4 | マルクス主義の唯物論性、弁証法性 |
(最新見直し2006.10.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、マルクス主義の唯物論性、弁証法性を確認しておく。 |
【5、マルクス主義の唯物論性】
マルクス主義は、唯物論の立場に立った。先ず、哲学上の根本問題である事象の存在について、客観的存在を唯物論的に認める態度を決定した。 |
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人類の他の生物とは画然と区別される特徴として、脳髄の発達が認められる。学術上ホモ・サピエンスと云われる我々が高等動物と云われる所以がここにある。人類はこの脳髄のお陰で最も広義な意味で文明を創ってきた。人は共に生き、あるいは闘い、あるいは助け合ってきた。その過程で、事象をどう観るのか、世界をどう認識するのか、社会をどう構築し変革するのか、あるいは人はどう関係しあって生きるべきを廻って探りあってきた。 なぜなら、こういう認識は脳髄活動の赴くところであるからである。脳髄の発達は、第一次本能的な反射機能を弱めたが、他方で思惟を生み出すことにより判断力機能を高め、それを悦ぶという特徴をもたらした。人はあらゆる実践基準にこの脳髄の思惟活動なしには為し得ないという、人類独特の作法を生み出しており、これがいわば人間の第二次的本能ともなっている。的確な判断、見通し、それらに基づく計画性なしには人は生きていけないという欠くべからざる要請が為されているのがホモ・サピエンスであり、これが他の生物と画する特質となっている、ということが知られねばならない。 そういう訳で、人類史の赴くところ、「的確な判断ないしは見通し」をより良くなす為の認識法が次第に発達してきた。その潮流には二つの流れがあった。この識別を明確に為すのがマルクス主義への入門となる。二つの流れとは、唯物論と観念論であり、人類の思惟活動はこの二流派が相対立して各々の自説を展開し続けてきたところに特徴が認められる。それぞれの陣営はそれぞれの中で学的発展を遂げてきた。ということは、それだけ人類史に息づいてきた観方であるからには、その双方にそれなりの根拠があったということでもあろう。唯物論と観念論を識別する際に、この観点が作法とならなければならない。 この二つの流派は、それ以前のシャーマニズム的あるいは占星術的あるいは神話的認識法及び世界観と闘うという意味においては進歩的役割を果たしていた。シャーマニズム、占星術、神話の発生背景には、古代共同体の氏族、民族の統合あるいはポリス的秩序形成という意味で「正」の時代もあったと思われるが、人類の歩みはやがてそれらの認識法及び世界観を桎梏と感じ始める時期を迎えた。 シャーマニズムの呪術的な世界観は自然に対する畏怖の素朴な反映に特徴があった。例えば、大河の氾濫を自然神の怒りでありとする観点が各地に見られる。が、こうした観点は自然生態に対する過剰な思弁化であり、いつまでもは通用しないであろう。占星術にしてみても今日から見て驚くほど精緻な理論体系を発達させており学ぶに値する知識の宝庫ではあるが、科学的なものと非科学的なものを分かち難く共存させるという神秘性を特徴としており、「学」の継承と発展には不向きな閉鎖的な体系としてある時代より桎梏となってきていた。 神話も同様である。ポリス神話ないし民族神話は興味深い物語では有るが、創造初期に於いては共同体維持の紐帯となり積極的な面もあったと思われるが、後年になるに従い故事来歴の由来も定かでなくなり、絶対遵守を定言する神話的話法はある時代より桎梏となってきていた。 これらの古代学問(自然観、社会観、、世界観、処世法、宗教等々)が、ポリスに台頭してきた王と領主の権力の神聖性を語り始め、御用教学、イデオロギーとなり下がった頃より、反王権派には桎梏となってきていた。かくしてその清算に「学」的に立ち向かったのが「古代ギリシャ哲学」者達であった。当時の社会の改良なり変革なりを志向する者達からすれば、抜け出さねばならない認識法、思考法、世界観であったからであると思われる。 古代ギリシャ哲学史は、当時の知者が、シャーマニズム的占星術的あるいは神話的認識法及び世界観から如何にして脱却しようとしていたのかの論点の宝庫である。そこでは、唯物論と観念論の二大系譜と後述する弁証法と形而上学の二大系譜が綾を織り成していた。唯物論と観念論はまずもってそのように捉えられなければならない。今日的視点から観念論を安易に排斥する作法は学的とは云えない。先行するそれ以前の「学的態度」からの解放を目指した片方のメジャーな考え方であった、という視点でこれを観る必要があるように思われる。 その後の西欧哲学史の流れは、キリスト教教義に包摂され、唯物論と観念論の見解を廻る闘争は影を潜める。というか、観念論がキリスト教教義と和合し、キリスト教教義の真理性、絶対性を証する理論として発展していくことになる。スコラ哲学はその精華である。付言すれば、キリスト教義は、イエス教とユダヤ教義を折衷した新宗教であり、且つユダヤ教教義との格闘を通じて理論を磨いていった史実がある。つまり、キリスト教義も内部的には発展し続けたという観点で観る必要がある。 しかし、漸く中世の停滞社会から抜け出し近代社会への入口に立った頃から、主として科学者兼哲学者達から唯物論的認識が広がっていくことになった。哲学史上、デカルトの「全てを疑え」はその狼煙となった。以降、次第に唯物論的認識の評価が高まり、観念論者達も唯物論的認識が無視できなくなった。観念論者の中から唯物論の見直しの契機につながる様々な見解が出されてくることになった。但し、詳論は省くが、それが哲学史上の根本命題に関係しているという認識ではなかった。そのように自覚的に捉えられ始めたのはマルクス哲学誕生の直前になってである。 カントの功績が顧みられねばならない。偉大な科学者でもあったカントは、当時の自然科学の発展を汲み取り、キリスト教教義とは別の認識法あるいは世界観を模索し、妥協的ではあったが世界を合理的に説明しようと思索した。人間は“物”そのものを把握することはできないと語り、不可知論に陥っていたが、この頃知見される科学的諸事実を読み取ろうとして観念論に科学の衣装を纏いつけようとしたことに功績が認められる。これに啓発されて、その後の哲学史には観念論の立場からでは有るが、幾多の大同小異の“科学的”裏付けを持とうとする観点、理論が登場してくることとなった。カントの哲学上の功績はここに認められるというべきであろう。 時代は封建制から資本制への移行期にさしかかり、自然科学者ないし哲学者達が古代ギリシャ哲学に関心を強めていった。科学史の上で、教会の教義とスコラ哲学が支配的であった封建制社会ではほとんど見るべきものがなかったが、ギリシャ哲学にはデモクリトスの原子論、プトレマイオスの天文学、地理学、ヘロフィロスの生理学等々、唯物論的哲学で自然を把握しようとした実り豊かな“科学”が開化していたからであった。 こうして観ると、早晩唯物論と観念論のどちらが正しいのかと言う決着を見ねばならない時期がやってくることになる。これに果敢に取り組み、ギリシャ哲学史以来の系譜を渉猟しながら、唯物論に軍配を挙げたのがプレ・マルクス期の天才達であった。観念論的思惟活動が「頭で逆立ちしている」ことを指摘し、唯物論的見地に立つべきであるとしたのがフォイエルバッハであった。 エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の中で、マルクス主義形成途上にフォイエルバッハが果たした役割について次のように述べている。
エンゲルスは、「フォイエルバッハ論」の中で、唯物論と観念論の相克について次のように述べている。
ところで、唯物論と観念論の識別と決着をなぜつけねばならなかったのか、それは、事象の認識、判断、対応に当たって、究極基底的なところで認識法の構えが重要であることを知っていたからである。論のうったて=レールが間違っていれば、そこから組み上げた理論が砂上楼閣になり、実践に役に立たないことを洞察していたからである。解釈学なら「実践に役立つかどうか」の識別は不要であるが、後述するようにマルクス主義は「変革の哲学」としての役割を担っており、思惟活動の実践=物質化が促されるという構造となっている。実践に間違い無きよう役立つよう志向する精神に立つ時、この識別がどうしても必要となったということである。 そういう必要があって、唯物論と観念論のどちらが正しいのかに決着が挑まれることになった。以下、唯物論、観念論とはそも何ものなのか、どこが識別されるところなのかについて見て行くことにする。 唯物論、観念論を知ることは決して他人事ではない。「世の中に、人間の思惟とは独立した客観的存在、物質が存在するのか。それらは人間の思惟が作り出したものなのか」と問うことは、馬鹿げているようでそうではない。 いわゆる哲学の発達は、「万物は観念が作り出したものであり、従って観念の洗練こそ第一義的意味を持つ」という観念論を生み出し、こちらの考え方の方が主流となってきていたという史実がある。もっとも、観念論と一口で云ってもそれぞれ中身が異なる流派に分岐しており一様ではない。が、共通した認識法として、まず観念が先にあり、この観念に従って事物・事象・世界が創られているという認識をしている。 それに対し、唯物論は、観念論のそういう認識法は人が頭で立っているかのように逆立ちした論であり、人がまず足で立っているように現実の実際的認識から始めねばならないとした。つまり、物事をあるがままに素直に見ればよいとした、と言い換えても良いと思われる。が、この説明の仕方は分かりやすくする為の例え話であり学問的には問題ある。 これを哲学的言辞で問えば次のようになる。
但し、近代以降今日まで脅威の発達を遂げている科学が未発達な時代にあっては、この当たり前なことが証明し得なかった。観念論の精緻な理論化の流れに対抗できなかったという史実がある。その理由を考えるのに、観念論的学的体系は時の為政者=王権・教権の統治を正当化するのに役立っており、その為に庇護されたからであると思われる。唯物論の方は、自然科学者の必須的観点であるからして維持されてきたが、為政者から見て尊重される必要がなかったことと科学そのものの発達が遅々とした社会にあってはさほど意義を持たなかったからであると思われる。 |
【「マルクス主義的唯物論」とは】 | ||||||
唯物論の正当性は、いくつかの偶然的事例によってではなく、人類の長い、哲学と自然科学の歴史の中で証明されている。封建的制約から解放された資本主義は、巨大な生産力を登場させ、人間と自然との交通をいかなる時代にも比肩なきほどに拡げていった。それは、自然の解明を更に必要なものとし、ベールをはがされ解き明かされた仕組みが応用されて、更に生産力を推し進める結果となっている。 エンゲルスは、「フォイエルバッハ論」の中で次のように述べている。
この観点の基盤から構築される唯物論が、マルクス主義的唯物論である。付言しておけば、「それ自身の関連において把握された諸事実と一致しない観念論的幻想」を退けたのであって、観念力そのものを排斥したのではない。俗流マルクス主義は観念力を無化する傾向にあるが、マルクス主義はそのような認識をしている訳ではない。そういう訳で、宗教者が批判するところの俗物唯物論として云われるところの物ばかり重視して精神の作用を認めないというものでもない、ことは云うまでもない。 レーニンは1908年に執筆した「唯物論と経験批判論」の中で次のように述べている。
当然ながら、機械的唯物論ではない。唯物論を機械的に捉える見方は今日にもあるが、マルクス主義の立場からは「徹底した唯物論の立場を貫くことができなかった」と断を下している。広松渉・氏は、「マルクス主義の地平」の中で次のように批判している。
マルクスとエンゲルスが依拠した唯物論はそれらではない。後述する弁証法と結合することにより従来の唯物論とは比較にならないほど豊かな内容を有した唯物論となっていた。自然科学の分野のみならず、社会科学の分野においても、徹底して、意識的に唯物論の立場に立つという史上例を見ない唯物論的見地を樹立していた。 「社会、すなわち、人間と人間の繋(つなが)り、人間と自然との関連を、徹底して唯物論的観点で把握していくこと、この科学的態度のみが、現実の社会の矛盾を明らかにし、社会主義への展望を打ち立てる大きな磐石になる」と評される見地を生んでいた。 このことを、毛沢東は次のように的確に見なしている。
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【6、マルクス主義の俗流観念論批判について】
マルクス主義の俗流観念論批判の仕方には問題がある。我々は、この汚染と闘わねばならない。 |
再確認しておく。「観念論と唯物論−この二つの表現は、本書でも又、これ以外の何事をも意味しない」とのエンゲルスの指摘は、見過ごされがちであるが留意すべきことである。「観念論と唯物論」の識別にこれ以上の観点を持ち込むことにより、マルクス・エンゲルスの「唯物論」的理解の枠を越えて、フェティシズム的な唯物論観点が横行してきたという史実があるからである。 どういうことかというと、マルクス主義における唯物論と観念論の識別規定は、哲学上の認識論、世界観の問題であって、「これ以外の何事をも意味しない」と理解すべきところ、現実社会での個々の事象分析にあるいは運動指針にあるいは個々の生活設計の場面で、不用意に観念力排斥の作風が横行し過ぎているということである。実際には人間の社会生活全般における観念の役割には極めて高いものがあり、思惟と存在は相互に交通して作用しあっており、この局面での思惟の強力作用を認めない観点は、何らマルクス・エンゲルスの唯物論ではないということである。 マルクス主義における唯物論とは、物質的世界の実在を認め、観念の醸成基盤をここに見出すという認識論であって、この限りにおいて観念論の「逆立ち」を批判している。実際には、実体と観念とは常に交互作用しており、その際観念の能動作用は著しく認められるところである。史上のマルキストの唯物論はこの正確な理解を為さず、フェティシズム的唯物論理解により、観念の強力作用、相対的自律作用の面を軽視してきた。そのことが観点の公式主義を発生させ、いかに思惟の貧困をもたらしてきたのか、左派運動全体に弱脳運動への道を切り開いてきたのか、そろそろ明白にさせておかねばならないのではなかろうか。 以上のことを分かり易く云うと、俗に、環境を変えようとするのが唯物論で、意識とか心構えを変えようとするのが観念論であり、そういう観念論は間違いである式の批判が為されているが、「観念論と唯物論」の識別はそのようなものではないということである。マルクス主義的唯物論は、環境を変えようとするが、意識とか心構えを軽視するものでは決してない。ある課題の解決に処方箋を生み出すとき、意識とか心構えの問題に全てを収斂させ、環境改変運動に向かわない観念重視論者を退けるばかりである。 ということは、宗教政党が教義の赴くままに環境改変運動に乗り出したとすれば、マルクス主義者はそのこと自体を批判することはしない。マルクス主義と教義との相互検証の道、実践的な競り合いの道があるばかりである。近時のマルクス主義者はこのことが分かっていないように思われる。 |
【7、マルクス主義の弁証法性】
マルクス主義は、弁証法を唯物論的見地に結合させた。弁証法は、世界の事象の脳髄への反映の仕方の認識方法論であるが、それは世界がそのようになっているからである。 |
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弁証法という認識法はヘーゲルという偉大な哲学者によって学的に確立された。この功績はヘーゲルの不朽のものである。弁証法という言葉自体は、“問答法”を意味するギリシア語からきており、古代ギリシアにおいて弁証法が始まっていたことが知れる。しかし、その代表的哲学者ヘラクレイトスにしても「万物は流転する」という平板な生成論として述べているに止まり、「この考えは諸現象の全体の一般的性格を正しくとらえてはいるが、全体を構成する個々の事物を十分には説明していません」と云われるところのものである。 ヘーゲルの功績は、中世のキリスト教的世界観即ち神がこの世を支配しており、神が万物を創ったという万古不易の世界観に対して、それを認めるという観念論的立場からではあるが、現実に生成発展している事象をそれとして認識し、その変化の構図を後付ける理論として弁証法的認識論を生み出したことにある。ヘーゲルが闘ったのは、中世的世界観に顕著であった形而上学的思考法であり、形而上学の事物を固定的に捉える手法を非学問的としていた。あるいは二元論的認識法とも闘った。それらは、事物の連関、運動、生成と消滅を観ない思惟方法であり事象解析にそぐわない、つまり役に立たないとして排斥しようとしていた。 19世紀は自然科学の大きな発展がみられた時代であり、自然に対する唯物論的な見方が人々に急速に浸透し始めていた時代であった。たとえば1859年には、ダーウィンの「種の起源」が出版されている。ダーウィンの進化論は、その後、ドイツ・ナチスの優性思想を根拠づけることにもなる「社会ダーウィニズム」などに反動的に発展させられていったのであるが、出版当時のヨーロッパにおいては、それはキリスト教の創造説と正面から対立し、宗教的世界観から人々を解放していくうえで積極的な役割を果たした。 この当時、地動説に続いての三大発見と云われた1・細胞の発見、2・エネルギー転化の法則の発見、3・ダーウィンの進化論等々こうした科学の進歩が津波のように押し寄せてきており、自然では全てが形而上学的にではなく弁証法的に行なわれていることが明らかになってきていた。しかし自然に対する唯物論的理解が大きく進んだその一方、人間の社会や歴史に対しては相変わらず古い観念的で非科学的な考えが支配していた。 ドイツ哲学の重鎮カントは、こうした自然科学上の発見を哲学的思惟の中に取り入れようと意欲した大哲学者であったが、いかんせん当時の哲学の枠組みから抜け出せていなかった。次に登場したヘーゲルは、カントが影響を受けていた形而上学に反論する形で弁証法を「現実の世界のあらゆる運動、あらゆる生命、あらゆる活動の原理を汲み出す思考法」として位置付けた。ここにヘーゲルの哲学史上の功績がある。 ヘーゲルによるこの観点の代表的名言として、「現実的なものは合理的であり、合理的なものは全て現実的である」、「自由とは必然性の洞察なり」が知られている。この命題は、一方では現存するものの全てを聖化しており、その限りで体制派権力者を満足させた。だが他方で、史上立ち現れた政変をも肯定する危険な警句にもなっていた。その意味で、この命題をどう解するのか、守旧的に読み取るのか変革的に読み取るのかを廻って右派から左派までを包摂すると云う深遠な名言足りえている。 ヘーゲル弁証法は次のように云う。
このヘーゲル的思惟方法を継承したのがマルクスである。マルクスは、前述したフォイエルバッハを乗り越える形でヘーゲル的思惟方法と格闘していくことになった。「このフォイエルバッハを越えてフォイエルバッハの立場を一層発展させるという仕事は、1845年マルクスによって『神聖家族』のうちで始められたのである」(「空想より科学へ」)とある。マルクスはこれをどのように為したか。 唯物論的見地に、このヘーゲル的な弁証法思考を結合させることにより新地平を創出した。ヘーゲルもまた纏っていた観念論的世界観即ち彼の思想では世界は絶対者=神の自己産出の過程とみなされ、理念の外化したものが万物であるというように全てのものが逆立ちさせられていて、現実の世界の連関をイデー的観念からあとづけ様としていたのに対し、これと訣別し唯物弁証法を生み出した。これによって唯物論が生き生きと世界の諸事象を認識できるようになった。 いわば、事物と理念の関係において、ヘーゲル弁証法は、弁証法的理念及び思考法則を事物に押し付けようとしていた。マルクス弁証法は、事物そのものの中に弁証法的動態を見、そこから思考法則として弁証法を抽出しようとした。マルクス自身このことを「資本論第二巻」の中で次のように述べている。
つまり、「逆立ちしていたへ−ゲルの弁証法が再度逆立ちさせられ、足で立たせられることになった」(「フォイエルバッハ論」)と云われているところのものである。これがマルクスの不朽の功績である。このことをエンゲルスは、「反デューリング論」(1878年)の中で、「マルクスと私は弁証法を意識的にドイツ観念論哲学から救い出し、自然及び歴史に関する唯物論的な見方に採用した恐らく唯一の者であった」と追認している。 この過程は、「左翼運動」において次のように纏められている。
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ヘーゲルの三段階弁証法。正(these)、反(anti・these)、合(syn・these) |
【エンゲルスによる弁証法の発展とエンゲルス的認識論】 | |||||||
エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の中で次のように述べている。ヘーゲルのこの名言を如何に左派的に読み取ったかのこれも名言であろう。
エンゲルスは1875年から76年に執筆した「自然弁証法・序論」の中で次のように述べている。
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【レーニンによる弁証法の発展とレーニン主義的認識論】 | ||||
マルクス、エンゲルスという両巨頭の思想を継承したレーニンは、弁証法を「自然、人間社会、思惟の一般的運動=発展法則に関する科学」と特徴づけた。思惟の法則としての弁証法は何よりも客観的世界の運動法則の思考への反映であり、本質的合理的な形態では唯物論の立場と一致し、唯物論的弁証法として真に科学的合理的認識法として確立した。それを歴史に適用したのが史的唯物論であり、その社会法則から生み出されたのが、科学としての社会主義思想であった。 では、一般的運動の発展法則としての弁証法の内容とはどのようなものか、観ていくことにする。レーニンは、次のように述べている。
さらに、発展としての弁証法の特質について次のように述べている。
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【8、マルクス主義的唯物弁証法の基本法則】について | |||||||||||||||||||||
「れんだいこ式マルクス主義的唯物弁証法の基本法則」を整理しておくと次のように云える。
「れんだいこ式マルクス主義的唯物弁証法の基本法則」を使って事象を解析すれば次のようになる。仮に学生運動の解析の際に応用する。
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(私論.私見)