まえがき |
解放派はプロレタリア革命の主体としての革命党を前衛党(共産主義者の党)ではなくて、労働者が階級として行動する党、革命的労働者党として性格付けてきた。それは、「労働者階級の解放は労働者階級自身の事業」という基底的原則の必然的帰結である。その上で、共産主義者の前衛的役割を、労働者階級の階級形成の媒介者としたが、それは、労働者階級に代わる主体なのではない。
マルクスは言っている。
「所有階級の集合的勢力との闘争において、プロレタリアートは、その勢力を独立の政党に組織し、所有階級によってつくられたあらゆる旧政党と対抗することにより、はじめて、一階級として行動することができる政党というようなプロレタリアートの組織は、社会革命の勝利を達成するために、とりわけ、その究極目標たる階級の廃止をなしとげるために、なくてはならぬものである。産業の戦野ですでに達成された労働者階級の諸勢力の団結は、搾取者の政治的権力との闘争の際に、労働者階級の手中にある梃子として役立たなければならない。土地と資本の貴族は、彼らの経済的独占を永続化し、擁護するためにまた、労働を奴隷化するためにいつも、彼らの政治的特権を利用する。それゆえ、政治権力の獲得が、プロレタリアの主要義務となるのである」(第一インターナショナルの規約第七条にとり入れられたハーグ大会の決議)。 |
「共産主義者はそのほかのプロレタリア党と次の点で全く同じである。すなわち、プロレタリアートの階級への形成、ブルジョアジーの支配の打倒、プロレタリアートによる政治権力の獲得」(『共産党宣言』)。 |
このレーニン外部注入論批判の上に立った組織論は、当時、「組織論」といえばレーニンしか知らない者たちからは、「解放派には組織論がない」というレッテルとともに、ほとんど無理解で迎えられた。それは「帝国主義論」についても同様である。かつてはそれほどにレーニンの呪縛は強かったのである。 |
『解放6号』では、「可能で唯一の正しい党建設の道」として、「それは日本社会党の内部に、共産主義=革命的マルクス主義の徹底的な純化をめざす公然たる組織的な分派の形成から始めるべきであるということだ」とされていた。解放派の組織建設過程とは、ある意味ではこの実践過程である。しかし、原理と現実は一つではない。「現実のなかではきわめて凹凸のある過程を辿る」ものである。しかし、この文章では、組織建設の大きな道筋を述べることを役割として、細部にわたる議論は今後の課題としたい。
〔註 解放派の組織建設過程を示す諸論稿は、大半が、滝口弘人の手によっており、その限りでは『滝口著作集』にレジュメ類を除いて全て公表されているが、背景説明がない、テーマ別ではなくて時代順に配置・編集されていることから、その流れを読み取るのは必ずしも容易とはいえない。 ここでは、組織建設の流れに重点を置いて要約し、「通信」類も必要に応じて「資料」として掲げたいと思う。
戦後階級闘争史を振り返りつつ、我々の歩みを振り返った論文として、滝口弘人「われわれの問題追求史――階級闘争の開示した問題との関係で」(初出一九七八年機関紙『解放』二〇六号(一月一日・十五日合併号)上、二一〇号(三月十五日)中、二一一号(四月一日・十五日合併号)下、まとめて機関誌『解放』№9に収録、改題して『滝口著作集③』所収)がある。今日の時点からしてそれに代るものを書いたとしても、屋上屋を重ねるようなものである。この文章では、当時の文書を基に、組織建設の具体的過程を述べていくが、その時代背景を描くにあたって、この論文を用いている。《 》で、表示。〕 |
(一) 六十年安保闘争前後 |
政治潮流としてのいわゆる「解放派」の始点が、『解放6号』(通称、ナンバー・シックス)であることは、いうまでもない。ただその時代背景には、一九五八年頃の時代の転換がある。それは何よりも「新左翼」の登場に示されている。前掲論文は、一九五八年という時点から六〇年安保までの時代と出発点的問題意識をこう述べている。
《こうしたなかで、一九五八年は戦後日本の〈政治的独立〉に続いて成立した日本における〈秩序党〉=自民党の独裁に対する階級闘争の公然たる衝突の開始の年となった。このようなものとして同時に六〇年安保改定阻止闘争の始まりとなった。すでに五七年の春闘の中で、三・二五闘争のうちに胚胎していたものの継続としての国鉄新潟闘争(七月)は「藤村斡旋案」によって収束され、同年秋には日共が「党章草案」を発表して、「新綱領」以降労働者の階級闘争の波打際にたたきあげられている状態に何とか手直しをはかろうとしはじめていたが、総評主流(太田・岩井派)の春闘を中心とした産業別賃金闘争にその反主流(高野派)の地域闘争路線が相互作用して、激烈な勤評闘争から、〈国民会議〉という組織形態を生みだした警職法闘争(一〇月七日警職法改正案緊急提出、一一・五闘争、一一月二〇日岸・鈴木会談による審議未了の合意)へ、そして、九月に始った日米安保改定交渉、中国の陳毅声明とソ連のグロムイコ声明(「中立」の呼びかけ)、安保国民会議の結成へ。
授業料値上げ反対闘争で緒につき、教育三法、ゲリマンダー反対闘争で再建された全学連は、憲法擁護か原水禁かの若干の議論があったが、原水禁に集中して(第一回原水禁世界大会)、砂川闘争に押し上げたが、その五六年末「反米帝」を強調する主流派に対する「反独占」を主張したトリアッチ主義的な反主流派が芽生える。国鉄運賃値上げ反対、学生定期割引き率引下げ反対に若干とりくんだのち、「平和擁護闘争の第一義的任務」を強調して、ふたたび原水爆禁止をかかげ、五七年には英クリスマス島核実験反対に集中し、ソ連大陸間弾道弾、さらに人工衛星スプートニク打ち上げを高く評価し、これを背景に米帝を国際的に追いつめるとする――「平和擁護闘争」の極左化とはかかるものである――。この日本の支配階級の支配階級としての問題をふっとばした反米帝闘争主義(他方にトリアッチ主義的反独占主義)の“大衆的学生運動”は、その敵を国内に見出すや、突如として、全学連中央が車の前に身を投げ出す上野道徳講習会阻止闘争(「平和擁護闘争の第一義的任務」の裏側)から、突撃的に勤評闘争へ、そして警職法闘争へ。この中で、六・一事件と日共第七回大会による行動綱領決定を経て学生運動を労働運動の「同盟軍」とするいわゆる同盟軍規定をもっての学生運動の「転換」。反主流に革共同(関西派)の急速な台頭と全学連中央の一時的ヘゲモニー、主流派のブントへの形成とその間の抗争。この一九五八年の学生運動の「転換」は、ブントの学生=小ブルと見なされた学生運動の労働運動に対する「警鐘乱打」的「先駆性」論を特徴とする政治主義と四トロの学生=産業予備軍とみなされた就職闘争を特徴とする経済主義という二つの類型が現われたが、これらに対するわれわれの批判としての、学生を労働力の再生産過程にますます組み込まれつつあるものとして分析し把握して、これに基いて労働者階級の闘争の一環として学生運動の質的転換を推進。
このようにして一九五八年に、アメリカ帝国主義は際だった優位に立った。しかし第二次世界大戦後の資本主義工業諸国の相互対立がすでにはじまっているなかでのヨーロッパにおけるNATOの成立、朝鮮戦争の中での五二年四月二八日の講和、安保両条約の発効をもってする戦後日本のブルジョア的〈政治的独立〉、労働者階級人民の増大する反抗を抑圧するための五五年二月の日本の支配階級のあらゆる政治上の諸分派の連合した議会制階級独裁たる〈秩序党〉の独裁の成立(保守合同、自民党の成立)の下で、帝国主義ブルジョアジーとして発達する戦後日本ブルジョアジーが勤評、警職法から安保制定への過程に突入し、ここにおいて対抗するべきまさに日本における階級闘争が問題になっていたのである。
われわれは、第一に、綱領の本質的性格はとりわけその国際性に示されるが、日共の「新綱領」「党章草案」へとあらわれた講座派の綱領的性格の集中的表現をその〈「平和勢力」〉論において、左社の「向坂綱領」としてあらわれた労農派の綱領的性格の集中的表現をその〈「第三勢力」〉論においてつかみ、その「平和勢力」論と「第三勢力」論の古い二つの典型の批判的突破を、現代世界の基本矛盾を世界的な階級矛盾において、両体制の対立をこの世界的な階級矛盾の転化形態においてつかみ、この現実の衝突を意識して闘いぬくべきこと、ここにおいてこれは同時に「新左翼」としてあらわれた「労働者国家無条件擁護」、「反帝・反スタ」の新しい二つの典型の批判的揚棄として推進されるべきで、第二に、学生を現実に進行する階級矛盾において今日的にとらえなおし、「小ブル」論や「産業予備軍」説などの非現実的な見解に反対して、学生を現代資本主義における労働者の生産・再生産過程にますますくみ込まれつつあるものとして、その根底に反省しつつ学生戦線においても階級闘争を組織して闘わねばならぬこと、そして第三に、日米安保の改定を単なる従属論や自立論やその組み合わせでしかみることのできない「反共軍事同盟」論や「帝国主義同盟」的見解に反対して、これを国際反革命階級同盟の再編強化としてつかみ、まさに階級闘争としての対抗が課題となっているのだということ――このことを押しだし、社青同の創成期に突入した。
勤評闘争の中で、日本学生運動の転換点に立って、「新綱領」をひきずりながら第七回党大会に向っている日共とそれに対する左社綱領をぼかしながらの統一社会党左派を見つめて自己の実践の原理を反省しつつ、党派的綱領的指導原理(指針)をつかみとり、うちたてること、綱領的基礎に根ざしている欠陥が当時の全学連に一般化している情勢分析における客観主義と方針における主観主義としてあらわれ、その突破のためには、情勢分析は自己の実践の根底(原理)を現在的に明らかにすべきものであり、学生運動は学生自身の本質的な把握をふまえて原則的に実践しなければならぬこと、そしてこの党派的綱領的根底は、日本労働者運動の明らさまとなった原則綱領的対立のなかで、日共綱領の本質的特徴を示す「平和勢力」輪への批判において同時に左社綱領の本質的特徴を示す「第三勢力」論を止揚するものこそプロレタリアートの世界的結合であるということ、これは一方では日米同盟を階級同盟として把握する情勢分析において、他方、生けるプロレタリア運動に対立するあらゆる党派主義の死滅の基礎づけとして、また学生運動の転換はそれに基礎づけられなければならぬものとして、示唆され押しだされた。こうして三池闘争が決戦に向かい東京地評は二十余の争議団をかかえ安保闘争に突入した五九年には、夏の全学連大会において、秋の東京青学共闘結成において、日米階級同盟の再編強化に抗する階級の闘争の組織化の路線を突きだしながら、労学両戦線での社青同の結成をその最先端を切り拓き推進しつつ、韓国における李承晩打倒の闘いと相互作用した六・一五を貫徹する安保闘争のプロレタリア的最左翼として自らを形成していった。》 |
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そして、さらに安保の総括としての『解放6号』から、我々の組織的端緒までの叙述を続ける。
《一九六〇年の六月闘争とその敗北は、日本の支配階級である日本ブルジョアジーの帝国主義的独裁が、台頭せんとする日本とアジアのプロレタリアートに対抗するためには、アメリカによる日本防衛の義務を確認した国際反革命階級同盟を自ら求めこれを手に入れたということ、そしてこの台頭せんとするプロレタリアートを真の敵としてこそ、支配階級は国家独占資本主義的諸方策を展開するのだし今日のあらゆる政治的反動が進行せしめられるのだということ、労働者階級が政治的統治能力の獲得に遅れをとった階級対立は浅沼刺殺の白色テロの向うにファシズムが不可避となること。有産階級の政治の政治的尻尾にいかに深く身をおとしているか、それから決裂し自立する労働者自身の団結がいかに大切になっているか、この問題を労働者自身に突きつけた。この問題との徹底的な格闘を、多かれ少なかれ社会民主主義的な、社会党青年部活動家、総評民同影響下の青年部活動家、新たな戦闘的労働者が主な構成員となって六〇年一〇月に正式結成された全国社青同において、われわれは貫き通してゆくのである。スターリン主義と社会民主主義等種々の小ブルジョア社会主義からの労働者の革命的自立、労働者階級の独立した党のための最も断固たる推進力を結集しつつ。
安保闘争の根底的総括をプロレタリア解放の展望としてつかみとるための『解放№6』―『共産主義=革命的マルクス主義を奪還するための闘争宣言(草案)』は、三つの条件によって成立した。病院闘争、研究会「プロレタリア解放闘争の歴史的教訓」、社青同班、の三つである。青年労働者が主力となっている社青同の支部の班が、安保闘争が作用して急速に拡大しつつ日共がなお指導権をもっている病院闘争にとりくみ、また別に「プロレタリア解放闘争の歴史的教訓」を主題とした世界の革命闘争史の研究会をおこない、その行動と討論を通じて自分たちを組織的に形成しつつ、全国社青同について発言する。このようにして『解放№6』は社会主義青年同盟の班―支部が生産したものである。看護婦労働者の職場(病院という工場)での闘いの中からの共産主義の〈理論〉にとって前提的な人間的主体としての出発、目前にするその発展を了解しその十分な原因の認識をもって、科学となってそれに結びつく理論(独立の主体である現実的諸主体たる労働者――単なる労働の担い手、ブルジョア経済学の「労働する家畜」ではない、経済学批判の「人間としての労働者」――の述語である意識としてその理論的階級意識となる)、労働者の組織での行動と討論を通じてのいっそう高い洞察への到達――これがレーニン主義への根底的批判へとわれわれを導いた。
六〇年秋、安保闘争の中からの階級対立に憤慨した白色テロが浅沼稲次郎を暗殺(刺殺)したとき、これが労働者階級に向けられた刃であるにもかかわらず日本社会党は政治的ゼネストの組織化に何らとりくむことなく構改(「構造的改良」=「構造改革」)論争にのめり込んだが、「所得倍増」をかかげて階級対立を隠蔽せんとした池田の自民党政府は、その白色テロを六一年には三度にわたる政暴法のもちだしに結びつけた。韓国での朴クーデターは日本の支配階級のこの動きを強め、憲法改悪の野望をまたもや惹起するように作用した。台頭する西ドイツとEECの強化、日本の再興、国際反革命階級同盟の再編、そのなかでのソ連の五〇メガトン核実験は、プロレタリアートの国際的な団結というまさに追求すべき焦点から階級をそらす反動的なものとして炸烈した。こうしたなかで、まさに階級闘争である政治闘争の推進がますます課題となっており、われわれが社青同の組織的変革を通じてこれを追求しているときに、安保全学連を宮廷革命的に乗取り、学生運動を宗派的に分断したマル同は、「米ソ核実験反対」の名において、「革命闘争」でも「あらゆる階級闘争は政治闘争である」ような政治闘争でもない「政治闘争」なるものを追求して、そこに階級運動に対する宗派運動の対立という秘密をかかえていたのである。
憲法公聴会阻止闘争が、社青同を最初の、そして推進的な組織者として、六二年の春―仙台、夏―名古屋、秋―中央(東京)の公聴会阻止闘争として展開されるなかで、社青同全国学生班協議会と全国の強力な地本との結合が飛躍的に強化され、この中から、この年末―年初には共産主義的前衛として自らを形成する〈共産主義者通信委員会〉が生まれでた。アメリカのキューバ侵攻と中ソ論争の公然化に注目しつつ生まれでたこの組織が、プロレタリア革命の世界性、永続性、暴力性、現在性をプロレタリアートの階級形成において掘りさげつつ、労働者階級の外部に存在して外部から働きかける組織ではなく、この階級の内部に存在してその最も断乎たる推進力たり洞察力たる部分として自らを鍛えてゆく部分として、社青同と社会党の分派組織とその闘争の組織者となってゆく。》 |
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(二) 六二年一二月共産主義者通信委員会結成 |
われわれが、はじめて組織的端緒についたものとして、「共産主義者通信委員会」(略称:KTC、通称:「学校」)を結成したのは、一九六二年一二月であったが、その出発に当たっては、議論があり、試行錯誤もあった。前衛党建設であれば、正しい綱領とそれを信奉する少数者で、党建設の緒につくことは出来る。しかし、その道を批判した労働者党建設路線とは、「団結―闘争ー意識の変化(団結の変化)―再団結」の過程を組織建設の基礎にすえつけるということである。
近年、滝口の「前衛―党―大衆」論についての一知半解から、「党と区別して前衛組織を立てるのはおかしい」とか、「(エリート集団としての前衛組織ではなく、)大衆的前衛党建設であるべきだ」という議論が繰り返し噴出した。これは理論的な無知であるばかりではなく、実践的な過程にも目を瞑るものである。「レーニン外部注入論批判」として知られた『解放6号』に思想的に共鳴し、その方向性を軸にしながら結集を始めた青年・学生、しかしそこで展開されていた「労働者が階級として行動する組織」への端緒をいまだ把むまでにはいたっていない段階で、自らををいかに組織づけて出発するのか、その過渡期をいかに位置づけるかが最初にぶつかった実践的試練であった。
二つの道があった(と、「通信2号」は言っている)。
「3……
ここで簡単に社青同学協をみておこう。
一九六一年五月『解放』六号がでたが、それ以後党建設をいつも見つめていた。学生から党建設を出発させることは誤りであり、その中から発生しながらも直接プロレタリア解放闘争に生涯を結びつける人達を意識的につくり出し、そうした淘汰に生き残った部分と直接の労働者とが結合することができるまで、抑えて進んだ。一九六二年には、しかしその具体的な手がかりをつかむべき必要を階級闘争が課した。……
学生のこの機運に与えるべき方向は二つしかない。原則からいってこの二つのいずれかを選ばなければならず、その中間はない。いずれにしても、前述した一九六二年の情勢は、ただこの機運を抑えるべきではなく、方向を提起すべき時期であることには間違いない。この二つの方向とは、こうである。一つの道は、労働者運動に直接関与している所から出発し、そこを主体として、それに学生のこの機運を従属させるべき道、これは、党建設への道を直接踏み出すことを意味し、その母体、労働者運動内部の一定の結集が可能であることを前提とする道。他の道は、その道と異なった道ではないが、その道(根本的な道)に至るまで、迂回すること。この迂回の原則は、こうでなければならない。即ち、理論家集団、思想家集団と割り切ること。そしてこうしたイデオロギー集団は党建設の萌芽ではなく、また、あり得ないことを明確にし、ただ思想宣伝という媒介物だと位置づけ思想をバラまくこと。したがってそれは党への真直ぐな出発点に立つのではなく(党への出発となるためには、その理論家集団が一度解体され、さきほどの第一の道を通っている部分に思想も変革されつつ吸収される)、迂回することを意味する(これが党への出発だとする従来の考えの否定であることに注意!)。
原則からいって正しい方向は、この二つあり、この二つしかないこと、として把えた。いっそうはっきりいえば、この二つの方向は、かたちからみれば両極端のようであるが、実は、一つの方向の二つの形態(一つは直接的な、他の一つは間接的、媒介的な)であることはすでにみられたように明らかであろう。
それにしても、最初ためらいがあった。それは、労働者運動の内部の母体を形成するにはまだ時期が十分熟していないのではないか、ここのところに問題を感じ、ためらいがある以上、第二の道をまずとるべく決心する外にないと滝口は考えた。しかし、この考えは、あまりに「レーニン的」に見え、自分の原則を捨てているかに見え、そこで討論が全く噛み合わなくて、討論を終った。
そこで、もう一度、第一の道、直接に手をかける道を本格的に調べ、ぶつかって行くより外にない。
4 共産主義者の組織(以下前衛組織と呼ぶ)は、革命の徹底した理論的展望をもったプロレタリア的実践の断乎たる部分である。革命性の徹底した政治的理論の一致と、組織的実践の一致を築けばそれは前衛組織である。それがほんとうの大衆的力をもつかもたないかは階級闘争の歴史が決定する。どれだけの量いれば前衛組織であるかということは問題にならないはずである。前衛組織であるかどうかは量の問題ではなく質の問題である。このことは非常に大切である。どれだけの量で前衛組織に転化するのかと問えば、誰も答えられないはずである。これはいつかは前衛組織に転化するであろう、それまでは別のことをするという例の客観主義者の「量の質への転化」の悪しき理解となろう。
さて、こうした前衛組織には、まだ確かに達していない。その意味では、まだ過渡期である。
そういう過渡期は、この実現された前衛組織と同質の、しかし程度の異なるものでなければならない。この実現された前衛組織と異質なことをしていていつかは転化するであろうと考えることはできない。そういう過渡期に我々は一月初旬の会議をもって突入した。まだ実現された前衛組織ではないが、それと同質の過程へ入るという意味でこの日から我々の前衛組織がはじまり、原則的で戦術的な展望を明確にし、それとともにプロレタリア的実践の組織を整備すれば、それが、運動にどの程度強力であるか、どの程度、実際に全国的であるかにかかわりなく一応実現された前衛組織が生産され再生産される。
そこで、この意味での過渡期の出発はどういうものであったか、またはあるべきであったか。まず理論的には、『解放』六号を直接に踏み絵として出発することも、ただちに「原則的綱領」をふりかざして出発することもできない。なぜならそれは、さきほどのべた厳密な意味での過渡期が不要だということになるから。
およそ過渡期がなくて、突然あらわれるようなものは現実には存在しない。また、すでにのべたように、過渡期と実現されたものとは異質であるならば、それは他のものへの過渡期ではなくて、過渡にならなくて、それで終って目的に到達しない。したがって、最初の原則も革命の根本的性格と、それを実践する組織的な原則を太い線で最初から一致させており、それをいっそう明確にすればいいような原則でなければならない。こうして、「五つの原則」は、共産主義者がとらえるべき革命の四つの根本的性格、すなわち、革命の①永続的性格、②世界的性格、③暴力的性格、④現在的性格と、それを実践する組織戦術、党建設の道、すなわち、⑤既成政党の分派闘争を推し進めて革命的に解体する過程が同時に革命党の建設過程であるという原則的な党組織戦術を規定したのである」(一九六三年八月「通信」二号、『滝口著作集』①所収)。 |
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「Ⅳ 通信委員会は、出発点においてすでに、単なる社会主義的理論家集団としてではなく、プロレタリア的実践者の組織であるという性格を確保すべきこと。従って、学生等については、組織の最初の体質が大切であるから――共産主義者としては平等であるとしても――、現在の体質に見合った範囲に制限し、現在では正式メンバーに殆ど入れないこと。直接プロレタリア運動にタッチしている部分が常に多数として主軸になっている必要があるということ。
Ⅴ プロレタリア的実践者としての共産主義者の組織であるから、『解放六号』のようないわば原理を、最初から直接に踏み絵とすることはできない。
それでは最初の現在における共産主義者の太い原則、それは形式的には、いろいろの各人の原理によって位置づけられようが、その結論においては、結局あれこれのエセ共産主義者ときっばりとした区別を含み、本当の共産主義者の指標となるような原則でまず結集しなければならない。しかし、それはあくまでも、その最初の原則がいかに太い線で任務を際立たせていても、共産主義者の組織としての組織であるためには、その思想性の高さを示す見解が明確でなければならない。
……
Ⅶ 組織の公然化は、将来のいつかある日からのこととしてではなく、組織が陰謀組織でなく、巨大な大衆のエネルギーを受けて前進するためには、最初から、できるところから公然化の体制を取るようはかること。
Ⅷ 通信委員会が、単なる交流会や学習会でなくはじめから実践的性格をもち、ますますその性格を強化すればするほど、周囲に直接的な衝撃を与え――特に党建設の、太いがそれなりにはっきりした道をもった以上――、内部が秘密であることは、その性格の本性から生じる。
プロレタリア的実践の革命的任務をはっきり背負おうとする組織は必要な防衛措置をとらなければならぬこと。したがってX、Y、Zは、革命と革命党建設にたえる人間、行動、組織の防衛措置ということが根本的であって、従って位階制ではない。だから、組織内メンバーであるY、Zは能力においても、平等の立場に立ち、ただ事実で証明する一定期間にあるものがYであること(創生期をのぞき全員Yから始める)。――もちろん、組織内メンバーは相互に確認できる一定水準の能力をもたなければ、その考えを認めたというだけで入れることはできない。Xは、組織の体質の確保上、現在あまり多くを明確にできない学生であるとか、能力とか、その他の事情(家庭・職場等)で組織内メンバーとはなし得ないが、しかも、組織名を知り必要な諸通信を交換し、かつ明確に支持を表明する人達であること。」 「X、Y、Zは、スターリン主義的な位階性としてではなく、組織が実践的力をもてばもつほどますます必要となる防衛方法である」(同上、『滝口著作集』①所収)。
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出発の段階では、東京以外では、▽▽地方が正式の組織であり、それ以外に学生グループや△△地方のブント出身の学生と三池出身の労働者で作られた△△社研が、「通信一号」に現状報告を寄せている。通信委員会の唯一の学生メンバーであった江利生の報告は、今となっては、当時の学生班協の状況を知るのに貴重な資料であろう。(資料1:「全国の同志へ 学生班協議会に於ける活動の報告」)
この「通信1号」の取り扱いについて、
①「学協」及び「△△社研」の報告は、Y・Zへ配布。Xへは配布しない。
②「労働運動の情勢と総評大会」は、X・Y・Z及び学協解放派グループへ配布。
となっていることに、文中にあるX・Y・Zや未だ分派ではないという「学協解放派グループ」の扱いの実例を見ることができる。 こうして出発したKTCはここにあるように「秘密組織」であった。この「秘密組織」という組織性格については、マルクスの見解に踏まえた確認がある。 |
「Ⅴ 陰謀組織と秘密組織との区別
プロレタリア解放闘争はプロレタリア大衆の自覚した運動であり、共産主義は、歴史の運動がただ自然必然性として神のように超越的に独立自行する自然発生性のベールをはぎとり、はじめて、歴史を人間の意識的な、それだから自由な行為にかえる運動である。
プロレタリア大衆は、自分自身の活動を自分自身の意志として、展開することによってのみ、歴史の主人公として解放の自立した主体となることができるのであるから(すなわち、他の人間や諸条件によって知らぬまにあやつられるのでは、プロレタリア革命と共産主義の実現は不可能となるのであるから)、共産主義者とその組織に前提される資格要件として「あらゆる陰謀」=「自分の見解や意図をかくす」(=プロレタリア大衆を背後で操作する=プロレタリア大衆の奴隷状態の存続)を払拭しなければならぬ。
個々の活動や組織の具体的な実態については多かれ少なかれ秘密が必要である。だがその見解や意図をかくすことは陰謀である。
「共産主義者は、自分の見解や意図をかくすことを恥とする」(『共産党宣言』)
「共産主義者は、あらゆる陰謀は無益なばかりか、むしろ有害でさえあることを知りすぎるほど知っている」(『共産主義の原理』)」
(一九六四年三月「一九六三年の運動の総括によせて」、『滝口著作集』①所収) |
(三) 社青同内での前進 |
■六三年二月第四回東京地本大会(反構改の指導部)、六四年二月第四回全国大会(執行部原案を修正して「改憲阻止・反合理化」を採択)
《一九六三年、憲法公聴会を大管法のところでダメ押しした自民党政府は日韓会談を再開し、原潜寄港を承認し、日韓条約の締結を政治的焦点として改定安保がその内容を証明せんとする過程に入る。六〇年安保からの憲法闘争期を経ていよいよ日韓闘争期に突入した。この年一月の社青同第二回大会で、「憲法完全実施か憲法改悪阻止か」の路線論争をもって構改的中央と衝突した反主流派は、二月には東京地本に反構改の指導部をうちたてた。この秋には、三反、すなわち〈反戦、反ファシズム、反合理化〉に基礎づけられて社青同東京地本は「改憲阻止、反合理化」をうちだし、また、行動委員会運動がはじまった。路面電車撤去を中心とする東交合理化に反対する闘争のなかで、この東交合理化の分析を通して、第二インターと第三インターの合理化に対する態度を批判しつつ、〈資本家の下への労働者の絶望的隷属〉の深化拡大として合理化に絶対反対する労働者階級の態度を鮮明にしつつ闘いを構築してゆく。朝鮮戦争後の「神武景気」、「岩戸景気」を通じて膨大化した生産は、いまやこの資本制生産の一般的条件をなす交通・運輸・通信部門を隘路とし、近代国家が資本制生産の外的一般的条件を個々のブルジョア及びプロレタリアートの侵害から擁護するために、とりわけここで「公共性」をがなりたてて介入してきているなかで、この国家に対抗して反合闘争を発展せしめつつ日韓闘争を闘いぬくこと、――これを押しだし貫き通してゆく。六四年には、この東交反合は検針例日闘争を大きな突破口とする東水反合闘争と増幅しあい、全逓労働者の班長制、深夜伝送便反対闘争を急激に発展させ、この年の六・一五は、はじめてこの産別労働者の大結集をもっての日韓・反合闘争を闘いぬく決意表明によって記念された。これは、日共四・八声明によるゼネストの裏切りを弾劾し、民同を奴隷商人ときめつけつつ、構改派にかわって社青同中央を押えた社会主義協会を批判し東京地本を解放派の拠点として突出させつつ、かちとられた。この秋には(一〇月の三大事件――中国核実験、フルシチョフ失脚、イギリス労働党内閣成立)、原潜―日韓闘争のなかで、労働者党建設と行動委員会の拡大をめざして第一インター百周年記念集会を開き、また、「階級支配の政治的頂点とともにその経済的基礎を攻撃してその存在をおびやかす」というような日韓・反合闘争の発展のために、反安保労研の先駆をなす青年労働者研究交流集会を組織した。》
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■社青同東京地本五回大会(六四年)に向けて
六四年一月「東京に集中する」という方針、東京の任務について
「Ⅰ 東京地本の労働者運動上に占める位置(「東京に集中する」ということについて)
我々は一月、「東京に集中する」という方針を決めた。
現在ではこの内容を誤解のないように一層はっきりさせなければならないところに来ている。」
「⑤ 東京の組織的な任務
階級闘争の段階を画するような長足の一歩飛躍と革命的な再編は、労働者党の革命的な再編として結実させなければ空である。(現代における共産主義的前衛の形成と革命的労働者党の建設の基本構造は別に。)そのための、党組織戦術としての“のろし”を上げる実力を東京は育てなければならぬ。例えば、地方の一府県の社青同、社会党の「内乱」は、それだけでは党の飛躍的な再編の直接的開始としての“のろし”とはなり得ない。しかしその強力な突破口になり得ることは忘れてはならぬが。その“のろし”を上げるべき東京の党組織活動は特別に意識的に展開されなければならぬ。
労働者党を革命的につくりかえる解体的再編の分派闘争は、東京の“のろし”を合図に一斉のとことんまで蜂起すること。そのために東京は、社青同を基盤に社会党内に意識的に戦術を展開し、この“のろし”は東京社青同と東京社会党の同時の(または急速に引き続く)叛乱として開始すべきこと。地方の活動は、それまでじっと耐え、強烈に爆発することができる実力を着実に養っておくこと。」
(一九六四年四月「社青同東京地本の役割と大会の任務」、『滝口著作集』①所収) |
(四) 六四年プロレタリア分派の形成への着手 |
KTCが本格的に「革労」の組織化に着手すると指示するのは六四年五月のことである。五月三日付けの学校(KTC)発指示で、「プロレタリア分派の形成への着手」を指示している。(資料2)
「各教室とメンバーは、いまこそ差し迫ってかねて準備中の○○○の組織化に着手せねばならない事態にあることを理解せよ。
一、○○○の位置づけを再度確認すれば、これこそわれわれが「組織的分派闘争による既成組織の破壊」と呼んだその分派であり、その過程を通じて「新たな党建設を推し進める」と言ったその党の萌芽である。従って位置づけからすれば、それは単なる社青同内分派ではなく、社青同、社会党に対する統一的、一元的分派であり、実態的にもそうならなければならない」としている。このことの背景には、社青同東京地本において、協会派が次第に野党的態度を強めるようになって来たことがあげられる。 |
■六四年一二月KTC全総 |
さらに、六四年一二月の通信委員会全総では二年間の歩みを振り返った上で、「革労協」の建設に集中すること、宣伝用に定期的パンフレットとして『解放の通信』を編集委員会発行という形式で発行することを決めている。『解放の通信』一、二号は、試行期として、メンバーとメンバーへのオルグ対象に配布先が限定されていたが、三号以降は配布先を拡大して、見解の公然化を図っていった。
『解放の通信』は社青同解放派(東京)が政治機関誌『解放』を発行を開始するまで、四号が発行された。
その六四年一二月議案レジュメの総括および方針の一部を引用する。
「〔総括〕
1、出発点への反省
①われわれは二年前、安保闘争の総括過程と新たな闘いの予感を受けて、中ソ論争と憲法闘争の開始の中から、既成党の組織的分派闘争を通じての党建設、その組織者としての前衛形成をふくむ五原則と戦略と戦術においてみた憲法闘争の方向についての簡単な討論をもって、前衛形成の、組織立った過渡期への出発をふみ始めた。個々のメンバーのそれまでの過程はさまざまである。われわれは多かれ少なかれ異なった道を通って同じ出発点に立った。そして前衛組織形成の過渡期を共同して踏みだして以後、われわれは、比較的短い期間に、重い任務が急速に累積してくるのを経験した。
われわれは四つの時期を経過した。
第一期は、一九六三年夏まで。この間個々のメンバーの戦線配置、東京・▽▽・△△で地本権力にすべりこむこと、小さい派が思い違いしないための共産主義者としての共産主義者の大道の把握、若干の政治カンパニア、すべて殆ど全員で討議し、全員で当って行った。
第二の時期は、一九六三年夏から一九六四年二月ごろまで。単位組織に分化し、中ソ論争批判と戦略問題の提起、「合理化」の把握、行動委員会と分派の芽の手がかりを求める。職場闘争への本格的取組みを少しずつ進め、社会主義協会と共同して、構改派の社青同中央権力を打倒する。
第三の時期は、一九六四年夏まで。「東京に集中する」。東交を中心に職場反合闘争への取組みの徐々の進展。「派」の具体的な手掛り、夏、ついに協会との対立は決定的となる。
第四の時期は現在。
②われわれは、われわれの出発点へと反省しつつ、この前衛形成の現在までの過渡期をどうとらえるか? 共産主義的前衛の形成としてどうか? その革命的労働者党建設の道としてどうか? その遂行してきた運動としてどうか?
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〔方針〕 |
3、革命的労働者党の出発としての分派組織の建設
①当面「革労協」に集中し、「革労団」「革労委」は手掛りをもつに止め、状勢の成熟を待つ。
②前衛組織は媒介者であり、分派組織は自主的主体として貫かれなければならず、前衛組織は分派組織を単なる外部組織化せず、内容自体の力にうったえる。
③社会党、社青同を貫く一つの分派組織を!」
(六四年一二月、「全総議案」)
〔註 「革労協」は社会党内分派、「革労団」は共産党内分派、「革労委」は既成党外の結集。〕
この時にはまた学生戦線の組織建設が議題に上っていて議案書には、
「①民々の「全学連」再建
②反帝学生評議会運動と反帝派全学連の再建――学生運動論
③関西ブントの「大ブント」構想
④前衛と党の問題と学生K・F」
(同上)と項目が列挙されている。
六四年三月には、社青同、社学同、中核派の三派系自治会が全国学生自治会代表者会議を開き、六月には「都自代」が開かれ、都学連再建、全学連の再建の機運が高まっていった。
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(五) 日韓闘争の渦中で |
《こうして、椎名訪韓阻止闘争、調印阻止闘争を通じて、一九六五年夏共産主義者通信委員会を推進力として内部にふくみつつ、しかしスターリン主義と社会民主主義から決裂し自立する。その他の階級的戦闘的労働者との党派的結集――労働者階級の独立した党の現在的萌芽としての分派形態――として、〈共産主義者とその他のプロレタリア党との関係(区別と同一性)の原則〉を厳格にふまえた党建設として、内容的には全国的でかつ社青同、社会党を貫いて、しかし不完全なゆえに発展すべく自分をも他人をも欺かないために、形式的には社青同東京というプロレタリア的党派としての現在的到達点を見つめて、〈社青同解放派(東京)〉が結成された。それは、共産主義をプロレタリアの団結による交通形態そのものの生産として永続革命としてつかみ、戦略論と組識論の統一を階級形成のうちに見出してプロレタリア永続革命の歩みをつかみ、一方では工場制度の足下に成立する大衆組織とプロレタリア党との関係、他方では共産主義者とその他のプロレタリア党との関係を原則的に厳格にふまえてつねに最も断乎たる推進力たらんとする部分をもって自らを革命的プロレタリア党へと発展させるべく、〈資本家(当局)、小市民、労働官僚からの自立を!〉―〈工場の中に革命の根拠地を! すべての地域、学園に前進基地を!〉をスローガンに日韓―反合闘争の日韓条約批准阻止段階に突入した。〈政治運動と社会運動との関係〉、その相互作用をふまえての闘い。プロレタリア統一戦線の開拓。――日韓―反合闘争はこの問題を突き出した。 アメリカ帝国主義の軍隊のベトナム北爆開始・ダナン上陸、インドネシア九・三〇、中国文化革命の始動、日本帝国主義のベトナム人民抑圧戦争への協力のなかでの佐藤訪中、そして日韓条約の成立。この六五年の過程の中に〈アジア太平洋圏安保〉への道が始ったのであり、日韓闘争期は敗北をもって区切られて安保闘争期へと闘いは永続しなければならない。》 |
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■学生解放派の先行的結成 |
原潜・反合闘争をくぐり、各地で、自称、他称の「解放派」グループが形成され、日韓闘争に向けて「解放派」結成の機運は満ちていた。学生戦線の状況に規定されて、まず、学生解放派の結成が先行する。
六五年一月KTCは、東京総会で、学生KF結成について討議し、確認する。
「二月二日の学校から
一、一・三一東総について
①中心的議題
(イ)当面の東京LSY対策
(ロ)当面の東京SPJ対策
(ハ)専従問題
(ニ)学生KFについて
……
⑥学生KFについて
三月学生KFの全面(国)的組織化と、学生戦線の現状に対応するために、十六日までに学生KFの総括を含めて、Org対象確定等、学生指導体制の確立を急ぐ。」
(六五年二月「通信」)
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学生解放派は、この決定をうけて、先行的に六五年三月三〇日に結成する。東京解放派全体の旗揚げも、東京地本での分派闘争の緊迫状況に規定されて、急速に準備された。社会党内のグループ形成についても「専従社研」や「青年社研」やの構想が模索されていく。
「学生解放派」の声明を政治機関紙「コンミューン」四月五日付の創刊号(以後不定期刊)で明らかにした。
「働く階級の解放ために闘うわれわれは、帝国主義の打倒をめざす日本の学生戦線の内部に、最も断乎たる推進力をなす解放派として、ここに存在し活動していることを公然と声明する。
わが学生解放派は、日本社会主義青年同盟の内部に存在して、ブルジョアないし小ブルジョア、労働官僚からの労働者階級の革命的自立を実現する事業に自分の運命を据えつけている学生の自主的な結集体である。それは学生の組織であり学生戦線の領域で活動している。しかしわれわれは、自分自身の頭脳がプロレタリアートの心臓と分ちがたく結びつけられていることを、疑うことはできない。」(一九六五年四月、『滝口著作集』①所収)
その機関紙には学生解放派の理論機関誌『解放』創刊号の四月一〇日発行が告知され、ほぼ同時の発行となった。
さらに、前年からの、統一行動、準備会の積み重ねの上で、都学連がいわゆる「三派」の主導で再建され、山本都学連委員長が選任された(七月八日 都学連再建第一四回大会)。
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■地本大会を承けて、社青同解放派(東京)の結成
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一方、八月の社青同東京地本第六回大会は、協会派と対峙しつつ、「改憲阻止・反合理化」を批判し、「反戦・反ファッショ・反合理化」の基調を確認し、樋口委員長・神谷書記長体制を確立することができた。その大会の準備過程で「今や解放派の結成が大衆的に必要とされるに至った。すでに自称他称解放派は顕在化しつつあり、運動の防衛という点からいっても、個人の段階では不可能となりつつある。これまでの我々の欠陥が、その非組織性、分散性にあったとすれば、今までの総括の上に、真に運動を担う党派が今こそ必要である。」とされ、急速に九月結成を目指しての準備が始まった。
(資料3「65817 B〔ビューロー〕発通信」参照)
こうして、社青同解放派(東京)が結成された(結成宣言・規約・テーゼは『滝口著作集』①所収)。この社青同解放派(東京)は、内容的には社会党・社青同を貫く一つの全国分派であるが、自分をも他人をも欺かないためにということで、形式的には社青同解放派(東京)という名称とされたのである。
これは、単に自然生的におきた事ではなくて、「東京に集中する」「当面、革労協に集中する」として来たことの結果でもあったのであるが、また「革同問題」の一つの根拠になってしまったことは否めない。
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(六) 日韓闘争の敗北
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《日韓闘争とその敗北の諸結果は、次のことをわれわれに示した。第一に、資本主義的生産過程を直接的生産過程と流通過程との統一においてつかみ、その「生産性の向上」、生産の膨大化は、熱病のような技術革新としての固定資本の更新――産業の技術的基礎のドラスティックな革新――を通じていまや分業体制(交換によって媒介される「産業秩序」、交換によって媒介されない「職場秩序」)の再編成がその重点となりつつあり(機械の導入のみならず分業の再編もまた資本家による生産の発達の方法である)、そこに新たな問題が惹起されつつあること、この分業体制の再編強化は、一方では、世界市場を前提とし都市と農村の分離を基礎とした大規模な交換によって媒介される分業、それを前提としそれを拡大するように反作用する工場制度――社会的分業を基礎としている資本制商品生産――の発達は、独占的大株式会社の形態での〈巨大な工場制度による強制労働〉、「産業構造の高度化」―「寡占体制」なる〈産業再編成〉(工業とともに農業の再編成)、新たな〈都市問題〉(「過密」都市、「過疎」農村の荒廃の問題へ)の発生として戦後社会の激変がはじまっており、国家独占資本主義の形態でこの社会の内部における分業の発達が国家機構の内部の分業(統治の分業体制)の発達を促進しつつあること(帝国主義的段階における「資本主義の不均等発展」の問題は、根本的に、独占の段階の資本主義体制における技術的基礎の革新とともにこのような政治的、社会的なあらゆる領域における分業体制の急激な発達、この技術と分業の労働者階級、人民への敵対的性格においてつかまれなければならない)、他方では、「開放経済体制」として、貿易のみならず民間と政府による資本輸出の急速な増大をもって先進工業諸国間相互の、また先進工業諸国と後進諸国の間の国際分業(いわゆる「水平分業」、「垂直分業」)の発達、いわゆる社会主義諸国をもいっそう深く広く世界市場網に組み込んでゆく資本主義体制の国際的性格の発達が、「南北問題」を惹起し「東西関係」の再編をうながし日米同盟関係の見通しをせまってゆくように、激烈なかたちで進行しはじめたこと。国家によって支援された労働過程の大規模な科学的過程への転化であるかの技術革新を通じてあらゆる組織で新たに再編強化されんとする分業体制、それに日韓、反合闘争が一般的にいって無防備なままに敗北せしめられたのであり、これへの抵抗のマヒ、屈服を集中的に示すものこそIMF・JC(国際金属労連・日本協議会)の成立である。
第二に、労働者階級を「強制された怠惰」の部分=予備役労働者軍と「強制された勤勉」の部分=現役労働者軍の統一においてとらえ、都市と農村の社会的激変、すでに始っている農民の急激な解体による大量の労働力の過剰労働人口としての産出、ある労働から他の労働へのおびただしい急激な転変と流動、この上に帝国主義の経済的基礎においてもさらにその上部構造においても再編強化する分業体制が打ち込まれてゆくのであるから、これへの有効な抵抗力をもって闘争は、組織された労働者が先頭に立っての現役と予備役の労働者軍を統一したまさに階級闘争をうちたて、このようなものとして〈プロレタリア統一戦線〉(虐げられた全人民の前衛として行動する労働者運動)の組織されてゆかなければならぬこと。だが既成の労働組合の大勢はエゴイズムにとりつかれて動揺し、既成の反政府野党は、それらを階級として結びつけるどころかもっぱら国民主義的、人民主義的擬装で分裂を糊塗せんとしていたのである。
第三に、社・共の歴史的前提をなす第二インターと第三インターの敗北の根底にある産業合理化への屈服の関係態度をつかみだし、これを突破してゆく階級闘争としての政治闘争が鍛えあげられなければならぬこと。……
だから、日韓闘争とその敗北の諸結果がわれわれに教えたことは、集積する資本の社会性の支配へ屈服を突き付けられて新たな官僚制的再編にうごめく労働組合の中に、この支配への抵抗に出発点をもつ行動委員会運動を推進しつつ革命的プロレタリア党を産出すること、そしてこの革命的プロレタリア党は、とりわけあの屈服に重大な政治的責任をもつ日本社会党の内部に、それを小ブルジョア的桎梏として打破して「労働者階級の独立した党」として生れ出ようとするプロレタリア的分派として組織すること、このすでに開始している行動委員会運動と分派闘争を、あらためてはっきりとつかみ直し、確固として推進することである。このプロレタリア党建設の過程は、工場制度の下からはじまる労働者の自立的な大衆運動を結びつけ統一し、あらゆる分業の間に連帯をつくりだし、プロレタリア解放に向って国家権力に対抗して階級形成を推し進める闘いにおいて(大衆運動とプロレタリア党との関係)、共産主義的前衛を最も断固たる推進力とした労働者が自分自身に与える組織形態としての(一方では、共産主義的前衛は労働者階級の「外部」ではなく「内部」に存在するその部分であることが、他方では、この共産主義者と「その他のプロレタリア党」との区別と同一性がこの分派形成において原則的に厳格に確認され、ふまえられなければならない)、「社会党、社青同を貫く一つの全国的分派」の組織化の道として〈革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)〉へと推し進められてゆくのである。
日韓闘争の敗北の諸結果は、すでに日韓両財界の「共同提言」が「軽工業、農業は韓国に移譲し日本は産業構造の高度化に専心すべきである」といっていたが、支配階級とその政府によるすさまじい「産業再編成」=産業合理化、資本輸出を急増しつつの六六年のASPAC、東南アジア開発閣僚会議、東南アジア農業開発閣僚会議、アジア開銀という国際的諸機構の設立であり、最後にこの年末は「三木構想」(アジア大平洋圏構想)の出発である。
そして社長も労働者もその持分において生かされるという分業体制の美化、父権を中心とした家族の理想化と「国父」を中心とした「王仏冥合」の「仏法民主主義」、「地球民族主義」の創価学会の政治的進出。
経済の領域での分業の増大はその他の領域での分業の増大をうながすが、財政制度、租税制度、地方制度、公営企業制度、教育制度、等々、警察、軍隊などの戦後的諸制度の抜本的改編の衝動が動きだして、この「産業再編成」と結びついた「産学協同」――専門奴隷への教育改編の大洪水の開始、これを学園闘争からあばきだす教育闘争に突入した。早大闘争と都電撤去反対闘争。
このような闘争を引き継いで、六七年春の砂川闘争のなかから七〇年安保闘争がはじまった。――いわゆる三派全学連と地区反戦の結成をもって、そして日韓闘争を闘いぬき、その職場闘争の中から生れでて政治闘争の中で結合を強めた力を職場・学園に反作用させつつ拡大再生産させていた社青同東京地本は、六六年九月、スターリン主義的社民として純化しつつある社会主義協会の陰険な組織破壊攻撃を受けた。社書同・社会党を貫く全国的な分派の形成を急がなければならない。》 |
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日韓闘争の渦中で、社青同全国学協解放派、社青同解放派(東京)として出発した組織は、日韓闘争の敗北の後には次のステップが問われることになる。六六年五月には、社会党領域への関わりの強化―入党問題、さらに「解放派の全国化」についてが議題となる。
『総務委員会通信』の「日本社会党に対する態度について」、「解放派全国化について」は、その問題を正面から取り上げているものである(いずれも、『滝口著作集』①所収)
以下は、その抜粋である。
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■「日本社会党に対する態度について」の要点 |
「現在、“分派闘争”の問題が、日本社会党に対するわれわれの態度の問題として、特に「入党」問題という形をとって、地区でも産別でも、実際の問題になりつつある。
……
五月二三日の総務委では、社会党に対する態度を、入党問題に焦点をあてながら、それも二、三の問題点に限定して取扱った。以下その要約。
一、〈社会党と社青同を貫く一つの「分派」を〉という目的はあくまでも正しく、堅持すべきこと。
① 社会党を単に利用するために入党するのであってはならないこと。われわれは、社会党を利用して○○○をやろうとするという根本的には寄生虫的な態度を厳格に拒否し続けなければならぬ。なるほどわれわれは社会党の個々のポスト、機関、動きを利用するしまたは活用することがある。しかしそれは、社会党を利用して、個人的なあるいは組織的な別の目的を追求するのではなくて、社会党そのものを解体的に再編成するし(=分派闘争)ために、である。社会党の種々の利用主義的な寄生虫は、結局のところ、社会党なしには生きてゆけぬか、陰謀の泥沼にはまるかということになる。社会党は利用されるべきものではなくて、解体的に再編成されるべきものである。――利用主義反対。
② 社会党が「良い」からという理由で入党するのであってはならないこと。われわれの入党は、社会党が色々の意味の「良い」または「ましだ」という幻想(社会党は代々木に比べて「ましだ」とか、いろんな可能性があって「良い」とか等々無数)の一切から訣別していなければならず、逆に、社会党の反革命的性格を腹の底からつかみ切り、解体的再編の必要なことに徹していなければならぬ。――「よりましだ」主義反対。
③ 単なる戦闘性の程度や考え方の対立以上のものでなければならず、まして種々の「派閥」対立という平面的なものではなく、党官僚からの、官僚としての自分自身に反逆してゆく人たちは無論別として、労働者階級の訣別と自立という立体的なものの追求でなければならぬこと。
〔要点〕――社会民主主義(特に日本の)の反革命的性格は、われわれが、最も切実にかつ的確に(種々の別党コース的批判者どころではなく)把握してゆかねばならぬ。だからこそ、大衆の(特に労働者大衆の)社会党不信の底にある正当なものを把むとともに、われわれは、大衆の「不信」、「反感」という無力な形態の次元にとどまらず、積極的に既成政党の革命的な解体=再編成として実現してゆかなければならぬ。大衆の、社会党は「良い」とか「よりましだ」とか、または「不信」や「反感」にそのままのっかるのではなく、われわれは、大衆の、しかし先進的な部分として、われわれにとって明らかなことが、現在、圧倒的大衆にとって明らかとなっていないことを凝視し、実践的暴露の分派闘争(既成党の解体過程を同時に革命的労働者党の建設過程として推し進める道)を通じて、巨大な大衆の社会民主主義(同時にスターリン主義)からの訣別を促進しなければならないこと。だから党建設の課題は社青同の領域だけでは完結せず、社会党の領域を問題にしなければならぬこと。 |
二、〈実現の過程〉が大切であること。
闘い(分派闘争)の生きた全体は、ただ目的や結果だけで汲み尽くされるのではなく、実現の生きた過程で汲み尽くされる。ただちに、既成党批判イコール別党コースという道をとらないのも過程こそが大切だからだと同じように、社会党の分派闘争にとっても実現の過程が大切である。「目的」主義や「結果」主義を越えるということは、「押しつけ」を越えるということでもある。
① 社青同の「相対的独自性」を固め、強め、汲みつくしつつ闘うべきこと。社会党と社青同は一体だということを機械論的に捉えてはならず、社青同の「相対的独自性」を一歩も譲り渡さず、社民批判のテコとしてゆくこと。社会党も社青同もどこまで変化しても結局は社民の限界内だとか、社会党や社青同はどうにでもかわり限界など無いとかの「限界」の見方を越えて、我々は社会党や社青同を意識的にしろ無意識的にしろ「限界」づけようとする部分に頑強に抗して、その完全な反対物に転化する過程を闘い抜く(これが分派闘争だ)のであり、そのためには社青同の社会党からの「相対的独自性」を確保し汲み尽くしつつ社会党の変質の大きなテコにしてゆくべきこと。社会党に対しては「指導」の待望ではなく「支持」の獲得を目標とすべきこと。 |
② 社会党そのものについてはまず分派闘争の意義を明確につかんだ思想性とそれを遂行する活動の条件をそなえた少数の準備的な党内闘争(分派闘争の全体は、単に「党内」闘争なのではなく、特に行動委員会運動との相互作用が大切だが)から始め、解放派全国化と呼応して公然化(結集体名と見解及び意図)するとともに、大量的結集をはかる。われわれと無関係に推進される党員拡大運動は直接に阻止されるのではなく(それは不可能)、党内の社民反対派への結集を公然たる独自のセンターから呼びかけ、推進すべきであること。」 |
(一九六六年五月『総務委員会通信』、『滝口著作集』①所収) |
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