履歴その5、獄中再当選以降・議員立法時代

 更新日/2017(平成29).5.29日


1949(昭和24)年、角栄31歳

【第三次吉田内閣組閣】この時新人初当選の池田隼人が大蔵大臣に大抜擢された。この推挙斡旋人が角栄であった。後年、幹事長に就任した時池田は、「私が政治家になって、一番最初に最大の恩を受けたのは、田中だよ」と述べている。

1950(昭和25)年、角栄32歳

始め ◎長岡鉄道復興運営協議会の会長・山崎豊吉と副会長・風間信吉の二人が飯田橋事務所を訪れ、ち長岡鉄道の経営不振の建て直しを相談される。これに先立ち旦四郎、稲村順三に持ちかけていたが相手にされなかった。最後の頼みの綱として角栄へ相談が為されたことになる。

 この時角栄は、他の適任者を挙げ断ったが、その後の調査を経て、長岡鉄道労組委員長の千羽幸治氏に「沿線住民、株主、従業員が一丸となってくれるなら引き受けても良い。組合には経理を公開しても良い」と答えている。
3.1 【民自党と民主党連立派が合同して自由党(総裁・吉田茂)結成】
4.11 東京地裁は、田中の懲役6ヶ月(執行猶予2年)の刑を言い渡した。田中は直ちに控訴。この時、敏腕弁護士の正木亮の知己を得る。正木とはその後長く付き合い、国際興業社長の小佐野賢治氏の紹介を得、「刎頚の友」となる。
4.19 【住宅金融公庫法公布】角栄は立案に参画。
4.21 【首都建設法が成立】角栄起案、提案者として活躍。
4.28 【民主党と国民協同党などが合同して国民民主党(最高委員長・苫米地義三)結成される】
5月 ◎長岡鉄道株主総会で、労働組合がワンマン社長武沢茂一郎に退陣を迫り、再建社長として角栄の名をあげた。角栄の事業家の手腕が期待され、赤字続きの長岡鉄道の再建に白羽の矢がたてられたことになる。この総会直後から、「長岡鉄道復興運営協議会」の役員達が、田中土建事務所を何度も訪れ、「三島郡の動脈を救っていただきたい」と陳情を繰り返した。角栄は調査に入り、決断していくことになった。
5.24  【田中初の議員立法、建築士法公布】自ら1級建築士第1号に。
5.26  【国土総合開発法公布】角栄は立案に参画。
6.25  【朝鮮戦争勃発】
6.28  【第三次吉田内閣発足】
7.28  【言論界でレッド・パージ(共産党員・シンパの追放)始まる】
7.28  【京都国際文化観光都市建設法、奈良国際文化観光都市建設法が成立】角栄はその提出者。
11.1 ◎臨時株主総会で、長岡鉄道(現越後交通)社長に就任(60.9月まで務める)。臨時株主総会の席上、次のように述べている。
 「自己に鞭打って、政治生命を賭けて社長を引き受けます。私が社長を引き受けたのは、かくの通り、三島郡住民の悲願である路線の電化であります。まァ、私のオヤジ(角次)などは、赤字会社の社長になる奴はバカだと云っておりましたが、私はやりますッ。これをやれなかったら、私は二度と、故郷の土は踏まん覚悟である」。

 角栄が最初に為した荒治療は役員全員の無報酬で、経営姿勢を正していった。

 「長岡鉄道は赤字続きで廃線の危機にあった。電化による起死回生策を練り、やり手と評判の田中に願って社長になってもらった」(後の越後交通顧問・風間信吾)。前社長武沢氏と三島郡の重鎮だった町長、農協組合長を新取締役に据えるという心配りを見せている。

 長岡鉄道の社長就任によって、田中土建工業を閉鎖している。
この頃小佐野賢治と仕事の話では初めての交流が始まる。「昭和22〜23年頃、正木亮(あきら)先生の紹介で小佐野氏を知った。特に小佐野氏と親しくなったのは、私が昭和25年に長岡鉄道の社長に就任、同社のバス部門の拡充に際して国際興行から大量に車両の提供を受けたことからです」(ロ事件検察官調書から)

 こうして小佐野氏の口添えによりバス事業に力を入れることになったが、この当時新潟県中央平野部には、長岡鉄道のほかに栃尾鉄道と中越自動車があり、三社が競合していた。当然摩擦が発生し、訴訟沙汰にもなった。「いずれ、長岡・栃尾・中越の三社を合併してみせる」と公言するようになった。

 正木亮(あきら)弁護士の概要履歴は次の通り。正木ひろし弁護士と混同されがちであるが別人とのことである。

 1892.3.25日、広島県佐伯郡玖波村(現・大竹市玖波)出身。1918年、東京帝国大学法科(ドイツ法)法律科卒。 1921年、監獄局入り。1935年、大審院検事。広島控訴院(現・広島高等裁判所)次席検事、前橋地方裁判所検事正などを経て1941年、司法省行刑局長。同年刑務協会(現・矯正協会)会長。1943年、司法省刑政局長。1945年、広島控訴院検事長時代に原爆に遭う。1946年、名古屋控訴院(のち名古屋高等裁判所)検事長に赴任するが公職追放により退官。 弁護士となりその後は矯正協会会長などを務め、矯正保護分野で活躍した。1947年、いずれも駆け出しの田中角栄と小佐野賢治の顧問弁護士だった関係で二人を引き合わせたとされる。1955年、「わが国の死刑存置論は欺まん的な刑法理論の上にある」と「刑罰と社会改良の会」を設立。死刑廃止論を社会運動として展開し、初めて死刑廃止問題が正面から議論される切っ掛けを作った。これは1956年、羽仁五郎らによる国会への死刑廃止法案提出にも繋がった。その後も死刑廃止運動の中心的な人物として活躍。「生命は全地球よりも重し」の言葉は有名。この他、第二東京弁護士会会長、法制審議会委員、公安審査委員会委員長、矯正保護審議会会長、憲法調査会委員などを歴任し晩年の17年間は神奈川大学教授も務めた。1971.8.22日、逝去。

 参考までに正木ひろし弁護士の―履歴は次の通り。
 戦前より軍国主義批判を繰り広げ、戦時中には官憲による拷問を告発した「首なし事件」で有名となった。戦後もプラカード事件、三鷹事件、八海事件、チャタレイ裁判、菅生事件、三里塚事件、丸正事件など多くの反権力裁判、冤罪裁判に関与した反骨の弁護士である。著書多数。1953年に起こった「八海事件」の弁護を担当し、「八海事件」について書いた著書「裁判官」はベストセラーとなり、「真昼の暗黒」という題名で映画化された。
◎この当時、ドッジ・ラインの余波で金融は引き締め状態に置かれており、条件は良くはなかった。角栄は金策に掛けずり回った。大蔵大臣池田の後押しを得て、日本開発銀行から総工費1億3千万円のうち1億二千八百万円の融資を引き出すことに成功し、赤字再建に1億円を投じて電化に取り組んでいる。「国鉄私鉄の電化を為さずして交通機関の発展育成はない。よろしく政府資金を支出すべきである」の大演説で池田蔵相の力添えを引き出している。こうして、西長岡―寺泊間31.8キロを電化させて、新潟県民をアッと云わせた。

 この時の電化工事の最高責任者は、国鉄の電気局長から政界に転じたばかりの西村英一氏で、これが角栄との出会いとなる。
12.6  【松江国際文化観光都市建設法、松山国際観光温泉文化都市建設法成立】角栄はその提出者。

1951(昭和26)年、角栄33歳

3.23  【積雪寒冷単作地帯振興臨時措置法成立】角栄はその提出者。
3.28  【競馬法改正法成立】角栄はその提出者。
5.9  河川法改正法成立】角栄はその提出者。
5.25  【建築士法改正法、官庁営繕法成立】角栄はその提出者。
5.28  【公営住宅法成立】角栄はその提出者。
6.22 炭管事件、二審(東京高裁)で無罪判決。検察控訴せず無罪が確定した。この間、角栄は、党役員、閣僚ポストに就けず失意のうちに過ごさねばならなかった。逮捕から2年半でやっと無罪を勝ち取った。「無罪をもらって田中は顔をクシャクシャにし、実にうれしげだった」(北魚沼郡小出町の支持者・柳瀬計七)。
6月 ◎長岡鉄道が、日本開発銀行(初代総裁・小林中)から1億2800万円の融資を引き出すのに成功する。その資金で長岡鉄道の電化プロジェクトに取り組む。
9.8  【サンフランシスコ講和条約締結。対日平和条約・日米安全保障条約調印】発効は翌27.4.28日。
10.24  【社会党が講和問題をめぐって左右に分裂】
12.1日 ◎長岡鉄道の電化を突貫工事で工期を間に合わせ、無事開通させた。この長岡鉄道が後の越後交通へと発展する。この経過で、東海道線などの国鉄電化に尽力していた西村英一氏と知己を得ている。

1952(昭和27)年、角栄34歳

2.8  【国民民主党が解散、改進党(総裁・重光葵)結成される】
2.23  角栄が佐藤昭を訪ね、「俺の秘書にならないか」と持ちかける。
3月 ◎地蔵トンネルの工事に着工。昭和35年竣工をみた。

 小学校時代の恩師・金井満男は次のように述べている。
 「西山の住民の願いは、地蔵峠にずい道を掘って『陸の孤島』から抜け出すことだったんだ。県にはずいぶん陳情を重ねたが、とても相手にしてくれなかった。田中派代議士になってまず手がけたのがこのずい道づくりではなかったか。田中という政治家の発想のルーツだな」。
4.28  日華条約調印。
5.1  【血のメーデー事件】
5.16  【耐火建築促進法成立】角栄はその提出者。
6.2  【道路法成立】角栄はその提出者。
 【宅地建物取引業法が成立】角栄はその提出者。
6.10 ◎田中らの議員立法となった道路法(道路整備特別措置法、特定道路整備事業特別会計法)が公布された。「今まで表日本偏重の予算投下が長い間続けられ、裏日本とか、(裏日本からの)横断道路などが未改良になっている。これを整備しなければ」(参院建設委員会・大蔵連合委員会で)。後に、ガソリン税法、有料道路法を加え、道路三法の生みの親となる。
6.11  【公共土木施設災害復旧事業費国庫負担法改正法成立】角栄はその提出者。
7.7  【電源開発促進法成立】角栄はその提出者。
8.28  【吉田首相が衆議院解散(抜き打ち解散)】
◎この時の選挙活動で、中岡鉄道の労働組合大会会場での千羽幸治組合長の次の発言が注目される。
 「みなさん、田中社長は、倒産寸前の会社を救ってくれた恩人であります。田中社長の力があればこそ、電化にも踏み切れ、再建の第一歩を踏み出すことができたのです。しかしあくまで第一歩です。完全な黒字体制になるまで、まだまだ田中社長に働いてもらわなくてはなりません。我らが社長が当落線上をさまようようでは、とても今後の再建はむずかしくなります。我々が一致団結して、田中社長を当選させようではありませんか!」。

 会場は割れんばかりの拍手の渦であったと伝えられている。
◎この時の選挙活動で、自分の選挙だけでなく、太田蔵相の秘書官・大平正芳の応援に香川まで出かけている。大平は池田が蔵相に抜擢されたとき黒金泰美、宮沢喜一に続いて秘書官に起用されていた。池田と交流していた角栄は自ずと大平と誼を通じていくことになり、その逸材振りを見抜いて選挙応援に一役買おうとしていたようである。せっかちの角栄と鈍牛の大平はウマが合ったようである。この時の応援はただの応援ではなく、自分の選挙区より香川二区にとどまる時間の方が長かったほどの入れ込みようであった。

 この時の角栄の次のような演説が伝えられている。
 「みなさん、大平正芳くんは、選挙が弱いというので、不肖田中角栄が応援にやってきました。‐‐‐大平君は大変な大物であります。この私と力を合わせて、国政をやってもらわなければならない人物であります。いずれは必ず、二人とも国頭になるでしょうけれども、そのときは、年の順からいつても先輩である大平正芳君が先、私はその後であります」。
10.1  【第25回総選挙】角栄初のトップ当選。得票数は6万2788票。前回より2万票増やしていた。この時の選挙で、福田赳夫・大平正芳氏が初当選。次のように述べている。
 「これで代議士も三回目、そろそろ中央政治家として活躍しなければならないときだが、もう一期県内の仕事に主力を注ぎたい」。

 判官訴追委員、自由党総務に就任。
10.4 第4次吉田内閣発足自由党は絶対多数政権となった。
12.1 ◎佐藤昭が田中事務所に勤務、初出勤の日となる。それまでの曳田昭治に加えて二人目の秘書となった。
12月 衆院建設委員会に道路法を提案する。衆院は通過したが、参院で野党の抵抗や大蔵省側の巻き返しにあい審議未了となる。
◎この頃、当時国家地方警察本部警備部警邏交通課長であった後藤田正晴氏との出会いをしている。後藤田は予算の陳情のため、第一議員会館210号室に陣取っていた角栄をしばしば訪れている。後藤田は、角栄が安請け合いはしない代わり、できること、できないことを仕分けして、一度「分かった」といった陳情は必ず片付けてくれることを知ったと伝えられている。
 政府が、水利権を福島側の東北電力に与える事を閣議決定。9月、只見川開発の為の9電力会社と、政府出資による電源開発株式会社を設立する。

1953(昭和28)年、角栄35歳

2.28  【吉田首相、衆院予算委で「バカやロー」発言】
3.5  【ソ連のスターリン首相死去】
3.14  【衆議院解散(バカヤロー解散)】
3.18  【自由党、吉田派と鳩山派に分裂】
4.4 ◎中央工学校の校長となる。(1972年に退任)
4.19  【第26回衆議員総選挙】角栄は、トップ当選。6万4949票。この時、新潟3区は定員5名中社会党が右社2(稲村順三、小林進)、左社1(三宅正一)の3名を占めている。戦前からの日農の伝統を受け根強い社会党の地盤があったということになる。

 自由党新潟県支部長に就任。理研化学会社社長に就任。
4.27 ◎理研科学工業株式会社社長となる。
5.21  【第5次吉田内閣発足】少数単独政権。
6.28 ◎加茂市に戦友が中心になって越山会第一号。「発足のきっかけは、田中が直々に会を作ってくれと頼んできたからだ。会名も指定してきた」(戦友・高野清治)。昭和20年代の後半、田中の選挙区のあちこちで越山会が結成されていく。自然発生的であったところに特徴が見られる。
この頃、長岡鉄道の業務に砂利採集を加えている。これは、角栄の甥である田中信雄の戦友であった小林(岡山市出身)が戦友の約束を果たす為参加してきたことによる。小林は、元三井船舶の社員でこの方面の専門家であった。これが不振を続ける長岡鉄道の起死回生の一手となっていく。
6月 再び衆院建設委員会に道路法を提案する。殆ど一人で答弁に務め、立法化される。
7.10  【北海道防寒住宅建設促進法成立】角栄はその提出者。
7.13  【道路整備費の財源等に関する臨時措置法が成立】角栄はその提出者。
7.27  【朝鮮戦争の休戦協定調印
7.28 ◎只見川政争が決着。福島県の推す本流案に、黒又分水を加える。「宴会攻めで一年に4千万円も飲んだ。田中は岡田知事と一緒にバカ騒ぎしてた。男のシンボルの大きさ比べを宴席でやっていた」(元社会党県議・小林寅次)。
7.29  【地方鉄道軌道整備法が成立】角栄はその提出者。
8.3  【建築士法改正法成立】角栄はその提出者。
8月 ◎理研化学株式会社の社長に就任(56.3月まで務める)。
10.23 田中、公共事業(先進国の道路整備と都市計画)視察のため、ヨーロッパに出発、初の海外視察となった。同行者は佐藤虎次郎、久野忠治ら。イギリス、西ドイツ、フランスなど西欧諸国を1ヶ月余をかけて訪問した。帰国後、角栄が前年に秘書になったばかりの佐藤昭子に次のように語っている。
 「(西ドイツの)アウトバーンはすごい。とにかく飛行機が離着陸でき。いくら車がスピードを出しても、ダッシュボードにおいたコップの水が一滴もこぼれないんだ。日本の道路とは大違いだったぞ」(佐藤昭子「決定版 私の田中角栄日記」)。
11.29  【自由党から分党していた鳩山ら23名が復党】三木武吉ら残留派は日本自由党を結成。
 政府が、「本流の開発を基幹とし、一部は新潟県側に分流する」最終妥協案を出す。新潟県側が、この妥協案を呑む。

1954(昭和29)年、角栄36歳

2.8  【造船疑獄事件が発覚】政治家、官僚の逮捕が続く。
4月 ◎中央工学校校長及び理事長に就任。
4.21  【造船疑獄で、犬養法相が指揮権発動】佐藤栄作自由党幹事長の逮捕を阻止する。
5.13  【池田隼人が佐藤栄作に代わり幹事長就任この時、田中角栄が自由党副幹事長になっている。
◎日本住宅協会常務理事に就任。
5.20  【土地区画整備法公布】角栄はその提出者。
7.1  【防衛庁・自衛隊発足】
11.24  【自由党新党派、改進党、日本自由党が合同して日本民主党(総裁・鳩山一郎)結成】
11.28  【自由党議員総会で、吉田総裁の引退と後任に緒方竹虎を決定】
12.7  【第5次吉田内閣総辞職
12.10  【第一次鳩山内閣発足】
12月 ◎角栄は、追って衆院商工委員長に就任する。

「吉田が倒れる時、田中は吉田13人衆の末席に連なっていた。鳩山政権下で佐藤栄作は吉田に殉じて冷や飯時代を迎える。この失意の時に田中は佐藤と結びつく」(東海大教授・内田健三)。

1955(昭和30)年、角栄37歳

1.24  【衆議院解散(天の声解散)】
2.27  【第27回総選挙】角栄は、2位当選。5万5242票。トップは左派社会党の稲村隆一。

 当選直後、新潟日報に次のような抱負を述べている。
 「代議士として計画した公共土木事業の5カ年計画、なかんずく道路、土地改良、治山治水利水計画の遂行により、農村漁村の経済確立を図ると共に、占領軍政策の行き過ぎ諸法律、諸制度の再検討を為し、日本再建について実際的仕事をやりたい。(自由党は)政局の安定を図るため、民主主義と政党政治の筋を守りながら保守大合同を図らねばならない。叉、自立経済確保のための諸政策、なんずく占領軍政策の行き過ぎ、日本に合わない諸制度は改革しなければならない。さらに、日本経済確立のため耐乏生活も要請されるが、緊縮の馬鹿の一つ覚えを変えて、景気を良くする為の諸政策を勇敢に断行すると共に、生産面に対する投融資を大きく拡大する必要がある」。
◎この頃恩師の草間校長に「代議士を辞めたい」と次のように悩みを漏らしている。
 「代議士連中は口を開けば、日本のため、日本をどうするか−などというが果たして何人が本当に国家、民族のためを思うて行動しているのか疑わしい。政治家だけが日本の政治を動かしているわけではない。政治家を辞めても、日本のためになる道はあるのではないか」。

 草間先生は「日本のことを本当に考えている政治家が少なければ少ないほど、君は政治家をやめてはいけないのではないか」と諭した。翌朝、角栄は、「代議士をやめることはしません。しかし、代議士を続けるなら、ただの代議士にはならないぞ」と答えている。
3.19  【第二次鳩山一郎内閣発足】少数単独政権。
3.27 ◎衆院商工委員長に就任(12.5日まで)。
7.8  【日本住宅公団法公布】角栄が立案に参画。
7.11  【住宅融資保険法公布】角栄が立案に参画。
8.6  愛知用水公団法公布角栄が立案に参画。
9.2 ◎長岡鉄道不正事件で長岡署が長岡鉄道本社などを捜索。特別背任容疑で田中を書類送検。
10.13  【左右社会党が合同】左右社会党の統一大会が開催され、統一綱領を採択した。 綱領には、「共産主義は事実上民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、相容れない存在となった」、「我々は共産主義を克服して、民主的平和のうちに社会主義革命を遂行する」と明記された。統一社会党初代委員長には鈴木茂三郎がなった。書記長浅沼稲次郎.顧問河上丈太郎。
11.5  【自由党と民主党が合同して、自由民主党誕生】こうして保守合同も為された。これ以降政局は自・社二大政党で運営されていくことにり、「55年体制」と云われている。

◎初代幹事長は岸信介氏が就任した。総裁人事が進まず、鳩山・緒方竹虎・三木武吉・大野伴睦の4名による代行委員で新党を運営することになった。「階級政党としての社会党に対決する国民政党」が標榜された。

◎この時、吉田茂は、政敵鳩山とは与せずとして、合流しなかった。佐藤栄作もこれに殉じている。田中は、佐藤の勧めもあり、保守合同に参加した。
11.15  【第三次鳩山一郎内閣発足】絶対多数政権となる。
12.5 ◎衆院商工委員長を辞任。

1956(昭和31)年、角栄38歳

3.14  【道路整備特別措置法、日本道路公団法公布】角栄が立案に参画。
4.5 【 自民党大会で鳩山氏を初代総裁に選出】角栄は党政策審議会委員となる。
4.6  【積雪寒冷特別地域における道路交通の確保に関する特別措置法、官庁施設の建設等に関する法律成立】角栄はその提出者。
4.20  【都市公園法、空港整備法公布】角栄が立案に参画。
4.26  【首都圏整備法公布】角栄が立案に参画。
10.19  【日ソ共同宣言】日ソ国交が回復した。
12.18  【日本、国連に加盟】
12.20  【鳩山内閣総辞職】ポスト鳩山は、岸信介・石橋湛山・石井光次郎の三者で争われることになった。この時角栄は、佐藤とともに岸を推している。総裁選挙は岸が一位になったものの過半数に達せず、第二位の石橋との決選投票の結果、石橋が7票の僅差で岸を破った。石橋−石井連合によった。
12.23  【石橋湛山首班内閣が組閣される】この時岸信介は入閣を拒んでいたが、角栄の「あんた方は官僚じゃないか。長いこと敵みたいなヤツの下で、唯々諾々と使われて平気なのが官僚だろう。官僚は第一線にいなけりゃならないんだ。第一線の実務から離れたら、もう使い物にならないんだ。だから石橋内閣に入りなさい」と説得し、岸はこれに従った。
「この頃の角栄は、早く寝て、夜中の12時に起きて勉強している」
◎党の政策審議会委員を務める。
11月 ◎義理の娘を池田隼人の甥に嫁がせる。





(私論.私見)