履歴その9、その後

 (最新見直し2005.10.18日)

 1985 (昭和60)年
1.1 目白邸に例年を上回る600人が年賀の挨拶。
1.23 「創世会」の第2回準備会(拡大世話人会)。25人が集まり、勉強会として「創世会」の旗揚げを決議。
1.27 田中−竹下会談。「創世会」の設立を伝える。「『勉強会大いに結構。但し、早稲田グループだけに偏ってはいかんよ、いろんな連中を入れて、幅広くやれよ』」と注意しておいておいた」。この頃の田中の思惑は、「一に二階堂進、二に江崎真澄、三に後藤田正晴だ。順序を間違っては駄目だ」。
1.31 前幹事長・田中六助氏が逝去(享年62歳)。角栄宛の遺言状を遺していた。
 「私は陰ながら元総理の白を信じてできる限りのことをやって参りましたが、その実を実現しないまま先に旅立つことをお詫び申し上げます。達磨様は9年間石の上に座したと云われますが、よく十年間もこの批判に耐えておられるお姿は神仏にも等しい姿です。私は誰よりも尊敬していることを素直に申し上げます」。
2.27 角栄倒れる。脳梗塞と診断される。
5.8 「月刊越山会」に田中真紀子が「父の近況ご報告」寄稿。「父が今までのように実務一本槍の人ではなく、更に深く思索に裏づけられた『哲人政治家』として蘇ってくれることを願っています」。
5.16 ロッキード裁判丸紅ルート控訴審で、東京高裁が贈賄側と収賄側の分離審理を決定。
6.6 イトーピアの田中事務所が閉鎖される。田中直紀氏が発表した。「全く寝耳に水」の発表だった。
6.20 二階堂グループが、ホテル・ニューオータニで「人間・二階堂進を語る会」を開き、8千名が集まる。
7.9 早坂茂三秘書が23年間に及ぶ角栄秘書を辞め、独立した。
7.29 ロッキード裁判丸紅ルート、丸紅3被告の控訴審初公判。
8.6 東京麹町の料亭に、反創世会の会合が開かれる。呼びかけ人は内海英男、高島修、佐藤信二の3名。集まったのは僅か12名。
9.2 ロッキード裁判丸紅ルート控訴審田中側の初公判が東京高裁で開かれる。本人不出廷。
10.2 関越自動車道(練馬−長岡)全通。
10.28 南魚沼郡大和町の浦佐駅前に、田中元首相の銅像除幕式。
12.12 平河町に佐藤昭子の「政経調査会」(会長・高島修)が発足。
 1986 (昭和61)年
2.27 田中元首相の第一秘書で、いとこの田中利男が「疲れた」と言い残して自殺。
4.20 新潟県知事選で、君健男知事が4選果たす。
4.25 創世会解散決定。
5.14 ロッキード裁判全日空ルートで東京高裁が、佐藤孝行に有罪判決。16日橋本、28日若狭にも有罪判決。三被告とも上告。
5.22 衆議院で定数是正法が成立。
6.16 ロッキード裁判丸紅ルート、田中側控訴審の最終弁論始まる。18日終了、結審。
7.7 第38回衆参両院選挙投票。角栄は17万9062票でトップ当選(16回)。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は空前の304議席を獲得し圧勝した。中曽根首相の得意の絶頂期となった。この選挙で6議席に減った新自由クラブが解散。
7.9 ロッキード裁判全日空ルートの佐藤被告が最高裁への上告を取り下げる。
7.22 第三次中曽根内閣成立。
9.11 自民党両院議員総会で、中曽根総裁の任期を一年延長。
 1987 (昭和62)年
1.1  目白邸の新年会に角栄が姿を見せる。
4.17 二階堂グループが、山下元利の「励ます会」開催。
5.14 二階堂田中派会長が、同派総会で総裁選出馬を表明、派内抗争が表面化。
5.21 竹下幹事長激励の夕べ開催。
6.3 竹下幹事長が総裁選出馬を表明。
7.4 竹下派「経世会」113名が旗揚げした。二階堂グループは15名、後藤田など中間派は13名、田中派は15年間の歴史を経て解体した。
7.29 ロッキード裁判丸紅ルート控訴審判決。東京高裁は、一審判決を支持、田中に懲役4年、追徴金5億円。田中側は直ちに上告。
8.12 ロッキード裁判の伊藤広被告が最高裁への上告を取り下げる。
9.15 西村英一氏が逝去(享年90歳)。
10.19 自民党総裁選で、中曽根首相が裁定、竹下登を指名。
10月 竹下が田中邸を訪問。眞紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化する。
11.6 衆参両院本会議も、竹下登を第74代首相に指名。
12.9 信濃川河川敷裁判が12年ぶりに結審。
 1988 (昭和63)年
6.17 リクルート事件勃発。株譲渡の政界波及として、宮沢蔵相・竹下首相・中曽根前首相ら政府自民党の実力者や野党議員の名も登場。
11.8 リクルート疑惑で、上田卓三社会党代議士が辞職。
12.9 リクルート疑惑で、宮沢蔵相が閣僚を辞任。
12.24 消費税法案成立。
12.27 竹下改造内閣発足。
 1989 (昭和64、平成元)年
1.1 竹下首相が昭和天皇死去に伴う恩赦に田中を含めないと方針決定。
1.7 昭和天皇崩御。1.8日より新元号を平成と改める。
1.20 アメリカ大統領に共和党のブッシュ就任。
4.1 消費税スタート。
10.14 田中真紀子の婿・直樹が記者会見で田中の引退声明を発表。
「顧みて我が政治生活にいささかの悔いもなし」。
11.29 山形県温海温泉で、越山会の事実上の最後の忘年会。
 1990 (平成2)年
1.10 山田泰司秘書が田中真紀子と対立し事実上の退職。ほぼ同時期に遠藤照司秘書も退職。
1.24日 海部首相が衆議院解散。「消費税解散」と云われる。田中角栄、政界引退(衆議院議員勤続43年、当選16回)。各地の越山会も解散する。
2.18日 第39回総選挙。小沢一郎自民党幹事長、財界から数百億の選挙資金を調達。自民党は286議席を占め、安定多数を確保した。共産党は、27議席から16議席に減少した。東京だけでも、岡崎万寿秀(2区)、松本善明(4区)、工藤晃(7区)、中島武敏(9区)、岩佐恵美(11区)の現職が落選。総選挙後、中曽根派は渡辺派に衣替え。新潟3区の角栄の後釜に元越山会員で前小千谷市長の星野行男が自民党公認で当選。
2月 新潟県越山会が、県選管に政治資金規正法による政治団体の解散届けを提出。昭和51.2月に登録してから14年目であった。前後して、各地の越山会も解散届けを出している。
2.末 古藤昇司秘書も退職。
 1991 (平成3)年
 1992 (平成4)年
4月 来日中の江沢民が角栄を訪問。
8月 角栄と真紀子とその家族7名が、中国友好協会と中国政府の招きで中国を訪問、4泊5日の旅となる。日中国交回復交渉より約20年ぶり。次のような言葉を遺している。
 「中国再度訪問が実現し、万感胸に迫るものがある。私はこの20年間、片時も目を離さず、日中関係を見つめてきた。首相当時下した決断が間違っていなかったことを確信したい一心で訪れたのである」。
12月 経世会が分裂。
 1993 (平成5)年
7月 第40回総選挙。角栄の娘の田中真紀子が新潟3区から無所属で立候補、見事なトップ当選を飾る。角栄自らも病をおして新潟入りし、眞紀子の応援をする。後に自民党へ入党する。
12.16日 ロッキード最高裁判決の日を見ることなくこの世を去った(享年75歳)。戒名は政覚院殿越山徳栄大居士。墓所は新潟県柏崎市(旧西山町)田中邸内。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となる。内閣総理大臣を1年以上在任した人物には大勲位菊花大綬章が叙勲される事が慣例となっているが、田中は有罪判決を受けた刑事被告人のまま死去したため勲章は与えられなかった。
 1994 (平成6)年
6.30日 村山内閣の目玉として、真紀子が科学技術庁長官に登用される。紅一点となった。
 1995 (平成7)年
2月 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。
 1996 (平成8)年
 1997 (平成9)年
 1998 (平成10)年
4月 田中角栄記念館が新潟県柏崎市(旧西山町)に開館する。
 1999 (平成11)年
 2000 (平成12)年
3.12 朝日新聞の「この1000年『日本の政治リーダー』読者人気投票」で、角栄が坂本竜馬、徳川家康、織田信長に次いで第4位にランキングされる。
 2005 (平成17)年
10.16 田中角栄元首相の13回忌法要が新潟県柏崎市の「西山ふるさと館」で営まれた。長女の真紀子衆議院、夫の直紀参院議員、地元の市町村長ら約500名が故人をしのんだ。真紀子氏が「父は75年の一生を激しく政治に燃焼し尽くした」などとあいさつした。中国の程永華公使も参列。自民党幹部の姿はなく、現職国会議員は民主党の小沢一郎氏、無所属の堀内光雄氏の2名のみが出席した。
 2007 (平成19)年
7.16 新潟県中越沖地震で墓石が倒壊する。
 2008 (平成20)年
2.13 牛込掘りが見渡せる神楽坂のマンションで暮らしていた辻和子さんが脳梗塞で倒れ、逓信病院に入院、 その後足立区の病院に入院していたが、この日逝去した(享年81歳)。
 2009 (平成21)年
3月 朝日新聞の「昭和といえば何を思い浮かべますか… 全国世論調査」の人物の分野で回答の21%を占め第2位となった
 2010 (平成22)年
3.11 田中角栄の秘書を務め政経調査会を主宰していた佐藤昭子が東京都内の病院で心不全により逝去(享年81歳)。
 2013 (平成25)年
10.13

衆議院議員(13期)、建設大臣(第36代)、環境庁長官(第6代)、厚生大臣(第56代)、改革クラブ代表などを歴任した小沢辰男が老衰により東京都内の私邸で死去した(享年96歳)。





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