1962~1963年 | 全学連運動史第6期その3 |
全学連の三方向分裂固定化 |
更新日/2022(平成31.5.1栄和改元/栄和4)年.4.7日
これより前は、「第6期その2、マル学同系全学連の確立と対抗的新潮流の発生」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
1962年から63年までの動きを検証する。この期の特徴は、正統全学連執行部をマル学同が占め、民青同は別途に 全自連→平民学連経由で全学連を再建させていくことになる。これに対して、社学同再建派・社青同・構造改革派が三派連合しつつ全学連の統一を模索していくことになるも、マル学同との間に折り合いがつかず逆に緊張が高まるばかりであった。 |
【1962(昭和37)年の動き】(当時の検証資料) |
お知らせ |
当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1962年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。 |
1.5日、革共同全国委・黒田寛一が、前進77.78合併号で、「崩壊する国際スターリン主義と前進する革命的反戦闘争 1962年の新年に当たって」発表。
1.23日、全学連米ソ核実険反対統一行動、六十五名が清水谷公園に結集・デモ、解散後米大使館前に再結集、抗議集会。
1.25日、三派連合、政暴法粉砕・日韓会談反対・憲法改悪反対全都学生統一行動、三百名が氷川公園に結集、のち日比谷公園までデモ。
1.28日、マル学同部決起大会、草共同全国委黒田寛一議長の参院選支援を決議。
1月、社学同事務局派が大正炭鉱労組大正行動隊の要請で60名で日銀デモ。
2.08日、南ベトナムに、アメリカの軍事援助司令部が設置される。軍事顧問団の名で米兵の派遣が拡大された。
【社革(準)の分裂】 |
2.2日、社革(準)第三回全国委員会で、参院選対策を巡り社革(準)がサークル派と綱領派に分裂した。設立以来、社革(準)を各グループの連絡協議組織と位置付け、構造改革論を主柱に据えて日共や社会党などから同調者を糾合しようとする春日らのサークル派と、前衛党結成を目標に綱領を作り組織整備をしようとする西川らの綱領派の対立があり、これが決定的となった。 |
2.4日、春日らのサークル派が正式に社革(準)を離脱。社革(準)は議長に西川彦義を選出。 |
2.5日、サークル派が統一社会主義同盟を結成。代表委員・春日庄次郎、山田六衛門、書記長・村田恭雄。同時に学生組織として社会主義学生戦線を結成。 |
8月末、社革(準)が学生組織として日本共産主義青年同盟準備会(略称:共青(準))を結成。1月頃から綱領派が設立準備をしていた。 いつ頃かは不明であるが、準備会から同盟へ発展。 |
2.13日、日共東京都委主催・民青同東京都委・日共中央「学生新聞」後援・学生戦線の統一と参議院選の勝利のための全都学生集会開催、六百名参加。
2.24日、社学同反事務局派学生百名、憲法調査会関東地区公聴会実力阻止闘争、会場〔都市センターホール〕入口にピケをはり機動隊と衝突、一名逮捕。
2.26日、社学同東大本郷・東大教養・早大の三支部〝全国の社会主義学生同盟員へのアピール″発表、事務局派追放を訴える。
3.3日、アメリカが4月に核実験再開を行う声明をした。全学連在京中執・中央委員ら六十名、米大使館に抗議、三名逮捕。
3.28-29日、日共全国学生党員活動者会議、参院選を通じて細胞強化・昭和女子大問題重視等を討議。
3.30日、社学同再建第1回都大会〔小松川公会堂〕が開催された。事務局派追放・憲法闘争重視の方針決定、新都委(委員長・佐竹茂)を選出。
3.30日、国労の春闘支援で全学連百名、品川駅構内に結集、翌朝まで集会・デモ、スト中止で警官隊に排除。
3.31-4.1日、全学連第三十回拡大中央委〔中央労政会館・芝児童会館〕、米ソ核実験反対・憲法公聴会阻止の四・五月闘争方針等を決定、4.27日米英学生統一行動を決定。
全学連第31回中央委で、参議院選挙に全国で黒田寛一(革共同全国委議長)を推薦することを決定。
「社共の議会主義を弾劾するための立候補」という論理であった。この選挙応援がマル学同の分裂を誘発することになる。
3月、日韓外相会談。
3月、東京原水協の大衆集会に、マル学同全学連の活動家がなだれ込んで、「米ソ核実験反対をしない原水協はナンセンス、解体せよ」と云いながら会場を占拠し、流会させた。なお、モスクワの赤の広場で米ソ核実験反対を呼号している。
3月、共産同東大本郷細胞を解散し、社学同(少数派)機関紙「蜂起」創刊。ブント関西委員会と関西社学同が社学同再建大会を開催。
3.30日、社学同第一回都大会、事務局派追放。書記局派、東京社学同再建。
4.7日、福岡憲法公聴会阻止闘争、九州学連中心に二百名、会場〔福岡ビル〕内坐り込みで警官隊と衝突、十名逮捕。
4.11日、社学同、社青同、構改派の三派による都自治会代表者会議〔東学館〕開催、改憲阻止を中心とする闘争方針を決定。
4月、キューバ危機。
4.12日、高野秀夫が神戸大学講演で、「『最近は構造改革の問題がはやりになって……すぐこざかしく評論家ぶって学生運動家らしからぬ形で、この問題に取り組む人達が多くなっていてることを、私はきわめて残念におもいます」と発言。
4.13日、全学連、原水協主催・米核実験阻止中央集会〔日本消防会館〕に百名参加、米大使館デモを主張するが受け入れられず、単独・無届デモ敢行、機動隊と衝突、二名逮捕。
4.18日、三派連合、改憲阻止・日韓会談反対・核実験抗議第一波統一行動、百五十名が氷川公園に結集、新橋までデモ。
4.25日、全学連、米核実験再開に緊急抗議行動、二百名が集会〔法政大〕の後、米大使館にデモ・機動隊と衝突、兵庫県学連二百名、米領事館に抗議団派遣。
4.26日、三派連合、核実験反対・改憲阻止全都学生統一行動、決起集会〔日比谷野音〕に八百名結集・デモ、全学連五百名は早大で全都集会、のち溜池から米大使館にデモ、全国各地で集会・デモ。
4.27日、全学連、米ソ核実験再開反対・日英米国際学生統一行動、中央集会〔日比谷野音〕 に千五百名参加、のち米大使館にデモ・坐り込み、道学連千二百名、集会〔大通公園〕・デモ、九州学連千五百名、集会〔大濠公園〕・デモなど全国各地で七千名が集会・デモ。三派連合(社学同)、日米ソ核実験再開抗議集会。社学同、社青同、構造改革派の三派は別個に抗議集会。
4.28日、仙台憲法公聴会阻止闘争、社学同・社青同系五十名、会場〔県議会〕に突入をはかり警官と衝突、十名逮捕。
4.30―5.1日、「法大メーデー前事件」が発生している。メーデーを前にして、マル学同が、「全学連の下でメーデーを行うべきなのに、分裂工作をしている」として、構造改革派の法大法学部自治会幹部4名を拉致監禁し、一晩中自己批判を迫りつつ暴行した。
4月、「関西ブント・社学同」が結成される。1966年のブント再統一まで維持されることになる。「関西ブント・社学同」は、革共同的「ブントの安保闘争批判」を批判して、ブント下の学生運動の戦闘性を評価し、小ブル急進主義であろうと闘争を展開すべきであり、労働者至上主義を掲げても運動を組織できなければ意味が無い、と主張した。プロ通派の流れを汲んでいたが、プロ通派が革共同の軍門に下ったのに反発し、「政治過程論」を打ち出し対抗した。
なお、東京の中大と明大ブントはそれぞれ独自の勢力を保ち、「独立社学同」として踏みとどまった。このグループは、大学管理法反対闘争で剋目させる闘争を組織した関西ブントに一目置き、以後緊密な繫がりを持つようになり、1966年のブント再建に繋がる。
【関西ブント結成】 | ||||
4月、第一次ブント崩壊後の動きとして田原芳・氏らをイデオローグとするブント関西地方委員会が関西共産主義者同盟(同志社大学・飛鳥浩次郎議長)を結成した。関西ブントを始めとするブント再建派が1965.8月に共産同統一委員会を結成し、1966.9月の第二次ブント再建する。更に、関西ブントが中心となって1968.8月の共産同赤軍派結成に向かうことになる。 塩見孝也氏は、2003.3.31日、「赤軍派始末記―元議長が語る40年」(彩流社)の中で次のように述べている。
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5.1日、第三十三回メーデー。全学連4千名が参加。社学同・社青同の学生50名が憲法改悪反対・核武装反対をとなえて自民党本部に突入。総裁に面会を要求し総裁室占拠、46名が逮捕される。京都では府学連千五百名、統一集会に参加、デモ解散直前機動隊と衝突、一名逮捕・四十名負傷。
5.2日、構造改革派系の社会主義学生戦線(フロント)が結成される。上部団体は統一社会主義同盟。共青同を凌ぐ勢いを見せていくことになる。
5.4日、全学連全国自治会代表者会議〔全逓会館〕、五十七校代表三百名参加、反戦闘争の徹底化を討議。
5.10日、民青系が都立大に27大学34名の代表で、「安保反対・平和と民主主義を守る東京都学生共闘会議」を結成した。
5.11日、ブント系社学同と社会党系社青同、構造改革派の反マル学同三派連合が改憲阻止闘争で自民党本部に突入。50名が
5.14日、全学連が、広島で憲法公聴会阻止闘争に400名参加。
5.17日、全学連反戦統一行動、中央集会〔日比谷野音〕に五百名参加、米大使館デモを機動隊に阻止され虎の門交差点坐り込み。
5.25日、全学連反戦統一行動、中央集会〔清水谷公園〕に千名参加、米大使館デモを機動隊に阻止され特許庁前坐り込み、道学連、米札幌領事館に千二百名の抗議デモ、金沢で四百五十名の市内デモ、三派連合、改憲阻止全都学生統一行動、千名が氷川公園結集・日比谷公園までデモ。
【大管法闘争】 |
5.25日、池田首相は、大学管理問題として「大学が赤の温床」になっているとして大学管理法の必要性を強調した。これが大管法闘争を引き起こした。民青同系は、この大管法闘争に真っ先に取り組み、この過程で、日共系が、6.1日、全自連崩壊の後を受けて東京学生平民共闘を正式に発足させた(平民とは「安保反対・平和と民主主義を守る」という略語)。ちなみにこの時大管法闘争を重視したのは民青同系と構造改革派系だけであり、いわゆるトロ系急進主義者は闘争課題に設定していなかったようである。 |
5.30日、三派連合が、反改憲、反日韓、反核実験闘争。社学同事務局派20名、炭労の大正炭鉱支援打切りに抗議して炭労本部にデモ、5名逮捕。
6.1日、京平民共闘準備委主催・ラオス干渉反対・軍事基地撤去都学生集会〔清水谷公園〕、4百名参加、のち日比谷までデモ、東京平民共闘正式に発足。
6.9日、韓国の反米救国闘争に呼応し在日朝鮮人学生決起大会開催〔豊島公会堂〕、二千名参加。
6.9-10日、全学連第三十一回中央委〔西式健康会館・豊島振興会館〕、大会冒頭大管法改悪反対で二百名による緊急文部省抗議デモ、参院選に黒田寛一を推薦、大管法阻止全国学生共闘会議の設置等を決定。
6.15日、三派連合、改憲阻止・大管法改悪反対全都学生統一行動、八百名が日比谷野音に結集・国会デモで三名逮捕、京都府学連集会〔立命館大〕には二千五百名結集、円山公園までデモ・一名逮捕、九州学連八百名は自民党福岡県連に抗議デモ。
【樺美智子追悼二周年】 | |
6.15日、千代田公会堂で樺美智子追悼二周年が開かれた。学生、労働者、市民ら千名が参加したが、後の革マル派に列なると思われるマル学同のらしさを象徴する醜態が演ぜられた。これを「6.15日樺美智子追悼二周年」と云う。次のように批判されている。
社学同は、樺美智子追悼・大学管理制度反対の集会とデモに800名参加、とある。 6月、この日のマル学同の暴挙に対し、清水幾太郎、香山健一、森田実、吉本隆明など数10名が署名を寄せて「黒寛教祖を仰ぐ狂信的宗教団体マル学同の暴挙を許すな」共同声明が出された。 この時期に於いて、黒寛マル学同が「狂信的宗教団体」であると見られていたことを示している。 |
6.15-17日、全学新第十五回大会「東京-「執行部(構改系)と学生ジャーナリスト会議(マル学同系)が対立、混乱のうちに流会。
6.21日、京都府学連、大管法改悪反対・改憲阻止全京都総決起集会〔立命館大〕に千三百名参加、市内デモで機動隊と衝突・十数名負傷、大阪府学連決起集会〔中之島公会堂〕に千二百名結集、市内デモで機動隊と衝突・五名逮捕・五十名負傷。
6.22日、三派連合、大管法改悪反対全都総決起集会〔清水谷公園〕に八百五十名結集、文部省前坐り込み。
6.27日、大管法改悪反対都学生共闘会議〔早大〕、都内十一大学二十五自治会代表参加、構改系と社青同系が社学同系をボイコットして結成。
6.30日、三派連合、大管法政悪阻止全国学生共闘会議第一回準備会開催〔衆院第二議員会館〕(7月2日第二回準備会、全自代開催を決定。
7月、書記局派、社学同都学連大会開催。
7.1日、第6回参議院選挙に、革共同全国委が「革命的議会主義」を旗印に、「反帝国主義、反スターリン主義の反戦闘争」というスローガンをたてて、黒田寛一氏を全国区から出馬させていた。但し、得票数は2万3千票で、右翼の赤尾敏氏の12万2千票余にも及んでいない。
7.2日、全学連、ソ連核実験再開声明に夜、百名を緊急動員、ソ連大使館に抗議デモ。
7.4日、三派連合、大管法改悪反対・改憲阻止統一行動、四百六十名参加、集会〔清水谷公園〕・デモ。
7.5日、全学連、大管法改悪反対全国学生共闘会議第一回会議〔全逓会館〕、五十一大学八十六自治会代表参加、一〇・一五全国スト等を決定。
7.7-8日、京都府学連第十九回大会〔同志社大・立命館大〕、憲法闘争・米ソ核実験反対闘争を総括、全学連大会にすべての潮流の参加を決議(委員長・清田祐一郎)。
7.8日、都学連(社学同系)第十五回臨時大会〔中野公会堂〕、社青同系・構政派系自治会代表はオブザーバーとして参加(委員長・佐竹茂)。
7.12-14日、三派連合、全国自治会代表者会議〔赤坂公会堂・明大・中野文化会館〕、三日目、社学同系は地方学連強化による改憲阻止闘争、社青同・構政派系ほ自治会共闘による大管法反対闘争を主張し対立、社学同系は実力で他二派を会場外へ追放。
【マル学同全学連第19回大会】 | |
7.14-17日、マル学同全学連第19回大会が開催された(委員長・根本仁)。反戦・参院選・憲法・大管法の各闘争を総括、九月憲法公聴会阻止・十月大管法反対全国スト等を決定、他党派解体のための党派闘争の貫徹を確認。
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7.14-15日、東京平民共闘の呼びかけで民青同系の統一組織結成の発起人会開催〔社会福祉会館〕、平和と民主主義を守る全国学生連絡会議(平民学連)結成を決定、八・三全国学生集会開催を決定。
7.17日、都学連・京都府学連(社学同系)、改憲阻止・大管法改悪反対闘争強化のため都道府県学連協議会への結集を訴う。
7.20日、名古屋憲法公聴会阻止愛知県学連(マル学同系)決起集会〔愛知大名古屋〕、参加した東京・京都の社学同指導メンバーに自己批判を強要して、十時間にわたりつるし上げ。
7.21日、名古屋憲法公聴会阻止闘争、社学同・社青同・マル学同系学生4百名、会場〔名古屋市公会堂〕前でそれぞれ機動隊と激突、社学同系学生25名が重軽傷、12名逮捕。
【反マル学同内で、ブントと構造改革派が対立。社学同が、全自代において社青同、構改派を暴力的に排除。一旦解体へ】 |
7月、反マル学同で一致した社学同再建派、社青同、構造改革派の三派が連合して「全自代」を開催した。かれらは全学連再建を呼号し続けたが、折からの大管法に取り組むのかどうかをめぐっての運動方針に食い違いが発生し、ブントは、「憲法公聴会阻止」闘争一本槍を 主張し、構造改革派が大管法闘争への取り組みを主張した。その他の諸運動においても社学同再建派と構造改革派の間にことごとく意見の対立が起こり、最終的に暴力的な分裂に発展した。ブントが武装部隊を会場に導入して、構造改革派派を叩き出した。こうして、連合したばかりの三派連合は空中分解した。 |
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この動きから判ることは、ブントの組織論における致命的な欠陥性である。一体全体ブント系は、「60年安保闘争」総括後空中分解したまま今に至るも四分五裂をますます深め統合能力を持たない。意見・見解・指針の違いが分党化せねばならないとでも勘違いしている風があり、恐らく「お山の大将」式に星の数ほど党派を作りたいのだろう。なお、
意見の相違については、ゲバルトによって決着させたいようでもある。しかし、
残念ながら少数派閥化することにより、このゲバルトにおいてもマル学同に対して歯が立たなくなってしまったのは致しかたない。 私見に拠れば、キャンパス内における反対派封殺がなぜ犯罪的であるかというと、既述したようにも思うが、右翼・宗教運動家らの跋扈には無頓着でありつつ左翼意識の持ち主がテロられる事により、結果として左翼運動全体がが縊死することになるからである。大体において学生内の左派系意識の持主は全体の2割もいれば良い方であり、この2割内で叩き合いをすることにより貴重な人士の輩出が制限されることになる。そういうことに無頓着過ぎるのがケシカラナイと思う。 これも既述したが、元々ブントは、カオス的世界観を基調にして運動の急進主義を主導的に担ってきたという経過がある。「60年安保闘争」の領導には、反対派の存在は許されるどころか、それらを前提としつつ主体的な自派の運動を創出していくことにより、圧倒的な支持を獲得してきたという自信が漲っていたのでは なかったのか。この前提を許容しえなくなったブントはもはやブントではなく、大衆から見放されるばかりの余命幾ばくかの道へ自ら転落していくことになったとしても致しかたなかろう。この経過もおいおいに見ていくつもりだ。 |
7月、社学同都学連、京都府学連共催で都道府県学連協議会結成。
第9回原水禁大会
【世界青年学生平和友好祭で、日共が「革新会議」を排除】 |
この年夏の世界青年学生平和友好祭日本実行委員会で、共産党の指示に基づいて民青同の代表は、この間まで運動を一緒に担っていた構造改革派系青学革新会議(革新会議)の参加を排除した。平和友好祭は元々、思想・信条・政党・党派のいかんにかかわりなく、平和と友好のスローガンの下に幅広く青年を結集する友好祭運動であったが、理由がふるっている。「革新会議はファシスト団体である」と言って参加を拒否したのである。昨日まで一緒に「平和と民主主義」 の旗印を掲げて闘っていた旧同志たちを、反代々木化したからという理由しか考えられないが、反代々木=反共=ファシズムという三段論法によりファシスト視したのである。 |
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これを「前時代的な硬直した思考図式」といって批判する者もいるが、れんだいこには、宮顕の「芥川論」考察で明示したように、氏の典型的な近親憎悪的気質による「排除の強権論理」の現れとしてしか考えられない。この論理は日本左翼(よその国ではどうなのかが分からないのでとりあえずこう書くことにする)の宿弊と私は考えている。いずれにせよ、この平和友好祭には自民党系の青年運動も参加していたようであるから、宮顕式統一戦線論に隠されている反動的本質がここでも見て取れるであろう。このことは、第8回原水禁世界大会をめぐっての社青同に対する度を超した非難攻撃にもあらわれている。労働組合運動にせよ、青年運動にせよ、組織的自主性を保障することは、党の指導原則であるべきことではあるが、何気ない普段の時には守られるものの一朝事ある時はかなぐり捨てられるという経過を見て取ることが出来る。先のカオス・ロゴス観で仕訳すると、宮顕の場合にはロゴス派の系流であり且つ統制フェチという特徴づけが相応しい。 私には、どう見ても宮顕を左翼運動の指導者とは見なせない。マスとしての左翼運動の盛り上げは一切眼中に無く、「排除の強権論理」により戦う人士の圧迫にのみ力を入れる性癖ばかりが目に付いて仕方ない。 |
8.1-6日、全学連、原水禁世界大会に対し連日大会弾劾・ソ連大使館抗議行動を展開、原水禁中央ほ警官出動を要請、学生合計三十四名逮捕さる、学生集会〔杉並公会堂〕に参加の社青同・民青同両派、ソ連核実験をめぐり対立・混乱、社青同系学生はのちソ連大使館にデモ。
8.3日、民青同系、平和と民主主義を守る全国学生集会開催〔国労会館〕、平民学連発足。
8.6日、国際学連大会に出席した根本委員長ほか3名が、モスクワの「赤の広場」で「ソビエトの核実験に抗議する」デモを行っている。
8.30日、マル学同第四回全国大会〔東京〕
8月、中ソ論争激化。
9.1日、社学同第二回都大会〔王子労政会館〕、憲法闘争至上主義からの脱却・大管法闘争への転換を確認。
9.1-2日、全学連、大管法改悪反対全国学生共闘会議第二回会議〔京橋公会堂・法政大〕、十月全国ゼネストに向けて総力結集を確認。
9.14日、全学連が、ソ連核実験再開の抗議デモ。450名参加。
【第三次社学同再建】 |
9.16日、社学同全国大会が王子労政会館で開催された。全国25支部150名を結集。味岡修が委員長になった。大会宣言の中で、概要「全学連の指導権を握ったマル学同は、運動の過程で問題を解決しようとせず、単なる『反帝反スタ綱領』の観念的思考に安住し、『既成左翼と変わらぬし思想的根拠を持つに至った』ので、全学連運動の沈滞をもたらした」と批判した。日本共産党については、「反米闘争を強調することによって事実上国家権力に対する有効な闘争を放棄している」と批判した。このたびの社学同はおってマル戦派と反マル戦派(ML派)へと分裂していくことになる。 |
【革共同全国委の内部対立(№1の黒寛と№2の本多の対立)が表面化する】 | |
9月、「革共同全国委の第3回総会」(「三全総」)が開かれたが、この時1・地区党の建設問題、2・労働運動戦術問題等々で、黒寛派と本多派にことごとく意見の対立が生じていることが露見した。黒寛派は、労働者の産別委員会を組織の中心に据えていくべきだと主張し、本多派は、党組織を地区委員会から党中央への順次積み上げ方式で再編成すべきだと主張した。労働運動の諸潮流への関与の仕方においても対立し、黒寛派は、「革共同以外の党派に指導されている労働運動は、いかに戦闘的であろうと批判を基本に据えるべし」と主張し、本多派は、「戦闘的労働運動がある場合には共闘し、実践の中で次第にヘゲモニーを獲得していくべきだ」と主張した。
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9.28-29日、憲法調査会中央公聴会阻止闘争、一日目、三派連合二百五十名・全学連二百名がデモで会場〔薬業会館〕に接近、機動隊と数度にわたり激突、二日目、三派連合・全学連三百名、会場突入をはかり機動隊と激突、逮捕者計十六名・負傷者多数。
【社青同全国学生班協議会が憲法公聴会阻止闘争を展開】 | |
こうした動きの中で社青同中央本部の学対中執佐々木慶明氏の指導する社青同全国学生班協議会(略して「学協」)が中心となり、仙台・名古屋等の憲法公聴会阻止闘争を展開した。実力闘争を全面的に否定し憲法の「完全実施」を求める改良闘争を個別的に積み上げていくことが、改憲に対する護憲の闘いであるとする中央本部との路線対立を次第に鮮明にしていった。この中央本部と全国学協の路線対立は次第に労働者同盟員にも波及していった。次のように記されている。
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9月末、憲法調査会の中央公聴会へのデモが、マル学同全学連.社学同.社青同.構改派など各派学生の合流によって行われている。 |
9月末、憲法調査会の中央公聴会へのデモが、マル学同全学連.社学同.社青同.構改派など各派学生の合流によって行われている。
10.5日、全学連、米ソ核実験に反対する労働者・学生の集い〔品川公会堂〕に千名参加。
10.6-7日、青年学生運動革新会議第一回全国委開催。
10.8日、大管法改悪反対全国統一行動、全学連・三派連合六百名、日比谷公園に結集、国会に向けデモ、機動隊と衝突・三名逮捕。
10.9日、革共同全国学生細胞代表者会議。
10.10-11日、全学連第三十二回中央委〔滝野川区民会館〕、革共同関西派系、対案を提出し執行部を批判するも受け入れられず退場、一〇・三一全国ゼネスト方針等を決定。
10.15日、中教審答申発表の日、全学連七十名、日比谷公園で決起集会、のち文部省に抗議デモ、京都府学連二百名は同志社大で集会、円山公園までデモ。
10.17日、三派連合、大管法粉砕一一・一闘争東京学生共闘会議開催〔教育大〕。
10.21日、日本平和委の呼びかけによる基地撤去・日韓会談反対統一行動、全国八カ所で展開、横田基地集会に平民学連系三千名参加。
10.22日、キューバ危機勃発。ケネディー大統領が、キャーバの海上封鎖を発表し、航行中のソ連輸送船の臨検を指示。米軍は臨戦態勢に入り、ソ連軍も警戒態勢に入った。10.28日、ソ連のフルシチョフ首相がキューバからミサイルの撤去を指示、米ソ軍事衝突の危機が回避された。
10.24日、米のキューバ海上封鎖に対して緊急抗議行動、各派百五十名で米大使館に抗議デモ、のちキューバ大使館で激励のシュプレヒコール。
10.25-26日、兵庫県学連第十二回大会〔神戸大〕、フロント系と民青同系の対立の末、日共一辺倒の県原水協非難決議を採択。
10.30日、中大・明大・法政大等三派系私学共闘二百五十名、東郷公園で決起集会、のち中大までデモ。
10.31日、マル学同全学連がゼネスト。大管法粉砕・キューバ封鎖反対全国統一行動、全国八十大学がスト・授業放棄で決起、東京では六百名が清水谷公園に結集、のち米大使館・文部省にデモ。
【日共系の「大管法闘争」】 |
10月、中央教育審議会が大管法答申を出してくるなど一段と現実味を増すことになった。この時民青同系は、大管法闘争に大々的に取り組んでいくことを指針にした。 11.13日、平民学連結成に向けての「全国地方ブロック代表者会議」を開催した。そこで、民青同系105自治会。三派連合86 自治会、マル学同51自治会という勢力分布が発表された。自治会占有率40%ということになる。63年中の全学連再建方針を決議した。1ヶ月半後に再び代表 者会議が開かれ、民青同系175自治会、反民青同系120自治会と発表し た。占有率60%ということになる。この間の自治会選挙で民青同系の進出がなされたということになる。 11.17日、民青同系が「大学管理制度改悪粉砕全国統一行動」を決定し、当日は東京3000名、全国7地区で集会、抗議デモを展開した。 総評・日教組・平民学連等十団体主催・大管法改悪反対全国統一行動、東京〔芝公園〕三千名(うち学生千名)を初め全国七カ所で集会・デモ。 |
【全学連各派による「大管法闘争」】 | |
大管闘争の盛り上がりを見て、三派連合も、更に遅れてマル学同もこの闘争に参入してくることとなった。 11.1日、社学同・社青同、構改派三派系が、大学管理制度粉砕全国統一行動。東京では東大教養千五百名を中心に2500名が抗議デモ。清水谷公園に結集、文部省前坐り込み・五名逮捕、京都では府学連二千五百名が円山公園に結集・不許可の河原町コースを機動隊を突破してデモ。 この時、江田五月(社青同)が委員長だった東大C自治会は各派の完全共闘によってストに入り、東京における2500名のデモの中心部隊を形成している。また社学同がリードする京都徒でも3000名のデモが行われている。双方とも動員数がかなり落ちていた。(10.30日に三派連合が、11.1日にマル学同ともある)。 11.16日、三派連合、大管法粉砕関西統一行動、京都府学連、全京都学生総決起大会〔同志社大〕に千五百名参加、のち円山公園までデモ、兵庫県学連、八百名が神戸市役所で集会・市内デモ。 11.20日、四派(三派連合・マル学同)による全都統一自治会代表者会議開催〔東大教養〕、二・三〇統一行動(スローガン=大管法粉砕、行動方針=文部省抗議デモ)の実現を申合わせ。 11.30日、マル学同も含めた四派連合が形成され、安保闘争以来の大集会となった東大銀杏並木前に約6000名の結集で「大管法粉砕全都学生総決起集会」が持たれた(「東大銀杏並木6千名集会」)。文部省デモ・坐り込み、京都府学連集会〔立命館大〕に二千三百名結集・市内デモ、大阪府学連集会〔扇町公園〕に千五百名結集・市内デモなど全国三万学生が決起 この四派連合に対して、川上徹・氏の「学生運動」は次のように揶揄している。
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大管闘争に取り組む姿勢の違いの背景に、民青同系といわゆるトロ系には 、「大学の自治」に関する観点の相違があることがこの後次第にはっきりしていくことになる。分かりやすく言えば、民青同系は学園民主化闘争を重視し、トロ系はこれを軽視するというよりは欺瞞体制とみなし権力機構一般と同じく打破の対象としていくというぐらいに真反対の立場に立つ。この後この差が次第次第に拡幅していくことになる。この問題もまた左翼運動内の未解明な理論的分野であるように思われる。にも関わらず、相互に感情的に反発し合うだけで今日に至っているように思われる。この情緒性がたまらなく日本的と言えるように思う。 |
【四派連合を廻って、マル学同内部に深刻な対立発生】 |
革共同全国委内の黒寛派と本多派の論争・抗争がマル学同内部にも波及し、四派連合問題を発生させた。マル学同内は、三派との統一戦線闘争を組んだことの是非をめぐって論争を激化させた。「東大銀杏並木6千名集会」は、ブント、社青同などのヘゲモニーで開かれ、マル学同はその呼びかけに応えるという形で参加したが、全学連委員長・根本仁は、四派連合結成を良しとせず、これを押し進めた書記長小野田と対立していくこととなった。前者は後者を「大衆運動主義、ベッタリズム統一行動」と非難し、「反帝.反スターリニズム」の方針を貫徹し得なかったと総括した。後者は前者を「セクト主義」と非難し、引き続き四派連合の統一行動を続けるべきだとした。マル学同内部のこの対立は以降抜き差しならないところまで尾を引いていくことになった。 11.18日、革共同都学生細胞総会、他党派との統一戦線をめぐり指導部の方針に批判公然化。 |
12.4日、全学連都自治会代表者会議、東京工大より一一・三〇銀杏並木集会に対する批判ビラまかれる。
12月、社学同内の岩田弘の帝国主義論を信奉するマル戦派が理論機関紙「マルクス主義戦線」を創刊した。
12.8日、国会の開会日に焦点を合わせた統一行動として、東京で全都学生集会〔日比谷野音〕800名、国会に向けデモ、機動隊と衝突・三名逮捕。京都で〔円山公園〕6000名がデモを行い、機動隊と衝突・重傷者多数・七名逮捕。大阪府学連集会〔扇町公園〕に千名結集・市内デモ。未然に「大管法」上程阻止の闘いを見せた。
12.14日、大管法粉砕・国会上程阻止全国統一行動、東京では八百名が清水谷公園に結集、総評統一行動に呼応して文部省・国会周辺をデモ、五名逮捕。
12.22日、旧共産同革通派を中心にマルクス主義戦線結成、機関誌「マルクス主義戦線」創刊。
12.25-26日、マル学同都学細代会議、学生組織委提案の意見書採択、「前進」紙上の岡田・岸本論文を否決。
12.26-27日、平民学連全国地方ブロック代表者会議〔東京〕、学生戦線統一について討議、六三年三月に平民学連として最初の全国集会開催を決定。
これより後は、「第6期その3の2、革共同第三次分裂、唐牛問題事件」に記す。
(私論.私見)