別章【哲学的認識論としての唯物弁証法
れんだいこ試論・哲学的認識論としてのマルクス主義的唯物
弁証法

 (最新見直し2006.10.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、マルクス主義の原理論としてその哲学を学ぶことにする。哲学一般は学の基礎であるから、直接的に指針を生み出すことはない。そういう非功利的理由によって、我が国では哲学も含めた原理論が軽視されがちである。しかし、れんだいこ観点からすれば、原理論こそいわば思考のレールであり、このレールの敷き方敷かれ方こそかなり重要なこととして位置づけている。有り体に言えば、レールの敷き方を間違うと行き着くところは虚妄であり、あるいはファナティックな破綻をもたらすことになる。マルクス主義の作法としては、建設的な論と実践の積み上げを目指すので、その第一歩に拘らざるを得ない。

 さて、そういう観点を踏まえて、マルクス主義の論の始めあるいは基礎として、「独特の」認識論及びそれに基づく世界観に着目せざるを得ない。「独特の」と注釈をつけた理由は、マルクス主義もまた永らく「真理」とみなされてきたから、それが時代的限定性を持っている理論ないし思想であるということが観点とならなかった、という否定的教訓を明確にしたい為である。永らく「独特の」というような捉え方ができず、宗教的教説の真理観を否定しつつも新しい真理としてみなされ、そういうドグマに呪縛されてきた、ということを踏まえたい為である。

 れんだいこは、今日の視点からマルクス主義を解読しようと思っているので敢えて、マルクス主義を「独特の認識論及びそれに基づく世界観である」と表現する。念のために云えば、マルクス主義が間違っているという意味ではない。「『当時の時代において』という限定の枠組みにおいて、最先端最深部の総合的な『科学的』認識であったと云う意味合いで捉える必要があるだろう」と云うことである。

 
このマルクス主義の「独特の認識論・世界観」は二つの手法の結合から成り立っている。一つは、唯物論的認識界観である。一つは、弁証法的認識と世界観である。これを「不即不離」、「不二」、「二つ一つ」的に結合させているところがマルクス主義の秀逸さであり、「唯物弁証法」とも「弁証法的唯物論」とも云われる。

 
ここがしっかりとおさえられないとマルクス主義学徒とは云えない。ここがマルクス主義者の生命線であるからして、この見地に立たない左派は非マルクス主義的左派であり、マルクス主義を実践する為に結成された共産党・労働党の党員と云えども、「唯物弁証法」に立脚しない者はマルクス主義者ではない、ということになる。

 それでは、「唯物弁証法」とは如何なる認識法なのか、以下見ていくことにする。「社労党の社会主義入門」を下敷きにしながられんだいこ風に纏めてみることにする。主要テキストとして、エンゲルス著作「フォイエルバッハ論」、「空想より科学へ」その他を用いることにする。 


【本サイトの構成】
マルクス主義の科学思想性
マルクス主義の宗教批判性
マルクス主義は観点を問う思想である。その哲学上思想上の革命性
マルクス主義の唯物論性、弁証法性
マルクス主義の認識の精度性、マルクス主義の歪曲について
マルクス主義の人間観の社会性、実践重視性、イデオロギー闘争
マルクス主義の歴史論、「足で立つ学問論」、「理論と実践の弁証法的関係論」考
補足・「毛沢東「人間の正しい思想はどこからくるのか」(1963.5月)」考
10 参考文献





(私論.私見)

【本サイトの構成】
マルクス主義の科学思想性
マルクス主義の宗教批判性
マルクス主義は観点を問う思想である
マルクス主義の哲学革命性
マルクス主義の唯物論性
マルクス主義の俗流観念論批判について
マルクス主義の弁証法性
マルクス主義的唯物弁証法の基本法則
マルクス主義の認識の精度性
10 スターリンのマルクス主義の歪曲について
11 マルクス主義の人間観の社会性
12 マルクス主義の実践性
13 マルクス主義のイデオロギー闘争
14 マルクス主義の歴史性
15 「足で立つ学問」考
16 「理論と実践の弁証法的関係」考

【1、マルクス主義の科学思想性】
 マルクス主義は、地動説以来の近代の科学的諸発見を汲みとり思想化している
 マルクス主義を理解するために最初に確認しておかねばならないことは、マルクス主義が「科学思想足らん」として生み出されているということである。マルクス主義論の最初の打ったてをここに据えねばならない。この観点は案外と軽視されているが重要な点である。

 このことは、マルクス主義のみが科学思想であるとして他の様々な思想潮流を蔑視しても良い、と云うことまでは意味しない。科学が永遠に発達途上のものである以上、そこから叡智を汲みだす作風を持つマルクス主義は当然ながら、既に完成された体系として十分に科学的であるという自惚れに浸って良いことにはならない。マルクス主義を出来上がったものと考えることは、マルクス主義を本質において何ら理解せず新宗教的地位へ追いやることになるだろう。


 
マルクス主義は、中世の西欧を支配したユダヤ-キリスト教的学的態度、つまりあらかじめこの世の中の仕組みが格言的に定義されており、これを疑問なく復唱して遵守すればよくないしはそうすべきだという聖書世界観と決別している。この決別の牽引車として科学主として自然科学が明らかにする諸事実に依拠し、諸発見の成果を正しくその思想のうちに汲み取り、願うらくは社会科学的学問にまで高めようとすることに意義を持たせようとしている。

 マルクス主義はそういう思想科学である、というセンテンスで理解されるべきであろう。
つまりマルクス主義は、当時続々と解明され始めた自然科学上の諸発見を史上どの哲学者達よりも大胆に汲み取り、これに依拠して新社会思想を形成した、ということに特質がある。ということは、現代に於いても同じような態度を採る必要が有るということになろう。

 近世の始まりは、恐る恐る呱々の声を挙げた科学的諸発見の成果に負っている。では、マルクス主義が取り込んだ科学的発見とはどのようなものであったのか。代表的例として、1・
地動説、2・細胞の発見、3・エネルギー転化の法則の発見、4・ダーウィンの進化論が挙げられる。

 ここでは
地動説」題を事例に挙げて、マルクスが如何に思想的に読み取ったのかを見ておくことにする。ポーランドの偉大な天文学者コペルニクス(1473−1543)は、「天体の回転について」を著し、豊富な科学的資料に基づいて大胆に、それまでの常識であったトレミーの地球中心説を批判した。彼は、トレミーの誤りが現象と本質との区別をせずに、仮象を真実と見なしたところにあると指摘した。地球は永遠に運動し続けているので、我々この地球上にいる人間は、地球が動いていることを感じ取ることが出来ず、却って太陽その他の星が地球の周囲を廻って運行し、毎日東方より昇って西方に沈むように感じる。

 コペルニクスは、このような情景は、まさに前進している船に乗っている我々が、往々にして船が動いているのではなく、両岸の事物が後方に動いているのだと感じるのと同じようなものである、と述べている。その実、これらは全て仮象であって、両岸の事物が後退しているのではない。つまり、地球が太陽の周囲を廻っているのであって、太陽が地球の周囲を廻っているのではない、とした。

 この説が如何に革命的であるかは、天動説的基盤に依拠していた中世的ユダヤ-キリスト教的聖書世界観を打ち砕く狼煙になったことにある。コペルニクスの発見は、イタリアの自然哲学者
ジョルダーノ・ブルーノ(1548−1600)に受け継がれ、彼は、汎神論的な言葉使いをしているが、実質的には無神論的唯物論的な宇宙観を述べた。ブルーノは知識を信仰に隷属させることに反対し、その生涯は宗教的圧制に反対する闘争となり、最後にはローマの広場で火刑にされるが、死の瞬間まで公認の宗教とスコラ哲学を批判して止まなかった。同じくイタリアの科学者ガリレオ(1564-1642)も又この系譜に位置し、中世的ユダヤ―キリスト教的聖書世界観と闘った。

 この花粉がドイツに飛び、いわば歴史的必然性を帯びてドイツの近代哲学の祖と云われる
カントへ着床した。カントは地動説の衝撃を受け止め、それを思想的に取り込もうとして苦闘した。「純粋理性批判」はその好著であり、カントをして対象考察に際して従来式の手法の限界を認めさせ、新しい認識手法の構築に向かわせた。カントの偉大性、そしてこれを継承したドイツ近代哲学の一連の理論家の功績はここにある。

 マルクス主義はこの系譜から生み出された叡智思想であり、磨きに磨き上げた哲学であるという評価が相応しい。れんだいこ風にまとめると、コペルニクスの業績に対して次のように総括し、思想的に取り込んでいるように思われる。
 「コペルニクスに始まる地動説は、ある対象を考察するとして、我々の感覚的経験だけでは不十分であって、それが時には我々に誤まった認識をもたらすことがあるという事例を科学的に証明したことにより、大いなる貢献をした。もはや事物の現象面にとどまることは許されず、更に一歩進めて、その本質を認識していかねばならないということを教えている訳であるから。つまり、直接的な感覚的経験は確固としていると同時に、危弱であるという両義性の確認時代に入ったのであり、直接的な感覚的経験は尊重されねばならないが決して十分ではない。故に、感覚的経験という動かざる事実の認識に対しても、必ず分析比較等の手法を用いて更なる認識への正しさを求めてのアプローチへと精進せねばならない。こうした認識の契機をコペルニクスが与えてくれた訳であるからして、コペルニクスの功績は、科学的精神の称揚というラッパを吹いたことに認められるべきであり、このことにより史上に永遠に特筆されるべきであろう」。

 コペルニクスの地動説の衝撃は、以上述べた科学的態度の重要性の指摘のみならず、天動説を理論の基礎に据えていた中世キリスト教会の権威とイデオロギーをぐらつかせることになった、という面においても認められる。これらの意味するところを、ドイツの近代哲学者達が最も鋭敏に反応した。その中においても、マルクス・エンゲルスの両巨頭が体制秩序に何らへつらうことなく、最も生き生きと継承した。このことが確認されねばならないように思われる。

 ということは、マルクス-エンゲルス没後以降の更なる科学的諸発見に対して、マルキストは、これを思想的に汲み取る作法を基本としなければならない、これがマルキストの学問的態度であり生命線である、と云うことになる。が、実際のマルキシズムの流れは、マルクス・エンゲルスあるいはそれ以降のマルキストの訓古学的研究に没頭することに精一杯で、マルキシズムの思想内容を発展させるべくあるいは豊かにするべく努力した形跡が乏しいように思われる。

 というか、マルキシズムがいわばナンセンスとして退け、徹底して闘った折衷的見解を現代的創造的発展などと称して、ぬけぬけとマルキシズム風に似せて語るなどの説教師、講談師ばかりを生み出してきた感がある。この現実に対して抗するところにれんだいこのこのたびの試論の意味がある。

 とはいえ、いずれにせよ、マルクス主義が当代最高の科学的知見を汲み上げた思想であるとするなら、マルクス時代の常識のその後の転換についてこれを認め、マルクス主義の中に包摂せねばならないであろう。れんだいこの観るところその指標は、1・アインシュタインの物質エネルギー論、2・アインシュタインの相対性原理論、3・生物分子学、4・遺伝子DNA学、5・宇宙生成ビッグ・バーン、6・一挙破滅的最終兵器論等々は是非とも対象にせねばならないであろう。よしんば、マルクス主義の訂正を促すことになろうとも、それこそマルクス主義の弁証法精神に則っている、と看做すべきではなかろうか。問題は、後退的修正で歪めるのではなく、展新(アウヘーベン)的合理的にそれを為す力量が問われているということであろう。

 2005.3.16日 れんだいこ拝

【「科学的社会主義」なる造語のエセ性について】
 ところで最後に注意を促しておきたい。最近の風潮として「民主的」という冠詞と同じように何にでも「科学的」を付けて事足りようとする作法が流行っている。「科学的社会主義」という命名のことを述べているのであるが、疑問無しとしない。なるほどエンゲルスは、「空想より科学へ」の中で、先行して存在した数々の社会主義論と区別されるマルクス主義の特徴として、概要「マルクス主義以前の社会主義は充分に科学的ではなかった、それに比べマルクス主義以降科学的になった」と示唆しているのであるが、エンゲルスはその言説において「マルクス主義的社会主義は科学的である」という以上の意味をもたせてはいない。

 ところが、近時の日共党中央不破らは、厳密には「マルクス主義的社会主義」と命名しこの分限において鼓吹すべきところ、「科学的社会主義」と称することにより、何やら唯我独善的に唯一真理的な学的体系として喧伝しようとしている。しかしてこういう「科学的社会主義」屋が分析するところのもの、指針せしめるものが何ら科学的でないことは滑稽の極みである。

 こういう作風はマルクス主義とは無縁であって、自惚れによる得手勝手が過ぎるのではなかろうか。これには三つの弊害がある。一つは、科学とは一つの発見が次の発見へと永遠に自己運動していくものであり、道中常に弁証法的である。「極め尽くされた真理」などに遭遇することは有り得ない。つまり、「科学的社会主義」は永遠にプロセスであって、マルクス主義の科学性を出来上がった完成品として喧伝しようとするならば、それは偽称に近い。

 もう一つは、他の主義を非科学的として排斥し易いご都合主義的独善規定であるということである。この命名は、命名者の側の社会主義運動が科学的であって、その他のそれはこの段階に達していないあるいは異端であるという言外の意味を込めているように見える。マルクス主義は科学精神を基調にしているが、他の主義も又何らかの裏づけをもって登場しては消え又登場してくる。そこには何らかの社会的背景あるいは唯物論的な基礎があるとみなすべきだろう。そこにはマルクス主義の理論的豊饒化に有益な観点が横たわっているともみなせる。してみれば、望まれているのは対話であり検証であり、取り込む力である。そういう意味で、容易には「科学的社会主義」などと紛らわしい名称で呼ばないのがマルクス主義者の嗜みとなるべきではなかろうか。

 もう一つ弊害がある。「科学的社会主義」を手にした党中央には、党内外の反対派に対して容易に異端規定を被せ易い土壌を生む。史実は、そういう言外の意味を込めて党中央に鬼に金棒的な権限を与え、「科学的社会主義屋」に「排除の論理」棒を振り回させてきた。それを思えば、「科学的社会主義」というソフトな言辞の裏に隠された僭越な意図が読み取れないだろうか。マルクス主義における科学精神と科学的発見の諸事実の尊重とは、このような傲慢な姿勢とは対極にあることを指摘しておきたい。

【2、マルクス主義の宗教批判性】
 マルクス主義は宗教批判の流れを継承しており、認識論、世界観で徹底的に闘争している。
 マルクス・エンゲルスは、同時代にあって先行して労作していた哲学者・フォイエルバッハの宗教批判に関わる一連の理論活動に衝撃を受けている。フォイエルバッハは前人未踏とも云える「神の分析」を為し、「神が人間を創ったのではなく、人が神を創った」と、聖書史観を逆立ちさせた認識を示した。フォイエルバッハのこの理論的功績は「時空千年を超える常識」に対する挑戦となっていた。

 今日フォイエルバッハのこの認識の是非を廻って今なお放置されたままの観があり、その後の宗教者ののど仏に棘(トゲ)がさし挟まったままであるよう見える。マルクス主義に占めるフォイエルバッハ哲学の重要性は、宗教批判の構図において、哲学上の認識論の構図において、こうした逆転の発想を持つフォイエルバッハ哲学を継承していることにある。

 エンゲルスは、「フォイエルバッハ論」(国民文庫版)の中で、フォイエルバッハ哲学の構図を踏襲しつつ宗教一般の評価問題に対して次のように述べている。
 概要「すべての哲学の、とくに近世の哲学の、大きな根本問題は、思惟と存在、精神と自然とはどういう関係にあるかという問題である。非常に古い時代から、――そのころ人々は、まだ自分自身の身体の構造についてまったく無知であり、夢に現れてくるものごとに刺激されて、自分の思考や感覚は自分の肉体の働きではなくて、特別な魂の働きである、と考えるようになったのである、――この時代から人々は、この魂と外部の世界との関係についていろいろ思いめぐらさずにはいられなかった。もしこの魂が人間の死にさいして肉体からはなれて生きつづけるとするならば、この魂のためになお特別な死を考えだしてやるきっかけとなる事情はなかった。こうして魂の不死という観念が生まれた。これとまったく似た道すじで、自然の諸力の擬人化によって最初の神々が生じた。この神々は、諸宗教がさらに発達していくうちに、ますます超世界的な姿をとるようになる。ついには、〔人間の〕精神が発達していくにつれて自然に生じてくる抽象作用の過程をつうじて、多数の神々から、一神教的諸宗教の唯一神という観念が人間の頭脳に生じたのである」。
 概要「思考と存在との、精神と自然との関係という問題、哲学全体のこの最高の問題は、こういうわけで、すべての宗教におとらず、人類の野蛮時代の無知蒙昧な観念のうちに根をもっている。しかし、この問題は、ヨーロッパ人がキリスト教的中世の長い冬眠からめざめたのちにはじめて十分に明確な形で提出され、完全な意義を獲得することができるようになったのである。もっとも、存在にたいする思考の地位という問題は、中世のスコラ学においても大きな役割を演じており、根源的なものはなにか、精神かそれとも自然か、というこの問題は、先鋭化して、教会にたいしては、神が世界を創造したのか、それとも世界は永遠の昔から存在しているのか、というところまでいきついた」。
 概要「この問いにどう答えたかに応じて、哲学者たちは二大陣営に分裂した。自然にたいする精神の根源性を主張し、従って結局は何らかの仕方での世界創造をみとめた人々は観念論の陣営をつくった。他方、自然を根源的なものと見なした他の人々は、唯物論のさまざまな学派に属している。 観念論(イデアリスムス)と唯物論(マテリアスムス)というこの二つの表現には、もともと、右に述べた以外の意味はない」。

 してみれば、マルクス主義と西欧的ユダヤ-キリスト教の世界観は、安易な妥協を許さざるところで対立しているということになる。初期マルクスの論文「ヘーゲル法哲学批判」(1844年)(「マルクス・エンゲルス全集」第1巻、大月書店、415−6頁)には次のように書かれている。

 「ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもうおわっている。そして宗教の批判はあらゆる批判の前提である。反宗教的な批判の根本は、人間が宗教をつくるのであって宗教が人間をつくるのではないということである。そしてたしかに宗教というものは、自己をまだかちえていないか、あるいはかちえながらもまた喪失してしまった人間の、自己意識であり自己感情でもある。しかし人間といってもそれは世界のそとにうずくまっている抽象的存在ではない。人間、それは人間の世界のことであり、国家社会のことである。この国家、この社会が倒錯した世界であるために、倒錯した世界意識である宗教を生み出すのである」。
 「宗教は、人間存在が真の現実性をもたない場合におこる人間存在の空想的な実現である。それゆえ、宗教にたいする闘争は、間接的には、宗教を精神的香料としているあの世界に対する闘争である。宗教上の不幸はひとつには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、悩めるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である」。
 「民衆の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは、民衆の現実的幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてえがく幻想をすてろと要求することである。宗教の批判はしたがって宗教を後光とするこの苦界の批判をはらんでいる。それゆえ、真理の彼岸がきえうせた以上、此岸の真理をうちたてることが、歴史の課題である。人間の自己疎外の神聖な姿が仮面をはがれた以上、神聖でない姿での自己疎外の仮面をはぐことが、当面、歴史に奉仕する哲学の課題である。天井の批判は、こうして地上の批判にかわり、宗教の批判は法の批判に、神学の批判は、政治の批判にかわる」。

 これは「宗教」に直接触れたマルクスの数少ない、しかし非常に有名な文章である。ここには宗教が社会のゆがみから生じるということがはっきり書かれている。「宗教は阿片だ」という言葉ばかりが有名だが、この言葉を前後の文脈の中で読むなら、マルクスが、単に宗教という現象自体を弾劾しているのではないことが分かるであろう。(参考文献「マルクス」他)  


【「マルクス主義の宗教批判は今なお有効ではないのか」】
 ところで、世の反マルクス主義者に問いたいことがある。述べてきた構図を納得されるなら、マルクス主義を批判するなら、いきおいこうしたマルクスの観点を批判せねばならないことになる。ならば、どう立ち向かうのか聞かせて欲しいところである。

 もう一つ、マルクス主義がフォイエルバッハ哲学を継承している以上、世の反マルクス主義者は、「神が人間を創ったのではなく、人間が神を創った」とするフォイエルバッハの批判水準にまで向かわねばならないことになる。果たしてフォイエルバッハの神学批判の辛辣さに踏み込む勇気が有りや否や。これらの論争に対して、現代はこの頃より何らかの知の発展を獲得しているだろうか。

 さて、今日マルクス主義と宗教者との共同戦線が双方から意欲されつつあるが、政治上の提携はそれとして、双方の間に横たわる認識論、世界観、処世法を廻る対立の根は深い。マルクス主義と宗教者との間には、それらのすり合せを曖昧にしておいて良いのだろうか、という課題がいつでも横たわっている。政治上の共同戦線を求めてこうした原理上の区別と差異の境界を曖昧に帰着させるとするならば、マルクス主義者にとってそれは理論的な退化と堕落であって、結局は有益な何ものをも生み出さないのではなかろうか。

【3、マルクス主義は観点を問う思想である】
 マルクス主義は諸哲学・社会思想と観点を争い、抜きん出た地平に学を樹立している。
 世に宗教、哲学、思想、倫理等々人間とは何たる存在か、世界とは如何なるものかについて喧喧諤諤の論議が為されて来た。マルクス主義は、それらの観点と認識の精度を競い、論の真偽を見極める心眼を育成し、いわば争うようにして学の形成を勝ち取ってきたところに特質がある。それをさせないマルクス主義派が登場してきた場合、眉唾せねばならない。

 議論が錯綜する場合、往々にして「折衷玉虫論」、「ミソクソ同視論」、「どっちもどっち論」、「中間公平論」等々で糊塗し、分かったような分からないままの作風でその場凌ぎの解決が図られる場合が多いが、マルクス主義はそれらの手法とは無縁である。最も激しい議論好きこそマルクス主義の生命である。この違いが知られねばならない。

 マルクス主義は、常に事象を内在的に具体的に分析し、特殊的なことと普遍的なこととを識別する。吟味を徹底し、分析と総合の観点を磨き、課題解決に当たっては原因を探索し、根本原因から解析し処方箋を引き出そうとする。その態度は、いわゆる知識人の机上のスコラ学とは対照的に実践に耐え得る指針(青写真)創りを目指し、指針の適用と経験の総括の不断の交差により責任ある学的体系の構築を目指そうとしている。その意味で、マルクス主義の検証姿勢は旺盛であり、形式的な公式主義とは無縁である。この点が、世の他の学的姿勢と比してマルクス主義の白眉なところと云える。

 だがしかし、こうしたマルクス主義の財産は今日惨めなまでに形骸化している。その因子をマルクス主義史の中から摘出すること、その後の似非マルクス主義との識別をすることが求められている。では、マルクス主義とはどういう思想であるのか、マルクス主義が認識法にせよ世界観にせよどういう「新しい地平」を切り開いたのか、以下れんだいこ流に語っていきたい。

【4、マルクス主義の哲学革命性】
 マルクス主義は哲学革命から始まった。史上の哲学及び直接的には近代ドイツ哲学のエッセンスを継承すると同時に従来の認識論、世界観に変革をもたらし、史上初の極めてユニークな新観点を打ち出すことに成功した。
 マルクス主義がマルクスという超天才によって一朝一夕に生み出されたなどと考えることは馬鹿げている。巨星カント以降ドイツにおいて繰り広げられた史上未曾有の哲学論争という流れの中から産み落とされた正統嫡出子の系譜で捉えられるべきであろう。この観点はマルクスの異能を貶めない。むしろ、マルクスが如何にこの論争史の中からエッセンスを汲み出したかということに驚倒させられることにより、天才とはかくなる人物のことを云うのかとかえって興趣をそそられるであろう。

 付言すれば、マルクス自身が史上の哲学者に対して天才と称した二人の人物が居る。一人は「古代における最大の頭脳」とみなした
アリストテレスであり、もう一人は「偉大な思想家」とみなしたヘーゲルである。我々もまたマルクスを「近代の人類が生んだ最大の頭脳」と賞するので、都合この3名こそ天才中の天才と云われるに値するのかも知れない。

 そのへ−ゲルの産婆役として功があったのがドイツ近代哲学の祖と云われるカント(Immnuel Kant, 1724〜1803)である。このカントからへ−ゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770〜1831)、その支流としてのフォイエルバッハ(1801〜1872 )それをも汲み取った正統本流派マルクスへ至る哲学の流れは、人類史上の認識学の精華であり、今日でもドイツが永遠に世界に誇ることの出きる知的資産である。エンゲルスは1875年に執筆した「ドイツ農民戦争」の中で、「もしもドイツ哲学がなかったならマルクス主義は生れなかったであろう」と述べているが、近代ドイツ哲学はそのように作用したことがしられねばならない。

 その意味を概述する。歴史にはその当時の者でしか吸えない嗅げない「時代のニューマ」というものがある。このニューマはあるヶ所に発芽すると、成長し花開き爛熟し落葉するまで定向進化を遂げる。この道中でこの花粉がどこに転移し、結実するのか、する場合もあるし、しない場合もある。

 今日判明するところ、この当時のヨーロッパ諸国に立ち現れたニューマは「ルネサンス的近代化」であり、全西欧に飛び火することになった。西欧近代の黎明期をこの観点から辿って見ると実に面白い。多少のタイムラグはあるが、この着床に成功した各国は中世の閉塞の絆を断ち切る端緒に立つことになり、それに成功した諸国は俄かに社会的活性期に移行することになった。

 そうした先進国での着床の仕方にそれぞれがお国柄を見せているところが面白い。分かりやすく云えば、この時期休火山が一斉に活火山化していき、お国柄に応じて多様な形態を見せたということである。これらの諸国がその後の世界史上に先進国として登場していくことになるのは衆知の通りである。

 付言すれば、この過程が無いのとあるのとの差により、現代社会に至る国体の強固さに影響を及ぼしているというのがれんだいこ史観である。ヨーロッパ諸国は中世ほぼ一千年間キリスト教的ドグマに縛られて停滞社会に陥っていた。ヨーロッパ諸国のキリスト教国化は、西欧思潮のもう一つの雄ユダヤ教化との闘いから生まれたと思われるが、ここではこの問題を問わない。

 西欧諸国がキリスト教化していたこの間、アラブ諸国がむしろ世界史の主人公であり活性化した社会を創っていた。ヨーロッパ諸国に比べればアジア諸国のほうが斬進的ながらも活況を見せていた。今日のアラブ諸国の停滞は、西欧世界の近代化の流れを対岸視してやり過ごし、この革命の花粉を着床し損なったことに遠因があると思われる。その要因を問うことは興味深いが、ここではこの問題を問わない。

 ところが、眠れる西欧にある時花粉が飛んできた。どのようにしてこの花粉が発生したのかについてはルネサンス論の考究となるので省くが、この花粉がどこから飛んできてどう着床し生命を生み出していったか、更に飛んでどこに伝播していったか、これが近世西欧史を観る際の座標軸となるべきであろう。

 れんだいこ観点に拠れば、まずイタリアに飛んだ。これがルネサンス革命の最初期である。要約は難しいがそこでラテン的陽気な諸芸術、あるいは共和政治思想を徹底的に論駁し合う風土を育んだ。
ダンテマキャベリらが輩出したのは故無しではない。このルネサンスがイギリスに飛んで、資本主義勃興期経済の基礎理論と穏健議会主義系の近代的政治思想、哲学的には経験論的なものを生み出した。フランスに飛んで急進系の近代的政治思想を生み出した。哲学的には啓蒙哲学、機械論的唯物論と云われる観点をも生み出していた。ドイツに飛んで、先行する伊・英・仏に刺激されながら主に文芸・哲学思想を生み出した。

 非常に粗っぽいスケッチではあるが要点はそうである。ドイツで文芸・哲学活動が盛んになった理由として、元々文芸的哲学的伝統を持つ国柄で、精緻な思惟の形成能力が高かったとも云えるし、伊・英・仏に比べて現実の政治変革が絶望的であったのでせめて思惟の世界にのめり込み変革を為し遂げていったとも云える。

 さて、そのドイツで哲学活動が盛んになったという時、何が問われどう革命されたのか、ざっと見ておきたい。以下、カントからへ−ゲルからマルクスまでの流れを書く予定であるが、何しろ話が拡散するばかりとなるのであらかじめれんだいこ流に概説すればこうなる。

 カントの偉大さは、哲学の意義をキリスト教の正統的教義解釈からくるところの中世的束縛から復権させ、その掣肘から離れたところで新たな思惟の科学を打ちたてようとその形式面の考究に成果をあげたことに値打ちが認められる。カントはいわば、精神界のこととはいえ、近代精神に基づいてレールの敷き替えに着手し、これを敢行した革命者であった。様々な衣装を纏っているが、ここにカントの偉大性があるように思われる。但し、カントはいかにもドイツ的に用心深くこれを行った。従って、カント哲学を学ぶ場合、カントの発するメッセージ読み取らなければその真の意義が見えなくなる。

 カント哲学は
フィヒテシェリングを経てヘーゲルへと継承発展されていった。ヘーゲルは、カントが敷いた思惟の新学問を問い直し、カント哲学を基礎として更に精緻な論理学を樹立させ、その上部に凡そ哲学的認識でアプローチしえる限りの諸学問に考察を試み、学的体系を花開かせた。その伽藍は今に至るも及ぶものがないと評されており、まさに偉大な著作群で構成されている。エンゲルスは、フォイエルバッハ論の中で、概要ヘーゲル哲学はドイツでのカント以来の全運動を完結させたと評している。

 この時代の次世代にマルクスが登場してくることになる。マルクスがへ−ゲル哲学とどう関係したか、それを更に学的に如何に乗り越え得たのか、ここにマルクス主義の真価がある。その格闘は、
「ドイツ・イデオロギー」(1845〜46年)であますところなく表現されている。

【5、マルクス主義の唯物論性】
 マルクス主義は、唯物論の立場に立った。先ず、哲学上の根本問題である事象の存在について、客観的存在を唯物論的に認める態度を決定した。
 人類の他の生物とは画然と区別される特徴として、脳髄の発達が認められる。学術上ホモ・サピエンスと云われる我々が高等動物と云われる所以がここにある。人類はこの脳髄のお陰で最も広義な意味で文明を創ってきた。人は共に生き、あるいは闘い、あるいは助け合ってきた。その過程で、事象をどう観るのか、世界をどう認識するのか、社会をどう変革するのか、あるいは人はどう関係しあって生きるべきを廻って探りあってきた。

 なぜなら、こういう認識は脳髄活動の赴くところであるからである。脳髄の発達は、第一次本能的な反射機能を弱めたが、他方で思惟を生み出すことにより判断力機能を高め、それを悦ぶという特徴をもたらした。人はあらゆる実践基準にこの脳髄の思惟活動無しには為し得ないという、人類独特の作法を生み出しており、これがいわば人間の第二次的本能ともなっている。的確な判断、見通し、それらに基づく計画性無しには人は生きていけないという欠くべからざる要請が為されているのがホモ・サピエンスであり、これが他の生物と画する特質となっている、ということが知られねばならない。

 
そういう訳で、人類史の赴くところ、「的確な判断ないしは見通し」をより良くなす為の認識法が次第に発達してきた。その潮流には二つの流れがあった。この識別を明確に為すのがマルクス主義への入門となる。二つの流れとは、唯物論と観念論であり、人類の思惟活動はこの二流派が相対立して各々の自説を展開し続けてきた。それぞれの陣営はそれぞれの中で学的発展を遂げてきた。ということは、それだけ人類史に息づいてきた観方であるからには、その双方にそれなりの根拠があったということでもあろう。唯物論と観念論を識別する際に、この観点が作法とならなければならない。

 この二つの流派は、それ以前の
シャーマニズム的あるいは占星術的あるいは神話的認識法及び世界観と闘うという意味においては進歩的役割を果たしていた。シャーマニズム、占星術、神話の発生背景には、古代共同体の氏族、民族の統合あるいはポリス的秩序形成という意味で「正」の時代もあったと思われるが、人類の歩みはやがてそれらの認識法及び世界観を桎梏と感じ始める時期を迎えた。

 シャーマニズムの呪術的な世界観は自然に対する畏怖の素朴な反映に特徴があった。例えば、大河の氾濫を自然神の怒りでありとする観点が各地に見られる。が、こうした観点はいつまでもは通用しないであろう。占星術にしてみても今日から見て驚くほど精緻な理論体系を発達させており学ぶに値する知識の宝庫ではあるが、科学的なものと非科学的なものを分かち難く共存させるという神秘性を特徴としており、「学」の継承と発展には不向きな閉鎖的な体系としてある時代より桎梏となってきていた。

 神話も同様である。ポリス神話ないし民族神話は興味深い物語では有るが、後年になるに従いそこに繰り広げられる故事来歴の由来も定かでなくなり、絶対遵守を定言する神話的話法はある時代より桎梏となってきていた。

 これらの古代学問(自然観、社会観、、世界観、処世法、宗教等々)が、ポリスに台頭してきた王と領主の権力の神聖性を語り始め、御用教学、イデオロギーとなり下がった頃より、反王権派には桎梏となってきていた。かくしてその清算に「学」的に立ち向かったのが
「古代ギリシャ哲学」者達であった。当時の社会の改良なり変革なりを志向する者達からすれば、抜け出さねばならない認識法、思考法、世界観であったからであると思われる。

 古代ギリシャ哲学史は、当時の知者が、シャーマニズム的占星術的あるいは神話的認識法及び世界観から如何にして脱却しようとしていたのかの論点の宝庫である。そこでは、唯物論と観念論の二大系譜と後述する
弁証法形而上学の二大系譜が綾を織り成していた。唯物論と観念論はまずもってそのように捉えられなければならない。今日的視点から観念論を安易に排斥する作法は学的とは云えない。先行するそれ以前の「学的態度」からの解放を目指した片方のメジャーな考え方であった、という視点でこれを観る必要があるように思われる。

 その後の西欧哲学史の流れは、
キリスト教教義に包摂され、唯物論と観念論の見解を廻る闘争は影を潜める。というか、観念論がキリスト教教義と和合し、キリスト教教義の真理性、絶対性を証する理論として発展していくことになる。スコラ哲学はその精華である。付言すれば、キリスト教義は、ユダヤ教教義との格闘を通じて理論を磨いていった史実がある。つまり、キリスト教義も内部的には発展し続けたという観点で観る必要がある。

 しかし、
漸く中世の停滞社会から抜け出し近代社会への入口に立った頃から、主として科学者兼哲学者達から唯物論的認識が広がっていくことになった。哲学史上、デカルトの「全てを疑え」はその狼煙となった。以降、次第に唯物論的認識の評価が高まり、観念論者達も唯物論的認識が無視できなくなった。観念論者の中から唯物論の見直しの契機につながる様々な見解が出されてくることになった。但し、詳論は省くが、それが哲学史上の根本命題に関係しているという認識ではなかった。そのように自覚的に捉えられ始めたのはマルクス哲学誕生の直前になってである。

 
カントの功績が顧みられねばならない。偉大な科学者でもあったカントは、当時の自然科学の発展を汲み取り、キリスト教教義とは別の認識法あるいは世界観を模索し、妥協的ではあったが世界を合理的に説明しようと思索した。人間は“物”そのものを把握することはできないと語り、
不可知論に陥っていたが、観念論に科学の衣装を纏いつけようとしたことに功績が認められる。これに啓発されて、その後の哲学史には観念論の立場からでは有るが、幾多の大同小異の“科学的”裏付けを持とうとする観点、理論が登場してくることとなった。

 時代は封建制から資本制への移行期にさしかかり、自然科学者ないし哲学者達が古代ギリシャ哲学に関心を強めていった。科学史の上で、教会の教義とスコラ哲学が支配的であった封建制社会では、ほとんど見るべきものがなかったが、ギリシャ哲学には、
デモクリトスの原子論、プトレマイオスの天文学、地理学、ヘロフィロスの生理学等々、唯物論的哲学で自然を把握しようとした実り豊かな“科学”が開化していたからであった。

 こうして観ると、
早晩唯物論と観念論のどちらが正しいのかと言う決着を見ねばならない時期がやってくることになる。これに果敢に取り組み、ギリシャ哲学史以来の系譜を渉猟しながら、唯物論に軍配を挙げたのがプレ・マルクス期の天才達であった。観念論的思惟活動が「頭で逆立ちしている」ことを指摘し、唯物論的見地に立つべきであるとしたのがフォイエルバッハであった。

 エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の中で、マルクス主義形成途上にフォイエルバッハが果たした役割について次のように述べている。
 「我々の疾風怒濤時代に、ヘーゲル以後の他のどの哲学者にもましてフォイエルバッハが我々に与えた影響を十分に承認することは、まだ返却されていない信用借りであるように思われていた」。
 「マルクスは、フォイエルバッハの言説によって眼からウロコを落としたような影響を受けた」。
 概要「マルクスは、フォイエルバッハ哲学の成果を引き継ぎながら、『全ての哲学の、特に近世の哲学の大きな根本問題は、【思考と存在】ないし【精神と自然】との関係の問題である』という観点から哲学史を渉猟して、唯物論と観念論のどちらが正しいのか決着を挑んだ。結果として、フォイエルバッハの唯物論を更に高めて後述する弁証法との不即不離的認識をするべきであるとする地平に到達した。ここにマルクスの不朽の功績がある」。

 エンゲルスは、「フォイエルバッハ論」の中で、唯物論と観念論の相克について次のように述べている。
 概要「思惟の存在に対する、あるいは精神の自然に対する関係如何の問題は、哲学の全体に通じる最高の問題となっている。全ての哲学、殊に近代哲学の大きな根本問題は、思惟と存在関係いかんの問題である。この問題は、彼かこれかのどちらかに応えられたが、そのどちらに答えられたかに応じて、哲学者達は二大陣営に分裂した。

 自然に対して精神が根源的であると主張した人々、従って究極において何らかの種類の世界創造を許容した哲学者達は、観念論の陣営を形成した。他の人々、すなわち、自然を根源的なものと見た人々は唯物論の種々な学派に属する
」。

 ところで、唯物論と観念論の識別と決着をなぜつけねばならなかったのか、それは、事象の認識、判断、対応に当たって、究極基底的なところで認識法の構えが重要であることを知っていたからである。論のうったて=レールが間違っていれば、そこから組み上げた理論が砂上楼閣になり、実践に役に立たないことを洞察していたからである。解釈学なら「実践に役立つかどうか」の識別は不要であるが、後述するようにマルクス主義は
変革の哲学」としての役割を担っており、思惟活動の実践=物質化が促されるという構造となっている。実践に間違い無きよう役立つよう志向する精神に立つ時、この識別がどうしても必要となったということである。

 そういう必要があって、唯物論と観念論のどちらが正しいのかに決着が挑まれることになった。以下、唯物論、観念論とはそも何ものなのか、どこが識別されるところなのかについて見て行くことにする。

 唯物論、観念論を知ることは決して他人事ではない。「世の中に、人間の思惟とは独立した客観的存在、物質が存在するのか。それらは人間の思惟が作り出したものなのか」と問うことは、馬鹿げているようでそうではない。


 
いわゆる哲学の発達は、「万物は観念が作り出したものであり、従って観念の洗練こそ第一義的意味を持つ」という観念論を生み出し、こちらの考え方の方が主流となってきていたという史実がある。もっとも、観念論と一口で云ってもそれぞれ中身が異なる流派に分岐しており一様ではない。が、共通した認識法として、まず観念が先にあり、この観念に従って事物・事象・世界が創られているという認識をしている。

 それに対し、唯物論は、観念論のそういう認識法は人が頭で立っているかのように逆立ちした論であり、人がまず足で立っているように現実の実際的認識から始めねばならないとした。つまり、物事をあるがままに素直に見ればよいとした、と言い換えても良いと思われる。が、この説明の仕方は分かりやすくする為の例え話であり学問的には問題ある。


 
これを哲学的言辞で問えば次のようになる。
 「『人間の思惟とは独立した客観的存在、物質が存在するのか、しないのか』を廻って、観念論は、全ては観念の産物であるから存在しないと言い、唯物論は、存在すると云う。その解読に思惟が使われているのであり、その逆ではない」

 但し、近代以降今日まで脅威の発達を遂げている科学が未発達な時代にあっては、この当たり前なことが証明し得なかった。観念論の精緻な理論化の流れに対抗できなかったという史実がある。その理由を考えるのに、観念論的学的体系は時の為政者=王権・教権の統治を正当化するのに役立っており、その為に庇護されたからであると思われる。唯物論の方は、自然科学者の必須的観点であるからして維持されてきたが、為政者から見て尊重される必要が無かったことと科学そのものの発達が遅々とした社会にあってはさほど意義を持たなかったからであると思われる。

【「マルクス主義的唯物論」とは】
 唯物論の正当性は、いくつかの偶然的事例によってではなく、人類の長い、哲学と自然科学の歴史の中で証明されている。封建的制約から解放された資本主義は、巨大な生産力を登場させ、人間と自然との交通をいかなる時代にも比肩なきほどに拡げていった。それは、自然の解明を更に必要なものとし、ベールをはがされ解き明かされた仕組みが応用されて、更に生産力を推し進める結果となっている。

 エンゲルスは、「フォイエルバッハ論」の中で次のように述べている。
 概要「人間の思考は、脳に写し出された自然の模写であり、その反映であることが基底的に確認されねばならない。近代大脳生理学は、その反映が脳のどの部分であるかを明らかにしつつある。地球を認識している個人が死んだ後にも客観的な存在としての地球はありつづけること、すなわち、物質の存在をまずもってそれとして認識すること、ここから学が再構築されねばならない」。
 我々は、現実の世界−自然と歴史−を、先入観となっている観念的幻想なしにそれに近づくどの人間にも現れるままの姿で、把握しようと決心した。空想的連関においてではなく、それ自身の関連において把握された諸事実と一致しない、どの観念論的幻想をも容赦なく犠牲にしようと決心した。そして唯物論とは、これ以上の意味を全く持っていない」。
 
 
この観点の基盤から構築される唯物論が、マルクス主義的唯物論である。

 レーニンは1908年に執筆した「唯物論と経験批判論」の中で次のように述べている。
 「マルクス主義の唯物論の基本的な立場はすでにはっきりしている。それは、われわれのそとに実在的な客観が存在し、その客観にわれわれの表象が照応すること≠みとめることである」。
、「唯物論は、自然科学が証明しているのと一致して、思考・意識・感覚は、物質の、その上また有機的物質の、きわめて高度に発達した産物とみている」。

 
当然ながら、機械的唯物論ではない。唯物論を機械的に捉える見方は今日にもあるが、マルクス主義の立場からは「徹底した唯物論の立場を貫くことができなかった」と断を下している。広松渉・氏は、「マルクス主義の地平」の中で次のように批判している。
 概要「18世紀唯物論が『非弁証法的』であること−自然をその史的発展過程において把捉せず、一面的に数量化し、諸概念・諸要素を膠着させ、因果を機械的に固定し、必然性と自由をその統一において把握しないこと、等々」。

 
なお、宗教者が批判するところの俗物唯物論として云われるところの物ばかり重視して精神の作用を認めないというものでも無い、ことは云うまでも無い。

 マルクスとエンゲルスが依拠した唯物論はそれらではない。後述する弁証法と結合することにより従来の唯物論とは比較にならないほど豊かな内容を有した唯物論となっていた。自然科学の分野のみならず、社会科学の分野においても、徹底して、意識的に唯物論の立場に立つという史上例を見ない唯物論的見地を樹立していた。 「社会、すなわち、人間と人間の繋(つなが)り、人間と自然との関連を、徹底して唯物論的観点で把握していくこと、この科学的態度のみが、現実の社会の矛盾を明らかにし、社会主義への展望を打ち立てる大きな磐石になる」と評される見地を生んでいた。


 このことを、毛沢東は次のように的確に見なしている。
 「マルクス以前の唯物論は、人間の社会性から離れ、人間の歴史的発展から離れて、認識の問題を考察しているので、社会的実践に対する認識の依存性(関係)、即ち生産や階級闘争に対する認識の依存関係を理解できなかった」。

【6、マルクス主義の俗流観念論批判について
 マルクス主義の俗流観念論批判の仕方には問題がある。我々は、この汚染と闘わねばならない。
 付言すれば、「観念論と唯物論−この二つの表現は、本書でも又、これ以外の何事をも意味しない」とのエンゲルスの指摘は、見過ごされがちであるが留意すべきことである。「観念論と唯物論」の識別にこれ以上の観点を持ち込むことにより、マルクス・エンゲルスの「唯物論」的理解の枠を越えて、フェティシズム的な唯物論観点が横行してきたという史実があるからである。

 
どういうことかというと、マルクス主義における唯物論と観念論の識別規定は、哲学上の認識論、世界観の問題であって『これ以外の何事をも意味しない』と理解すべきところ、現実社会での個々の事象分析にあるいは運動指針にあるいは個々の生活設計の場面で、不用意に観念力排斥の作風が横行し過ぎているということである。実際には人間の社会生活全般における観念の役割には極めて高いものがあり、思惟と存在は相互に交通して作用しあっており、この局面での思惟の強力作用を認めない観点は、何らマルクス・エンゲルスの「唯物論」ではないということである。

 
マルクス主義における唯物論とは、物質的世界の実在を認め、観念の醸成基盤をここに見出すという認識論であって、この限りにおいて観念論の「逆立ち」を批判している。実際には、実体と観念とは常に交互作用しており、その際観念の能動作用は著しく認められるところである。史上のマルキストの唯物論はこの正確な理解を為さず、フェティシズム的唯物論理解により、観念の強力作用、相対的自律作用の面を軽視してきた。そのことが観点の公式主義を発生させ、いかに思惟の貧困をもたらしてきたのか、左派運動全体に弱脳運動への道を切り開いてきたのか、そろそろ明白にさせておかねばならないのではなかろうか。

 
以上のことを分かり易く云うと、俗に、環境を変えようとするのが唯物論で、意識とか心構えを変えようとするのが観念論であり、そういう観念論は間違いである式の批判が為されているが、「観念論と唯物論」の識別はそのようなものではないということである。マルクス主義的唯物論は、環境を変えようとするが、意識とか心構えを軽視するものでは決して無い。ある課題の解決に処方箋を生み出すとき、意識とか心構えの問題に全てを収斂させ、環境改変運動に向かわない観念重視論者を退けるばかりである。

 
ということは、宗教政党が教義の赴くままに環境改変運動に乗り出したとすれば、マルクス主義者はそのこと自体を批判する事はしない。マルクス主義と教義との相互検証の道、実践的な競り合いの道があるばかりである。近時のマルクス主義者はこのことが分かっていないように思われる。

【7、マルクス主義の弁証法性】
 マルクス主義は、弁証法を唯物論的見地に結合させた。弁証法は、世界の事象の脳髄への反映の仕方の認識方法論であるが、それは世界がそのようになっているからである。
 弁証法という認識法はヘーゲルという偉大な哲学者によって学的に確立された。この功績はヘーゲルの不朽のものである。弁証法という言葉自体は、“問答法”を意味するギリシア語からきており、古代ギリシアにおいて弁証法が始まっていたことが知れる。しかし、その代表的哲学者ヘラクレイトスにしても万物は流転するという平板な生成論として述べているに止まり、「この考えは諸現象の全体の一般的性格を正しくとらえてはいるが、全体を構成する個々の事物を十分には説明していません」と云われるところのものである。

 ヘーゲルの功績は、中世のキリスト教的世界観−神がこの世を支配しており、神が万物を創ったという万古不易の世界観−に対して、それを認めるという観念論的立場からではあるが、現実に生成発展している事象をそれとして認識し、その変化の構図を後付ける理論として
弁証法的認識論を生み出したことにある。ヘーゲルが闘ったのは、中世的世界観に顕著であった形而上学的思考法であり、形而上学の事物を固定的に捉える手法を非学問的としていた。あるいは二元論的認識法とも闘った。それらは、事物の連関、運動、生成と消滅を観ない思惟方法であり役に立たないとして排斥しようとしていた。 

 19世紀は自然科学の大きな発展がみられた時代であり、自然に対する唯物論的な見方が人々に急速に浸透し始めていた時代であった。たとえば1859年には、
ダーウィンの『種の起源』が出版されている。ダーウィンの進化論は、その後、ドイツ・ナチスの優性思想を根拠づけることにもなる「社会ダーウィニズム」などに反動的に発展させられていったのであるが、出版当時のヨーロッパにおいては、それはキリスト教の創造説と正面から対立し、宗教的世界観から人々を解放していくうえで積極的な役割を果たした。

 この当時、地動説に続いての三大発見と云われた@・
細胞の発見、A・エネルギー転化の法則の発見、B・ダーウィンの進化論等々こうした科学の進歩が津波のように押し寄せてきており、自然では全てが形而上学的にではなく弁証法的に行なわれていることが明らかになってきていた。しかし自然に対する唯物論的理解が大きく進んだその一方、人間の社会や歴史に対しては相変わらず古い観念的で非科学的な考えが支配していた。

 ドイツ哲学の重鎮カントはこうした自然科学上の発見を哲学的思惟の中に取り入れようと意欲した大哲学者であったが、いかんせん当時の哲学の枠組みから抜け出せていなかった。次に登場したヘーゲルは、カントが影響を受けていた形而上学に反論する形で弁証法を
現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理を汲み出す思考法として位置付けた。ここにヘーゲルの功績がある。

 ヘーゲルによるこの観点の代表的名言として、
「現実的なものは合理的であり、合理的なものは全て現実的である」、「自由とは必然性の洞察なり」が知られている。この命題は、一方では現存するものの全てを聖化しており、その限りで体制派権力者を満足させた。だが他方で、史上立ち現れた政変をも肯定する危険な警句にもなっていた。その意味で、この命題のどこの部分を気に入るかで右派から左派までを包摂すると言う深遠な名言足りえている。

 ヘーゲル弁証法は次のように云う。
 「一切の運動及び生命体の根源は矛盾であり、物は自己自身の中に矛盾を持つ限りにおいてのみ運動し衝動と活動を有する。そしてその対立、矛盾が激化すれば相互間において否定し合い排撃し合う結果、次の新しい段階に発展するが、この新しい段階においては、この二つの矛盾、対立は否定せられて無くなってしまうというのではなく、総合統一されより高い段階に発展止揚せられ、このようにして事物は無限連属の流動変化を続ける」。

 このヘーゲル的思惟方法を継承したのがマルクスである。マルクスは、前述したフォイエルバッハを乗り越える形でヘーゲル的思惟方法と格闘していくことになった。
「このフォイエルバッハを越えてフォイエルバッハの立場を一層発展させるという仕事は、1845年マルクスによって『神聖家族』のうちで始められたのである」(「空想より科学へ」)とある。マルクスはこれをどのように為したか。

 
唯物論的見地にこのヘーゲル的な弁証法思考を結合させることにより新地平を創出した。ヘーゲルもまた纏っていた観念論的世界観−すなわち彼の思想では、世界は絶対者=神の自己産出の過程とみなされ、理念の外化したものが万物であるというように全てのものが逆立ちさせられていて、現実の世界の連関をイデー的観念からあとづけ様としていた−と訣別し、唯物弁証法を生み出した。これによって唯物論が生き生きと世界の諸事象を認識できるようになった。

 いわば、事物と理念の関係において、ヘーゲル弁証法は、弁証法的理念及び思考法則を事物に押し付けようとしていた。マルクス弁証法は、事物そのものの中に弁証法的動態を見、そこから思考法則として弁証法を抽出しようとした。マルクス自身このことを「資本論第二巻」の中で次のように述べている。
 概要「私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのそれと相違するばかりでなく、それの正反対のものである。弁証法は、彼にあっては逆立ちしている。人は、合理的な核心を神秘的な外被のうちに発言するためには、それをひっくり返さなければならない」。

 つまり、「
逆立ちしていたへ−ゲルの弁証法が再度逆立ちさせられ、足で立たせられることになった」(「フォイエルバッハ論」)と云われているところのものである。これがマルクスの不朽の功績である。このことをエンゲルスは、「反デューリング論」(1878年)の中で、マルクスと私は弁証法を意識的にドイツ観念論哲学から救い出し、自然及び歴史に関する唯物論的な見方に採用した恐らく唯一の者であったと追認している。

 
この過程は、「左翼運動」において次のように纏められている。
 「マルクスは、当初、このヘーゲルの哲学研究に没頭しヘーゲル主義者となったが、ヘーゲル哲学が擁護する祖国プロシャの専制国家に強い批判を抱いたため、左翼ヘーゲル学派のフォイエルバッハが唱える唯物思想を熱狂的に迎え入れ、さらに啓発された知識に独自の思考を加えて、自己の哲学理論としての唯物弁証法を形成していった。しかし、マルクスは、それにとどまらず、この考え方を単に自然界の現象としての事物の観察認識の域から、さらに人間歴史に適用し、その発展法則としての『唯物史観』を確立したのである」。
 ヘーゲルの三段階弁証法。正(these)、反(anti・these)、合(syn・these)

【エンゲルスによる弁証法の発展とエンゲルス的認識論】
 エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の中で次のように述べている。ヘーゲルのこの名言を如何に左派的に読み取ったかのこれも名言であろう。
 「哲学が認識すべきものとしての真理にしても、ヘーゲルにおいてはもはや、一度見出されたら暗記しておきさえすればいいというような、出来上がった教条的な命題の寄せ集めではなかった。真理は今や認識の過程そのもののうちに、哲学の長い歴史的発展のうちにあった。そして哲学は認識のより低い段階から次第により高い段階へ昇って行くが、いつかいわゆる絶対的真理を発見して、もはやそれ以上進めず、手をこまねいて、得られた絶対的真理を驚き眺める以外に何もすることがないというような点に達することはないのである。

 そして哲学的認識の領域においてそうであるように、その他全ての認識の領域においても、また実践的活動の領域でも、そうである。認識と同じように、歴史もまた人類のある完全な理想的状態のうちに完結点を見出すというようなことはない。完全な社会とか、完全な『国家』とかいうようなものは、ただ空想のうちにしかありえないものである」。
 「これに反して、次々と現れてくる全ての歴史的状態は、低いものから高いものへと進む人間社会の果てしない発展の行程における一時的な段階に過ぎない。それぞれの段階は必然的であり、従ってその段階を生み出した時代と諸条件に対しては正当である。しかし、それは、それ自身の胎内で次第に発展してくる新しい、より高い諸条件に対しては、存在理由と正当性を失い、より高い段階に席を譲らなければならなくなる。

 そしてこのより高い段階自身にもまた衰え滅びる順番が廻ってくる。ブルジョアジーが大工業と競争と世界市場とによって、あらゆる安定した、伝来の制度を実践的に打ち壊すように、この弁証法哲学は究極的な絶対的真理やそれに対応する人類の絶対的な状態やについてのあらゆる観念を打ち壊してしまう」。
 「この哲学の前には、何らの究極的なもの、絶対的なもの、神聖なものも存在しない。それはありとあらゆるものについて消極性を示す。この哲学の前では、生成と消滅の不断の過程、より低いものから高いものへの果てしない向上の不断の過程以外、何ものも永続的でない。そして、この哲学自身は、この過程が思考する頭脳のうちに反映したものに過ぎないのである。この哲学も勿論保守的な面を持っている。それは認識及び社会の一定の段階がそれぞれの時代と事情に対して正当なものであることを認める。しかしそれ以上ではない。この見方の保守性は相対的であり、その革命的側面は絶対的である−これは、この哲学が認める唯一の絶対的なものである」。
 「ヘーゲル哲学の革命的側面が再び取り上げられ、同時に、それはヘーゲルにおいてはその徹底した展開を妨げていた観念論的な装飾から解放された。世界は出来上がった事物の複合体としてでなく、諸過程の複合体と見られなければならず、そこでは外見上固定的な事物も、我々の頭脳のうちにあるその思想的映像である概念に劣らず、発生と消滅の不断の変化のうちにあり、そしてこの変化のうちで、あらゆる外見上偶然事や一時的な後退にも関わらず、結局は前進的な発展が行われているという根本思想−こうした偉大な根本思想は、特にヘーゲル以来、普通の意識にまで浸透しているので、こうした一般的な点では恐らくほとんど反対が無いであろう」。
 「もっとも、この根本思想を言葉の上で認めるのと、それを実際に研究の各分野にいちいち適用するのとは違う。しかし、人が研究にあたって常にこうした観点から出発すれば、最後的な解決とか永遠の真理とかいうものへの要求は、きっぱりと消えうせてしまう。人は、全ての獲得された知識が必然的に制限されており、それが得られたときの事情によって制約されているということを常に自覚している。他方、また人はもはや、真理と誤謬、善と悪、同一と差異、必然と偶然というような、今なお一般に行われている古い形而上学では克服できない諸対立に威圧されはしない」。
 「人は、これらの対立が相対的な妥当性しかもっていないこと、現在は真理と認められていることも、そのうちに誤謬の側面を潜めていて、後にはそれが現れてくるし、同様に現在は誤謬と認められていることにも、真理の側面があり、その為にかっては真理として通用し得たのだということ、必然と主張されているものが偶然事のみから組み立てられており、偶然と云われているものが、その背後に必然を潜めている形式であること、等々を知っている」。

 エンゲルスは1875年から76年に執筆した「自然弁証法・序論」の中で次のように述べている。
 「全自然は最小のものから最大のものにいたるまで、砂粒から太陽にいたるまで、原生生物から人類にいたるまで、すべて永遠の生成と消滅、たえまない流転、やすみなき運動と変化のなかに存在する」。

【レーニンによる弁証法の発展とレーニン主義的認識論】
 マルクス、エンゲルスという両巨頭の思想を継承したレーニンは、弁証法を「自然、人間社会、思惟の一般的運動=発展法則に関する科学」と特徴づけた。思惟の法則としての弁証法は何よりも客観的世界の運動法則の思考への反映であり、本質的合理的な形態では唯物論の立場と一致し、唯物論的弁証法として真に科学的合理的認識法として確立した。それを歴史に適用したのが史的唯物論であり、その社会法則から生み出されたのが、科学としての社会主義思想であった。

 では、一般的運動の発展法則としての弁証法の内容とはどのようなものか、観ていくことにする。レーニンは、次のように述べている。
 「弁証法を一言で述べれば、対立物の統一の学説と規定することができる」。
 「一つのものを二つに分け、この一つのものの矛盾した二つの部分を認識することが弁証法の核心である」。

 さらに、発展としての弁証法の特質について次のように述べている。
 概要「すでに経過した諸段階をくり返すかのように見えながら以前とは違った形でいっそう高い基盤の上でそれをくり返す発展(否定の否定)、直線的に行なわれるのではなしにいわば螺旋を描く発展、飛躍的な、激変的な、革命的な発展、『漸次性の中断』、量の質への転化、ある物体に、またはある現象の範囲内で、あるいはある社会の内部で作用している様々な力や傾向の矛盾、衝突によって与えられる発展への内的衝動、おのおのの現象の全ての側面の相互依存性と、もっとも緊密な、切り離すことのできない連関、単一の合法則的な世界的運動過程をなしている連関が弁証法の特質である」。
 「弁証法は、疑いもなく否定の要素を、しかもその最も重要な要素として含んでいる。この弁証法で特徴的であり本質的であるのは単なる否定でもなければいたずらなる否定でもなく、懐疑的な否定、動揺、疑惑でもない。そうではなくて肯定的なものを保持した、すなわちどんな動揺もなく、どんな折衷主義もない連関の契機としての、発展の契機としての否定なのである」。

【8、マルクス主義的唯物弁証法の基本法則】について
 「れんだいこ式マルクス主義的唯物弁証法の基本法則」を整理しておくと次のように云える。
1、矛盾論、変化生成、闘争論
 全てのものはその内部で対立する矛盾を孕んでいる。矛盾は万物の発展変化の根本である。

 この原理は自然事象にも社会事象にも当てはまるいわば法則である。社会事象の場合、社会は対立及び衝突及び闘争により向次的発展していくことになる。
2、対立物の相互浸透、釣りあいの法則
 万物は矛盾の中で調和されている。その釣りあいの内部で相互浸透し且つ闘争し合うことによって発展変化するというのが事物事象の弁証法的法則である。

 これは社会においても同様であり、矛盾=階級対立に伴う闘争は社会発展の「正」であり、これを否定抑圧することなく合法則的に活用せねばならない。

 従来、対立物の闘争過程を「統一」と表現されているが、「統一」という認識の仕方よりも「釣りあい」と認識する方が正確ではなかろうか。【ちなみに、この観点はれんだいこの独特の指摘であろう】「釣りあい」の最中での変革、革命観こそがマルクス主義的弁証法の本来のものであるように思料する。
3、「量から質への転化」による漸次性の中断、及びその逆の法則
 事物発展は、漸進的な目立たない量的変化が徐々に積み重ねられて、遂にある一点で爆発的な変化を為し、根本的な質の変化へと達する。この両者が相互に規定しあいながら発展するというのが事物事象の弁証法的法則である。

 これは社会においても同様であり、矛盾=階級対立に伴う革命は社会発展の「正」であり、これを否定抑圧することなく合法則的に活用せねばならない。
4、否定の否定の法則、認識のらせん的発展の法則
 事物・事象の発展の道程は、ヘーゲル論理学において@・「即自」、A・「対自」、B・「向自」、C・「止揚」つまり「正・反・合」の不断の連続螺旋的発展過程として解析されている。マルクス主義もこれを継承する。これに従えば、新しく獲得された質は以前の質を否定しており、やがてまたその質も新しい質に否定される。このようにして否定とそのまた否定が無限に行われていくのが事物事象の弁証法的法則である。

 これは社会においても同様である。この観点に拠り、否定の否定=革命闘争、その永続革命は社会発展の「正」であり、これを抑圧否定することなく合法則的に活用せねばならない、ということになる。
5、弁証法の「二つ一つ」的法則
 弁証法は、ある対象を考察する際に外在的方法と内在的方法の両面からアプローチされねばならない。しかもこれを同時把握的「二つ一つ」で為さねばならない。マルクス主義の弁証法は元々両義的なものであるが、もっぱら外在的弁証法のみ利用される経過を見せている。内在的弁証法をも又踏まえねばならない。【ちなみに、この観点はれんだいこの独特の指摘であろう】

【9、マルクス主義の認識の精度性】
 マルクス主義は、唯物弁証法により、事象認識の精度が高められた。それを真理観で捉えてはいけない。客観的世界の思惟への反映の正確さと限界の二面から考察されねばならない
 こうして獲得されたマルクス主義的認識法ないし世界観によって、我々はどこまで事象をあるいは世界を正確に認識し得るのだろうか、という問題に関心を持たざるを得ない。

 
これについて、エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の中で次のように述べている。
 「我々を取り囲んでいる世界についての我々の思想は、この世界そのものとどんな関係にあるのか、我々の思考は現実の世界をどこまで認識することができるのか。我々は我々の表象と概念のうちで、現実の世界についてどこまで正しい映像を作り出すことができるか、という問題である。この問題は、哲学上の言葉では、思考と存在との同一性の問題と呼ばれる」。

 エンゲルスは、こうして「思考と存在との同一性」を是認した。注意すべきは、エンゲルスはこのように問い是認したが、その精度については回答を避けている。カント的不可知論を退ける範囲で是認しているという限定性で語っている、ことが知られねばならない。「思考と存在との同一性の問題」に対して、マルクス・エンゲルスの見解は披瀝されていない。

 エンゲルスは、「反デユーリング論」の中で、この問題について次のように述べている。
 概要「思惟(しい)の至上性は、きわめて非至上的に思惟する人間の系列を通じて実現され、真理であるという絶対的主張権をもつ認識は、相対的誤謬(ごびゅう)の系列をつうじて実現される。前者も後者も人類の無限の持続を通じてでなければ、完全には実現されることはできない。この意味で人間の思惟は至上的であると同時に至上的でなく、またそれの認識能力は無制限であると同時に制限されている」。

 いわゆる真理認識観の問題になるが、これを過度に強調すると、キリスト教的世界観による絶対真理観と論理構造的に見てどこがどう違うのか分からなくなる。マルクス主義的認識法ないし世界観を獲得し得るものとしてその立場に立った場合、その精度に対してあるいは発生する理論上の差異に対して、その良し悪しを誰が判断するのか、どうやって検証し得るのかという問題は極めて現代的な未解明な課題となっている。れんだいこの関心はここにあるが、史上多くのマルクス主義者がこれに能く取り組んだという例を知らない。

 残念なことに、この部分がその後のマルクス主義において大きく歪められ、大いなる悲劇を生んでいくことになった。マルクス主義の正しさを強調すればするほど、「マルクス主義的思考と客観世界との同一化」へと導かれ、その認識を得たとされた者ないし党派が絶対真理者として立ち現われ、指導者として君臨することになった。悪名高きスターリズムはその典型であり、いともたやすく中世の宗教的絶対真理観で粗暴に解決した例が知られている。
  レーニンは、1894年の「人民の友とは何か」で次のように述べている。
 「マルクス主義の正しさは、それが最高度の厳密な科学性と革命性とが結合しているからである。この二つの特性がきってもきれない結合が理論そのもののなかにあるからである」。

 レーニンは、1901年から02年にかけて執筆した「何をなすべきか?」で次のように述べている。
 「革命的理論なくして革命的運動はありえない。先進的な理論に導かれる党だけが先進的闘士の役割をはたすことができる」。

 レーニンは、こうしたマルクス主義の秀逸性について、1908年に執筆した「唯物論と経験批判論」の中で次のように述べている。
 「世界の現実的統一性はその物質性にある。その物質性の反映として意識が生れる。その意識は客観的実在に照応している。ここから絶対的真理が形成され、物質的実在を支配していく」。

「人間の思惟はその本性上、相対的真理の総和から構成される絶対的真理を、我々に与えることができるし、また与えている。科学のおのおのの発展段階は、絶対的真理という総和に新しい粒をつけ加える。しかしおのおのの科学的命題の真理の限界は相対的であって、知識のいっそうの成長によって、あるいは拡大され、あるいは縮小される」。

「弁証法的唯物論にとっては、相対的真理と絶対的真理とのあいだにはこえがたい境界は存在しない」。

「我々のすべての知識の相対性を、客観的真理の否定という意味で認めるのではなく、我々の知識がこの真理に近づいていく限度が歴史的に条件づけられているという意味でみとめるのである」。

 レーニンは、1913年「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」で次のように述べている。
 概要「マルクス主義の学説は正しいが故に全能である。それは完全で、整然としており、いかなる迷信、いかなる反動、ブルジョア的圧制のいかなる擁護ともあいいれない全一的な世界観を人びとにあたえる。それは人類が19世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のものの正統な継承であり、その完成であった」、「哲学は権力問題をあばき、経済学は階級対立と階級闘争をあばき、社会主義論はプロレタリア独裁を明確にしたのであった」。

 レーニンの、哲学的真理観、相対的真理と絶対的真理観がマルクス主義的であるのかどうか、れんだいこは疑問する。マルクス主義哲学に於いて問題になるのは、認識が客観性をどこまで獲得できるのかという「思考と存在との同一性」の問題であるとし、これを是認したが、マルクスーエンゲルスはそれ以上考究していない。

 これを相対的真理と絶対的真理の関係で考察することは邪道であろう。しかし、レーニンはそのように思考した。今は、このことを指摘しておく。

 2005.3.5日 れんだいこ拝

【10、スターリンのマルクス主義の歪曲について】
 スターリンによる把握の仕方には問題がある。我々は、この汚染と闘わねばならない。
 スターリンは、マルクス主義哲学の精髄である唯物弁証法について、次のように説明している。
 「マルクス主義は社会主義の理論であるばかりでなく、全一の世界観であり、哲学体系であって、マルクスのプロレタリア社会主義はその中からひとりでに出てくるものである。この哲学体系は唯物弁証法と呼ばれる」(「無政府主義か社会主義か」)
 「弁証法的唯物論は、マルクス・レーニン党の世界観である」(「弁証法的唯物論と史的唯物論」)。

 
こうした捉え方には大いに問題があるとしたい。判明することは、スターリニズム哲学がマルクス主義を排他的に全能化させて絶対教義としているということである。そういう意味で、スターリニズム哲学の本質は、マルクス主義以降のマルクス主義内へのキリスト教的思考の潜入であった。

 
その理論構造を見れば、マルクス主義と社会主義論と唯物弁証法を三位一体とみなし、あたかもマルクス主義をエホバ神=聖書に、社会主義をエホバ神の子=キリストに、唯物弁証法を聖霊に見立てているが如くである。且つその論理が粗雑な演繹的あるいは循環的な話法で説明されているということに特徴が認められる。唯物弁証法は社会主義理論を生み出す必要条件を満たしているが、スターリンにあっては唯物弁証法が十分条件へとすりかえられている。これが、公式主義を生み出す土壌となっている。

 
次に、唯物弁証法を「全一の世界観」、「哲学体系」視しているが、唯物弁証法はあくまで認識論のレベルであり、唯物弁証法自体を「世界観」、「体系」として捉えるのは異筋であろう。あたかもキリスト教的世界観、体系に代わる新たな世界観、体系として唯物弁証法を核とするマルクス主義を措定している。少なくとも、「弁証法的唯物論はマルクス・レーニン党の認識論であり、唯物史観を生み出すことにより世界観ともなっている」と表記すべきだろうに。

 こうしたスターリン的観点は明確に間違いであろう。スターリニズム的に把握するならば、マルクス主義はキリスト教に代わる新宗教ドグマでしかない。当然「新真理」として位置付けられることになる。しかして、マルクス主義とはそのような教条を排するところに精髄があるのであって、新宗教的「新真理」として通用させて良い訳が無い。

 こうしたスターリン的観点は中世の神学的教義への回帰であり、近世哲学史の精華を引き継いでいないのではなかろうか。マルクスに辿り着いた思想家達が格闘したのは、極力演繹的論法を排除しそれと逆の関係にある帰納法的な観方を養成すべしとしていたのではなかったか。スターリニズム的「マルクスのプロレタリア社会主義はその中からひとりでに出てくるものである」という論法は危険である。この話法は循環論法に道を拓いており、それぞれの質の違いと関係を全く無視している。それはマルクス主義の地平からの退歩であろう。であるが故に、マルクス主義的真理を掌握したと称する者が立ち現われ、その権威が格段に高められることになるのであろう。 


 
してみれば、一時期とはいえロシア革命のその後の帰趨を決定付ける貴重な時期に、こうしたスターリン主義が国際的マルクス主義運動の代表的地位に就いた事は不幸であった。「ロシア・マルクス主義」運動は、レーニズム以降スターリニズムに取って代わられ、新宗教「新真理」的マルクス主義観で運動させてきた。これが正統化され公認されてきた。あまたのインテリの取り巻きと考証的な研究にも関わらず、その非が咎められることが弱すぎた。仮に咎められても、その論理もまた正確でなかった恨みがあるのでは無かろうか。

 
つまり、マルクス主義は本来理解されるべき姿で理解されないままの偽運動が続いてきたのではなかろうか、との推測を可能にさせられる。つまりは、マルクス主義運動はその思想内実の正真正銘通りには史上にまだ現れていない、とまで云えるのかも知れない。

【11マルクス主義の人間観の社会性】
 マルクス主義的人間観は、従来の平面的なアプローチに変革をもたらした。人間とは何かに対して、極めてユニークな新観点を打ち出し、それは史上初の成果であった。
 マルクスは、「聖家族」の中で次のように述べている。「人間的なるもの」を抽象的に論じる従来の人間観は間違いで、人がそもそも社会性の中に在るものとして捉えなければならないのではないのか、とする視点を打ち出した。

 次のように述べている。
 「この世界で真に人間的なものを経験し、又自己を真に人間として経験する習慣を持つようになる」、「人間がその環境によって形成されるものであるならば、人はその環境を人間的に形成しなければならない。人間が本性から社会的なものであるならば、人間はその真の本性をその社会で始めて展開するのであり、人はその本性の力を、個々の個人の力によってではなく、その社会の力によって測らなければならない」。

 こうした見解が、「フォイエルバッハ論」の中で次のように定式化されている。
 「フォイエルバッハは宗教の本質を人間の本質に解消する。しかし人間の本質は、個々の個人に内在する抽象物ではない、人間の本質とは、現実には、社会的諸関係の総和である」。

 つまり、マルクス・エンゲルスは、哲学的な人間観の考察に当たり、人間が本質的に「社会的な共同存在」であり、更に云えば「社会的」とは「現実的な生活過程そのもの」を意味しており、この観点に立って更に「歴史的な流れの内で実存している」限りこれに即応してその流れの中で把握されねばならない、という人間観の新地平を生み出した。これを「共同主観」と捉えるよりは、まさに「歴史的社会的な動態的存在」としてそのままに了解すべきだろう。

 こうなると、人間観の考察に当たって、旧来のような「神との対話」手法や「内観法」は意味の無いことになった。むしろ、社会的諸関係における能力の解放を通じてよりよく人間が観えてくる以上、社会的諸関係の変革志向こそが不即不離的に新人間観の探索でもある、ということになったのではあるまいか。

【12、マルクス主義の実践性】
 マルクス主義的哲学観は、従来の哲学観に変革をもたらした。哲学とは何かに対して、史上初の極めてユニークな新観点を打ち出し、これに成功した。
 マルクスの哲学テーゼは、 「哲学者達はこれまで世界を様々に解釈したに過ぎない。大切なことはしかし世界を変革する事である」(マルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」より)に極論されている。これによれば、もはや哲学者は、世界を静態的に措定した上での思弁的な把握姿勢が却下されている。「実践的唯物論者、すなわち、共産主義者にとって問題は、現存する世界を覆し、既成の事態と実践的に取り組んで、これを変えることにある」(ドイツ・イデオロギー)ということになった。

 これは、世界が動態的である以上、静止した観点での認識そのものが無意味ということを意味しているように思われる。動態的な世界にわが身を措いて、その変革の実践者としての世界から見えてきた認識を元手に世界を把握すべしということを示唆しているのではなかろうか。しかし、これだけで事が解決するのではない。
「実践無き理論は空虚であると同時に、理論なき実践は盲目である」(レーニン)とあるように、状況を的確に認識して変革の動向を理論化する能力もまた鋭く問われているように思われる。

 「解釈から実践」へにはもう一つ深い意味があるように思える。一体、人間内省、社会観、自然観、世界観を思弁的に為すのみでこれにとどまるならば、凡そ「知の持つ本来の意味」を弁えていないことになる、というマルクスなりの指摘では無かろうか。そういう知的態度をスコラ主義あるいはブルジョワ学として退け、人間、社会、自然、宇宙に対し何度も実践的に働きかけ、より合理的な認識を獲得し実践に生かし更に実践で検証し直すという交互作用を重視せよ、学問というのはそういう実践的意味を有していることを知りそのような学問を獲得せよ、という指摘なのではあるまいか。

 2004.6.11日 れんだいこ拝

【13、マルクス主義のイデオロギー闘争】
 マルクス主義的哲学観は、体制変革の擁護理論となった。対極的に巷間に信奉されている思想、信条、情緒が如何に体制内化されているか暴かずには済まなくなった。これをイデオロギー闘争と云う。マルクス主義はこれを果敢に行うところに値打ちがある。
 「共産党宣言」にはこう書かれている。「法律、道徳、宗教は、プロレタリアにとっては、すべてブルジョワ的偏見であって、それらすべての背後にはブルジョワ的利益がかくされている」(「共産党宣言」岩波文庫、54頁)。仮にこれを「イデオロギー」と称するとすれば、世には「支配階級の利害を正当化し、不当な搾取を隠蔽する偽りの観念」としての「支配階級に好都合なイデオロギー」が氾濫していることになる。

 たとえば、キリスト教が説く愛の教え。これは「敵を赦し、迫害する者のために祈れ」と説く。この場合、問題は次のことにある。この博愛主義が個人の生活規律を要請するレベルでは理解し得るが、マルクスが喝破した階級闘争論的観点からは、階級協調主義を説くまやかしということになる。プロレタリアはブルジョワの搾取に対して抗議していくべきであり、博愛主義の限界を知るべきである。

 あるいは、「自分がして欲しいと思うことを、他人にもしてあげなさい」なども同様である。個人の生活規律を要請するレベルでは理解し得るが、マルクスが喝破した階級闘争論的観点からは、階級的対立を曖昧にさせ、プロレタリアの階級的利益を放棄させる偽善説教と言うことになる。
 
 また、「人はパンのみにて生きるにあらず」 も同様である。イエスのこの言葉が実際にどのような意味で云われたのかは別にして、この教えの意味するところは、現実の悲惨な生活の甘受に結びつく。

 キリスト教の罪の赦しの教えも同様である。俗に、階級闘争社会の現実を真の解決にならない方向で解消し様とさせており、ナンセンスということになる。
「天国」の教えも同様である。彼岸主義は権力者に都合の良い理論であって、現実社会においてはひたすら耐え忍べ論に転化させられる。
 
 こうした「宗教」がもっているイデオロギーとしての機能は、宗教以外にも国家・民族意識、道徳・倫理、法などにも立ち現われている。現代のように宗教が衰退し、信憑性を失った時代には、小説やスポーツやコマーシャルのコピーなどあらゆるものが資本主義体制をささえるイデオロギーともなっている。
 
 宗教の果たしているこうしたイデオロギーとしての機能は、法や国家や道徳や芸術など、ありとあらゆる新しいものに姿を変えて受けつがれていくからして、イデオロギーに対する批判を敢行せねばならない。マルクスはそのように示唆した。(参考文献「マルクス」他)

【14、マルクス主義の歴史性】
 マルクス主義的哲学観は、完成されたものでは無い。当然の時代の制約を受けており、まだまだ吟味されあるいは創造的に発展されねばならないものである。
 広松渉氏は、著書「マルクス主義の地平」において、「これら二、三の問題を問い直してみるまでもなく、マルクス主義の創始者達は、いわば『覚書』の形でしか論点を措定し得ていない。マルクス・エンゲルスの立言を教条化し、拳々服庸を専らとする一部の風潮に抗して、我々は敢えてこう云わねばならない」と云う。更に「哲学的世界観の次元(この意味での思想史的な次元)では、マルクス主義と『空想的社会主義』との間に次元の差がなくなることである。すなわち、マルクス主義は、社会思想の点では格段に偉大であるにしても、哲学的世界観の次元では近世ブルジョアイデオロギーの地平―即ち人間主義と科学主義のwechselspielの地平―を越えておらず、『今日における乗り越え不可能な哲学』ではない、と判定さるべきことになってしまう」とも云い為している。

 氏の著書一般に云える事だが、わざわざ表現が難しいので学ぶに至難では有るが、要するに、一見精緻に形成されているマルクス主義哲学では有るが、まだまだ吟味を要することが多いのも事実である、というようなことが云いたいのだろうと思われる。それは、マルクス・エンゲルスの望むところの学的姿勢ではなかろうか。問題は、マルクス主義が切り開いたこの地平からどのように学的発展させるのかにあり、その道は変質でも無く後退でも無いまさに止揚されるべき学的遺産であるということではなかろうか。

【15、「足で立つ学問」考】
 マルクス主義の始発は「足で立とうとする学問」に特質がある。それは、世上の学問に対する痛打となっている。しかし、この理論で足腰を鍛えた訳ではない。それはこれからだ。
 「足で立つ学問」の意味とは、それまでの学問が「人があたかも頭で立っているかのような倒錯理論系に拠っている」との認識を前提にしている。マルクス主義においては専ら、ヘーゲルの哲学に対して被せられてきたが、従前の理解は正しくなかろう。ヘーゲルもまたそのように認識したが故に、学的体系の中に弁証法を持ち込み呻吟しつつ事象の精確な分析を志向した。マルクスのヘーゲル批判はその功績を認めつつ、そのヘーゲルが超えられなかった観念論的枠組みとしての学的体系をダメ押し的に破壊したことにある、のではなかろうか。マルクスはこの時、新しい自前の学問的手法を確立していた故に破壊を為す事ができた。この観点がヘーゲル学問に対しても、マルクス主義に対しても我々が理解すべき態度となるべきでは無かろうか。

 してみれば、マルクス主義の精髄とは、「足で立つ学問」の全分野における構築にこそあると云うべきではなかろうか。実践と掛け合いで意味を持つにしても、学的探求は非実践的と云い為されるよりはそれ自身実践でもあるとして認識すべきなのではなかろうか。なぜこの観点が肝要なのか。マルクス主義を誹謗する近頃の学問が再び、「人が頭で立っている」かのような現実離れしたところで蠢(うごめ)いているような気がするからである。主として文系に対していいたいが、いくら接ぎ木していっても小難しくなるだけで、大衆を学問から遠ざけるばかりで、それでいて専門家が何人寄せ集まっても小田原評定しか為しえない。それは人類が獲得した観点からの後退現象の為せる技であろう。

 もうひとつ。とはいえマルクス主義理論の功績は従来の学問の虚構を撃ち、「人が足で立っていることを踏まえての学問の再構築」という観点の打ったてに意義があり、だがしかしこの観点により実際に足腰を鍛えるところまでは行っていない。それはその後の学徒に課せられた課題ではなかろうか。しかるにこれが首尾よく出来ているとは思わない。俗流マルクス主義派が、かく意義を持つマルクス主義を再び「人が頭で立っているかのような学問」にしてしまった観がある。この辺りに対する厳しい認識から再出発せねばならないのではなかろうか。

 2002.11.4日 れんだいこ拝

【16、「理論と実践の弁証法的関係」考】
 朝田善之助氏は、「差別と闘いつづけて」の中で次のように述べている。生涯を部落解放運動の只中に身を置き闘い抜いた経歴故に、自ずから含蓄がある。
 「一般的に云って、社会運動と云うものは、理論が無くてはやはり生活を掴(つか)むことができないし、運動を正確に盛り上げて行く事はなおさら出来ない。経験と理論が一致しないと、正しい運動を発展させることはできない」。
 「一般的に云って、大衆団体の指導社は自己の社会的立場と責任を自覚する時、はじめて理論と実践が要求され統一されるのである。しかし、本を読むだけではそれを理解したと主観的に考えていても、それは単なる物知りになっているに過ぎない。理論は実践に裏打ちされて初めて完成され、自己のものとなる。要は、自己の責任だけが自己を育て、自己を発展させ、一人前の指導者になることが出来るのである。責任が伴わないと、社会運動に入っても少しも発展しない。『その他大勢』でついて行ったのではダメだ。やはり能動的に自己の責任を先行させなければならない」。

 「理論と実践」の関係解明は重要である。これは何もマルクス主義に関してだけでなく、世情一般に共通するものである。これを理論から見れば次のように云える。理論が幾ら立派でも宝の持ち腐れにならないようにしなければならない。つまり、実践有っての立派な理論であるということを弁えればよい。これを実践から見れば次のように云える。日共系の者は、理論が革命的でないビラをいくら革命的に個別配布しても何の役にも立たないということを弁えればよい。新左翼系の者は、理論が革命的でない街頭デモをいくら革命的に貫徹してもさほど役に立たないということを弁えればよい。要するに、理論と実践は、相乗馬乗り理関にあると思えば良い。

 次に、その担い手問題を考えねばならない。「私考える人、あなた行う人」と云う風に理論と実践はその担い手を分離すべきであろうか。これは指導者論に関係してくるのでそちらで考察することにする。

 2006.10.28日 れんだいこ拝