戦後学生運動6、「67年激動の7ヶ月」から69年まで概略

 (最新見直し2008.8.12日)

【「戦後学生運動6、『67年激動の7ヶ月』から69年まで概略の概略」】
 1967.10.8日から始まる「激動の7ヶ月」、それに続く東大−日大−早稲田の各闘争が全国の大学闘争を牽引し、全共闘が結成される。1969.1.18日、大学紛争の頂点として東大安田砦攻防戦が闘われた。同9.5日、ノンセクト・ラディカルと八派連合を糾合した全国全共闘が結成され、「60年安保闘争」を上回る闘争を指針させる。

 補足すれば、今日から見て、全共闘運動の素晴らしさは、それが共同戦線型の運動であったことに認められる。考えようによれば60年安保闘争もそうであった。これよりすれば、一般に運動は共同戦線型の時に発揚し統制型に陥ると共に爛熟すると云う事になろう。そういう経験を与えたのが全共闘運動であり、この時をもって未だに終焉している。そういうことが確認できよう。

 もとへ。しかしながら、この時点がエポックで、全国全共闘運動は正面から当局機動隊、右から民青同派、脇腹から革マル派、左から赤軍派、背後から公安の重圧を受け翻弄されていく事になる。70年安保闘争を目前に控えた1969年頃から革マル派を策源地とする中核派、社青同解放派との党派間ゲバルト、第二次ブント内での内ゲバが発生し始める。この頃、治安当局の警備能力が一段と向上し、闘争の代価が高くつき始める。この経緯を検証していく事にする。

 2008.1.10日 れんだいこ拝


第6史の第1期

1967年  【激動の7ヶ月闘争始まる。日本版紅衛兵の公然登場】

 67.10月からの7ヶ月は、後に「激動の7ヶ月」と云われており、三派全学連の特に中核派の行動が目立った。この頃からヘルメットにタオルで覆面、角材のゲバ棒という闘争スタイルが定着した。これは65年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾などが登場していたという背景と関連していたようである。この間の機動隊によるデモ隊の「先制的並列サンドイッチ規制」がデモ隊に無力感を与え、いずれ闘争現場で乱闘することが双方明白になっていた。学生側には、機動隊のこの規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂にこの頃から学生運動急進主義派の方もヘルメット、タオル覆面、ゲバ棒という闘争スタイルを編み出していくことになった。

 この闘争スタイルは、当時の法規制すれすれの自衛武装戦術であり、これを牧歌的といって了解することが適正であるかどうか疑問も残るが、この頃の政府自民党、警察警備隊指揮者にこれを許容するなにがしかの思いがあり、そう言う意味では取締り側にも手綱を緩める度量があったのかも知れない。

 そういう「牧歌的のどかな時代」が許容した範囲において、秋山勝行委員長の下で新三派系全学連は機動隊に突進していく闘争を展開していくことになった。これに対して、警察はこれを実地訓練と見、またどんどん逮捕して保釈金で財政的にも締め上げ弾圧していく。しかし、それでも闘争が闘争員を生みだし、新三派系全学連が急速に力を増していくことになった。中でも中核派の伸張が著しく、反代々木系の最大セクトに成長していくことになった。限定付きでは有るが、良く闘ったという意味で称賛されるべきであろう。


(補足論評)日本版紅衛兵運動に対する政府の配慮、特に角栄の目線考

 この時代は学生運動に対する社会的に許容する「牧歌的のどかな時代」であった。これについては、「ハト派の大御心で許容されていた戦後学生運動考」、「田中角栄のまなざし考」に記す。


1967年  【「第一次羽田闘争の昂揚」】

 当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問が発表され、三派全学連はこれを実力阻止する方針を打ち出した。ベトナム戦争の激化に伴い安保体制の下で参戦国化しつつあった佐藤政府に対する抗議を旗印に反戦青年委員会を巻き込みながら、10.8日、武装した三派全学連と革マル派全学連の部隊は羽田空港へと向かった。社青同解放派900名、中核派1000名、革マル派400名がそれぞれ機動隊と激しく衝突した。この時中核派のデモに参加していた京大生山崎博昭氏が警備車両に引かれて死亡するという事件が起こった。北小路敏元全学連委員長ら58名が逮捕された。機動隊は60年安保闘争以来初めてガス弾を使用した。結果として佐藤首相は羽田を離陸したが、これが「第一次羽田闘争」と云われているものである。

 この闘いが60年安保闘争後の低迷を断ち切る合図となって新左翼運動が再び盛り上がっていくこととなった。そういう意味で、「第一次羽田闘争」は「革命的左翼誕生の日」として新左翼史上に銘記されることとなった。また、ヘルメット・角材などが初めて最初から闘争の武器として用意され闘われたという点でも転回点となった。「直接行動ラジカリズムの全面展開」、「組織された暴力の公然たる登場」とも云われている。

 この闘いを一つの境として、全学連急進主義派は自衛武装の時代からこの後街頭実力闘争へ、更に解放区−市街戦闘争へ、更に爆弾闘争へ、ハイジャックの時代へと突入していくことになる。なお、この日、民青同系全学連は、形だけの代表数十人を羽田に派遣しただけだったと云われている。あいにく「赤旗祭り」が多摩湖畔で開かれていた。

 この後、ベトナム反戦統一行動、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争、王子野戦病院建設阻止闘争、三里塚空港阻止闘争、第二次羽田闘争、へと立て続けに闘争が爆発していくことになる。


第6史の第2期

1968年 【全共闘運動の盛り上がり、大学紛争激化する】

 この期の特徴は、今日から振り返ってみて「68−70年学生運動」という大きな山を画しており、戦後学生闘争のエポックとなった。「60年安保闘争」で見せたブントの玉砕主義闘争以降最大の昂揚期を向かえ、いわばそのルネッサンス期となった。詳細は「戦後学生運動史第8期その1」(gakuseiundo/history/history8_1.htm)に記す)

 この頃泥沼化していたベトナム戦争が解放戦線側有利のまま最終局面を向かえてますます激化していた。68年はこのベトナム戦争を基軸にして国際情勢全体が回っていた形跡があり、その逐一の動向がわが国の学生運動にも反映していたと思われる。この背景には、青年期特有の正義感というべきか「64年11月成立した佐藤内閣のもと、ベトナム侵略への協力、加担はさらに強化された。日本は、日米安保条約の拡大解釈と運用によって兵員や武器の補給基地とされ、日本の船舶まで輸送に使われ、沖縄基地がB52爆撃機の北爆発進基地としてしばしば使われる(65年以来)など、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争の、まさに前線基地にかえられ」、「日本無しにベトナム侵略は困難と云われるほど、日本はベトナム侵略の総合基地にされ」(日本共産党の65年223P)つつ引き続き高度経済成長を謳歌しつつあった社会への同意し難い感情があったものと思われる。要は儲かれば何をしても良いのかという不義に対する青年の怒りのようなものがあった、と私は捉えている。

 この時期に、急速にノンセクト・ラディカルが台頭してきた。このノンセクト・ラディカルを主勢力として反代々木系セクト8派と提携し、全共闘運動及び反戦青年委員会運動を生みだしていくことになった。ノンセクト・ラディカルの台頭の背景にあったものとして「団塊の世代」論が注目されている。「団塊の世代」は丁度この時期大挙して大学生になり、世界的にもベビーブーマー世代の叛乱として共時的なブームを生み出しつつあった。学生運動がこの世代に伝播するや「層としての学生」にマスが加わってパワーを発揮せしめることになり、全共闘運動を創出していくことになった。

 この運動の流れは日大と東大が二つの山を創り、全国規模の学園闘争として史上空前の盛り上がりで波及させていくこととなった。この流れに対して、民青同が学園民主化闘争で敵対した。革マル派は、民青同と対立しつつ全共闘運動とも一線を画していた。全共闘は正面の敵に機動隊−国家権力を、目前に大学当局−民青同−右翼を、横脇に革マル派を抱えつつ、「60年安保闘争」を上回る「70年安保闘争」の展開を目指していくことになった。

 全共闘運動は、バリケード封鎖を伴うスト方式で全国各地に学園紛争を激化させて行った。バリケード内は解放空間と呼ばれた。この解放空間が次第に街頭へと広がっていくことになる。翌69年の東大闘争に呼応した神田−お茶の水解放区、京大闘争に呼応した東一条解放区などがその代表的例である。「カルチェラタンを!」の掛け声が至るところで聞かれていた。

 全共闘運動は次第に激しさを増していき、機動隊によりガス弾も使用されるに至った。学生は、これに対して、歩道の敷石を砕いて投石し、火炎ビンをも登場させた。こうした過激派運動をより詳細に見れば、一層の武闘化路線に中核派とブント系諸派、毛派諸派、アナーキスト系が進もうとしており、これに一定の歯止めをきかせていたのが革マル派、社青同解放派、構造改革派らであった。反戦青年委員会も各セクト別に分かれていくことになった。このような戦術の過激化の由来として、右翼の攻撃の修羅場をくぐってきた日大全共闘の経験、学生労働者よりはるかに過激(竹槍、糞尿、農薬)だった三里塚農民の闘いぶり、文化大革命最中の中国共産党の暴力革命礼賛的影響があったと思われる。


(補足論評)全共闘運動考
 こうして全共闘運動と云う未経験な共同戦線運動が立ち上がった。この運動の意義については、「全共闘運動考」に記す。

1968年 【1968年前半期の政治闘争】

 このルネッサンス期の花を潰した内的要因について考察することは意味のあることであろう。なぜ「あだ花」に帰せしめられたのかを問うてみようということだ。必ず原因がある筈である。このような問題意識を脳裏に据えつつ以下考察に入る。

 1.13日、中央大学昼間部自治会が学費値上げ反対全学ストに突入した。この頃、医学部から発生した東大紛争が次第に全学部へ広がりを見せていくことになった。日大闘争も勃発し、この東大・日大闘争の経過が全国の学園闘争に波及していくこととなった。2.16日、中大学費値上げ反対闘争が白紙撤回で勝利決着。

 政治闘争も凄まじい勢いで貫徹された。1.31日、中核派主催の全学連佐世保闘争報告大集会、6000名結集。2.20日、王子野戦病院設置阻止闘争。以降三里塚闘争と並行しつつ闘われる。2.26日、三里塚空港実力粉砕現地総決起集会、3000名結集、衝突。戸村一作反対同盟委員長ら400名が重軽傷。3.10日、三里塚闘争。反対同盟1300名を中心に全国から労学農・市民1万人参加。全学連2000名機動隊と衝突。3.15日、在日米軍、王子野戦病院を4月に開設と発表。3.20日、三里塚空港粉砕成田集会。労農学5000名が集会とデモ。3.28日、王子野戦病院反対闘争。学生1000名が病院に突撃し49名が基地内に突入。3.31日、三里塚闘争。4.1日、王子野戦病院設置阻止闘争。こうした政治闘争に東大−日大を頂点とする全国大学紛争が重なり相乗していった。


1968年 【中核派対革マル派−社青同解放派連合による内ゲバ発生】

 6.15日、日比谷野音で「アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する6.15集会」が開かれる。1万2000名結集。このベトナム反戦青年学生決起集会で、中核派対革マル派−社青同解放派連合という構図での乱闘騒ぎが起こる。全国反戦は以降完全に分裂した。

 この「内ゲバ」は考察されるに値する。こうした「内ゲバ」が統一集会に於いて「70年安保闘争」決戦期前に発生しているという内部的瓦解性の面と、後の展開からしてみて少々奇妙な構図が見える。つまり、中核派対革マル派・社青同解放派連合という構図は、どういう背景からもたらされたのだろうか。衆知のように中核派対革マル派、社青同解放派対革マル派というのが70年以降の構図であることを思えば、この時の経過が私には分からない。

 お互い運動に責任を持つ立場からすれば、こうした経過は明確にしておくべきでは無かろうか。いずれにせよ、当面の運動の利益の前に党派の利益が優先されていることにはなる。果たして、安保決戦期前のこの内部対立性(新左翼対民青同、新左翼内のセクト抗争)は偶然なのだろうか。私はそのようには見ていない。こういうことに賢明に対応できないようでは百年かけても左翼運動が首尾良く推移することはないと思う。


1968年 【この頃の革マル派、民青同の動き】

 7.11日、革マル派全学連第25回大会開催。80大学・150自治会・146代議員・2000名参加。この数字が正確であるとすれば、革マル派の空前の著しい台頭が見て取れる。

 7.25日、民青同全学連大会開催。この年度の民青系自治会数の発表が川上氏「学生運動」には記されていないので想像する以外にはないが、大きく後退を余儀なくされていたのではないかと思われる。一般に都合の良い数字は語られるが悪い方に至ると伏せられるという悪しき左翼の性癖が認められる。事実を正確に伝え、そこから工夫を大衆的に討議するという整風化がなぜなされないのだろうかと私は思う。

 ちなみに、この時期の民青同の活動の重点は、大学民主化闘争とこの頃より党が重視させていた革新自治体づくりの応援活動にかなりの比重を割いていたのではないかと思われる。革新自治体の流れは、67.3−4月の全国一斉地方選挙で首都東京における美濃部亮吉革新知事の誕生、68.7月、参議院選挙での前進、68.11月、革新系候補屋良朝苗氏の沖縄首席選挙勝利、69.7月、革新都政のもとでの最初の都議選での勝利等々に見て取れる。

 こうした選挙戦活動の背景に、党より「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」方針が掲げられ、これに呼応しようとした民青同の活動があったものと思われるが、「日本共産党の65年」を見る限り記述が欠落させられている。これは一体どうしたことなんだろう、私には不自然不可解現象である。また最近「21世紀の早い時期に民主連合政権をつくる」という闘争方針がリバイバルしているようであるが、これも挫折すると同じように呼び掛けそのものさえ無かったことにするつもりであろうか。


1968年 【中核派全学連、反帝全学連の誕生】

 この時期中核派は、大衆運動の高揚期には組織をかけてでも闘争をやり抜くという旧ブント的方針で闘争を指導し、支持を獲得していった。この手法は勇ましく人気も出たが、一方逮捕など組織的な消耗が避けられなかった。こうした中核派の闘争指導に対して、革マル派は、大衆闘争上の現象的激動を革命的激動と取り違える妄想と批判した。革マル派は「革マル体操」と揶揄されながらも、ゲバ棒はかついでも機動隊との衝突は極力避けつつ組織温存を重視した。こうした革マル派の闘争指導に対して、中核派は、革命的組織作りはそのような真空中でつくられるのではなく、革命的激動の中で攻撃的に対応することを通じて勝ち取られるものだと批判し武闘路線に邁進した。既述したが私には、どちらの言い分が正しいと言うよりは、このやり方の方が自分にとってしっくり合うという気質の差のように思われる。

 7.14日、中核派全学連大会開催される。こうして中核派は、中核派全学連として単独大会を開催して正式に三派全学連から離脱することになった。101大学・157自治会・127代議員・1500名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派の進出もまた凄まじいものがあったということになる。してみれば、ブント−社学同系の分立抗争ぶりとは対照的に元革共同勢が大幅に組織を伸ばしていることが分かる。12.10日、中核派全学連臨時全国大会、委員長に金山克巳氏を選出した。 

 7.19日、中核派全学連の旗揚げに抗して、反中核派連合の第二次ブント統一派−社学同、ML派、社青同解放派、第4インターなどが反帝全学連を発足させようと反帝全学連大会を開催予定したが、社青同解放派とML派が壇上を占拠し、社学同と衝突。大会は乱闘となり流産した。

 こうした難産の末7.21日、反帝全学連第19回全国大会が開催された。79大学・131自治会・170代議員が参加。これだけのセクトが寄り集まって元革共同両派に匹敵しているという勢力関係が知れる。藤本敏夫氏が委員長、久保井氏が副委員長に選出された。これで4つ目の全学連が誕生することとなった。しかし、反帝全学連は結成当初よりのゴタゴタが付きまとい、社学同と社青同解放派の対立が激化していくことになり、翌69.3月、社学同側が単独で大会を開催し社学同派全学連を発足。7月には社青同解放派が単独大会を開き、解放派全学連として独立することになる。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。

 こうして、革マル派は革マル派全学連を、民青同は民青同系全学連を、中核派は中核派全学連を、ブント各派は社学同全学連等を、社青同解放派が全国反帝学生評議会連合(反帝学評)及び解放派全学連を結成し、併せて5つの全学連が揃い踏みすることになるというのが67〜69年の学生運動の流れとなる。なお、社学同派全学連はわずか3ヶ月後に内部での内紛が激化し分裂していくことになる。


(補足論評)中核派全学連、反帝全学連考
 この時期、革マル派全学連、民青同全学連に続き中核派全学連が立ち上げられた。時の勢いでもあったが、後の展開から見て真似してはいけない党派独善運動であった気がしないわけでもない。これについては、「中核派全学連考」に記す。

1968年 第二次ブントの相次ぐ分裂

 この頃、第二次ブントが次々と分裂していった。これを確認しておく。ブントの相次ぐ分裂も、どうやらロゴス型左派運動に傾斜し過ぎの故ではなかろうか。

 4.3日、ブントマル戦派が共産同労働者革命派結成準備会(労革派)を発足させた。第二次ブントは66年に再建されたものの、戦旗派との対立が依然解消されておらず派閥的な対立抗争が続いていた。前年の共産同第7回大会での革命綱領をめぐる理論対立から、マル戦派は、戦旗派を「小ブル急進主義集団」と攻撃して、大会をボイコットして第二次ブントから離脱していた。この結果、関西ブントが第二次ブント統一派の指導部を握ることとなった。

 8月、マル戦派は、幹部間の対立から前衛派と怒濤派に分裂した。戦略戦術の総括、岩田理論の評価の対立から、岩田理論の正統継承派を主張する前衛派と、学生活動家を擁し多数派の怒濤派に分裂した。前衛派は、後に党名を共産主義者党と改称し、青年・学生組織として青年共産同盟を発足させる。岩田理論に基づき概要「68年のフランスの五月危機を契機に世界は不可避的な経済危機に入った」、「資本主義の末期的危機」、「この危機が『階級決戦の原動力』になる」等の主張を基礎理論とし、「工場占拠、ゼネストによる二重権力の創出」、「反合反帝の工場闘争をプロレタリア日本革命へ」と闘争を指針させていた。基本的には議会主義を否定しながらも、手段としての議会進出を認め、労働運動を重視した。更に、国際・国内情勢について、それぞれの時点での問題点を分析し、その都度、闘争の在り方を明らかにしていることが注目される。指導下にある組織としては「首都圏行動委員会連合」(首行連)があり、機関紙`としては「前衛」を発行した。

 一方、怒濤派は、後に労働者共産主義委員会(労共委)と改称し機関紙「怒濤」を発行、下部組織として共産主義戦線(共戦)を結成することになる。

 10月、第二次ブントの統合に反対したML派の一部少数派は、毛沢東思想を受け入れて、「帝国主義打倒の人民革命」を志向するようになり、マルクス・レーニン主義者同盟(ML同盟)を結成、その傘下に学生解放戦線・労働者解放戦線を組織した。ML同盟は公然武力闘争を主張し、かっての「球根栽培法」等を再刊し火炎瓶闘争を指導し始めた。

 12月、共産同第8回大会開催した。第二次ブント主流のブント統一派(戦旗派)も、軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。一体全体このブント系の組織論はどうなっているんだろうか。趣味の世界ならご随意にと言いたいところだが、政治闘争となるとそうばかりも言えない気がするのは私だけだろうか。


1968年 【東大−日大全共闘が全国学園闘争を領導する】

 7.5日、東大全学共闘会議(東大全共闘)結成、初の決起集会に3000名結集。7.16日、東大全共闘、7項目要求確認。7.23日、東大全共闘を支持する全学助手共闘会議結成。

 8.28日、東大医学部の学生が医学部本館を封鎖、研究や実験が停止した。民青同との抗争が激化する。9.12日、日大全共闘総決起集会。数万名結集。この頃東大闘争が拡大していくことになり、9.19日、工・経・教育学部もストに突入。9.20日、日大が全学ストに突入。9.27日、東大医学部赤レンガ館を研究者が自主封鎖。民青同との対立が抜き差しならない方向で進んだ。

 9.30日、日大全共闘3万名が、両国講堂で大学当局と10時間大衆団交。10.1日、東大の理・農・法学部も無期限ストライキ突入。10.12日、東大全学無期限ストに突入。

 この間、政府は、「大学の運営に関する臨時措置法案」(大学運営措置法)で闘争の鎮圧を図ろうとした。法案は、「戦後民主主義」が獲得していた「大学の自治と学問の自由」に対する大きな制限を伴ったものであった。民青同系全学連は、「大学の自治と自由を擁護」する観点からこの新大管法との闘争を組織しつつ、他方で「政府・自民党に泳がされたトロツキスト、ニセ左翼暴力集団を孤立させよう」として全共闘運動と敵対していくことになった。

 11.1日、東大の大河内総長が辞任した。東大総長が任期を全うせず辞任するのは戦後初めてのことであり、東大90年の歴史にも前例がない。11.4日、加藤教授総長が代行就任。11.12日、東大総合図書館前で全共闘と民青同学生が衝突。11.14日、駒場第三・第六本館封鎖をめぐり再び全共闘と民青同学生が衝突。11.19日、加藤総長代行が民青同派と公開予備折衝に入る。11.22日、東大校内で東大・日大闘争勝利全国学生総決起集会。新左翼系約2万名が集結、デモ。民青同系と小競り合い。12月、この頃より東大のみならず各大学で民青同・右翼グループがバリケード封鎖解除の動き強める。12.29日、坂田文相、東大全学部の入試中止を決定した。

 こうして68年末から翌69年にかけて全共闘運動は決戦気運に突入して行くことになった。卒業−就職期を控えて大学当局も全共闘側も年度中に何らかの解決が計られねばならないという事情があった。こうして翌69年1月の東大時計台闘争(安田講堂攻防戦)に向けて全共闘運動はセレモニーに向かうことになった。この間新大管法の施行に伴い、中大、岡山大、広島大、早大、京大、日大等々の封鎖解除も並行的に進行した。

 68年の紛争校120校、うち封鎖・占拠されたもの39校。69年には、紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校となる。当時の全国の大学総数は379校であったから、その37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。大学当局は管理能力を失い、学生側は代々木系と反代々木系の対立、過激派各派の衝突や内ゲバも繰り返されていくことになり、全くアナーキーな状態が現出した。


1968年 1968年後半期の政治闘争

 8.16日、べ平連クループ、嘉手納基地前で坐りこみ。27名全員が逮捕され、翌日コザ警察は全員を送検する。

 8月、ソ連など5カ国の軍隊がチェコスロバキアに侵入し、全土を占領するというチェコ事件が発生した。8.21日、ソ連軍のチェコ武力介入に緊急抗議集会。

 8.24日、三里塚闘争。9.22日、米軍タンク車輸送阻止闘争。各派4000名が立川基地周辺で集会とデモ。10.8日、羽田闘争1周年集会。中核派・社学同・ML派・反戦青年委員会約1万人参加。革マル派と社青同解放派は別個に集会。構造改革派系も合流しその後新宿駅で米タン阻止闘争。144名逮捕される。10.13日、べ平連事務所を、先の新宿デモとの関連で警視庁が初捜索。10.20日、「10月反戦行動」実行委による市民デモ。明治公園→新宿駅西口、3000名結集。9名逮捕される。そのあと新宿駅東口でべ平連街頭演説会。石田郁夫、小田実、小中陽太郎、日高六郎ら発言。1万名結集。社学同の学生26名防衛庁突入。

 10.21日、国際反戦デー。全国で46都道府県560カ所で30万名参加。31大学60自治会スト決行。全学連統一行動は、中央集会に1万余を結集。新宿・国会・防衛庁等で2万人デモ。機動隊と激突。社学同統一派系1000名は中央大終結後防衛庁突入闘争。社青同解放派系は早大終結後国会とアメリカ大使館に突入闘争。革マル派と構造改革派(フロント)900名(1700名ともある)は東大で終結後国会へ向かう途中で機動隊と衝突。中核派・ML派・第4インター1500名はお茶の水駅前終結後新宿駅へ向かい、労働者・市民2万人と合流した後騒動化。政府は、翌22日騒乱罪を適用指令、769名逮捕される。

 11.6日、琉球政府主席選挙で屋良朝苗当選。11.7日、沖縄闘争。学生・反戦青年委員会約5000名が首相官邸デモ。中核派・ML派・社学同。この闘いで秋山全学連委員長ら474名が逮捕される。11.24日、三里塚空港粉砕・ボーリング実力阻止全国総決起大会。労農学8000名実力デモ。


(補足論評)民青同のゲバルト考
 この時期、民青同の民主化棒なるゲバルトが生まれた。日頃の穏健派理論には似つかわしくないゲバルトであった。これについては、「民青同のゲバルト考」に記す。

(補足論評)民主連合政府樹立運動について
 れんだいこが見立てる民青同の民主化棒なるゲバルト理論を支えるエートスは日共の民主連合政府樹立運動に対する呼応であった。しかし、それがいかにマヌーバーに見たものであったことか。これについては、「民主連合政府樹立運動についてに記す。

第6史の第3期

1969年 【「東大安田砦攻防戦」前の動き】

 この時期は、「70年安保闘争」のクライマックスとなる。つまり、実際の70年はこの69年に及ばなかったということになるが、この経過の昂揚と衰退の陰りの要点を見ておくことにする。詳細は「戦後学生運動史第8期その2」(gakuseiundo/history/history8_2.htm)に記す)

 1969.1.4日、加藤総長代行による非常事態宣言が発表され、東大闘争が決戦化の流れに入った。1.9日、「7学部集会」を翌日に控えたこの日、東大全共闘が、民青同の根拠地化していた教育学部奪還闘争の挙に出て民青同と激突。これを見て大学当局の判断によって機動隊が導入された。この時の機動隊導入は、学生運動内部のゲバルト抗争に対してなされたものであり、それまでの対大学当局と学生間の抗争に関連しての導入ではないという内容の違いが注目される。

 「日本共産党の65年」257Pは次のように記している。

 「東大では、学生、教職員自ら暴力集団の襲撃を阻止し、校舎封鎖を解消する闘いを進め、1.9日には、7学部代表団と大学当局との交渉を妨害する為に各地から2千人をかき集めて経済学部、教育学部を襲った暴力集団の襲撃を正当防衛権を行使して机やいすのバリケードなどで跳ね返した」。
 「党は、これらの闘争が正しく進むよう積極的に援助した」。

 1.10日、秩父宮ラグビー場で約8000名の学生を集めて東大「7学部集会」が開かれた。医・文・薬学部を除いた7学部、2学科、5院生の学生・院生の代表団と東大当局の間で確認書が取り交わされた。民青同がこれを指導し、泥沼化する東大紛争の自主解決の気運を急速に盛り上げていくことになった。予想以上に多くの学生が結集したと言われている。紛争疲れと展望無き引き回しを呼号し続ける全共闘運動に対する厭戦気分が反映されていたものと思われる。

 「7学部集会」では、「大学当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が誤りであることを認め、学生・院生・職員も、それぞれ固有の権利を持って大学の自治を形成していることを確認する」などが確認された。この確認書の内容は、当初全共闘側が目指していたものであるが、全共闘運動はいつの間にかこうした制度改革闘争を放棄し始め、この頃においては「オール・オア・ナッシング」的な政治闘争方針に移行させていた。

 全共闘は、民青同ペースの「7学部集会」に反発するばかりで、制度改革闘争を含めた今後の東大闘争に対する戦略−戦術的な位置づけでの大衆的討議を放棄していた観がある。なぜかは分からないが、運動の困難に際したときに、決して大衆的討議の経験を持とうとしないというのが新旧左翼の共通項と私は思っている。この頃より一般学生の遊離が始まったと私はみる。それと、全共闘運動がなぜ制度改革闘争を軽視する論理に至ったのかが私には分からない。果たして、我々は戦後人民的闘争で獲得した制度上の獲得物の一つでもあるのだろうか。反対とか粉砕とかは常に聞かされているが、逆攻勢で獲得する闘争になぜ向かわないのだろう。


1969年 【「東大安田砦攻防戦」】

 1.12日、東大、民青同と右翼系の手により6学部でスト解除。この頃より安田講堂の封鎖解除を促すために大学当局より機動隊導入が予告された。1.15日、東大全共闘が安田講堂封鎖を強化し、各派から500名が籠城した。こうして全共闘運動は東大安田講堂決戦(東大時計台闘争)でクライマックスを迎えることになった。

 この時の民青同の動きが次のように伝えられている。機動隊の安田講堂突入の事前情報をつかんだ宮顕は、再び川上氏に直接指令を出し、“ゲバ民”側の鉄パイプ、ゲバ棒1万本を一夜の内に隠匿、処分させた。この時の革マル派の動きが次のように伝えられている。同派はこの時他セクトとともに全共闘守備隊に入っていたが、機動隊導入の前夜に担当していた法文2号館から退去、そこに機動隊が陣取ることで封鎖されていた隣の法研・安田講堂の封鎖解除を容易にさせるという不自然な動きを示した。

 1.18日、東大闘争の決戦として安田砦攻防戦が闘われた。この闘いは、東大闘争の決戦としてのみならず、全国学園闘争の頂点として注視の中で戦い抜かれた。全共闘運動はこれ以降封鎖解除と再封鎖を交錯させつつ全国全共闘結成により「60年安保闘争」を上回る闘争を指針させようとしていくことになる。

 機動隊8500名出動。二日間にわたって激闘後落城。東大全学学生解放戦線の今井澄氏が午後5時50分メッセージした。

 「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、この放送を中止します」。

 この間の様子は全国にテレビ放送され釘付けになった。全共闘の闘いぶりと機動隊の粛々とした解除と学生に対する生命安全配慮ぶりが共感を呼んだ。神田で各派が東大闘争支援決起集会を開き、集会後解放区闘争を展開した。

 1.20日、東大・文部省と会談。入試中止最終決定。


1969年 革マル派とはそも何者ぞ

 革マル派は肝心なところで「利敵行為」と「敵前逃亡」という二つの挙動不審(安田決戦敵前逃亡事件)を為したことにより、これ以後全国の大学で同派は全共闘から排除され、本拠=早稲田大でも革マルをはずして早大全共闘がつくられた。

 革マル派は、この事件以降今まで批判していた武闘的闘争を少数の決死隊によって行なうようになったが、アリバイ闘争と非難される始末となった。但し、革マル派の本領はこれから発揮されることになった。以降、いわゆる新左翼内で、革マル派と反革マル派との間にゲバルトが公然と発生する事態となった。いざゲバルトになると革マル派は強かった。街頭での穏健な行動とのアンバランスはかえって他党派の怒りを買うことになった。


1969年 【大学キャンパス内バリケード砦死守闘争展開される】

 東大安田砦攻防戦以降、東工大、早稲田大、京都大、広島大などでも全国学園砦死守闘争が展開された。この経過で「60年安保闘争」を上回る「70年安保闘争」が課題となり、ノンセクト・ラジカルと反代々木系各派(革マル派を除く)は運動の統一機運を盛り上げようと連携していくことになった。「60年安保闘争」を上回る闘争を目指して多岐多流の潮流がうねりとなって9.5日の全国全共闘連合になだれ込んでいった。これが69年における「70年安保闘争」の「正」の面であった。

 1.29日、全国各地の大学で闘争激化。無期限スト突入。横国大全学部無期限スト。1.30日、京大教養学部スト突入。1.31日、阪大教養無期限スト。

 2.11日、日大闘争勝利5万名集会。2.14日、京大、京大全共闘と民青同激闘。時計台一階を奪還。2.19日、中央大、全学封鎖2ヶ月ぶりに解除される。2.21日、「東大闘争勝利。労学市民連帯集会」に5000名参加。2.28日、広島大本館封鎖。

 3.3日、京大・九大・広大・岡大で入試中止闘争。3.22日、東大校内で総決起集会。東大全共闘・日大全共闘3000名結集。3.31日、東大で機動隊が封鎖解除。

 4.1日、早大で反戦連合が第二学生会館突入。以降騒動化する。4〜12月にかけて広島大、早稲田大、京都大など全国学園砦死守闘争が展開された。

 5.10−19日、東大闘争分離公判粉砕・破防法粉砕闘争。5.14−15日、京大全共闘、医学部校内を全面封鎖。学生部再封鎖。5.21日、日大闘争1周年全学総決起集会。4000名が理工へデモ。校舎内に突入。5.29日、早大闘争勝利全国学生連帯集会。各派3000名と早大生2000名が合流デモ。

 6.2日、専修大バリケード封鎖。6.4日、同機動隊導入。解除。6.11日、日大全共闘、日大闘争バリスト1周年全学総決起集会、5000名がデモ。6.30日、京大教養部民青同系代議員大会粉砕。3000名結集し、機動隊と民青同制圧、時計台前で大学治安立法粉砕集会。

 7.10日、大学立法粉砕闘争。早大に8000名結集して国会へデモ。早大で革マル派を除く諸派が早大全共闘結成、全学バリスト突入。

 8.17日、「大学の運営に関する臨時措置法案」が成立施行された。各大学当局が、積極的に警察力によって事態を収拾しようとする姿勢に転じた。広大に封鎖解除のため機動隊導入。広大全共闘抵抗する(広島闘争)。京大・九大で連帯集会。

 9.3日、早大闘争。機動隊導入。5000名学生が学生会館奪還集会。


1969年 【赤軍派創出の動き】

 3月、社学同全国大会開催し、社学同派全学連を発足。先に4つ目の全学連として誕生した反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化し、社学同もまた自派単独の全学連を結成したということである。この大会で軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。塩見孝也や高原浩之らの関西派グループが、「軍イコール党」・「秋期武装蜂起」など最も過激な軍事路線を主張し、「武装蜂起は時期尚早」とする関東派グループと対立した。

 4.27日、中核派書記長本田氏と東京地区反戦世話人藤原慶久氏破防法発動で逮捕される。4.28日、沖縄反戦デー闘争。社共総評の統一集会、13万人参加。過激派学生1万名武装デモ。東京駅・銀座・新宿・渋谷などの都心部で、火炎瓶、投石闘争を展開したが、警察の徹底した取締りが功を奏し前年の新宿騒乱闘争を大きく下回る規模の行動に終わった。ベ平連も銀座・お茶の水・新橋で機動隊と衝突。中核派・ブントに破防法。全国で逮捕者965名(女性133名)、逮捕者の中には高校生も多く含まれていた。

 4.28日の沖縄反戦デー闘争の総括をめぐって新左翼内に対立が発生した。新左翼各派は自画自賛的に「闘争は勝利した」旨総括したのに対し、赤軍派を生み出すことになる共産同派は、「67.10.8羽田闘争以来の暴力闘争が巨大な壁に逢着した」(69.10「理論戦線」9号)として「敗北」の総括をした。この総括は、やがて「暴力闘争の質的転換」の是非をめぐる党内論争に発展し、党内急進派は「11月決戦期に、これまでどおりの大衆的ゲバ棒闘争を駆使しても敗北は決定的である。早急に軍隊を組織して、銃や爆弾で武装蜂起すべきである。」(前記「理論戦線」9号)と主張して、本格的軍事方針への転換を強く主張していくこととなった。この流れが赤軍派結成に向かうことになった。


1969年 【昂揚する新左翼闘争の動き】

 5.17日、新宿西口フォーク集会に機動隊が初出動。群集2千人が集まる。以後毎土曜の西口広場でのフォーク集会が7月まで5000名規模で開催された。5.20日、立命館大学内の「わだつみ像」が全共闘系学生によって破壊される。5.22日、「6行委」と「6.15実行委」(新左翼党派、反戦青年委、全共闘なども参加)の合同世話人会で、中核派など8派政治組織と15大学全共闘とともに市民団体が6.15日に共同デモを行なうことで一致。

 5.28日、229団体により「反戦・反安保・沖縄闘争勝利6.15集会実行委員会」正式に発足。6.8日、ASPAC粉砕闘争。1万2000名が伊藤駅前に結集。全学連は伊藤警察を攻撃。207名逮捕される。6.9日、現地集結に向かう中核派全員逮捕される。6.15日、統一行動。東京で362団体主催の反戦・反安保・沖縄闘争勝利統一集会。労農学7万人が日比谷から東京駅へデモ。 全国72カ所で十数万名が決起。6.27日、大学治安立法粉砕闘争。各派1万5000名が国会デモ。6.28日、新宿西口広場でフォークソング集会。機動隊導入され64名逮捕。

 6月の治安当局の調べでは、全国に約490の反戦青年委員会の組織があり、構成人員は2万人以上だった。そのうち、社会党の指導下にあった組織は半分以下にまで落ち込んでおり、その他は新左翼系セクトの指導下になっていた。代表的党派は次の通り。社青同解放派系、共産同系、中核派系、第四インター系、革マル派系。この中にあって反戦青年委員会の組織作りの初期から参画していた社青同解放派がさすがに主流を保っていた。10県反戦連絡会議の中心勢力は、社会党青少年局を中心とする構革左派「主体と変革」グループ(倉持和朗、鈴木達夫ら)・「根拠地」グループ(三田岳、高見圭司ら)であった。

 7.6日、明大和泉校舎で、共産同戦旗派内で「内ゲバ」が発生し、仏派と赤軍派が激突した。仏議長が拉致監禁され、駆けつけた機動隊に逮捕される事態になった。その後赤軍派の幹部が拉致監禁され、関西派活動家の一人が脱出に失敗して転落死亡するという事件が発生した。

 7.11日、日本共産党は「べ平連は反共暴力集団」との無署名論文を発表。

 7.14日、革マル派全学連大会。新委員長に大貫氏(早大)を選出。同日と思われるが、社青同解放派もまた単独大会を開き、解放派全学連として独立した。解放派全学連は現在でも明治大学を拠点としている。

 7.15日、中核派全学連大会。173大学(前大会発表101)・211自治会(前大会発表157)・3400名参加。この数字が正確であるとすれば、中核派が凄まじい勢いで全学連運動の主導権を握りつつあったということになる。

 7.14日、大学治安立法粉砕闘争。7.25日、入管法粉砕闘争。反戦・学生7000名が集会と国会デモ。


1969年 【社青同解放派が反帝学評を結成する

 9月、社青同急進派の主流を形成していたグループが、「社会党・日本社会主義青年同盟学生班協議会解放派」(以下、「社青同解放派」と記す)を旗揚げし、その政治組織として革命的労働者協会(革労協)、学生組織として全国反帝学生評議会連合(反帝学評)を結成した。この流れを創出したのは中原一(本名・笠原正義)氏、滝口弘人、、高見圭司、狭間嘉明らであった。 中原一・氏が革労協の書記長、社青同解放派筆頭総務委員に就任した。機関紙として「解放」(旧「革命」)を発行する。社青同太田派も事実上の分裂活動を始めた。

 解放派は、学生運動の拠点として東大に足場を築き、早大政経学部自治会を長らく維持していたが、東大紛争の最中に革マル派との束の間の蜜月時代を経てゲバルトに突入。これに敗退、追放された。その後、明治大学を拠点とする。


1969年 【赤軍派の結成】

 9月、塩見孝也、高原浩之らの共産同少数派が共産同戦旗派から離脱し、新たに「共産主義者同盟赤軍派」を発足させた。赤軍派は、その建軍アピールにおいて「革命の軍団を組織せよ!すべての被抑圧人民は敵階級、敵権力に対する自らの武装を開始せよ!」と高らかに宣戦布告した。「前段階武装蜂起」を唱え、学生活動家=革命軍兵士の位置づけで武装蜂起的に「70年安保闘争」を闘おうという点でどのセクトよりも突出した理論を引き下げて注目を浴びた。実際に機動隊に対する爆弾闘争、交番襲撃、銀行M資金作戦等のウルトラ急進主義化で存在を誇示した。9月、「大阪―東京戦争」事件を引き起こした。

 赤軍派の結成に対して、新左翼最大勢力となっていた中核派と革マル派の対応の違いが興味深い。中核派はこれを他人事と思えないといい、革マル派は「誇大妄想患者の前段階崩壊」と揶揄した。既に「街頭実力闘争」についても、両派はその評価をめぐって対立を生みだしていた。これを評価する立場に立ったのが中核派・社学同・ML派であり、「組織された暴力=権力の武装という現実に対して闘いを切り開くためには自らも武装せざるをえない。これによって激動を勝利的に推進しうる」というのが論拠であった。これを否定する立場に立ったのが革マル派・構造改革諸派であり、「小ブル急進主義である。組織的力量を蓄えていくことこそが必要」と云うのが論拠であった。

 対権力武装闘争の位置づけをめぐってのこの論争は互いの機関紙でなされているようでもあるが、系統的にされていない。後の経過から見れば、「理論の革マル派」と言われるだけあって革マル派の言うことには一々もっともな点が多いと思われる。今後のためにももっとこの種の事に関しての論議を深めておくことが肝心のようにも思う。


第6史の第4期

1969年 【全国全共闘結成される】

 9.5日、日比谷野音で、ノンセクト・ラジカルと多岐多流のセクト潮流を結合させて「全国全共闘会議」が結成された。こうして「70年安保闘争」を担う運動主体が創出された。全国全共闘は、どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長に、日大全共闘の秋田明大が副議長を選出したことからも明らかなように、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼各派の共同戦線的共闘運動として結成されたことに特徴があった。民青同は無論、革マル派を除く新左翼8派が参加して全国178大学、全国の学生約3万名が結集した。

 8派セクトは次の通りである。1・中核派(上部団体−革共同全国委)、2・社学同(々共産主義者同盟)、3・学生解放戦線(々 日本ML主義者同盟)、4・学生インター(々 第四インター日本支部)、5・プロ学同(々共産主義労働者党)、6・共学同(々社会主義労働者同盟)、7・反帝学評(々社青同解放派・革労協)、8・フロント(々統一社会主義同盟)。

 れんだいこは、この8派セクトに注目する。8派セクトは、共同戦線に与し得る組織論、運動論を持っていることを証左していることになり、それは本来的な左派運動の在り方に忠実なセクトであるということを物語っている。将来、日本左派運動に新たな高揚期が生まれる時には、是非ともこの時の経験を生かすべきだろう。


1969年 【全共闘の内部溶解の兆し】

 ここまでが「70年安保闘争」の「正」の面であったと思われる。ところが、私論ではあるが、「全国全共闘会議」は結成の瞬間から三方面より70年を待つことなく崩壊していくことになった。一つは、結集した各派セクトが自派の勢力の浸透と指導権をとることに夢中となり、全共闘運動の更なる組織化、全共闘的理念の発展化方向に向かうことなく「野合」となった。つまり、ノンセクト・ラジカルとこれに連合した8派セクトによる共同戦線的運動という未経験の重みに対応し得るものを運動主体側が持ち得なかったということを意味する。

 結集した各派セクトが自派の勢力の拡張と指導権をとることを優先させ、金の卵全共闘運動を自らついばんで行くことになった。ノンセクト・ラディカルが新左翼各派の草刈り場としてオルグられていく面が強まり、まったく不安定な代物へと転化し、翌年には山本議長が辞任し、全国全共闘はセクト中心の機関運営色が濃くなり、そうした傾向が強まると同時にノンセクト・ラディカルが脱落していくことになった。

 あるいは、そういう党派責任に帰すると見るよりも、個々の自立的な運動から始まったノンセクト・ラジカルが組織活動を担わねばならなくなった自己矛盾であったかもしれない。党派性を越えた自立的な運動主体としての個の関わりを重視するノンセクト・ラディカルとセクトの論理が、共同戦線的運動とうまく噛み合わなかったということになるかと思われる。あるいは単に、セクトの責任を問うよりは、寄り集うのも早いがさっと散り得ることを良しとするノンセクトの気まま随意性のせいであったかもしれない。

 全共闘自壊要因のもう一つは、全国全共闘連合結成直前に誕生した赤軍派による更なる突出化闘争の否定的影響があったと思われる。この「全国全共闘会議」結成大会に、この日はじめて武闘派の最極左として結成されていた約100名の赤軍派のメンバーが登場した。赤軍派の登場はマスコミの好餌となり注目されたが、その理論は学生運動の水準を大きく超えていたことにより、全共闘−ノンセクト・ラディカル−シンパ一般学生の結合に向かうのではなく却って分離化作用を促進したと私はみる。赤軍派は、この後さまざまな過激な事件を起こして物議を醸していったが、私は「気質的目立ちがりやの所業」であったとみる。但し、この赤軍派が闘争を極化させたことで後々貴重な経験を積み重ねていく事になるので全否定はできない。

 全共闘自壊要因のもう一つは、この頃から革マル派と社青同解放派、中核派間に公然ゲバルトが始まり、70年を目前に控えた最も肝心な69年後半期という不自然な時期にオカシナことが起こったことである。これにより、全共闘運動が大きく混乱させられることになった。この時期の革マル派の全共闘二大勢力であった社青同解放派、中核派攻撃は、果たして偶然であったのだろうか。

 これらが否定現象となりつつ、長期化する闘争にノンセクト・ラジカルが脱落し始め、一般学生のサイレント・マジョリティーが闘争収束を願い、民青同の動きを支持し始める流動局面が生まれていった。早くも本番の70年を向かえるまでもなく自壊現象が見え始めることになった。

 70年安保闘争はこうして本番の70年を向かえるまでもなく急速に大衆闘争から「浮き」始めていた。私は、どこまで意図、誘導したのかどうかまでは分からないが公安側の頭脳戦の勝利とみる。同時に日本左翼は本当のところ「自己満足的な革命ごっこ劇場」を単に欲しているのではないかと見る。併せて、いわゆる内ゲバ−党派間ゲバルトについて、それを起こさせない能力を左翼が初心から獲得しない限り、不毛な抗争により常に攪乱されるとみる。

 この年は国立大学75校中68校が、公立大学34校中18校が、私立大学270校中79校という実に全大学の半数(紛争校165校、うち封鎖・占拠されたもの140校)でストライキ−バリケード闘争が頻出した。当時の全国の大学総数の37パーセントの大学で学内にバリケードが構築されたことになる。しかし、大学立法に基づく封鎖解除で70年を待つまでもなく学園は平静に戻り始めた。70年には紛争校46校、うち封鎖・占拠されているものは10校と減じている。


1969年 革マル派のオカシな対社青同解放派、中核派戦争

 9月、警察は中核派に対して本多・藤原・松尾氏などを破防法で逮捕し、破防法の団体適用をちらつかせながら締め上げを行っていた。こうした予防拘禁型の検挙に対し、中核派は、「革命を暴力的に行うということは内乱を起こすということで、それなりの覚悟が必要。逮捕を恐れていては話にならない。組織も公然組織だけではダメ」ということで、指導部を公然・非公然の2本立てにし、公然組織を前進社に残して、政治局員のほとんどが地下に潜行した。

 この頃から革マル派の社青同解放派、中核派に対する公然ゲバルトが始まり、大きく全共闘運動を混乱させることになった。両派は「70年安保闘争」に向かうエネルギーを急遽対革マル派とのゲバルトにも費消せねばならないことになった。こうして、後に満展開することになる「新左翼セクト間ゲバルト=党派ゲバルト」は、既に69年後半期より突入することになった。

 全共闘運動に対する民青同の敵対は既述した通りであり折り込み済みであったと思われるが、この革マル派による公然ゲバルト闘争化は不意をつかれた形になった。社青同解放派、中核派は、68−69年闘争の経過で激しい武闘を連続させ多数の逮捕者を出し、組織力を弱めていた。特に中核派は逮捕者が多く、11月闘争で多数の逮捕者を出していた。逆に革マル派は組織温存的運動指針によりそれほど逮捕者を出さなかったために相対的に組織力が強化されたことになっていた。

 11.28日、東大闘争裁判支援の抗議集会(日比谷野音)で、半数を占めた革マルと他派がゲバルトを起こし革マル派が武力制圧した。中核派は、革マル派との内ゲバに敗退したことを重視し、反戦労働者をも巻き込みつつ反撃体制を構築していくことになった。12.14日、糟谷君人民葬でも、これに参加しようとした革マルと認めない中核派間にゲバルトが発生した。翌12.15日、中核派は革マル派を武装反革命集団=第二民青と規定し、せん滅宣言を出したことで対立が決定的になる。

 私は、ゲバルトの正邪論議以前の問題として、「70年安保闘争」の最中のいよいよこれから本番に向かおうとする時点で党派ゲバルトが発生したことを疑惑している。この時のお互いの論拠が明らかにされていないので一応「仮定」とするが、革マル派が、独特の教義とも言える「他党派解体路線」に基づきこの時期に公然と敵対党派にゲバルトを仕掛けていったのであるとすれば、「安田決戦敵前逃亡事件」と言いこのことと言いあまり質が良くないと思うのが自然であろう。

 つまり、内ゲバ一般論はオカシイということになる。もっとも、これに安易に憎悪を掻き立てさせられ、社青同解放派、中核派両派が「70年安保闘争」そっちのけでゲバルト抗争に巻き込まれていったとするならば幾分能なしの対応と見る。やはり、こういう前例のない方向において運動路線上の転換を図る場合には、相手が何者かを見据え、的確な理論的総括を得て、大衆を巻き込んだ「下から討議」を徹底して積み上げねばならないのでは無かろうか。その際には事実に基づいた正確な経過の広報が前提にされるべきであろう。

 なぜこのように思うかというと、この後検討する予定にしている新日和見主義事件の考察の際にも関係してくるからである。この「討議がない」ということが左翼の致命的な悪しき習慣的組織論に起因している、とみる。補足すれば、大衆討議は、正しさを確信し得る者達だけに可能な路線であると思う。下部構成員はそれを要求せねばならないとも思う。そういうことが出来ない組織はどこかオカシイ。


1969年 【1969年後半の政治闘争の流れ

 9.22日、赤軍派が、大阪、京都で交番を襲撃。10.4日、宮顕共産党書記長が、10.21集会には両原水禁組織とべ平連は入れるべきではないと発言。10.8日、全国全共闘5000名、日比谷野音で羽田闘争2周年の集会。10.10日、安保粉砕・佐藤訪米阻止大統一集会に10万人結集。べ平連など市民団体、全共闘、反戦青年委、革マル系全学連など結集。全国各地でもデモ。

 10.21日、国際反戦デー。社共総評、全国600ヵ所で86万人参加。東京では、都公安委員会による一切の集会・デモの不許可に関わらず新左翼系のデモ、各地で警察と衝突各所でゲリラ闘争展開。中核派が新宿・高田馬場を中心に都市ゲリラ型闘争を展開。群衆を交えて市街戦を展開。社学同−全共闘グループは両国・東日本橋で、反帝学評−旧構造改革派グループは東京駅八重洲周辺で、革マル派は戸塚2丁目で。襲われた警察署4,派出所17、一種戦場と化した。逮捕者全国で1508名。そのうち東京1121名。

 11.5日、大菩薩峠で武装訓練中の赤軍派53人が逮捕された。これを「大菩薩峠事件」と云う。この事件を革マル派は、「赤軍派は誇大妄想患者、塩見に煽動され、二百の機関銃隊、三千の抜刀隊による一週間の国会占拠などという超時代的方針をかかげていたが、スパイの内通により『一揆』を前に『前段階崩壊』した」と揶揄した。中核派は、「われわれは、赤軍派の諸君への権力の反革命的襲撃をけっして他人事として考えることはできない。ましてや、さかしらげにその幼稚さをあげつらうことは断じて正しくない」と述べ、革マル派の批判を批判している。

 11.16日、佐藤訪米阻止闘争。蒲田駅付近で機動隊と激突。全国で2156名逮捕される。この日の闘いを機として運動はやがて一方で武装闘争−ゲリラ戦へと上り詰めていく。蒲田周辺に「自警団」が誕生している。





(私論.私見)