「戦後学生運動08、70年安保闘争以降70年代の闘争概略」

 (最新見直し2008.6.20日)

 これより前は、第9期その1、70年安保闘争とその後に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「れんだいこの学生運動論」は、70年安保闘争でもって一応終結させていた。しかしながら、その後の70年代の闘争、80年代の闘争、90年代の闘争、2000年代の闘争を、やはりれんだいこ言葉で書き上げる事にした。ここでは、「戦後学生運動の考察/70年代の学生運動(1971−75」と「戦後学生運動の考察/70年代の学生運動(1975−79)」を一括し概括しておくことにする。

 但し、70年代以降の闘争はそれ以前の運動と違い格段に質が落ちる。ここまで為してきたように時系列的に検証するより、テーマ別に検討した方が適切なように思える。

 2008.6.20日 れんだいこ拝


【1971年の動き】 「戦後史71年当時」

【赤軍派と革命左派が連合赤軍結成】

 1.25日、赤軍派と革命左派の共同政治集会が東京・千代田公会堂で開かれ、「蜂起−戦争勝利」を確認した。その後両派は競うようにして「銃と資金の強奪(М作戦)」に向かった。これをマスコミが仰々しく採り上げ、運動側に「革命的陶酔」が醸成されるという、「唯武器派とマスコミの擬似共闘」が生まれた。

 7.15日、赤軍派と革命左派が「統一赤軍」(のち連合赤軍に改称)結成を宣言。連合赤軍は南アルプスでの軍事訓練、新党理論の形成に向かったが、その過程でリンチ殺害事件を起こしていくこととなる。


【三里塚闘争】
 新左翼急進主義各派は、三里塚闘争に向かった。

 2.22日、千葉県・公団、三里塚第一次土地収用強制代執行が行われ、三里塚農民は、決死隊が立木に自らの体を鎖で縛り付ける等して抵抗した。実に、三週間にわたって機動隊との闘いが続けられた。逮捕者は400名を越し、負傷者も重傷者41名を含む千名に及んだ。

 7.26日、千葉県・公団が三里塚の農民放送塔撤去などを強制撤去執行した。5日間にわたって死守戦が闘われ、逮捕者292名、負傷者500名を越えた。 

 9.16日、成田空港建設第二次強制代執行。三里塚農民の決死隊がヤグラや鉄塔に立てこもって抵抗した。東峰十字路での反対派学生集団と機動隊の衝突で堀田大隊機動隊員3名が火炎瓶や角材による攻撃で死亡、一小隊全滅、全員負傷。逮捕者375名。


赤軍派の重信房子がレバノンへ出国
 2.28日、赤軍派の重信房子がレバノンへ出国。京大全共闘の奥平剛士と結婚入籍し、奥平房子名のパスポートで出発した。

「6.1闘争」

 6.17日、この日全国で「6.17闘争」が繰り広げられた。東京では中核派.第四インターを中心とした約1万名が明治公園で、反帝学評、フロント、ML派など反中核派系約1万名が宮下公園で集会を開いた。両者とも、乗用車、材木、看板などで街頭バリケードや、線路上への座り込み、機動隊への火炎ビン攻撃などを展開したが、これにたいして、機動隊もガス銃などで応戦し、熾烈な攻防戦が展開された。

 集会終了後の午後8時50分頃、明治公園原宿付近で鉄パイプ爆弾が投げつけられ隊員37名が負傷した。赤軍派の仕業だった。集会後各派が街頭闘争に移り機動隊との熾烈な攻防戦が展開された。この事件の容疑者として、赤軍派中央軍の少年(17歳)ら二人が、殺人未遂容疑などで逮捕されたが、証拠不十分で処分保留となった。6.15日−17日までの3日間の闘争での逮捕者は 1061人にものぼった。


【沖縄で、沖縄人民党が琉球大生の革マル派活動家・町田宗秀を虐殺

 6.19日、真相が定かではないが、沖縄で日共系の沖縄人民党と革マル派が衝突し、「琉球大生の革マル派活動家・町田宗秀虐殺」事件が発生した。埴谷雄高、対馬忠行、高知聴ら九氏が「日共スターリン主義者に対する抗議と糾弾のための思想戦線統一を訴える共同声明」を発表し、抗議している。


「ニクソン.ショック」

 8.15日、ニクソンがドル防衛のため新経済政策発表。「ニクソン.ショック」といわれる。金とドルの交換一時停止。10%の輸入課徴金など東京外国為替市場はドル売り殺到。円高、ドル安となる。


沖縄返還」を廻る各派の闘争

 「沖縄返還」を迎え、新左翼系各派が様々な論理で闘争に取り組んだ。

 9.25日、沖縄国会のヤマ場を前に、中核派らの沖縄青年委員会のメンバー4人が、皇居内、宮内庁にレンタカーで乗りつけ、発煙筒、火炎ビンを投げつける事件があった。 

 10.16日、沖縄国会開会のさなか、東京など全国各地で、集会、デモが行われ、機動隊との衝突、交番への火炎ビン攻撃がおこった。

 11.10日、沖縄現地で、全軍労、県教組、官公労などによる、協定粉砕、批准阻止の空前といわれる島ぐるみのゼネストが行われたが、これに呼応して、本土でも、各地で集会、デモ、機動隊との衝突がおこった。

 11.14日、国会で強行採決のきざしがみえたこの日、全国32都度府県、80ヶ所に、10万人が集まって、阻止闘争が展開された。

 宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」を叫んで、渋谷に進撃、各所で機動隊と衝突した。200人の中核派部隊の火炎ビン攻撃をうけた渋谷署神山交番では、警備にあたっていた警官が、火炎ビンで火だるまになり、病院で死亡した。また、午後2時ごろには、国電池袋駅で、中核派の学生、労働者がもちこんだ火炎ビンが、満員の山手線電車内で炎上、乗客らが重軽傷を負い、火炎ビンを浴びた中核派反戦青年委の女教師が、病院で死亡した。深夜まで7時間にわたって渋谷駅や繁華街でのゲリラ戦が続き、この日の衝突で、313人が凶器準備集合罪などで逮捕された。

 11.17日、沖縄返還協定が衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発して、社会.共産両党と総評は国会請願デモ。

 11.19日、新左翼各派1万9000名が日比谷公園などに集まり、日比谷公園の各入り口に阻止戦をはって封鎖した機動隊と衝突。この時公園内の松本楼炎上。中核派の犯行。さらに、国電有楽町駅周辺から銀座一帯、大手町のオフィス街などで、火炎ビンを投げ、バリケードを築くなどのゲリラ戦が展開された。日比谷、丸の内周辺以外でも、各派によるバリケード市街戦が、都内各地で行われ、この日の逮捕者は1886名の大量逮捕となった。1969年11.16、17日の佐藤首相訪米阻止闘争時の1985名につぐ大量逮捕となった。

 11.20日、中核派の集会デモに対し、全面的な禁止措置が取られた。

 11.24日、沖縄返還協定法案が衆院本会議で強行採決され、自然成立した。


中核派と革マル派のテロ合戦続く
 10.20日、革マル派の水道橋美術学院生水山敏美が、横浜国大富士見寮で中核派に殺され、他数名重傷。革マル派は「中核派絶滅」宣言を行い、予告通リ攻勢にでることになる。この時、中核派は海老原君事件の時と同様に沈黙している。

 10.23日、革マル派が、首都圏の中核派拠点大学に対する一斉テロ攻撃。11.1日、革マル派が、中核派の長谷川英憲杉並区議事務所を攻撃。11.8日、革マル派が、京都大学前でビラ配りをしていた中核派20名を襲撃。11.10日、破防法違反容疑で松尾真中核派全学連委員長が逮捕される。

 12.4日、革マル派のテロにより、中核派の活動家・辻敏明(京大)、正田三郎(同志社大)が死亡。以降、中核派も「無条件且つ全面的に宣戦布告、カクマルに対する全面的殲滅戦争」を宣言。両派の全面的なテロ戦の展開となった。この時点から、中核派は、革マル派をカクマルと呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出している「K=K連合」批判を開始した。

 12.15日、革マル派のテロにより、中核派の三重県委員長・武藤一郎が三重市でビラ配り中に襲撃され死亡。この時、革マル派は、病院の医者のコメントを引いて「これは持病の結核と風邪により、急性肺炎を起こして死んだ」と声明している。


【1972年の動き】 「戦後史72年当時」

【連合赤軍事件発覚】

 2.17日、連合赤軍最高指導者森恒夫、永田洋子が群馬県妙義山アジト付近で逮捕された。 

 2.19日、連合赤軍メンバー坂口弘ら5名が長野県軽井沢の「浅間山荘」に乱入し、管理人夫人牟田泰子(31才)を人質にしてたてこもった。 あさま山荘事件発生。警察1500名が出動し、10日間にわたる銃撃戦の末逮捕した。この救出作戦中、警官2名が死亡、23名の負傷者が出た。この経過が現場中継され国民の多くが釘付けとなった。2.28日銃撃戦の末陥落。

 3.7日、連合赤軍メンバー12名のリンチ殺人遺体が発見される。京浜安保共闘時代の2名を含めて犠牲者14名。新左翼にショックを与える。


【ニクソンショック】
 2.21日、ニクソンが訪中して毛沢東首席と会談、27日米中共同声明を発表。二度目の「ニクソンショック」といわれる。

【革マル派と社青同解放派の衝突始まる】
 3.30日、大阪地評青年協集会の場で、解放派と革マル派との衝突がおこり、集会が一時的に混乱した。解放派は、組合青年運動の現段階及び共闘の現段階に配慮が足りなかった点があったとして、自己批判し、地評青年部段階へ提出した。

 4.20日、同じく大阪地評青年部段階で、集会がもたれたが、この集会・デモは何の混乱もなく終った。4.21日、東京日比谷公園において、全青協の集会デモがもたれ、この時解放派と革マル派は一触即発状態にあったが、解放派は衝突回避の労をとっていた。が、「革マル派は突然、卑劣にも、水道・反戦・全学連を背後から襲撃してきた」。

 これは、「4.21は、3.30問題を政治的に利用して、地青協・全青協への宗派的敵対の全面化にふみきった」ことを意味する。

 4.28日、沖縄、東京、大阪で労学業会が持たれたが、大阪集会で解放派と革マル派との衝突が発生、この中で革マル派系の木下氏が死亡するという事件が発生。この事件発生後、革マル派全都の部隊約三百が解放派全学連に攻撃を加え、寮に閉じこもる解放派と対峙状態に入った。結局、革マル派は攻撃をやりきれずに終った。

【日共−民青同内に新日和見事件勃発】

 日共は、1971.12月に第6回中委を開き、 合理的な理由もないままに突如「民青の対象年齢引き下げ」を決定し、その押しつけを民青同に迫っていくことになった。党中央は、これを「踏み絵」にしつつ反対派を浮き彫りにさせていった。

 72.5.7日、民青同幹部の党員会議が開かれたが、当然のように紛糾した。党中央は、会議直後用意周到に準備させた査問者リストの手筈に従い一斉に「査問」に着手した。川上徹氏(民青同系全学連初代委員長・民青同中央執行委員)始め有数の幹部達が捕捉され、分派活動をしていたという理由づけで一網打尽的に処分を受けることとなった。その実数は、宮地氏の「新日和見主義『分派』事件」で明らかにされている。

 これが新日和見主義事件であり、「日本共産党の戦後史において、現在の綱領路線を確立した以降に起きた事件の中で最も否定的な影響を及ぼし、現在にいたるもなお深刻な影を投げ続けているのが、1972年に起きた新日和見主義事件である」(「さざ波通信」)と言われているものである。「実に共産党系の青年学生運動の根幹部分で起こった査問事件であった」(「査問」前書き)、 「共産党の閉鎖的な体質が最も顕著にあらわれたものの一つが、この『事件』 だったと考える」(「汚名」)と、今日事件の当事者が語っているところのものである。

 これについては、別途「新日和見主義事件解析」で考察し、れんだいこコメントを「新日和見事件考」に記す。


【共産同戦旗派が「御茶の水解放区闘争」】
 5.13日、共産同戦旗派約600名が、神田周辺で、「御茶の水解放区闘争」と云われる火炎瓶闘争を敢行した。128名が逮捕され、これを契機として、戦旗派内に闘争の指導責任をめぐっての内紛が激化していくことになる。

【日本赤軍のテルアビブ国際空港乱射事件】
 5.30日(日本時間5.31日)、イスラエルのテルアビブ国際空港で日本赤軍3名が乱射事件。24名の死者、80名以上の負傷者発生。襲撃した奥平剛士(26才.京大)、安田安之(24才.京大)の2名はその場で射殺された。岡本公三(24才.鹿児島大)は逮捕され軍事法廷で終身刑の判決を受け収容された。パレスチナ入りした日本赤軍の旗揚げ的な意味を持った軍事行動となった。

【田中政権の登場】

 6.17日、佐藤首相が引退声明し自民党内の後継争いが始まった。7.5日、自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催され、決選投票で田中282票、福田190票となり、田中角栄が第6代自民党総裁に選出された。


【日中国交回復】
 9.25日、田中首相と大平外相が中国へ。9.29日、「不正常な状態(戦争状態)の終了、中国が唯一の合法的政府であることを認める」など共同声明に調印し「日中国交回復」。これに反発した若手タカ派が「青嵐会」を結成した。

【早大で革マル派による「川口君リンチ殺害事件」発生】

 11.9日、早大で革マル派による「川口君リンチ殺害事件」が発生した。革マル派による早大文学部2年生の川口大三郎(20才)君を中核派とみなしたリンチ殺害事件であることが判明した。革マル派は、事件に対し、概要「追及過程での意図せぬ事態、ショック症状による死亡---党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない。一部の未熟な部分によって起こった事態---率直な自己批判を行う」と表明した。

 早大生が激しく反発し、革マル派の暴力的キャンパス支配と相俟って政治責任を問う前代未聞の闘争が始まる。


【1973年の動き】 「戦後史73年当時」

【日本赤軍とパレスチナゲリラのハイジャック事件」発生】
 7.20日、テルアビブ事件1年2ヶ月後日本赤軍・丸岡修とパレスチナ.ゲリラ4名が日航ジャンボ404便をオランダ.アムステルダム空港離陸後ハイジャックした。「日本とパレスチナの革命を結合する世界革命戦争」を唱えた。3日間各地を転々としてリビア・ベンガジ空港で人質解放、機体を爆破した。

【革マル派が社青同解放派襲撃。革マル派の諜報員2名が殺害される事件発生】

 9.15日、社青同解放派が、神奈川大で革マル派の金築寛(東大生)と清水徹志(国際基督教大生)君を虐殺。その経緯は次の通り。9.14日未明、反帝学評約50名が「9.15ミッドウェー母港化反対闘争」に向けて拠点校の神奈川大学に泊まり込んでいたところ、翌15日午前1時45分頃、覆面姿の革マル派約150名が鉄パイプで襲撃し、相互に多数の負傷者が出た。この間、反帝学評約20名がレンタカーで動向視察していた革マル派2名(東大生、元キリスト教大生)を捕まえ、鉄パイプで滅多打ちにして殺害し、現場から5km離れた浄水場裏に遺棄した。これ以後、反帝学評(社青同解放派)も革マル派との抗争を開始した。


【中核派と革マル派の相互絶滅戦争始まる】

 9.21日、中核派が、革マル派の学生・労働者の闇討ち襲撃を開始、とある。10.8日、革マル派が「前進」を印刷中の毎夕新聞社を襲撃。10.20日、革マル派約170名が、東京・横浜・大阪・京都の中核派拠点12ヶ所を一斉襲撃。10.22日、中核派が国学院大の女子活動家をバールで襲撃、とある。


【「第1次オイルショック」】
 10.17日、第一次オイルショック。OPECが原油価格21%引き上げを発表。

【1974年の動き】 「戦後史74年当時」

【中核派、社青同解放派と革マル派の相互絶滅戦争激化する】
 1974年、革マル派は「党派闘争勝利宣言」を出し、それ以後の中核派などの内ゲバについて、「権力の謀略」という説を打ち出した。この頃までは、革マル派の相対的優位が続いていたが、押されぎみであった中核派が次第に攻勢に転じ始める。この年、内ゲバで6名死亡、297名重軽傷を負う。(詳細は「」に記す)

【「日本赤軍のゲリラ闘争」】

 1.31日、日本赤軍、パレスチナ.ゲリラとの共闘ゲリラ作戦第二弾。和光春生.山田とパレスチナ.ゲリラ2名がシンガポール島のシェル石油タンクを爆破。

 2.6日、パレスチナ.ゲリラ5名がクウェートの日本大使館占拠、和光らの送還を日本政府に要求、政府はこれを呑み日航機を出し、日本赤軍.パレスチナ.ゲリラメンバー9名を南イエメンに運んだ。 

 9.13日、先に逮捕された赤軍派メンバーの奪還目指して、和光.奥平純三、西川純がオランダ.ハーグのフランス大使館占拠、同年7月パリで逮捕された山田義昭の釈放を求め、奪還に成功した。日本赤軍単独の「独立作戦第一号」となった。


【ニクソン辞任、フォードが大統領に就任】

 8.5日ニクソン辞任。「ウオーターゲート事件」。8.9日、ジェラルド.フォードが第38代大統領に就任。副大統領はロックフェラーが指名された。


【東アジア反日武装戦線が東京丸の内の三菱重工を爆破】

 8.30日、東アジア反日武装戦線、東京丸の内の三菱重工を爆破、死者8名、負傷者385名。以降この種の爆弾テロが続く。


田中退陣、三木内閣発足

 11.26日、田中退陣表明。在任期間2年4ヶ月で終わった。金脈追求で行き詰まる。河野洋平らが離党して新自由クラブを結党。後継総裁選びが難航した。「三角大福」と云われていた福田、大平、三木、中曽根が予想された。調停役は副総裁の椎名悦三郎。椎名の裁定で三木が指名された。12.9日、三木内閣発足。


【1975年の動き】 「戦後史75年当時」

【中核派の最高指導者・本多が虐殺され、報復戦に突入する】

 3.6日、革命マル派の機関紙「解放」の発行責任者・難波力こと堀内利昭が、東京渋谷区内の路上で中核派のテロにより殺された。

 3.14日未明、中核派最高指導者本多延嘉書記長革マル派にテロられ死亡。革マル派は、「解放」(3.24日付)で次のように宣言、犯行を認めた。「わが全学連の革命戦士は、反革命スパイ集団・ブクロ=中核派の頭目、書記長本多延嘉を、川口市内の隠れ家において捕捉し、これにプロレタリアートの怒りをこめた階級的鉄槌を振り下ろした」、「我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめ」、「殺害を目的としたものではなかった。わが戦士の燃えたぎる怒りが激しくて、結果として死亡ということになった」と声明した。

 中核派の怒りは凄まじく、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。警視庁は19日に専従員配置を決定したが、報復は続いた。革マル派は「一方的テロ停止宣言」。しかし内ゲバを完全にやめたわけではなく、また中核派側の攻撃はおさまらず、死者は増えていくばかりとなる。この年だけで15人もの革マル派活動家が殺害された。


 他方で、革マル派は、社青同解放派に対するテロを仕掛けている。
6.24日、静岡県伊東市内にある歌手・加藤登紀子の別荘で戦闘。泊まって武闘訓練をしていたとみられる反帝学評の元九大生(26人)が死亡、9人重軽傷。加藤夫妻は「無関係」と記者会見を開いた。

 7.17日、皇太子夫妻の沖縄訪問に反対して国電蒲田駅周辺で集会・デモを行なっていた革マル派、中核派の約200名が新橋駅山手線内回りホームで衝突。この衝突で1人が死亡、44名が重軽傷。136名が暴力行為の現行犯で逮捕されている。


日本赤軍によるクアラルンプール事件発生
 8.4日、日本赤軍によるクアラルンプール事件発生。和光.奥平.日高と他の3名の6名でマレーシア・クアラルンプールの米、スウェーデン両大使館を占拠、アメリカ領事などを人質にし、同年3月スェーデンのストックホルムで逮捕され、日本に強制送還された西川純ら2人と他の獄中赤軍メンバーの釈放を要求、政府は超法規的に5人を釈放、クアラルンプルに送る。の釈放を要求した。日本政府はこれに応じ「超法規的措置」で獄中7名の釈放が決められた。西川.戸平.元赤軍派坂東国男.松田久.東アジア反日武装戦線佐々木則夫らが釈放され、リビア入りした。

【1976年の動き】 「戦後史76年当時」

【ロッキード事件勃発】
 2.4日、アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード社の贈収賄工作が証言された。日本の場合、小玉、丸紅、全日空、小佐野賢治らを通じて、約36億円の工作資金が流れたといわれた。「ロッキード事件発覚」。

反日武装戦線が北海道庁爆破
 3.2日、北海道庁爆破、死者2名、負傷者74名。反日武装戦線犯行声明。

日共が異例の臨時党大会
 7月、日共が異例の第13回臨時党大会を開き、ロッキード事件の徹底追及を申し合わせた。「自由と民主主義宣言」。

田中元首相が東京地検に逮捕される

 7.27日、田中元首相が為替法違反、受託収賄罪で東京地検特捜部に逮捕された。


三木首相が辞任し、福田内閣発足

 12.17日、三木が辞任表明。総選挙敗北。12.24日、福田内閣発足。 


【1977年の動き】 「戦後史77年当時」

社青同解放派の最高指導者・中原が虐殺され、報復戦に突入する
 2.11日、革労協書記局長で解放派筆頭総務委員・中原一こと笠原正義氏が、茨城県取手駅付近で革マル派に襲われ、鉄パイプでメッタ打ちにされて翌12日頭蓋骨骨折で死亡した。事件後革命マル派は、「革労協の最高指導者である中原一に対して、革命的鉄槌を下した。これはあくまでも、我々労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的戦いである」と声明した。

 これに対し解放派は、「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」と声明し、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の前面に踊り出ることとなった。

 4.15日、解放派が、埼玉県浦和市内で、革マル派4名焼死させる。4.17日、革労協活動家が犯行声明を出す。「革マル政治局員藤原隆義ら4人を打倒!2.11中原同志暗殺に対する怒りの革命的テロル炸裂!更に、すさまじい革命的テロルの猛攻を黒田ら反革命頭目の頭上に」。


【日本赤軍がハイジャック事件を起し、獄中メンバーを釈放させる】
 9.28日、丸岡.和光.佐々木.坂東.戸平の5名の赤軍メンバーが、パリ発東京行き日航機をインド.ポンペイ上空でハイジャック。ヨルダンで拘置中自殺したとされる日高の虐殺への抗議と日本へ強制送還された奥平純三の奪還を目指したものだった。日本政府の「超法規的措置」により奥平.元赤軍派城崎勉.東アジア武装戦線大道寺あや子、浴田由起子、一般無期懲役囚泉水博、懲役10年の刑を受けて控訴中の殺人犯仁平映らが釈放された。泉水.仁平は、獄中で待遇改善要求闘争などを展開している「獄中者組合」のメンバーであった。バングラデシュのダッカ空港で獄中犯6人と身代金600万ドルを日本政府から奪取、6日間の飛行ののちアルジェリアで人質全員を釈放。

【1978年の動き】 「戦後史78年当時」

【中核派、社青同解放派と革マル派の党派ゲバルトのその後の経緯】

 1.27日、解放派は、「2.11反革命一周年決戦へ全党全軍総決起」をうたい、勝田市.水戸市などの茨城県下で革マル派3名を殺害、3名に重症を負わせた。

 78年以降、党派間ゲバは中核、解放両派の革マル派への熾烈な復讐戦として、一方的に、革マル派の死者が増加する。が、81年以降、次第にそれも減少の方向に向かってきた。それまでの死者の合計80人のうち中核派による革マル派の殺害43名、解放派の革マル派殺害22名、革マル派の中核、解放両派殺害14名、その他1名である。


【三里塚闘争】

 2.6日、三里塚、横堀、要塞攻防戦。二日間にわたる激闘。45名逮捕。

 3.26日、開港予定日を4日後に控えた成田空港の管制塔に第四インターなどのゲリラ部隊が突入、三里塚空港内に地下排水溝から侵入、管制塔内部を破壊、開港を二ヶ月遅らせる。


【ベトナムのカンボジア侵攻】

 6月、ベトナムがカンボジアに侵入。 8月、中国がベトナムに侵入。


【福田首相が党首選に破れ大平内閣登場】

 11.1日、初の自民党予備選が告示された。これが自民党を二分させる福田と大平の争いの勃発となる。自身万万だった福田は、「予備選の結果を尊重せねばならない。二位のものは本選挙で降りるのが筋だ」と発言する。11.26日投票、27日開票。結果は、大平55万0891票、福田47万2503票、中曽根29万0987票、河本8万8091票。二位に終わった福田は自らの発言に縛られ本選挙を辞退した。ここに大平が総裁に確定した。

 12.7日、第一次大平内閣発足。竹下登衆院予算委員長。大平首相の政治哲学が次の様に明かされている。「政(まつりごと)は小魚を煮るが如し」。「政治は小魚を丁寧に煮る慎重さがなければいけない。ともすれば、丁寧に政治をする部分が欠けることになる。自戒せねばならない」。


【1979年の動き】 「戦後史79年当時」

【社青同解放派と革マル派の絶対戦争続く】

 (解放派の襲撃)

 11.16日午後7時10分頃、新宿区愛住町の外苑東通り路上で、若い男2名が10数名のグループに取り囲まれ、大型ハンマーや鉄パイプで全身メッタ打ちにされ、一人が死亡、もう一人も翌日病院で亡くなった。襲ったグループはトラックで逃走、トラックは2km離れた新宿6丁目に乗り捨てられていた。これは10月に横浜市内で盗まれた車両だった。死亡したのは横浜国大教育学部S(26歳)、北大生K(26歳)。所持品などから革マル派の活動家とわかった。

 (革マル派の襲撃)

 11.21日、革マル派による3件の襲撃寺家があった。午前4時40分頃、藤沢市大鋸のアパートで、学生2名が黒ヘルをかぶった11名の男に襲われ大怪我。寝こみを襲われたもので、逃げようとして下着姿のまま階段や庭先に倒れていた。

 また同じ時刻、平塚市南原で、8名の男がはしごをかけてビルに侵入し、中にいた人をメッタ打ちにした。そして午前7時過ぎ、八王子市椚田町でも2人が重傷を負う事件があった。この一連の事件で、革マル派は「革労協の軍事アジトを摘発した」という声明を出した。


【ソ連がアフガニスタン侵攻】
 12月、ソ連もアフガニスタンに侵入。

 これより後は、「第10期その1、戦後学生運動の考察/80年代の学生運動に記す。





(私論.私見)