中核派と革マル派の対立の背景には次のような観点の相違が介在していた。「革共同の中にも実践派と書斎−評論派との対立があり、それが後の中核派と革マル派との対立になっていったとのこと」(戦後史の証言ブント.古賀)である。大衆運動の進め方にも大きな観点の相違が存在していた。中核派は、大量に移入してきたブントの影響に拠ったものか元々のトップリーダー本多氏の気質としてあったものか分からないが、他党派と共闘する中で競合的に指導性を獲得していこうとして運動の盛り揚げの相乗効果を重視しようとしていた。議会闘争にも取り組む姿勢を見せる。黒寛の主体性論に基づく「他党派解体路線」は大衆蔑視のプチブル的主体性であり、「セクト主義、理論フェチ、日和見主義」であると批判した。
これに対し、革マル派は、中核派は黒寛理論の生命線とも云うべき主体性論を欠いた「大衆追随主義、過激主義」であると云う。例えば、この時期マル学同は他党派の集会に押し掛け攪乱する等の行動が見られたが、これは他党派は理論的に克服されるべき批判の対象であり、常に自派の質量的発展こそが正道であるとする「黒寛理論」的観点からなされているものであった。革マル派にとっては、この「他党派解体路線」は理論の原則性として革命的主体理論と不即不離の関係にあり、曲げてはならない運動上の絶対基準原則であり、共闘による「水膨れ」は邪道でしかないと云う。
運動論のこうした相違は当然組織論についても食い違いを見せることになる。情勢分析についても観点の相違が存在していた。中核派は革マル派に対して、「危機でないと論証力説して帝国主義と戦わない日和見主義」と云い、革マル派は、中核派に対して、「主観的、信念に基づく万年危機感の煽り立て」と云う。
もう一つの対立視点についても述べておく。両派とも綱領路線として「反帝・反スタ主義」を掲げるが、両派とも「反帝・反スタ」の比重について同時的に達成されねばならないとはするものの、幾分か中核派は帝国主義主要打撃論=反帝論より重視に近く、革マル派はスターリニスト主要打撃論=反スタより重視に近いという立場の違いがあったようである。この両派の対立の背景に、民青同系平民学連の進出に対する対応の仕方の違いも関係していたとの見方もある。中核派の小野田らは、これに対処するには三派との協調が必要と主張し、革マル派の根本らは、如何なる理由付けにせよ他党派との理論闘争を疎かにするような妥協を排し、断固思想闘争を展開することの必要性を強調した。
これらの主張は、私には、どちらが正しいとかを決定することが不能な気質の違いのようなものではないかと思える。先のカオス・ロゴス識別に従えば、中核派はカオス派の立場に立っており、その意味では大量移入したブントの影響がもたらしたものとも考えられる。
つまり、ブントが革共同全国委から本多派を引き連れて先祖帰りしたとみなすことが出来るかもしれない。実際に、中核派の以降の動きを見れば旧ブント的行動と理論を展開していくことになる。こうなると党の建設方針から労働運動戦術から何から何まで対立していくことになるのも不思議ではない。してみれば、革マル派の方が革共同の正統の流れを引き継いでおり、この間のブントの移入と中核派としての分離の過程は肌触りの違う者が結局出ていったということになるようである。
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