マルクス主義の人間観の社会性、実践重視性、イデオロギー闘争

 (最新見直し2006.10.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 


【11マルクス主義の人間観の社会性】
 マルクス主義的人間観は、従来の平面的なアプローチに変革をもたらした。人間とは何かに対して、極めてユニークな新観点を打ち出し、それは史上初の成果であった。
 マルクスは、「聖家族」の中で次のように述べている。「人間的なるもの」を抽象的に論じる従来の人間観は間違いで、人がそもそも社会性の中に在るものとして捉えなければならないのではないのか、とする視点を打ち出した。

 次のように述べている。
 「この世界で真に人間的なものを経験し、又自己を真に人間として経験する習慣を持つようになる」、「人間がその環境によって形成されるものであるならば、人はその環境を人間的に形成しなければならない。人間が本性から社会的なものであるならば、人間はその真の本性をその社会で始めて展開するのであり、人はその本性の力を、個々の個人の力によってではなく、その社会の力によって測らなければならない」。

 こうした見解が、「フォイエルバッハ論」の中で次のように定式化されている。
 「フォイエルバッハは宗教の本質を人間の本質に解消する。しかし人間の本質は、個々の個人に内在する抽象物ではない、人間の本質とは、現実には、社会的諸関係の総和である」。

 つまり、マルクス・エンゲルスは、哲学的な人間観の考察に当たり、人間が本質的に「社会的な共同存在」であり、更に云えば「社会的」とは「現実的な生活過程そのもの」を意味しており、この観点に立って更に「歴史的な流れの内で実存している」限りこれに即応してその流れの中で把握されねばならない、という人間観の新地平を生み出した。これを「共同主観」と捉えるよりは、まさに「歴史的社会的な動態的存在」としてそのままに了解すべきだろう。

 こうなると、人間観の考察に当たって、旧来のような「神との対話」手法や「内観法」は意味の無いことになった。むしろ、社会的諸関係における能力の解放を通じてよりよく人間が観えてくる以上、社会的諸関係の変革志向こそが不即不離的に新人間観の探索でもある、ということになったのではあるまいか。

【12、マルクス主義の実践性】
 マルクス主義的哲学観は、従来の哲学観に変革をもたらした。哲学とは何かに対して、史上初の極めてユニークな新観点を打ち出し、これに成功した。
 マルクスの哲学テーゼは、 「哲学者達はこれまで世界を様々に解釈したに過ぎない。大切なことはしかし世界を変革する事である」(マルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」より)に極論されている。これによれば、もはや哲学者は、世界を静態的に措定した上での思弁的な把握姿勢が却下されている。「実践的唯物論者、すなわち、共産主義者にとって問題は、現存する世界を覆し、既成の事態と実践的に取り組んで、これを変えることにある」(ドイツ・イデオロギー)ということになった。

 これは、世界が動態的である以上、静止した観点での認識そのものが無意味ということを意味しているように思われる。動態的な世界にわが身を措いて、その変革の実践者としての世界から見えてきた認識を元手に世界を把握すべしということを示唆しているのではなかろうか。しかし、これだけで事が解決するのではない。
「実践無き理論は空虚であると同時に、理論なき実践は盲目である」(レーニン)とあるように、状況を的確に認識して変革の動向を理論化する能力もまた鋭く問われているように思われる。

 「解釈から実践」へにはもう一つ深い意味があるように思える。一体、人間内省、社会観、自然観、世界観を思弁的に為すのみでこれにとどまるならば、凡そ「知の持つ本来の意味」を弁えていないことになる、というマルクスなりの指摘では無かろうか。そういう知的態度をスコラ主義あるいはブルジョワ学として退け、人間、社会、自然、宇宙に対し何度も実践的に働きかけ、より合理的な認識を獲得し実践に生かし更に実践で検証し直すという交互作用を重視せよ、学問というのはそういう実践的意味を有していることを知りそのような学問を獲得せよ、という指摘なのではあるまいか。

 2004.6.11日 れんだいこ拝

【13、マルクス主義のイデオロギー闘争】
 マルクス主義的哲学観は、体制変革の擁護理論となった。対極的に巷間に信奉されている思想、信条、情緒が如何に体制内化されているか暴かずには済まなくなった。これをイデオロギー闘争と云う。マルクス主義はこれを果敢に行うところに値打ちがある。
 「共産党宣言」にはこう書かれている。「法律、道徳、宗教は、プロレタリアにとっては、すべてブルジョワ的偏見であって、それらすべての背後にはブルジョワ的利益がかくされている」(「共産党宣言」岩波文庫、54頁)。仮にこれを「イデオロギー」と称するとすれば、世には「支配階級の利害を正当化し、不当な搾取を隠蔽する偽りの観念」としての「支配階級に好都合なイデオロギー」が氾濫していることになる。

 たとえば、キリスト教が説く愛の教え。これは「敵を赦し、迫害する者のために祈れ」と説く。この場合、問題は次のことにある。この博愛主義が個人の生活規律を要請するレベルでは理解し得るが、マルクスが喝破した階級闘争論的観点からは、階級協調主義を説くまやかしということになる。プロレタリアはブルジョワの搾取に対して抗議していくべきであり、博愛主義の限界を知るべきである。

 あるいは、「自分がして欲しいと思うことを、他人にもしてあげなさい」なども同様である。個人の生活規律を要請するレベルでは理解し得るが、マルクスが喝破した階級闘争論的観点からは、階級的対立を曖昧にさせ、プロレタリアの階級的利益を放棄させる偽善説教と言うことになる。
 
 また、「人はパンのみにて生きるにあらず」 も同様である。イエスのこの言葉が実際にどのような意味で云われたのかは別にして、この教えの意味するところは、現実の悲惨な生活の甘受に結びつく。

 キリスト教の罪の赦しの教えも同様である。俗に、階級闘争社会の現実を真の解決にならない方向で解消し様とさせており、ナンセンスということになる。
「天国」の教えも同様である。彼岸主義は権力者に都合の良い理論であって、現実社会においてはひたすら耐え忍べ論に転化させられる。
 
 こうした「宗教」がもっているイデオロギーとしての機能は、宗教以外にも国家・民族意識、道徳・倫理、法などにも立ち現われている。現代のように宗教が衰退し、信憑性を失った時代には、小説やスポーツやコマーシャルのコピーなどあらゆるものが資本主義体制をささえるイデオロギーともなっている。
 
 宗教の果たしているこうしたイデオロギーとしての機能は、法や国家や道徳や芸術など、ありとあらゆる新しいものに姿を変えて受けつがれていくからして、イデオロギーに対する批判を敢行せねばならない。マルクスはそのように示唆した。(参考文献「マルクス」他)

【14、マルクス主義の歴史性】
 マルクス主義的哲学観は、完成されたものではない。当然の時代の制約を受けており、まだまだ吟味されあるいは創造的に発展されねばならないものである。
 広松渉氏は、著書「マルクス主義の地平」において、「これら二、三の問題を問い直してみるまでもなく、マルクス主義の創始者達は、いわば『覚書』の形でしか論点を措定し得ていない。マルクス・エンゲルスの立言を教条化し、拳々服庸を専らとする一部の風潮に抗して、我々は敢えてこう云わねばならない」と云う。更に「哲学的世界観の次元(この意味での思想史的な次元)では、マルクス主義と『空想的社会主義』との間に次元の差がなくなることである。すなわち、マルクス主義は、社会思想の点では格段に偉大であるにしても、哲学的世界観の次元では近世ブルジョアイデオロギーの地平―即ち人間主義と科学主義のwechselspielの地平―を越えておらず、『今日における乗り越え不可能な哲学』ではない、と判定さるべきことになってしまう」とも云い為している。

 氏の著書一般に云える事だが、わざわざ表現が難しいので学ぶに至難では有るが、要するに、一見精緻に形成されているマルクス主義哲学では有るが、まだまだ吟味を要することが多いのも事実である、というようなことが云いたいのだろうと思われる。それは、マルクス・エンゲルスの望むところの学的姿勢ではなかろうか。問題は、マルクス主義が切り開いたこの地平からどのように学的発展させるのかにあり、その道は変質でも無く後退でも無いまさに止揚されるべき学的遺産であるということではなかろうか。

【15、「足で立つ学問」考】
 マルクス主義の始発は「足で立とうとする学問」に特質がある。それは、世上の学問に対する痛打となっている。しかし、この理論で足腰を鍛えた訳ではない。それはこれからだ。
 「足で立つ学問」の意味とは、それまでの学問が「人があたかも頭で立っているかのような倒錯理論系に拠っている」との認識を前提にしている。マルクス主義においては専ら、ヘーゲルの哲学に対して被せられてきたが、従前の理解は正しくなかろう。ヘーゲルもまたそのように認識したが故に、学的体系の中に弁証法を持ち込み呻吟しつつ事象の精確な分析を志向した。マルクスのヘーゲル批判はその功績を認めつつ、そのヘーゲルが超えられなかった観念論的枠組みとしての学的体系をダメ押し的に破壊したことにある、のではなかろうか。マルクスはこの時、新しい自前の学問的手法を確立していた故に破壊を為す事ができた。この観点がヘーゲル学問に対しても、マルクス主義に対しても我々が理解すべき態度となるべきでは無かろうか。

 してみれば、マルクス主義の精髄とは、「足で立つ学問」の全分野における構築にこそあると云うべきではなかろうか。実践と掛け合いで意味を持つにしても、学的探求は非実践的と云い為されるよりはそれ自身実践でもあるとして認識すべきなのではなかろうか。なぜこの観点が肝要なのか。マルクス主義を誹謗する近頃の学問が再び、「人が頭で立っている」かのような現実離れしたところで蠢(うごめ)いているような気がするからである。主として文系に対していいたいが、いくら接ぎ木していっても小難しくなるだけで、大衆を学問から遠ざけるばかりで、それでいて専門家が何人寄せ集まっても小田原評定しか為しえない。それは人類が獲得した観点からの後退現象の為せる技であろう。

 もうひとつ。とはいえマルクス主義理論の功績は従来の学問の虚構を撃ち、「人が足で立っていることを踏まえての学問の再構築」という観点の打ったてに意義があり、だがしかしこの観点により実際に足腰を鍛えるところまでは行っていない。それはその後の学徒に課せられた課題ではなかろうか。しかるにこれが首尾よく出来ているとは思わない。俗流マルクス主義派が、かく意義を持つマルクス主義を再び「人が頭で立っているかのような学問」にしてしまった観がある。この辺りに対する厳しい認識から再出発せねばならないのではなかろうか。

 2002.11.4日 れんだいこ拝

【16、「理論と実践の弁証法的関係」考】
 朝田善之助氏は、「差別と闘いつづけて」の中で次のように述べている。生涯を部落解放運動の只中に身を置き闘い抜いた経歴故に、自ずから含蓄がある。
 「一般的に云って、社会運動と云うものは、理論が無くてはやはり生活を掴(つか)むことができないし、運動を正確に盛り上げて行く事はなおさら出来ない。経験と理論が一致しないと、正しい運動を発展させることはできない」。
 「一般的に云って、大衆団体の指導社は自己の社会的立場と責任を自覚する時、はじめて理論と実践が要求され統一されるのである。しかし、本を読むだけではそれを理解したと主観的に考えていても、それは単なる物知りになっているに過ぎない。理論は実践に裏打ちされて初めて完成され、自己のものとなる。要は、自己の責任だけが自己を育て、自己を発展させ、一人前の指導者になることが出来るのである。責任が伴わないと、社会運動に入っても少しも発展しない。『その他大勢』でついて行ったのではダメだ。やはり能動的に自己の責任を先行させなければならない」。

 「理論と実践」の関係解明は重要である。これは何もマルクス主義に関してだけでなく、世情一般に共通するものである。これを理論から見れば次のように云える。理論が幾ら立派でも宝の持ち腐れにならないようにしなければならない。つまり、実践有っての立派な理論であるということを弁えればよい。これを実践から見れば次のように云える。日共系の者は、理論が革命的でないビラをいくら革命的に個別配布しても何の役にも立たないということを弁えればよい。新左翼系の者は、理論が革命的でない街頭デモをいくら革命的に貫徹してもさほど役に立たないということを弁えればよい。要するに、理論と実践は、相乗馬乗り理関にあると思えば良い。

 次に、その担い手問題を考えねばならない。「私考える人、あなた行う人」と云う風に理論と実践はその担い手を分離すべきであろうか。これは指導者論に関係してくるのでそちらで考察することにする。

 2006.10.28日 れんだいこ拝

【補足、「毛沢東『正しい思想はどこからくるのか』考」】
 補足として「毛沢東「正しい思想はどこからくるのか」(1963.5月)」を検討する。次のように前書きされている。
 これは,「当面の農村工作におけるいくつかの問題についての中国共産党中央の決定」(草案)の一部である。この決定の草案は、毛沢東同志の主宰のもとに起草され、この部分は毛沢東同志が執筆した。

 毛沢東は、次のように述べている。
 (既成市井訳)

 人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。人間の正しい思想は、ただ社会的実践のなかからのみ生まれてくるのであり、ただ社会の生産闘争、階級闘争、科学実験という三つの実践のなかからのみ生まれてくるのである。

 人間の社会的存在は,人間の思想を決定する。そして,先進的階級を代表する正しい思想は,ひとたび大衆に把握されると,社会を改造し,世界を改造する物質の力に変わる。人間は社会的実践のなかでさまざまな闘争をすすめて,豊富な経験をもつようになるが,それには成功したものもあれば,失敗したものもある。

 客観的外界の無数の現象は,人間の目,耳,鼻,舌,身体などの五官を通じて,自分の頭脳に反映してくるが,はじめは感性的認識である。 このような感性的認識の材料がたくさん蓄積されると,飛躍がおこり,理性的認識に変わるのであって,これが思想である。

 これはひとつの認識過程である。これは全認識過程の第一の段階,すなわち客観的物質から主観的精神への段階,存在から思想への段階である。このときの精神,思想(理論,政策,計画,方法をふくむ)が客観的外界の法則を正しく反映しているかどうかは,まだ証明されてはおらず,正しいかどうかはまだ確定することができない。

 そのあと,さらに認識過程の第二の段階,すなわち精神から物質への段階,思想から存在への段階がある。つまり,第一段階でえた認識を社会的実践のなかにもちこみ,それらの理論,政策,計画,方法などが予想どおりの成功をおさめることができるかどうかを見るのである。

 一般的にいえば,成功したものが正しく,失敗したものはまちがっており,人類の自然界にたいする闘争ではとくにそうである。社会における闘争では,先進的階級を代表する勢力が,ときには一部の失敗をなめることもあるが,これは思想が正しくないからではなく,闘争における力関係の面で,先進的勢力の方がまだしばらくのあいだ反動勢力の方におよばないため,一時失敗するのである。だが,そのあといつかはかならず成功するだろう。

 人間の認識は実践でためされてふたたび飛躍をとげる。こんどの飛躍は前の飛躍にくらべていっそう大きな意義をもっている。なぜなら,認識の最初の飛躍,すなわち,客観的外界を反映する過程でえられた思想,理論,政策,計画,方法などがはたして正しかったのか,まちがっていたのかを証明することができるのは,こんどの飛躍だけであって,これ以外に真理を検証する方法はないからである。

 そして,プロレタリア階級が世界を認識する目的は,ただ世界を改造するためであって,これ以外に目的はない。正しい認識は,しばしば物質から精神へ,精神から物質へ,すなわち実践から認識へ,認識から実践へという何回もの反復によって,はじめて完成されるのである。これがマルクス主義の認識論であり,弁証法的唯物論の認識論である。

 現在,われわれの同志のなかには,まだこの認識論の道理がわからないものがたくさんいる。こうした人は,その思想,意見,政策,方法,計画,結論,よどみなく,つきることのない演説,長たらしい文章がどこからきたのかとたずねられると,これはおかしな問題だとおもい,答えることができない。また,物質が精神に変わり,精神が物質に変わるという,日常生活のなかにつねに見られる飛躍の現象も,理解できないようにおもう。

 したがって,われわれの同志たちが,思想をただし,調査研究をうまくやり,経験をしめくくり,困難にうちかち,あやまりをすくなくし,仕事をりっぱにやり,奮闘努力して,社会主義の偉大な強国を建設するとともに,抑圧と搾取をうけている世界の広範な人民をたすけ,われわれがになうべき国際主義の偉大な責務をはたすことができるようにするためには,弁証法的唯物論の認識論についての教育をおこなわなければならない。
Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評209 れんだいこ 2006/09/06
 【補足、「毛沢東『人間の正しい思想はどこからくるのか』考」】

 補足として「毛沢東「人間の正しい思想はどこからくるのか」(1963.5月)」を検討する。次のように前書きされている。
 これは,「当面の農村工作におけるいくつかの問題についての中国共産党中央の決定」(草案)の一部である。この決定の草案は、毛沢東同志の主宰のもとに起草され、この部分は毛沢東同志が執筆した。

 毛沢東は、次のように述べている。(れんだいこ訳)
 人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。人間の正しい思想は、ただ社会的実践のなかから、そこからのみ生まれてくる。三つの社会的実践、即ち生産闘争、階級闘争、科学実験の中からのみ生まれてくるのである。人間の社会的存在が彼の思想を決定している。ひとたび、先進的階級を代表する正しい思想が大衆に把握されると、社会を改造し、世界を改造する物質力に変わる。

 人間は社会的実践のなかでさまざまな闘争をすすめて、豊富な経験をもつようになるが、それには成功したものもあれば、失敗したものもある。客観的外界の無数の現象は、人間の目、耳、鼻、舌という五感覚器官通じて頭脳に反映している。初めは、知識は感性知覚的である。このような感性知覚の材料がたくさん蓄積されると、飛躍がおこり、思想を生む。これが認識過程である。これは全認識過程の第一の段階であり、客観的事象から主観的意識へ導かれ、存在から思想へと至る段階である。このときの意識又は思想(理論、政策、計画、方法を含む)が客観的外界の諸法則を正しく反映しているかどうかは、この段階ではまだ証明されてはおらず、正しいかどうかはまだ確定することができない。

 次に、認識過程の第二の段階となる。即ち意識が事象へとさし戻り、思想が存在へとさし戻る段階である。つまり、第一段階で得た認識を社会的実践のなかにもちこみ、それらの理論、政策、計画、方法などが予想どおりの成功をおさめることができるかどうかを見るのである。一般的にいえば、成功したものが正しく、失敗したものはまちがっている。このことは、人類の自然界に対する闘争では特にそうである。

 社会における闘争では、先進的階級を代表する勢力が、ときには一部の失敗をなめることもあるが、これは思想が正しくないからではなく、闘争渦中の力関係の面で、先進的勢力の力がその時点では反動勢力の方に及ばない故に一時失敗するのである。だが、そのあと遅かれ早かれ必ず勝利する定めにある。

 人間の認識は実践で試されて次の飛躍を遂げる。こんどの飛躍は前の飛躍に比べて一層大きな意義をもっている。なぜなら、客観的外界を反映する過程でえられた思想、理論、政策、計画、方法の認識の最初の飛躍段階のものが果して正しかったのか、間違っていたのかを証明することができるのは、今度の飛躍だけであるから。他には真理を証明する方法はない。プロレタリア階級が世界を知る目的は、世界を改造するためであって、これ以外に目的はない。

 正しい認識は、しばしば事象から意識へ、意識から事象へ、即ち実践から認識、次に実践へと差し戻される何回もの反復によってはじめて到達されることができるのである。これがマルクス主義の認識論であり、弁証法的唯物論的認識論である。我々の同志のなかには、この認識論をまだ理解していない者が大勢いる。こうした人は、その思想、意見、政策、方法、計画、結論、饒舌、長たらしい文章の原因を尋ねられた時、何となく変だと思っても答えることができない。そういう人たちは、事象が意識に変わり、意識が事象に変わるという、日常生活のなかに常に見られる飛躍の現象も理解していないのではなかろうか。

 従って、我々の同志たちを、弁証法的唯物論的認識論で教育せねばならない。そうすることで、思想をただし、調査研究をうまくやり、経験から学び、困難を克服し、誤りを少なくし、仕事をりっぱにやり、奮闘努力しえるようになる。よって、中国に社会主義の偉大な強国を建設せしめ、世界中で抑圧と搾取をうけている広範な人民をたすけ、偉大な国際主義者的責務をはたすことができるようになる。

 「れんだいこ試論・哲学的認識論としての唯物弁証法」
 (marxismco/marxism_genriron_philosophy.htm)

 れんだいこ和訳集の中に取り入れました。既成訳にそれほど問題があるのではないのですが、れんだいこ訳の方が分かり易いという気がします。

 宮顕ー不破式日共理論により毛沢東の史的意義が落とし込められ、その評価が定着しておりますが、れんだいこは無茶だと考えております。曲がりなりにも、毛沢東は建国革命を成功させた指導者であり、そういう経験を持たない者が悪し様に云うのは不見識と考えております。

 建国革命期までの毛沢東は、異端粛清等々に於いての否定面はありますが、全体的にはやはり名指導者だったと考えております。但し、建国後の諸施策はほとんど失敗し通しだった。その理由については別サイトで考察をせねばならないと思う。

 毛沢東は、この「正しい思想はどこからくるのか」小論で、いわば「マルクス主義の真理論とはどういうものか」について言及しており、れんだいこは、それなりに値打ちがあると考えます。こういう風に説き明かせない自称マルクス主義者が、毛沢東の価値を落としこめることに汲々として、それが自分のマルクス主義者の証とでもしている倒錯を如何せんか。

 それにしても時代が変わった、変わり過ぎた。そういう思いが深しの今日この頃ではある。

 2006.9.6日 れんだいこ拝

【れんだいこ逐条和訳・毛沢東「正しい思想はどこからくるのか」(1963.5月)】
 WHERE DO CORRECT IDEAS COME FROM? MaoTse-tungMay 1963
 これは,「当面の農村工作におけるいくつかの問題についての中国共産党中央の決定」(草案)の一部である。この決定の草案は、毛沢東同志の主宰のもとに起草され、この部分は毛沢東同志が執筆した。
 This passage is from the "Draft Decision of the Central Committee of the Chinese Communist Party on Certain Problems in Our Present Rural Work", which was drawn up under the direction of Comrade Mao Tse tung.
 The passage was written by Comrade Mao Tse-tung himself.
 人間の正しい思想はどこからくるのか。天からふってくるのか。そうではない。もともと自分の頭のなかにあるのか。そうではない。
 Where do correct ideas come from? Do they drop from the skies? No. Are they innate in the mind? No.
 人間の正しい思想は、ただ社会的実践のなかから、そこからのみ生まれてくる。三つの社会的実践、即ち生産闘争、階級闘争、科学実験の中からのみ生まれてくるのである。
  They come from social practice, and from it alone; they come from three kinds of social practice, the struggle for production, the class struggle and scientific experiment.

 人間の社会的存在が彼の思想を決定している。
 ひとたび、先進的階級を代表する正しい思想が大衆に把握されると、社会を改造し、世界を改造する物質力に変わる。

 It is man's social being that determines his thinking.
 Once the correct ideas characteristic of the advanced class are grasped by the masses, these ideas turn into a material force which changes society and changes the world.
 人間は社会的実践のなかでさまざまな闘争をすすめて、豊富な経験をもつようになるが、それには成功したものもあれば、失敗したものもある。
 In their social practice, men engage in various kinds of struggle and gain rich experience, both from their successes and from their failures.
 客観的外界の無数の現象は、人間の目、耳、鼻、舌という五感覚器官通じて頭脳に反映している。
 Countless phenomena of the objective external world are reflected in a man's brain through his five sense organs-the organs of sight, hearing, smell, taste and touch.
 初めは、知識は感性知覚的である。このような感性知覚の材料がたくさん蓄積されると、飛躍がおこり、思想を生む。
 At first, knowledge is perceptual. The leap to conceptual knowledge, i.e., to ideas, occurs when sufficient perceptual knowledge is accumulated.
 これが認識過程である。
 これは全認識過程の第一の段階であり、客観的事象から主観的意識へ導かれ、存在から思想へと至る段階である。
 This is one process in cognition.
 It is the first stage in the whole process of cognition, the stage leading from objective matter to subjective consciousness from existence to ideas.
 このときの意識又は思想(理論、政策、計画、方法を含む)が客観的外界の諸法則を正しく反映しているかどうかは、この段階ではまだ証明されてはおらず、正しいかどうかはまだ確定することができない。
 Whether or not one's consciousness or ideas (including theories, policies, plans or measures) do correctly reflect the laws of the objective external world is not yet proved at this stage, in which it is not yet possible to ascertain whether they are correct or not.
 次に、認識過程の第二の段階となる。即ち意識が事象へとさし戻り、思想が存在へとさし戻る段階である。つまり、第一段階で得た知識を社会的実践のなかにもちこみ、それらの理論、政策、計画、方法などが予想どおりの成功をおさめることができるかどうかを見るのである。
 Then comes the second stage in the process of cognition, the stage leading from consciousness back to matter, from ideas back to existence, in which the knowledge gained in the first stage is applied in social practice to ascertain whether the theories, policies, plans or measures meet with the anticipated success.
 一般的にいえば、成功したものが正しく、失敗したものはまちがっている。このことは、人類の自然界に対する闘争では特にそうである。
 Generally speaking, those that succeed are correct and those that fail are incorrect, and this is especially true of man's struggle with nature.

 社会における闘争では、先進的階級を代表する勢力が、ときには一部の失敗をなめることもあるが、これは思想が正しくないからではなく、闘争渦中の力関係の面で、先進的勢力の力がその時点では反動勢力の方に及ばない故に一時失敗するのである。だが、そのあと遅かれ早かれ必ず勝利する定めにある。

 In social struggle, the forces representing the advanced class sometimes suffer defeat not because their ideas are incorrect but because, in the balance of forces engaged in struggle, they are not as powerful for the time being as the forces of reaction; they are therefore temporarily defeated, but they are bound to triumph sooner or later.
 人間の認識は実践で試されて次の飛躍を遂げる。
 こんどの飛躍は前の飛躍に比べて一層大きな意義をもっている。
  Man's knowledge makes another lean through the test of practice.
 This leap is more important than the previous one.
 なぜなら、客観的外界を反映する過程でえられた思想、理論、政策、計画、方法の認識の最初の飛躍段階のものが果して正しかったのか、間違っていたのかを証明することができるのは、今度の飛躍だけであるから。他には真理を証明する方法はない。
 For it is this leap alone that can prove the correctness or incorrectness of the first leap in cognition, i.e., of the ideas, theories, policies, plans or measures formulated in the course of reflecting the objective external world.

 There is no other way of testing truth.
 プロレタリア階級が世界を知る目的は、世界を改造するためであって、これ以外に目的はない。
 Furthermore, the one and only purpose of the proletariat in knowing the world is to change it.
 正しい認識は、しばしば事象から意識へ、意識から事象へ、即ち実践から知識、次に実践へと差し戻される何回もの反復によってはじめて到達されることができるのである。
 Often, correct knowledge can be arrived at only after many repetitions of the process leading from matter to consciousness and then back to matter, that is, leading from practice to knowledge and then back to practice.

 これがマルクス主義の認識論であり、弁証法的唯物論的認識論である。

 Such is the Marxist theory of knowledge, the dialectical materialist theory of knowledge.
 我々の同志のなかには、この認識論をまだ理解していない者が大勢いる。
 Among our comrades there are many who do not yet understand this theory of knowledge.
 こうした人は、その思想、意見、政策、方法、計画、結論、饒舌、長たらしい文章の原因を尋ねられた時、何となく変だと思っても答えることができない。
 When asked the sources of their ideas, opinions, policies, methods, plans and conclusions, eloquent speeches and long articles they consider the questions strange and cannot answer it.
 そういう人たちは、事象が意識に変わり、意識が事象に変わるという、日常生活のなかに常に見られる飛躍の現象も、理解していないのではなかろうか。
 Nor do they comprehend that matter, can be transformed into consciousness and consciousness into matter, although such leaps are phenomena of everyday life.

 従って、我々の同志たちを、弁証法的唯物論的認識論で教育せねばならない。そうすることで、思想をただし、調査研究をうまくやり、経験から学び、困難を克服し、誤りを少なくし、仕事をりっぱにやり、奮闘努力しえるようになる。よって、中国に社会主義の偉大な強国を建設せしめ、世界中で抑圧と搾取をうけている広範な人民をたすけ、偉大な国際主義者的責務をはたすことができるようになる。

 It is therefore necessary to educate our comrades in the dialectical materialist theory of knowledge, so that they can orientate their thinking correctly, become good at investigation and study and at summing up experience, overcome difficulties, commit fewer mistakes, do their work better, and struggle hard so as to build China into a great and powerful socialist country and help the broad masses of the oppressed and exploited throughout the world in fulfillment of our great internationalist duty.




(私論.私見)