(別章)田中角栄の履歴

 更新日/2021(平成31→5.1栄和元/栄和3).5.27日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで角栄の履歴を出来るだけ精緻に綴ってみる。不思議に思うことは、既成の類のものは同じようにデータベース化しながらも、その資料を読み取る面において頓珍漢な解説を加えているものが多すぎる。そこで、必要な限りにおいて、このサイトで資料化とれんだいこ解説をしておきたいと思う。まず、認識が正しくなければ評価もエエ加減なものにならざるを得ないからである。ここに記された角栄の履歴を見て感服しない者がいるとすれば、その者とれんだいこは永遠に誼を通じ得ないだろう。もっと分かりやすく云えば、議論しても無駄ということである。スグレモノをそれとして認識できないような輩と口を酸っぱくして語って見ても所詮平行線上を行き交うだけだろう。逆に云えば、このサイトを読んで角栄の凄さが分かる者とはどんどん話し込みたい。そう思う。

 2003.4.2日 れんだいこ拝


【田中角栄記念館】

 田中角栄記念館は、西山町に生まれ育った元内閣総理大臣田中角栄氏の遺墨・遺品を中心に展示されています。日中国交の道を再び開いた偉業や生前の面影を偲ぶ事ができる施設です。

 お問合せは、「 (財)田中角栄記念館」TEL 0257-48-2130

 1995.5月、設立許可。1997.10月完成。1998.4月開館。床面積526uの平家建て。


【田中角栄(たなか・かくえい、1918〜1993)の総評プロフィール】

 私情を交えず客観的に評するならば、田中角栄の総評は次の通りである。

 1918(大正7).5.4日、新潟県刈羽郡二田村に生まれる。尋常高等小学校卒業後上京、働きながら苦学し中央工学校卒。19歳の時、建築設計事務所を設立。事業を順調に発展させていたが兵役により中国大陸戦線に従軍。戦地で肺炎に罹り、内地へ送還され、23歳の時に除隊。病状が奇跡的に回復し田中建築事務所を開設。24歳の時、家主の娘坂本はなと結婚。坂本組の業務も引継ぎ、田中土建工業株式会社を設立。理研との仕事を復活させた田中土建は急成長し、昭和18年の年間工事実績で全国50社に数えられるようになる。1945(昭和20)年、角栄27歳の時、理研の工事を請け負い、韓国に渡る。工事に取り掛かったところで終戦となり、大金を懐にして帰国する。

 1946(昭和21年) 年、角栄28歳の時、進歩党公認で立候補するも次点で落選。1947(昭和22)年、第23回衆議員総選挙に進歩党が改組した民主党公認で立候補、初当選する。衆院本会議に、民主党を代表して初登壇、自由討議を行う。「議会政治のあり方」、「経済政策のあり方」、「戦後復興のあり方」を演題とする。こうして、戦後リベラルの申し子としての角栄の議員活動が始まった。

 角栄の所属する民主党はその後、「第一次保守合同」で吉田の率いる日本自由党と合流し、以来角栄は吉田派の有能若手として党内地歩を築いていく。直後にGHQ介入による山崎首班の動きが起り、角栄はこれに反対し第二次吉田茂内閣発足に一役買う。この功が認められ30歳の若さで法務省政務次官に抜擢される。1949(昭和24) 年の総選挙では炭坑国家管理疑惑で逮捕されるが、拘置所から立候補届けを出して当選、のち無罪となる。

 第3次吉田内閣では吉田の女婿麻生太賀吉らと池田勇人を蔵相に推薦、池田との親交を結ぶ。但し、派閥は佐藤栄作派に属し、池田派とのパイプ役となる。1955(昭和30) の「第二次保守合同」による自民党結党後も益々頭角を現していく。他派や野党との人脈の広さから保利茂らとともに佐藤派の大番頭として活躍し、1957(昭和32)年、角栄39歳の時、岸内閣で郵政相として初入閣(戦後最年少大臣)。池田内閣でも自民党政調会長、蔵相をつとめ、外相だった池田派の大平正芳と「大角盟友」と呼ばれる親しい関係を築く。

 佐藤政権では幹事長として就任し続け、首相候補としての地歩を築く。1967(昭和42)年、角栄49歳の時、自民党都市政策調査会長に就任。翌年、「都市政策大綱」を発表。1971(昭和46)年、角栄53歳の時、通産大臣に就任し日米繊維交渉を決着させる(本協定は翌47.1.3)。

 この間、主として土木関係の議員立法を矢継ぎ早に手掛けており、後にも先にも不世出な政治家となっている。角栄は初当選からの10年間に25法の議員立法を実現、42年間の議員生活を通じて33法、生涯に陽の目を見させた議員立法は72件、直接、間接に作成した法律は100件以上という空前の業績を残している。

 第5次佐藤内閣後の総裁選に向けて福田赳夫との後継争いが激化、角福戦争を繰り広げる。佐藤首相や保利幹事長が福田を支持するのに対抗して、1972(昭和47)年、田中派を旗揚げする。直後、「日本列島改造論」を発表し、総裁選レースに於けるマニュフェスト発表のひな型を創っている。同年の総裁公選では大平と結んで福田を倒し、自民党第6代総裁に就任する。学歴も血縁もない男が一国の首相となったことで「今太閤」、「人間ブルドーザー」と褒めそやされた。


 二ヶ月後大平外相と訪中して日中国交回復を達成、日本外交の金字塔を打ち立てるが、米国から警戒されるようになる。田中政権時代、持論の「日本列島改造論」に着手する間もなく急激なインフレが発生し、オイルショックと重なったことにより軌道修正を余儀なくされる。多角的な資源外交に務めるが、次第に支持率が低下し、1974(昭和49)年の参院選で敗北する。さらに文藝春秋に掲載された立花隆の「田中角栄研究」に始まった金脈政変により退陣を決意、後事を椎名副総裁に託す。しかし、この「早すぎた退陣」が命取りとなる。

 1976(昭和51)年、ロッキード社からの5億円の収賄疑惑騒動が持ち上がり、逮捕起訴される。角栄は離党し、容疑を否認し「ロッキード事件公判闘争」に入る。その間自民党内に発言力を保ち続け、四十日抗争でも大平首相を全面支援、三福中非主流派と対峙する。その後も田中派は肥大化を続け、大平急死後の鈴木内閣成立、鈴木退陣表明後の中曽根内閣成立にも重要な影響を及ぼしたため「キングメーカー」、「目白の闇将軍」の異名をとった。

 しかし自派閥から長年総裁候補を出さなかったことが派内の不満を生じさせ、1985(昭和60)年、金丸信・竹下登らが竹下派の前身となる「創政会」を旗揚げする。これに激怒した田中は間もなく脳梗塞で倒れ政治活動不能に陥る。1989(平成1)年、政界引退。1993(平成5)年、愛娘・真紀子の初当選を見届けて死去。

 2000(平成12)年、朝日新聞の「この1000年『日本の政治リーダー』読者人気投票」で、角栄が坂本竜馬、徳川家康、織田信長に次いで第4位にランキングされる。


【昭和30.4.10日、新聞連合ニューズ社(星野松吉発行)の人事興信録】
 当時37歳の角栄は次のように評価されていた。
 「(前略)代議士当選4回、民主自由党選挙部長、自由党総務、法務政務次官、自由党新潟県支部長を歴任し、現在の自由党代議士の青壮実力者の第一人者で、理論家であるとともに慎重、しかも果敢なる行動家であり、私生活は清廉にして情けに篤く、将来への期待は大きい」。


履歴その1、新潟時代
履歴その2、上京時代
履歴その3、兵役時代
履歴その4、実業家・代議士模索時代から初当選の頃
履歴その5、獄中再当選以降・議員立法時代
履歴その6、党の要職時代
履歴その7、宰相時代(別章【首相時代の田中角栄】)
履歴その8、公判時代
履歴その9、その後
補足、理化学研究所史考




(私論.私見)