マルクス主義の認識の精度性、マルクス主義の歪曲について

 (最新見直し2006.10.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


【9、マルクス主義の認識の精度性】
 マルクス主義は、唯物弁証法により、事象認識の精度が高められた。それを真理観で捉えてはいけない。客観的世界の思惟への反映の正確さと限界の二面から考察されねばならない
 こうして獲得されたマルクス主義的認識法ないし世界観によって、我々はどこまで事象をあるいは世界を正確に認識し得るのだろうか、という問題に関心を持たざるを得ない。

 
これについて、エンゲルスは「フォイエルバッハ論」の中で次のように述べている。
 「我々を取り囲んでいる世界についての我々の思想は、この世界そのものとどんな関係にあるのか、我々の思考は現実の世界をどこまで認識することができるのか。我々は我々の表象と概念のうちで、現実の世界についてどこまで正しい映像を作り出すことができるか、という問題である。この問題は、哲学上の言葉では、思考と存在との同一性の問題と呼ばれる」。

 エンゲルスは、こうして「思考と存在との同一性」を是認した。注意すべきは、エンゲルスはこのように問い是認したが、その精度については回答を避けている。カント的不可知論を退ける範囲で是認しているという限定性で語っている、ことが知られねばならない。「思考と存在との同一性の問題」に対して、マルクス・エンゲルスの見解は披瀝されていない。

 エンゲルスは、「反デユーリング論」の中で、この問題について次のように述べている。
 概要「思惟(しい)の至上性は、きわめて非至上的に思惟する人間の系列を通じて実現され、真理であるという絶対的主張権をもつ認識は、相対的誤謬(ごびゅう)の系列をつうじて実現される。前者も後者も人類の無限の持続を通じてでなければ、完全には実現されることはできない。この意味で人間の思惟は至上的であると同時に至上的でなく、またそれの認識能力は無制限であると同時に制限されている」。

 いわゆる真理認識観の問題になるが、これを過度に強調すると、キリスト教的世界観による絶対真理観と論理構造的に見てどこがどう違うのか分からなくなる。マルクス主義的認識法ないし世界観を獲得し得るものとしてその立場に立った場合、その精度に対してあるいは発生する理論上の差異に対して、その良し悪しを誰が判断するのか、どうやって検証し得るのかという問題は極めて現代的な未解明な課題となっている。れんだいこの関心はここにあるが、史上多くのマルクス主義者がこれに能く取り組んだという例を知らない。

 残念なことに、この部分がその後のマルクス主義において大きく歪められ、大いなる悲劇を生んでいくことになった。マルクス主義の正しさを強調すればするほど、「マルクス主義的思考と客観世界との同一化」へと導かれ、その認識を得たとされた者ないし党派が絶対真理者として立ち現われ、指導者として君臨することになった。悪名高きスターリズムはその典型であり、いともたやすく中世の宗教的絶対真理観で粗暴に解決した例が知られている。
  レーニンは、1894年の「人民の友とは何か」で次のように述べている。
 「マルクス主義の正しさは、それが最高度の厳密な科学性と革命性とが結合しているからである。この二つの特性がきってもきれない結合が理論そのもののなかにあるからである」。

 レーニンは、1901年から02年にかけて執筆した「何をなすべきか?」で次のように述べている。
 「革命的理論なくして革命的運動はありえない。先進的な理論に導かれる党だけが先進的闘士の役割をはたすことができる」。

 レーニンは、こうしたマルクス主義の秀逸性について、1908年に執筆した「唯物論と経験批判論」の中で次のように述べている。
 「世界の現実的統一性はその物質性にある。その物質性の反映として意識が生れる。その意識は客観的実在に照応している。ここから絶対的真理が形成され、物質的実在を支配していく」。

「人間の思惟はその本性上、相対的真理の総和から構成される絶対的真理を、我々に与えることができるし、また与えている。科学のおのおのの発展段階は、絶対的真理という総和に新しい粒をつけ加える。しかしおのおのの科学的命題の真理の限界は相対的であって、知識のいっそうの成長によって、あるいは拡大され、あるいは縮小される」。

「弁証法的唯物論にとっては、相対的真理と絶対的真理とのあいだにはこえがたい境界は存在しない」。

「我々のすべての知識の相対性を、客観的真理の否定という意味で認めるのではなく、我々の知識がこの真理に近づいていく限度が歴史的に条件づけられているという意味でみとめるのである」。

 レーニンは、1913年「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」で次のように述べている。
 概要「マルクス主義の学説は正しいが故に全能である。それは完全で、整然としており、いかなる迷信、いかなる反動、ブルジョア的圧制のいかなる擁護ともあいいれない全一的な世界観を人びとにあたえる。それは人類が19世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のものの正統な継承であり、その完成であった」、「哲学は権力問題をあばき、経済学は階級対立と階級闘争をあばき、社会主義論はプロレタリア独裁を明確にしたのであった」。

 レーニンの、哲学的真理観、相対的真理と絶対的真理観がマルクス主義的であるのかどうか、れんだいこは疑問する。マルクス主義哲学に於いて問題になるのは、認識が客観性をどこまで獲得できるのかという「思考と存在との同一性」の問題であるとし、これを是認したが、マルクスーエンゲルスはそれ以上考究していない。

 これを相対的真理と絶対的真理の関係で考察することは邪道であろう。しかし、レーニンはそのように思考した。今は、このことを指摘しておく。

 2005.3.5日 れんだいこ拝

【10、スターリンのマルクス主義の歪曲について】
 スターリンによる把握の仕方には問題がある。我々は、この汚染と闘わねばならない。
 スターリンは、マルクス主義哲学の精髄である唯物弁証法について、次のように説明している。
 「マルクス主義は社会主義の理論であるばかりでなく、全一の世界観であり、哲学体系であって、マルクスのプロレタリア社会主義はその中からひとりでに出てくるものである。この哲学体系は唯物弁証法と呼ばれる」(「無政府主義か社会主義か」)
 「弁証法的唯物論は、マルクス・レーニン党の世界観である」(「弁証法的唯物論と史的唯物論」)。

 
こうした捉え方には大いに問題があるとしたい。判明することは、スターリニズム哲学がマルクス主義を排他的に全能化させて絶対教義としているということである。そういう意味で、スターリニズム哲学の本質は、マルクス主義以降のマルクス主義内へのキリスト教的思考の潜入であった。

 
その理論構造を見れば、マルクス主義と社会主義論と唯物弁証法を三位一体とみなし、あたかもマルクス主義をエホバ神=聖書に、社会主義をエホバ神の子=キリストに、唯物弁証法を聖霊に見立てているが如くである。且つその論理が粗雑な演繹的あるいは循環的な話法で説明されているということに特徴が認められる。唯物弁証法は社会主義理論を生み出す必要条件を満たしているが、スターリンにあっては唯物弁証法が十分条件へとすりかえられている。これが、公式主義を生み出す土壌となっている。

 
次に、唯物弁証法を「全一の世界観」、「哲学体系」視しているが、唯物弁証法はあくまで認識論のレベルであり、唯物弁証法自体を「世界観」、「体系」として捉えるのは異筋であろう。あたかもキリスト教的世界観、体系に代わる新たな世界観、体系として唯物弁証法を核とするマルクス主義を措定している。少なくとも、「弁証法的唯物論はマルクス・レーニン党の認識論であり、唯物史観を生み出すことにより世界観ともなっている」と表記すべきだろうに。

 こうしたスターリン的観点は明確に間違いであろう。スターリニズム的に把握するならば、マルクス主義はキリスト教に代わる新宗教ドグマでしかない。当然「新真理」として位置付けられることになる。しかして、マルクス主義とはそのような教条を排するところに精髄があるのであって、新宗教的「新真理」として通用させて良い訳が無い。

 こうしたスターリン的観点は中世の神学的教義への回帰であり、近世哲学史の精華を引き継いでいないのではなかろうか。マルクスに辿り着いた思想家達が格闘したのは、極力演繹的論法を排除しそれと逆の関係にある帰納法的な観方を養成すべしとしていたのではなかったか。スターリニズム的「マルクスのプロレタリア社会主義はその中からひとりでに出てくるものである」という論法は危険である。この話法は循環論法に道を拓いており、それぞれの質の違いと関係を全く無視している。それはマルクス主義の地平からの退歩であろう。であるが故に、マルクス主義的真理を掌握したと称する者が立ち現われ、その権威が格段に高められることになるのであろう。 


 
してみれば、一時期とはいえロシア革命のその後の帰趨を決定付ける貴重な時期に、こうしたスターリン主義が国際的マルクス主義運動の代表的地位に就いた事は不幸であった。「ロシア・マルクス主義」運動は、レーニズム以降スターリニズムに取って代わられ、新宗教「新真理」的マルクス主義観で運動させてきた。これが正統化され公認されてきた。あまたのインテリの取り巻きと考証的な研究にも関わらず、その非が咎められることが弱すぎた。仮に咎められても、その論理もまた正確でなかった恨みがあるのでは無かろうか。

 
つまり、マルクス主義は本来理解されるべき姿で理解されないままの偽運動が続いてきたのではなかろうか、との推測を可能にさせられる。つまりは、マルクス主義運動はその思想内実の正真正銘通りには史上にまだ現れていない、とまで云えるのかも知れない。





(私論.私見)