「戦後学生運動5、65年から「67年激動の7ヶ月」まで概略」 |
(最新見直し2008.2.9日)
【「戦後学生運動5、65年から『67年激動の7ヶ月』まで概略の概略」】 |
60年安保闘争以降低迷していた全学連運動が、1965年を迎えて俄かに活性化し始める。この期の特徴は、もはや三方向に分化した学生運動の統一機運を最終的に破産させ、学生運動が党派的に新たな出発をしていくことを明確にさせたことに認められる。この頃から大学紛争が始まり、1969年のピークまで連続的に相次ぐ。折からベトナム戦争のキナ臭さが立ち込め始めており、社青同解放派が結成され、べ平連、反戦青年委員会が立ち上がり学生運動と合従連衡する。 中国で文化大革命が始まり紅衛兵が機運を盛り上げる。日共の中国共産党との亀裂に伴い毛沢東思想の実践を強く主張する親中共系の日共左派系グループが登場し始め、学生運動内にも影響を与えていくことになった。この間ベトナム戦争がエスカレートしていく一方で世界的に反戦闘争の気運が高まり、この影響も加わってわが国の学生運動を一層加熱させていくこととなった。 日本型紅衛兵運動とも云うべきこの当時の学生運動は、大雑把に見て「五流派」と「その他系」から成り立つ百家争鳴期に入った。「五流派」とは、組織の大きさ順に民青同派、中核派、革マル派、社青同、第二次ブントを云う。「その他系」とは、ベ平連系、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派の他ノンセクト・ラジカル等々を云う。これらが混在し70年安保闘争へ向けて競り上げていくことになる。 1965年時点より、闘争が多方面かつ連続して行なわれていくことになる。これを追跡すれば紙数を増やすばかりとなるのでエポック的な事を経過順に見ていくことにする。(詳細は「戦後学生運動史第7期その1」(gakuseiundo/history/history7_1.htm)に記す) 2008.1.10日 れんだいこ拝 |
第5史の第1期 |
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3.30日、社青同解放派が結成されている。この頃社青同学生班協議会は、東大・早大等を中心に組織を拡大していく中で中央=協会派と対立し始め、こうした内部抗争の結果日韓闘争の経過で急進主義運動が分派化し、社青同解放派が結成されたという経過となった。社青同解放派は、その後政治団体として革命的労働者協会(革労協)を結成して、傘下の学生組織として反帝学評をつくった。 |
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4.7日、新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)が都学連再建準備会を結成した。呉越同舟ながら何とかして自前の第三の全学連を創出させようと企図していたということである。結成後アメリカのベトナム侵略戦争に抗議し、米大使館へ400名がデモ。新三派系は折からのベトナム反戦闘争に最も精力的に取り組んでいくことになり、この時点では動員が少ないものの次第に勢いを増していくことになる。民青同系全学連も4.22日、アメリカ国務省政策企画委員長ロストゥ来日反対闘争に取り組み、羽田空港に3000名動員、抗議デモを行った。引き続いて来日したロッジに対しても連続してアメリカ大使館などに抗議行動を行った。 |
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4.24日、「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民文化団体連合)が初のデモ行進をした。発起人は、小田実・開高健・掘田善衛・高橋和己・篠田正浩、吉川勇一氏等々。この頃からセクトの枠にとらわれない一般市民参加型の反戦運動が立ちあがっていくことになった。このベ平連運動は、今日から見て貴重なメッセージを発信していることが分かる。一つは、ベ平連が闘争課題を「ベトナムに平和を!」と明確にしたことにより、その後のベトナム反戦闘争の巨大なうねりを創出させる発信元となったというプロパガンダ性である。一つは、「セクトの枠にとらわれない」という運動論を創出したことである。 |
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8.30日、反戦青年委員会が結成された。当時左翼戦線では日韓条約批准阻止のための運動の統一が叫ばれていたが、社会党・総評と党の間は安保闘争の分裂以来の対立が解けず、一日共闘の程度を出ない状態が続いていた。この頃ベトナム戦争が政治課題として急速に浮上し始めていた。そのような状況の中で、社会党青少年局、総評青年対策部、社青同の三者の呼びかけによって、社会党系の青年労働者組織として、すなわち「ベトナム戦争反対、日韓条約批准阻止の為の、この闘争目標に賛成する全ての青年学生組織に解放された青年の自主的共闘組織」として反戦青年委員会が結成された。 |
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こうしたベ平連運動創出の頃、社会党・総評系のそれ、共産党系のそれもまた折からの日韓闘争を絡めた統一行動を組織し始め「60年安保闘争」以来の大衆運動が動き出していくこととなった。革マル派系・民青同系・新三派系それぞれも取り組みを強めていくことになった。中でも新三派系の動員力が強まり、常時3000名規模の抗議デモを獲得していくことになった。これまで数年数百名規模で推移していたことを考えれば様変わりとなった。 |
第5史の第2期 |
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1966年より、大学紛争が多発していく事になる。折からベトナム戦争が起こり、学生運動は内外の諸問題に立ち向かう事になった。詳細は「戦後学生運動史第7期その2」(gakuseiundo/history/history7_2.htm)に記す) 1966.1.18−20日、早大学費値上げ反対闘争が始まった。全学連加盟自治会であった第一法学部と教育学部自治会の無期限ストライキ突入。全学共闘会議(大口昭彦議長)が結成された。以後150日間全学ストライキ闘争が戦い抜かれた。これは、前年の12月に、早大理事会が教授会にも諮らず、学生が冬休みに入ってから大幅な学費値上げを発表したことに対する憤激から始まった。連日約5000名の抗議集会が開かれた。2.21日、機動隊が導入され、203名の逮捕者が出た。2.22日、ロック・アウト。大浜総長は退陣に追い込まれた。 この背景は次のように考えられる。自民党政府の教育行政政策は、この時期増大し続けるベビーブーマーの大学生化に対して何ら有効な受け入れ対策をなしえず、私学へ追いやってきた。一方で戦後直後の社会的合意でもあった「大学の自治」に対するお得意の官僚的統制を進めつつあった。「アメリカさんから頂いたものは日本の風土に合わぬ」というばかりの逆行コースへシフト替えしつつあった。私学経営者は、「大量入学→マスプロ教育→設備投資→借入金増→学費値上げ→大量入学」という悪循環に陥っていくことになった。自民党政府によるこうした教育費の切りつめという反動的な大学政策の一方で、大量の国家予算を財政投融資をはじめ、軍事費政策にはどんどんと予算を投入していた。これにどのように対応していくのかが早大闘争の課題であった。 民青同系は、1.教育機会均等の破壊、2.大学運営の非民主的やり方、教授会及び学生自治会の自治権に対する侵害、3.一部理事による闘争弾圧の為の機動隊導入及び国家権力の介入等への批判を組織していくことを指針させた。併せて、4.ひものつかない国庫補助の大幅増額等を要求する学園民主化闘争を指針させていた。 社青同解放派は、資本と労働の対立という観点からの大学=教育工場論に基づき、闘争を、教育工場を経営する個別資本=早大当局と個別労働=学生の闘いであり、教授一般は労働下士官と捉えたようである。こうした「個別資本からの解放」という理論は、その後学園闘争に対するストライキ、バリケード、武装、コンミューンの樹立へと発展する理論的基礎となった。 民青同は、社青同解放派のこうした理論は先鋭理論ではあるが、自民党政府の反動的貧困な大学政策に対する闘いを放棄し、免罪していると批判した。この後明大闘争を担うことになったブントは、この時の早大闘争を総括して概要「各クラスにおける闘争組織という各自治会学年別連絡協議会方式が指揮系統を混乱させ、ひいては全学共闘の機能をマヒさせた」、従って「まさしくあらゆる闘争において、まず第一に要求されるものは、(自治会ではなく)強固な中央集権的な組織の存在である」とした。この理論はやがて「ポツダム自治会破産論」を導き出していくことになった。こうした諸理論の発展が、後の全共闘運動とその大学解体論の下地をつくっていくことになった。 1.24日、東大医学部自治会、インターン配置問題をめぐって卒業試験ボイコット闘争。これが後の東大全学部を巻き込んだ東大紛争→東大闘争に発展していくことになった。1月から3月にかけて横浜国大で学部の名称変更に反対する紛争が起こり、学生がキャンパスを占拠、教職員を排除して学生の自主管理を約1ヶ月余にわたって強行した。その自主管理下のキャンパスでは、学生自治会が編成した、自主カリキュラムによる学習が進められるという画期的な事態が発生していた。 この春の京大同学会自治会選挙で占拠で民青同系が執行部を掌握した。民青同系は、3月段階で82大学174自治会を押さえたと報告されている。3.28日、新三派(中核派・社学同統一派・ML派・社青同)が全学連結成に向けて全国自治会代表者会議開催。 6.24日、青医連・医学連、インターン制廃止統一行動。11.23日、明治大学で学費値上げ反対闘争による和泉校舎封鎖発生、11.30日、明大全学闘争委員会、学費値上げ阻止の大衆団交。4000名結集。12.9日、中大自治会、学費値上げ反対、学生会館の学生管理・処分撤回を要求して全学スト突入。社学同の指導によって最終的に大学側に白紙撤回の要求を認めさせるという学生側が勝利を飾った。 |
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9.1日、 既に昨年4月関西派は、「マル戦派」と「ML派」の一部を結合して「社学同全国委員会」(社学同統一派)を結成していたが、このような曲折ののち更にこのたび「社学同統一派」と「マル戦派」の残存部分との合同がなって、ブントは「共産同第6回全国大会」(ブント再建大会)を開催するに至った。ここに6年ぶりに組織統一をみるに至った。これが、「第二次ブント」といわれるものである。 他方、「ML派」の一部は、このブントの統合に反対し、毛沢東の思想である「人民戦線路線」を党の路線とし、「帝国主義を打倒するための人民革命」を目的として、68年「日本マルクス・レーニン主義者同盟」(ML同盟)・学生部隊=学生解放戦線を結成し、「第二次ブント」とは違った方向に進むことになる。 |
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12.17日、既に三派都学連を結成させていた新三派連合(社青同解放派・社学同・中核派)は、この頃ML派なども合流させた上で三派系全学連を結成した。これで三つ目の全学連の誕生となった。35大学71自治会・178代議員他1800名。委員長にはブントの斉藤克彦氏、書記長には中核派の秋山勝行氏、副委員長社青同解放派の高橋、社学同の蒲池氏が選出された。翌67.2.19日、斉藤氏が失脚し以降中核派の秋山勝行氏が委員長に就任する。 この時の議案書は次のように宣言していた。
以降三派系全学連は最も行動的な全学連として台頭していくことになり、この過程で中核派の主導権掌握がなされていくことになった。この頃よりベトナム戦争が本格化していき、これに歩調を合わすかの如くベトナム反戦闘争に向かうことになった。 |
【論評、1967年時点での学生運動各派概観】 |
この当時の学生運動の流れは、大雑把に見て「五流派」と「その他系」に識別できる。「五流派」とは、組織の大きさ順に民青同派、中核派、革マル派、社青同、第二次ブントを云う。「その他系」とは、ベ平連系、構造改革派系諸派、毛派系諸派、日本の声派民学同系、アナキスト系諸派の他ノンセクト・ラジカル等々であり、これらが混在することになる。ここで「当時の五流派その他系」の特徴付けをしておこうと思う。 識別指標は様々な観点から可能である。第一に「日本共産党の指導下に有りや無しや」を指標とすれば、指導下にあるのが民青同のみであり、日共の党本部のある「代々木」を指標としてこれを「代々木系」と言い、これに反発するセクトを「反代々木系」と識別することが出来る。主にブントがこの意識を強く持つ。革共同系は、左翼運動の歪曲として「日共打倒」を標榜するところから「日共」と呼び捨てにすることとなる。 但し、この分け方も「日共」の打倒を観点とする立場と、「代々木」を正確には「宮顕執行部の指導下の日共」と理解し「日本共産党」の正当性系譜を争う構造改革派系諸派、毛派系諸派、民学同系とは趣が異なる。社青同解放派は社会党出身であるからまたニュアンスが異なるという風な違いがある。「代々木系」の民青同及び「元代々木系」の構造改革系派、民学同派は概ね非暴力革命的議会主義的な穏和主義路線を、それら以外の「反代々木系」は概ね暴力革命的街頭闘争的な急進主義路線を目指したという特徴がある。これによって「反代々木系急進主義派」は過激派とも呼ばれることになる。 第二に、「『トロッキズム』の影響の有りや無しや」を指標とすれば、「代々木系」、「元代々木系」、毛派系諸派らのトロツキズムの影響を受けないセクトを「既成左翼」と云い、その影響を受けた革共同系及びブント系を「新左翼」と言いなし識別することも可能である。但し、この分け方による場合、お互いを「新・旧」とはみなさないので、「既成左翼」側が「新左翼」を評価する場合これをトロツキストと罵り、「新左翼」側が「既成左翼」を評価する場合スターリニストと雑言する関係になる。 なお、毛派系は「トロツキズム」に替わるものが「毛沢東思想」であり少々ややこしくなる。「毛イズム」はスターリニスト的な系譜で暴力革命的急進主義路線を志向しており、「既成左翼」の側からは暴力革命路線でもって十把一からげでトロツキスト的に映り、「新左翼」側からはスターリニストには変わりがないということになる。社青同系の場合もこの範疇で括りにくい。「スターリニズム」−「トロツキズム」的なイデオロギーの濃いものを持たず、運動論的に見て穏和化路線を追求したのが社青同協会派であり、急進主義路線を選択したのが社青同解放派と識別することができる。その他ベ平連系はそもそも左翼運動理論に依拠しない市民運動を標榜したところから運動を起こしており、市民的抗議運動として運動展開していった風があるのでこれも括れない。 第三に、「ご本家意識の強い純血式運動路線に拘りを持つや否や」を指標とした場合には、運動の盛り上がりよりもセクト的な党派意識を優先する方が民青同、革マル派であり、その他諸セクトは闘争の盛り上げを第一義として競り合い運動を重視していったという違いがある。つまり民青同、革マル派は党派的に排他的非共同戦線運動型であるということに共通項が認められ、これらを除いた他の諸セクトは課題別の共闘組織を組み易い共同戦線運動可能型の党派であったという識別も可能である。なお、この仕訳とは別途のさほどセクト的な党派意識も持たず共同戦線運動型ともなじまなかった突出型の毛派系、ブント赤軍系、アナーキスト系らも存在した。実に左翼運動もまたややこしい。 あるいは又日本国憲法を主幹とする「『戦後民主主義』を護持しようとする意識が有りや否や」の観点を指標とする区分も出来る。概要穏和化路線に向かう党派はこれを肯定し、急進主義路線を志向する党派はこれの欺瞞性を指摘するという傾向にある。ただし、70年代半ば以降のことではあるが、超過激派と言われる日本赤軍の一部グループは護憲傾向と民族的愛国心を運動の前提になるものとして再評価しつつある点が異色ということになる。 私には、これらの違いは理論の正当性の是非もさることながら、運動を担う者たちの今日的に生物分子学で明らかにされつつある或る種の気質の差が介在しているようにさえ思われる。理論をどう構築しようとも、理論そのものは善し悪しを語らない。理論の正しさを主張するのはあくまで「人」であって、「人」はその人の気質性向によって好みの理論を採用する。理論の当否は、理論自身が生み出す力によって規定されるとはいえ、現象的にはそれを信奉する人の量と質によって実践的に検証される、という関係にあるのではなかろうか。 であるが故に、本来理論の創造性には自由な空気と非暴力的相互批判の通行が担保されねばならない、と考える。これは私の経験からも言えるが、セクト(一般に組織)には似合いの者が結集し縁無き衆生は近寄らず、近寄ったとしても離れるということが法則であり、事実あの頃私は一目で相手が何系の者であるかが分かったが、この体験からそういう気質論に拘るようになった。これは政治のみならず宗教であれ業種、会社であれ趣味であれ、有効な根底の認識となって今も信奉している。 |
第5史の第3期 |
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1967年、この時期は、ベトナム戦争が泥沼化の様相を見せ始め、今日の状況から見れば邪悪なアメリカ帝国主義とそれに抵抗するベトナム民族人民の闘いという分かりやすい正邪の構図があった。アメリカ帝国主義に対する闘いは、本国アメリカでも良心的兵役拒否闘争、ジョーン・パエズら反戦フォーク歌手の登場、キング牧師の黒人差別撤廃とべトナム反戦の結合宣言等々を含めた反戦闘争が活発化し始め、フランス・ドイツ・イギリス・イタリアの青年学生もこれに呼応し始めていた。わが国でもベ平連の集いが各地で生まれつつ次第に支持の環を増し始めていた。こうした情況と世論を背景にして、この時期これに学費値上げ反対闘争が重なることにより学生運動が一気に全国各大学の学園闘争として飛び火し始めることなった。 |
(私論.私見)