解放派の組織建設史2(共産主義者通信委員会)から革労協結成まで)(1965.8.17日)

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 2013.01.28日 れんだいこ拝


 霧山 衛「KTC50年を記念して」の「解放派の組織建設史  ――共産主義者通信委員会(KTC)から革労協結成まで
 ■「解放派全国化について」の要点
 「一、全国化の必要性の問題

 現在解放派全国化を問題にすることは、あるいは空々しいことにみえるかも知れない。日韓条約の強行成立を押し切った支配階級の重圧は、それぞれの職場にのしかかり、いまはこのゲリラ戦に没頭すべきかのように見え、それにこの東京という限られた活動領域でも、われわれの為すべくして為し得ないでいることが、あまりに多いからである。


 確かに、われわれが日韓闘争の最終局面(条約の強行批准としての)を目前にして、多くの不充分さと欠陥を残しながらも敢て東京解放派の創立に突進したと同じような調子で、解放派の全国化を問題にすることはできない。闘いの上向線を可能な限りを尽くして直接にヨリ高くヨリ強く押し上げることが、今直ちに全体の中心課題になっているのではなくて、むしろ、日韓闘争とその諸結果を受けて、新たな来たるべき決戦に向けて、支配階級の現在の追撃のもとでのわれわれの闘いを、根底から再構築してゆくことがいまの中心問題なのだから。

 しかし、現在、解放派に兄弟的連帯を感じる地方の同志やその結集体が、解放派全国化をある程度の必要感をもって問題にし始め、また特に一定の集中攻撃を受けている社青同東京地本が、全国的連帯の必要性を問題にすることは、決して偶然ではないし、行き当りばったりに取扱ってはならない。
……

 全国化の必要性を以上のような基本的視角から問題にする場合、注意すべき大切な第一の点は、東京と地方の実際上の必要性の大きなアンバランスを解決するに誤ってはならぬということ。東京解放派への一定の集中攻撃と孤立化攻撃の下で(社青同全国大会にも写し出された)それをハネ返すためにも全国的連帯を切実に求めることは極めて正当であり、充分に配慮されるべきである。しかしこのことは、地方での全国化の必要性が、東京と同じ程度で、または同じような面から引き出されてはいないし、むしろ東京での必要性を強引に押しつけた形にでもなれば、地方での闘いを長期にわたって後退させる結果にもなり、東京が地方を物理力にしてしまうことにもなりかねない。ここへの充分な注意が必要だ(このことを国際的にみれば、勝利した一国の革命のインターナショナルへの関連の問題でもある)。東京が独力でも耐えてゆく内実をうち固めつつ地方の実際上の必要性を深くくぐり、しかも東京の置かれている現状が正当に配慮された全国化の道を見出さねばならない。

 注意すべき大切な第二の点は、それぞれの活動分野の差異がもっている特殊な必要、不必要にふりまわされないよう注意すべきこと。われわれの活動分野または領域は次第に多岐にわたり、一般組合員、組合幹部、組合書記、党専従、社青同専従、地域の活動家、学生等あるところで特殊に切実な必要なことも、他のところでは疎遠で不必要なこと、むしろ危険なことにもなるという事情を伴っている。このことは、運動が現実的で具体的なものになりつつあることをも意味するとともに、これが特殊なものとして固定(極端には特殊利害として)しないよう厳格に注意し合うべき時点に来ていることを意味する(社民とスターリン主義を超えるものにとってこのことは極めて大切)。全国化の道は、共同の、または共通のしかし切実な、必要性を徹底的に踏まえてゆく全国化の道を開かなければならない。

 こうしたことと関連して、最後に、しかし最も強調されるべき第三の点は、あらゆる戦線の拠点を革命の前進基地として実現してゆくための、〈労働組合の中に革命の根拠地(党)を〉ということを貫徹する全国化の道でなければならぬこと。
 二、全国化の方法と形態

 ① 地区→産別→地区。


 われわれにとって課題であるのは、階級的な革命党の建設である。その萌芽形態としての“分派”組織は、やはり労働者階級の階級的独立(孤立ではない!)を内にふくんでいなければならぬ。それは単なる地区党でもなければ単なる産別党でもない。議会主義的な選挙区党や地域闘争主義的な地域党ではないし、産業別労働組合の多かれ少なかれ組合主義的な独立フラクションやその束などでも無論ない(国鉄革同の運命を繰り返すことはできぬ!)

 まず、階級として共同の運命のために活動する地区的組織――産別的に闘いを実現してゆく芽を同時にもった――から始め、産別ごとの組織的実現を徹底的に前に押しだし、それを深くくぐり、それを通して――しかし、地区組織が無用ないし棚上げとなってよいのではなく、産別の独立化を克服してゆくための階級的結合の現実的な必要性が成熟し、突きつけられてゆく――、ふたたび地区組織の再確立に帰る。だがそれは、出発点の地区的組織への単純な後退ではもちろんなく、産別的組織の実現によって豊富化された、産別と地区との区別とともに階級的統一のあらわになった地区組織として、目的としても、全過程を貫く性格としても、結果として実現されたものも、地区と産別とを統一した階級的組織こそが、われわれの問題だからである。

 ② “連合”から産別の全国単一化を通って“結合”へ。

 実際には次のような道をたどるべきである。まず同志的立場にある地区別組織(東京解放派とか関西左派とか等)の“連合”として、解放派の全国的(現実)形態の最初のものを生み出す。この“連合”は全国的な組織名をもち中央指導機関をもつ。しかしそれは、中央からの組織的強制力をもたず、ただその指導の内容上の権威だけを依りどころにし、その限りで各地区別組織はまだほとんど完全な独立性を保持しているが、全国的な連絡と報告の義務をもつ。


 次に、この中央機関のもとで、産別の全国単一化を推進する。各産別組織ごとに全国単一の産別委員会(この中央は指導とともに組織的強制力をもつ)の組織化を進める。この進行とともに現われてくる各地区組織と全国単一産別組織の意志(決定)との矛盾は、全国単一産別組織の意志を優先させる。産別の全国単一性を保持しようとする限りそうならざるを得ない。この状態の進行と成熟の程度に応じて、次第に各地区組織の独立性が崩壊を始め、他方では、地区を全体の一部分として実現した完全な解放派全国単一組織化としての“結合”への現実的な必要性が増大し、成熟する。こうして遂に、地区と産別の矛盾の解決に駆られて、全国単一の階級的な分派組織の実現形態としての“結合”へ。


 この全過程は、種々の要因によって促進されたり遅れさせられたりする。地区と産別との対立(その正しさからいえばどちら側が常に正しいというふうには固定していうことはできない)の度合のほかに、全体としての階級闘争の(突発的な事態を含めた)具体的な展開状況によって深刻な影響をうけるし、また前衛的部分(それがどういう姿をとるにせよ)の動きかけによっても大いに影響される。

 なるほどこの組織路線については、えたり賢しと「段階論だ!」という非難をつぶやくものがいるかも知れない。全国的政治新聞の発行から始めよ、というレーニンの教えがあるのを知らないのかと。確かに前衛組織は全国的中心たるべき一点からの拡大というかたちをとる。しかし解放派の直接の課題は、思想宣伝団体や、真実のものであるにしても前衛組織をつくることではなくて、究極的目的=一般的なものをそのものとして体現した組織が直接の問題なのではなくて、労働者階級の自立の生きた実現過程にある、真実の、革命的な、労働者党=革命の根拠地を、しかも労働組合の中にうちたててゆくことである。そのためには、先述の過程を可能な限りをつくして深くくぐり、汲みつくして、労働者大衆の苦悩と苦闘の力によって徹底的に育てられ鍛えられる必要があるのだ。
……

 ③ まず予備的センターを。


 しかし、“連合”という解放派全国化の形態も、まだ実践的な相互信頼を確保していない現状では困難である。まず全国解放派のための予備的センターをつくり、これを通じて、各地方の兄弟的な相互理解を深め、全国化の道についての見解をにつめ、かつ相互に直接の必要に迫られている問題についてのフラクション的機能をつみ上げることが必要である。予備的センターは、東京が今おかれている状況を配慮して、社青同東京地本大会以前に出発するよう働きかける。「七〇年代の闘い」への現在的準備としては(「突発」的な情勢の激成――このことは大いに留意しなければならぬ――をさしあたり別として)、“連合”を六七年中に、“結合”を六八年(遅くとも六九年)中に実現することを目途とする。


 来たるべき決戦に向けて強大にして革命的な、労働者階級の自立組織=全国解放派を必ず実現しよう!」
 (一九六六年五月『総務委員会通信』、『滝口著作集』①所収)
 ここで、示されている解放派の全国化は、全国的中心たるべき一点からの拡大というかたちをとる前衛組織の建設の道とは異なって、兄弟的諸組織(「解放派に兄弟的連帯を感じる地方の同志やその結集体」、「同志的立場にある地区別組織」)の「連合」として、解放派の全国的(現実)形態の最初のものを生み出す。この「連合」は全国的な組織名をもち中央指導機関をもつ。しかしそれは、中央からの組織的強制力をもたず、ただその指導の内容上の権威だけを依りどころにし、全国的な連絡と報告の義務をもつ。

 そして、この「連合」から産別の全国単一化を通って「結合」へ進んでいくという、「連合から結合へ」の「労働者階級の自立の生きた実現過程」を追求しようとしたものである。


 なお、一つ付言すれば、ここで「決定の執行に当たっては内容的権威による」という意味は、「組織決定」という形式的権威による執行に対立する意味あいであり、「民主集中制」を越えていくものを含んでいる。
 (七) 六六年の反動と社会党革命同志会結成
 反動は、日韓闘争敗北直後の六六年一月第六回社青同全国大会での東京地本への破壊攻撃として現われた。東京地本に対する統制処分、中心メンバーに対する処分問題である。これに耐えて短い息つぎの期間を手に入れて後、六六年九月三日の東京地本第七回大会は、事前の代議員獲得で、自らの不利を自覚した協会派が挑発を準備した。代議員登録問題を口実にして壇上占拠し、それへの大衆的弾劾行動で協会派は自主退出を余儀なくされたが、その退出過程での暴力行為を口実にして、大会は流会した。一〇月四日に社会党中執の決定、この決定によって設置された再建委員会(党中央青少年局、都本部、社青同中央)が十月十一日に決定した再登録案が、十三日に社青同東京地本に示されたが、地本執行部は拒否した。解放派も「“解散賛成、再登録”ではなく、“解散不当、統一のための再登録”」として、統一の方針を掲げるが、結果としては、第一地本の旗を掲げて、社会党都本部段階での公認・共闘の道を歩むこととなる。

 六六年九月東京地本分裂を受けての東京(第一)地本の防衛、六七年四月美濃部都政下での反合闘争の推進という新しく厳しい課題に対処するために、社会党内活動は新段階を迫られていた。それまで議論されていた「青年社研」方針に変わって、日本社会党革命同志会が提起され、結成される。社会党革命同志会(略称:革同)は、結成に当たっての問題意識を「結成趣意書」で、次のように述べている。
 「日本資本主義がその深く醜悪な傷口を露呈している時期に行われたときの総選挙が、ほかならぬ社会党の後退をもって終った、とりわけ工業地帯においてそうであったという苦い事実、近くは、全労働者が期待をもって闘いとった美濃部革新都政下において、反労働者的な都交通局再建案が、社会党の手によって大衆運動を圧殺する形で推進されようとしている事実は、全ての社会党員、全ての社会主義労働者に次のような問をつきつけないであろうか。「結局のところ社会党は日本資本主義に死の宣告を下す労働者の党になりうるだろうか」と。社会党を左翼的に支えてきた左派共同戦線としての社研はこの間に応えてきたであろうか。単に世界を解釈したり評論したりすることで満足しない我われは、この深刻な問に対して、自らの実践によって応えてゆこうとするものである。

 日夜、社会党をマルクス・レーニン主義の党に変革するために献身的な活動を続けている同志たちに訴える。社研、その中でも特に東京社研は東京の党の建設と左派の権力維持に大きな役割を果してきたでのあるが、最近社会主義協会のセクト主義によって若干の混乱を示し、さらに美濃部都政下の新しい階級闘争に対して統一した正しい対応を貫きえない危機的な状態におかれている。これは社研が左派の共同戦線として思想的・理論的あいまいさを性格としてもたざるをえないからである。

 我われはこの社研の中にあって分散した状態におかれていては、社研そのものも強化することができない。従って、社研を強化するという基本的立場に立ちつつも、その共同戦線としての性格上機能しえない側面をカバーする独自な組織の必要を、我われは痛感してきた。

 社青同東京地本が、社会主義協会の私物化の陰謀によって分裂という重大な困難に直面し、あるいは、東交の活動家が当局と組合から“二重の合理化攻撃”を受け、今また美濃部都政下における党の誤れる方針転換により闘う部分の地歩が奪われつつあるとき、我われは今こそ旗色を鮮明にしなければたらないと決意するに至った。我われはとりあえず次にかかげる諸命題から出発する。もちろん、これはまだ討義も不充分であり、今後より完全なものにしてゆくために討論を深めなければならないものである」。

 この社会党内左派グループである革同の性格付けを巡って、東京解放派の内部で意見が岐れ、その違いを抱えたまま、社会党内の分派闘争は進行する。
それは、革同は「分派組織」であるのか「共闘組織」であるのかというものである。それは同時に社会党内グループからすれば、社青同解放派を社会党社青同を貫く分派と認めるのか、社青同内のみの分派とみなすという問題に絡まっている。革同が「分派組織」であれば、社会党の分派組織である革同が社青同の分派組織である「社青同解放派」を指導する。革同が「共闘組織」であれば、社会党社青同を貫く一つの分派である社青同解放派の中に社会党委員会を構成し、共闘組織である革同を推進するということになる。社青同解放派(東京)の総務委員会見解は、こうであった。
 「{一} 出発点(結成)での問題――「社青同解放派(東京)」ということと“社会党・社青同を貫く一つの分派”ということについて

 社会党での組織的な“党内分派闘争”の問題をめぐって、解放派の出発点での組織性格が問題にされている。〈社青同解放派として結成したことがそもそもの誤りで、はじめから“社会党・社青同を貫く一つの分派”をはっきりさせた社会党・社青同解放派として出発すべきであった〉とか〈解放派ははじめから社青同の解放派だから、別に社会党の分派組織=解放派をつくるのだ〉とかの意見がある。

 解放派の結成に当って党派の組織性格をどう定めるかについては、第一に、“社会党・社青同を貫く一つの分派”という組織原則の上に立つこと、第二に、「あくまでも労働者の実践から出発した組織であり、将来の革命的労働者党の現在直下に存在する萌芽としての分派」(一五人草案委員会報告)として、分派組織の結成が直接にも実践的に必要なものとして突きつけられた社青同、それも東京社青同を中心に始め、全国社青同と社会党については、その実践的必要性の成熟をもう一段くぐるべきこと、第三に、従って、組織名称については、自分をも他人をも欺かないためにも、実態に即して「社青同解放派(東京)」とするが、社青同の活動領域での東京以外の同志や、主として社会党を活動領域としている同志をも含むものとし、“社会党・社青同を貫く一つの分派”という原則の上に立ちそれを実現する萌芽をはらむものとすること、として出発した。……

 そこで、①解放派は「社青同解放派(東京)」という実態に即した名称を以て結成するが、社青同(東京)に固定的に限界づけるものとして出発したのではなく、逆に、内容の構成としても規定としても“一つの分派”へと開かれたものとして出発したのであって、解放派の出発点からの組織性格から社会党内でのもう一つの別の分派の結成を正当化することはできないということ、だが、②確かに、討論は不十分であり、一挙に結成に向かう一カ月足らずの期間にテーゼ草案は各地の討議を受けて、大小6回にわたる書き変えなどを行ったが、結成する組織の性格について全員が十分な認識をもって出発したとは決していえないこと、しかし、③真の労働者党への萌芽は労働者の闘いの実践的必要が原動力となって生み出されるものであり(思想はそれを闘い抜くためのもの)、各人が、特に“党内分派闘争”について、自分自身の問題として、明確な問題意識を持っていなかったにしても、そのことをもって、解放派が社青同の限界内に固定されたことにはならず“党内分派闘争”の必要性を、実践による人間の変化を抜きにして、頭から確認を迫ることであらかじめ片づけておく(実践によってのみ可能な人間の変化を貫徹するためには思想が必要なのであり、又、意識によって、誤りを経験によって教えられる前に、あらかじめ排除してゆくことが、ますます大切であるから、意識の強調に対して泣き言を云ってはならぬが)、という出発の仕方をしなかったことは、むしろ、正しいのであり、労働者党に向かう組織的な闘いは、常にこのことが特に大切だということ、である」。

 (「六七年五月『革命同志会』に関する問題について」、『滝口著作集』①所収)
 社会党革命同志会には、東京解放派の方針に忠実なグループと、元来はKTCメンバーではあったが、社民内分派闘争の主戦場は社青同ではなくて社会党として、党内活動を重視し自立傾向を強めていくグループと非解放派系(主要には中国派的傾向)の大きく三つの傾向があったと言っていい。そして、革同はむしろ、解放派の外から促進されたという側面もあり、社青同解放派(東京)全体としては社会党への関わりは弱く、「社会党に直接関わる分派闘争としては、『革同』を通じて展開する」となっていたために、分派組織か共闘組織かの対立は実践上は有名無実であり、通常時は社会党内活動においては革同として一体として推進されていた。
 (八) 七〇年安保へ
 《戦後日本の首相としてはじめての訪韓・訪台をもってはじまり東南アジア諸国訪問をへてアメリカに渡る六七年の佐藤歴訪外交は、ベトナム人民抑圧戦争に協力しつつ、日本とアメリカとを二つの中心とする楕円型の中に日本帝国主義の独自の経済圏を準備する、新たな「南北問題」の反革命的提起にそった国際反革命階級同盟の性格を帯びた従属圏の形成において沖縄返還をねらうものとして、アジア太平洋圏を現実に推進するものとなった。国家が介入する独占的株式会社の形態での労働手段の共同的労働手段への急速な、大規模な転化、いわゆる社会主義諸国の世界市場網へのいっそうの組み込みと南北問題の新たな惹起、後進諸国における政府の役割の増大と帝国主義諸国による開発援助政策と帝国主義諸国相互の投資と資源共同開発、――それは七〇年安保を準備するものである。そして、日本における都市問題の深刻化、独占的株式会社の発展は、都市と農村の分離を基礎とした大規模な交換によって媒介される分業を前提としこれを拡大するように反作用する。こうして日本の社会は激動しつつ、二つの羽田闘争からエンプラ闘争へ、そして三里塚、王子闘争へ。この政治的実力闘争の行きつくところから、官公労から民間にわたる反合闘争と全共闘を生みだしての全国的な、大学から高校へと拡大する、教育学園闘争の怒涛の進撃へ。そして自民党政府は、六八年には、日本ブルジョアジーの政治的な二潮流、すなわち現存の国際的同盟を条件にしてのナショナルな利益の追求と、ナショナルな利益のために現存の国際的同盟のあり方の変更も想定するという政治的二潮流の安保の「長期固定」か「自動延長」かの論争を「長期堅持」として結着をつけ、六九年には、沖縄の「部分返還」か「全面返還か」の論争を、アジア太平洋圏安保への実質を発展させた「安保の沖縄への適用」として結着をつけ、そのための岸・ニクソン会談と福田の後進国開発援助政策の躍進ののろしとをもって、佐藤訪米による七〇年安保のアジア太平洋圏安保としての確認とその沖縄への適用をもっての沖縄返還によっての、沖縄を踏み台にしたアジア太平洋圏安保の展開――こうした七〇年安保へと遂に突進した。

 このような七〇年安保への過程において、われわれは解放派を革命的労働者協会(社青同・社会党解放派)として、社青同、社会党を貫く一つの全国的分派として革命的プロレタリア党として労働者階級の独立した党への過程を推し進めながら、七〇年安保を〈工場からの叛乱〉として闘いぬき、ソヴィエトの樹立を所産として生みだす階級闘争の問題を今日的に提起してきたのである。》
 《一九六九年の四月闘争をもって、岸・ニクソン会談が、安保をアジア太平洋圏安保としこれを沖縄に適用するという根まわしをし福田が後進国開発援助政策の飛躍ののろしをあげる下から、日本の戦闘的労働者、学生は七〇年安保粉砕の決戦段階に突入した。

 われわれは、六七年がおわり六八年がはじまる二つの羽田闘争とエンプラ闘争の断乎たる推進者、組織者として、日本のプロレタリア的実力闘争の大衆的展開の新たな地平を、正面突破的に、まさに棍棒をもって打開し、確固として棍棒をもって立ちつつ決してこれの奴隷とならぬことを決意した原則的戦術を展開して(この棍棒を中核はすでに王子で共同闘争の内部へ向けたのであり、革マルはこれをはじめて持ちだしたのは権力闘争においてではなくその「党派闘争」においてであった。――このことに彼らのゲバルトの本質が示されている)。三里塚にはじめてガス弾のぶち込まれた大衆的実力闘争の労学の最先頭に立ち、この闘いのプロレタリア的地平の開拓において、これを王子闘争に貫いた。

 そして、この政治的実力闘争の、反合―反産学協同の職場、学園の闘いへの反作用を意識的に推進して、怒涛の全国教育闘争のプロレタリア的最先端を切り拓きつつ、この反合―反産協の社会運動に強大に基礎づけられた政治運動としてアジア太平洋圏安保粉砕の闘いの決戦段階を準備する戦線整備をすすめ、これを一〇・二一へ、東大安田講堂攻防の決戦(六九年一月)へと突きだすことによって、学園占拠をもってする全国教育闘争のめざましい拡大進化が突き進められ、同時に職場行動委員会(その地区共同)と相互媒介的に推進されるプロレタリア反戦、――こうしてベトナム人民抑圧戦争反対、アジア太平洋圏安保粉砕を高く掲げたプロレタリア政治運動=社会運動の台頭が、四月闘争をもって、その結集された推進力の独自闘争として、そして総評青年労働者の共同闘争の推進として、押し開かれた。こうした闘いの過程は、日本社会党を桎梏として打開しつつスターリン主義と闘うプロレタリア的党派としての極の形成、その推進する闘争が、対中核―対ブント―対革マルの一連の激烈な党派闘争、その最後のものでは武装対立の段階に突入した党派闘争を貫き通して、自分たちの組織的基礎の労働者性をさらに反省し、深め、鍛えるということと、同時に進行しなければならなかったのである。

 革マルの宗派的卑劣性は、六八年秋の拝島闘争をはじめとする反戦、反合の青年労働者学生統一行動で、革マルがわれわれの横に来ていたのであるが、この状況を利用して、「平和共存の外観で近づき」してやったりと(革マル「全学連」大会提出。彼らの「自己切開」の自己欺瞞ぶりを見よ)、早大学生の誇るべき大衆組織早大文連の白色テロによる乗取りの陰謀(暴かれた早大革マル陰謀文書の組織戦術に得々とした醜悪さを見よ)に動いたことに、端的に示されている(安保全学連の反動的棍棒による乗取りをはじめとしその腐敗を腐敗として全く意識できぬ組織論に「理論化」されて釘づけされた、革マルの汚れた歴史の一表現。かかる革マルによって生みだされたものとしての、ブルジョア社会の荒廃一般にすりかえることの許されぬ独特の荒廃が、川口君テロ虐殺の原因なのである)。このような、宗派組織の本性をなす陰謀をもっての「働きかけ」を働いている革マルは、だから当然にも、東大闘争、全国教育闘争において、初めから(早くは日韓闘争直後の第一次早大闘争から)終りまで(さらには現在の教育闘争にまで)自分自身を本質的にも現実的にも反動的宗派として押し出すほか何事もなしえず、その四月闘争は宗派固めに集中するほかはないものとなった。》
 《こうして六九年の盛夏、全国反安保労研運動が、六三年秋に出現して以来丹誠をこめられてきた労働者行動委員会運動の全国結集としてはじまり、ほぼ時を同じくして革命的労働者協会(社青同・社会党解放派)が、一〇年の分派闘争を通じて、そして六五年夏出発した分派組織――形式的には「社青同解放派(東京)」だが内容は「社青同・社会党を貫く一つの全国的分派」を胎む――の発展として、結成された。日本の深部からの変革を開拓する革命的労働者たちは、この二つを自分自身の組織的根拠として、現代の生産組織を帝国主義的工場制度としてつかみ、そのあらゆる領域にわたる破壊作用に直面している闘う大衆、その結合をすすめて「自分たちの共同による自分たちの労働の支配」をめざして国家との闘いをすすめんとする党派、このようなものとしていたるところの全共闘が全国全共闘として連合し、全国反戦の労働者的再編成が進み、反戦青年委員会問題で労働組合が動揺し、同じくこれに社・共があらためて身がまえるなかで、アジア太平洋圏安保の成立、粉砕の、勝敗を決する闘いに突入した。

 ――労動者行動委員会は既成労働組合の中で独立性を強め、分派組織は、全国社青同が九月の大会を最後の統一大会として反戦青年委員会問題から中央機能停止、全国組織としての活動マヒの状態に入り社会党は反戦青年委員会排除に入るなかで、既成党に媒介されかつそれを媒介しつつ、断乎たる大衆の組織的闘いに直接身を現わしながら。六六年九月の社青同東京地本組織処分攻撃いらいかくして、工場からの叛乱の組織者として、ストライキ実行委員会を組織し、労働組合青年部、争議団の共闘を組織し、諸大衆組織の地区共同を組織し、大衆的政治ストライキの闘いが展開する実力街頭闘争の最も断乎たる推進者として、プロレタリア統一戦線を推進する勢力の独自的な闘争と共同闘争に全力を傾注し、一〇・二一から一一月佐藤訪米阻止闘争を、全国的中央集権の官僚的統治機構に衝突する力をつちかいながらこの力を現地実力闘争に押し通して、ガス弾の直撃をはね返しつつ、膨大な逮捕者をだしながら、独自の闘争を闘い抜き、また同時に総評の統一行動を闘い抜いた。毎回の全国大会に抗議と呼びかけを積み上げてきた闘いを、その最後の統一大会への実力入場による弾劾と共に闘わんとする呼びかけをもって突き出しながら。》
 (九) 全国解放派結成の具体化
 全国解放派の要求は、六八年三月、反戦闘争の全国的昂揚のもとで、起きてきた。種々の新左翼集団と拮抗しながらの反戦=反合派としての前進、そして全国社青同内部での協会派の抑圧に抗して生み出されてきた反戦派としての結集――

 「以上のような背景のもとで三月一二日全国反戦代表者会議が行なわれたが、この会議に先だち、今まで東京KFと交流のあった部分との全国反戦対策のフラクを持った。このフラクは、全国反戦のLSY部分がLSY反戦派を作る動きがある。それに対し「反協会派のこの共闘組織の結成については〈単なるLSY権力の乗っ取り〉のためではなく運動をつきつけることによって協会派の官僚的セクト性と闘う共闘フラク」というものにする方向で確認し、同時にこのような観点で闘う政治闘争をやるための党的結集をはかることが必要であること、そのためにKF全国化を目指して活動をはじめることを確認した。そのためにまず予備的センターを作ることになった。
そして、四月一三、一四の両日にわたって開かれた第二回の連絡センターでは、「各地における反戦闘争の前進と政治方針の確立のための協同作業」として各地の運動をどのように結合させるかという観点から「単に東京の位置から立てるのではなく、参加者全体の必要性として結集する」ものでなければならないことを確認した。第二回はこのような観点から、まず各地の問題意識をつき合せ運動の交流をはかることからはじめた。……以下六府県からの報告・省略

 以上の報告のあと連絡センターの事務局を東京に置き月一回のペースで会議を持ち活動の交流や討論を積み上げることにした。このようにして運動の交流をはかりながら第三回センターでは運動論上の問題意識のつき合せを行なった。……六月参院選で開催の遅れた第四回センター会議は第三回の申し合せによって情勢討論に入った。当日は全学連大会で上京中の学生の代表者も出席して行なわれたが、中身の討論に入れないままに終り、再度討論を積み上げることを確認して終わった」。
(「全国センター経過報告(一九六八・九・一)」) 
 こうした全国解放派の要求の高まりを受けて、社青同解放派(東京)は六八年八月の総会で、〈全国解放派の年内結成を期して安保総決起・全国解放派結成一二月臨時総会の開催!〉を決定し、全国の兄弟的諸組織に向けて全国解放派結成のアピールを出す。
 「全国解放派結成に関するアッピール

 七〇年安保をひかえ、巨大なプロレタリア階級闘争の発展のために日夜苦闘している全国の同志諸君!社青同解放派(東京)は、諸君の連日の闘いに対し心からの連帯を表明する。われわれは、この一年間における闘いの総括として、言葉の真の意味における〈政治的引き回し〉を断乎として拒否し、「産業合理化反対闘争の発展としての政治闘争」を頑強に追求し、したがって、反合闘争の「協力」を「行動委員会」運動を通じて闘いとって行くことこそが、真の労働者革命党の建設の道であることを確認した。

 昭和四〇年代は、ベトナム戦争の激化、ドル危機、フランスの五月ゼネスト、チェコに対するソ連の武力介入など激動する世界情勢によって特徴づけられる。同時に、日本帝国主義は、四〇年不況の回復過程で、膨大な設備投資、合理化投資を行い、スクラップ・アンド・ビルドの産業再編成を強力に推し進めている。日本帝国主義は、国際的な競争に打ちかつために、産業再編成を急ピッチに推進しているが、それは同時に職場における「資本に対する絶望的な従属」をつくり出しているばかりでなく、国家権力の一層の反動的強化と対外政策の反革命化をもたらしている。労働組合運動においては、総評大会の翌日、労働問題研究会なる反共戦線統一派の連合が公然と活動し出し、「総評の危機」が叫ばれている。他方、社会党は、参院選の敗北の総括を技術的に乗りきろうとし、人事問題で右往左往している。すでに、社会党や総評などに現在の事態を解決する能力が失われていることはますます明らかになりつつある。

 今こそ「反合闘争」の全面的な協力とその階級的政治的成熟の組織としての「革命的労働者党」の建設が現実的な課題となった。社会党・社青同を貫く分派闘争を通じた革命的労働者党建設の道を進まんとする全国各地の「解放派」ないし同志は、今こそ全国的に団結して七〇年安保を闘い抜き、日本革命、世界革命を闘い抜く組織を造り上げなければならない。日米反革命階級同盟の飛躍的強化を目指す七〇年安保に対する闘いは、すでに開始されている!全国各地において、反戦闘争が闘われ、反合闘争の発展としての反戦闘争への追求が執拗に行われている。社青同解放派(東京)は、全国の同志に呼びかけて、今年三月以降、数回にわたって全国各地の運動の交流、突き合わせから、情勢把握の相互討論などをつみかさねてきた。各地方の置かれた条件の違いを乗り越えて団結するには、多くの予備的討論と準備が必要であろう。しかし、情勢はわれわれに充分な時間を与えてはくれない。われわれは、今年中に万難を排して全国解放派の結成に向わなければならないと確信する。あらゆる障害を乗り越えて一二月までに、社会党・社青同を貫く分派としての全国解放派を結成しよう!来たる九月二一日からの社青同全国大会、九月二二日の米タン闘争を断乎として闘い抜き一二月全国解放派結成大会に結集しよう!全国の同志諸君! すでに闘いは始まっている。われわれ社青同解放派(東京)は断乎としてこの道を推進することを決議し、ここに決意を表明する。万国のプロレタリア団結せよ! 一九六八年九月一日 社青同解放派(東京)第五回定期総会」。

 (一九六八年九月、『滝口著作集』①所収)
 このアピールを受けて、第五回連絡センターで具体的に全国化の準備に手をかけることを決め、第六回連絡センターでは大まかな手順と結成にむけての体制を決定した。全国化準備の最高機関として「予備センター全国代表者会議」、必要な諸文書を起草する「テーゼ起草委員会」、中央事務局の性格を持つ「組織準備小委員会」が形成され、一一・六センター全国会議、一一・一七起草委員会と六八年一二月結成に向けて準備を進める。

 しかし、六八年一一月東大闘争全学封鎖、一二月早稲田文連乗っ取りに端を発した革マル派との全面対決への集中によって、一二月全国化は四月へ延期を余儀なくされた。二月以降再開された、全国化に向けた作業は、四月二一日大会(四・二〇全国反戦の集会)に向かって、全国代表者会議を三月一六日、三月三一日と急速に進められた。この四月結成に向けたギリギリの時期に、「今のままでは結成に反対である。しかし、いま少し総括討論を煮つめれば、東京解放派が全国解放派に発展的に解消するとともに『革同』もこの全国解放派に発展的に解消することができる――その確実な保証はないが、しかしその可能性が大いにあるがいま結成すれば殆ど不可能になる。こういうことが『革同』の指導的解放派メンバーから提起され」、東京の総務委員会はさらに一ヶ月の延期を要請する。

 「全国の同志に了解を求める――東京解放派総務委員会

 全国解放派結成に手をつけ推進する作業は、すでに一年余に及び、この間、全国代表者会議を数多く積み上げ、毎回、運動の全国的な相互理解、基本的一致の掘下げ、総括と問題の切開、それに、社青同(全国)や反戦闘争の全国的連絡、意思統一、共同の推進に努め、それを集約的にテーゼの基本、実践的必然性、骨子草案としてまとめ組織討論とオルグが現に進行しているなかでありながら、それを結成大会の一週間足らず前に、東京解放派総務委員会が全都のみならず全国の同志に、一カ月の結成延期を求めることは、とりわけ目の色を変え全力をふりしぼり、かつ具体的に四・二一大会を準備してきた全国の同志に全くすまないことであり、そっちょくにおわびするほかはない。
それは、昨年の夏の東京解放派第五回総会が全国の同志に全国解放派へのアッピールを発し、それにも拘らず、昨年末の結成の全都的全国的意志一致を一二月一〇日の最終集約の段階で、反革マル闘争への突進という事情の中でとはいえ一たん延期し、その上で確認してきた四・二一であったことからして、なおさらのことである。

 以上のことを重々ふまえることの上に立って、一つのことを全都・全国の同志に言わねばならない。かくもながい期間をおきながら、問題が煮つまれば煮つまるほど、もう少し時間があったら、という思いにいたる点であり、多くの点で不充分さを現に残していることは否定することはできない。むしろやっとこの問題と真剣に格闘することを開始したとさえいえる面や所もないわけではない。それにも拘らず、これは延期の理由にはならないし、みんなそんな態度はとっていないであろうし、いまやそれは許されない。それは、どんなに不充分な面があろうと、最も核心的に重要な点、つまり、現在における全国解放派結成の実践的必然性=必要性の根本に焦点をあてて徹底的にここから問題を引き出す基本に据え付けられて、すでに開始され突破されんとしている以上、“延期”は「完全主義」的要求となり、かえって、最も真剣に突進している人たちを傷つける勝手な怠慢ともなり、真剣な運動を去勢させる方向に作用することは言うまでもないことであるから。この問題で、各人が運動を傷つけることになってはならぬという態度をとっていることを、われわれはいたる所で読みとることができる。

 それにも拘らず、そうした種類の“延期”とまぎらわしいが、区別されるべき一つのことを、われわれは言わねばならない。それは社会党に関わる分派闘争についてである。全国解放派結成に向けて、これについて、われわれの為したことと、為していないことの要点はこうである。為したこと(それ自身がまだまだ大いに不充分であるが、それにも拘らず単に形式的に強調して決めつけるのではなくいま一歩実践の根本から全国的必要を引き出すものとして)といえば〈行動委員会運動の中からの党〉という実践的必然の原則とそれの〈社青同・社会党を貫く全国的に組織された分派闘争〉という実現方法の基本、及び、少なくとも全国解放派がこの組織的闘争の中心的推進力として全国に組織的拠点をつくってゆくことが全国的に共通な課題としていま一歩共通認識に近づいたこと――これは無論、単に東京の成果などではなく全国の闘いによる一つの成果である! われわれのまだ為し得ずに結成に向かっていることは、この問題に限っていえば、特に社会党内分派闘争を掲げるもう一つの組織、解放派メンバーのほかにその他の人たちをも含めて組織され、現に一定の具体的活動を展開している組織、すなわち「革命同志会」(略称・革同)を具体的組織的にどうするということを明確にしていないということである。むしろ、全国解放派結成について反対がない以上、少なくともふまえておくべき点(互いに単に消し合うようなことにならないように)を配慮して全国解放派を先ず結成し、その上で、闘いの過程で「革同」のあり方を抜本的に問題にしてゆくほかはないし、事実「革同」の組織的再編成というようなことは、いま実際に問題とすることはできないものとして前提してきたといえよう。

 そしてこの不充分さは、そのために結成しない、ないし延期するという理由にするのではなく(いま直接どうこうするというように問題がたたぬ限り)、残されている課題として確認して進むほかはない。だから、この不充分さがあるから今結成しないという態度をとることができず、東京でも、討論を煮つめていく過程での産別代、総務委でもそう確認してきた。だが最後に問題はこういうふうにしぼられてきた。つまり、今のままでは結成に反対である。しかし、いま少し総括討論を煮つめれば、東京解放派が全国解放派に発展的に解消するとともに「革同」もこの全国解放派に発展的に解消することができる――その確実な保証はないが、しかしその可能性が大いにあるがいま結成すれば殆ど不可能になる。こういうことが「革同」の指導的解放派メンバーから提起されるに及び、一カ月結成を延期してその可能性を汲みつくせば、その期間にたとえ万一この問題が最終的に結着を見出し得ないにしても、結成に異議がない以上、ただ準備不充分だからではなく、この可能性を最大限に汲みつくすためにこそ、結成を一カ月延期(具体的には五月二五日はどうか)し、この努力を致したいことを全国に求めるよう、東京解放派総務委の責任で要請することとなったものである。いまさらのようであるが、ぜひ全都・全国の同志に以上の延期を求める主旨を誤解なく了解されるよう要請する。

 この作業の基本方針についてわれわれ自身を反省しつつ次のようにはかりたい。
1、「革同」と「東京解放派」は組織の性格や位置づけが同じではなく形式からしてもスジとしても「合同」ではない。東京解放派が全国解放派へ吸収されるばかりでなく、この〈社青同・社会党を貫く一つの分派〉に基本的に一致が確認される限り、「革同」は〈発展的に解消〉され、同時に、一層広範な〈大衆的共闘フラク〉として「左翼党員連合」(仮称)というべきものを新たに追求する。
2、これは、いうまでもなく「野合」であってはならず、運動=組織路線ないし見解と意図の基本的一致を獲得するべく、各地区各産別から頂点までの「革同」内外からのオルグ、相互討論の作業をつみ上げ、意見の相違をあいまいにせずに一致を追求する。
 ①テーゼに焦点をあてながら、見解と意図、運動=組織路線の原則的一致を追求する。
 ②東京解放派結成以来の、社会党に関する分派闘争をその時点でどのように問題にしてきたかを過程としてふり返り、現在での総括点をしぼる。
 ③社会党に関わる分派闘争の方針として

  イ 七〇年安保闘争を闘いぬける全国的な党内拠点の構築
  ロ 〈行動委運動の中からの党〉に基づく党内闘争の基本方針
  ハ 党内分派闘争の全国指導部の確立

 について実現の方針の全国的一致を追求する。
3、その他、全般的に不充分だと思われる諸点を、この間最大限に埋め、五月中旬に全国代表者会議をもって最終的に点検し、それでも不充分な点は課題として確認して何が何でも五月二五日に結成する。

 ▽もはや四・二〇を目前にし、二〇日夜に全国代表者会議にはかるほかないとも考えたが、やはり、全国自身が決定できる問題であるからして、敢て、緊急電話で了解を求めるとともに一八日夜九時集まってもらうよう要請した」。

 (一九六九年四月、『滝口著作集』①所収)
 革同の意向は、結成時期にはこだわらず、社会党における分派闘争を重視した態度を表明する。
 「5月15日、革同運営委からこの問題についての次のような態度を正式に提起された。“社青同と社会党を貫く一つの全国的分派結成への呼びかけについての革同の態度”としては、次のように要約される。(この表現についてはN革同代表に確かめてそのまま記す)
1、入党を前提にした党内分派闘争路線
2、社青同を指導すること
3、統一方針、統一実践、統一総括を行う
4、一定の実践の後に総括、テーゼを作って統一を達成する

 1~4を今日から追求するために、革同・東京KF、地方を代表する人達で準備会的全国協議会を発足させること

 以上である。討議の中で明らかにされたことは、革同としては、組織結成の目標時期を今から設定しないこと、この組織構成メンバーは全員入党すること、組織名称については今から同意できず作業の過程であらためて考えたいこと社青同だけの分派組織ならば別に問題にしないこと、などである」。

 
(五月一八日「全国予備的センターへの報告レヂメ」)
 五月一八日の全国予備センター会議の議論と革同との折衝の上で、全国分派結成のための中央常任準備会が成立する。その経過は、以下の通り。
「中央常任準備会活動報告    69710
(A)成立の経過
 中央常任準備会の成立は、去る五月十八日の全国予備センター会議に於て、中央活動に関する東京・京都からの提案の審議・決定を受けて、革同との折衝の上、成立したものである。
 従って、①全国予備的センターは解消せず、②革同を除く、中央メンバーは、全国予備的センターの中央準備委員も兼ねることとなり(1)目的、(2)任務、(3)権限、については、全国予備的センターと相異ないが、(4)組織構成について、解釈の違いをきたしたことである。……
(4)組織構成
 5/18の全国センターに於いては、東京KF2、京都KF1(西日本)、学生中央組織1、神奈川KF1(東日本)、革同1の6人の構成となったが、革同との折衝の結果「それぞれの組織代表と言う構成であれば、東京KFは1とし、他の1は全国社青同を担当するものとして位置づけるべきだ』との賛否の意見が出たが、東京KF滝口氏より「もう一名については東京KF代表とはしないが、中央常任準備会メンバーとして了解して欲しい」との提案があり、各メンバーとも「当該組織の提案である」としてこれを了承した。従って、他の一名(矢吹氏)については、招請状には名を連ねることになったが、所属組織を代表するものではないとして、所属組織(東京KF)を記入しなかった。

(B)成立とその活動
 中央準備会は、正式メンバー、特に、京都、神奈川代表の出席を得て、六月三日に発足した。しかし、その準備過程として、五月二六・二九日に、東京メンバーで会議をもった。六月三日以降は六月十日、六月十九日、六月二七日、七月四日の五回にわたって討議を重ねた。要約的にその内容を報告すれば次のとおり。……以下、参加者と討議項目、要旨等、省略」。
(七月一〇日「全国予備的センターの報告」)
 中央常任準備会の五回にわたる準備討議を経て、革同系も含めての全国都道府県代表者会議が開催されることになった。
「全国都道府県代表者会議への招請状
全国の兄弟的諸組織及び同志諸君!
中央常任準備会は左記の要領で、全国都道府県代表者会議を招集する。言うまでもなくこの会議は、過去の公式・非公式の交流・相互討論の上に立って更に一段と高い結束を図るためのものであり、「統一方針・統一実践・統一総括」の貫徹の上に、それぞれの組織の発展解消を行なった全国統一組織を結成する途上のためのものである。……
 ……我々は、この流れ(プロレタリア統一戦線の現実的形成の)をただひたすら、守り、育て、強化し、しかも全国的に結合せしめ、かつ自らを、その断乎たる推進者として、鮮明な輪郭をもった結合体へと形成せねばならない。しかして、その力をもって、当面する総評大会(反戦解体に向けて、太田・岩井ラインと日共の野合の締め上げ)をはじめとする一連のヤマを乗り切ってゆかねばならないと同時に、十一月佐藤訪米阻止に至るまでの我々の独自的な勢力を一段また一段と強化し、プロレタリア的反安保闘争の推進に精魂を傾けつくさねばならない。
 全国の兄弟的諸組織及び同志諸君にあっては、闘争の手を緩めることなく、しかも我々自身の独自的作業である党的結集へ向けての作業に協同して当たられんことを心から要請するものである。

〈要領〉
一、日時 七月二八日(pm六時)~二九日(pm五時)
一、場所 (略)
一、議題
 (一)労働者大衆の状況(日本に於ける労働者階級の状態)の可能な限りの鮮明化と七〇年安保の総路線。各政党政派の位置と構造、批判。我々の位置。
 (二)四月~六月闘争の総括を受けての秋の闘争方針
 (三)社青同(全国社青同奪権をみつめての)問題
 (四)準備体制の確認と財政問題
  六九・六・二七
     中央常任準備会
     滝口弘人(社青同解放派―東京)
     川越敏夫(日本社会党革命同志会)
     坂下昭二(神奈川反帝労評)
     坂井元彦(革労協―京都)
     吉野  (社青同全国学協解放派)
     矢吹竜之介」
〔註 一部の本名表記は組織名に変えた〕
(七月一〇日の報告と同封)
 その後の経過を伝えるものとして、社青同解放派(東京)の八月の第六回大会議案の「〈社青同・社会党を貫く一つの分派〉の全国的組織化のために」を以下に示しておく。
「一 昨年九月の第五回総会で、われわれの闘いと組織の現在的問題、その過去または過程の総括、将来への展開の核心、そしてそれらの突破口などを、闘いと組織の基礎づけの問題として集約的に検討し、全国解放派の年内結成を全国に呼びかけた。すでに同年二月以来月一回平均で積み上げてきた予備的センター全国代表者会議の闘いの交流と相互信頼、当面の問題についての共同の対処、全国的組織化に関する共通の問題の集中討議を少しずつながら進め、一二月結成に向かったが、大規模な直接の反革マル闘争への突入の中で、一二月結成を延期せざるを得なかった。
 今年に入り、この中断を受けて、あらためて全国的組織化の必要性を根本から相互に問題にし直し、その実践的必然性=必要性に即して組織のあり方とテーゼの骨子を立てる二回の全国代表者会議をもって、四月二一日結成を確認した。この時点まで、実現されるべき全国解放派は〈社青同・社会党を貫く一つの分派〉としながらも、『革同』(日本社会党革命同志会)については組織性格のことなるものとして(われわれの大衆的共闘フラクションとして位置づけてきた)、全国解放派結成を先行させることを前提にして進んできた。しかし、四月上旬、革同内解放派の指導的メンバーより、テーゼ草案(骨子)、組織性格等を検討し、革同との原則的一致と革同の「発展的解消」の可能性が提起され、総務委員会の機関討議によって、実現の保障は決してないが、この可能性をいま一歩汲みつくすために全都・全国の同志に再度延期を要請し、「了解」を求めた。予備的センター全国代表者会議で一応了解され、五月二五日を動かないものとして結成するということで一カ月ほどの延期ではあるが、『革同』との討論ができるためにも最大限努力する態度を表明した。五月十八日の全国代表者会議に『革同』としての態度が公式に伝えられ、すでに報告しているように、結成時期(期限をいまから立てぬ)と参加資格(全員入党)について意見の相違があることが明らかになったが、原則的に「発展的解消」=原則的統一の意向が表明された以上、『革同』をふくめた「中央常任準備会」を(全国予備的センターとは別個に)組織して討議を煮つめてゆくことになり、三度目の結成延期をすることになった。
 その後の経過は別に報告しているが、七月二八日―二九日「全国中央常任準備会」の指導する全国代表者会議をもち、その会議において、東京解放派として今や九月一日結成をぜひとも実現しなければならないという意向を表明した(ほとんど毎回の中央常任準備会の討議で結成時期を明確にして作業に入ることを主張し、総務委員会の機関決定をもって全国代表者会議の中央常任準備会の提案とするよう求めたが意見が一致せず、七月二七日の予備的センター全国代表者会議にはかりつつ、この意向表明を行ったものである)。だが、二八―二九日の中央常任準備会が主催する全国代表者会議(事実上、全国予備的センター参加の代表と革同代表の出席する会議となった)の場所で採決、決定を求めることはしなかった(『革同』としては今月十六日の『革同』総会で検討したいということになっている)。全国予備的センターとして、『革同』の不参加ないし反対があっても、九月一日結成すべきだという集約をし、いまその個別的な確認の作業に入っている。
二 六月末から七月初めにかけて、全国解放派結成を、具体的に推進するための提案をもって全国代表者会議にのぞむべく意志統一の作業に入り、この問題に集中した総務委員会を二回もち、討議した。しかし総務委員会としての機関決定は、『革同』の指導的メンバーでもある総務委員(二名)の出席が無いので、さしひかえることとし、その出席可能な十八日、社青同地本大会の最後的点検とこの問題を中心にして討議決定した。昨年の総会で全国化方針を決定しているとはいえ、『革同』との関係に重大な影響を及ぼすように実際の結成を進めざるを得ないので臨時総会をもって組織としての態度を最後的に確定することにした。この総会の基本方針を受けて、『革同』総会を前後して社会党委員会をもふくめてさらに具体的に対処して行きたい。七月十八日決定した全国解放派結成のための総務委員会の態度の集約点はこうである。
① 全国解放派を九月一日に組織結成大会をもって組織として出発せしめるべきであり、その時点で、『革同』の不参加ないし反対があってもそうすべきである。
② 『革同』との原則的統一(原則的一致を獲得しての統一)は依然として追求する。その形態は全国解放派結成後は当然ことなる。『中央常任準備会』はなくなり、別の組織的な方法、形態を全国的に決める)。
③ このまま組織的結合を遅らせれば、今秋からの反安保闘争の激烈な突進のなかで、反戦と反合、または政治闘争とゲリラ戦の闘いの中で、全国的に闘う一人一人の磨滅を見すごすことになり、社青同・社会党の分派闘争を現実に全国的に組織し、それを特に産別の全国的結合によって基礎づけていく必要が、まさに闘う主体的条件からして、もはや遅れることができないものとして突き出されていること。
④ この作業を全国労研運動に取り組むことを通じて直ちに着手し、それを同時に、全国解放派結成の組織的準備とすること。
⑤ 九月一日結成にたとえ『革同』の参加がなくても社青同だけの解放派ではなく社青同・社会党解放派の全国的組織化として、もてる力をもって社会党に直接関わる分派闘争を展開することを、われわれ自身の反省をもって組織的任務とすること。
⑥ この全国解放派の結成にとって、東京の任務は重大であり、人をふくめた最大限の責任負担体制をただちにとること(東京地本人事をも考慮しつつ)。
 この態度をもって、すでに社青同東京地本大会、中央常任準備会、全国予備的センター、反安保労研の組織化に臨みつつある。この課題の遂行は、いうまでもなく重大な決意と貫徹力を必要とする。われわれは、総会をもって、全組織的に意志統一をし、産別、地区の各機関、学生委員会、社会党委員会をもって、職場を焦点とした産別、地区行動委員会とそれに基礎づけられた現実的分派党争の戦線整備を組織的に推進することに突進しなければならぬ。
三 われわれは、昨秋の大会で〈「引き回し」として現れる現象〉から問題にし、その現実的根拠を問いつめてゆくことから路線上の反省をし、七〇年安保闘争の路線を確立しようとしてきた。
 七月二八―二九日の全国代表者会議で『革同』代表から、解放派が社青同東京地本を引き回し、地本は大衆を引き回しており、そのことが原則的統一について時間がかかることの理由の一つとしていわれた。機関上の「引き回し」(そこであげられた「事実」自身がその通りであるかがすでに重大な問題であるが、そのことは一応別にして)はそれだけでは解決できず、その根拠をどのように問題にしているかが大切である。解放派としては、社青同をわれわれとの徹底的な一致へと進めることが問題であり、その欠陥はわれわれ自身の問題であり、その意味をどんな引き離しをもたらさない方向で問題にしてゆくことは当然でなければならない。その現実的根拠をわれわれはどのように問題にしたか? 反戦・反合を一つのものとして推進することを課題としつつ、しかしそれが引き裂かれんとする傾向を全般的に克服し得ていないものとして。すなわち、反合又は反産協のゲリラ戦への突進がそれへの没入となり、他方反戦の政治闘争への執拗な関わりが一面的に政治主義的になるならば、どんな闘いの提起も、引き回しとして現れる傾向、闘う各人の磨滅の傾向がさけがたいことになると。そして、われわれ自身の現在、過去、将来をこの問題に集中的に格闘することによって問題とした。そこから、全ての問題をとらえかえそうとした。この路線的一致を深め、再構築することが課題であるとした。社会党に関わる分派党争と『革同』についてなしたこと、なしていないことを事実的にふりかえりながら『革同』についての組織的評価として、次のように要約した。闘争路線については、反合闘争の発展としての政治闘争、組織路線としては行動委員会運動を結びつけ発展せしめるための分派闘争路線として基礎づけられておらず少なくともそういうものとしての明確な意識が引き出されるための格闘となっていない、というように。この問題は、実際解放派自身の問題である。特に『革同』の指導的メンバーが解放派のメンバーでもあるということからして、すでに昨年初め、『革同』の出発から一年足らずして、すでに分派闘争路線についてのギャップが実際問題として突き出されつつあるのではないかということが、直接には社青同の階級的統一の問題としてあらわれ(「何でも呑み込み腐蝕して生きる社会党」という評価などに関連して)『革同』の指導的メンバーを含む拡大総務委員会をもって討議し、それを「若干の組織問題と革命的労働者党建設(日本社会党の組織性格と分派闘争)」として、全組織的討論に提供したが、そこでの問題の中心は、社会党から「切れる」のかどうか、ということで分派闘争か別党コースかが原則的に区別される(「原則のふみはずし」として)ようなことを突破して、労働者の現実の問題との格闘の発展が社会党の「限界」突破を不可避とする(公然たる分裂として現れて当然)分派闘争路線ということである。このことは社青同東京地本の分裂において鋭くあらわれた問題である(「社青同・総評ブロック」から切れるのかどうかということで、解放派が分派闘争路線をあいまいにしたり、放棄したり、方針が遅れたりなどしたどころか、この路線的な掘り下げを率先して提起し、接近し、そのことによって今日の解放派を再構築してきたのだといえる)。それを、昨秋の総会では、社会党に関わる分派闘争の闘争と組織の路線としてさきにみたように要約した。
 最近『革同』は、「組織総括」として、社民体制内化の危機を突破するために、単に社会党「窓」からながめわたして対処するのではなく、現実の大衆闘争に取り組むべく格闘しなければならないという組織の方向提起をしている。これは、いうまでもなく一歩前進であり、われわれはこれをその帰結まで推し進めなければならない。その帰結まで、というのは、この大衆の現実の要求、課題との格闘によって分派闘争路線そのものを、まさに組織路線として確立すること。社会党と「切れる」のかどうかではなくて、その桎梏を桎梏として突破する闘争組織路線、すなわち行動委員会運動に基礎づけられ、それと格闘する分派闘争路線として。もしそうでなければ、大衆闘争への取り組みはそれを物理的エネルギーとして利用したいということを路線として突破してゆくことはできないし、分散主義の克服は中央集権主義(単に一方のみならず両面をもっているのが社民組織の性格)へのぶりもどしにもなりかねなくなってしまう。そして最も重要なことは、産業合理化を鋭い現実核心とする現実の労働者諸個人が、〈結びつき発展する〉という意味からして組織の根本的必要を引き出し推進するという組織問題の立て方が明確にならない! こうした路線上の強力な一致の獲得なしに、「大衆共闘フラク」であれ、どんなフラクであれ、われわれのフラクションとして組織展開することにはならない。こうして、解放派の推進する『革同』の拠点のいくつかはこうしたフラクション的性格をもちながらも、解放派が組織として、一つの組織体としての『革同』を具体的にフラクションとして機能せしめるには至っていない。われわれは、社会党に直接関わる分派闘争としては、『革同』を通じて展開することにし、基調的な方針提起と社会党委員会の討論を若干行い(事実経過をふくめて、第五回総会議案参照)全体についての中央機関である総務委員会に『革同』内解放派の指導的メンバーが入り解放派全般の闘争についての組織的保障の一つとすることがなされてはいるが、まだ路線的一致が確固とするに至っていない。われわれの路線を掘り下げつつ、この原則的一致のための闘争は依然として現在にも引きつがれ全国解放派の結成によって終るのではあり得ない。さらに加えて特に社青同東京地本の公然たる分裂以後、原則的な階級的統一のための闘争を繰りかえし、分派闘争路線の放棄どころかその路線的深化をめざしてきたとはいえ、分派闘争は、社青同の領域をふくめて、解放派組織として、現実的取り組みを稀薄にしていることは否定できない事実である。こうして、解放派が一つの解放派組織として、統一的に社会党内分派闘争を具体的に展開するということにはほとんど全くなっていない。解放派自身のこの反省を、もはや「社青同解放派(東京)」に止まらない「社青同・社会党解放派」にしてゆく中で、実際に証明してゆかなければならぬ。
 以上のことを、解放派自身の自己批判として、強調すべき点を突き出すように要約し、われわれ自身の前進に資することにしよう。それは第一に『革同』と解放派の間の問題は解放派自身の問題であり、分派闘争路線についての解放派自身の原則的一致の問題であり、総務委員会及び社会党委員会をはじめとして、この路線的一致を強力に、組織的に推進するに至っていない。それはすでに見た要点をあいまいにすることなく、しかし、すでに到達した点に満足することなく、具体的にも原則的にも一層掘り下げてゆくことなしに、成し遂げられない。そして、第二に総務委員会及び社会党委員会をはじめとして、解放派組織として、社会党に直接関わる分派闘争を具体的に組織展開として推進することを、ほとんど全くなし得ていない。それは「社会党内分派闘争」に止まらず、「社青同内分派闘争」、すなわち、「社会党内分派闘争」の前進にとって欠くことのできないこの領域の分派闘争にとっても、「何故社青同に入って闘うのか」ということが、新たな闘いによってあらためて問いつめさせられている現状において、つまり、社青同における分派闘争自体も、新たに疑いなおされるということとの格闘なしに、すなわちこの領域での分派闘争の具体的な組織的展開の再強化をなしとげることと不可分に問題にすることなしには決してなしとげられない。社会党という既成党の桎梏を桎梏として突破してゆくことをプロレタリア解放闘争の不可避的な課題として、分派闘争を通じての革命的労働者党建設を不断に、現実的に展開するために、以上の二点をわれわれ自身の問題として徹底的に留意して進もうではないか。
 九月一日結成に向けて直ちに着手すべきこと
一 反安保労研集会を組織するなかで、各産別の全国的行動委員会(連合)及び解放派の全国産別委員会の組織化のために、実態、闘いの問題提起、方針提起、産別毎の全国討議と連絡、オルグ、体制づくりに入り、この組織的輪郭をもって九月一日に結集すること。
二 この総会の討議を受けて、社会党委員会をもち、社会党に関わる分派闘争の具体的組織的展開の構築再構築に入ること(八月十五日の全国代、及び八月十六日の『革同』総会のためにも)。
三 各地区は、自らの闘いとその問題点を全国への報告としてまとめ、それをもって九月一日に結集すること」。

 (一九六九年八月、『滝口著作集』②所収)
 全国予備的センターは、『革同』の不参加ないし反対があっても全国解放派を九月一日に結成大会をもって組織として出発せしめるべきとして、見切り発車する。革同は結局、革労協結成には参加しなかった。しかし、対立は決して決定的なものではなく、七〇年安保闘争終了時での再協議を約束していた。その後、革同自身も全国化を目指すが必ずしも成功したとは言えず、70年以降の反戦パージ(革労協、日中正統、婦人会議、救援会との絶縁)の波にもまれていくことになる。





(私論.私見)