6 | マルクス主義の人間観の社会性、実践重視性、イデオロギー闘争 |
(最新見直し2006.10.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
【11マルクス主義の人間観の社会性】
マルクス主義的人間観は、従来の平面的なアプローチに変革をもたらした。人間とは何かに対して、極めてユニークな新観点を打ち出し、それは史上初の成果であった。 |
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マルクスは、「聖家族」の中で次のように述べている。「人間的なるもの」を抽象的に論じる従来の人間観は間違いで、人がそもそも社会性の中に在るものとして捉えなければならないのではないのか、とする視点を打ち出した。 次のように述べている。
こうした見解が、「フォイエルバッハ論」の中で次のように定式化されている。
つまり、マルクス・エンゲルスは、哲学的な人間観の考察に当たり、人間が本質的に「社会的な共同存在」であり、更に云えば「社会的」とは「現実的な生活過程そのもの」を意味しており、この観点に立って更に「歴史的な流れの内で実存している」限りこれに即応してその流れの中で把握されねばならない、という人間観の新地平を生み出した。これを「共同主観」と捉えるよりは、まさに「歴史的社会的な動態的存在」としてそのままに了解すべきだろう。 こうなると、人間観の考察に当たって、旧来のような「神との対話」手法や「内観法」は意味の無いことになった。むしろ、社会的諸関係における能力の解放を通じてよりよく人間が観えてくる以上、社会的諸関係の変革志向こそが不即不離的に新人間観の探索でもある、ということになったのではあるまいか。 |
【12、マルクス主義の実践性】
マルクス主義的哲学観は、従来の哲学観に変革をもたらした。哲学とは何かに対して、史上初の極めてユニークな新観点を打ち出し、これに成功した。 |
マルクスの哲学テーゼは、 「哲学者達はこれまで世界を様々に解釈したに過ぎない。大切なことはしかし世界を変革する事である」(マルクスの「フォイエルバッハ・テーゼ」より)に極論されている。これによれば、もはや哲学者は、世界を静態的に措定した上での思弁的な把握姿勢が却下されている。「実践的唯物論者、すなわち、共産主義者にとって問題は、現存する世界を覆し、既成の事態と実践的に取り組んで、これを変えることにある」(ドイツ・イデオロギー)ということになった。 これは、世界が動態的である以上、静止した観点での認識そのものが無意味ということを意味しているように思われる。動態的な世界にわが身を措いて、その変革の実践者としての世界から見えてきた認識を元手に世界を把握すべしということを示唆しているのではなかろうか。しかし、これだけで事が解決するのではない。「実践無き理論は空虚であると同時に、理論なき実践は盲目である」(レーニン)とあるように、状況を的確に認識して変革の動向を理論化する能力もまた鋭く問われているように思われる。 「解釈から実践」へにはもう一つ深い意味があるように思える。一体、人間内省、社会観、自然観、世界観を思弁的に為すのみでこれにとどまるならば、凡そ「知の持つ本来の意味」を弁えていないことになる、というマルクスなりの指摘では無かろうか。そういう知的態度をスコラ主義あるいはブルジョワ学として退け、人間、社会、自然、宇宙に対し何度も実践的に働きかけ、より合理的な認識を獲得し実践に生かし更に実践で検証し直すという交互作用を重視せよ、学問というのはそういう実践的意味を有していることを知りそのような学問を獲得せよ、という指摘なのではあるまいか。 2004.6.11日 れんだいこ拝 |
【13、マルクス主義のイデオロギー闘争】
マルクス主義的哲学観は、体制変革の擁護理論となった。対極的に巷間に信奉されている思想、信条、情緒が如何に体制内化されているか暴かずには済まなくなった。これをイデオロギー闘争と云う。マルクス主義はこれを果敢に行うところに値打ちがある。 |
「共産党宣言」にはこう書かれている。「法律、道徳、宗教は、プロレタリアにとっては、すべてブルジョワ的偏見であって、それらすべての背後にはブルジョワ的利益がかくされている」(「共産党宣言」岩波文庫、54頁)。仮にこれを「イデオロギー」と称するとすれば、世には「支配階級の利害を正当化し、不当な搾取を隠蔽する偽りの観念」としての「支配階級に好都合なイデオロギー」が氾濫していることになる。
たとえば、キリスト教が説く愛の教え。これは「敵を赦し、迫害する者のために祈れ」と説く。この場合、問題は次のことにある。この博愛主義が個人の生活規律を要請するレベルでは理解し得るが、マルクスが喝破した階級闘争論的観点からは、階級協調主義を説くまやかしということになる。プロレタリアはブルジョワの搾取に対して抗議していくべきであり、博愛主義の限界を知るべきである。 あるいは、「自分がして欲しいと思うことを、他人にもしてあげなさい」なども同様である。個人の生活規律を要請するレベルでは理解し得るが、マルクスが喝破した階級闘争論的観点からは、階級的対立を曖昧にさせ、プロレタリアの階級的利益を放棄させる偽善説教と言うことになる。 また、「人はパンのみにて生きるにあらず」 も同様である。イエスのこの言葉が実際にどのような意味で云われたのかは別にして、この教えの意味するところは、現実の悲惨な生活の甘受に結びつく。
キリスト教の罪の赦しの教えも同様である。俗に、階級闘争社会の現実を真の解決にならない方向で解消し様とさせており、ナンセンスということになる。「天国」の教えも同様である。彼岸主義は権力者に都合の良い理論であって、現実社会においてはひたすら耐え忍べ論に転化させられる。 こうした「宗教」がもっているイデオロギーとしての機能は、宗教以外にも国家・民族意識、道徳・倫理、法などにも立ち現われている。現代のように宗教が衰退し、信憑性を失った時代には、小説やスポーツやコマーシャルのコピーなどあらゆるものが資本主義体制をささえるイデオロギーともなっている。
宗教の果たしているこうしたイデオロギーとしての機能は、法や国家や道徳や芸術など、ありとあらゆる新しいものに姿を変えて受けつがれていくからして、イデオロギーに対する批判を敢行せねばならない。マルクスはそのように示唆した。(参考文献「マルクス」他)
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【14、マルクス主義の歴史性】
マルクス主義的哲学観は、完成されたものではない。当然の時代の制約を受けており、まだまだ吟味されあるいは創造的に発展されねばならないものである。 |
広松渉氏は、著書「マルクス主義の地平」において、「これら二、三の問題を問い直してみるまでもなく、マルクス主義の創始者達は、いわば『覚書』の形でしか論点を措定し得ていない。マルクス・エンゲルスの立言を教条化し、拳々服庸を専らとする一部の風潮に抗して、我々は敢えてこう云わねばならない」と云う。更に「哲学的世界観の次元(この意味での思想史的な次元)では、マルクス主義と『空想的社会主義』との間に次元の差がなくなることである。すなわち、マルクス主義は、社会思想の点では格段に偉大であるにしても、哲学的世界観の次元では近世ブルジョアイデオロギーの地平―即ち人間主義と科学主義のwechselspielの地平―を越えておらず、『今日における乗り越え不可能な哲学』ではない、と判定さるべきことになってしまう」とも云い為している。 氏の著書一般に云える事だが、わざわざ表現が難しいので学ぶに至難では有るが、要するに、一見精緻に形成されているマルクス主義哲学では有るが、まだまだ吟味を要することが多いのも事実である、というようなことが云いたいのだろうと思われる。それは、マルクス・エンゲルスの望むところの学的姿勢ではなかろうか。問題は、マルクス主義が切り開いたこの地平からどのように学的発展させるのかにあり、その道は変質でも無く後退でも無いまさに止揚されるべき学的遺産であるということではなかろうか。 |
【15、「足で立つ学問」考】
マルクス主義の始発は「足で立とうとする学問」に特質がある。それは、世上の学問に対する痛打となっている。しかし、この理論で足腰を鍛えた訳ではない。それはこれからだ。 |
「足で立つ学問」の意味とは、それまでの学問が「人があたかも頭で立っているかのような倒錯理論系に拠っている」との認識を前提にしている。マルクス主義においては専ら、ヘーゲルの哲学に対して被せられてきたが、従前の理解は正しくなかろう。ヘーゲルもまたそのように認識したが故に、学的体系の中に弁証法を持ち込み呻吟しつつ事象の精確な分析を志向した。マルクスのヘーゲル批判はその功績を認めつつ、そのヘーゲルが超えられなかった観念論的枠組みとしての学的体系をダメ押し的に破壊したことにある、のではなかろうか。マルクスはこの時、新しい自前の学問的手法を確立していた故に破壊を為す事ができた。この観点がヘーゲル学問に対しても、マルクス主義に対しても我々が理解すべき態度となるべきでは無かろうか。 してみれば、マルクス主義の精髄とは、「足で立つ学問」の全分野における構築にこそあると云うべきではなかろうか。実践と掛け合いで意味を持つにしても、学的探求は非実践的と云い為されるよりはそれ自身実践でもあるとして認識すべきなのではなかろうか。なぜこの観点が肝要なのか。マルクス主義を誹謗する近頃の学問が再び、「人が頭で立っている」かのような現実離れしたところで蠢(うごめ)いているような気がするからである。主として文系に対していいたいが、いくら接ぎ木していっても小難しくなるだけで、大衆を学問から遠ざけるばかりで、それでいて専門家が何人寄せ集まっても小田原評定しか為しえない。それは人類が獲得した観点からの後退現象の為せる技であろう。 もうひとつ。とはいえマルクス主義理論の功績は従来の学問の虚構を撃ち、「人が足で立っていることを踏まえての学問の再構築」という観点の打ったてに意義があり、だがしかしこの観点により実際に足腰を鍛えるところまでは行っていない。それはその後の学徒に課せられた課題ではなかろうか。しかるにこれが首尾よく出来ているとは思わない。俗流マルクス主義派が、かく意義を持つマルクス主義を再び「人が頭で立っているかのような学問」にしてしまった観がある。この辺りに対する厳しい認識から再出発せねばならないのではなかろうか。 2002.11.4日 れんだいこ拝 |
【16、「理論と実践の弁証法的関係」考】 | ||
朝田善之助氏は、「差別と闘いつづけて」の中で次のように述べている。生涯を部落解放運動の只中に身を置き闘い抜いた経歴故に、自ずから含蓄がある。
「理論と実践」の関係解明は重要である。これは何もマルクス主義に関してだけでなく、世情一般に共通するものである。これを理論から見れば次のように云える。理論が幾ら立派でも宝の持ち腐れにならないようにしなければならない。つまり、実践有っての立派な理論であるということを弁えればよい。これを実践から見れば次のように云える。日共系の者は、理論が革命的でないビラをいくら革命的に個別配布しても何の役にも立たないということを弁えればよい。新左翼系の者は、理論が革命的でない街頭デモをいくら革命的に貫徹してもさほど役に立たないということを弁えればよい。要するに、理論と実践は、相乗馬乗り理関にあると思えば良い。 次に、その担い手問題を考えねばならない。「私考える人、あなた行う人」と云う風に理論と実践はその担い手を分離すべきであろうか。これは指導者論に関係してくるのでそちらで考察することにする。 2006.10.28日 れんだいこ拝 |
【補足、「毛沢東『正しい思想はどこからくるのか』考」】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
補足として「毛沢東「正しい思想はどこからくるのか」(1963.5月)」を検討する。次のように前書きされている。
毛沢東は、次のように述べている。
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(私論.私見)