2 | マルクス主義の宗教批判性 |
(最新見直し2006.10.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「マルクス主義の宗教批判性」を問う。 |
【2、マルクス主義の宗教批判性】
マルクス主義は宗教批判の流れを継承しており、認識論、世界観で徹底的に闘争している。 |
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マルクス・エンゲルスは、同時代にあって先行して労作していた哲学者・フォイエルバッハの宗教批判に関わる一連の理論活動に衝撃を受けている。フォイエルバッハは前人未踏とも云える「神の分析」を為し、「神が人間を創ったのではなく、人が神を創った」と、聖書史観を逆立ちさせた認識を示した。フォイエルバッハのこの理論的功績は「時空千年を超える常識」に対する挑戦となっていた。 今日フォイエルバッハのこの認識の是非を廻って今なお放置されたままの観があり、その後の宗教者ののど仏に棘(トゲ)がさし挟まったままであるよう見える。マルクス主義に占めるフォイエルバッハ哲学の重要性は、宗教批判の構図において、哲学上の認識論の構図において、こうした逆転の発想を持つフォイエルバッハ哲学を継承していることにある。 エンゲルスは、「フォイエルバッハ論」(国民文庫版)の中で、フォイエルバッハ哲学の構図を踏襲しつつ宗教一般の評価問題に対して次のように述べている。
してみれば、マルクス主義と西欧的ユダヤ-キリスト教の世界観は、安易な妥協を許さざるところで対立しているということになる。初期マルクスの論文「ヘーゲル法哲学批判」(1844年)(「マルクス・エンゲルス全集」第1巻、大月書店、415−6頁)には次のように書かれている。
これは「宗教」に直接触れたマルクスの数少ない、しかし非常に有名な文章である。ここには宗教が社会のゆがみから生じるということがはっきり書かれている。「宗教は阿片だ」という言葉ばかりが有名だが、この言葉を前後の文脈の中で読むなら、マルクスが、単に宗教という現象自体を弾劾しているのではないことが分かるであろう。(参考文献「マルクス」他) |
【「マルクス主義の宗教批判は今なお有効ではないのか」】 |
ところで、世の反マルクス主義者に問いたいことがある。述べてきた構図を納得されるなら、マルクス主義を批判するなら、いきおいこうしたマルクスの観点を批判せねばならないことになる。ならば、どう立ち向かうのか聞かせて欲しいところである。 もう一つ、マルクス主義がフォイエルバッハ哲学を継承している以上、世の反マルクス主義者は、「神が人間を創ったのではなく、人間が神を創った」とするフォイエルバッハの批判水準にまで向かわねばならないことになる。果たしてフォイエルバッハの神学批判の辛辣さに踏み込む勇気が有りや否や。これらの論争に対して、現代はこの頃より何らかの知の発展を獲得しているだろうか。 さて、今日マルクス主義と宗教者との共同戦線が双方から意欲されつつあるが、政治上の提携はそれとして、双方の間に横たわる認識論、世界観、処世法を廻る対立の根は深い。マルクス主義と宗教者との間には、それらのすり合せを曖昧にしておいて良いのだろうか、という課題がいつでも横たわっている。政治上の共同戦線を求めてこうした原理上の区別と差異の境界を曖昧に帰着させるとするならば、マルクス主義者にとってそれは理論的な退化と堕落であって、結局は有益な何ものをも生み出さないのではなかろうか。 |
(私論.私見)