補足(論評15) 「民主連合政府樹立運動について」

 (最新見直し2006.5.19日)

【補足「民主連合政府樹立運動について」】(2000.1.15日)

 このような全共闘運動に敵対した当時の民青同の意識にはどのようなものがあったのか、それを考察するのが本投稿のテーマである。ちょうど民青同の論理は、全共闘運動の対極にあった。自己否定論理に対しては民主化論理を、造反有理に対しては党を護持し民主集中制の下での一層の団結を、解体論理に対しては民主連合政府樹立の呼びかけをという具合に何から何まで対置関係にあったことが分かる。実際には全共闘運動の方が空前の盛り上がりを見せ、民青同がこれに対抗していったことになるので、全共闘からすれば、「マスコミは巨大な敵だったが、右翼・民青・機動隊というのがさしあたっての敵だった」ということになった。

 元々大学民主化闘争は学生運動自体のテーマであり、全共闘運動とてここから始まったように思うが、全共闘運動はいつのまにか担おうとしなくなり、民青同の一手専売となった。私が入学した頃には、「政治的自由と民主的諸権利の拡大を目指す闘争」、「教育権・機会均等の擁護、学費値上げ反対、奨学金の拡充、寮の完備、勉学条件の改善」という当たり前の運動が民青同以外では見られなくなっていた。もっとも民青同は、抱き合わせで「トロッキスト、修正主義者らを各大学において、全国的な学生運動の戦列に於いて一掃することが不可欠」という指針を掲げていたので、これにもなじめなくなった私の居り場がとうとう無くなってしまった。

 ここでは民主連合政府の呼びかけに対する共感について考察する。いわゆる全共闘運動が左翼イデオロギーを満開させつつ「まず解体から、しかる後建設が始まる」という展望無き展望しか持ち合わせていなかったのに対して、この当時日本共産党が指針させていた「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」運動は目前の手応えのある実体であったということもあって、民青同にとって全共闘的運動に対置しうる理論的根拠となっていた。

 こうして見ると、民主連合政府樹立運動の提唱と立ち消えていった経過が気になってくる。提唱については、「70年の第11回党大会で、民主連合政府の樹立についてあらためて具体的な展望をしめし、73年の第12回党大会では、民主連合政府の政府綱領についての提案まで討議決定しました」(1998年8月25日付「しんぶん赤旗」での不破哲三委員長緊急インタビュー「日本共産党の政権論について」)とある。少なくとも60年代後半には民主連合政府樹立運動が提唱されていたと思われるので、正式な党大会決定されたのがこの時期という意味であるように思われる。

 「70年代のおそくない時期の民主連合政府の樹立」の可能性については、73.4.13日初版の上田耕一郎著「先進国革命の理論261P」で次のように述べている。

 「1970年に開かれた第11回党大会では、70年代の遅くない時期に民主連合政府をつくろうという方針を決めました。当時は『まさか』と思っていた人が大部分だったでしょう。ところが、昨年末の総選挙で共産党が大躍進したため、『まさか』どころか、民主連合政府が現実味をもって受け取られるようになってきました。今度はある週刊誌は、民主連合政府の『予想閣僚名簿』まで発表するという気の早さです」。

 が、いざ70年代のその時期を迎えて実際になしたことは、「三木内閣のもとで、ロッキード事件が暴露され、また小選挙区制の問題で日本の民主主義がおびやかされるという情勢がすすんだとき(76年4月)、私たちは、小選挙区制粉砕、ロッキード疑獄の徹底究明、当面の国民生活擁護という三つの緊急課題で『よりまし政権』をつくろうではないか、という暫定政権構想を、当時の宮本委員長の提唱で提起しました」(「日本共産党の政権論について」)という代物になってしまっていた。

 この経過と執行部の責任について党がどのように総括しているのか私は知らないが、「私たちが、こういう提唱をした70年代、80年代という時代は、政界の状況からいって、私たちのよびかけが現実に政界に影響をおよぼすという条件は、実際的にはまだありませんでした。マスコミからも、いまのような積極的な関心は向けられませんでした。私たちの党に近い部分でも、はっきりいって、こういうよびかけを理論的な提唱としてはうけとめても、政権問題を現実の政治問題として身近にとらえるという問題意識は弱かったと思います。そういう時代的な背景だったんですね」(同)という総括ならざる総括で事なきを得ているようである。私は、「ソ連社会主義論」から「崩壊して良かった論」までの変遷もしかり、状況に合わせていかようにも言いなしうる現執行部の厚顔と口舌の才能に感心させられている。

 してみると、このスローガンは元々党としての責任ある提案だったのではなく、全共闘運動に対置すべく、青年層の全共闘運動に向かうエネルギーを押しとどめるために巧妙に使われていたのではないのかとさえ思えてくる。マサカァと疑うよりはそのマサカァの可能性を思い浮かべてみた方が事態を的確に把握しうる。

 あの頃本気で民主連合政府樹立を夢見ていた者は幻影を見させられていたということになる。その一人であった私は、今では結局私が単に田舎者だったということだろうと自己了解している。今私があの頃に戻り得たとしたら、どう動くのだろう。民主連合政府樹立スローガンの虚妄を知っている私は党−民青同の系列には加わらないだろう。かといって飛び込めそうな党派も見えてこない。新左翼運動は観念性を強めており、プロパガンダが不足している。所詮エリート的な身内的な自閉的な自己陶酔型の自己満足運動でしかないようにも思える。

 こうして考えてみると、日本左翼の深刻なというべきか馬鹿馬鹿しいというべきか不毛性が見えてくる。そもそも数十派に分岐している左翼系諸派のお互いの一致点と不一致点さえはっきりしない。運動を担っている当の本人さえよく分かっていないままに党派運動が続けられている面もあるのではなかろうか。してみれば、田舎者の成長過程を上手に引き出すような左翼諸派合同のオリエンテーリングのようなものが欲しい。あるいはまたスーパーマーケットのように各党派の理論と実績をパッケージ陳列させておき、顧客が任意にセルフサービス方式で気に入ったものをバケットに入れるプレゼンテーション手法で党派と関わってみたい。

 量が質を決定するというのであれば、日本左翼はこうして裾野を拡げていくような努力をなぜしないのだろう。本当に自派の主張に正しさを確信し左翼的民衆運動を担おうとする強い意志があるのなら、党派側はせめてこの辺りまではプロパガンダえしえていないとおかしいのではないかと思ったりする。もっとも、市場経済下のマーケティング革命の進行なぞとんと眼中にない連中が党派運動をやっているので、こうした流通革命的手法の革新的意義なぞ分かりようもなく、昔取った杵柄よろしく旧来手法のままのオルグ活動に拘り続けているのだろうと思われる。

 この点今から思えば池田氏率いる創価学会活動の先進性が見えてくる。確かあの頃(30年前にもなる)既にビデオを使って布教活動をしていたように記憶している。腹蔵無く語り合う座談会方式といい、釈伏という戦闘的理論闘争といい、機関紙紙上における理論と実践の結合ぶりといい、全国各地に創価会館を敷設していったことといい、やるべきことをやれば政権与党化はそう難事ではないということの例証でもあるかと感心させられている。社会運動は指導者の能力によって随分左右されることが知らされる。

 そのことはともかく、民主連合政府樹立のスローガンにおいて考察されねばならないことは、このスローガンが「70年代の遅くない時期」という時期の明示をしていたことについてである。何らかの根拠があったのか、元々根拠がなかったのかということが詮索されねばならない、と思う。もし、根拠が薄弱な単なる呼びかけでしかなかった時期の明示であったとすれば、党の呼びかけに対するダメージが深刻で、もはや二度と大衆は党の笛吹きには踊らされないと云うことになるであろう。と思うのだけども、党の現執行部は、またぞろ「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とか呼び掛けているようである。「民主的政権への道をどうやって開くか。『国民が主人公』の日本への改革です。それを実現する民主的政権を、21世紀の早い時期に樹立するというのが、私たちの大目標であります」(日本共産党創立77周年記念講演会「国政の焦点と21世紀の展望」.書記局長志位和夫. 1999年7月24日「しんぶん赤旗」)とか云われているようである。公然平然たるリバイバルであるが、私は、同じ執行部の下でこうした呼びかけが通用している党員の皆様のおおらかさに万歳させられている。

 このスローガンにおいて考察されねばならないもう一つのことは、民主連合政府という統一戦線政府の内実に対する考察である。当初は社・共政権を核とした政府で最低限綱領を持ったものであったと思われるが、この綱領の移り変わりも興味があるところである。一度調べて見ようとも思うが、党外の私がせねばならないことでもないと思い未調査である。補足すれば、この当時、統一戦線とは、単なる政党間の野合を戒め、「複数の階級、階層が階級的利害や政治的見解・世界観などの違いを持ちながらも、共通の目標のため、共通の敵に対して闘うために創る共同の戦線(共同の闘争の形態・組織)のこと。統一戦線の掲げる政治的課題と目標及び、その階級的構成は、それぞれの国における革命の性格と段階によって、又階級闘争のそれぞれの時期と条件によって決まる。例えば、反ファシズム統一戦線、祖国戦線、人民戦線、民族民主統一戦線などと呼ばれる様々な統一戦線があるのはその為である」(社会科学事典、新日本社刊行)という概念規定の下にかなり厳格に運用されようとしていたという記憶がある。

 この統一戦線論の欺瞞性は、次のことにある。日本共産党のいう統一戦線とは、運動の最大成果を得るために、一時的に綱領路線の逐条に付き方針を凍結してでも右派系諸潮流との共闘を優先させようとする運動論・組織論と思われるが、この場合「一国一前衛党論」が自明にされていることに問題が潜んでいるように思われる。つまり、現実には既に党以外にも公然と左派的立場を自認する諸党派が存在する訳であるから、文字通りの意味で統一戦線というならばこれらの諸党派との統一戦線もまた組み込まれる必要があるにも関わらず、現在の党執行部の統一戦線論にはこの部分がスッポリ抜け落ちている。左派でもない党を最左派とする右派系諸潮流との統一戦線論であり、党より左派系潮流が排除されているという統一戦線論である。急進主義者・トロッキスト・挑発者・反党主義者・分裂主義者・左翼日和見主義者・暴力集団等々ありとあらゆる面罵とレッテル貼りで、これらの諸潮流を無条件に排除した上での統一戦線論であることに留意が必要である。

 これでは片手落ちというより、本来の意味での統一戦線になりえておらず、自らに都合の良い理論でしか無く、右へ傾いて行くしか出来ない統一戦線という訳である。この点如何であろうか。私の捉え方変調でしょうか。補足すれば、万が一民主連合政府的なものが出来たして、党より左派系諸派の政治的活動が認められる幅が現自・自・公政府下のそれより狭まるという危惧は杞憂なのだろうか。私は、より左派系党派の政治的自由についてきちんと説明したものにお目にかかっていない。赤旗記者が茶髪・金髪OKで党本部を出入りしている自由さとかいう本来何の意味も持たない例で説明しているのを聞いたことがあるばかりである。

 民主連合政府の呼びかけは、歴史的には、社会党がむしろ社・公合意の方向にむかっていったことによって流産したように記憶している。共産党が右へ寄れば寄るほど社会党も右へ動き、今日共産党はかっての民社党辺りのところまで寄って来ているようにも思われる。でどうなったのかというと社会党がいなくなってしまった。民社党はリベラル系保守諸派の中に潜り込んでしまった。この先一体どうなることやら。やはり瑞穂の国は大政翼賛会方式が似合うのかも知れない。こうした流れに結果したことについて、社会党批判とは別途に党の主体的力量の反省もされねばならないのではなかろうか。スローガンに仮に正しさがあったということとその道筋を作りだせれなかったということとは不可分の責任関係にあると思われるが、免責されるのであろうか。つまり、民主連合政府の呼びかけ問題に付きまとっていることは責任体系の問題である。政治的スローガンの提唱は執行部の権限であるが、その指針が流産した場合まっとうな政治的解明と責任処理がなされるべきであるという緊張関係がなければ、全ては饒舌の世界になってしまうのではなかろうか。この峻別がなされているのが自民党であり、与党として信頼が託されている所以なのではなかろうか。

 しかし、このたびの党の現執行部の呼びかけには反省と工夫がなされているようである。「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とあるように、この度は「70年代の遅くない時期」に比して「21世紀の初頭」という漠然とした長期レンジのスローガンになっていることに気づかされる。この時には不破氏も志位氏も政治活動の一線からリタイアしている頃であろうから、執行部の責任体系をあらかじめ放棄した批評的願望的スローガンであることが見て取れる。極く最近では組閣参入にも色気を見せてもいるようであるが、どっちへ転ぼうともフリーハンドの執行部というのは党ならではの羨ましい限りの話のように思えたりする。それにしても党員の皆さんのご納得ぶりにはただただ頭が下がるばかりというしかない。





(私論.私見)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2006年の今になって思うのに、宮顕ー不破ラインの党中央が至らないながらも思想的に真紅の精神に支えられた人士であったなら、民主連合政権構想の潰えた時点で、執行部を降りるべきであっただろう。せめて、真摯な自己批判を為すべきであっただろう。当時の「70年代の遅くない時期に民主連合政権を」という訴求力は、それを信じた者には「科学的社会主義力による予言的値打ち」があった訳で、それが単なる希望願望のアドバルーンに過ぎなかったと云う事になれば、以降一切の党中央指針に対する信頼を失うことを意味したのではなかろうか。

 れんだいこは、それほどの思いで「70年代の遅くない時期に民主連合政権を」の呼びかけを信じていた。これあればこそ、いわゆる新左翼のどこかの党派に入るところを立ち止まり、代々木運動に合流したという経緯がある。ところが、それが自己破産した時の党中央の弁明を見よ。聞くに堪えない詭弁と責任転嫁とすり替えで指針破産を糊塗したのではなかったか。不思議なことに、その弁明に対して烈火のごとく怒り、党中央の責任を追及した動きを知らない。ということは、当時の党中央もその指導に従う党員も既に、十年一日のおざなりな党運動に明け暮れていたからであろう。そうとしか考えられない。そう思わなければ理解できない。

 しかし、世の中には変人が居る。れんだいこは、以来ン十年間「党中央の虚飾の弁明」と格闘してきた。責任を取らない取ろうとしない宮顕ー不破ラインの党中央指導のよってきたる原因の解明に向った。それは自問自答の長い日々を要した。二十年後に漸く見えてきた。この党中央は端から変調であり、元々白色の者が赤色にカメレオン化して党中央に闖入してきているからに違いない、そう確信するようになった。以来、その検証に向った。こうして、れんだいこの宮顕論、不破論、新日和見主義事件論、学生運動論が出来上がった。

 これらの成果を得て、れんだいこの確信はますます認識の正しさを深めている。惜しむらくは、このれんだいこ見解、史観に誰一人立ち向かう者なく、「我はそう思いたい、故に我はそう信ずる」輩によって今なお無視され続けている。無視ならまだしも、顕微鏡で何か落度を見つけては拡大鏡で罵詈雑言されることもある。れんだいこは、世の中は古来よりそれが常と諦観しているので軽く受け流しているが、何れの日にか「悪貨が良貨を駆逐するのか、逆に良貨が悪貨を駆逐するのか」質さねばならないとも考えている。

 今日ふとそう思い書き足しておく。

 2006.4.21日 れんだいこ拝

 日本左派運動史上最後の左派ルネサンス運動の精華であったと思われる60年代後半に結成された全共闘運動に敵対した当時の民青同の意識にはどのようなものがあったのか、それを考察するのが本投稿のテーマである。

 ちょうど民青同の論理は、全共闘運動の対極にあった。自己否定論理に対しては民主化論理を、造反有理に対しては党を護持し民主集中制の下での一層の団結を、解体論理に対しては民主連合政府樹立の呼びかけを、という具合に何から何まで対置関係にあったことが分かる。実際には、全共闘運動の方が空前の盛り上がり を見せ、民青同がこれに対抗していったことになるので、全共闘からすれば、「マスコミは巨大な敵だったが、右翼・民青・機動隊というのがさしあたっての敵だった」ということになった。

 元々大学民主化闘争は学生運動自体のテーマであり、全共闘運動とてここから始まったように思うが、全共闘運動はいつのまにか学内闘争を担おうとしなくなり、民青同の一手専売となった。私が入学した頃には、「政治的自由と民主的諸権利の拡大を目指す闘争」、「教育権・機会均等の擁護、学費値上げ反対、奨学金の拡充、寮の完備、勉学条件の改善」という当たり前の運動が民青同以外では見られなくなっていた。もっとも民青同は、抱き合わせで「トロツキスト、修正主義者らを各大学において、全国的な学生運動の戦列に於いて一掃することが不可欠」という指針を掲げていたので、これにもなじめなくなった私の居り場がとうとう無くなってしまった。

 ここでは民主連合政府の呼びかけに対する共感について考察する。いわゆる全共闘運動が左翼イデオロギーを満開させつつ「まず解体から、しかる後建設が始まる」という展望無き展望しか持ち合わせていなかったのに対して、この当時日共が指針させていた「70年代の遅くない時期に民主連合政府を樹立する」運動は、目前の手応えのある実体であったということもあって、 民青同にとって全共闘的運動に対置しうる理論的根拠となっていた。

 それほどに「民主連合政府の呼びかけ」の政治史的意義は大きく、もしこの呼びかけが後に党中央が詭弁するような単なる願望程度のものであったに過ぎないというのであれば、「民主連合政府の呼びかけ」が当時果たした政治的役割は、全共闘運動に取り込まれようとする流れに棹を差したことにのみ意味があるということになる。事実、れんだいこはそのように取り込まれたのだからその生き証人である。

 こうして見ると、民主連合政府樹立運動の提唱と立ち消えていった経過が気になってくる。提唱については、1998年8月25日付「しんぶん赤旗」での不破哲三委員長緊急インタビュー「日本共産党の政権論について」で、「70年の第11回党大会で、民主連合政府の樹立についてあらためて具体的な展望をしめし、73年の第12回党大会では、民主連合政府の政府綱領についての提案を討議決定しました」とあることからして、民主連合政府樹立運動は少なくとも60年代後半には提唱されており、正式に党大会決定されたのが70年の第11回党大会、73年の第12回党大会であったものと思われる。

 「70年代のおそくない時期の民主連合政府の樹立」の可能性については、73.4.13日初版の上田耕一郎著「先進国革命の理論」は261P」で次のように述べている。
 「1970年に開かれた第11回党大会では、70年代の遅くない時期に民主連合政府をつくろうという方針を決めました。当時は『まさか』と思っていた人が大部分だったでしょう。ところが、昨年末の総選挙で共産党が大躍進したため、『まさか』どころか、民主連合政府が現実味をもって受け取られるようになってきました。今度はある週刊誌は、民主連合政府の『予想閣僚名簿』まで発表するという気の早さです」。

 が、いざ70年代半ばの肝心かなめの時期を迎えて党中央はどのように振舞ったのだろうか。党が実際に為したことは、民主連合政府樹立の最も熱心な行動部隊に為り得ていた「民青同及びその学生運動」に対する鉄槌であった。詳細は
「日和見主義事件考」で分析しているので譲るとして、党中央が「民主連合政府樹立スローガン」に責任を持とうとするなら有り得ない党内弾圧を開始したのである。

 「党中央の仰せは何でもその通り」の連中にはさっぱり分からないことだろうが、指針された「青写真」の実践部隊を粛清するということは「青写真」に対する敵対でしかなかろう。党中央はそういういかがわしい連中に占拠されているということを知る必要がある。党中央に対するイエスマン化が如何にナンセンスであるかお分かりいただけるだろうか。

 さて、いざ70年代後半のその時期を迎えてどうなったか。党中央は次のように弁明している。
 「三木内閣のもとで、ロッ キード事件が暴露され、また小選挙区制の問題で日本の民主主義がおびやかされるという情勢がすすんだとき(76年4月)、私たちは、小選挙区制粉砕、ロッキード疑獄の徹底究明、当面の国民生活擁護という三つの緊急課題で『よりまし政権』をつくろうではないか、という暫定政権構想を、当時の宮本委員長の提唱で提起しました」(「日本共産党の政権論について」)。

 こういう代物になってしまっていた。何と、平然と「民主連合政権構想」が「よりまし政権構想」へとギアチェンジさせられて居り、それに誰も違和感を覚えない状況が生まれていたのである。

 この経過と執行部の責任について党がどのように総括 しているのか私は知らないが、不破の次のような言説が遺されている。
 「私たちが、こういう提唱をした70年代、80年代という時代は、政界の状況からいって、私たちのよびかけが現実に政界に影響をおよぼすという条件は、実際的にはまだありませんでした。マスコミからも、いまのような積極的な関心は向けられませんでした。私たちの党に近い部分でも、はっきりいって、こういうよびかけを理論的な提唱としてはうけとめても、政権問題を現実の政治問題として身近にとらえるという問題意識は弱かったと思います。そういう時代的な背景だったんですね」。

 かような不破の総括ならざる総括、行き当たりばったりのその場都合の弁舌で事なきを得ているようである。

 この言い回しに納得する党員の皆様に幸いあれ、私には詐術としてしか聞こえない。私は、ソ連邦に対する「ソ連社会主義賛美論」から「崩壊して良かった論」までの変遷もしかり、状況に合わせていかようにも言いなしうる現執行部の厚顔と口舌の才能に感心させられている。

 してみると、このスローガンは元々党としての責任ある提案だったのではな く、全共闘運動に対置すべく、青年層の全共闘運動に向かうエネルギーを押 しとどめるために巧妙に使われていたのではないのか、とさえ思えてくる。マサカぁと疑うよりはそのマサカぁの可能性を思い浮かべてみた方が事態を的確に把握しうる。

 これでは、新日和見主義者も含め当時の現場の我々は、「仮面左翼の党中央のマヌーバーにしてやられた」ことになる。あの頃本気で民主連合政府樹立を夢見ていた者は幻影を見させられていたということになる。その一人であった私は、今では結局私が単に田舎者だったということだろうと自己了解している。今私があの頃に戻り得たとしたら、どう動くのだろう。民主連合政府樹立スローガンの虚妄を知っている私は党−民青同の系列には加わらないだろう。かといって飛び込めそうな党派も見えてこない。新左翼運動は観念性を強めており、プロパガンダが不足している。所詮エリート的な身内的な自閉的な自己陶酔型の自己満足運動でしかないようにも思える。

 こうして考えてみると、日本左翼の深刻なというべきか馬鹿馬鹿しいというべきか不毛性が見えてくる。そもそも数十派に分岐している左翼系諸派のお互いの一致点と不一致点さえはっきりしない。運動を担っている当の本人さえよく分かっていないままに党派運動が続けられている面もあるのではなかろうか。あぁ何たる貧困たることか。

 してみれば、田舎者の成長過程を上手に引き出すような 左翼諸派合同のオリエンテーリングのようなものが欲しい。あるいはまたスー パーマーケットのように各党派の理論と実績をパッケージ陳列させておき、顧客が任意にセルフサービス方式で気に入ったものをバケットに入れるプレゼンテーション手法で党派と関わってみたい。

 「量が質を決定する」というのであれば、日本左翼はこうして裾野を拡げていくような努力をなぜしないのだろう。なぜ諸本にせよ、テープにせよ、ビデオにせよ流布させようとしないのだろう。本当に自派の主張に正しさを確信し、左翼的民衆運動を担おうとする強い意志があるのなら、党派側はせめてこの辺りまではプロパガンダ為しえていないとおかしいのではないかと思ったりする。もっとも、市場経済下のマーケティング革命の進行なぞとんと眼中にない連中が党派運動をやっているので、こうした流通革命的手法の革新的意義なぞ分かりようもなく、昔取った杵柄よろしく旧来手法のままのオルグ活動に拘り続けているのだろうと思われる。

 この点今から思えば池田氏率いる創価学会活動の先進性が見えてくる。確かあの頃(30年前にもなる)既にビデオを使って布教活動をしていたように記憶している。 腹蔵無く語り合う座談会方式といい、「釈伏」という戦闘的理論闘争といい、機関紙紙上における理論と実践の結合ぶりといい、全国各地に創価会館を敷設していったことといい、やるべきことをやれば政権与党化はそう難事ではないということの例証でもあるかと感心させられている。社会運動は指導者の能力によって随分左右されることが知らされる。

 以上、「民主連合政府樹立のスローガンの政治作用的胡散臭さ」の解明が為されねばならないことを指摘しておきたい。「民主連合政府樹立のスローガンの政治作用的胡散臭さ」において次に考察されねばならないことは、このスローガンが「70年代の遅くない時期」という時期の明示をしていたことについてである。何らかの根拠があったのか、元々根拠がなかったのかということが詮索されねばならない、と思う。もし、根拠が薄弱な単なる呼びかけでしかなかった時期の明示であったとすれば、党の呼びかけに対するダメージが深刻で、もはや大衆は二度とこの手の党の笛吹きには踊らされない、と云うことになるであろう。

 と思うのだけども、党の現執行部は、またぞろ「21世紀の初頭に民主連合政府の樹立を」とか呼び掛けているようである。1999.7.24日付け赤旗は、書記局長・志位和夫の「国政の焦点と21世紀の展望」と題した日本共産党創立77周年記念講演会に於ける次の語りを恥ずかしげも無く掲載している。
 「民主的政権への道をどうやって開くか。『国民が主人公』の日本への改革です。それを実現する民主的政権を、21世紀の早い時期に樹立するというのが、私たちの大目標であります」。

 公然平然たるリバイバルであるが、私は、同じ執行部の下でこうした呼びかけが通用していることに感嘆している。それを許している党員の皆様のおおらかさに万歳させられている。

 このスローガンにおいて考察されねばならないもう一つのことは、民主連合政府という統一戦線政府の内実に対する考察である。当初は社・共政権を核とした政府で最低限綱領を持ったものであったと思われるが、この綱領の移り変わりも興味があるところある。一度調べて見ようとも思うが、党外の私がせねばならないことでもないと思い未調査である。

 補足すれば、この当時、統一戦線とは、単なる政党間の野合を戒め、「複数の階級、階層が階級的利害や政治的見解・世界観などの違いを持ちながらも、共通の目標のため、共通の敵に対して闘うために創る共同の戦線(共同の闘争の形態・組織)のこと。 統一戦線の掲げる政治的課題と目標及び、その階級的構成は、それぞれの国における革命の性格と段階によって、又階級闘争のそれぞれの時期と条件によって決まる。例えば、反ファシズム統一戦線、祖国戦線、人民戦線、民族民主統一戦線などと呼ばれる様々な統一戦線があるのはその為である」(社会科学事典、新日本社刊行)という概念規定の下に、かなり厳格に運用されようとしていたという記憶がある。

 この統一戦線論の欺瞞性は、次のことにある。日本共産党のいう統一戦線とは、運動の最大成果を得るために、一時的に綱領路線の逐条に付き方針を凍結してでも右派系諸潮流との共闘を優先させようとする運動論・組織論と思われる。が、この場合「一国一前衛党論」が自明にされていることに問題が潜んでいるように思われる。

 つまり、現実には既に党以外にも公然と左派的立場を自認する諸党派が存在する訳であるから、文字通りの意味で統一戦線というならば、これらの諸党派との統一戦線もまた組み込まれる必要があるにも関わらず、現在の党執行部の統一戦線論にはこの部分がスッポリ抜け落ちている。左派でもない党を最左派とする右派系諸潮流との統一戦線論であり、党より左派系潮流が排除されているという統一戦線論である。急進主義者・トロツキスト・挑発者・反党主義者・分裂主義者・左翼日和見主義者・暴力集団.反共主義者等々ありとあらゆる面罵とレッテル貼りで、これらの諸潮流を無条件に排除した上での統一戦線論であることに留意が必要である。

 これでは片手落ちというより、本来の意味での統一戦線になりえておらず、自らに都合の良い理論でしか無く、右へ傾いて行くことしか出来ない統一戦線でしかないではないか。この点如何であろうか。れんだいこの捉え方変調でしょうか。なお、統一戦線という用語の不適切さについては、「統一戦線と共同戦線の識別考、「全共闘運動及び思想」考」で別途考察する。

【毛沢東の「民主的な政府」の樹立構想について】
 蒋介石の国民党政府と国共合作の形で手を握り、抗日闘争をしていた最中の1945(昭和20)年の中国共産党大会の政治報告の中で、毛沢東は次のような講和をしている。
@  「中国が今、さし迫って必要としているのは、各党各派や、無党派の代表的人物を結集し、民主的な臨時の連合政府を樹立することである」。
A  「その政府によって、当面の危機を克服し、全中国の抗日の力を動員統一し、中国を独立、民主、統一、富強の新国家に、築き上げることが急務である」。
B  「一部の人は、共産党が権力を得たのち、ロシアに倣って、プロレタリア独裁ぷ、一党制度を打ち立てるのではないか、と疑っている。しかし、我々の、いくつかの民主的階級の同盟による新民主主義国家は、プロレタリア独裁の社会主義国家とは、原則的に違ったものである」。
C  「我々のこの新民主主義制度は、プロレタリア階級の指導、共産党の指導のもとに、新民主主義の全期間を通じて、なかには一階級の独裁、及び一党だけの政府機構独占の制度はとらない。共産党以外のどんな政党、どんな社会集団、あるいは個人でも、共産党に対して、敵対的ではなく、協力的な態度をとる限り、我々はこれと協力しない理由は無い」。

(私論.私見)毛沢東の「民主的な政府」の樹立構想考

 毛沢東の抗日統一戦線理論は功を奏し、第二次世界大戦後の中華人民共和国樹立に繋がった。しかし、歴史の実際は、日本帝国主義が降伏した後、中国共産党と蒋介石政権は内戦に突入した。それはともかく、これに勝利した中共の指導は、プロレタリア独裁理論の下で建国革命を推進していくことになる。以降の中共史、中国史の実際は、毛沢東のこの時の話とはほど遠い現実にある。

 れんだいこが思うに、Cの
「共産党に対して、敵対的ではなく、協力的な態度をとる限り」とある但し書きが曲者なのではなかろうか。この但し書きには、誰が、どのように判断するのかの規定が無い。これが独裁者を生み出す下地になる。いわゆる民主主義とは、その手続き性と機関運営主義において軽視してはならないものであり、民主主義的な諸原則との関係考察抜きにこうした但し書きを付けるとろくでもないことになる、のではなかろうか。

 2004.7.29日再編集 れんだいこ拝 


(私論.私見) 【民主連合政府論のそもそもの胡散臭さについて】

 共産党の民主連合政府論は、フランスの人民戦線政権理論と近いとは云うものの、フランスの人民戦線政権理論も結構胡散臭いし、共産党の民主連合政府論は輪をかけて怪しい。





(私論.私見)