ここで革マル派について言及しておく。 1963.4.1−2日の「革共同の第三次分裂」により革マル派が誕生したが、これにより革共同の主流が漸く黒寛を絶対教祖とする党派へ辿り着いたともみなせよう。その経緯の是非はともかくとして、革マル派とはそもそも何者だろうか。日本左派運動の一派なのだろうか。日本左派運動撲滅請負を旨として悪事を働く偽装左派党派なのだろうか、これにつき正面から分析している論文を知らない。
黒寛理論の分析は「黒寛考」(gakuseiundo/kurokanco/kurokanco.htm)で行うとして、ここでは革マル派の日本左派運動内への否定事象について言及しておきたい。れんだいこの見るところ、宮顕系日共が、日本左派運動の穏和系に対し専ら、そのあるべき姿を変調化せしめていったのに比して、黒寛系革マル派が、日本左派運動の急進系に対し専ら、そのあるべき姿を変調化せしめていったのではなかろうか。日共と革マル派は一見対立しているように見えるが、肝心な時に必ず連動して悪事を働く妙な癖がありはしまいか。
その典型を早大に見て取ることができよう。早大は、官立の東大、京大の向こうを張るかのように学生運動のメッカ的地位を獲得してきた伝統を持つ。ところが、1970年時点で社青同解放派が駆逐されて以来、民青と革マル派の二元支配が始まり、早大のさしもの伝統が圧殺された。ここに目を閉ざしては真相が見えまい。
宮顕も黒寛も、それなりに左派系用語を駆使して指導するので、紅い心の変種のように思われがちで有る。しかし、共通しているのは、彼らが為した指導で、日本左派運動の為になったものは一つも無いと云うことである。これは果たして偶然だろうか。これを疑惑せねばならぬのではなかろうか。
日本左派運動は、このことを確認し無いまま戦列に迎え入れ、大きな損傷を負っていくことになる。むしろ両派に牛耳られ、日本左派運動そのものが逼塞に向かわせられる事になる。これは偶然か故意かは分からないが、そのように見える面が多々有り過ぎる。この後の学生運動史を、このような観点から検証していく事も必要なように思う。このことも云っておきたい。
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