補足(論評13) 全共闘運動考

 (最新見直し2006.10.15日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「全共闘グラフィティ」(高沢こう司)によれば、全共闘運動は次のように概述されている。
 「1960年代後半、大学と学問の在り方を問うところから、主としてノンセクト・ラジカルの学生達によって闘われた運動。60年代中期から様々な大学や学園で個別的に闘われてきた大学紛争がもはや改良闘争や反対闘争では闘い得ないとする認識から出発し、折からの70年安保に向かいたい闘いと結合する中で全国的な大学−学生叛乱の様相を示しつつ、ラジカルな闘いとなった。全共闘とは、全学共闘会議の略称。

 直接民主主義に基づく組織の運営を原則とし、個々の主体がそれぞれ個の主体性のもとにその決意と責任を保持しつつ結集した大衆的戦闘組織であり、戦闘主体の結集体であった。

 こうした全共闘運動−大学叛乱の背景には、60年代高度経済成長政策によるインフレ基調とと労動力不足という状況があり、そうした状況の中で政府による大学の『労働力生産工場』化、ブルジョアイデオロギー生産工場としての再編攻撃があった。こうした再編攻撃は60年代中期から学費値上げ、寮・学館の管理強化、カリキュラム改編等として連続的に具体化され、60年代末に至って中教審答申−目的別大学、大学院大学構想、筑波大学設置等として展開されてきた。こうした教育の帝国主義的再編と管理体制強化に対する反逆が、全国的に拡大した学園闘争の背景であった。

 同時に世界的に同様の構造のもとに闘われたスチューデント・パワー、フランス5月革命や西ドイツ、アメリカ等における全世界的な学生叛乱とも共通の構造を持っていた。

 すなわち情報化社会の進行とその高度に発達した情報化社会の中での管理操作体制の強化に対する反逆としてである。従って、この期における学生叛乱−大学闘争は個別学園の枠を突破して、『大学革命』のスローガンを登場させ、権力闘争にまで登りつめていったのである。また全共闘運動は、いわゆる『大学解体』論、『自己否定』論などに見られるごとく、権力闘争であると同時に、思想的な運動であった」。

【れんだいこの全共闘運動雑感その1】
 初めに。ここで考察しようとしている全共闘運動は、あくまで大学生運動であり、中卒・高卒者を含む青年労働者をも巻き込んだ広範な政治運動までには 発展していかざる枠組み内の限定的エリート的な学生運動であったという階層性に注意を喚起しておきたい。この「青年左翼闘争に於けるエリート階層性」という特質は、日本共産党の結党以来宿阿の如くまといついている日本左翼運動の特徴であり、どういう訳かマルクス主義を標榜しながら労働者階級を巻き込んだ社会的闘争には一向に向かわないという傾向が見られる。

 全共闘運動は、全国規模の学園闘争として60年安保闘争に勝るとも劣らない運動を展開させていくことになったが、「かの戦闘的行為」に対して庶民一般大衆が抱いた心情は、「親のすねかじりでいい気なもんだ」という嫉視の面もちで受け流されていた風があった。

 このこと自体は発生期の事実的特徴として必要以上には批判的に問題にされることもないかもしれないが、運動の主体側の方もまた「ある種のエリート意識に囲い込んだまま終始させていた」ということになると問題にされねばならないように思う。この観点からすれば、 代々木系も反代々木系も同根の運動であり、これは日本の左翼運動の今に変わらぬ病弊のように思われる。つまり、「ブ・ナロード」の能力を持たない自閉的エリート系左翼運動が今日まで続いているという負の現象をまずは認めておこうと思う。

 私論になるが、そうであるにせよ、この当時このような学生左翼青年を澎湃と排出せしめた要因は何であったのだろうか。当時の国際的なスチューデントパワーの流れ、国内外の社会情勢、社会主義イデオロギーが幅を利かせていた限りでの象牙の塔内の動き等々にも原因を求めることもできようが、私は少し観点を異にしている。

 恐らく、戦前然り、戦後はいやましに自由を得た日本共産党の党的運動が急速に社会の隅々まで影響を及ぼしていった先行する事実の余波があり、当時の党運動の指導者徳球書記長時代の穏和路線から急進主義をも包摂した野放図な運動の成果が底バネになって、はるか20年後のこの頃の青年運動に結実していったのではないのか、という面も考察されるに値するのではなかろうか。

 徳球時代には、戦前−戦後を通じて我が身の苦労を厭わず社会的弱者の利益を擁護して闘った共産党員の「正」の遺産が継承されており、この遺産がとりわけ青年運動に対して大きな影響を与え続けていたのではないのか、という評価をする必要があるのではなかろうか。ということは、徳球執行部の運動の成果を、宮顕式「50年問題について」的に彼の没理論性(これは事実ではない!)の面や家父長的な指導による非機関主義的な党運営手法等の否定的面をのみ総括して済ますやり方は酷であり、そういう総括の仕方は非同志的な似非左派宮顕式ならではの処理法ではないのかということになる。

 何にせよ如何にして時の青年を取り込むのかは非常に大事なキーワードであり、この点においてむしろ徳球時代の党運動は成功していたのではなかろうか、と思う。徳球書記長の没し方を見ても分かるように彼の深紅の闘志は本物であったのであり、その懐刀伊藤律を始め徳球の周りに結集していた数々の人士の場合も然りである。徳球時代は、戦後直後のわずか6年有余の実績の中でさえ、確実に明日の党建設につなげる種子を蒔いていたのではなかろうか。

 ということは、今日の党運動における青年運動の肌寒さが逆に照射されねばならないことを意味する。宮顕式党路線の真の犯罪性は、彼らが執行部に納まって以来50年にもならんとするのに、青年運動を全く逼塞させてしまったことに顕著に現れているように思われる。彼らは口先ではいろいろ云うが、今日の低迷状況に関して何ら痛痒を感じていない。彼らのオタク性こそ凝視されるべきであると考える。

 その長期にわたるいびつな党指導の結果、今日においては共産党の「正」の遺産は既に食いつぶされてしまったのではないのか。今日の党員像は、かっての周囲の者に支持されつつリー ダー的能力を発揮していた時期から大きく脱輪しており、体制内「道理」化理屈による非マルクス主義的「ご都合科学主義的社会主義」運動方向へ足を引っ張るややこしい行動で、周囲から「只の人」もしくは「ひんしゅく者」扱いされるそれへと移行してしまっているのではないのか。

 果たして、青年運動を牢とした枠組みで括って恥じない宮顕−不破執行部は日本共産党の党運動の正統な継承者なのだろうか、疑問を強く呈してみたい。ちなみに、筆者は、宮顕「個人」にとやかく言っているつもりはな い。憎悪すべくもない見知らぬ人でしかない。党の最高指導者としての氏の政治的立場に対して批判を加えているつもりである。弱きを助け強きをくじく精神を最も誇り高く持ち合わせて出発した日本共産党の党是の精神を尊びたいがために、そのような精神とずれたところで党の頂点に君臨し続けた氏の政治的責任を追及しているつもりである。指導者の影響力はそれほどに強く、政治的責任というものはそれほどに重いと思うから。

 ところで、そうした変調振りをあからさまにしている宮顕の「無謬神話」はどこから生まれているのだろうか、私には分からないオカルト現象である。

【れんだいこの全共闘運動雑感その2】
 もう一つの私的な観点からの考察を添えておく。非マルクス主義的な捉え方のようにも思うが、仮説として考えている。どなたのルポであったか忘れたが、 韓国・中国・ベトナムと旅をしてみてベトナムにやって来たとき一番ホッとしたと云う。まるで故郷に先祖帰りしたような気持ちになったと云う。ルポ作家がこのように民族的同一性を文学的に表現しているのを読んだとき、私には思い当たったことがあった。

 わが国でひときわベトナム反戦闘争が沸き起こったことには、民族的同一性からくる義憤という目には見えない根拠があったのではないのかと。最新の生物分子学におけるDNA研究の語るところに拠れば、遺伝子は過去の生物的進化情報を記憶しており、この情報は何らかの底流で「生きている」とも云う。つまり、わが国におけるベトナム反戦闘争は、血を分けた同胞がアメリカ軍によって苦しめられている様を見て先祖の血を騒がせたのではなかったのか、という仮説に辿り着く。その根拠を今現在の科学的水準で説明することは難しいが、そういうことはありうるという超常現象的考えを私は持っている。

 更に指を滑らせれば、この血の同盟による日本−ベトナム民族こそ、16世紀以降の欧米白色イズムに互して唯一といって良いほどに能 く闘い得た民族であるという歴史的事実があり、こうした認識の仕方はもっと注目されても良いとも思ったりしている。簡単に言えば、日本−ベトナム民族は、自治能力と民族的イデオロギー形成能力の高い民族ではないかということであり、この点に関しては我々はもっと自信と関心を持てば良いのではないのか。

 但し、これが「負」の面に立ち現れれば、欧米白色イズムに勝るとも劣らない隣接諸国に対する侵略者としても立ち現れることにもなる。大東亜戦争はその大義名分にも関わらずこの「負」の面の現われであり、解放後のベトナムのカンボジア・ラオス他侵略的な政策もまたそうであるように思われる。とはいえ、大和民族の優秀性とは言ってみても、第二次世界大戦における敗戦と今現在進行させられつつある国債大量発行自家中毒的経済的敗戦渦中は、その能力の二番手性をも証左しているとも思っている。アングロ・サク ソン系、その中枢に君臨しているネオ・シオニスト・ユダヤの狡猾さには遠く及ばないということである。ワンワールド化時代におけるこういう民族的自覚と認識は保持していて一向に差し支えないとも思っている。

【れんだいこの全共闘運動雑感その3】
 話を本題に戻す。全共闘運動は、ノンセクト・ラディカルの澎湃な出現を前提とせずには成立しなかった。興味深いことは、ノンセクト・ラディカルと新左翼各派の共同戦線的運動として全共闘が結成されたが、運動の初期においては この運動の主導性を行動的にも理論的にもノンセクト・ラジカルの方が握っていたことである。このパワーバランスが次第にセクトの方へ揺れていくのが全共闘運動の経過となった。

 ノンセクト・ラディカルが非党派を良しとしていた背景に理論的優位性があったためか、単に臆病な気随性のものであったのかは個々の活動家によっても異なるであろうが、全共闘運動が、ノンセクト運動の可能性と限界性を突きつけた史上未経験な実験的政治的左翼運動であったとことは相違ない。

 この運動の実際は、歴史の摩訶不思議なところであるが、 片や最エリート校東大と典型的なマスプロ私大校日大という両校によって担われることになった。その要因として、たまたま両校に有能な活動家が出現したということと、両校に教育政策上の権力性がより強く淀んでいたことが考えられる。それにしても、この時期党派であれノンセクトであれ、かなり広範囲に左翼意識者が雨後の竹の子の如く出現し続けた訳であり、今日的水準からすればよく闘い得た素晴らしい青年運動であったと思われる。

 なぜこのように評価するかというと、あれは立派なコミニュケーションであったと思うから。コミニュケーションの通過性こそ人間存在の本質性だと思うから。現在このコミニュケーションが矮小化させられていると思うからである。

 今日全共闘が懐かしく回顧されつつある理由として、「大学の自治」という美名の中に牢として秩序化されていた講座制という権威的封建主義と功利的近代主義の両面に対してよくぞ闘い得たという「正」の面の評価が挙げられる。全共闘運動の精髄は、既成の権威・価値・装置の全てと自己の存立基盤を疑 い、アナーキーな問いかけで社会に問題を提起した姿勢にあった。

 彼らのこの当時の「訴え」は今なお有効であり、否ますます有効さを示しつつある。元々彼らの問いかけは、ベトナム戦争に対する義憤に発したと思われるが、これを極めて思弁的に語った。彼らの論理は、単にベトナム戦争に白黒の政治的立場を表明するに留まらず、米帝国主義に加担して太り続けようとするわが国の人格的(というのも変だが他に適当な言葉を知らないので)在り方を凝視し否定することで普遍性を獲得していた。それは、大量生産時代の物資的な豊かさに呑み込まれつつあった時代の「先進国的豊かさ」を享受しようとして競争している「体制」に対する反逆の狼煙となっていた。

 今この姿勢の真価が評価されようとしている。あの時代から今日まで世界の資本主義体制は、ますます経済的利益最優先論理の下に資本を爛熟させてきたが、現在我々はこのことによって失った代価もあまりに大きいという現実を突きつけられている。公害の発生、空気、河川、大地、食物等の環境複合汚染、当然我らが体内にもまた同様の汚染が進行していることが考えられる。危険極まりない原子力発電化、生態系を無視した森林伐採、生物・動物の乱獲、政治も教育も医術も算術優先化させたことによる精神の荒廃、人々の相互疎外化等々は、「既存的な豊かさ享受の論理」と矛盾を深めつつある。

 今日のこうした情況は、もう一度「あの問いかけ」に戻ってみる必要があるのではないか、ということを訴えつつあるように思われる。「否定はまず自分自身に向けられた。徹底的な自己否定なく してはいかなる肯定もあり得ない内なる個の否定」、「我利我利亡者的エゴイ ズムの徹底的破壊。我らの闘争の根元的な拠点」(進撃3号「砦の狂人たち」)は、こうした感性の表現であるように思われる。

【れんだいこの全共闘運動雑感その4】
 こうした全共闘の「訴え」の歴史的背景には、丁度中国で毛沢東が紅衛兵に呼び掛けていた「造反有理精神」の発揚があったものと思われる。実際には 紅衛兵運動は政治主義的に利用されたようではあるが、わが国ではその理論面が輸入された。前述したように儲け合理主義一辺倒がとめどなく進行しつつあったあの時代において、全共闘の「体制に対する違和感」がこの「造反有理精神」と結合したとき、ベトナム戦争を通じてヒルの如く戦争の血を吸って高度成長しつつ、帝国主義的に世界列強への仲間入り政策を進めつつあった国家体制に対する叛乱へと進むことを良しとさせたのではなかったか。

 自己の存在が否応が無くこうした帝国主義的な成長過程に組み込まれていることに対する反逆として、「自己否定運動」というものを生み出しつつ決起せざるをえなかったのではないのか。こういう体制はまずもって解体されるべしと。 「自らが日々従事している『平和』的な労働=生産こそ、日本の侵略加担の巨大な構造を支えている歯車であり、まさに血に汚れた『人殺し』労働なのではないのか」(共労党)という訴えはこの辺りのことを表現しているように思われる。

 この論理は、東大闘争における医局員の次のような論理に見て取れる。「東大闘争は、医学部に於ける青年医師連合の基本的権利を守る闘いと、医療部門における人民収奪の強化、及び医学部に於ける研究教育体制の合理化=帝国主義的改編への闘いを発端として火の手を挙げた。そして独立資本との産学協同を推進する国立大学協会自主規制路線の下に、この闘いを圧殺 しようとした東大当局に対する叛乱として展開される」ことから始まった。

 この叛乱は、曰く、研究の自由に措定されている階級性の告発、曰く、特権的身分の否定、曰く、これらの告発に何一つ答えることが出来なかった知性の府の腐敗の告発を通じて、やがて学問的営為全体に対してブルジョワ的という名を賦与 してまず「否定」から始められねばならないという運動を創出していくことになった。この論理が共感を生みだしていくことになった。

 これを社会的関わりの中で見据えれば、概要「産学共同路線の実体は、大学の産業(資本)への従属であり、企業からの資本投入による安価な受託研究施設として機能し、安価な人材養成機関と化し、研究者の自立した研究を妨げる。研究内容そのものも帝国主義的価値との絡みに規定されており、大学の自治や学問の自由といっても偽善であり、現体制を美化するものでしかなく、大学に於ける帝国主義的な本質を隠蔽しているのではないのか」という認識を生みだした。

 こうした仕組みの中でノホホンと研究が進められていく事の「学者面した不義」に対して、全共闘は、当初の「研究者のあるべき姿勢の問いかけ」から次第に破壊的行動へ、更に解体的運動へと理論を発展させていくことになった。

 つまり、「自己否定論理」から「世界の解体−再創造」に立ち向かっていくことになった。こうした観点を究極化して「層としての学生運動」を生みだしていったのが東大ノンセクト・ラディカルであり、セクト的社会革命運動とは別個に創出された思弁的ラジカリズムによる学生運動であった、ように思われる。私なりに今から思うに二度と起こすことが困難な驚嘆すべき運動であったという印象を持つ。そういう感性を共有できる時代があったということなのだろう。

 ただし、東大ノンセクト・ラディカルに思弁性の高さは認められても、政治運動化の論理はおぼこかったように思われる。「自己否定論理」は、帝国主義的要員としてプロイダー教育・研究化させられている自身の存在の「自己否定論」 となり、「造反有理精神」は、その産みだし機関の否定としての「帝大−大学解体論」となり、「世界の解体−再創造論理」は、「体制破壊−解体へ向けての革命運動論」へと発展することになった。

 「既成の大学の自治」とは、そうした根元的な問いかけ−運動の創出の前には全く無能なあるいはまた帝国主義的に組み込まれた擬制でしかなく、小手先の改良によりどうなるものでもないむしろ欺瞞的として否定の対象とされた。

 こうした認識は、実践的に「戦後民主主義体制のイデオロギー的否定」へと向かい、学内運動としては「ポツダム自治会粉砕」へと向かい、対置したものが「直接民主主義論」(一種の代行主義的な多数決原理に基づく間接民主主義のポツダム自治会のアンチ・テー ゼとしての直接民主主義)、「コミューン的組織論」、「政治運動におけるラジカ リズムの肯定」となった。対社会闘争としては青写真無きままのラジカリズムによる革命運動への志向となった。

 「否定は内から外へと向けられた。否定さるべきもの、現に存在する大学当局の管理権力機構、としてそれを可能にし背後から支えている国家権力そのもの。だが二つの否定は論理的な区別を有するのみであって、現実に闘争を担っている主体にとっては同時的であり不可分離である」(進撃3号「砦の狂人たち」)という語りはこの辺りのことを表現しているように思われる。

【れんだいこの全共闘運動雑感その5】
 こうした全共闘的論理の実際の政治的運動としての立ち現れ方は後述するとして、全共闘は組織論的にもユニークさを発揮していた。全共闘的組織は、 当然既成の前衛意識的組織論とは異なる個々人の主体的決意をリンクさせたものとなっていた。これを代表的に表現していたものとして、東大助手共闘の次のような了解事項がある。

 曰く、1.個人の主体的決意のみによる参加、 2.指導部は創らず、問題は全て全員討議にかける、3.組織の維持を自己目的化しない。つまり、前衛党的な民主集中制とか分派禁止にまつわる細かな規約を持たず、極力シンプルに個々の「内なる思想的闘い」を重視させた非統制的組織論に依拠させようとしていたことになる。

 この三規約は、一切の党派的イデオロギーからの自立と、こうしてアトム化された個人の結集体と しての自立的自主的運動体としての可能性を追求する運動を担おうとしていたものと思われる。ベ平連系にもこのような論理が見られることを思えば、こう した思考と行動様式はベビーブーマー的論理の特徴であったのかも知れな い。

 「私は、ノンセクト・ラジカルということになっていますが、その内実はアナーキズム・ニヒリズム・プランキズム・マルキシズム・フーテニズム・ヤクザイズムのごった煮でありまして」(最首悟)というカオス派的語りはこの辺りのことを表現しているように思われる。つまり、左翼運動史上前例のない相互の自主性を重んじた組織運動を目指していたことになる。「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力を尽くさずして挫けることを拒否する」という語りもまたこの辺りのことを表現しているように思われる。

 全共闘的組織論は、全員加盟制自治会の多数決原理に基づく形式民主主義な右派的引き回しに対するアンチテーゼから生み出されたものでもあった。急進主義的戦闘的闘いを目指す者にとって、従来式の自治会制は足かせ手かせでしかなく、情況に合わせて突出した闘争を牽引するには、執行部を掌握していないかぎり絶望的であった。事実、執行部を掌握していない自治会では、新左翼が相当の組織勢力をもっていても有効な闘いが組織できないと云う状況が続いてきた。全員投票による形式民主主義に対して直接参加、直接行動による闘う組織の結成が急務となっていた。


 全共闘運動は、自治会的活動に代わるクラスやサークル闘争委員会を核とする運動を創出して行った。学生の闘うエネルギーを結集する全学的闘争組織が生まれ、全共闘へと発展していった。既成の組織の理念や論理から逸脱した大衆の直接民主主義を理念とする行動組織であった。実際の運動過程では、比較的少数の戦闘的集団が、まず突出した闘争(校舎占拠、バリケード・スト)をおこない、事後的に大衆を周囲に結集しつつ、運動の大衆化を実現するという“マッセン・スト”型の闘争戦術が日常化し、学園のゼネスト状態をつくりだして行くこととなった。

 「情況から言葉へ 、学生運動」の「」は次のように述べている。
 「とりわけ、多数決原理にもとづく、全員加盟制自治会組織と、その運営上にみられた形式民主主義の不毛性は、闘争が高揚するにつれて矛盾を露呈し、闘争の発展にとって桎梏とさえなっていた。全共闘運動が、戦後民主主義がもつ限界性を突き破って、大きな発展を示すことによって、その神話を突破したのである。こうして、全共闘運動は、全員投票による形骸化した民主主義にたいして、直接参加−直接行動による真制の民主主義を、自治会的団結にたいして、コミューン的団結を対置することによって、“ポツダム自治会”を大きくのりこえ、学生運動史上画期的な地平をきりひらいた。これは‘60年安保闘争において、「前衛神話」の崩壊をもたらしたものと、底部で深く共鳴していた」。
 「学生大衆の自主的参加と、意識的結集によって組織された闘争委員会−全共闘の結成は、そのまま当時の学生運動の到達点を示しており、質的内容の豊かさを物語っていた。戦後、日本の学生運動は、全員加盟制自治会に体現されるように、学園改良闘争(日共型)や、新左翼による強力な政治指導の下で、普遍的任務を階級闘争の最先端においてになってきた「革命的」学生運動へと両極分解し、それが固定化していた。そのなかで、全共闘は、このような学生運動の、実体的かつ組織的な閉鎖性をのりこえ、発展させるものとして画期的な意味をもった。

このような闘争戦術の方式は、政治党派からは、既成の‘ポツダム型’組織をドラスチックに解体・再編し、大衆的な自己権力組織へと自己形成をとげるべきものとして、組織論的観点から“ソヴェト”へ結びつくものとして期待された。その意味で、全共闘は、政治党派からみても、従来の自治会組織かわるべき、現実的な展望と、ダイナミックなイメージを提供した」。
 「また、全共闘運動の、さらに大きな特色は、それまでの学生運動がすすめてきた政治党派などの、何らかの勝利や獲得をめざす闘争方式よりも、闘争にかかわる個人の意識や行動に主体がおかれたという理念上の問題がある。それは、党派や指導部によって組織されたものではなく、参加者一人ひとりが、自らの決意と責任によって参画したという闘争形態と必然的に結びつくもので、学生が絶えず自らの存在について問いかける中から出発したものであった。「自己否定」あるいは「自己変革」という言葉が、全共闘運動のなかで産まれた。全共闘運動が、きわめて主体的、思想的な運動であったとされるのはこのようなスタイルをとったためである。全共闘運動が、個々の大学の改良闘争、あるいは、共通の政治目標をこえたラジカルで広範な運動となったのは、それが提起した個々の闘争主体の内面をゆさぶる理念と経験を獲得したためである。

しかし、後の世代から見ると、残念ながら、このような運動が全く姿を消してしまって承継されなかったのはなぜか、という問題意識は当然でてくるはずである。60年代後半の学生を中心とする若者の闘争が、国家に対する「異議申し立て」として発生しつつも、言葉が現実に追いつけなかった点こそが、第一の敗因であるとの結論にもつながってくる。

だが、これらの闘争を微細に遡っていくと、私が今いる場所からは、もっと別の見方もできるような気がしてならない。一般的な見方からすると、資本主義が高度化するにともない、「恣意的な自由の意識」や「私的利害の優先意識」が伝統的な社会意識とぶつかり、価値観が世代間の軋轢をひきおこしたことが、運動の原動力になったとの見方がとれる。それが、学生という自己の存在と激突し、自分たちの民主主義を直接的な方法でおしだしたというのだ。

また、日大闘争も東大闘争も、大学という場での権力関係、その構造的な閉鎖性に対するものであり、それは優れて社会的な権力をめぐる闘争であった。社会的な権力の構造、その非民主的な性格への闘いだった。そして、そのような言葉にならない学生大衆の無意識の歴史観を方向づけることができなかったことが、悔やまれるような反省がでてきてもやむをえない」。

【れんだいこの全共闘運動雑感その6】
 こうした東大闘争とは別途の方法で共に戦い抜かれたのが日大闘争であった。共に有ったのは、ぶんぶく太りし続ける日本経済の発展の仕方に対する拒絶の姿勢、と筆者は観る。日大闘争ならではの特殊性としては、日大には過去学生運動の歴史が無く、それもその筈で建学理念の保守性とこれを護持しようとする強力な右翼系体育会・応援団運動こそが日大の学生自治運動となっていたという背景があった。

 ところが、世情騒々しさのおりがら古田理事会体制による不正入学金の使途不明問題が勃発した。学生の怒りが沸き起こり、「不正入学金の使途不明告発から学内民主化闘争へと発展。大学を学問探究の場から利潤追求の場とした古田理事会体制との闘争」が組織されてい くことになった。この闘いは、大学当局の意を挺した暴力機関体育会・応援団の介入と血みどろになりつつ勝利的に切り開かれていくことになった。それはあたかも、「ベトナム人民が武器を持って立ち上がり、侵略者を追い出し、自ら の解放を勝ち取ろうとしていた」ことになぞらえられる闘いであった。

 秋田明大を議長とした日大全共闘が結成され、「一.理事長総退陣、一.経理の全面公開、一.不当処分撤回、一.集会の自由、一.検閲制度の廃止」という5つのスローガンに集約された闘いを進めていく運動の中から、次第に「古田体制の帝国主義政策の先兵、帝国主義者に反抗せず支配者の言いなりになる人間の養成の場とした体制を打倒し、ブルジョアジー教育に於ける砦を破壊し、 学生の戦闘的拠点を建設する闘い」の創出へと向かうことになった。この日大ノンセクト・ラジカルもまたセクト的社会革命運動とは別個に創出された反封建、向民主的ラジカリズム的な学生運動であった、ように思われる。私なりに今から思うに二度と起こすことが困難な驚嘆すべき運動であったという印象を持つ。そういう感性を共有できる時代があったということなのだろう。

 残念ながら、こうして盛り上がった東大−日大闘争は、次第にセクト理論の洗礼を受けていくことによりみずみずしさを失ってしまう。(もう少し時間をかけて各派ごとに対比させつつ研究してみたいが、この場合は何せ時間と資料がないのではしょります)セクト理論の影響を受けて闘争が深化発展する方向へ向かうのならよいとも思うが、トンデモの方へ行ってしまう。

 「民主主義は労働者階級の闘争を市民的秩序に押しとどめるもの」→「大学の自治は幻想であり守るべき自治は何もない」とする帝国主義の欺瞞的支配の図式化→「ブルジョア民主主義をプロレタリア民主主義と対立させ、打倒されるべきものとする」という論理による民主主義闘争の放棄→「一切の改良主義的妥協と自己欺瞞を峻拒した永続的闘争」→「権力を引き出すことを目的意識的に追求する闘争」→「先駆的集団の挑発によって国家の暴力支配を登場させる」→「国家の暴力支配の登場が大衆を闘争に駆り立てる」→「先駆的前衛的にこの闘争を担うというヒロイズム精神による特攻隊化」。

 このような論理は、完全な政治的引き回しでしかない。各派がこの段階のどれかに位置しつつ全共闘運動に揺さぶりを掛けていくことになった。その結果、全共闘運動は、さてどこに向かおうとするのか、何処まで向かうのか分からなくされてしまったのではないのか、と思われる。

 こうして、当初のアナーキーな問いは、大学制度改革運動から次第に離れてこの問い自身のデカダンスへと発散していくことになった。「自己否定の否定はやはり否定」と揶揄されている破滅的論理に沈んでいくことになった。残された方向は先鋭的暴力化の競い合いという構図となった。

 興味深いことは、 大学制度改革運動から全共闘運動が生み出されたにも関わらず、全共闘運動がこうしたデカダンスの深みに入っていくことにより、大学制度改革運動を民青同系が担っていくことになったという経過がある。私は、これを全共闘運動の自己転落と観る。この自己転落の責任を民青同に転嫁させ「民青殺せ!」 の道程へ踏み入って行くことになったのではなかろうか。「誰のせいでもありゃ しない。みんなおいらが悪いのさ」という歌の文句をはなむけとしたい。

【れんだいこの全共闘運動雑感その7】

 さて、最後に付け加えておくことがある。全共闘運動が賞賛されるべき内容を保持していたにも関わらず、その運動の中に無条件に胚胎させていた暴力性の論理である。この暴力性は、彼らがどう政治的な言葉で言い繕ろおうとも、事は至って単純エゴイスチックなものでしかなかった。「トロが学生自治会の執行部に選ばれた場合、自分たちの支持が無くなると、何年間も改選しなかったり、不正選挙、不正投票をしたり、学生大会から反対派を暴力的に閉め出したりしてきた」(川上氏「学生運動」)と言わしめるような手法を日常化させていたのではないのか。なぜ、彼らは堂々と所見を述べ、学内外にプロパガンダしていかなかったのだろう。

 筆者に言わせれば、全共闘は値のある理論を持っていたように思われる。当時も民青同は宮顕論理の影響を受け、ほぼ自主性のない運動しか為しえない窮屈な姿を見せていた筈である。なぜ堂々と民青同と渡り合い、自治会執行部を取れればよいし、取れなければ取れるように根気強く運動を組織していく粘り強さを培えなかったのだろう。「民青殺せ!」と絶叫 しつつデモしていた事実は一体何を語るのだろう。「悪魔も寄りつかぬ静寂の中でドン・キホーテは夢をみていた。しかし僕らは自己を主張するのに不可欠なハンマーを見ている。反革命分子よ気をつけるがいい。血と肉を持った存在が今や鉄槌無しには主張され得ないのだ」などとうそぶきつつ「自己の内なる東大を否定せよ」とは、一体何を洒落ているのだろう。

 私が民青同を評価しているのは、次の一点にある。度々指摘しているように 党中央指導によるゲバ民化の事実を隠そうとは思わない。しかし、民青同は学生運動内に曲がりなりにも民主的手続きと原則に対して踏まえる術を知っていたと思う。学生大会の運営も然り、逆にやられたらやり返せとばかりに 「他党派のあれこれを殺せ!」と絶叫しつつデモったという事も知らない。こう いうことは誰に教えられるのでもない、何かイデオロギー以前の人としてのたしなみではなかろうか。反代々木系運動にはこのたしなみに対して欠落したものがあるのではなかろうかという不信がある。

 残念ながら私には民青同の良さは他には見あたらないが、民青同が踏まえていたこの手続き民主主義の精神こそ最も大事なものなのではなかろうか、と思う。民主主義は、間接であろうが直接式であろうが手続き無しには成立しない。この手続きの野蛮化と権力をチェックし民主化するということは、「人と人との群れ方」というコミュニティーの約束事としてイデオロギー的メガネを掛ける以前の話なのではなかろうか。受験から解放されてわずか数ヶ月か数年のうちにいっぱしの活動家が促成され、「日共解体、民青殺せ!」と呼号しながらデモることに不自然さを覚えない感性が分かりにくい。人の弁証法的成長過程として許容される部分も有るとは思われるが、その際手続き民主主義の精神と切磋琢磨精神の涵養は前提にされていなければならないのではなかろうか。

 この精神が大事でないというのなら、70年に入って以降学内に立ち現れた特定セクトによる暴力支配に対して手を焼いた経験がない者の物言いとしか考えられない。このキャンパス内に立ち現れた憲兵隊的存在こそ70年以降の学生運動の特徴であり、学生運動低迷の真の原因と思っている。元々少ない左翼意識の持ち主がパージされ続けた結果、キャンパス内に「白け」が蔓延してしまうことになった。いつの間にか「白け」が日常となってしまったのではないのだろうか。

 対話弁証法のないところには発展がないのであり、それは飛行機が摩擦抵抗を利用しつつ滑走路からフライングしていくという物理法則 と同じ現象であり、その逆の例である。左翼運動自体が古くなったのではなく、もっと単純に左翼人士の登場が押さえつけられているのではなかろうか。これが二度と全共闘運動を創出させない主要因になっているのではなかろうか。これに対するのに、負けた者の遠吠え的にではなく、まず自ら左翼運動内にこうした現実を生み出させない強固な運動理論とその仕組みを構築することが必要とされているのではなかろうか。

 単純に言えば、「されて嫌なことはしない」という平明な原理を守れば良いだけの話である。万事ブルジョア的と言いなせば粉砕されたり、プロレタリア的だとか言いさえすれば免罪されるという作法は、命名者側の権力の乱用的常套手段であり、この物言いに納得する側の「知」の頽廃を前提にして成立 しているのではなかろうか。互いの活動を認め合うという原理は万古不易に墨守されねばならない大人の嗜みなのではなかろうか。こうした原点の確立から運動を模索することこそセンチメンタリズムを越しえて全共闘運動を総括しうるものとなるのではなかろうか。


【れんだいこの全共闘運動雑感その8】

 全共闘運動は、大学の任意の会館を占拠しバリケードで囲い、コミューン叉は解放区とした。そこで自主カリキュラムを組み、あるいは講演会を開いた。或る意味で至上未曾有のカルチェラタンを創出した。

 これに対し、例によって革マル派の絶対指導者・黒寛は「革命的マルクス主義とは何か?」の中で次のように罵倒している。

 「学園や経営などを少数精鋭主義的に「占拠」することを自己目的化するだけではなく、バリケードによってつくられた箱庭的小空間を<コミューン>とか<解放区>とかとするにいたっては、本質上、子供の遊びとなんらえらぶところがない。それは、まさにコミューンのカリカチュアでしかない。…中略…そうした「占拠」によって偶然的な自由を獲得し持続することの直接的な延長戦上に、権威もなく権力も存在しない社会の創造を、政府が経済的有機体に解消された無政府的社会の出現を、夢想することは、明らかに、すでにプロレタリア階級闘争の歴史そのものによって破産を宣告された小ブルジョア社会主義の時代おくれの復活でしかなく、またアナルコ・サンディカリズムの轍をふむ以外のなにものでもありえない」。


 筆者は、黒寛を宮顕bQと見立てている。黒寛がこう批判している以上、バリケード空間には革命的意義があったと逆に認めるべきだろう。


【転載「今、全共闘の時代をどう受けとめるか(アレンジ中)」】
 (次の一文は引用先失念。どなたか教えてくだされば助かります) 全共闘運動に対する次のような一文もある。
 「今、全共闘の時代をどう受けとめるか(アレンジ中)」

 全共闘運動は、抑圧民族=帝国主義本国での階級闘争を闘う重要な観点を提出した。その核心は、帝国主義本国労働者人民が、自国国家権力と非妥協的に闘うためには、意識的変革が著しい重要性を帯びることを、大衆的な実践の中で明らかにしたことにある。結局この全共闘運動は挫折せしめられた。その外的要件、内的要件を切開し教訓化することには意義がある。
 

 ○全共闘運動とは何か−全共闘とその背景

 全共闘運動は、60年代後半の時代のニューマを掴んでいた。65年を境にアメリカ帝国主義のベトナム軍事侵略が全面化し、日本独自の動きとしても65年、日韓条約を境に、日帝の自立化政策を公にしつつあった時期でもあった。この時期、世界各地で闘いの高揚が見られた。ベトナム民族解放闘争は、その最先頭に位置していたが、「世界の人民は、ベトナム戦争の観客であってはならない」と檄を発し、自ら、キューバ経済相の地位を棄てて、南米解放闘争に身を投じ、闘争中に戦死したゲバラの実践はベトナム同様、世界の労働者人民に強い感銘を与えた。

 この時期の世界の闘いの特徴は、それ迄の社会主義運動に於いて、揺るぎない権威とみられていた既成左翼への反発であり、既成左翼との闘いの中で、大衆的な高揚が切り拓かれたことである。68年パリ5月革命は、社共系の影響の弱い労働者・学生を中心に闘われ、共産党の抑圧と対決しながら高揚を切り拓いた。同じ時期の、チェコスロバキアの民主化闘争は、ソ連型「社会主義」の官僚支配に対する不満の爆発であった。中国の「文化大革命」も、ソ連型の既成の体制への反発という側面を持っていた。アメリカの黒人解放闘争−ブラックパンサーを中心とする闘い、西独−赤軍など、この時期に台頭し、それらの闘いの多くは、ソ連や既成左翼−社共に対する批判・対決を伴っていた。ソ連の膨大な援助のもとで建設を行ってきたキューバですら、ゲバラ−カストロが、ソ連の日和見主義批判を開始し、中南米武装解放闘争全般もソ連の国益主義的外交や平和主義への批判を強めていた。

 60年代末になると、労働者人民の闘いが旧来のソ連・各国共産党を中心とする既成共産主義運動の権威からの脱却を目指して、新たな運動構築を模索する中で世界各地に大衆的な高揚を実現させた。この時期労働者人民の運動、共産主義運動は、世界共通に根本的脱皮を求められていたのである。

 日本の全共闘運動も、−自覚の有無は兎も角−その要請の下に展開された、世界史的意義を持つ運動の一環にほかならないものであった。 社会党・共産党系既成左翼への鋭い批判、激しい対決を伴って闘われたことは決して偶然ではなかった。全共闘運動は、激しい街頭実力闘争や、全国の学園を覆った学園バリケードストライキ(しばしば、無期限バリケードストライキ)、大衆団交などの特徴を持った。これは、旧来の左翼運動−議会と組合を中心に、国民の多数派形成を目指す運動とは、全く異質な特徴であった。

 ○全共闘−その思想と実践

 全共闘運動の思想と実践の特徴−「自己否定」、実力闘争、社共批判が持った重大な意味について

 全共闘運動は、10・8羽田闘争を画期とする街頭実力闘争−政治闘争の展開、及び、日大・東大闘争を起点に、全国に波及した全国学園闘争の展開という主要な側面を持っている。この両側面である政治闘争と学園闘争は、勿論、多く共通する勢力が担っているだけでなく、思想的にも重大な共通性を帯びている。

 「被害者意識」に頼る運動への疑問−国際主義と自己否定

 それ迄の社会党・共産党系の運動は、「平和と民主主義、よりよき生活」という標語に要約できる。アメリカ帝国主義−自民党の悪政に苦しめられている日本国民が「平和・民主主義・生活擁護」という、“誰にでも賛成できる”内容で、着実に多数派形成してゆけば、より良い日本が実現できる、という論理構造で組み立てられていた。その手法も議会での多数派形成を目指すことにより実現させようとしていた。全共闘運動は、当時の、この“常識的”な思想と運動体への根底的な疑問と批判を突きつけた。

 ◆67年10・8羽田を起点とする政治闘争の高揚 新左翼−全共闘系の政治闘争と社会党・共産党−既成左翼の政治闘争

 <67年10・8羽田闘争>

 67年10・8羽田闘争が画期点となった。全共闘−新左翼系の闘いが、広く全国的に影響を与える契機となった。67年10月8日、三派全学連(共産同、中核派、解放派)を中心とする労学大衆は、首相佐藤のベトナム訪問を実力で阻止すべく、ヘルメット・角材で武装して、羽田に進撃した。この闘いでは、京大生山崎君が機動隊に虐殺された。

 それまで、デモと言えば、「日本が戦争に巻き込まれること」への反対や、生活擁護・民主化に限られていた。しかし、新左翼は、日本帝国主義のベトナム侵略加担という課題、他民族抑圧に対して、身をもって決起し、死者をも出す実力闘争を展開した。新左翼は、日本共産党の対米従属論−二つの敵(アメリカ帝国主義と日本独占)論を鋭く批判し、自国帝国主義との闘いを根本任務と据えることを訴えた。10・8闘争が、全国の労学大衆に衝撃的な影響を与えたのはこの点にある。10・8闘争は、左翼運動・共産主義運動に対する、それ迄の常識・前提を突き崩した。

 それに対して、日本共産党は、当日『赤旗祭り』に打ち興じ、三派全学連の闘いを挑発と非難し、山崎君虐殺に対して、“自分たちが車でひき殺した”という権力の見えすいたデマを事実上支持するなど、腐敗した体質をさらけ出した。
 
 翌年頭、佐世保エンプラ入港阻止闘争では、社共県評系の集会で、例によって「集会防衛隊(権力からの防衛ではなく、新左翼からの防衛隊)」を組織して、新左翼排除を行うとする日共・民青に対し、労組・地元市民から「誰と闘っているんだ」という怒りの糾弾が浴びせられ、ピケの解除に追い込まれている。こうして、新左翼・全共闘系は、日共・既成左翼との鋭い対決の中で、政治闘争の牽引力を急速に強めた。

  <学園闘争と自己否定>

 社共系の学園闘争は、学費値上げ反対や処分撤回など具体的要求をのみ中心とするものであった。しかし、全共闘系学園闘争は、具体的要求に止まらず、「帝大解体」・「大学解放」「などの「抽象的」なスローガンを掲げ、無期限バリケードストライキなどの戦術を広く取り入れるところに特徴があった。これらの運動全体を貫く思想として「加害者としての自己の否定」論理があった。

 「自己否定」論は、元々は東大闘争の中で形成されている。エリート養成機関である東大で運動を発展させるためには、自分たちの存在が労働者人民に敵対していることを問題にし、それを否定することなしには、労学の連帯もない−という思想が、自己否定の骨格である。しかし、この思想は、エリート大学=東大に止まらずに、全国学園闘争に波及した。それは、“学生の存在、学園の存在一般が、体制に組み込まれ、資本主義を支えている”ことを認識し始めたことと結びついている。この自覚は、帝国主義本国=日本の労働者大衆が、韓国−アジア人民に対する抑圧民族・加害者であることを自覚し始めたこととも重なっている。

 全国学園闘争は、この「加害者」意識を重要なバネとして、日共=民青が実現できなかった戦闘性と大衆性を獲得したのだ。実際、学園闘争の中で学生自治会に対するそれ迄の日共系の支配は、全国的に覆された。
 
 日本共産党・民青は、国家権力や学園当局に対しては、決っして行使しない暴力をもって、全共闘運動・バリケードストライキに襲いかかり、既存の秩序維持のために、奔走した。既存の秩序を前提に、「善玉」(=勤労者)が悪玉(アメリカと日本の一握りの独占資本家)を議会などで追い詰めるものとして、階級闘争を考えるのか、既存の秩序自体を否定し、変革する対象として捉えるのか−社共既成左翼と全共闘・新左翼は、こうした思想的対立を激化させた。


 <沖縄返還と70年安保>

 こうした全共闘・新左翼運動の高揚は、「70年安保」をめぐる闘いに凝縮されてゆく。しかし、「60年安保」の如く国会を取り巻く数千数万の大衆闘争を見ることなく形ばかりの体裁を儀式化させて安保は自動延長した。

 4、全共闘−その意義と限界

 ◆ 帝国主義本国階級闘争の特殊な性格と全共闘運動

 我々は、資本主義社会に生活している。従って、勤労者は資本家によって搾取・抑圧される階級であり、資本家の横暴を暴露すれば一致団結して闘うことが出来る−日本共産党もここまでは言う。

 しかし、日本は、ただの資本主義ではない。世界は、20世紀初頭に、少数の抑圧民衆(帝国主義列強・本国)と被抑圧民族(植民地従属国)とに分裂した。帝国主義列強は、被抑圧民族からの超過利潤で潤い、労働者までもがその利潤の一部である程度潤い、ブルジョア化する。左翼運動は、どれ程反政府的ポーズをとり、経済闘争(賃金要求等)を闘い、資本家と闘っているつもりでいても、それだけでは階級的に闘うことは出来ない。

 自国の他民族抑圧と、それを認める排外主義思想と闘わない限りは、支配階級の側に巻き込まれることが避けられないのだ。第一次帝国主義戦争時(1914〜18)に、ロシアを除く、欧州の社会主義政党が、祖国擁護の立場をとって戦争協力を行ったこと。第二次帝国主義戦争(1939〜45)に向けたフランス人民戦線などは、いずれも、愛国主義・民族排外主義の立場に立っていたために、支配階級の侵略戦争に引き込まれた例である。

 他方、帝国主義本国の労働者大衆は、自分達が抑圧民族であることを科学的に自覚することによって、大衆的戦闘性を発揮できる。全共闘運動やパリ5月革命は、このことを大衆的な実践をもって示したこと、ここにこそ重大な意義があった。労働者は、被害者意識や、「誰でも分かり易い」具体的な課題でないと大衆的に決起することはできない−という、それ迄の左翼の「常識」であった、大衆を蔑視した思想、経済主義思想は、全共闘運動の実践によって打ち破られた。

 同時に、先進国の労働者は、豊かになったので最早階級的に決起することはない、という俗説も、全共闘運動や、パリ5月革命の運動が、根底的に打ち砕いた。−帝国主義本国日本の階級闘争を具体的に考える時、全共闘運動の教訓化なしには豊富な認識は得られない。

 ◆ 全共闘運動の意義と限界

 全共闘運動は、帝国主義本国階級闘争を闘うに際して、“忘れ去られていた観点”に接近した。それは、次の点にわたっている。

 第1に、対米従属論を批判し、「被害者意識」に迎合する既成左翼に対して、労働者学生大衆に、「体制を支える加害者」としての自覚を促したこと。これは帝国主義本国抑圧民族としての政治的自覚の重要性を認識しつつあった事を示している。

 第2に、議会や合法的手段に限らずに、大衆自身の実力で、国家権力との闘いを切り拓こうとしたこと。自国帝国主義が日々不断に推進し強めている他民族抑圧と闘うには、大衆的実力に立脚した非妥協的闘いが不可欠である。

 第3に、労働者大衆を身近な具体的要求でだけ行動するものと決めつけていた社共既成左翼の大衆蔑視に対して、「自己否定」−自己変革を促し、積極的な思想闘争、理論闘争の必要性を大胆に持ち込んだことである。特に、既成左翼に対する厳しい路線的批判を大衆自身が認識し、公然と討論の俎上に乗せられたことは、労働者人民の理論的認識を著しく高めた。革命路線をめぐる大衆的討論を始めとして、全共闘の時代に、労働者大衆の理論的関心は前例のない程成長した。

 第4に、前者と関連して、ソ連−日本共産党型の大衆蔑視の官僚主義に対する批判を大衆的に展開したことである。

 −これらの認識は、現代世界と帝国主義に対する科学的認識に成長する(しかも、大衆的規模で、実践と結びつきながら)戸口に立ったことを示している。

 しかし、左翼党派は、それに応える内容を持てなかった。日米関係については「対米従属」との対決に突き進む大衆に対して、左翼党派の世界認識は、「対米従属論」により妥協的なものであった。(それが現在悪い方向に開花している) そして何よりも左翼党派は、労働者大衆の理論的認識を成長させることと不可分一体に結びついた政治闘争を組織できなかった。政治闘争の発展を、軍事的エスカレートとしてしか認識できない水準に、左翼党派は置かれていた。

 ここから
 @ 政治闘争の発展を志向した軍事化→赤軍
 A 政治闘争を「やるだけやった」のに勝てなかった→別の道を、という2つの敗北の道に進んでゆく。

 党派の理論・路線的限界によって、全共闘大衆は、彼らがつかみかけた核心を、科学的認識に高めることが出来ず、霧散を余儀なくされた。

 ◆ 全共闘とその後の大衆運動の腐敗

 全共闘運動の後、数年を経て、左翼運動の首座に躍り出たのは、78年三里塚開港阻止決戦を闘った菱田ブロック−労働情報系と言われている潮流である。(これは、第四インター、プロ青、戦旗<日向派>、赫旗、労調委などの党派が属し、日市連、6・15潮流系市民運動などと、相互浸透している。)

 この潮流は、全共闘運動をただ否定的にのみ捉え、その積極的意義を一切葬り去ってきた。確かに、全共闘運動は挫折を余儀なくされた。だからと言って、既成左翼社会党・共産党にすり寄ることで、新しいものが切り開けるわけではない。だが、現在の左翼党派が行っていることは、これなのだ。

 一例を挙げよう。82年に、反核運動が未曾有の高揚を示した。この時、社会党・共産党指導部は、「推進連絡会」を組織して、これを牛耳り、米帝の核軍拡だけを問題にする反米運動・国連要請運動にねじ曲げ、固定化した。だが、労働情報系左翼−及び、中核派など既存左翼は、この事態に対して驚くべきことに、何ら警告を発することをせずに全面賛美を行ったのである。

 もう一例。労働情報系は、労戦統一反対のために、総評三顧問−太田薫・岩井章・市川誠を天まで持ち上げた。彼らの積極的な面を活用する事自体は問題ではない。しかし、既成左翼の代表的人物に属し、多くの日和見主義的行動を行ってきた彼らの立場への公然たる批判を行う事なく、彼らを賛美する事は、労働者人民に対して、三顧問の否定的な面、克服すべき面から一切目を閉ざさせるものであり、既成左翼と変わりない大衆蔑視に他ならない。

 労働情報系を中心とする既存左翼は、全共闘運動を科学的に分析する事なく、“大人の政治を知らなかった”“社共既成左翼を反対派的に批判するだけではだめだ”という感性的な総括から、既成左翼へのすり寄りをみせている。

 既存左翼は、
 (1)「米・レーガンの圧力による日本の軍拡」論に迎合・屈服する事で、日本共産党なみの対米従属論にすり寄っている。
 (2)全共闘運動は、一部官僚だけでなく、大衆自身が理論的・路線的に武装する闘いを目指した。だが、労働情報系など既存左翼は、「わかりやすい課題での人集め」に熱中し、公然たる理論闘争を蔑視している。
 (3)裏取引政治の横行−政治的決定を、非公然に、裏政治で行う方法は、今や、社共なみになっている。
 こうした方法が大衆の戦闘性を解体することは避けられない。

 5、全共闘の地平をどの様に受け継ぎ、発展させるべきか −全共闘運動とレーニン主義党−

 全共闘運動の積極的な要素を受け継ぎ、80年代の階級闘争の中に生かしてゆくためには、レーニンとボルシェビキ(ロシア社会民主労働党、『多数派』、後のソ連共産党)が切り拓いた共産主義党・全人民的政治闘争・帝国主義をめぐる理論的・実践的蓄積の継承・発展を行わなければならない。これが結論の核心である。

 「とんでもない。レーニンが提起し、スターリンが引き継いだ中央集権的−官僚的な前衛党組織との闘いこそが、全共闘運動の重要な特徴だったではないか」と。日本共産党・ソ連共産党などの組織論は、ボルシェビキ・レーニンの組織論とは何の関係もないスターリン主義党組織論である。だが、全共闘運動の担い手の多くは、両者を漠然と一体のものと捉え、民主集中制を否定したために、底なしの泥沼に落ち込んだ。

 全共闘の掲げた「組織のない組織」、「誰でもやる気のある者は指導部になれる組織−固定した指導部のない組織」、「誰でも指導部になれる組織」は実践的には機能しなかった。実質上の固定的な指導部を生み出し、指導部批判の権利は、「批判があるなら君も指導部に」「対案を出して、その方針で運動を進めてくれればいい」という“善意”の主張によって黙殺された。被指導部が指導部を監視する組織的保障の下で、指導部と同等の力量を獲得してゆく組織活動上の条件は一切奪われた。政治的力量、否むしろ政治的力量のたけた部分による、責任を負わない官僚主義支配−これこそ、全共闘組織が避けられず辿った道である。何故、官僚主義になるのか? 組織形態が不明確な組織では、実質上、指導部と同等の力量、全般的な対案が、あらかじめ求められるからである。

 こうした事態の克服を、最も系統だって追求したものこそ、ボルシェビキ・レーニンの党組織論に他ならなかった。もし、レーニンの『一歩前進、二歩後退』と、その前後の著作を研究する労をいとわないならば(新左翼は、ここを通り一辺にやりすごすか、トロツキーの誤った組織論によって科学的認識を妨げられた)、レーニン主義党と、日本共産党やソ連共産党の上意下達の官僚組織とが全く異質の存在であることは、容易につかみとれたはずである。

 レーニン主義党は、戦闘の機能だけでなく、@・全組織員の思想的成長、率直で発展的な理論闘争の保障のために、A・指導部の監視のために、民主集中制が不可欠であることを詳細に明らかにしている。レーニン主義党は、激烈で活発な党内闘争を、公然と労働者人民の目前で行いながら、そのことによって強化されてゆく党として成長した。−これこそ、全共闘運動が、根本に於いては目指していたものなのだ。

 ボルシェビキ・レーニン主義党は、このような党であったため、二月革命後の激動期に、中央指導部の多くが動揺した時にすら、全党の自覚的結束はゆるがず、十月革命勝利を導いた。ロシア十月革命後、欧州諸国の革命は敗退し、帝国主義列強の反革命干渉戦争がロシア全土を襲った。革命ロシアは何とか持ちこたえたものの、自覚的な中堅党員、労働者の最良の部分の大半が戦死するという政治的焦土の上に、スターリンは権力を握り、レーニン主義党を全く異質なものに変質させた。このことは、重大な敗北ではあるが、しかし、ボルシェビキ・レーニン主義が目指したもの、その思想の敗退を意味するものではない。

 同様なことが、政治闘争論をめぐっても言える。全共闘は、しばしば「体制を否定する思想的表現としての無期限スト」という主張を行い、実践化した。これは、旧来の既成左翼からみれば、開いた口がふさがらない程、とんでもない代物であった。何故なら、既成左翼にとって、政治闘争とは、大衆の身近な要求を組織しながら、或いは、わかりやすい要求を組織化しながら、支持を拡大するものに他ならなかったからである。

 それに対し、全共闘は、真の政治的内容、即ち、体制そのものの根底にかかわる政治闘争を求めた。或いは、闘争主体の思想的変革、成長を促す政治闘争を模索した。−その稚拙ではあるが、強烈な表現が、「思想性の表現としての無期限バリスト」等の位置づけである。政治闘争の中で、どのような思想変革も追求せず、大衆の現在のあるがままの意識にどっぷりと迎合して、支持の拡大だけに汲々としながら行われている既成左翼の腐敗した政治闘争論に全共闘が反発したことは、全く正しいものであった。だが、全共闘は、この問題意識を、誤った方向に押し進めてしまった。

 政治闘争を、何よりも労働者大衆の思想変革・成長のための最大の源泉として捉え、その観点から、全人民的政治闘争論を厳密に展開したのは、レーニンに他ならなかった。レーニンは、政府に一般的に反対するだけの、政府に要求をつきつけるだけの政治闘争を「経済主義的政治」として厳しく批判している。レーニンは、労働者大衆が身の回りの具体的課題の方が大衆的に決起できるという経済主義を鋭く批判した。これは、全共闘が既成左翼に対して批判しようとした核心の一つに他ならない。そして、レーニンは、政治闘争の中で、労働者大衆が階級関係全般、社会関係全般に対する科学的認識を獲得し、支配階級と被支配階級の利害の非和解性を唯物論的に認識してゆくことが出来る政治闘争だけが、全人民的政治闘争であり、共産主義的政治であると強調している。全共闘が行おうとしたこともこれであった。

 政府に合法的手段でお願いするだけの既成左翼の政治闘争は、支配階級と労働者人民との非和解性を少しも明らかにしない。それに対して、全共闘は、「無期限スト」「体制を否定する思想性の表現」という形で、この目的を、一挙に達成しようとしたのだ。これは、成功するものではなかった。闘争が、「思想性の表現」になった時、逆に、闘争は政治自覚を希薄化させ、思想性をも解体していった。

 例えば、「大学解体」というスローガンは、その典型である。このスローガンは、大学が現体制に組み込まれていることの分析に立ち、体制と、それを支えるものの根底的否定への肉迫を目指したものと言える。しかし、ブルジョア大学を解体する課題は、国家権力の打倒との関連抜きにはあり得ない。にもかかわらず、この点をあいまいにして、「大学解体」や「永続的バリケード」を主張する時、それは、国家権力との対峙関係の根本を見失わせる役割を果たす事になる。即ち、支配階級との非和解性はあいまい化する。従って、「大学解体」や「無期限バリスト」は、体制を根底的に否定する思想性の表現ではあり得ないものになる。体制否定の志向がありながらも、それを科学的な階級分析と結合しない限りはこの結論は避けられない。

 全共闘が目指したもの−政治闘争・諸闘争を、思想変革・成長と不可分に結びつけることは、唯一、レーニン主義的政治闘争論の厳密な研究、継承・発展を基礎にしてだけ可能になること、このことを、現在、我々は、徹底して自覚しなければならない。既存左翼(かつての新左翼)が、かっての既成左翼なみの、経済主義的政治を露骨にすることで、全共闘運動の意義を清算主義的に洗い流そうとしている現在、全共闘運動が既成左翼との対抗の中で目指した政治闘争論を、マルクス・レーニン主義の科学的世界観に裏打ちされた全人民的政治闘争として結実させ、発展させることが求められているのだ。

 (尚、全共闘系大衆にとって、彼らが目指したものが、レーニン主義的政治闘争論に内包されていることなど思いもよらなかったことには根拠がある。それは、レーニン主義を口にする新左翼が、レーニン主義とは全く異なる政治闘争を展開したことによるものだが、この点は、『マルクスレーニン主義をかかげて』9号で詳細に検討する予定である。尚、4号、6号、7号でも若干触れている。当時の全共闘大衆にとって、レーニン主義政治とは、せいぜい、軍団化、武闘強化ぐらいにしか映らない状況が存在していた。)

 最後に(略)


【全共闘運動及び思想考】
 「統一戦線と共同戦線の識別」に至れば、日本左派運動史の中で最も成功裡にこれを成し遂げたと思われる「全共闘運動及びその思想」に思いを馳せねばならない。実は、全共闘運動は、日本左派運動が始めて組み立てた党派間連衡の共同戦線運動ではなかったか。筆者は、その功績を断然評価されねばならないと考える。もっとも実際は、各党派はその重みに耐えかねてか、それを更に発展させるよりは自主的解体の方を選んでしまった。しかし、一時的にせよそれを獲得したという史実が尊いように思われる。

 ちなみに、これに参画した党派とこれに敵対した党派を掲げ、違いを愚考してみることにする。70年安保闘争過程の1969.9.5日、日比谷野音で「全国全共闘会議」が結成された。どのセクトとも特別の関係を持たなかった東大全共闘の山本義隆(逮捕執行猶予中)が議長に、日大全共闘の秋田明大を副議長に選出し、ノンセクト・ラディカルのイニシアチブの下に新左翼8派を組み入れ、全国178大学の全共闘組織が生まれ、全国の学生約3万4000名が結集した。

 8派セクトは次の通りである。1.中核派(上部団体−革共同全国委)、2.社学同(々共産主義者同盟)、3.学生解放戦線(々日本ML主義者同盟)、4.学生インター(々第四インター日本支部)、5.プロ学同(々共産主義労働者党)、6.共学同(々社会主義労働者同盟)、7.反帝学評(々社青同解放派・革労協)、8.フロント(々統一社会主義同盟)。

 これを出自から見ると、革共同系、ブント系、元社会党急進主義系、元日共構造改革派系から構成されていることになる。これを逆から云えば、これら党派は共同戦線運動に馴染める運動論組織論を構築していることになる。これに加わらなかった革マル派、日共系民青同、その他赤軍派、**、**、**等々は、共同戦線運動に馴染めない運動論組織論を構築しているのではないかということになる。

 筆者は、「統一戦線と共同戦線の識別考」で記したように共同戦線運動を推奨する。それは戦略戦術問題というより、もっと深いところでの人間種族の群れ方として根本的に認め合わなければならない原理だと心得るからである。ここを立脚点としつつ丁々発止の駆け引きで共闘していく知恵こそ大人のそれであり、これが出来ぬのは子供段階の運動でしかない。そう思う。

 逆から云えば、統一運動論に権力発想的臭いを嗅ぎ取り、それは往々にして良からぬ結果しかもたらさないと心得るからである。それは容易に得手勝手な真理に繋がり、権力如意棒となって異端ないしは少数意見の排撃に向う。事実、右からであれ左からであれ、統一呼号論者の運動にはろくなのがありはせぬではないか。

 この観点はあるいはマルクス主義のそれではないのかも知れない。アナーキズムのそれであるのかも知れない。ならば、筆者はアナーキストであっても良い。なぜなら、組織論、運動論に於いてこの作風こそが踏まえられる原点となるべきだと思うから。もし、マルクス主義がこれに立脚していないのなら、それは明らかに間違っている。その負のツケが自己撞着して今日の貧困にまで至っている気がしてならない。

 筆者が信奉するのは、「自由、自主、自律」的な運動である。仮にこれをルネサンス気風と表現している。我々が擁護すべきはこのルネサンス運動であり、そのレベルが高いものであるなら、このレベルに合わせられる人士をより多く輩出するよう日頃から理論親日実践運動に有機的に取り組めばよいのではないのか。左派運動がそれなりの格を持つものになるのは致し方ない。考えて見れば、政治運動そのものが、恐らく人間諸力の実践形態としてはかなり能力を要する分野のものであり、尚且つ高尚なものではあるまいか。そういう気がする。

 ところで、「共同戦線論」が良いとしても、問題は、言葉に酔うことにあるのではない。毛沢東の「中国社会各階級の分析」の次の一節の知恵を踏まえねばならない。
 「誰が我々の敵か、誰が我々の友か、この問題は、革命の一番重要な問題であるが、中国のこれまでの革命闘争は全ての成果が非常に少なかったが、その根本原因は、真の友と団結して真の敵を攻撃することができなかったことにある」。

 これによれば、れんだいこ式解釈に従えば、赤い心同士であればアバウトで良い、共闘を優先させるべし。白い心と対する時は、妥協してはならない。相互にこれを実践して関わっていくのが正しい運動形態である、ということになる。ここのところが曖昧なままの日本左派運動は、「これまでの革命闘争は全ての成果が非常に少なかった」という結論に導かれるのも致しかたなかろう。

 補足すれば、毛沢東指導は、この頃までの観点は非常に素晴らしかった。戦後、建国革命に成功し、権力掌握後の毛沢東は次第に統一理論に傾斜していくことになる。それと共に抗日運動期にあった瑞々しさを失っていくことになる。その背景事情にはそれなりのものがあったと思われるので別途分析をせねばならぬが、原理的な逸脱は見逃せない点ではなかろうか。

 とりあえずは以上の指摘にとどめておくことにする。

 2005.3.15日 れんだいこ拝




(私論.私見)