「戦後学生運動6、「67年激動の7ヶ月」から69年まで概略」 |
(最新見直し2008.8.12日)
【「戦後学生運動6、『67年激動の7ヶ月』から69年まで概略の概略」】 |
1967.10.8日から始まる「激動の7ヶ月」、それに続く東大−日大−早稲田の各闘争が全国の大学闘争を牽引し、全共闘が結成される。1969.1.18日、大学紛争の頂点として東大安田砦攻防戦が闘われた。同9.5日、ノンセクト・ラディカルと八派連合を糾合した全国全共闘が結成され、「60年安保闘争」を上回る闘争を指針させる。 補足すれば、今日から見て、全共闘運動の素晴らしさは、それが共同戦線型の運動であったことに認められる。考えようによれば60年安保闘争もそうであった。これよりすれば、一般に運動は共同戦線型の時に発揚し統制型に陥ると共に爛熟すると云う事になろう。そういう経験を与えたのが全共闘運動であり、この時をもって未だに終焉している。そういうことが確認できよう。 もとへ。しかしながら、この時点がエポックで、全国全共闘運動は正面から当局機動隊、右から民青同派、脇腹から革マル派、左から赤軍派、背後から公安の重圧を受け翻弄されていく事になる。70年安保闘争を目前に控えた1969年頃から革マル派を策源地とする中核派、社青同解放派との党派間ゲバルト、第二次ブント内での内ゲバが発生し始める。この頃、治安当局の警備能力が一段と向上し、闘争の代価が高くつき始める。この経緯を検証していく事にする。 2008.1.10日 れんだいこ拝 |
第6史の第1期 |
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67.10月からの7ヶ月は、後に「激動の7ヶ月」と云われており、三派全学連の特に中核派の行動が目立った。この頃からヘルメットにタオルで覆面、角材のゲバ棒という闘争スタイルが定着した。これは65年あたりから機動隊の装備が向上し、装甲車、高圧放水車、ガス銃、防石面つきヘルメット・ジュラルミン盾などが登場していたという背景と関連していたようである。この間の機動隊によるデモ隊の「先制的並列サンドイッチ規制」がデモ隊に無力感を与え、いずれ闘争現場で乱闘することが双方明白になっていた。学生側には、機動隊のこの規制をどう打ち破り、壁を如何に突破するかという対応が課題となり、遂にこの頃から学生運動急進主義派の方もヘルメット、タオル覆面、ゲバ棒という闘争スタイルを編み出していくことになった。 |
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この時代は学生運動に対する社会的に許容する「牧歌的のどかな時代」であった。これについては、「ハト派の大御心で許容されていた戦後学生運動考」、「田中角栄のまなざし考」に記す。 |
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当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問が発表され、三派全学連はこれを実力阻止する方針を打ち出した。ベトナム戦争の激化に伴い安保体制の下で参戦国化しつつあった佐藤政府に対する抗議を旗印に反戦青年委員会を巻き込みながら、10.8日、武装した三派全学連と革マル派全学連の部隊は羽田空港へと向かった。社青同解放派900名、中核派1000名、革マル派400名がそれぞれ機動隊と激しく衝突した。この時中核派のデモに参加していた京大生山崎博昭氏が警備車両に引かれて死亡するという事件が起こった。北小路敏元全学連委員長ら58名が逮捕された。機動隊は60年安保闘争以来初めてガス弾を使用した。結果として佐藤首相は羽田を離陸したが、これが「第一次羽田闘争」と云われているものである。 |
第6史の第2期 |
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この期の特徴は、今日から振り返ってみて「68−70年学生運動」という大きな山を画しており、戦後学生闘争のエポックとなった。「60年安保闘争」で見せたブントの玉砕主義闘争以降最大の昂揚期を向かえ、いわばそのルネッサンス期となった。詳細は「戦後学生運動史第8期その1」(gakuseiundo/history/history8_1.htm)に記す) |
(補足論評)全共闘運動考 |
こうして全共闘運動と云う未経験な共同戦線運動が立ち上がった。この運動の意義については、「全共闘運動考」に記す。 |
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このルネッサンス期の花を潰した内的要因について考察することは意味のあることであろう。なぜ「あだ花」に帰せしめられたのかを問うてみようということだ。必ず原因がある筈である。このような問題意識を脳裏に据えつつ以下考察に入る。 |
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6.15日、日比谷野音で「アメリカにベトナム戦争の即時全面中止を要求する6.15集会」が開かれる。1万2000名結集。このベトナム反戦青年学生決起集会で、中核派対革マル派−社青同解放派連合という構図での乱闘騒ぎが起こる。全国反戦は以降完全に分裂した。 |
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7.11日、革マル派全学連第25回大会開催。80大学・150自治会・146代議員・2000名参加。この数字が正確であるとすれば、革マル派の空前の著しい台頭が見て取れる。 |
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この時期中核派は、大衆運動の高揚期には組織をかけてでも闘争をやり抜くという旧ブント的方針で闘争を指導し、支持を獲得していった。この手法は勇ましく人気も出たが、一方逮捕など組織的な消耗が避けられなかった。こうした中核派の闘争指導に対して、革マル派は、大衆闘争上の現象的激動を革命的激動と取り違える妄想と批判した。革マル派は「革マル体操」と揶揄されながらも、ゲバ棒はかついでも機動隊との衝突は極力避けつつ組織温存を重視した。こうした革マル派の闘争指導に対して、中核派は、革命的組織作りはそのような真空中でつくられるのではなく、革命的激動の中で攻撃的に対応することを通じて勝ち取られるものだと批判し武闘路線に邁進した。既述したが私には、どちらの言い分が正しいと言うよりは、このやり方の方が自分にとってしっくり合うという気質の差のように思われる。 |
(補足論評)中核派全学連、反帝全学連考 |
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この時期、革マル派全学連、民青同全学連に続き中核派全学連が立ち上げられた。時の勢いでもあったが、後の展開から見て真似してはいけない党派独善運動であった気がしないわけでもない。これについては、「中核派全学連考」に記す。 |
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この頃、第二次ブントが次々と分裂していった。これを確認しておく。ブントの相次ぐ分裂も、どうやらロゴス型左派運動に傾斜し過ぎの故ではなかろうか。 |
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7.5日、東大全学共闘会議(東大全共闘)結成、初の決起集会に3000名結集。7.16日、東大全共闘、7項目要求確認。7.23日、東大全共闘を支持する全学助手共闘会議結成。 8.28日、東大医学部の学生が医学部本館を封鎖、研究や実験が停止した。民青同との抗争が激化する。9.12日、日大全共闘総決起集会。数万名結集。この頃東大闘争が拡大していくことになり、9.19日、工・経・教育学部もストに突入。9.20日、日大が全学ストに突入。9.27日、東大医学部赤レンガ館を研究者が自主封鎖。民青同との対立が抜き差しならない方向で進んだ。 |
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8.16日、べ平連クループ、嘉手納基地前で坐りこみ。27名全員が逮捕され、翌日コザ警察は全員を送検する。 8月、ソ連など5カ国の軍隊がチェコスロバキアに侵入し、全土を占領するというチェコ事件が発生した。8.21日、ソ連軍のチェコ武力介入に緊急抗議集会。 |
(補足論評)民青同のゲバルト考 |
この時期、民青同の民主化棒なるゲバルトが生まれた。日頃の穏健派理論には似つかわしくないゲバルトであった。これについては、「民青同のゲバルト考」に記す。 |
(補足論評)民主連合政府樹立運動について |
れんだいこが見立てる民青同の民主化棒なるゲバルト理論を支えるエートスは日共の民主連合政府樹立運動に対する呼応であった。しかし、それがいかにマヌーバーに見たものであったことか。これについては、「民主連合政府樹立運動について」に記す。 |
第6史の第3期 |
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この時期は、「70年安保闘争」のクライマックスとなる。つまり、実際の70年はこの69年に及ばなかったということになるが、この経過の昂揚と衰退の陰りの要点を見ておくことにする。詳細は「戦後学生運動史第8期その2」(gakuseiundo/history/history8_2.htm)に記す)
1.10日、秩父宮ラグビー場で約8000名の学生を集めて東大「7学部集会」が開かれた。医・文・薬学部を除いた7学部、2学科、5院生の学生・院生の代表団と東大当局の間で確認書が取り交わされた。民青同がこれを指導し、泥沼化する東大紛争の自主解決の気運を急速に盛り上げていくことになった。予想以上に多くの学生が結集したと言われている。紛争疲れと展望無き引き回しを呼号し続ける全共闘運動に対する厭戦気分が反映されていたものと思われる。 |
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1.12日、東大、民青同と右翼系の手により6学部でスト解除。この頃より安田講堂の封鎖解除を促すために大学当局より機動隊導入が予告された。1.15日、東大全共闘が安田講堂封鎖を強化し、各派から500名が籠城した。こうして全共闘運動は東大安田講堂決戦(東大時計台闘争)でクライマックスを迎えることになった。
この間の様子は全国にテレビ放送され釘付けになった。全共闘の闘いぶりと機動隊の粛々とした解除と学生に対する生命安全配慮ぶりが共感を呼んだ。神田で各派が東大闘争支援決起集会を開き、集会後解放区闘争を展開した。 1.20日、東大・文部省と会談。入試中止最終決定。 |
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革マル派は肝心なところで「利敵行為」と「敵前逃亡」という二つの挙動不審(安田決戦敵前逃亡事件)を為したことにより、これ以後全国の大学で同派は全共闘から排除され、本拠=早稲田大でも革マルをはずして早大全共闘がつくられた。 |
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東大安田砦攻防戦以降、東工大、早稲田大、京都大、広島大などでも全国学園砦死守闘争が展開された。この経過で「60年安保闘争」を上回る「70年安保闘争」が課題となり、ノンセクト・ラジカルと反代々木系各派(革マル派を除く)は運動の統一機運を盛り上げようと連携していくことになった。「60年安保闘争」を上回る闘争を目指して多岐多流の潮流がうねりとなって9.5日の全国全共闘連合になだれ込んでいった。これが69年における「70年安保闘争」の「正」の面であった。 |
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3月、社学同全国大会開催し、社学同派全学連を発足。先に4つ目の全学連として誕生した反帝全学連の内部で社学同と社青同解放派の対立が激化し、社学同もまた自派単独の全学連を結成したということである。この大会で軍事路線の討議をめぐって対立が起こった。塩見孝也や高原浩之らの関西派グループが、「軍イコール党」・「秋期武装蜂起」など最も過激な軍事路線を主張し、「武装蜂起は時期尚早」とする関東派グループと対立した。 |
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5.17日、新宿西口フォーク集会に機動隊が初出動。群集2千人が集まる。以後毎土曜の西口広場でのフォーク集会が7月まで5000名規模で開催された。5.20日、立命館大学内の「わだつみ像」が全共闘系学生によって破壊される。5.22日、「6行委」と「6.15実行委」(新左翼党派、反戦青年委、全共闘なども参加)の合同世話人会で、中核派など8派政治組織と15大学全共闘とともに市民団体が6.15日に共同デモを行なうことで一致。 |
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9月、社青同急進派の主流を形成していたグループが、「社会党・日本社会主義青年同盟学生班協議会解放派」(以下、「社青同解放派」と記す)を旗揚げし、その政治組織として革命的労働者協会(革労協)、学生組織として全国反帝学生評議会連合(反帝学評)を結成した。この流れを創出したのは中原一(本名・笠原正義)氏、滝口弘人、、高見圭司、狭間嘉明らであった。
中原一・氏が革労協の書記長、社青同解放派筆頭総務委員に就任した。機関紙として「解放」(旧「革命」)を発行する。社青同太田派も事実上の分裂活動を始めた。 |
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9月、塩見孝也、高原浩之らの共産同少数派が共産同戦旗派から離脱し、新たに「共産主義者同盟赤軍派」を発足させた。赤軍派は、その建軍アピールにおいて「革命の軍団を組織せよ!すべての被抑圧人民は敵階級、敵権力に対する自らの武装を開始せよ!」と高らかに宣戦布告した。「前段階武装蜂起」を唱え、学生活動家=革命軍兵士の位置づけで武装蜂起的に「70年安保闘争」を闘おうという点でどのセクトよりも突出した理論を引き下げて注目を浴びた。実際に機動隊に対する爆弾闘争、交番襲撃、銀行M資金作戦等のウルトラ急進主義化で存在を誇示した。9月、「大阪―東京戦争」事件を引き起こした。 |
第6史の第4期 |
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9.5日、日比谷野音で、ノンセクト・ラジカルと多岐多流のセクト潮流を結合させて「全国全共闘会議」が結成された。こうして「70年安保闘争」を担う運動主体が創出された。全国全共闘は、どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長に、日大全共闘の秋田明大が副議長を選出したことからも明らかなように、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼各派の共同戦線的共闘運動として結成されたことに特徴があった。民青同は無論、革マル派を除く新左翼8派が参加して全国178大学、全国の学生約3万名が結集した。 |
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ここまでが「70年安保闘争」の「正」の面であったと思われる。ところが、私論ではあるが、「全国全共闘会議」は結成の瞬間から三方面より70年を待つことなく崩壊していくことになった。一つは、結集した各派セクトが自派の勢力の浸透と指導権をとることに夢中となり、全共闘運動の更なる組織化、全共闘的理念の発展化方向に向かうことなく「野合」となった。つまり、ノンセクト・ラジカルとこれに連合した8派セクトによる共同戦線的運動という未経験の重みに対応し得るものを運動主体側が持ち得なかったということを意味する。 70年安保闘争はこうして本番の70年を向かえるまでもなく急速に大衆闘争から「浮き」始めていた。私は、どこまで意図、誘導したのかどうかまでは分からないが公安側の頭脳戦の勝利とみる。同時に日本左翼は本当のところ「自己満足的な革命ごっこ劇場」を単に欲しているのではないかと見る。併せて、いわゆる内ゲバ−党派間ゲバルトについて、それを起こさせない能力を左翼が初心から獲得しない限り、不毛な抗争により常に攪乱されるとみる。 |
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9月、警察は中核派に対して本多・藤原・松尾氏などを破防法で逮捕し、破防法の団体適用をちらつかせながら締め上げを行っていた。こうした予防拘禁型の検挙に対し、中核派は、「革命を暴力的に行うということは内乱を起こすということで、それなりの覚悟が必要。逮捕を恐れていては話にならない。組織も公然組織だけではダメ」ということで、指導部を公然・非公然の2本立てにし、公然組織を前進社に残して、政治局員のほとんどが地下に潜行した。 |
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9.22日、赤軍派が、大阪、京都で交番を襲撃。10.4日、宮顕共産党書記長が、10.21集会には両原水禁組織とべ平連は入れるべきではないと発言。10.8日、全国全共闘5000名、日比谷野音で羽田闘争2周年の集会。10.10日、安保粉砕・佐藤訪米阻止大統一集会に10万人結集。べ平連など市民団体、全共闘、反戦青年委、革マル系全学連など結集。全国各地でもデモ。 |
(私論.私見)