別章【社青同解放派の理論】 |
(最新見直し2013.01.28日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
「資料室」に出くわした。これを採録しておくことにする。とりあえずリンク、追々サイト化して取り込むことにする。過去の言説を歴史資料にしておくことは運動体又は公党の義務であろう。日共の悪い癖にならわず他党派でもこのように資料化しておかねばならないところ、社青同解放派系全学連が逸早く為したことを高く評価しておく。何事も原則をこう云う風に踏まえるところに将来の伸びがあり逆は逆だろうと思う。 2013.01.28日 れんだいこ拝 |
関連サイト | ||
目次 | |
bP | |
解放派の組織建設史1(共産主義者通信委員会)から革労協結成まで)(1965.8.17日) | |
解放派の組織建設史2(共産主義者通信委員会)から革労協結成まで)(1965.8.17日) | |
001 |
日本革命の前哨戦、日韓・ヴェトナム闘争を徹底した実力闘争で闘い抜け!(1965年9月) |
002 | |
003 | |
004 | |
005 | 羽田闘争の総括と展望―日本プロレタリア人民は70年安保への進撃を開始した― (1967年12月) |
006 |
革命的労働者党建設への道は何か ―学生戦線からのアプローチ (1968年春) |
007 |
プロレタリア革命における軍事路線 (「党・ソヴィエト・武装蜂起」所収 1972年) |
008 |
小ブル急進派(連合赤軍)の破産を越えて プロレタリア革命へ向かって前進せよ |
009−1 | |
009−2 | 中原一/革共同革マル派批判その2 (1973年) |
革共同革マル派組織論批判 | |
010 | |
011 |
現代ファシズムとプロレタリア革命(1988年 檜垣岳人署名論文) |
012 | |
013 | 2001年9・11同時テロに対する革命派の態度と、対アフガン―中東反革命戦争に対する闘いの呼びかけ |
014 | 解放派弾対部発行パンフ 「(増補版)これが転向反革命集団=木元グループの実態だ」(2003年12月) |
015 |
木元グループ「綱領・規約」批判 (2003年 結城勉署名論文) |
016 | 対イラク―中東反革命戦争・朝鮮反革命戦争を粉砕せよ! |
017 | 「延坪島事態」1ヶ年―朝鮮反革命戦争を粉砕しよう! |
018 | 多岐川走「2.11同志中原虐殺報復30ヵ年決戦に総決起し反革命革マルを解体・絶滅せよ」(「解放」880〜884号、2007年3〜5月発行) |
019 | No.0420 プロレタリア統一戦線の一翼としての革命的学生運動の飛躍を (革命的労働者協会学生委員会「解放」954号2010年04年01日) |
インターネットサイト | |
参考文献 | |
情報ストック |
(私論.私見)
「社会党・社青同・社会主義協会派批判」 |
「社会党批判」 |
西山次郎 |
第一章 社会党批判の実践的課題 なぜ社会党をとりあげるのか 日本社会党は依然として日本労働者階級の政治的多数派を代表しつづけている。共産党=産別ブロックが自己の誤りとアメリカ帝国主義(GHQ)の弾圧という両方の破壊力によって一九四九年から五○年にわたって解体され、日本階級闘争の前面から退場を余儀なくされて以来、これにとって代った社会党=総評ブロックは、一九五〇年以来、いっかんして、日本労働者階級の政治的多数派の座にありつづけてきた。 スターリニズムの社民化 社会党は議会主義であり、平和主義であり、現状維持であり、改良主義であり、……すなわち革命的ではない。世界の社会主義運動の歴史をみると、社会党(すなわち社会民主主義)の帝国主義への屈服は一九一四年にはっきりとしめされた。社会民主主義が革命党でないという結論は歴史的にはすでに祖国防衛主姿に転落した一九一四年(=第一次帝国主義戦争)で下されたのである。それ以後、社会民主主義は帝国主義政治体制の一支柱へと自己を転化して、このなかで生きのびてきている。 「不思議な党」―日本社会党 毛沢東が日本社会党を指して「不思議な党」であるといってから、この言い方は随分と流行した。この言葉にはいろいろの意味を込めることができる。ふつうは“社会民主主義の党でありながら不思議と日本社会党は戦闘的で左翼的である”という内容を込めて使われる。日本社会党を論ずる多くの評者はこの党の階級性、左翼性を特徴として必ず指摘する。例えば、 誤解から幻想が生まれる 社会党の内部に戦闘的、左翼的分派が生まれ存続してきたということを一面的に把えることによって、社会党への過大評価がなされてきた。 中間主義者による社会党批判 帝国主義の危機がいっそう深化すると、この帝国主義体制のなかに組み込まれていた社会民主主義やスターリニズムが政治的に動揺を起こして、その内部からさまざまの左翼中間主義を発生させる。社会民主主義とスターリニズムも中間主義の一種ではあるが、この中間主義がさらにいくつかの中間主義を派生させるのである。 統一戦線と党派批判 スターリニストによる打撃的社民批判や中間主義者による無原則的社民評価という誤りに対して、唯一われわれトロツキストが統一戦線の立場から社会党の分析と評価をおこなってきたのである。この理論と実践の双方の分野における活動は、日本のトロツキズム運動の開始とともに着手されたのであり、一九五〇年代のはじめから、山西英一氏の闘いから持続されてきている活動である。この活動ぬきには、日本のトロツキズム運動はありえなかったであろう。 革命の道への過渡的状態 「この二つの党は、中間主義組織を代表している。両者の違いは、スターリニストの中間主義がボルシェヴィズムの解体の産物であるのに対し、社会党の中間主義は改良主義の解体の中から生まれたという点にある。もうひとつ、これに劣らず本質的な違いがある。スターリニストの中間主義は、その発作的なジグザグにもかかわらず、強力な官僚階層の地位と利害に不可分に結びついた非常に安定的な政治体制を代表している。社会党の中間主義は、革命の道への出口を探し求めている労働者の過渡的な状態を反映している。」(レオン・トロツキー「ブルジョア民主主義の危機とフランス社会党」・第四インターナショナル・一四号・一四八頁) |
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第二章 日本社会党の歴史 第一節 前史―社会民主主義の歴史的継承 明治からの社会民主主義の流れ 戦前の社民三派が社会党をつくる 共産党の結成 労農派の形成 第二節 結党・人民戦線・片山政府 天皇万才・国体護持でスタート 人民戦線の気運 片山中道連立政府 |
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第二章 日本社会党の歴史
第三節 再建.左右分裂・総評とのブロック形成 選挙で一挙に転落 アジア革命の前進と“戦後革命”の敗北 ニワトリからアヒルへ 左右分裂・社会党=総評ブロックの形成 平和共存体制への移行 左派社会党における綱領論争 第四節 一国的国民平和主義における戦闘的改良主義の展開 左右統一・六全協・保守合同――一九五五年 軍事基地反対闘争 革同の切捨て、民同の右傾化 |
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第五節 安保・三池闘争・組織改革・構改論の抬頭
勤評・警職法・安保国民会議 三池闘争―協会派の限界 構改三派の形成と「社会主義のたましい」 組織改革―政治新聞、青年同盟 動揺常なく―ジグザグを描して衰退へ 第六節 歴史的衰退のはじまり 原水禁分裂・中ソ論争 日韓条約―日本帝国主義の離陸 北爆―アジアの革命と反革命 急進的闘争の高揚と党の衰退 “革新自治体”による改良の路線 反戦青年委員会と社会党 |
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第三章 社会党はどこへ行くのか
戦闘性、左翼性を生みだした基盤の崩壊 “社会党の左翼バネ”として、清水慎三は戦前からの社民左派、労農派マルクス主義、民同グループ、青年部の四つのファクターをあげ、この四つの要素が情勢の転回のなかで社会党が右へブレるのを押しもどし、左へと反撥させる力であると分析している。この分析はまず大前提に社会党の左翼バネのインパクトが党を構成する主体に内在していることをアプリオリに認めている。まずこれが誤っている。 戦闘的改良主義の終り 社会党を構成する主体に戦闘性と左翼性があったのではなく社会党が存立した基盤が戦闘的改良主義を許容したのである。それは先に述べたように、第一に高度成長であり、第二に一国的国民平和主義である。高度成長は労働者に絶えざる賃上欲求の力を拡大持続させ、春闘方式は改良の闘いではあるが大衆のエネルギーを動員して戦闘的に展開されてきた。アメリカ帝国主義の傘の下にあって温室としての国民平和主義の構造のなかで、社会党は反戦平和、反原爆の国民意識の政治的代表者たりえてきた。 非武装中立の社民路線はアジア革命の前に破産 現実には日米軍事同盟を結び、自衛隊を持ちながらこれらを観念の上で否定することによって国民平和主義がつづいた。この観念を“政策”にしたのが社会党の非武装中立である。非武装中立路線はアメリカ帝国主義がアジアに労働者国家と植民地革命を軍事的に包囲する戦略を選択して、日本の沖縄から北海道にいたる全島に軍事基地をつくりあげ、国内の階級闘争の鎮圧と、米軍への戦術支援を任務とする軍隊の創設を容認し、かつ育成した過程においては、これに反撥する日本の大衆の平和的意識を表現する立場として、現実の根拠をもっていた。 派閥の再編・社共路線と社公民路線 若手議員を集めて「新しい流れの会」が結成されたが、このグループは市民主義的性格をもち、構改派が没落した後では、このグループが大衆の意識の変化にもっとも敏感に反応している。来るべき次の大衆の急進化においては、非協会系左派グループとこの新しい流れの会のグループが急進的エネルギーの圧力に対応しようとするであろう。しかし、新しい流れの会は都市市民の民主主義的意識を平和的に表現しており、その基盤はプロレタリア的ではない。その性格はネオ右派ともいうべきもので、階級闘争の諸原則とは遠くはなれた存在である。自民党政治が強権化、反動化に向うとき、このグループは民主主義防衛をもって一定の戦闘性を発揮するかも知れない。しかし、このグループは戦略的な位置をもつことは決してないであろう。 階級的力関係を反映する党としての社会党 いま社会党の前に提起されている政治路線は、人民戦線、中道左派路線、中道右派路線である。どれをこの党はえらぶのか。それはこの党が主体的にはえらべないことである。ひとつだけはっきりしていることがある。まだこの党の前に提起されている路線は、いずれも日本帝国主義を左からささえる路線であって、まだ「革命への脱出口」となるべき路線は提起されていないことである。にもかかわらず、来るべき大衆の圧力はこの党をして激しく左右への動揺のなかへ押しやるであろう。この党はブルジョアジーの力、プロレタリアートの力のぶつかり合う階級闘争の力学を歪少化してはいるが反映させる党として存在しつづけよう。それがまた、この党の最後に残された“美点”である。 プロレタリア統一戦線へ 革命への脱出口をつくるのは、われわれしかいないのである。社民やスターリニストがあれこれ経験的行為をくりかえして、革命への脱出口をさぐりあてることはできないし、かれらはむしろそうするよりブルジョアジーに投降するであろう。スターリニストは自らがブルジョアジーに投降するのをいんぺいするために社民にあらん限りの悪罵を投げつけ、自己の正当性を守ろうとする。「社会ファシズム論」や「社民主要打撃論」がそれである。これは階級闘争と革命運動に致命的打撃を与える誤ったやり方であることは歴史が幾度も教えてくれたところである。 |
第二章 社青同批判
1 新しい綱領 すべての反対派を排除して自派単独の「社青同」をつくり終えた協会向坂派は、社会党の公認を得て、“再建”にのり出した。七二年一〇月の第一一回大会では、社青同が「学ぶ」ための組織であることを確認し、七三年一二月の第一二回大会で、新しい綱領を採択した。 以上が、新しい綱領が新しくつけ加えた特徴である。新綱領と旧綱領の間には、明白な断絶がある。われわれはすでに、六〇年代を生きた社青同と今日の社青同が歴史的経過において別のものであることを見た。いま、そのことは綱領の検討によって確認された。 2 社青同の運動 社青同の運動の特徴は、次のようなところにある。 3 社青同の組織 歴史のくずかごに投げすてられかねない危険に、わが社青同の指導者達が気づいていないと考えるとすれば、礼を失することになる。彼らは、六〇年代全体を通じて、いやというほどその瀬戸際に立った経験をもっている。彼らには、自分の運命に関する十分な危機意識がある。この危機意識は、彼らの組織理論に反映せざるを得ない。いうまでもなく、組織理論は「規約」として定式化されるのであるから、われわれは、社青同の新しい規約を検討するたのしみにとりかかって良いのである。 4 社青同の未来 社青同が果そうとする結論的役割りは、人民戦線の青年行動隊である。したがって社青同の未来は、人民戦線の未来と一体である。彼らは、ドイツ・プロレタリアートのファシズムにたいする敗北を「総活」したディミトロフの「統一戦線論」を援用して彼らの反独占統一戦線を語る。ディミトロフのコミンテルン第七回大会報告の結語に、統一戦線の一番基本的な考え方がのべられているという。 |