3 | マルクス主義は観点を問う思想である。その哲学上思想上の革命性 |
(最新見直し2006.10.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
【3、マルクス主義は観点を問う思想である】
マルクス主義は諸哲学・社会思想と観点を争い、抜きん出た地平に学を樹立している。 |
世に宗教、哲学、思想、倫理等々人間とは何たる存在か、世界とは如何なるものかについて喧喧諤諤の論議が為されて来た。マルクス主義は、それらの観点と認識の精度を競い、論の真偽を見極める心眼を育成し、いわば争うようにして学の形成を勝ち取ってきたところに特質がある。それをさせないマルクス主義派が登場してきた場合、眉唾せねばならない。 議論が錯綜する場合、往々にして「折衷玉虫論」、「ミソクソ同視論」、「どっちもどっち論」、「中間公平論」等々で糊塗し、分かったような分からないままの作風でその場凌ぎの解決が図られる場合が多いが、マルクス主義はそれらの手法とは無縁である。最も激しい議論好きこそマルクス主義の生命である。この違いが知られねばならない。 マルクス主義は、常に事象を内在的に具体的に分析し、特殊的なことと普遍的なこととを識別する。吟味を徹底し、分析と総合の観点を磨き、課題解決に当たっては原因を探索し、根本原因から解析し処方箋を引き出そうとする。その態度は、いわゆる知識人の机上のスコラ学とは対照的に実践に耐え得る指針(青写真)創りを目指し、指針の適用と経験の総括の不断の交差により責任ある学的体系の構築を目指そうとしている。その意味で、マルクス主義の検証姿勢は旺盛であり、形式的な公式主義とは無縁である。この点が、世の他の学的姿勢と比してマルクス主義の白眉なところと云える。 だがしかし、こうしたマルクス主義の財産は今日惨めなまでに形骸化している。その因子をマルクス主義史の中から摘出すること、その後の似非マルクス主義との識別をすることが求められている。では、マルクス主義とはどういう思想であるのか、マルクス主義が認識法にせよ世界観にせよどういう「新しい地平」を切り開いたのか、以下れんだいこ流に語っていきたい。 |
【4、マルクス主義の哲学革命性】
マルクス主義は哲学革命から始まった。史上の哲学及び直接的には近代ドイツ哲学のエッセンスを継承すると同時に従来の認識論、世界観に変革をもたらし、史上初の極めてユニークな新観点を打ち出すことに成功した。 |
マルクス主義がマルクスという超天才によって一朝一夕に生み出されたなどと考えることは馬鹿げている。巨星カント以降ドイツにおいて繰り広げられた史上未曾有の哲学論争という流れの中から産み落とされた正統嫡出子の系譜で捉えられるべきであろう。この観点はマルクスの異能を貶めない。むしろ、マルクスが如何にこの論争史の中からエッセンスを汲み出したかということに驚倒させられることにより、天才とはかくなる人物のことを云うのかとかえって興趣をそそられるであろう。 付言すれば、マルクス自身が史上の哲学者に対して天才と称した二人の人物が居る。一人は「古代における最大の頭脳」とみなしたアリストテレスであり、もう一人は「偉大な思想家」とみなしたヘーゲルである。我々もまたマルクスを「近代の人類が生んだ最大の頭脳」と賞するので、都合この3名こそ天才中の天才と云われるに値するのかも知れない。 そのへ−ゲルの産婆役として功があったのがドイツ近代哲学の祖と云われるカント(Immnuel Kant, 1724〜1803)である。このカントからへ−ゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel,1770〜1831)、その支流としてのフォイエルバッハ(1801〜1872 )、それをも汲み取った正統本流派マルクスへ至る哲学の流れは、人類史上の認識学の精華であり、今日でもドイツが永遠に世界に誇ることの出きる知的資産である。エンゲルスは1875年に執筆した「ドイツ農民戦争」の中で、「もしもドイツ哲学がなかったならマルクス主義は生れなかったであろう」と述べているが、近代ドイツ哲学はそのように作用したことがしられねばならない。 その意味を概述する。歴史にはその当時の者でしか吸えない嗅げない「時代のニューマ」というものがある。このニューマはあるヶ所に発芽すると、成長し花開き爛熟し落葉するまで定向進化を遂げる。この道中でこの花粉がどこに転移し、結実するのか、する場合もあるし、しない場合もある。 今日判明するところ、この当時のヨーロッパ諸国に立ち現れたニューマは「ルネサンス的近代化」であり、全西欧に飛び火することになった。西欧近代の黎明期をこの観点から辿って見ると実に面白い。多少のタイムラグはあるが、この着床に成功した各国は中世の閉塞の絆を断ち切る端緒に立つことになり、それに成功した諸国は俄かに社会的活性期に移行することになった。 そうした先進国での着床の仕方にそれぞれがお国柄を見せているところが面白い。分かりやすく云えば、この時期休火山が一斉に活火山化していき、お国柄に応じて多様な形態を見せたということである。これらの諸国がその後の世界史上に先進国として登場していくことになるのは衆知の通りである。 付言すれば、この過程が無いのとあるのとの差により、現代社会に至る国体の強固さに影響を及ぼしているというのがれんだいこ史観である。ヨーロッパ諸国は中世ほぼ一千年間キリスト教的ドグマに縛られて停滞社会に陥っていた。ヨーロッパ諸国のキリスト教国化は、西欧思潮のもう一つの雄ユダヤ教化との闘いから生まれたと思われるが、ここではこの問題を問わない。 西欧諸国がキリスト教化していたこの間、アラブ諸国がむしろ世界史の主人公であり活性化した社会を創っていた。ヨーロッパ諸国に比べればアジア諸国のほうが斬進的ながらも活況を見せていた。今日のアラブ諸国の停滞は、西欧世界の近代化の流れを対岸視してやり過ごし、この革命の花粉を着床し損なったことに遠因があると思われる。その要因を問うことは興味深いが、ここではこの問題を問わない。 ところが、眠れる西欧にある時花粉が飛んできた。どのようにしてこの花粉が発生したのかについてはルネサンス論の考究となるので省くが、この花粉がどこから飛んできてどう着床し生命を生み出していったか、更に飛んでどこに伝播していったか、これが近世西欧史を観る際の座標軸となるべきであろう。 れんだいこ観点に拠れば、まずイタリアに飛んだ。これがルネサンス革命の最初期である。要約は難しいがそこでラテン的陽気な諸芸術、あるいは共和政治思想を徹底的に論駁し合う風土を育んだ。ダンテ、マキャベリらが輩出したのは故無しではない。このルネサンスがイギリスに飛んで、資本主義勃興期経済の基礎理論と穏健議会主義系の近代的政治思想、哲学的には経験論的なものを生み出した。フランスに飛んで急進系の近代的政治思想を生み出した。哲学的には啓蒙哲学、機械論的唯物論と云われる観点をも生み出していた。ドイツに飛んで、先行する伊・英・仏に刺激されながら主に文芸・哲学思想を生み出した。 非常に粗っぽいスケッチではあるが要点はそうである。ドイツで文芸・哲学活動が盛んになった理由として、元々文芸的哲学的伝統を持つ国柄で、精緻な思惟の形成能力が高かったとも云えるし、伊・英・仏に比べて現実の政治変革が絶望的であったのでせめて思惟の世界にのめり込み変革を為し遂げていったとも云える。 さて、そのドイツで哲学活動が盛んになったという時、何が問われどう革命されたのか、ざっと見ておきたい。以下、カントからへ−ゲルからマルクスまでの流れを書く予定であるが、何しろ話が拡散するばかりとなるのであらかじめれんだいこ流に概説すればこうなる。 カントの偉大さは、哲学の意義をキリスト教の正統的教義解釈からくるところの中世的束縛から復権させ、その掣肘から離れたところで新たな思惟の科学を打ちたてようとその形式面の考究に成果をあげたことに値打ちが認められる。カントはいわば、精神界のこととはいえ、近代精神に基づいてレールの敷き替えに着手し、これを敢行した革命者であった。様々な衣装を纏っているが、ここにカントの偉大性があるように思われる。但し、カントはいかにもドイツ的に用心深くこれを行った。従って、カント哲学を学ぶ場合、カントの発するメッセージ読み取らなければその真の意義が見えなくなる。 カント哲学はフィヒテ、シェリングを経てヘーゲルへと継承発展されていった。ヘーゲルは、カントが敷いた思惟の新学問を問い直し、カント哲学を基礎として更に精緻な論理学を樹立させ、その上部に凡そ哲学的認識でアプローチしえる限りの諸学問に考察を試み、学的体系を花開かせた。その伽藍は今に至るも及ぶものがないと評されており、まさに偉大な著作群で構成されている。エンゲルスは、フォイエルバッハ論の中で、概要「ヘーゲル哲学はドイツでのカント以来の全運動を完結させた」と評している。 この時代の次世代にマルクスが登場してくることになる。マルクスがへ−ゲル哲学とどう関係したか、それを更に学的に如何に乗り越え得たのか、ここにマルクス主義の真価がある。その格闘は、「ドイツ・イデオロギー」(1845〜46年)であますところなく表現されている。 |
(私論.私見)