野、渡辺、佐藤の男3名が降車して標的の派出所へと静かに近づいていった。中には若い警察官の高橋孝志巡査が一人おり机の上で書き物をしていた。渡辺がブラックジャックを振り下ろして襲撃したところ高橋巡査の頭部に当たるも、高橋巡査は「巡査長っ! 巡査長っ!」と裏手のドアの方へ叫んだ。一瞬で事態を悟ったリーダーの柴野が咄嗟に奥のドアを引き開け、残るもう一人の警察官を襲撃しようとしたところ、拳銃を構えた「巡査長」と呼ばれた警察官/阿部貞司巡査長(当時)の姿があった。「やめろっ! やめるんだっ! やめないと撃つぞっ!」と阿部巡査長の声が飛んだ。しかし柴野は阿部巡査長に飛び掛かった。その刹那、二発の銃声が響き、柴野は胸を抑えながら崩れ落ち射殺される。残りの2名も弾丸を浴び重傷を負い逮捕される。80mほど離れたところで待機していた大槻節子は銃声を聞き、計画は失敗したと判断し、そのまま走り去った。現場となった上赤塚派出所には、瞬く間に警察官が集まって来ていた。 この事件は、川島の「奪還命令」を受け、その為の銃を手に入れる必要から交番襲撃をすることになり上赤塚交番が選ばれたことによる。(「京浜安保~板橋交番襲撃事件」)

 この「闘争」を赤軍派から評価され、赤軍派と急激に接近することとなった。花園は12・18闘争を高く評価し、同時に思想、政治路線でも毛沢東思想、反米愛国路線を支持し、川島と同志的連帯を表明する。

【革命左派】  12.19日、「革命左派」が上赤塚交番へ抗議デモ。 獄中の赤軍派やML派より「闘争支持」のアピール文が出される。
【赤軍派】  この頃、赤軍派内に二つの路線闘争が起こる。イ、国際根拠地路線をどう見るか。肯定か否定か ロ、「中央権力闘争ーマッセンストライキ」路線から発展していった「前段階蜂起路線を否定するか、肯定するか」の論争であった。この論争は革命左派の影響によるものであり、花園がその代弁的推進者であった。花園は、「自由への道」を著し、「レジス・ドブレ」の「革命の中の革命」に依拠しつつ「合流、野合の路線」を推進していく。
【両派】  12.26日、「柴野同志虐殺弾劾抗議追悼集会」が開催され、京浜安保共闘(革命左派)と革命戦線(赤軍派)の初の合同集会となった。約千名。
【両派】  12.30-31日、「赤軍派」(森・坂東)と「革命左派」(永田、坂口、寺岡)が埼玉の旅館で初めて会合を開いた。赤軍派は革命左派の「上赤塚交番襲撃」を高く評価し、革命左派は、赤軍派に銃を譲り受ける目的で来たが、実際はまだ銃を手に入れていなかった。年明けの京浜安保共闘と革命戦線の共同政治集会開催を確認した。
【両派】  この頃、京浜安保共闘が赤軍と同じ軍事路線を突き進んでいた。京浜安保共闘は、中共派として日共から除名された日本共産党左派の系譜を引く日本共産党革命左派の下部組織であった。50年代武装闘争時代の共産党の革命理論や闘争スタイルを受けつぎ、軍事組織として人民革命軍を持っていた。学生中心で世界革命論の赤軍派と異なり、労働者主体で毛沢東主義による一国革命論を教義としていた。京浜安保共闘は小人数によるゲリラ闘争を行い、ダイナマイトを盗み出していた。米軍基地爆破未遂や銃奪取を目的とする交番襲撃を実践していた。交番襲撃はメンバー一人が警官に射殺され失敗したが、銃砲店から散弾銃とライフル銃など10丁を強奪することには成功していた。しかし、警察の追及と資金不足のため次第に動きが取れなくなっていた。

 爆弾と資金を持つ赤軍は、銃を入手することがどうしても出来ず、京浜安保共闘の持つ銃器を欲した。赤軍の資金と京浜安保共闘の銃を交換し、最後に両者の軍事組織の合同を決定する打ち合わせが潜行し、赤軍派中央軍と京浜安保共闘人民革命軍が組織合同することになった。こうして「連合赤軍」が創設されていくことになる。

【1971年の歩み】

【両派】  1.25日、赤軍派と革命左派が初の共同政治集会。
【赤軍派】  1月、赤軍派の中央委員会が分裂。森が新たに「7人委員会」を設置し、路線の違いから梅内を、出国計画を理由に重信を外した。獄中の高原の恋人・遠山美枝子が公然活動組織の「革命戦線」の救援対策責任者となった。
 2.2日、重信房子は奥平剛士(京大生)と入籍し、「奥平房子」の戸籍を手に入れる。
【両派】  2.15日、赤軍派の森と革命左派の永田が大宮で接触。
【革命左派】  1~2月頃、古城ヨシエ女史をスパイ容疑での殺害未遂事件を起こす。

【革命左派の塚田銃砲店襲撃事件】
 2.17日午前2時半頃、「革命左派」(京浜安保共闘)の吉野雅邦氏(横浜国大、あさま山荘事件で逮捕、現在も服役中)、寺岡恒一(横浜国大、後に山岳ベースで処刑)、雪野健作(横浜国大工学部、中京安保共闘リーダー)、尾崎康夫(横浜国立大学4年、23歳)、 瀬木政児氏、中島幸平(衡平)(東京水産大生))(「中山ら6名」の記述もある)が、栃木県真岡市田町1827の塚田銃砲店(実際は薬屋も兼業していて看板は「塚田薬局」となっている。「ビタワン」の看板も出ている住宅兼用店舗。後に廃業)に「電報配達を装って玄関を開けさせて刃物を持って押し入り、店主と家族を縛り上げて人質にして」、「散弾銃9丁、ライフル1丁、空気銃1丁、散弾2300発」など大量の銃器を強奪、店主を負傷させた。この時の銃と「メンバーの親族が海外旅行の際にこっそり持ち帰った38口径の拳銃1丁と実弾50発 家族が所有していたライフル銃を実家から持ち出したものが浅間山荘事件で使用された」とある。

 中島が借りたアパート(坂口永田夫婦のアパートと同じ館林にあった)に奪った銃を運び込んでいる。この事件は、交番襲撃による銃奪取をあきらめ、銃砲店を狙うことになったことによる。4月から12月にかけて、爆弾テロ闘争を繰り広げることになる。これにより地下活動に入る。
(私論.私見)
 「塚田銃砲店」は「市井の銃砲店」とされているが、統一教会勝共連合と関係ないのだろうか。統一教会勝共連合はこの時期、真岡市に銃砲店を持っていることが公表されている。その銃砲店が塚田銃砲店と一致すれば、統一教会勝共連合の取り扱う銃が後に連合赤軍の軽井沢あさま山荘銃撃戦に使われ活躍したことになる。銃にはそれぞれ識別番号があるはずだから、「塚田銃砲店」の銃とあさま山荘銃撃戦に使われた銃が一致するかどうか容易に分かる筈である。この仮説が真だとすると、統一教会勝共連合の銃が「革命左派」(京浜安保共闘)に渡ったことになる。強奪とされているが、それは表向きの話かもしれず、横流しの線を洗う必要があるのではなかろうか。まったく詮索されておらず、「塚田銃砲店」情報が完璧に秘されている。連合赤軍規約のへんちくりんに続く第二の闇がここにあると窺う。
 「あさま山荘事件で云々のベストアンサー」に次のように記されている。
 あさま山荘事件では、真岡市の銃砲店から強奪された銃が使われました。 散弾銃と口径.22のライフル銃です。 散弾銃は同時に盗んだバラ弾がつかわれ貫通力は大したことはありません。口径.22はライフルとしてはもっとも低威力と言っていい弾薬です。警察側は充分計算してジュラルミンの盾を二枚重ねにすれば防げるとしてして対応しました。 当初、過激派の撃った弾丸はストップされていたのですが、過激派も頭を使いまして、弾薬の弾丸を外し、二発分の火薬を詰めて、発射しました。二発分の火薬を詰めれば威力はかなり増します。このやり方で二枚重ねの盾は貫通され警官が射殺されました。当時、この事実を知って過激派にも知恵者がいるとびっくりしたもんです。

 「過激派にも知恵者がいるとびっくりした」は表層的な受け止め方であって、実際には裏指導が入っていたのではないのか、と疑いたい。

 ここで想定外の事態が起こっている。犯行に使用された盗難車は2台で、うち1台は尾崎、中島が群馬県内で乗り捨てることになっていたが、途中で気が変わったのか埼玉県から東京・赤羽に架かる新荒川大橋の検問に引っかかって両名とも逮捕されている。
 吉野雅邦の実父は三菱地所の重役(当時)であり、かなりの育ちが良い「ノーブルな感じ」と評される青年であった。麹町小から麹町中、そして日比谷高校から横浜国立大へ。当初は中核派として活動していたが機動隊に取り囲まれて袋叩きの目に遭い病院に担ぎ込まれた。12針を縫う怪我を負っていた。入院中に看病してくれたのが同じ横浜国立大の合唱部の金子みちよであったので交際を始めた。後に吉野が中核派に見切りをつけて京浜安保に入ると、吉野の後を追うようにして金子みちよも京浜安保の合法活動をする組織に入って来た。そのまま、吉野雅邦と金子みちよは内縁関係となり、金子みちよに到っては妊娠八か月という身重の状態で連合赤軍の山岳ベースキャンプに参加していた。吉野は、この塚田銃砲店襲撃事件を皮切りに、その破局に向かう暗部を背負い続け、印旛沼リンチ事件、山岳ベースのリンチ事件、そして、あさま山荘に立て籠もっての銃撃戦まで関与する唯一のメンバーとなっている。(「京浜安保~塚田銃砲店襲撃事件」)

【革命左派】  2.19日、革命左派の田代隆(関東学院大)が銃砲店襲撃容疑で逮捕される。
【革命左派】  2.22日、革命左派の永田と坂口がスキーヤーに扮して北海道へ逃亡する。その顛末は次の通り。坂口らが暮らすアジトも発見される可能性が高くなり早急に引っ越す必要に迫られることになった。栃木、茨城、埼玉、東京の一都三県の主要幹線道路に非常線が張られ、米国大使館、首相官邸、警察署、派出署などに防弾チョッキ姿の武装警官が動員されるなど警戒体制が敷かれた。計画では、3日後の2月20日に、川島の公判出廷時を襲撃して奪回することになっていた。坂口・永田夫婦は、その日のうちに同じ群馬県内の太田市に移動した。犯行現場の真岡からアジトのあった館林までが47キロ、そこから太田は15キロしか離れていなかった。警察のアパート・ローラー作戦が1都6県に拡大されたため、ここも居れなくなりわずか1日で新潟県長岡市に再移動した。川島豪奪回どころではなくなり彼らの長く苦しい逃亡生活が始まった。 とりあえず雪野を留守番役にして銃と銃弾を太田アジトに残し、坂口永田夫婦は、2.18日の早朝に協力者が借りてきてくれたレンタカーを使って、その人の運転で長岡に向かつた。寺岡、吉野、瀬木の3名は鉄道を使って移動した。長岡で合流した5名は太田アジトに残してきた銃を取りに行くことになり、2往復して長岡まですべて運び込んだ。坂口らの移動を手伝ってくれた協力者に長岡アジトを見られており、足がつくのも時間の問題と判断した彼らは最果ての地・北海道まで逃げた。逃走の途中、ラジオから流れてきたニュースで、小山アジト(坂口永田夫婦が館林に移る前に住んでいた)と下館アジト(現茨城県築西市下中山、小山から十数キロ)が警察に発見されたことを知った永田は、捜査の手が自分たちにどんどん迫りつつあることを悟り、パニックに陥る。「手足がガタガタ震え、歯もガチガチとなった。 私はこうした闘争に恐怖を感じた。 しかし、この恐怖心を振り切り、しっかりしなければならない、いつまでも震えてはいられない、冷静になって事態を考えなければならないと自分にいいきかせ、気持ちを落ち着かせた。 そのうち、ガタガタやガチガチという手足や歯の震えはなくなった・・・」。

 2.21日早朝、スキー客になりすました6人は、坂口・永田、寺岡・雪野、吉野・瀬木の2名ずつ3組に分かれ、2日後の23日に北海道の倶知安(くっちゃん)駅で集合することを確認して30分ずつ時間をずらせて出発した。銃は銃身を短く切断して横幅の広いリュックに対角線状に詰め込んだが、壊れかけた空気銃と猟銃2丁、おびただしい数の銃弾は詰めきれず、長岡で借りた一軒家に残した。「1名死亡、2名重症、2名逮捕、アジト全滅」という甚大な犠牲を払ってようやく手に入れた銃と弾丸を断腸の思いで手放した。永田は、この日から始まった東北~北海道の旅がよほど感慨深かったのか、著書に、革命とはおよそ関係のない他愛ない出来事を淡々と綴っている。一方、寺岡と雪野は青森で一泊せず、夜のうちに青函連絡船で函館に渡った。激しい雪が降り注ぎ、2等船室の丸い窓には雪が吹きつけて何も見えなかったという。その中で寺岡は、両親が一度に亡くなったというような非常に深刻な顔をしていた(雪野談)。その寺岡を大学時代にオルグ勧誘した雪野は、駅の売店で買った新聞で、自分の手配写真を見たときの気持ちを後年こう詠んでいる。「新聞に手配を知りし雪の朝 老いたる父母は何思ふらむ」、「 暗き夜に蝦夷地を指して落ちゆけり 連絡船は吹雪にゆれつ」。23日朝、倶知安駅でメンバーたちは再会し、また別々に列車に乗って、夕方札幌駅で再集合した。17日朝から始まった館林→太田→新潟長岡→青森→倶知安→札幌と続き、23日午後、ようやく一息つくことになった。
【赤軍派】  第二次赤軍は、獄中の塩見孝也議長の奪還を企図した。各国の大使館員を誘拐し、人質にして塩見議長を釈放させ中国に亡命させようというもので、ペガサス作戦と呼ばれた。しかしこれも決行直前に幹部が逮捕され、持っていたメモから計画が知られてしまい、失敗する。

 この時期の赤軍は、1970年の10月前後に革命が起こると信じ込んでおり、ペンタゴン突入など力量を無視した無理な作戦ばかりたてていた。そのため幹部、兵士に次々と脱落者が生じ、また地方と中央、公然と非公然の対立が深まり分裂しつつあった。中央は『軍』を掌握した武闘派の森恒夫らが握り、政治に対する軍事の優越を唱え独走する。徴発活動で鍛えられた軍が、第二段階として政治テロを行うという方針のもと「M作戦」を「エロイカ作戦」に改名し、連続的に銀行強盗による資金集めを敢行した。これで数少なくなった兵士がさらに減少するが、なんとか闘争資金を入手することには成功する。
【赤軍派】

 赤軍派もМ作戦を展開し7月にかけて8件の郵便局、銀行などへの資金奪取作戦を敢行した。

 2.22日、赤軍派が、千葉県市原市辰巳台の特定郵便局を襲撃し、白マスクをした男が居合わせた客の喉元にナイフをつきつけ、同郵便局内にあった手提げ金庫の中から現金71万8678円を強奪して逃走した。赤軍派は、大菩薩峠事件の総括を踏まえ、「PBM作戦」を呼号し、そのなかで特にM作戦に全力を注ぎ始めた。P作戦とはペガサス作戦。国外要人を略取し、それを人質として塩見議長を奪還するというもの。B作戦とはブロンコ作戦。アメリカの「ペンタゴン突入」、日本の「霞ヶ関占拠」という2つの闘争を同時に行なう。M作戦とはマフィア作戦。活動資金獲得のために金融機関を襲撃する。2月から8月にかけて次の郵便局、銀行、小学校を襲い資金調達闘争を繰り広げた。

2.27 千葉県茂原市高師郵便局     94,900円
3.4 千葉県船橋市夏目郵便局     15,350円
3.5 神奈川県相模原市横浜銀行相模台支店 1,509,000円
3.22 宮城県泉市振興相互銀行黒松支店。坂東国男(京大生)率いる坂東隊によるもので、メンバーには植垣康博(弘前大生)、穂積満(弘前大生)、進藤隆三郎(仏院学院生)がいた。 1,159,200円
5.15 神奈川県横浜市南吉田小学校 3,216,539円
6.13 長野県上伊那郡長谷村の建設現場からダイナマイトと雷管を盗む。
6.24 神奈川県横浜市横浜銀行妙蓮寺支店 3,260,000円
7.23 鳥取県米子市松江相互銀行米子支店。松浦順一を隊長として新規であつらえた松浦隊が押し入るが失敗し、松浦隊4名が全員逮捕される。 6,051,600円

 この松江相互銀行への襲撃失敗を最後に一連のエロイカ作戦(M作戦)が終結する。

 判明する強盗班は次の通り。
第1班 大西隊 大西一夫(同志社大中退)、松浦順一(関西大生)、近藤有司(高校卒)
第2班 新谷隊 新谷富男(同志社大中退)、城崎勉(徳島大中退)、藤沼貞吉(茨城大生)、林慶照(高校中退)
第3班 松田隊 松田久(茨城大中退)、鈴木裕(弘前大生)、石原元(東京水産大生)
第4班 坂東隊 坂東国男(京大生)、植垣康博(弘前大生)、穂積満(弘前大生)、行方正時(岡山大生)、進藤隆三郎(日仏学院生)
【赤軍派】  2.26日、赤軍派の奥平剛士(26歳、京大)が中近東のアラブゲリラとの連帯を求めてパンアメリカン航空機で日本脱出、パレスチナへ向かう。2.28日、重信房子(25歳、明治大)が奥平房子名義で後を追う。ベイルートへ発つにあたり見送りにやってきたのは互いに「フーちゃん」、「ミコ」と呼び合っていた遠山美枝子だけであったという。スイス航空機でレバノンのベイルートに着いた二人は、PFLP(パレスチナ解放人民戦線/これはパレスチナ解放機構のPLOではなく、よりイスラエルと敵対的に構えていた勢力)の庇護と支援を得ることに成功する。安田安之、岡本公三らも集い、海外赤軍派を創った。これが日本赤軍となる。
【両派】

 「日本赤軍と連合赤軍~9」その他参照。

 3月頃、赤軍派の最高幹部になった森恒夫の秘書役になっていた青砥幹夫が森に耳打ちした。「京浜安保の永田洋子が会いたがっているようです」。森は驚いた。「今、どこにいるんだ?」。「真岡事件(塚田銃砲店事件)のホトボリを冷ますために札幌にアジトをつくって息を潜めているようです」。「真岡で奪った銃を持ってか?」。「はい。永田は銃とカネを交換したがっています。今、京浜安保は資金不足で首が回らない状態に陥っているんです」。「どうして分かるんだ?」。「永田の子分の前沢虎義という男が私のところに連絡に来たんです。一度、前沢に会ってやってもらえませんか?」。森は了承した。森は青砥の手引きで、京浜安保の前沢虎義に会い、そこで前沢から永田の伝言を聞いた。伝言は単刀直入、猟銃とカネの交換だった。「10万円ほど貸してもらえないでしょうか? 御礼に猟銃をお渡します」。事前に青砥から話を聞いていた通りであった。森はその場で前野に10万円を手渡した。前野と青砥が仲介して、森の赤軍派と永田の京浜安保にコネクションができ上がった。その時期は定かではないが、1971.3月頃の事と推定できる。

 森が永田の使いの前野に10万円を手渡した日から凡そ1週間後、北海道の札幌に身を潜めていた永田が坂口弘を連れて上京した。森から渡った10万円を上京する為の交通費に当てていた。京浜安保はそれほど資金的に枯渇していたという。

【赤軍派】  4月、美貌の玉振佐代子が神奈川県警によって逮捕された。逮捕の際、玉振は紺のミニワンピースにベージュのミディコート、ファッション雑誌アンアンを所持していたと警察から正式発表された。
【革命左派】  4.20日、革命左派の永田と坂口が1ヶ月半の札幌のアジトを出て上京する。
【両派】  4.23日、都内の革命左派のアジトの一つであった東京都葛飾区新小岩4丁目にある第二矢作荘で、資金は搔き集める事に成功したが武器を持っていないという赤軍派の森と、武器は手に入れたが資金がないという「革命左派」の永田、坂口が初対面接触した。その場で永田洋子が切り出した。「京浜安保には資金がありません。その代わり、武器を沢山もっています。どうでしょう、散弾銃2丁に弾丸200発をつけますから30万円ほど都合してもらえないでしょうか?」。こう「革命左派」が赤軍派に資金の前借りを水面下で依頼したとされている。この時、坂口が、指名手配者の隠れ家的意味合いで山岳ベースを提案し、両派の合併話の流れが生まれる。この第二矢作荘での初対面を契機にして、以降、森は永田と頻繁に会うようになり、森と永田の間で、赤軍派と京浜安保とを統合して一つの組織とするという統一赤軍構想が進められていった。
【両派】  4.29日、赤軍派と会合(銃の隠し場所を教える)。
【両派】  5月、赤軍派にカンパの要請(銃と金の交換になった)。
【革命左派】  5.31日、革命左派が、赤軍派との連携を視野に入れて、東京都西多摩郡多摩町溜浦の奥多摩山中にあるバンガローと、山梨県北都留軍丹波山村にある炭焼き小屋を無断で組織の拠点を設営する。彼らはこの二つの拠点を総称して「小袖ベース」と呼んだ。
 5月末日、革命左派の小袖ベースで、実弾を使用しての射撃訓練などが行われた。このキャンプに参加していたのが坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、雪野健作、瀬木政児、前沢虎義、向山茂徳、早岐やす子、金子みちよ、杉崎ミサ子、大槻節子、目黒滋子、川島陽子の13名。(目黒滋子は牧田明三の恋人であり、牧田が去った為に目黒もこの小袖ベースから早期に去った)
 小袖ベースでの訓練は、思いの外、苛酷なものであった。食事といえば麦雑炊にインスタントラーメン、野草、サバ缶。トイレは穴を掘って埋めるだけ。寝る時は、狭い小屋の中でスシ詰め状態であった。

 そして向山茂徳が大槻節子と交際している事が話題になった際、永田洋子に罵りを受けた。大槻の元の彼氏は獄中にあり、その大槻と向山が交際している事を「痴漢」や「泥棒猫」となじっていたという。これは後々の惨劇の序章であり、永田の嫉妬深さを示す逸話でもある。この山岳ベースで行われたキャンプ(軍事訓練)には、その大槻節子も参加していたので、単なるありがちな冷やかしにも思えるが、それは後に判明する。
【革命左派】  6.5日、革命左派の向山茂徳が下山を表明した。 「僕はテロリストとして戦えても、党のためゲリラ闘争を持久的に戦うことはできない。小説も書きたいし、大学にも行きたい」。しかし、周囲が猛反対したので下山表明を撤回した。

 6.6日、革命左派の向山茂徳が、この日の射撃訓練中、向山は「小便に行く」と言ったまま小袖ベースから脱走する。そして親戚宅で「もう学生運動は辞める」と話し、同月9日には母親にも会って同様の話をし、その上で別の下宿部屋を借りる為のお金を受け取っている。

 その後、向山は高校時代の同級生で京浜安保に入るキッカケになった岩田平治の元にも姿を現す。そこで向山は岩田に、小袖ベースの訓練に参加してきたが脱走してきた事を説明した上で、岩田に不満をぶちまけた。「(山岳ベースで)やることは作業と自己批判ばかり、息が詰まって一ミリの自由もない」、「あんなクソみたいな所で、クソみたいな連中と一緒にやっていくのは、まっぴら御免だ!」と、怒りをぶちまけた。(この向山の怒りというのも、後の連合赤軍リンチ事件の序章になっている。)

 その後、向山は瓶コーラを自動販売機に補充するアルバイトをしながら東京・練馬区のアパートに引っ越した。この向山茂徳(当時20歳・浪人生-早稲田予備校生)、早岐やす子(当時21歳・日大看護学院中退)が最初の犠牲者となる。

 向山は浪人生ながら文学青年であり、夢は小説家という青年であった。長野県出身。諏訪青陵高校在学中から成績がやや低迷し、受験では立命館大、法政大などの試験を受けたが落ち、翌年も早大、明大の受験に失敗。したがって浪人生であったが、上京して東京・新宿の早稲田予備校の学生になっていた。そして諏訪青陵高校時代の同級生である岩田平治が東京水産大学の寮生であったが、その寮こそ、京浜安保の幹部たちが溜まり場にしている明鷹寮であった。いつしか、この向山は京浜安保に参加するようになっていた。通称は「ムケ」であり、年齢的には若手であったが〝斜に構えた小説家志望青年〟というキャラがウケたのか、年上の大槻節子(当時23歳・横浜国大生)の交際していた。

 早岐(はいき)やす子(当時21歳)は長崎県出身。佐世保南高校卒業後、日大看護学院へ進学し、その日大看護学院で中村愛子、伊藤和子と親交を持っていたが、1970年末頃に中村愛子が永田洋子にオルグされたのを切欠として、結局、中村、早岐、伊藤が京浜安保に入った。この三人は共に看護学院生であった事もあり別名「京浜三人娘」と呼ばれた。その京浜三人娘の中で、早岐だけが中退になっているのは、1971年に卒業論文拒否闘争のリーダーとなって学内闘争を展開した為、同校から退学処分に処された為であった。


 早岐は6.2日から山岳ベース・キャンプに参加していたが、参加から10日程度経過した時点で限界を感じた。早岐は「向山君のように無断で山を下りるのはよくないと思うので…」と前置きしてから下山の意志を表明した。早岐には、日大板橋病院に勤務する医師の恋人もあり、正直に「(その)彼に会いたい」とまで打ち明けた。しかし、仲間からの執拗な説得に次ぐ説得となり、結局、この早岐も前言撤回に追い込まれた。

 6.15日、早岐が脱走を試みる。しかし、この脱走は他のメンバーに見つかって未遂に終わった。脱走未遂を起こした早岐は殴られ、以降は脱走しないように見張られるようになった。永田は、この早岐の脱走防止の監視役を中京安保出身の小嶋和子に命じた。早岐は、例によって自己批判させられた。その中で早岐は、今後は作戦の為に積極的な兵士となりたいので、作戦の為の交番調査にも参加したい旨の表明をする。その決意表明が認められる。
【革命左派】  6.9日、革命左派が、丹波ヒュッテで拡大中央委委員会を開催。「銃を軸にした建党建軍武装闘争」を確認する。
 6.10日、永田率いる革命左派は、向山茂徳の脱走を受けて、小袖ベースが警察にバレる可能性があるとし、秩父連山に入って行き、笛吹川から塩山に下りた。山梨県東山梨郡三富村のアパートに入り、そのアパートを「塩山アジト」と呼び塩山ベース設営に向う。
 横山茂彦氏の「連合赤軍事件から50年──その教訓を検証する〈4〉脱落者・離脱者をどうするか?」が次のように記している。
 概要「革命左派内で、永田洋子のゲリラ路線に対して公然と反対する職場で労働争議を抱えた女性同志がいた。彼女は、元々革命左派は地道な労働運動を基盤にした組織だったことを踏まえて、労働運動を基盤とした党建設の立場から党の戦術をゲリラ闘争に限定するのに反対していた。川島豪-永田洋子ラインのゲリラ路線は70年安保後の新左翼の過激化に影響を受けたものであって従来の組織路線とのギャップが生じていた。この女性同志の異見に、永田洋子は『権力のスパイではないか』と疑惑した。坂口もこれに同調し、ひそかに処刑が検討されている。結局、処刑の結論が出ないまま推移し、革命左派は真岡銃砲店猟銃奪取事件の弾圧で逃亡を余儀なくされる。後に、この女性同志は、連合赤軍事件の公判を傍聴し、自らへのスパイ容疑の顛末を確認することになる」。
【赤軍派】  6.13日、赤軍派の板東隊が、長野県長谷村(現、伊那市)の工事現場からダイナマイトを入手する。
【赤軍派】

 6.17日、この日全国で「沖縄返還調印阻止6.17闘争」が繰り広げられた。東京では中核派.第四インターを中心とした約1万名が明治公園で、反帝学評、フロント、ML派など反中核派系約1万名が宮下公園で集会を開いた。両者とも、乗用車、材木、看板などで街頭バリケードや、線路上への座り込み、機動隊への火炎ビン攻撃などを展開したが、これにたいして、機動隊もガス銃などで応戦し、熾烈な攻防戦が展開された。

 集会終了後の午後8時50分頃、明治公園原宿付近で鉄パイプ爆弾が投げつけられ機動隊員2名重症、37名が負傷した。赤軍派の仕業だった。集会後各派が街頭闘争に移り機動隊との熾烈な攻防戦が展開された。この事件の容疑者として、赤軍派中央軍の少年(17歳)ら二人が殺人未遂容疑などで逮捕されたが、証拠不十分で処分保留となった。6月15日からこの17日までの3日間の闘争での逮捕者は1,061名にのぼった。

【両派】  獄中の革命左派の最高指導者・川島勧めを受け、革命左派が赤軍派幹部との会談を繰り返し統一赤軍結成に動き始める。
【両派】  7.6日、永田と坂口が、都内で赤軍派の森と軍の共闘について話し合い合意する。革命左派は、新党設立を提起したが、森は「当面、新党は無理だから、党の共闘を考えよう」と言い、そのための組織間の連絡手段の回復と、会議を開き党史を交換することを提案した。これに対し革命左派は了解した。
【両派】  7.13日、革命左派の小袖ベース跡地で、革命左派(永田、坂口、寺岡)と赤軍派(森、坂東)の正式な会合が持たれ、軍の共闘について再度確認、約束通り党史の交換をした。森は新党結成を前提において統一革命軍を結成しようと提起した。革命左派は賛成した。更に森は名称を「統一赤軍」にすること、組織は赤軍司令部、政治宣伝部、組織部によって構成すること、「銃火」という機関紙を出すことなどを主張した。革命左派は賛成した。日本共産党が設立された日にちなんで7.15日に統一赤軍の結成が決定された。会議を終え、赤軍派のアジトに戻った森は「革命左派をオルグしてきたぞ」と言ったと伝えられている。
【革命左派】  7.13日、革命左派の早岐が、静岡県の磐田駅前交番襲撃の下見調査の途中、仲間に「トイレに行ってくる」と言ったまま行方をくらませた。早岐の逃亡については、若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍~あさま山荘までの道程」と角間隆著『赤い雪』(読売新聞社)では少し異なる内容で描かれているが、この「トイレに行く」として逃亡した箇所は、2019年刊行の別冊宝島編集部編『証言 昭和史のミステリー』(宝島SUGOI文庫)の「新資料から読み解く連合赤軍~狂気の原点印旛沼事件」を参照している)

 向山に次いで早岐にも脱走された事で、山岳ベースには脱走者対策用の牢屋がつくられた。脱走者を連れ戻して、その牢屋で再教育してやろうというのが、その牢屋をつくった理由であった。
 7.15日、山岳ベースで異様な状況が発生する。向山と交際していた筈の大槻節子が、裏切られた怨嗟を含めてらしく、永田に「向山を殺るべきです」と向山の殺害を提案している。大槻提案が自発的なものか誘導的なものか分からないが、自発的なものとすれば、「人間的な感情を完全排除することで真の革命戦士になれる」という、或る種の洗脳的革命幻想に陥っていたと思われる。この心理が異常な大量連続リンチ殺人事件を引き起こしていくことになる。
【革命左派】  7.15日、革命左派の永田、坂口、寺岡が小袖ベースから塩山ベースに移動。

【結成】
 7.15日、第二次ブント系の「共産主義者同盟赤軍派中央軍(公然組織・革命戦線)」と毛沢東系の「革命左派神奈川県常任委員会人民革命軍」(公然組織・京浜(中京・関西)安保共闘)が合同して「赤軍(統一赤軍)」が発足した。

 革命左派は「反米愛国」、赤軍派は「世界同時革命論」と革命理論上の違いは大きかったが、唯武器主義とも云える「銃によってしか党をつくれない」という点で一致していた。元々赤軍派は資金力はあったが武器がなく、大量の検挙者を出して弱体化していたため、重火器を所有する京浜安保共闘との団結が必要だった。思想的には赤軍派は「世界同時革命論」、「革命左派」は「反米愛国、一国革命」と隔たりはあったが、「唯武器主義の貫徹」という点で合同した。

 発刊された機関紙「銃火」には次のような一文がある。
 「われわれはすでに武装した。敵から奪った銃を敵の心臓に撃ち込むことできたえられ、敵から奪った銃を味方のぶきとし、団結する軍隊である」。
 この「統一赤軍」という名称は、獄中にあった川島豪によって改称を迫られ、この「統一赤軍」は、結局は「連合赤軍」が正式名称として用いられることになる。

【結成後の足取り】
【革命左派】  7.15日、革命左派の永田達が塩山ベースに移動する。7.19日、永田と坂口が下山し、上京する。
【赤軍派】  獄中の塩見が、1971.7.15裁判開始後、接見禁止が解かれる中で川島、花園の「毛沢東教条、合流」の路線を批判し、「統一赤軍」を「連合赤軍」路線、共闘路線に改めさせる。同時に「前衛の軍人化(機関誌も発刊するが)」「社会主義都市ゲリラ路線」を」主張し、他方で毛沢東教条主義の「反米愛国路線」に対し「民族解放・社会主義革命」の路線を対置し批判していく。
【革命左派】  7月、「革命左派」で脱走者が出た為、革命左派が丹沢ベース設営。
【両派】  7.23日、四谷公会堂にて、統一赤軍結成集会開催。後に連合赤軍へ名称変更。「統一赤軍」の結成を知った革命左派の川島が名称変更を求め、それにより「連合赤軍」に変更されたと伝えられている。
【両派】  7.23日、赤軍派4名が鳥取県米子市の「松江相互銀行米子支店」に盗難車でのりつけ、そのうち3人が猟銃やナイフを持って店内に押し入って行員を脅し、現金600万円余りを強奪した。鳥取県警は直後県下全域にに緊急配備を発令、銀行から逃げ去った車両は国鉄乗り換え駅付近に放置されているのが見つかり、犯人達は列車に乗って逃走したものと見られた。

 その後、黒坂署員が県境の最寄駅から列車内検索を行なったところ、逃走犯の1人と見られる男を現行犯逮捕した。他にもタクシーで逃走中の1人も発見された。他の2人も検問にひっかかり、24日未明に逮捕された。4人は「松浦部隊」と呼ばれる実践部隊。これにより赤軍派と京浜安保との共闘が証明された。
【両派】  7.19日、新たに発足した統一赤軍の最高幹部・森は、京浜安保内で起こっていた出来事を知ってか知らずか、「スパイや離脱者は処刑すべきではないか?」と語ったという。7.21日、大槻節子が永田に報告をする。大槻いわく「向山は組織のことをテーマにして小説を書き始めている」、「早岐は喫茶店のマスターに『山に行っていた』と言っている。(仲良しの)中村愛子には『山を下りて、せいせいした』、『狭いアジトで、オイルサーディンみたいにぎゅぎゅう詰め。眠れたものじゃなかった』等と話している」と、報告したとされる。
【革命左派】  7.31日、大槻からの報告を受けた永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野の4名が話し合いを行ない、その際、寺岡の「殺るか」という一言から、戦線離脱逃亡している向山と早岐の殺害計画が具体的に動き出したという。

 横山茂彦氏の「連合赤軍事件から50年─その教訓を検証する〈4〉脱落者・離脱者をどうするか?」によれば、「その処刑に当たって、永田洋子(革命左派)は森恒夫(赤軍派)に相談をしていた。そのとき、おなじ問題(坂東隊に帯同していた女性が不安材料だった)を抱えていた森は、永田に『脱落者は処刑するべきやないか』と答えている。これが永田洋子と坂口弘ら革命左派指導部の尻を押した」とある。

【革命左派の「早岐絞殺事件」】
 8.4日、「革命左派」が早岐やす子を誘い出し絞殺。8.2日、早岐は、大槻節子と中村愛子に誘い出され、京浜安保のアジトの一つであった墨田区向島の小林荘なるアパートへ向かった。中村愛子は、日大看護学院の学生であり、同看護学院の早岐やす子、中村愛子、伊藤和子は、京浜三人娘などとも呼ばれていた間柄だった。その小林荘に、翌3日に金子みちよ(24歳)と杉崎ミサ子(24歳)がやって来て女たちの酒盛りを始めた。早岐は、その酒席で睡眠薬入りの酒を飲まされ意識が朦朧となった。この朦朧とした早岐は小嶋和子が運転する車で千葉県印旛沼へと運ばれ、吉野雅邦(23歳)、寺岡恒一(21歳)、瀬木政児(21歳)、小嶋和子(22歳・中京安保)に引き継がれた。車内で、寺岡と吉野が早岐に警察に組織の事を何も喋っていないのか、険しい表情で切り出した。その途中、早岐が反発し、その反発が逆上させ暴行死させられた。印旛沼の畔に着くと、吉野と寺岡は持参したスコップを持って降車し、目ぼしい場所に穴を掘り埋めた。吉野が永田洋子に報告すると、永田はガラガラ声で言った。「まだ終わってないわよ…向山が残ってるじゃない」。「向山君の隠れ家も分かったんですか?」と尋ねると、永田は「私の目は節穴じゃないわよ。あいつは西武池袋線の富士見台にいる。大槻を応援につけるから、できるだけ早いとこ、始末してきなさい」と吉野に命じている。

【両派】  8.6日、広島の反戦集会で統一赤軍結成を伝えるビラが配られる。

【革命左派の「向山絞殺事件」】
 8.10日、「革命左派」が小平のアジトで、向山茂徳(20歳)を絞殺。この日の朝、実家に帰省している向山の下に大槻節子(23歳)が訪れ誘い出している。二人で西武新宿線に乗って新宿駅へ着き飲食を共にしている。向山は大槻に言われるまま、(向山の高校の同級生でもある)岩田に会いに行く。新宿駅から国電、中央線で武蔵境駅へ行き、そこから西武多摩川線に乗り換え、その終点の是政駅で降り、岩田が居る筈のアパートへ案内された。向山が岩田いる一室のドアを開けた時、岩田の姿はなく、寺岡恒一、吉野雅邦、瀬木政児が居た。格闘の末、向山を気絶させた。吉野は、向山を、つい先日、早岐やす子の亡骸を埋めた印旛沼に埋めることにした。この時も運転手は小嶋和子であった。印旛沼へと向かう車中で、向山茂徳が息を吹き返した。車中で向山は泣きながら懇願したが叶わなかった。向山の遺体を早岐の遺体と同じ場所に埋めようと思ったが少し離れた場所に穴を掘って埋めた。

【両派】  8.18日、丹沢ベースで、赤軍派と革命左派が「連合赤軍」への名称変更を確認する。
【革命左派】  8.21日、革命左派の雪野が新宿で逮捕される。
【赤軍派】  9.1日、赤軍派が、駒止目高原の工事現場でダイナマイト120本を入手する。
【赤軍派】  9.25日、映画「赤軍ーPFLP世界戦争宣言」の宣伝隊が結成される。赤軍派の遠山が加わる。
【両派】  71年秋頃から警察の「アパート・ローラー作戦」が展開された。この作戦で、都内では20万棟のうち85%が調査され、メンバーはアパートのアジトを出ることを余儀なくされた。脱走者が出た為、新たなアジトとして丹沢、牛首、榛名、妙義山といった東京から比較的近い関東北部の山岳地帯にベース設営する。連合赤軍はそこで武装訓練に向かった。
 赤軍派と革命左派の組織的な交流がはじまる。婦人解放運動を指針させていた革命左派には女性が多く和気あいあいの雰囲気だったという。爆弾製造に精通した赤軍派の植垣康博(弘前大学理学部)らが革命左派の女性活動家たちに爆弾製造の講習を行っている。この時、キャンプに宿泊した植垣がつい女性の体に手を伸ばし、後に生活レベルの総括を要求されている。
【革命左派】  10.22日、革命左派の丹沢ベースから瀬木と松本が逃亡する。
【革命左派】  10.26日、革命左派の永田と坂口が丹沢ベースに戻り、撤収を指示。群馬県の山岳へ調査隊を出す。
【赤軍派】  10.28日、赤軍派の植垣と山田が、軍事訓練用の山岳ベース調査に出発する。
【赤軍派】  11.13日、赤軍派の板東、植垣、進藤が新倉ベースに入る。
【革命左派】  11.21日、革命左派が、是政アジトで加藤能敬ら5名が逮捕される。これにより新倉ベースを設営する。
【革命左派】  11.23日、革命左派が、群馬県榛名山へ移動し、ベース建設を始める。
【赤軍派】  12.1日、赤軍派の青砥、行方、遠山が新倉ベースに到着する。

 「コロナで脚光、東京都医師会会長の兄は元「革命左派」 弟に送る言葉」(週刊新潮 2020年8月27日号掲載)。
 「コロナに夏休みはない。国会を開き、国がすべきことを国民に示し、国民、都民を安心させてほしい」。東京都医師会の尾崎治夫会長(68)がこう訴えたのは先月のこと。会見はSNSなどで拡散され、喝采を浴びている。そんな会長に、医療関係者から「政権に平気で噛みつくあの過激さは兄上の影響?」との声が……。
 近ごろすっかり安倍総理の影が薄くなってしまった。だから、「コロナに夏休みはない」と力強く主張する尾崎会長に疫病を過度に恐れる大衆の期待が寄せられるのも当然か。なにしろ、ドタバタ発進で「Go To」を推進する安倍政権にも、「経済活動を進めるのは結構だが、感染は抑えるメリハリの利いた施策が必要」と、ビシッとクギを刺す。そんな姿勢を見て、医療関係者が言うのだ。「尾崎会長には過激派だった兄上がいるんだって。赤旗日曜版にまで出ているのは兄上の影響かな」。その兄の名前は、たしかに新聞紙上にあった。〈過激派学生 銃11丁、弾500発を強奪〉 1971年2月17日、朝日新聞夕刊の1面である。その日未明、栃木県真岡市内の銃砲店に過激派学生6人が押し入った、真岡銃砲店襲撃事件である(のちの判決で奪われた銃弾は2300発と確定)。この初報は6人中2人の逮捕も伝えており、〈東京・八王子市の横浜国立大学4年で京浜安保共闘の活動家尾崎康夫(23)〉。そう記されている。
 社会の医者

 京浜安保共闘は、日本共産党革命左派の名称でも知られた、京浜工業地帯の労働者や学生が中心の過激派組織。あの永田洋子が最高指導者だ。のちにこの革命左派と赤軍派が合流して「連合赤軍」となるわけだが、真岡の事件で奪われた銃と銃弾は、合流前の赤軍派による金融機関強盗「M作戦」や、連合赤軍のあさま山荘事件で使われた。その“源流”とも呼べる事件の逮捕者こそ、尾崎会長の兄だったのだ――。

 いまも八王子市内に暮らす尾崎康夫さんを訪ねると、「治夫が弟なのは事実。でも、弟は弟、私は私。結び付けられるのは困る。私は事件で京都の刑務所に9年服役しました。出所以来、ずっとここで静かに暮らしています。親が残したテニスコートの管理人です」。彼の曾祖父と祖父は地元の村長。尾崎家は名士であるとともに、養蚕で財を成した大地主だ。「大学3年で東大安田講堂事件をテレビで見て共感するまでノンポリでした。サルトルやカミュを読んでいたから実存主義者かな。その後は毛沢東シンパ。京浜安保共闘では戦友たちと活動し、毛沢東の著作集を読み漁った。マルクスなど他の本は処分したけど、毛沢東だけは今も蔵にあります。当時は毛沢東の“権力は銃口から生まれる”との言葉通り、武装は必要と考えていた。教条主義的でした」。現在の弟にも少し触れ、「会長として言いたいことを言っているみたいだから、いいんじゃないの。昔、私らは社会の医者だと思っていた。社会のおかしい部分、医者でも治せないものを治そうとしていたんだ……」。爾来、半世紀。その激しさは今なお、弟の中にも確かに活きている。





(私論.私見)