マルクス主義の唯物論性、弁証法性

 (最新見直し2006.10.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、マルクス主義の唯物論性、弁証法性を確認しておく。


【5、マルクス主義の唯物論性】
 マルクス主義は、唯物論の立場に立った。先ず、哲学上の根本問題である事象の存在について、客観的存在を唯物論的に認める態度を決定した。
 人類の他の生物とは画然と区別される特徴として、脳髄の発達が認められる。学術上ホモ・サピエンスと云われる我々が高等動物と云われる所以がここにある。人類はこの脳髄のお陰で最も広義な意味で文明を創ってきた。人は共に生き、あるいは闘い、あるいは助け合ってきた。その過程で、事象をどう観るのか、世界をどう認識するのか、社会をどう構築し変革するのか、あるいは人はどう関係しあって生きるべきを廻って探りあってきた。

 なぜなら、こういう認識は脳髄活動の赴くところであるからである。脳髄の発達は、第一次本能的な反射機能を弱めたが、他方で思惟を生み出すことにより判断力機能を高め、それを悦ぶという特徴をもたらした。人はあらゆる実践基準にこの脳髄の思惟活動なしには為し得ないという、人類独特の作法を生み出しており、これがいわば人間の第二次的本能ともなっている。的確な判断、見通し、それらに基づく計画性なしには人は生きていけないという欠くべからざる要請が為されているのがホモ・サピエンスであり、これが他の生物と画する特質となっている、ということが知られねばならない。

 
そういう訳で、人類史の赴くところ、「的確な判断ないしは見通し」をより良くなす為の認識法が次第に発達してきた。その潮流には二つの流れがあった。この識別を明確に為すのがマルクス主義への入門となる。二つの流れとは、唯物論と観念論であり、人類の思惟活動はこの二流派が相対立して各々の自説を展開し続けてきたところに特徴が認められる。それぞれの陣営はそれぞれの中で学的発展を遂げてきた。ということは、それだけ人類史に息づいてきた観方であるからには、その双方にそれなりの根拠があったということでもあろう。唯物論と観念論を識別する際に、この観点が作法とならなければならない。

 この二つの流派は、それ以前の
シャーマニズム的あるいは占星術的あるいは神話的認識法及び世界観と闘うという意味においては進歩的役割を果たしていた。シャーマニズム、占星術、神話の発生背景には、古代共同体の氏族、民族の統合あるいはポリス的秩序形成という意味で「正」の時代もあったと思われるが、人類の歩みはやがてそれらの認識法及び世界観を桎梏と感じ始める時期を迎えた。

 シャーマニズムの呪術的な世界観は自然に対する畏怖の素朴な反映に特徴があった。例えば、大河の氾濫を自然神の怒りでありとする観点が各地に見られる。が、こうした観点は自然生態に対する過剰な思弁化であり、いつまでもは通用しないであろう。占星術にしてみても今日から見て驚くほど精緻な理論体系を発達させており学ぶに値する知識の宝庫ではあるが、科学的なものと非科学的なものを分かち難く共存させるという神秘性を特徴としており、「学」の継承と発展には不向きな閉鎖的な体系としてある時代より桎梏となってきていた。

 神話も同様である。ポリス神話ないし民族神話は興味深い物語では有るが、創造初期に於いては共同体維持の紐帯となり積極的な面もあったと思われるが、後年になるに従い故事来歴の由来も定かでなくなり、絶対遵守を定言する神話的話法はある時代より桎梏となってきていた。

 これらの古代学問(自然観、社会観、、世界観、処世法、宗教等々)が、ポリスに台頭してきた王と領主の権力の神聖性を語り始め、御用教学、イデオロギーとなり下がった頃より、反王権派には桎梏となってきていた。かくしてその清算に「学」的に立ち向かったのが
「古代ギリシャ哲学」者達であった。当時の社会の改良なり変革なりを志向する者達からすれば、抜け出さねばならない認識法、思考法、世界観であったからであると思われる。

 古代ギリシャ哲学史は、当時の知者が、シャーマニズム的占星術的あるいは神話的認識法及び世界観から如何にして脱却しようとしていたのかの論点の宝庫である。そこでは、
唯物論観念論の二大系譜と後述する弁証法形而上学の二大系譜が綾を織り成していた。唯物論と観念論はまずもってそのように捉えられなければならない。今日的視点から観念論を安易に排斥する作法は学的とは云えない。先行するそれ以前の「学的態度」からの解放を目指した片方のメジャーな考え方であった、という視点でこれを観る必要があるように思われる。

 その後の西欧哲学史の流れは、
キリスト教教義に包摂され、唯物論と観念論の見解を廻る闘争は影を潜める。というか、観念論がキリスト教教義と和合し、キリスト教教義の真理性、絶対性を証する理論として発展していくことになる。スコラ哲学はその精華である。付言すれば、キリスト教義は、イエス教とユダヤ教義を折衷した新宗教であり、且つユダヤ教教義との格闘を通じて理論を磨いていった史実がある。つまり、キリスト教義も内部的には発展し続けたという観点で観る必要がある。

 しかし、
漸く中世の停滞社会から抜け出し近代社会への入口に立った頃から、主として科学者兼哲学者達から唯物論的認識が広がっていくことになった。哲学史上、デカルト「全てを疑え」はその狼煙となった。以降、次第に唯物論的認識の評価が高まり、観念論者達も唯物論的認識が無視できなくなった。観念論者の中から唯物論の見直しの契機につながる様々な見解が出されてくることになった。但し、詳論は省くが、それが哲学史上の根本命題に関係しているという認識ではなかった。そのように自覚的に捉えられ始めたのはマルクス哲学誕生の直前になってである。

 
カントの功績が顧みられねばならない。偉大な科学者でもあったカントは、当時の自然科学の発展を汲み取り、キリスト教教義とは別の認識法あるいは世界観を模索し、妥協的ではあったが世界を合理的に説明しようと思索した。人間は“物”そのものを把握することはできないと語り、
不可知論に陥っていたが、この頃知見される科学的諸事実を読み取ろうとして観念論に科学の衣装を纏いつけようとしたことに功績が認められる。これに啓発されて、その後の哲学史には観念論の立場からでは有るが、幾多の大同小異の“科学的”裏付けを持とうとする観点、理論が登場してくることとなった。カントの哲学上の功績はここに認められるというべきであろう。

 時代は封建制から資本制への移行期にさしかかり、自然科学者ないし哲学者達が古代ギリシャ哲学に関心を強めていった。科学史の上で、教会の教義とスコラ哲学が支配的であった封建制社会ではほとんど見るべきものがなかったが、ギリシャ哲学には
デモクリトスの原子論、プトレマイオスの天文学、地理学、ヘロフィロスの生理学等々、唯物論的哲学で自然を把握しようとした実り豊かな“科学”が開化していたからであった。

 こうして観ると、
早晩唯物論と観念論のどちらが正しいのかと言う決着を見ねばならない時期がやってくることになる。これに果敢に取り組み、ギリシャ哲学史以来の系譜を渉猟しながら、唯物論に軍配を挙げたのがプレ・マルクス期の天才達であった。観念論的思惟活動が「頭で逆立ちしている」ことを指摘し、唯物論的見地に立つべきであるとしたのがフォイエルバッハであった。

 エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の中で、マルクス主義形成途上にフォイエルバッハが果たした役割について次のように述べている。
 「我々の疾風怒濤時代に、ヘーゲル以後の他のどの哲学者にもましてフォイエルバッハが我々に与えた影響を十分に承認することは、まだ返却されていない信用借りであるように思われていた」。
 「マルクスは、フォイエルバッハの言説によって眼からウロコを落としたような影響を受けた」。
 概要「マルクスは、フォイエルバッハ哲学の成果を引き継ぎながら、『全ての哲学の、特に近世の哲学の大きな根本問題は、【思考と存在】ないし【精神と自然】との関係の問題である』という観点から哲学史を渉猟して、唯物論と観念論のどちらが正しいのか決着を挑んだ。結果として、フォイエルバッハの唯物論を更に高めて後述する弁証法との不即不離的認識をするべきであるとする地平に到達した。ここにマルクスの不朽の功績がある」。

 エンゲルスは、「フォイエルバッハ論」の中で、唯物論と観念論の相克について次のように述べている。
 概要「思惟の存在に対する、あるいは精神の自然に対する関係如何の問題は、哲学の全体に通じる最高の問題となっている。全ての哲学、殊に近代哲学の大きな根本問題は、思惟と存在関係いかんの問題である。この問題は、彼かこれかのどちらかに応えられたが、そのどちらに答えられたかに応じて、哲学者達は二大陣営に分裂した。

 自然に対して精神が根源的であると主張した人々、従って究極において何らかの種類の世界創造を許容した哲学者達は、観念論の陣営を形成した。他の人々、すなわち、自然を根源的なものと見た人々は唯物論の種々な学派に属する
」。

 ところで、唯物論と観念論の識別と決着をなぜつけねばならなかったのか、それは、事象の認識、判断、対応に当たって、究極基底的なところで認識法の構えが重要であることを知っていたからである。論のうったて=レールが間違っていれば、そこから組み上げた理論が砂上楼閣になり、実践に役に立たないことを洞察していたからである。解釈学なら「実践に役立つかどうか」の識別は不要であるが、後述するようにマルクス主義は
変革の哲学」としての役割を担っており、思惟活動の実践=物質化が促されるという構造となっている。実践に間違い無きよう役立つよう志向する精神に立つ時、この識別がどうしても必要となったということである。

 そういう必要があって、唯物論と観念論のどちらが正しいのかに決着が挑まれることになった。以下、唯物論、観念論とはそも何ものなのか、どこが識別されるところなのかについて見て行くことにする。

 唯物論、観念論を知ることは決して他人事ではない。「世の中に、人間の思惟とは独立した客観的存在、物質が存在するのか。それらは人間の思惟が作り出したものなのか」と問うことは、馬鹿げているようでそうではない。


 
いわゆる哲学の発達は、「万物は観念が作り出したものであり、従って観念の洗練こそ第一義的意味を持つ」という観念論を生み出し、こちらの考え方の方が主流となってきていたという史実がある。もっとも、観念論と一口で云ってもそれぞれ中身が異なる流派に分岐しており一様ではない。が、共通した認識法として、まず観念が先にあり、この観念に従って事物・事象・世界が創られているという認識をしている。

 それに対し、唯物論は、観念論のそういう認識法は人が頭で立っているかのように逆立ちした論であり、人がまず足で立っているように現実の実際的認識から始めねばならないとした。つまり、物事をあるがままに素直に見ればよいとした、と言い換えても良いと思われる。が、この説明の仕方は分かりやすくする為の例え話であり学問的には問題ある。


 
これを哲学的言辞で問えば次のようになる。
 「『人間の思惟とは独立した客観的存在、物質が存在するのか、しないのか』を廻って、観念論は、全ては観念の産物であるから存在しないと言い、唯物論は、存在すると云う。その解読に思惟が使われているのであり、その逆ではない」。

 但し、近代以降今日まで脅威の発達を遂げている科学が未発達な時代にあっては、この当たり前なことが証明し得なかった。観念論の精緻な理論化の流れに対抗できなかったという史実がある。その理由を考えるのに、観念論的学的体系は時の為政者=王権・教権の統治を正当化するのに役立っており、その為に庇護されたからであると思われる。唯物論の方は、自然科学者の必須的観点であるからして維持されてきたが、為政者から見て尊重される必要がなかったことと科学そのものの発達が遅々とした社会にあってはさほど意義を持たなかったからであると思われる。

【「マルクス主義的唯物論」とは】
 唯物論の正当性は、いくつかの偶然的事例によってではなく、人類の長い、哲学と自然科学の歴史の中で証明されている。封建的制約から解放された資本主義は、巨大な生産力を登場させ、人間と自然との交通をいかなる時代にも比肩なきほどに拡げていった。それは、自然の解明を更に必要なものとし、ベールをはがされ解き明かされた仕組みが応用されて、更に生産力を推し進める結果となっている。

 エンゲルスは、「フォイエルバッハ論」の中で次のように述べている。
 概要「人間の思考は、脳に写し出された自然の模写であり、その反映であることが基底的に確認されねばならない。近代大脳生理学は、その反映が脳のどの部分であるかを明らかにしつつある。地球を認識している個人が死んだ後にも客観的な存在としての地球はありつづけること、すなわち、物質の存在をまずもってそれとして認識すること、ここから学が再構築されねばならない」。
 我々は、現実の世界−自然と歴史−を、先入観となっている観念的幻想なしにそれに近づくどの人間にも現れるままの姿で、把握しようと決心した。空想的連関においてではなく、それ自身の関連において把握された諸事実と一致しない、どの観念論的幻想をも容赦なく犠牲にしようと決心した。そして唯物論とは、これ以上の意味を全く持っていない」。
 
 この観点の基盤から構築される唯物論が、マルクス主義的唯物論である。付言しておけば、「それ自身の関連において把握された諸事実と一致しない観念論的幻想」を退けたのであって、観念力そのものを排斥したのではない。俗流マルクス主義は観念力を無化する傾向にあるが、マルクス主義はそのような認識をしている訳ではない。そういう訳で、宗教者が批判するところの俗物唯物論として云われるところの物ばかり重視して精神の作用を認めないというものでもない、ことは云うまでもない。

 レーニンは1908年に執筆した「唯物論と経験批判論」の中で次のように述べている。
 「マルクス主義の唯物論の基本的な立場はすでにはっきりしている。それは、われわれのそとに実在的な客観が存在し、その客観にわれわれの表象が照応すること≠みとめることである」。
、「唯物論は、自然科学が証明しているのと一致して、思考・意識・感覚は、物質の、その上また有機的物質の、きわめて高度に発達した産物とみている」。

 
当然ながら、機械的唯物論ではない。唯物論を機械的に捉える見方は今日にもあるが、マルクス主義の立場からは「徹底した唯物論の立場を貫くことができなかった」と断を下している。広松渉・氏は、「マルクス主義の地平」の中で次のように批判している。
 概要「18世紀唯物論が『非弁証法的』であること−自然をその史的発展過程において把捉せず、一面的に数量化し、諸概念・諸要素を膠着させ、因果を機械的に固定し、必然性と自由をその統一において把握しないこと、等々」。

 マルクスとエンゲルスが依拠した唯物論はそれらではない。後述する弁証法と結合することにより従来の唯物論とは比較にならないほど豊かな内容を有した唯物論となっていた。自然科学の分野のみならず、社会科学の分野においても、徹底して、意識的に唯物論の立場に立つという史上例を見ない唯物論的見地を樹立していた。 「社会、すなわち、人間と人間の繋(つなが)り、人間と自然との関連を、徹底して唯物論的観点で把握していくこと、この科学的態度のみが、現実の社会の矛盾を明らかにし、社会主義への展望を打ち立てる大きな磐石になる」と評される見地を生んでいた。


 このことを、毛沢東は次のように的確に見なしている。
 「マルクス以前の唯物論は、人間の社会性から離れ、人間の歴史的発展から離れて、認識の問題を考察しているので、社会的実践に対する認識の依存性(関係)、即ち生産や階級闘争に対する認識の依存関係を理解できなかった」。

【6、マルクス主義の俗流観念論批判について
 マルクス主義の俗流観念論批判の仕方には問題がある。我々は、この汚染と闘わねばならない。
 再確認しておく。「観念論と唯物論−この二つの表現は、本書でも又、これ以外の何事をも意味しない」とのエンゲルスの指摘は、見過ごされがちであるが留意すべきことである。「観念論と唯物論」の識別にこれ以上の観点を持ち込むことにより、マルクス・エンゲルスの「唯物論」的理解の枠を越えて、フェティシズム的な唯物論観点が横行してきたという史実があるからである。

 
どういうことかというと、マルクス主義における唯物論と観念論の識別規定は、哲学上の認識論、世界観の問題であって、「これ以外の何事をも意味しない」と理解すべきところ、現実社会での個々の事象分析にあるいは運動指針にあるいは個々の生活設計の場面で、不用意に観念力排斥の作風が横行し過ぎているということである。実際には人間の社会生活全般における観念の役割には極めて高いものがあり、思惟と存在は相互に交通して作用しあっており、この局面での思惟の強力作用を認めない観点は、何らマルクス・エンゲルスの唯物論ではないということである。

 
マルクス主義における唯物論とは、物質的世界の実在を認め、観念の醸成基盤をここに見出すという認識論であって、この限りにおいて観念論の「逆立ち」を批判している。実際には、実体と観念とは常に交互作用しており、その際観念の能動作用は著しく認められるところである。史上のマルキストの唯物論はこの正確な理解を為さず、フェティシズム的唯物論理解により、観念の強力作用、相対的自律作用の面を軽視してきた。そのことが観点の公式主義を発生させ、いかに思惟の貧困をもたらしてきたのか、左派運動全体に弱脳運動への道を切り開いてきたのか、そろそろ明白にさせておかねばならないのではなかろうか。

 
以上のことを分かり易く云うと、俗に、環境を変えようとするのが唯物論で、意識とか心構えを変えようとするのが観念論であり、そういう観念論は間違いである式の批判が為されているが、「観念論と唯物論」の識別はそのようなものではないということである。マルクス主義的唯物論は、環境を変えようとするが、意識とか心構えを軽視するものでは決してない。ある課題の解決に処方箋を生み出すとき、意識とか心構えの問題に全てを収斂させ、環境改変運動に向かわない観念重視論者を退けるばかりである。

 
ということは、宗教政党が教義の赴くままに環境改変運動に乗り出したとすれば、マルクス主義者はそのこと自体を批判することはしない。マルクス主義と教義との相互検証の道、実践的な競り合いの道があるばかりである。近時のマルクス主義者はこのことが分かっていないように思われる。

【7、マルクス主義の弁証法性】
 マルクス主義は、弁証法を唯物論的見地に結合させた。弁証法は、世界の事象の脳髄への反映の仕方の認識方法論であるが、それは世界がそのようになっているからである。
 弁証法という認識法はヘーゲルという偉大な哲学者によって学的に確立された。この功績はヘーゲルの不朽のものである。弁証法という言葉自体は、“問答法”を意味するギリシア語からきており、古代ギリシアにおいて弁証法が始まっていたことが知れる。しかし、その代表的哲学者ヘラクレイトスにしても万物は流転するという平板な生成論として述べているに止まり、「この考えは諸現象の全体の一般的性格を正しくとらえてはいるが、全体を構成する個々の事物を十分には説明していません」と云われるところのものである。

 ヘーゲルの功績は、中世のキリスト教的世界観即ち神がこの世を支配しており、神が万物を創ったという万古不易の世界観に対して、それを認めるという観念論的立場からではあるが、現実に生成発展している事象をそれとして認識し、その変化の構図を後付ける理論として
弁証法的認識論を生み出したことにある。ヘーゲルが闘ったのは、中世的世界観に顕著であった形而上学的思考法であり、形而上学の事物を固定的に捉える手法を非学問的としていた。あるいは二元論的認識法とも闘った。それらは、事物の連関、運動、生成と消滅を観ない思惟方法であり事象解析にそぐわない、つまり役に立たないとして排斥しようとしていた。 

 19世紀は自然科学の大きな発展がみられた時代であり、自然に対する唯物論的な見方が人々に急速に浸透し始めていた時代であった。たとえば1859年には、
ダーウィンの「種の起源」が出版されている。ダーウィンの進化論は、その後、ドイツ・ナチスの優性思想を根拠づけることにもなる「社会ダーウィニズム」などに反動的に発展させられていったのであるが、出版当時のヨーロッパにおいては、それはキリスト教の創造説と正面から対立し、宗教的世界観から人々を解放していくうえで積極的な役割を果たした。

 この当時、地動説に続いての三大発見と云われた1・
細胞の発見、2・エネルギー転化の法則の発見、3・ダーウィンの進化論等々こうした科学の進歩が津波のように押し寄せてきており、自然では全てが形而上学的にではなく弁証法的に行なわれていることが明らかになってきていた。しかし自然に対する唯物論的理解が大きく進んだその一方、人間の社会や歴史に対しては相変わらず古い観念的で非科学的な考えが支配していた。

 ドイツ哲学の重鎮カントは、こうした自然科学上の発見を哲学的思惟の中に取り入れようと意欲した大哲学者であったが、いかんせん当時の哲学の枠組みから抜け出せていなかった。次に登場したヘーゲルは、カントが影響を受けていた形而上学に反論する形で弁証法を
現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理を汲み出す思考法として位置付けた。ここにヘーゲルの哲学史上の功績がある。

 ヘーゲルによるこの観点の代表的名言として、
「現実的なものは合理的であり、合理的なものは全て現実的である」、「自由とは必然性の洞察なり」が知られている。この命題は、一方では現存するものの全てを聖化しており、その限りで体制派権力者を満足させた。だが他方で、史上立ち現れた政変をも肯定する危険な警句にもなっていた。その意味で、この命題をどう解するのか、守旧的に読み取るのか変革的に読み取るのかを廻って右派から左派までを包摂すると云う深遠な名言足りえている。

 ヘーゲル弁証法は次のように云う。
 「一切の運動及び生命体の根源は矛盾であり、物は自己自身の中に矛盾を持つ限りにおいてのみ運動し衝動と活動を有する。そしてその対立、矛盾が激化すれば相互間において否定し合い排撃し合う結果、次の新しい段階に発展するが、この新しい段階においては、この二つの矛盾、対立は否定せられて無くなってしまうというのではなく、総合統一されより高い段階に発展出藍(止揚、揚棄)せられ、このようにして事物は無限連属の流動変化を続ける」。

 このヘーゲル的思惟方法を継承したのがマルクスである。マルクスは、前述したフォイエルバッハを乗り越える形でヘーゲル的思惟方法と格闘していくことになった。
「このフォイエルバッハを越えてフォイエルバッハの立場を一層発展させるという仕事は、1845年マルクスによって『神聖家族』のうちで始められたのである」(「空想より科学へ」)とある。マルクスはこれをどのように為したか。

 
唯物論的見地に、このヘーゲル的な弁証法思考を結合させることにより新地平を創出した。ヘーゲルもまた纏っていた観念論的世界観即ち彼の思想では世界は絶対者=神の自己産出の過程とみなされ、理念の外化したものが万物であるというように全てのものが逆立ちさせられていて、現実の世界の連関をイデー的観念からあとづけ様としていたのに対し、これと訣別し唯物弁証法を生み出した。これによって唯物論が生き生きと世界の諸事象を認識できるようになった。

 いわば、事物と理念の関係において、ヘーゲル弁証法は、弁証法的理念及び思考法則を事物に押し付けようとしていた。マルクス弁証法は、事物そのものの中に弁証法的動態を見、そこから思考法則として弁証法を抽出しようとした。マルクス自身このことを「資本論第二巻」の中で次のように述べている。
 概要「私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのそれと相違するばかりでなく、それの正反対のものである。弁証法は、彼にあっては逆立ちしている。人は、合理的な核心を神秘的な外被のうちに発言するためには、それをひっくり返さなければならない」。

 つまり、「
逆立ちしていたへ−ゲルの弁証法が再度逆立ちさせられ、足で立たせられることになった」(「フォイエルバッハ論」)と云われているところのものである。これがマルクスの不朽の功績である。このことをエンゲルスは、「反デューリング論」(1878年)の中で、マルクスと私は弁証法を意識的にドイツ観念論哲学から救い出し、自然及び歴史に関する唯物論的な見方に採用した恐らく唯一の者であったと追認している。

 
この過程は、「左翼運動」において次のように纏められている。
 「マルクスは、当初、このヘーゲルの哲学研究に没頭しヘーゲル主義者となったが、ヘーゲル哲学が擁護する祖国プロシャの専制国家に強い批判を抱いたため、左翼ヘーゲル学派のフォイエルバッハが唱える唯物思想を熱狂的に迎え入れ、さらに啓発された知識に独自の思考を加えて、自己の哲学理論としての唯物弁証法を形成していった。しかし、マルクスは、それにとどまらず、この考え方を単に自然界の現象としての事物の観察認識の域から、さらに人間歴史に適用し、その発展法則としての『唯物史観』を確立したのである」。
 ヘーゲルの三段階弁証法。正(these)、反(anti・these)、合(syn・these)

【エンゲルスによる弁証法の発展とエンゲルス的認識論】
 エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の中で次のように述べている。ヘーゲルのこの名言を如何に左派的に読み取ったかのこれも名言であろう。
 「哲学が認識すべきものとしての真理にしても、ヘーゲルにおいてはもはや、一度見出されたら暗記しておきさえすればいいというような、出来上がった教条的な命題の寄せ集めではなかった。真理は今や認識の過程そのもののうちに、哲学の長い歴史的発展のうちにあった。そして哲学は認識のより低い段階から次第により高い段階へ昇って行くが、いつかいわゆる絶対的真理を発見して、もはやそれ以上進めず、手をこまねいて、得られた絶対的真理を驚き眺める以外に何もすることがないというような点に達することはないのである。

 そして哲学的認識の領域においてそうであるように、その他全ての認識の領域においても、また実践的活動の領域でも、そうである。認識と同じように、歴史もまた人類のある完全な理想的状態のうちに完結点を見出すというようなことはない。完全な社会とか、完全な『国家』とかいうようなものは、ただ空想のうちにしかありえないものである」。
 「これに反して、次々と現れてくる全ての歴史的状態は、低いものから高いものへと進む人間社会の果てしない発展の行程における一時的な段階に過ぎない。それぞれの段階は必然的であり、従ってその段階を生み出した時代と諸条件に対しては正当である。しかし、それは、それ自身の胎内で次第に発展してくる新しい、より高い諸条件に対しては、存在理由と正当性を失い、より高い段階に席を譲らなければならなくなる。

 そしてこのより高い段階自身にもまた衰え滅びる順番が廻ってくる。ブルジョアジーが大工業と競争と世界市場とによって、あらゆる安定した、伝来の制度を実践的に打ち壊すように、この弁証法哲学は究極的な絶対的真理やそれに対応する人類の絶対的な状態やについてのあらゆる観念を打ち壊してしまう」。
 「この哲学の前には、何らの究極的なもの、絶対的なもの、神聖なものも存在しない。それはありとあらゆるものについて消極性を示す。この哲学の前では、生成と消滅の不断の過程、より低いものから高いものへの果てしない向上の不断の過程以外、何ものも永続的でない。そして、この哲学自身は、この過程が思考する頭脳のうちに反映したものに過ぎないのである。この哲学も勿論保守的な面を持っている。それは認識及び社会の一定の段階がそれぞれの時代と事情に対して正当なものであることを認める。しかしそれ以上ではない。この見方の保守性は相対的であり、その革命的側面は絶対的である−これは、この哲学が認める唯一の絶対的なものである」。
 「ヘーゲル哲学の革命的側面が再び取り上げられ、同時に、それはヘーゲルにおいてはその徹底した展開を妨げていた観念論的な装飾から解放された。世界は出来上がった事物の複合体としてでなく、諸過程の複合体と見られなければならず、そこでは外見上固定的な事物も、我々の頭脳のうちにあるその思想的映像である概念に劣らず、発生と消滅の不断の変化のうちにあり、そしてこの変化のうちで、あらゆる外見上偶然事や一時的な後退にも関わらず、結局は前進的な発展が行われているという根本思想−こうした偉大な根本思想は、特にヘーゲル以来、普通の意識にまで浸透しているので、こうした一般的な点では恐らくほとんど反対が無いであろう」。
 「もっとも、この根本思想を言葉の上で認めるのと、それを実際に研究の各分野にいちいち適用するのとは違う。しかし、人が研究にあたって常にこうした観点から出発すれば、最後的な解決とか永遠の真理とかいうものへの要求は、きっぱりと消えうせてしまう。人は、全ての獲得された知識が必然的に制限されており、それが得られたときの事情によって制約されているということを常に自覚している。他方、また人はもはや、真理と誤謬、善と悪、同一と差異、必然と偶然というような、今なお一般に行われている古い形而上学では克服できない諸対立に威圧されはしない」。
 「人は、これらの対立が相対的な妥当性しかもっていないこと、現在は真理と認められていることも、そのうちに誤謬の側面を潜めていて、後にはそれが現れてくるし、同様に現在は誤謬と認められていることにも、真理の側面があり、その為にかっては真理として通用し得たのだということ、必然と主張されているものが偶然事のみから組み立てられており、偶然と云われているものが、その背後に必然を潜めている形式であること、等々を知っている」。

 エンゲルスは1875年から76年に執筆した「自然弁証法・序論」の中で次のように述べている。
 「全自然は最小のものから最大のものにいたるまで、砂粒から太陽にいたるまで、原生生物から人類にいたるまで、すべて永遠の生成と消滅、たえまない流転、やすみなき運動と変化のなかに存在する」。

【レーニンによる弁証法の発展とレーニン主義的認識論】
 マルクス、エンゲルスという両巨頭の思想を継承したレーニンは、弁証法を「自然、人間社会、思惟の一般的運動=発展法則に関する科学」と特徴づけた。思惟の法則としての弁証法は何よりも客観的世界の運動法則の思考への反映であり、本質的合理的な形態では唯物論の立場と一致し、唯物論的弁証法として真に科学的合理的認識法として確立した。それを歴史に適用したのが史的唯物論であり、その社会法則から生み出されたのが、科学としての社会主義思想であった。

 では、一般的運動の発展法則としての弁証法の内容とはどのようなものか、観ていくことにする。レーニンは、次のように述べている。
 「弁証法を一言で述べれば、対立物の統一の学説と規定することができる」。
 「一つのものを二つに分け、この一つのものの矛盾した二つの部分を認識することが弁証法の核心である」。

 さらに、発展としての弁証法の特質について次のように述べている。
 概要「すでに経過した諸段階をくり返すかのように見えながら以前とは違った形でいっそう高い基盤の上でそれをくり返す発展(否定の否定)、直線的に行なわれるのではなしにいわば螺旋を描く発展、飛躍的な、激変的な、革命的な発展、『漸次性の中断』、量の質への転化、ある物体に、またはある現象の範囲内で、あるいはある社会の内部で作用している様々な力や傾向の矛盾、衝突によって与えられる発展への内的衝動、おのおのの現象の全ての側面の相互依存性と、もっとも緊密な、切り離すことのできない連関、単一の合法則的な世界的運動過程をなしている連関が弁証法の特質である」。
 「弁証法は、疑いもなく否定の要素を、しかもその最も重要な要素として含んでいる。この弁証法で特徴的であり本質的であるのは単なる否定でもなければいたずらなる否定でもなく、懐疑的な否定、動揺、疑惑でもない。そうではなくて肯定的なものを保持した、すなわちどんな動揺もなく、どんな折衷主義もない連関の契機としての、発展の契機としての否定なのである」。

【8、マルクス主義的唯物弁証法の基本法則】について
 「れんだいこ式マルクス主義的唯物弁証法の基本法則」を整理しておくと次のように云える。
1、矛盾論、変化生成、闘争論
 全てのものはその内部で対立する矛盾を孕んでいる。矛盾は万物の発展変化の根本である。この原理は自然事象にも社会事象にも当てはまるいわば法則である。社会事象の場合、社会は対立及び衝突及び闘争により向次的発展していくことになる。
2、対立物の相互浸透、釣りあいの法則
 万物は矛盾の中で調和されている。その釣りあいの内部で相互浸透し且つ闘争し合うことによって発展変化するというのが事物事象の弁証法的法則である。これは社会においても同様であり、矛盾=階級対立に伴う闘争は社会発展の「正」であり、これを否定抑圧することなく合法則的に活用せねばならない。

 従来、対立物の闘争過程を「統一」と表現されているが、「統一」という認識の仕方よりも「釣りあい」と認識する方が正確ではなかろうか。【ちなみに、この観点はれんだいこの独特の指摘であろう】「釣りあい」の最中での変革、革命観こそがマルクス主義的弁証法の本来のものであるように思料する。
3、「量から質への転化」による漸次性の中断、及びその逆の法則
 事物発展は、漸進的な目立たない量的変化が徐々に積み重ねられて、遂にある一点で爆発的な変化を為し、根本的な質の変化へと達する。この両者が相互に規定しあいながら発展するというのが事物事象の弁証法的法則である。

 これは社会においても同様であり、矛盾=階級対立に伴う革命は社会発展の「正」であり、これを否定抑圧することなく合法則的に活用せねばならない。
4、否定の否定の法則、認識のらせん的発展の法則
 事物・事象の発展の道程は、ヘーゲル論理学において@・「即自」、A・「対自」、B・「向自」、C・「止揚」つまり「正・反・合」の不断の連続螺旋的発展過程として解析されている。マルクス主義もこれを継承する。これに従えば、新しく獲得された質は以前の質を否定しており、やがてまたその質も新しい質に否定される。このようにして否定とそのまた否定が無限に行われていくのが事物事象の弁証法的法則である。

 これは社会においても同様である。この観点に拠り、否定の否定=革命闘争、その永続革命は社会発展の「正」であり、これを抑圧否定することなく合法則的に活用せねばならない、ということになる。
5、弁証法の「二つ一つ」的法則
 弁証法は、ある対象を考察する際に外在的方法と内在的方法の両面からアプローチされねばならない。しかもこれを同時把握的「二つ一つ」で為さねばならない。マルクス主義の弁証法は元々両義的なものであるが、もっぱら外在的弁証法のみ利用される経過を見せている。内在的弁証法をも又踏まえねばならない。【ちなみに、この観点はれんだいこの独特の指摘であろう】

 「れんだいこ式マルクス主義的唯物弁証法の基本法則」を使って事象を解析すれば次のようになる。仮に学生運動の解析の際に応用する。
 筆者は、戦後学生運動史を独特の手法で跡付けていくことにする。「独特の手法」とは、ヘーゲル論理学で学問的に科学された矛盾式弁証法にして、マルクスがそれを更に生き生きとさせ社会科学にまで高めた認識法のことを云う。筆者は、マルクス主義の真の功績は矛盾式弁証法を学問の世界に樹立したことにあると考えている。その認識法、分析法、総合法にあると考えている。残念ながらその後の学問は必ずしも、マルクス主義の水準を生かしていないように見受けられる。それは脳を鍛えないであろう。  

 筆者は、マルクス主義の矛盾式弁証法を継承しながら更にこれより出藍しようとしている。そういう意味で、矛盾式弁証法を筆者なりに改変している。マルクス自身の著作でさえ、進化された矛盾式弁証法から総洗いされねばならないと考えている。マルクス主義のそれは現状否定絶対主義へ傾斜し過ぎているように思われる。この点でのマルクス主義の矛盾式弁証法は、ヘーゲルのそれに及ばない。ヘーゲルの矛盾式弁証法には「現実的なものは合理的であり、合理的なものは全て現実的である」的弁えがあった。筆者は、ヘーゲル的洞察を炯眼とすべきであると考えている。

 即ち、現状とは、肯定的にも変革的にも同時的に理解できるような諸勢力拮抗の上に成り立つ均衡の姿であり、肯定的なものの内には改変不可能な摂理的な面が宿っているとみなしている。その摂理的な面を体制側が権力的に歪めて悪用し叉は抑圧している。この権力的肯定性の保守的なものが改変されるべきなのではなかろうか。いかもそれは目下は均衡的に存在しているが、この均衡をどう合理的に改変して行くべきが問われており、これに有能に処方して行くのが正当な手法ではないかと思っている。これを仮に「れんだいこ矛盾式弁証法」と命名する。  

 それによれば、事象は全て、即自的有から対自を経て向自的有に向けて定向的に発展する。ヘーゲルが苦心惨憺した「無から有への転換」は採らない。この理論は、西欧的ユダヤ−キリスト教神学の要請するものであり、我々は無視して良かろう。即自的有から向自的有への移行は、量から質への無限連鎖過程を辿る。矛盾のとある一点でそれまでの質から出藍(アウヘーベン、止揚、揚棄)し新質へ向う。自然科学の場合には自然変異により、社会科学の場合には革命によって。その新質段階で又新たな即自から向自への定向的階梯を上り始め転変を繰り返す。こうして事象は全て螺旋(らせん)的に発展する。

 但し、衰亡する場合も有る。この定向的発展階梯が合理的必然性を内包し得なくなった時に桎梏と成る。腐敗が始まり衰退過程に陥る。その際には、路線替えとしての革命が要求される。これに首尾よく成功すれば新たな発展段階に入る。失敗すれば停滞と腐敗の衰退過程に陥り続ける。万事がこのような条件の中で生成転化しており、その変化の中にあるとするのが本来の矛盾式弁証法であり、この内に貫通する合理的摂理的筋道が法則と云えるものであり、人類史も例外ではないとするのが革命的弁証法の極意ではなかろうか。 筆者は、ヘーゲル−マルクスが初期的に発見した矛盾式弁証法の学問的能力を継承し、戦後学生運動興亡史をこの観点から説いてみようと思う。どこまで為し得るかが難しいが、忽ちは試論として提供する。





(私論.私見)