補足(論評) ハト派の大御心で許容されていた戦後学生運動考

 (最新見直し2008.7.7日)

Re:れんだいこのカンテラ時評225 れんだいこ 2006/10/21
 【「戦後保守主流派の大御心で許容されていた戦後学生運動」考】

 今日は10.21である。れんだいこの若い頃は、10.21と云えば反戦デーだった。れんだいこはあいにく民青同だったので面白くも無いデモに参加して流れ解散した経験しかない。或る時の10.21日、新橋駅辺りで解散したところ、脛と膝を大怪我し両肩を抱えられながらのメットの連中と遭遇した。党派が違うので当然話す事も無かったが、れんだいこは、あっちの方が闘ったという気がする思いがしたことを思い出した。

 機動隊とやりあうことが意味があったとは思えないが、単なるデモすることで闘ったことにはならないという微妙な気持ちになったことを覚えている。それにしても、ゲバ棒スタイルのメットデモが盛んだった。当時は今より規制が少なく許容されていたのだろう。

 そうした「戦後学生運動の1960年代昂揚」の凋落原因を愚考してみたい。れんだいこは、1・民青同の右翼的敵対、2・連合赤軍による同志リンチ殺害事件、3・中核対革マル派を基軸とする党派間テロの3要因を挙げることができる。しかし、それらは真因ではなくて、もっと大きな要因があるとして次のように考えている。

 戦後学生運動は、ある意味で社会的に尊重され、それを背景として多少の無理が通っていたのではなかろうか。それを許容していたのは何と、戦後学生運動がことごとく批判して止まなかった政府自民党であった。ところが、その「政府自民党の変質」によって次第に許容されなくなり、学生運動にはそれを跳ね返す力が無く、ズルズルと封殺され今日に至っているのではなかろうか。凡そ背理のような答えになるが、今だから見えてくることである。

 思えば、「戦後学生運動の1960年代昂揚」は、60年安保闘争で、戦後タカ派の頭脳足りえていた岸政権が打倒され、以来タカ派政権は雌伏を余儀なくされ、代わりに台頭した戦後ハト派の主流化の時代に照応している。このことは示唆的である。

 60年代学生運動は、諸党派の競合により自力発展したかのように錯覚されているが、事実はさに有らず。彼らが批判して止まなかった政府自民党の実は戦後ハト派が、自らのハト派政権が60年安保闘争の成果である岸政権打倒により棚からボタモチしてきたことを知るが故に、学生運動を取り締まる裏腹で「大御心で」跳ね上がりを許容する政策を採ったことにより、昂揚が可能になったのではなかろうか。

 これが学生運動昂揚の客観的背景事情であり、れんだいこは、「戦後学生運動の1960年代昂揚」はこの基盤上に花開いただけのことではなかろうか、という仮説を提供したい。この仮説に立つならば、1960年代学生運動時代の指導者は、己の能力を過信しない方が良い。もっと大きな社会的「大御心」に目を向けるべきではなかろうか。

 今日、かの時代の戦後ハト派は消滅しているので懐旧するしかできないが、戦後ハト派は、その政策基準を「戦後憲法的秩序の擁護、軽武装たがはめ、経済成長優先、日米同盟下での国際協調」に求めていた。その際、「左バネ」の存在は、彼らの政策遂行上有効なカードとして機能していた。彼らは、社共ないし新左翼の「左バネ」を上手くあやしながらタカ派掣肘に利用し、政権足固めに利用し、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国との駆け引きにも活用していたのではなかろうか。それはかなり高度な政治能力であった。

 れんだいこは、論をもう一歩進めて、戦後ハト派政権を在地型プレ社会主義権力と見立てている。戦後ハト派の政治は、1・戦後憲法秩序下で、2・日米同盟体制下で、3・在地型プレ社会主義政治を行い、4・国際協調平和を手助けしていた。してみれば、戦後ハト派の政治は、国際情勢を英明に見極めつつ、政治史上稀有な善政を敷いていたことになる。実際には、政府自民党はハト派タカ派の混交政治で在り続けたので純粋化はできないが、政治のヘゲモニーを誰が握っていたのかという意味で、ハト派主流の時代は在地型プレ社会主義政治であったと見立てることができると思っている。

 今は逆で、タカ派主流の時代である。そのタカ派政治は、戦後ハト派政権が扶植した在地型プレ社会主義の諸制度解体に狂奔している。小泉政権5年有余の政治と現在の安倍政権は、間違いなくこのシナリオの請負人である。この観点に立たない限り、小泉ー安倍政治の批判は的を射ないだろう。この観点が無いから有象無象の政治評論が場当たり的に成り下がっているのではなかろうか。

 そういう意味で、世にも稀なる善政を敷いた戦後ハト派の撲滅指令人と請負人を確認することが必要であろう。れんだいこは、指令塔をキッシンジャー権力であったと見立てている。キッシンジャーを動かした者は誰かまでは、ここでは考察しない。このキッシンジャー権力に呼応した政・官・財・学・報の五者機関の請負人を暴き立てれば、日本左派運動が真に闘うべき敵が見えてくると思っている。

 このリトマス試験紙で判定すれば、世に左派であるものが左派であるという訳ではなく、世に体制派と云われる者が右派という訳ではないということが見えてくる。むしろ、左右が逆転している捩れを見ることができる。世に左派として自称しているいわゆるサヨ者が、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国イデオロギーの代弁者でしかかないという姿が見えてくる。この問題については、ここではこれ以上言及しないことにする。

 1976年のロッキード事件は、戦後日本政治史上画期的な意味を持つ。このことが認識されていない。れんだいこ史観によれば、ロッキード事件は、戦後日本の世にも稀なハト派政治の全盛時代を創出した田中ー大平同盟に対する鉄槌であった。ロッキード事件はここに大きな意味がある。ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、「戦後学生運動の1960年代昂揚」にとって、ロッキード事件は陰のスポンサーの失脚を意味した。この事件を契機に、与党政治はハト派主流派からタカ派主流派へと転じ、それと共に戦後学生運動は逆風下に置かれることになった。

 その結果、1980年代の中曽根政権の登場から始まる本格的なタカ派政権の登場、そのタカ派と捩れハト派の混交による政争を経て、2001年の小泉政権、そして現在の安倍政権によってタカ派全盛時代を迎えるに至った。彼らは、現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国の御用聞き政治から始まり、今では言いなり政治、更に丸投げ政治を敷いている。現下の政治の貧困はここに真因があると見立てるべきであろう。ここでは戦後学生運動について述べているのでこれにのみ言及するが、彼らにあっては、戦後学生運動は無用のものである。故に、断固鎮圧するに如かずとして、もし飛び跳ねるなら即座に逮捕策を講じている。今ではビラ配りさえ規制を受けつつある。この強権政治により、うって変わって要らん子扱いされ始めた学生運動は封殺させられ、現にある如くある。

 れんだいこ史観では、「戦後学生運動の1960年代昂揚の衰退」はもとより、社会党及び日共宮顕ー不破系の協力あっての賜物であった。彼らは、その党派の指導部を掌握し、口先ではあれこれ云うものの本質は「左バネ潰し」を任務としてきた。こう見立てない者は、口先のあれこれ言辞に騙される政治的おぼこ者でしかない。これらの政策が殊のほか成功しているのが今日の日本の政治事情なのではなかろうか。成功し過ぎて気味が悪いほどである。

 このように考えるならば、戦後左派運動は、その理論を根底から練り直さねばならないだろう。結論的に申せば、宮顕ー不破ー志位系日共理論は特に有害教説であり、彼らは思想的には左派内極限右翼であり、「左からの左潰し屋」である。一体全体、野坂、宮顕、不破の指導で、日本左派運動に有益なものがあったというのならその例を挙げてみればよい。れんだいこはことごとくそれを否定してみよう。しかし、一つも事例が無いなどということが有り得て良いことだろうか。

 それに比べ、新左翼は心情的にはよく闘ってきた。しかし、闘う対象を焦点化できずにのべつくまなく体制批判とその先鋭化に終始し過ぎてきた。政府自民党批判の水準に於いては日共のそれとさして代わらない代物でしかなく、それは無能を証している。為に、その戦闘性が悪利用された面もあるのではなかろうか。あるいは消耗戦を強いてきただけのことなのではなかろうか。

 れんだいこ史観で付言しておけば、日共系が右派系運動を抑圧したとするなら、革マル派のそれは左派圭運動を葬送する為に使われてきたのではなかろうか。宮顕の「排除の論理」、黒寛の「諸雑派解体路線」は何やら似て過ぎやしないか。この連中の二元支配により、早大の赫々たる学生運動の歴史が鎮圧された。早大の鎮圧は学生運動の貯水池を枯らし、負の影響を及ぼしていくことになった。日本左派運動に於いて、「早大に於ける民青と革マルの二元支配による共存」を許したことは、そういう意味で重責であるが、民青と革マルにとっては成功事例なのだろう。

 
れんだいこがこう云い切れるのは「川口大三郎リンチ致死事件闘争」の際の体験から生まれている。事件については、「「川口大三郎君虐殺」事件考」で考察している。あの時の鮮烈な印象は、革マル糾弾の流れでキャンパスから追放されていた諸セクトが次々と姿を現し、中でも政経学部を牛耳っていた社青銅解放派が久しぶりに登場した時、それまでアロハシャツ着てジャズ音楽にでも凝っていた風をしていた顔にじみが、我が意を得たりと興奮していた様子を焼き付けているからである。とにかく青解派の人気は凄かった。数百名が喜び迎えた。彼らがキャンパスに登場できなかった仕掛けをこそ思うべきである。

 もとへ、結論。いずれの側であれ、くれぐれも、在地型プレ社会主義政治の最高指導者角栄を悪く罵倒すればするほど左派的なぞと思うなかれ。もしそういう御仁が居るなら、歴史の見立てと真相が掴めない不明を恥じよ。このことが分かるまで蟄居し沈思黙考せよ。しかる後出でて述べよ。簡単ながらスケッチ風に覚書しておく。

 最後に、その角栄の学生運動論と観点を記しておく。角栄はどうも「学生運動上がり」を重宝にしていた形跡がある。早坂記者の秘書入りのエピソードもこれを物語っている。早坂茂三氏は早稲田大学時代、全学連の有能なオルガナイザーの一人であり、卒業後東京タイムズ記者をしていた。1963(昭和38).12.2日、その早坂氏を田中が秘書になってくれないかとスカウトしている。この時の言葉が次のような角栄節であった。
 「俺はお前の昔を知っている。しかし、そんなことは問題じゃない。俺も本当は共産党に入っていたかも知れないが、何しろ手から口に運ぶのに忙しくて勉強するひまが無かっただけだ」。
 「俺は10年後に天下を取る。お互いに一生は1回だ。死ねば土くれになる。地獄も極楽もヘチマも無い。俺は越後の貧乏な馬喰の倅だ。君が昔、赤旗を振っていたことは知っている。公安調査庁の記録は全部読んだ。それは構わない。俺は君を使いこなせる。どうだ、天下を取ろうじやないか。一生一度の大博打だが、負けてもともとだ。首までは取られない。どうだい、一緒にやらないか」(早坂茂三「鈍牛にも角がある」106P)。

 斎藤隆景(新潟県南魚沼郡六日町で「斎藤記念病院」を経営)もその例である。元全共闘闘士で、一転田中イズムのとりこになったことから田中角栄の懐に飛び込み、その後、長く目白の田中邸への出入り自由となった。

 早坂秘書は、著書「オヤジの知恵」の中で次のように記している。1970の安保闘争の頃、フランスのル・モンドの極東総局長だったロベール・ギラン記者が幹事長室の角栄を訪ねて聞いた。全学連の学生達が党本部前の街路を埋めてジグザグデモを繰り広げていた。「あの学生達を同思うか」。この問いに、角栄は次のように答えている。
 「日本の将来を背負う若者達だ。経験が浅くて、視野は狭いが、まじめに祖国の先行きを考え、心配している。若者は、あれでいい。マージャンに耽り、女の尻を追い掛け回す連中よりも信頼できる。彼等彼女たちは、間もなく社会に出て働き、結婚して所帯を持ち、人生が一筋縄でいかないことを経験的に知れば、物事を判断する重心が低くなる。私は心配していない」。

 早坂は続いて次のように記している。
 「派私を指差して話を続けた。『彼も青年時代、連中の旗頭でした。今は私の仕事を手伝ってくれている』。ギランが『ウィ・ムッシュウ』と微笑み、私は仕方なく苦笑した」。

 この見識こそ角栄政治の真骨頂であろう。立花や日共によって逆に描き続けられているが、それは取りも直さず連中が現代世界を牛耳る国際金融資本財閥帝国の下僕として立ち働いている事を証左しているだけのことである。我々はこの投網から抜け出さねばならない。

 2006.10.21日 れんだいこ拝




(私論.私見)