補足(論評) 唐牛問題(「歪んだ青春−全学連闘士のその後)考

 (最新見直し2006.11.2日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 高杉公望氏の「田中清玄と安保全学連問題の実像」は次のように記している。
 「田中清玄については、日本共産党によるデマ・中傷によって『極右』などという実像とまったくかけ離れたレッテルが独り歩きしてきた。そのため、田中清玄から資金カンパを受けた安保全学連についても、それが何事かであるかのような無意味な囁きが再生産され続けてきた」)。

 ここで、「唐牛問題」を取り上げる理由は、この件に関して、第一次ブント側が当時も今も、宮顕-不破系の論理に太刀打ちできていない事情を切開してみたい為である。それは唐牛氏の冤罪を晴らす為でもあるし、田中清玄氏への偏見を晴らす為でもあるし、総じてこの問題に表れる宮顕系日共論理を内部から排撃しない限り日本の左派運動が隆盛を見ないと思うが故にである。

 新左翼側が日共運動を批判しつつもなぜそれに代わる自前の運動を創出できないのか。その原因として、「唐牛問題」に典型的に見られるように宮顕論理を真に克服し得ていないという理論面での貧困が横たわっているが故ではなかろうか。史実は、新左翼側が理論で克服するのではなく、日共に対してぶつけるようにして怨情的な批判運動を展開させていくことになった。党派運動におけるこうした理論面でのひ弱さとその反動としての怨情化運動は利益にならないのではなかろうか。このままいくら待てど暮らせど、れんだいこ以外にこの問題を取り組む人士が出そうに無いので、ここで敢えて考察してみたい。

 「唐牛問題」は、以下の三面で採り上げるに値する。その第一の資金カンパについて、島氏は次のように述べている。
 「安保では、月に1000万円の規模でカネが必要だった」、「全学連の加盟費なんかで足りるわけはない。文化人からも集め、街頭カンパもやった。条件のつかないカネなら、悪魔からだって借りたかった」。
 「(田中清玄が援助してくれるという話があったとき、)相手が田中だと知っていたのは、幹部と財政部員だけだが、条件なしなら貰っちまえという判断になった」、「全体からいえば、田中のカネなんか一部分で、大したものではない」。

 唐牛自身次のように述べている。

 「北小路が委員長になった36年の17回大会の経費も、田中とM氏のカンパで賄ったんじゃないかな。全学連にはカネが無かったですよ」。

 つまり、田中清玄のカンパは事実と認めたうえで、金に忙しい当時にあっては止むを得なかったと弁明している事になる。れんだいこは、なぜ堂々と「ヒモの付かない金なら誰からでも貰う」と居直らなかったのかと思う。ここに拘る理由は、日本左派運動の衛生的なまでの潔癖病癖を疑惑したいためである。

 「唐牛問題」の第二は、宮顕系日共の批判のイカガワシサを確認したい為である。日共は、田中清玄を「名うての反共右翼である」としてイカガワシサを浮き上がらせたが、この論法そのものが臭い。田中清玄氏は、戦前の武装共産党時代の委員長であり、その経験が60年安保を闘い抜くブントの面々に共鳴したとして何らオカシクは無い。むしろ、史実的に見て功績の有る武装共産党時代の評価を意識的に貶め、何の変哲もないむしろ反動的指導に明け暮れしている宮顕系日共が、田中清玄とブントの双方を一挙に叩く手法こそイカガワシイのではないのか。そう批判したいが為に注目する。

 「唐牛問題」の第三は、当時のブントの面々が日共の執拗な喧伝にほぼ諸手を挙げて投降している様を見るに付け、れんだいこが反論したいためである。れんだいこなら、こう反論する。

 「田中清玄氏は、あなたがたの党の前身である戦前の武装共産党時代のれっきとした党委員長であり、転向後政治的立場を民族主義者として移し身していく ことになった。これは彼のドラマであり、我々の関知するところではない。その彼が、当時においては政治的立場を異にするものの、当時の我々のブント運動に自身の若き頃をカリカチュアさせた結果資金提供を申し出たものと受けとめている。氏の『国家百年の計』よりなす憂国の情の然らしめたものでもあった。ブントは、これにより政治的影響を一切受けなかったし、当時の財政危機状態にあっては有り難い申し出であった。

 もし、これを不正というのであれば、宮顕の戦前の党中央進出過程と戦後の党分裂期の国際派時代の潤沢な資金、トラック部隊への関与、その他日共へのソ連共産党資金ルート等々について究明していく用意がある。何より、宮顕の戦前の小畑中央委員リンチ致死事件には重大な疑惑があり、これを徹底解明していく決意である」。

 こう反論すべきところ、宮顕を「戦前唯一無比の非転向最高指導者」と勝手に懸想して聖像視する理論レベルでしかなかったから、切り返せなかった。理論の貧困が実践の貧困に繋がる格好例であろう。

 2003.4.26日再編集 れんだいこ拝


【事件の発端】
 まず、「唐牛問題」発生の経過を見ておく事にする。1963年は「中ソ論争の公然化」で明けた。マル学同内も黒寛派と本多派の深刻な対立が進行しつつあった。社会党協会派内も左右の抗争が激しく、社青同解放派誕生へ向けて胎動しつつあった。こうした情勢下の折、1963.2.26日9時半過ぎよりTBSインタビューによるラジオ録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」が放送され、安保闘争時の全学連幹部活動家が、名うての反共右翼であるとして描き出された元武装共産党時代の委員長・田中清玄氏から闘争資金の援助を受けていたこと、安保後には田中の経営する土建会社に勤めている等親密な関係にあったことを暴露した。放送で取り上げられていた「全学連闘士」達とは、当時の全学連委員長・唐牛健太郎、書記次長・東原吉伸、共闘部長・小島弘、社学同委員長・篠原浩一郎らであった。

 宮顕系党中央たる日共は、この「歪んだ青春−全学連闘士のその後」を連日に亘ってアカハタで取り上げ、「エロ新聞なみのひわいな中傷記事と、全学連によって主導された安保闘争全体にたいする誹謗の政治的アジテーションをもって」(吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」)政治的カンパニアを組織した。「これに伴奏するように、『知識人』が、例によって、例のごとくつまらぬ感想をのべてこの誹謗に加わった」(吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」)。

【カンパの内容証言】
 この「資金援助」自体は、田中清玄氏も当時の全学連指導者側も認め、東原氏の手記や「週刊朝日」の追跡調査(「録音構成『歪んだ青春』の波紋―安保の主役たちと日共と田中清玄氏―」)でも裏付けられた。概要を明らかにすれば次のような諸事実が露見していた。
 「田中氏から貰った金は、当時の金で4〜5百万円で、4万円、5万円、多いときで50万円と、何回かにわたって受け取った。何名かの者は飲み食いから毎月の小遣いまで貰っていた。田中氏の家へ行って飯を食ったこともある」。
 「闘争の戦術指導の遣り取りも為されていたらしく、『非常に参考になったことは事実ですよね』と回顧している」。
 「60年安保闘争時、田中は配下の武道家集団を全学連の護衛につけ、児玉系右翼の襲撃から護っていた」。
 「田中は唐牛、東原、篠原達の就職の面倒まで見ていた。唐牛氏も『革命の布石を打つためには、誰の所で働いたって構わない』としていた。東原氏も『神戸の田岡一雄氏とその配下の佐々木竜二氏には、何かとお世話になった』と述べている。ブント書記長島氏も、ブント解体後の一時寄宿していた」。
 「警察・検察の温情に接しており、警視総監をしていた小倉謙氏や、その時の学連の闘争を扱っていた野村佐太男検事正と時々会い、フランクな話をし、そしてこの方々が、『若い学生と全学連に並々ならぬ温かい感情と同情心をもって事に当たられていると聞いたときは、全く驚いた』と証言している。当時の公安一課長をしていた三井氏とも運動の最中に会っていたが、『全学連に対して、並々ならぬ同情心を持っておられた』と述懐している」。

【日共の異常とも云える政治主義的カンパ二ア】
 「唐牛問題」は、共産党がこの問題を大々的に取り上げ、60年安保闘争時の全学連指導者ブントのいかがわしさを喧伝していくことになった、という意味で政治的事件となった。この時の共産党の飛びつきようは異様なほどに徹底し、地区党の末端まで「トロツキストの正体は右翼の手先」だとする録音テープを大量に配布し、機関紙アカハタで連日この問題を取り上げた。その結果、60年安保闘争に金字塔を打ち立てた当時のブントの「いかがわしさ」が浮き彫りになり、その輝かしい功績もろともが葬り去られて行くことになった。

(私論.私見)日共プロパガンダに対する新左翼側の沈黙

 問題は、この日共系のプロパガンダに対して、当事者のブント側の反論がか弱く、他の左派諸派もまた沈黙を余儀なくされていることに有った。この構図が今日まで続いていると云っても過言ではない。このことは何を語るか。日共側のこの理論攻勢に新左翼側が理論闘争レベルで対応し得ていないだけの能力しか持っていない、ということではなかろうか。時の権力を勝手に機動隊に仮想して、肉弾戦を如何に戦闘的にやろうとも、こうした理論面での切開をしないままのそれでは情けない。


日共の田中清玄批判の詐術を批判する

 以下、れんだいこが、「唐牛問題」に関する日共側の姑息な手口を暴いて批判する。「田中清玄インタビュー」内容の詳細を知りたいが手元にないので、漏洩されている諸見に逐次コメントしていくことしか出来ない限界があることは致し方ない。

 まずは、この時の日共党中央の喧伝には例の詐術があったことを指摘しておきたい。どういう詐術かというと、1・この時日共は、田中清玄氏を主として民族主義者的な「名うての職業的な反共右翼」として描き出し、2・その右翼的政界フィクサーがブントへ資金提供していたという「いかがわしさ」を浮きだたせ、3・よってブント系トロツキストの反共的本質を明らかにする、という三段論法をとった。

 日共側は、田中清玄像を「職業的な反共右翼」としてフレームアップさせていたが、事情通はそれでは納得しない。田中清玄氏は戦前の武装共産党時代のれっきとした委員長であった。通り一辺倒な「職業的な反共右翼」で済ますわけには行かない。という訳で、この種の問いかけを為す者に対しては次のように説明していた。

 概要「戦前、日本共産党の指導部にいたことがあり、1930年の『武装メーデー』なるものを指令して党と革命運動に重大な損害を与え、しかも逮捕されるといちはやく獄中転向して、出獄後は侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ。そして戦後は、労働運動や民主運動の破壊工作に渡り歩く職業的な反共右翼として名前を売っていた。TBSラジオのナレーターも云っていたように、戦後、彼は土建業に従事するようになったが、合間を見ては、日本各地を反共演説をぶって歩いた。戦後の大争議と云われた苫小牧の王子製紙のストライキも、彼の手に掛かると、あっというまに第二組合ができ、あっけなく争議は潰れてしまったことで判明するように極悪反共分子である」。

 まず、田中清玄氏をかように像化して憚らない宮顕論法が如何に悪質なものであるのかを順次見ておこうと思う。第一に、田中清玄氏は云われるような「日本共産党の指導部にいたことがあり」で済まされるような存在ではない。その真実像は「武装共産党委員長時代の足跡で簡単ながらスケッチしているので参照されたい。田中氏は、「党の最高幹部として、一時期れっきとして委員長を勤めた者」である。そういう経歴を持つ者を、「日本共産党の指導部にいたことがあり」などと曖昧表現で済ますことは的確な表現では無い。というか、宮顕特有の落し込め詐術である。

 次に、「1930年の『武装メーデー』なるものを指令して党と革命運動に重大な損害を与え」とあるが、この判断もまた宮顕特有の逆裁定見解でしかない。史実は、田中氏は、昭和3年の「3.15事件」、昭和4年の「4.16事件」という両弾圧で壊滅的危機に陥った直後の党活動の立て直しに着手し、これに成功した功績を持っている。これが正しい評価である。一般に「武装共産党」時代と云われるが、この時期「革命運動に重大な損害」を与えたかどうかは判定が難しい。急進主義運動で対権力闘争をひるむことなく展開し、直接対決した珍しい史実を残しているが、それは誉れな財産となっていると評価することも可能であろう。

 この時期蒔かれた種がその後の大衆運動の諸分野で着床したことも見落とされてならない功績である。史実の語るところ「革命運動に重大な損害」を与えたのは、その後の党運動で宮顕が主導した「小畑中央委員リンチ致死事件」に代表される一連の党内査問事件の方がズバリそのものであろう。

 
次に、「逮捕されるといちはやく転向」も事実に反している。特高の度重なる拷問に頑強に抵抗し、その強靭な体力ゆえに奇跡的に生命が維持されたとも云うべき踏ん張りを見せている。この点ではむしろ、本人の弁にも関わらず拷問を受けなかった宮顕その人の方が胡散臭い。田中氏の「転向」はそうした不屈の獄中闘争後のことであり、それは当時の国際情勢とコミンテルン指導の変調さを思案した結果の思想問題であり、必要以上には踏み込むべきではなかろう。

 むしろ、当時の転向雪崩現象は今日ありていに為されているような外在的批判では済ましえない内実を持っているのではなかろうか。むしろ、不屈の闘士然として伝えられている宮顕神話の獄中下の様子こそ奇異そのものであることが今日判明している。この件については
「宮顕の獄中闘争について」で解明しているので参照されたし。

 次に、「出獄後は侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ」も、何を根拠にそのような捻じ曲げ断定しているのであろう。氏のその後の様子は自伝で確認されようが、一風変わって山本玄峰老師に私淑し、三島の龍沢寺での修行生活に入っている。ほぼ時局とも没交渉であり、時の支配層より大戦末期での敗戦処理方法において師事する玄峰老師の聴聞が為され、その秘書的活動で当局と渡り合っている史実は残されているが、「侵略戦争に進んで協力した経歴を持つ」ようなものでは断じて無い。

 次に、戦後の活動であるが、その詳細は自伝に譲るとして「合間を見ては、日本各地を反共演説をぶって歩いた」というような形跡は無い。「苫小牧の王子製紙のストライキも、彼の手に掛かると、あっというまに第二組合ができ、あっけなく争議は潰れてしまったことで判明するように極悪反共分子である」については詳細不明であるが、捏造の可能性のほうが高い。宮顕話法はこういう為にする批判の為の史実捻じ曲げは常習的であるので、迂闊には乗れない。

 これについては、2002.6.15日発刊の「60年安保とブントを読む」の中で、東原吉伸氏が次のように書いている。

 「独占支配に対抗すると称して工場占拠・労組による経営管理まで行おうとするソ連の第5列、日共の指導する労働争議などを分裂・解体する仕事にも体を張った。泥沼に叩き込まれていた王子製紙苫小牧の180日に及ぶ争議の現地指導を最後まで行い、解決させ、会社蘇生の基礎を固めた」。 

 肝心なことは、解決のさせ方であったと思われるが、これ以上は分からない。

 以上逐一の反論で判明するように、宮顕共産党の田中清玄批判は悪質さ重度のそれである。この辺りの正確な事情が不問のままに、『職業的な反共右翼』像がフレームアップさせられ、その指導を受けていたブント指導部のいかがわしさが糾弾されるという構図で、「唐牛問題」が展開された。この非道ぶりが知られねばならない。


日共の『権力によるトロツキスト泳がせ論』を批判する
 ところで、宮顕系党中央が、「唐牛問題」で当時のブント活動家を批判するのに、「権力によるトロツキスト泳がせ論」を満展開させていたことも見落としてならない点である。TBS放送「歪んだ青春−全学連闘士のその後」でこのことが裏付けられたとしていたが、その根拠として、1・挑発行動の戦術指導を受けていた、2・検察・警察首脳とも密接な関係にあった、3・60年安保闘争後唐牛氏らが一時田中清玄あるいはその盟友山口組三代目組長田岡氏らの関連先へ寄寓していた、等々を暴露していた。これにどう反論すべきであろうか。残念ながら当時のブントはこれにも沈黙させられた。

 れんだいこなら、こう反論する。1・挑発行動の戦術指導を受けていたについては、その通りであるが、「挑発行動」と捻じ曲げるのは宮顕得意のすり替え論法であり、我々はあの当時最も先鋭且つ効果的な方法を必死になって模索していたのであり、そうした時に田中氏の戦前の武装共産党時代の経験は大いに参考になった。このことのどこに不都合がありや否や。

 2・検察・警察首脳とも密接な関係にあったについては、公安は公安なりに真剣に情報取に向かうものであり、我々が運動の利益を考えながらこれに是々非々で対応するのは闘争現場の現実がしからしめるところである。そういう意味で、小島氏の「公安は僕を捕まえたいが、捕まえると全学連とのパイプ役がいなくなるので、向こうも困る。当時はそんな訳で、警察と一種の信頼関係があった」のは、革命の弁証法のひとコマである。ここに疑義を差し挟み傲然(ごうぜん)とする者こそ、過去一度もそのような運動主体になりえなかった者の為にする批判ではないのか。

 3・60年安保闘争後唐牛氏らが一時田中清玄あるいはその盟友山口組三代目組長田岡氏らの関連先へ寄寓していたについては、我々の革命の侠気に対して、田岡氏が侠気の理解者となって立ち表われたのであり、それは世の中の味わい深く興味深いところでもある。それは、同じ左翼陣営を構成する日共側の執拗な我々のパージに比較して鮮やかに対照的であった。

 この問題の眼目は次のことにある。そのことによって、活動家が当局のスパイにされたのか、強制的に転向を余儀なくされたのか。実際はまさに侠気によって支えられていたのではないのか。自分達が行き所を無くすよう画策しておいて、侠客家田岡氏の世話になったことをもって日共がそれをしも認められ無いとするのは悪質姑息な暴論であろう。我々はむしろ逆に、これを非難し戦前の特高警察以上の執拗さでかっての全学連闘士を追い詰めることを楽しもうとする連中の我が身の反侠客性を恥じよ、と問い掛けたいと思う。

資金カンパ考
 ところで、「唐牛問題」を廻って真剣に協議せねばならないことは、運動上に付き纏う金権パトロン問題ではなかろうか。こう課題を見据えたとき、「唐牛問題」は日共対トロツキスト運動の非難合戦の地平を離れて普遍性を獲得する。人も運動体も聖人君子的仙人思想にとらわれては何事も為しえない。金権まみれの現体制の批判運動を展開するからといって、運動側に金権にまみれずにあたかも霞を食って生きていくべしとする論法と手法が強制される必要は全く無い。むしろ、そういう規制を設ける論調は、一度でも実際に我が身を革命運動の中に置いたことの無い者の為にする無益理論でしかない。

 運動を持続的長期化させる場合に常に纏いついてくるものは資金問題である。ここに工夫と手当て無しには運動は一歩も進展しない。運動側内で支援金を出し続け支えあうべきだ論も嘘臭い。この論自体は結構だが、この論が第三他者からの支援金を排除しようとするなら、それは有害な潔癖主義でしか無い。むしろ、我が社会を批判し変革するにも、我が社会が生命線にしているところの金権を活用する能力を持ってしか運動の成果を生み出せないという矛盾をそのままに踏まえるべきではなかろうか。一つ一つの過去の運動経験を検証し、運動体にとって有益な資金調達と排除すべきそれを識別し、運動の発展のために叡智を尽すべきではなかろうか。

 当時の財政状態について、財政部長・東原の手記にはこう書かれている。
 概要「青木昌彦は万世橋署、唐牛は麹町署、佐久間さんは品川署といった具合で、寒さに震えながら彼らは英雄になった。田中清玄氏とのそもそものきっかけは、約30名にのぼる起訴された学友の保釈金や、膨大に膨れ上がった全学連の経費の調達だった。どう見積もっても6〜70万の金は最低必要だった。連日の駅頭カンパや文化人、俳優、政治家廻りで活躍して集まった金は、その日のうちに消えていった。差し入れ、弁護士料、経費とその日暮らしの心細い状態であった。島さんも、事ここにいたっては余裕が無いし、埒があかないということで大口に集中せざるを得なくなった。いろいろと知名な事業家がノートされた」。

 この資金カンパについて、島氏は次のように述べている。

 「ブント書記長としての私の仕事の大半はカネ作りであったとさえ云える」、「安保では、月に1000万円の規模でカネが必要だった」、「全学連の加盟費なんかで足りるわけはない。文化人からも集め、街頭カンパもやった。条件のつかないカネなら、悪魔からだって借りたかった」、「(田中清玄が援助してくれるという話があったとき、)相手が田中だと知っていたのは、幹部と財政部員だけだが、条件なしなら貰っちまえという判断になった」、「全体からいえば、田中のカネなんか一部分で、大したものではない」。唐牛自身次のように述べている。「北小路が委員長になった36年の17回大会の経費も、田中とM氏のカンパで賄ったんじゃないかな。全学連にはカネが無かったですよ」。

 しかし、この問題が、唐牛ひいてはブントの「いかがわしさ」を公認させ、葬り去られる契機となった。運動に付き纏うのは、いつもこの現実である。ここをキレイ事云う者が、一体過去において何ほどの運動を創出しえたのだろう。「唐牛問題」での田中清玄の献金は、そのことによってブント運動が捻じ曲げられたのかどうか、ここが眼目であって、献金自体を却下する必要が無く、それを咎める日共見解は悪質な暴論であろう。

 「唐牛問題」の真の問題性は、かように反論できなかった当時のブント系諸君の理論的貧困にあるのではないのか。その主要因に、根強い「宮顕=戦前唯一非転向タフガイ人士」観が横たわっているように思われる、と見立てするのがれんだいこ観点だ。だがしかし今、れんだいこは、
「宮顕論」でその虚構を撃った。後は、めいめいがハタと気付いて論を練り上げ直すことだろう。だがしかし、れんだいこのこの指摘が為されてもなお見て見ぬふりの方に忙しい素振り見せるのなら漬ける薬は無いとしたもんだ。

 2003.1.27日再構成 れんだいこ拝


【「田中清玄と安保全学連問題の実像」考】
 サイト「田中清玄と安保全学連問題の実像」は、「唐牛問題」に関して当時の関係者の貴重証言を集めている。且つ「田中清玄研究」を一歩進めている。読後感を以下書き付け、議論材料を提起したいと思う。
【前書き】
 「前書き」は、「唐牛問題」についてれんだいことほぼ同じ観点の見解を要領よく披瀝している点で御意である。議論すべきところは、「田中清玄の転向後の政治思想的な位置付け」であり、「リベラル右派」と見なすのはやや漠然とし過ぎではなかろうかという思いが湧く。

 「リベラル右派の立場から、反岸信介闘争の資金援助を全学連に対して行ったというのが偽らぬところであった」としている点に異存は無い。但し、「リベラル右派」と云うよりは、「戦後政治史上において、戦後の国の成り立ちを是として戦後復興に取り込んだ産業人(正確には成功した起業家)であり、次第に政権与党内ハト派と気脈を通じて黒幕となる。主として民族資本的利益を代弁する商社的活動で海外事業に取り組み、特に中東石油の買い付けルートづくりで功績が顕著であった」軌跡を総覧すれば、「リベラルにして右派模様の本質左派」ないしはイデオロギー色に染まらない「ハト派系財界人の逸材」とみなすべきではなかろうか。

 従って、「ようするに、田中清玄という人物は、きわめて若い時期に共産党委員長を一時期つとめただけあって、異常に高い知的能力をもちあわせ、国際的な学者たちとも親交の深かった、そういう土建業者だったのである」という観点に賛成である。

 「戦後保守政治の中で、田中清玄が『黒幕』として動いたとしたら――むろん、それは多分に虚像であろうが――、それは反岸勢力の『黒幕』としてであった。もっとも、日共や革共同のような超教条主義的な『左翼』にとっては、自民党のハト派とタカ派の違いなどはどうでもよかったのかもしれない」という観点も同感である。付言すれば、戦後左派運動は、戦後体制の読み違いから「自民党のハト派とタカ派の抗争」について全く無関心で過ごしてきたことは、無能力の極みであったように思われる。

 「ともかく思うことは、どうしてこうも日本共産党によるデマ、捏造、デッチ上げだけは堂々と罷り通り続けるのであろうか、ということである。そもそも、昭和初期の歴史イメージのかなりの部分が、日共系の歴史家や小説家たちによる捏造の産物だということは、今日ではまったく明らかにされていることである。(たとえば、坂野潤治(千葉大学法経学部教授(東京大学名誉教授))『日本政治「失敗」の研究 ─中途半端好みの国民の行方』光芒社、参照)」という観点に賛成である。

 「島成郎が田中清玄にも資金カンパの要請することを思いつくきっかけとなったのは、1959.11.27日の全学連による反安保の国会正門突入闘争に対するごうごうたる世論の非難の中で、『文藝春秋』に寄せられた田中清玄の文章によるものだった。それは、三十年前の若き日の自分の過ちを見るような愛情のこめられた全学連批判の文章であった」は、史実の貴重な指摘である。

【田中清玄「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」
 「田中清玄と安保全学連問題の実像」に、田中清玄氏の「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」が掲載されている。れんだいこは、この論文をサイトに紹介いただいたことをまことに感謝している。極めて内容の質が高く議論すべき箇所も多い。以下、引用しつつれんだいこなりに解析問答する。
 概要「ブント全学連の国会突入事件に対し、政府与党のみならずマスコミが一斉批判した。のみならず、ここが肝心だが、社会党はおろか共産党すらもが、デモへの種を蒔いた自分たちの先導にはソシラヌ顔で諸君を攻撃する事に依って、自分の責任を回避している」と指摘し、これに対する田中氏の見解を次のように記している。
 概要「斯様な非難を放った丈では、国会デモ事件の本質的な批判と全学連運動の今後の在り方に対する問題の解決には少しもならない。問題は、ブントつまり新共産党とその指導下に立つ全学連の指導方針、並に君等の根本的な世界観に在るのだ」。

 田中氏のこの指摘に拠れば、問題とされた「ブントつまり新共産党とその指導下に立つ全学連の指導方針、並に君等の根本的な世界観」の擦り併せにより、田中氏好みに変化を受容するのなら協力を惜しまないとのエールであったことにもなる。この論文を読んだ島氏らブントの若き俊英は賢明にもかく匂いを嗅ぎ取った。ここから双方の接触が始まる。してみれば、この論文がそれを契機とさせたという意味で貴重な論文となっている。

 ちなみに、田中氏は次のように要求している。
 「ただ自分の諸君等に希求してやまないのは、先ず諸君等の今回のデモ闘争とその根底をなす全学連の闘争方針を真に自己批判し、次に諸君等の唯一の理論的武器であるマルクス=レーニン主義をも、進歩してやまない世界情勢と二十世紀中期の人類が持つ理論物理学・生成化学等、現在の偉大な諸学問の成果に照応させつつ、客観的に、徹底的に糾明して人類の新しき行動指針を集大成して貰いたいという事だ」。

 れんだいこは今思うに、この指摘は卓見だ。

 田中氏は当時の学生運動に対し次のように疑問を呈している。
 「甚だ諸君には御気の毒な事だが、日本の労働者大衆は誰れ一人として君等共産主義者同盟の考え方や、そのデモ闘争を支持しているものはないのだ。君等が自分自身で労働者大衆に支持されているかの様に思い込んでいるのは、とんでもない君等の自惚れだ。君等のデモ闘争を支持している組合員は、せいぜい嘗つての学生運動から現在では組合の書記に転出しているインテリ連中か、或いは此の連中の感化を受けた一握りのインテリ化した労働組合マンだけだ。君等は、口を開けば労働者階級と云うが、諸君は本当に労働者大衆と云うものを、具体的に生活の裡で知っているのか?」、「労働の経験もない。而も親のすねを齧っている君等に一体労働者大衆の心理と生活とか判る筈がない。君等は自分の頭の中で革命的な労働者階級[プロレタリヤート]という幻影を、マルクスの誤謬に従って、つくり上げて、これと現実に生活している労働者階級とを思い違いして、一生懸命に幻想にしがみついてる丈だ」。
 「若し、諸君が斯様に考えて居るのならば、『それは日本に於ても、世界中何処に於いても絶対に実現する条件を備えていない。小ブルジョア的革命論だから、左様な歯の浮く様な子供じみた革命闘争は即刻おやめなさい』と私は勧告し、且つ、共産主義者同盟の即時解体を御勧めする」、「君たち学生がいくら革命的な理屈を並べても第一労働者階級は耳も傾けない事と、学生運動の様な温室の闘争では真の革命家は育ち上がらないと云う事を申し上げたい。ついで、諸君の提唱する革命のプログラムは、学生とインテリゲンチャーの役割りを不当に重要視する点に於いて1925〜27(大正14〜昭和2年)の福本イズムと全く同一範疇のものであることも」。

 田中氏のこの問いかけは重い。(れんだいこは、福本イズムの評価については疑問が有るが)要するに、地に足のついてない小ブル急進主義の運動ではないのか、それは日本左派運動の宿アであり、君たちもそれに無自覚に汚染されているという指摘であるが、60年安保世代のみならず70年安保世代にも云える訳であり、今日かっての隆盛が無いもののそれは状況を一段と悪化させているだけで本質的に何ら議論されていないところのものではなかろうか。

 田中氏はこうも云う。
 「百五十年前の欧羅巴の諸学問の集大成であるマルクス主義は、原子力時代の今日、凡ゆる学問が飛躍的な発展を遂げた今日、亦世界が資本主義が異質的な発展を遂げた今日、古いマルクス主義を信条としたならば、政治も経済も何一つとして為し得ないのである。現にノン・アルバイトの工場が出来て、労働価値説=剰余価値説というマルクス学説の根底を打ちくだいて居るではないか。従って、労働価値説と剰余価値説に立つプロレタリア革命とその独裁の思想も亦成立し得なくなって居るのだ。他方資本主義も質的変化を遂げて居る。

 ソ連に於いてもアメリカに於いても、政治と経済・文化を掌握して動かして行くものは、今日では最早、資本家でもなければ、プロレタリアートでもなくて、実に技術者を含めた経営者と称するインテリゲンチャーである。来るべき世界はプロレタリアートのものではなくて、インテリゲンチャーのものだ。全学連の諸君は、何等の革命的意義もないエネルギーの無駄な消費であるデモ闘争をやめて、変動し、進展してやむ事を知らぬ世界と人類の持つ一切のものの究明にそのエネルギーを使用していただきたい」。


 この部分は田中氏の問いかけでもあろう。この問いかけも議論されるに値する。れんだいこは、なし崩しに右に傾くことによってではなく、左の精神を涵養しつつこの「清玄の訴え」と対話したいと思う。

 2004.8.8日再編集 れんだいこ拝

【森田実「戦後左翼の秘密」考】
 この著作の紹介も貴重である。1963.2.26日のTBSインタビューによるラジオ録音構成「歪んだ青春−全学連闘士のその後」の複数の証言者の一人が森田実氏であることが明らかにされている。森田実「戦後左翼の秘密」はその経過を記しており、日共系の女性記者とおぼしき人物にはめられて、隠し録音された発言を放送され、抗議したら恫喝されたことを記している。
 森田氏は、「右翼の大物といわれていた田中清玄の世話になり、安保闘争で資金援助を受けたことを、TBSがセンセーショナルに放送したのです。この放送の中で、私の談話が有力な資料として使われました。この原因の一つは私の軽率さにありました。迷惑をかけた人たちには申し訳ないことをしました。この経過を話しましょう」と切り出している。本人が、「迷惑をかけた人たちには申し訳ないことをしました」と後悔している事が分かる。

 「ゆがんだ青春」の反響が大きかったことが次のように記されている。
 「TBSラジオで放送され、大反響が起きました。新聞や雑誌が、これを次々に記事にし、六○年安保闘争の裏側でひどい腐敗が起きていたというイメージづくりが行われました。共産党は鬼の首でもとったように『森田は腐敗分子だ』と書いていました。いつのまにか、私が田中清玄から金をもらったように書く新聞・雑誌まででてきました。私のところには、あらゆる方面から抗議の電話や手紙が来ました」。

 興味深いことは、「談話によって最も傷ついた人間=唐牛健太郎と彼の仲間」が森田宅に脅迫電話を掛けていた事実が明かされている。「これからオマエの家に行く。首を洗って待ってな」という電話があり、三、四時間ほど経って「今東京へ着いた。これからオマエをバラしにゆく」となり、森田氏が防御用にゴルフクラブをもって門の内側で、何回か振り下ろす練習をしていたところ脅迫者が逃げ出した。「脅迫電話はこれを契機になくなりましたが、ここには、新左翼の頽廃した姿が示されていると思います。つまり暴力主義です。尚、最近、酒の席で島自身からきいたことですが、この中には島成郎もいたということでした」とある。

 島氏亡き今となっては確めようも無いが、森田氏が批判するように「暴力主義」の問題というよりは、森田氏の録音発言に反感を覚えた側がこれを理論的に反論為し得なかった「没理論性」にこそ真因があるように思われる。この没理論性が安易に暴力的決着へ向かおうとしていた、とみなすべきではなかろうか。

 もう一つ。「私は村岡記者の質問に答えて、かなり気楽に答えていました。一時間ほどのインタビューが終わって、二人の記者が帰るとき、コタツの中からテープレコーダーが出されました。うかつなことに、私はこの時まで自分の談話が録音されていることに気付かなかったのです。それでも、私は相手がTBSの放送記者であることを知りません。念のため一言、『記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい』といいました。相手はうなずきました」とある。

 この問題の重要性は、「歪んだ青春−全学連闘士のその後」の証言取りを日共系のジャーナリストの手で行われたということが明らかにされていることにある。つまり、端から党利党略的な代物であったということになる。次に、「記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい」という要望にも拘わらず無視され、センセーショナルに利用されていったことである。問題は、この件を通じて宮顕系日共が「闘う左翼のイメージダウン」を日本列島津々浦々に広めていったという反動性も見ておくべきだろう。

 締め括りに思うことは、森田氏は、事の重要性において「日共系の女性記者とおぼしき人物」を明らかにする義務があると考える。森田氏の謂いに従うならば、姑息な形で勝手に録音し、「記事にする時は、もう一度私の承認を得てほしい」という要望にも拘らず無視された相手である。当然、この御仁は責めを負うべきである。そして、この御仁は、言い訳をすべきである。そういう形で、これを指揮した者を手繰り寄せ暴いていかねばならない。歴史責任とはそういうものである、この辺りの曖昧さが左派運動の信頼を欠く病床になっているのではないのか、森田氏の上述の話は自身の弁明に過ぎず、事の真相解明にはなお中途半端である、とれんだいこは考える。

 なぜ、れんだいこは執拗に拘るのか。「戦後左派運動の金の卵、第一次ブントを潰すことに躍起となった」宮顕系の左派運動内への異質な闖入ぶり、その悪質な策動振りを解明せんが為である。それ以外に意味はない。これは、戦前の好戦派の黒幕批判解明の論理と通底している。この辺りを徹底的に追い詰める作法を確立しているならば、「唐牛・東原問題」も又同様に黒幕追求まで辿り着ける筈である。逆ならば、全てが闇の中で風化させられてしまうであろう。そうであるならば、日本左派運動の無能さを示す悪習でしかなかろう。

 2004.9.24日再編集 れんだいこ拝

【西部邁「六○年安保 センチメンタル・ジャーニー」考
 西部氏のコメントの質の低さが露呈している。「ブントや唐牛が切羽詰まって、少なくとも詰まったと思って、清玄から金をもらったのだろうとしか思わない」は、一見理解を見せているようで愚弄している。「近年になって何度か田中清玄という人と面談してみた結果、自分には折り合えないひとだということがわかった」も、世間の風潮に悪乗りした見解披瀝でしかなかろう。

【島成郎「唐牛健太郎の壮烈な戦死」考】
 島氏のコメントの質の高さが良く出ている。「後日、スキャンダルめいて報じられた田中清玄氏との関係も、伝えられるような決して低次元のものじゃありません」は、要領よく的確に結論を述べている。「まあ、発端は金でしたけれども。経緯を少し話しますと、当時の全学連はものすごく金がかかった。事務所も、自前の印刷工場ももっていたし、宣伝カーも調達しなければならない。それで財務担当者に『お前が悪者になれ』といって、どこからでもいいから金を集めろ、という具合だった」と、台所事情を明らかにして理解を求めている。

 問題があるとすれば、「財務担当者に『お前が悪者になれ』」と命令した下りであるが、金銭ないし資金、資本に対するコンプレックスを物語っており、この観点では宮顕系の暴露戦術に闘えないことが分かる。一般に、政治的影響を受けない限り、資金はどこからでも調達せねばならない、この観点の欠落がこういう言い訳を余儀なくさせているように思われる。

 島氏らブント指導部と田中氏との接触の経過について貴重な証言が為されている。「で、その頃田中清玄氏が、『文藝春秋』に学生運動に共感を示すような文章を載せたんですね。それを見て、『お、これは金になるかもしらん』といって、出掛けていったわけです。こっちはアッケラカンとしたものでしたが、かえって田中氏の周囲の方が、最初は何だか気味悪がったらしいです。

 会ってみると田中氏本人は、どこにでも飛び込んで誰とでも仲良くなれるという、唐牛みたいな性格の人で、昔の血が騒ぐというのか、あとあとまで『オレが指導者だったら、絶対にあのとき革命が起こせた』としきりにいうくらい情熱的でした。でも案外金がないらしくて、当時奥さんの胃潰瘍の手術費用にとっておいた何十万かを回してくれたんです。大口ではあったけど、大した金額じゃありません。それで私達の運動がどうなるというものでもなかった。これがキッカケになって、のちのち家族ぐるみというか、人間的な付き合いがつづいたわけです」。

 島氏らブント指導部と山口組組長・田岡氏との接触の経過について貴重な証言が為されている。「山口組の田岡氏とのことも、田中氏の繋がりです。田岡という人もなかなかの人物で、私達はそれで好きになったんだけど、児玉誉士夫が六○年安保のとき、ヤクザを全部集めて右翼連合を作ったんですね。稲川会はじめ皆入ったが、田岡氏だけは『極道は極道で、政治に手を出すのは下の下だ』といって、絶対に参加しなかった」。


【東原吉伸「追想の中の『二人の改革者』」考】
 東原氏もインタビューを受けて証言した一人であった。その意図に反して政治的に悪利用されていったことに忸怩たる思いを抱きつづけていることが明らかにされている。「安保の約三年後に、私がごく軽い気持ちで、田中清玄や多くの人から資金援助を受けたことを漏らしてしまった。そのためマスコミの好餌となったことがあった。私があえて事実を公表したのは、それは資金援助をして頂いた方々へのせめてもの感謝とお礼の意味であったし、今でも『当然のことをした』までだと思っている。もちろんそのやり方は、唐突で、若気の至りというか、軽率であったことは否めない。ディスクローズしたことと時期は私の独断ではあった」とある。

 島氏が東原氏の悪意のなさを悉皆し、逆に気遣っていた面が明らかにされている。「島は大騒ぎになった後でも、陰に陽に私を支えてくれた。その渦中でもあったが、私の叔母が突然死したとき、二十人近い人間を派遣してくれて、落合斎場で葬式を仕切ってくれたりもした」とある。

 「島成郎と田中清玄との交友関係」について貴重な証言が為されている。「既に田中清玄とは、資金の面で関係が成立していたが、ブント書記長との交流となると対外・対内的に慎重にも慎重な扱いが必要であった。当時、田中清玄といえば、本人は不本意だろうが、反響右翼の大物という見方が定着していた。全学連サイドとしては、同盟書記局の島が、右翼の大物と関係を持つこと自体が冒険であり、大変な決断を必要とした」とある。

 田中清玄評について、「日本でのマスコミの風評とは異なり、彼はこれらの地域では、『トーキョータイガー』と呼ばれた革命家であり、中東から東南アジア諸国の独立のために命をかけた熱血漢だった」、「彼は、戦後日本に温存された守旧勢力と一切の妥協をせず、それに挑戦状をたたきつけ、若き企業家、政治家、学者など、新興勢力を糾合して新しい、強力な日本産業国家の再建に尽力していた」とみなしていたとある。

 出会いの情景が次のように明らかにされている。「会うと挨拶もそこそこ、いきなりソ連論、日共論、ロシア・米国などの大国にたいする警戒論等々、具体的で、田中清玄にとっては武装共産党委員長時代や十数年に渉る獄中生活、コミンテルンとの死闘といった経験を踏まえた実践論として説得力があった。島も日本共産党東京都委員会のエリートであった時期からの、組織内の不毛の論争と分派闘争を経ているので、議論は結構かみ合い、延々と続いた」。

 東原氏の手記にはこう書かれている。概要「それから話ははずんだ。結局日共に反旗を翻して闘った者はいるが、中ソに公然と反旗を翻したのは君らが初めてだ。それはそれとして安保が通ろうが通るまいが大した意味を感じない。しかし岸内閣の遣り方は全く気に食わないので、共にやろう、ということになったと思う。田中清玄氏と我々の関係は、みだりに口外できなかった」。

 東原氏のインタビューに戻る。「それ以来、二人はよく会った。お互い話題には事欠かなかった。いうまでもなく島のステージは、一歩そこを出れば安保反対運動の渦中であり、同時に彼は、革命的学生・労働者の精神的支柱であり、ヒーローだった。(中略)しかし彼は、やりくりして、不思議にこの会合のスケジュールは確保した。田中清玄は、寸暇を惜しむことなく、多くの業界人を島に引き合わせた。必ず業界のドンだった」。

 その他興味深いことが種々書かれているがサイトで確認すべし。


【田中清玄「田中清玄自伝」(インタビュアー大須賀瑞夫)考】
 ブント指導部と田中氏の出会いの様子が次のように明かされている。「私のところにきたのは、島成郎です。最初、子分をよこしました。いま中曾根君の平和研究所にいる小島弘君とかね。東原吉伸、篠原浩一郎もだ。島にあってくれということなんですね」。

 最大のハイライト証言が為されている。今となっては真偽を確かめようが無いのが残念である。唐牛氏の全学連委員長抜擢に当って、相談が為されていたとある。「島が唐牛に全学連の委員長をやらそうと思うが、どうだろうかって。『あなたと同じ函館の高校で、今は北大だ』と言ってきた。それで僕は『君がいいと思ったら、やったらいいじゃないか』と答えた。島の決断です。私に接近してきたのも、彼の決断だった。島がいなかったら、私と全学連の関係はできなかったでしょう。本当は全学連委員長というのは、東大に決まっているんですよ。それを破って、京大でもない、北大の、しかも理論家でもない行動派の唐牛を持ってきた。唐牛は直感力では、天才ですね。しかし、組織力ということなら島です。先見性もね。決して彼はスターリンや宮本顕治のような独裁者にはならない男です。一つの運動が終わると去っていって、また次の運動を組織していく、そういう点で天性のものを持っている。沖縄での精神病院での地域医療活動だってそうでしょう。まさに社会的実践そのものです。彼はいい男ですよ。時々ここへもポカッ、ポカッと来ますよ。去る者は追わず、来るものは拒まずです」とある。

 更に興味深いことが証言されている。岸首相擁護の右翼団体との暴力戦に抗するために、田中氏の秘書・藤本勇氏の空手グループを動員して「突き、蹴るの基本から訓練」をしたとある。「日大の空手部のキャプテンで、何度も全国制覇を成し遂げた実績を持っていた。彼をボスにして軽井沢あたりで訓練をさせたんだ。藤本君がデモに行くと、一人で十人ぐらい軽く投げ飛ばしてしまう。『お前は右翼のくせに左翼に荷担してなんだ』なんて、だいぶ言われていたけど、『なにを言ってやがる。貴様らは岸や児玉の手先じゃねえか』って言ってね。デモをやると右翼が暴れ込んでくるんだ。それを死なない程度に痛めつけろ、殺すまではするなと。それでしまいには右翼の連中も、あいつらにはかなわんということになった」。

 この話も秘話であろう。「あの時、岸首相は自衛隊を出動させようとしましたよね」との質問に、「それをきっぱりと断ったのが赤城防衛庁長官と杉田一次陸上幕僚長だった。えらかったねえ。岸がうるさく迫ったんだが、二人ともはねつけた。杉田陸幕長は戦前、東久邇宮付きの武官で、米国留学の経験もあり、あんなことで兵を出したらどんな事になるか、よく分かっていた」。

 「なぜ黒幕なんて言われたんでしょうか」に対し、「さあ、私には分かりませんが、マスコミが流したことは確かです。戦後ある時期まで、新聞紙はもちろん、出版社などにもずいぶん日本共産党の秘密党員やシンパがおりましたからね。それから私は岸信介や児玉誉士夫らと徹底的に戦いましたが、かれらもまたマスコミにはかなりの影響力をもっていました。彼等の双方から挟撃され、意図的にそのような情報が流されたということじゃないでしょうか」。

 ある左翼系歴史学者曰く「なに、田中清玄? ああ、あれはインチキですよ」と切り出したとあるが、「ある左翼系歴史学者」の方こそインチキだということが十分に考えられよう。ちなみに、サイト管理人高杉氏は、次のように述べている。「ただし、森田実や西部邁は、田中清玄に対する評価は否定的である。彼らのように自民党ハト派よりももっと右に行ってしまった旧ブント系の評論家が否定的に評価し、風雲児の風来坊として全うした島、唐牛、東原らが高く評価して交流を続けていたのは面白いことではないだろうか」。実に興味深いことである。


【「吉本隆明が語る戦後五五年H 天皇制と日本人」考】

 この証言で貴重なのは、「たとえば六○年ごろでも、全学連の主流派の幹部連中が、右翼の田中清玄から三○○円ぐらい借りたというんですね。そしたら、借りた男と田中清玄がレストランで会食して飲んでいるところを共産党に写真を撮られちゃって、世間に向けて悪宣伝されたんです」とあるように、共産党が執拗にブントのいかがわしさを脚色せんとして取り組んでいる様子の暴露をしていることである。

 「(柄谷行人氏について、)雑誌の座談会で、あいつら幹部どもは右翼のカネをもらったりしてよくないとかいっているわけです。そんなことをいうインテリが大勢いるんです」と証言していることが注目される。

 続いて、吉本氏の観点を次のように披瀝している。「だけど、僕はそうはいわないんです。僕の原則は、右翼だろうが左翼だろうが、寄附されたカネはみんなもらっちゃえってことです。その代わり、応分の宣伝はする。だから、僕にいわせれば問題にならないんです。柄谷は実際の活動を何も知らないくせに、おかしいとかいうんですが、僕なんかは冗談じゃないよって思いますね」。

 れんだいこの見解は、吉本氏のこの観点も変調と捉える。「だけど、僕はそうはいわないんです」とあるのは良いとして、「僕の原則は、右翼だろうが左翼だろうが、寄附されたカネはみんなもらっちゃえってことです」にはいささか問題がある。というのは、この場合、田中氏を右翼と俗規定していることにある。吉本氏とならば、この前提をも疑惑する観点が欲しい。

 「そのとき、全学連の首脳が僕のところにきて、こういうことで困ってるから、何とかならない問題ですかねって相談したんです。それで、オレに何か書けというなら条件がひとつある、田中清玄の悪口を書いてもいいかって訊いたら、かまいませんよっていうんです。『いくらぐらい借りたの?』って訊いたら、『三○○万円ぐらい』ってたしかいってました。それで僕は『読書新聞』に書きまして、連中は助かったとかいってましたけどね。助かったもヘチマもなくて、ようするにそんなことは問題にならない。つまり、あれだけ多くの人が全国的に動いているわけですから、ずいぶんカネがいることぐらい、すぐ判断できるわけです。三○○万円なんてのは問題にならないくらい少額なんですよ」。

 吉本氏のカンパ問題に対する観点はれんだいこと一致する。問題はやはり、「田中清玄の悪口を書いてもいいかって訊いたら、かまいませんよっていうんです」という時の田中清玄観にある。「田中清玄=右翼の親玉」認識こそ精査されねばならないのではなかろうか。


【吉本隆明「反安保闘争の悪煽動について」】

 れんだいこは、「唐牛問題」に関する吉本氏の観点と基本的なところは一致している。問題は、「田中清玄規定」の差にある。吉本氏に拠れば、田中氏は、「お人好しの下らぬ人物にしかすぎないとおもう」、「ただの好々爺の像しかそこには存在しない」、「中小企業のおやじ」であるようだ。れんだいこは、この規定に陳腐さを感じる。

 転向論についても触れているが、れんだいこが同様に感じるところである。吉本氏の転向論は、宮顕を「獄中非転向唯一タフガイ人士」として認定した上で、その価値に拘る必要が無いと云う逆説論を展開している。この説の致命的欠陥は、宮顕=「獄中非転向唯一タフガイ人士」を疑惑する作業が無いところにある。聖像にひれ伏した後否定するというややこしい論理展開になっているが、仮に純理論上有り得るとしても、まずもって必要なことは具体的な聖像そのものの精査であり、ここを媒介しないままに論を展開するのはいささか片手落ちではなかろうか。

 もう一つ。「革共同全国委員会の機関紙『前進』(三月十一日号)は、まさに、かれらの同志そのものである唐牛・篠原を、革命運動から脱落した転向者であると指弾している」とある。当時の「革共同全国委員会の機関紙『前進』」が、日共のプロパガンダと軌をいつにしてブント攻撃に加担していた様が窺えて興味深い。

 れんだいこに云わせれば、戦後の徳球―伊藤律系運動、60年安保のブント運動、60年代後半の全共闘運動は戦後日本左派運動の継承されるに値する誉れである。この良質な動きに、宮顕系日共と黒寛系革マル派とが裏から表から潰しにかかっている構図こそ普遍的に現われている戦後日本左派運動の宿アである。「唐牛問題」も又このことを例証しているように受け止めさせていただく。


【宮顕日共の田中清玄批判の裏に垣間見るどす黒さについて」】
 最後に、宮顕系日共党中央が、なぜ田中清玄をかほどにまで悪し様に罵ったかについて言及しておく。田中清玄は児玉誉士夫と民族右翼の覇権を奥の院で争っていた形跡が有る。これは、自民党内のタカ派とハト派の抗争に関係している。児玉はタカ派に田中はハト派に列なっていた形跡が有る。してみれば、宮顕系日共が、田中清玄に対しても田中角栄に対しても徹底的に批判プロパガンダしたのは、宮顕をしてそう指図する奥の院が存在したからではなかろうか、ということになる。

 なるほど児玉批判もしたのであろうが、トーンが弱い。それに比べれば、田中角栄は無論その盟友小佐野賢治批判の凄まじさたるや。あれこれ思えば、宮顕ー不和系日共は、政権与党のタカ派とハト派の抗争に於いて常にタカ派を助けハト派を叩く役割を果たしてきたことが判明する。これは偶然だろうか。

 2006.11.2日 れんだいこ拝




(私論.私見)