マルクス主義の宗教批判性

 (最新見直し2006.10.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「マルクス主義の宗教批判性」を問う。


【2、マルクス主義の宗教批判性】
 マルクス主義は宗教批判の流れを継承しており、認識論、世界観で徹底的に闘争している。
 マルクス・エンゲルスは、同時代にあって先行して労作していた哲学者・フォイエルバッハの宗教批判に関わる一連の理論活動に衝撃を受けている。フォイエルバッハは前人未踏とも云える「神の分析」を為し、「神が人間を創ったのではなく、人が神を創った」と、聖書史観を逆立ちさせた認識を示した。フォイエルバッハのこの理論的功績は「時空千年を超える常識」に対する挑戦となっていた。

 今日フォイエルバッハのこの認識の是非を廻って今なお放置されたままの観があり、その後の宗教者ののど仏に棘(トゲ)がさし挟まったままであるよう見える。マルクス主義に占めるフォイエルバッハ哲学の重要性は、宗教批判の構図において、哲学上の認識論の構図において、こうした逆転の発想を持つフォイエルバッハ哲学を継承していることにある。

 エンゲルスは、「フォイエルバッハ論」(国民文庫版)の中で、フォイエルバッハ哲学の構図を踏襲しつつ宗教一般の評価問題に対して次のように述べている。
 概要「すべての哲学の、とくに近世の哲学の、大きな根本問題は、思惟と存在、精神と自然とはどういう関係にあるかという問題である。非常に古い時代から、――そのころ人々は、まだ自分自身の身体の構造についてまったく無知であり、夢に現れてくるものごとに刺激されて、自分の思考や感覚は自分の肉体の働きではなくて、特別な魂の働きである、と考えるようになったのである、――この時代から人々は、この魂と外部の世界との関係についていろいろ思いめぐらさずにはいられなかった。もしこの魂が人間の死にさいして肉体からはなれて生きつづけるとするならば、この魂のためになお特別な死を考えだしてやるきっかけとなる事情はなかった。こうして魂の不死という観念が生まれた。これとまったく似た道すじで、自然の諸力の擬人化によって最初の神々が生じた。この神々は、諸宗教がさらに発達していくうちに、ますます超世界的な姿をとるようになる。ついには、〔人間の〕精神が発達していくにつれて自然に生じてくる抽象作用の過程をつうじて、多数の神々から、一神教的諸宗教の唯一神という観念が人間の頭脳に生じたのである」。
 概要「思考と存在との、精神と自然との関係という問題、哲学全体のこの最高の問題は、こういうわけで、すべての宗教におとらず、人類の野蛮時代の無知蒙昧な観念のうちに根をもっている。しかし、この問題は、ヨーロッパ人がキリスト教的中世の長い冬眠からめざめたのちにはじめて十分に明確な形で提出され、完全な意義を獲得することができるようになったのである。もっとも、存在にたいする思考の地位という問題は、中世のスコラ学においても大きな役割を演じており、根源的なものはなにか、精神かそれとも自然か、というこの問題は、先鋭化して、教会にたいしては、神が世界を創造したのか、それとも世界は永遠の昔から存在しているのか、というところまでいきついた」。
 概要「この問いにどう答えたかに応じて、哲学者たちは二大陣営に分裂した。自然にたいする精神の根源性を主張し、従って結局は何らかの仕方での世界創造をみとめた人々は観念論の陣営をつくった。他方、自然を根源的なものと見なした他の人々は、唯物論のさまざまな学派に属している。 観念論(イデアリスムス)と唯物論(マテリアスムス)というこの二つの表現には、もともと、右に述べた以外の意味はない」。

 してみれば、マルクス主義と西欧的ユダヤ-キリスト教の世界観は、安易な妥協を許さざるところで対立しているということになる。初期マルクスの論文「ヘーゲル法哲学批判」(1844年)(「マルクス・エンゲルス全集」第1巻、大月書店、415−6頁)には次のように書かれている。

 「ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもうおわっている。そして宗教の批判はあらゆる批判の前提である。反宗教的な批判の根本は、人間が宗教をつくるのであって宗教が人間をつくるのではないということである。そしてたしかに宗教というものは、自己をまだかちえていないか、あるいはかちえながらもまた喪失してしまった人間の、自己意識であり自己感情でもある。しかし人間といってもそれは世界のそとにうずくまっている抽象的存在ではない。人間、それは人間の世界のことであり、国家社会のことである。この国家、この社会が倒錯した世界であるために、倒錯した世界意識である宗教を生み出すのである」。
 「宗教は、人間存在が真の現実性をもたない場合におこる人間存在の空想的な実現である。それゆえ、宗教にたいする闘争は、間接的には、宗教を精神的香料としているあの世界に対する闘争である。宗教上の不幸はひとつには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸にたいする抗議である。宗教は、悩めるもののため息であり、心なき世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。それは民衆の阿片である」。
 「民衆の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは、民衆の現実的幸福を要求することである。民衆が自分の状態についてえがく幻想をすてろと要求することである。宗教の批判はしたがって宗教を後光とするこの苦界の批判をはらんでいる。それゆえ、真理の彼岸がきえうせた以上、此岸の真理をうちたてることが、歴史の課題である。人間の自己疎外の神聖な姿が仮面をはがれた以上、神聖でない姿での自己疎外の仮面をはぐことが、当面、歴史に奉仕する哲学の課題である。天井の批判は、こうして地上の批判にかわり、宗教の批判は法の批判に、神学の批判は、政治の批判にかわる」。

 これは「宗教」に直接触れたマルクスの数少ない、しかし非常に有名な文章である。ここには宗教が社会のゆがみから生じるということがはっきり書かれている。「宗教は阿片だ」という言葉ばかりが有名だが、この言葉を前後の文脈の中で読むなら、マルクスが、単に宗教という現象自体を弾劾しているのではないことが分かるであろう。(参考文献「マルクス」他)  


【「マルクス主義の宗教批判は今なお有効ではないのか」】
 ところで、世の反マルクス主義者に問いたいことがある。述べてきた構図を納得されるなら、マルクス主義を批判するなら、いきおいこうしたマルクスの観点を批判せねばならないことになる。ならば、どう立ち向かうのか聞かせて欲しいところである。

 もう一つ、マルクス主義がフォイエルバッハ哲学を継承している以上、世の反マルクス主義者は、「神が人間を創ったのではなく、人間が神を創った」とするフォイエルバッハの批判水準にまで向かわねばならないことになる。果たしてフォイエルバッハの神学批判の辛辣さに踏み込む勇気が有りや否や。これらの論争に対して、現代はこの頃より何らかの知の発展を獲得しているだろうか。

 さて、今日マルクス主義と宗教者との共同戦線が双方から意欲されつつあるが、政治上の提携はそれとして、双方の間に横たわる認識論、世界観、処世法を廻る対立の根は深い。マルクス主義と宗教者との間には、それらのすり合せを曖昧にしておいて良いのだろうか、という課題がいつでも横たわっている。政治上の共同戦線を求めてこうした原理上の区別と差異の境界を曖昧に帰着させるとするならば、マルクス主義者にとってそれは理論的な退化と堕落であって、結局は有益な何ものをも生み出さないのではなかろうか。





(私論.私見)