009

革共同革マル派批判 (1973年)

 (最新見直し2013.01.28日)

 (れんだいこのショートメッセージ)


 2013.01.28日 れんだいこ拝


革共同革マル派批判  中原一   1973年7月  
= 目 次 =

―リード文―

はじめに

1 革マル派の「前史」

2 革共同革マル派の反プロレタリア的宗派性の<展開>
 (1)革共同革マル派の宗派的展開の概要―革マル派自身による「歴史的整理」
 (2) 革マル派の反プロレタリア的宗派<展開>

3.70年安保―沖縄闘争をめぐる革マル派の混乱と破産
 (1)革マル派の70年闘争の「総括」
 (2)革マル派の総括の小ブル宗派的構造

4 ベトナム反戦闘争における革マル派の小市民的本質

5 革マル型宗派「労働運動」の反プロレタリア的構造
 (1)革マル派の合理化論
 (2)革マル派の「反合闘争―労働組合運動」方針なるものの小ブル性
 (3)差別分断を突破しえずむしろ固定化する革マル型「労働運動」

6 革マル派の「組織建設」
―「党派闘争」―「のりこえの立場」の反プロレタリア性

 (1)革マル派の組織建設をめぐる矛盾と混乱―70年以降を軸として
 (2)「のりこえの立場」の反プロレタリア的構造
 (3)宗派革マルの「革命運動」―他党派解体の党派闘争の反プロレタリア性
 (4)革マル派「組織論」の反プロレタリア的構造

7 プロレタリア革命なき「革命」戦略
(=現実の矛盾・闘争から逃亡した小ブルの宗教運動)
  ―革マルの「革命戦略」批判―

 (1)反帝・反スタ戦略の反プロレタリア性
  (階級性なき小ブルの無力なスターリニストへの反撥)

 (2)トロツキー型永続革命論の観念的歪曲および
  プロレタリア革命をぬきさったレーニン組織論の小ブル的歪曲

 (3)プロレタリア革命運動(ソヴィエト運動)なき
  「革命」運動および権力闘争の必然性の欠如

8 黒田寛一の「弁証法」なるものの
  反マルクス主義=反プロレタリア性

 (1)本質(論)なき現象(論)主義者
 (2)黒田寛一の反スタ思想の出発点
 (3)西田哲学における「場所的論理」と黒田の「場所的立場」
  ―その観念論としての同質性―

9 プロレタリア革命の弁証法
  ―ソヴィエト運動とプロレタリア革命党―

 (1)ヘーゲル弁証法とマルクスの弁証法
 (2)ソヴィエト運動とプロレタリア革命党

=補遺= 革マルにおける「国家と革命」の小市民的性格


●宗派革マルによる川口君虐殺糾弾!
●プロレタリア革命に恐怖し、敵対する体制内小ブル集団
 革マル派を粉砕せよ!
●革マルを利用した当局の学生管理、支配粉砕!
●70年代中期階級闘争の命運をはらむ早大解放闘争に勝利せよ!
●帝国主義ブルジョア政府打倒
 ―宗派の根底的解体止揚への闘争をさらに強力に推進せよ!
 (一)

 72年11月8日、革共同革マル派は早大において早大生川口大三郎君を虐殺した。死にもいろいろある。死のそれぞれのありかたを安易に虐殺だの何だのといって政治的に利用することは許されぬが、革マル派による川口君の殺害は文字通りの虐殺であった。

 これをめぐって偉大なる第三次早大闘争が爆発していった。早大学生は、テロ・リンチによる宗派革マルの数年にわたる支配に対して決起していった。この闘いはたんに革マル派に対する闘いのみならず、革マルの宗派支配を学生の管理、支配に利用していった大学当局に対する闘いとしても爆発していった。第三次早大闘争は、おいつめられた革マル派の兇暴なテロ・リンチを完全に粉砕し重大な前進をとげる段階へきている。

 一切の願望と政治技術が破産した後、革マル派にのこっている手段は彼らの本質であるテロ・リンチによる活動家つぶしである。4月にはいって革マル派はこの全面化にのり出した。だが、彼らはその最後の手段も、恐れをしらぬ早大学生とこれと共に闘う反帝学評により粉砕されつつある。

 革マル派による川口君の虐殺は、革マル派にとってのたんなる「部分的失敗」ではなかった。誰でも誤りはありうる。しかし、革マル派の川口君虐殺はたんなる誤りではない。むしろ革マル派の路線からすれば当然帰結される学生の虐殺であった。それはこの小論の中で明確にされるように、帝国主義への闘争をまさに「適当にやり」つつ、自らの権力への恐怖と権力闘争からの逃亡を都合よく理由づけ、しかも闘う人民、政治潮流への破壊活動を革命運動だとする疎外されきった反プロレタリア的な路線である「のりこえの論理」の結果であった。

 革マル派の運動と組織は、プロレタリア人民の生き生きとした闘いの抑圧、階級闘争からの小ブル的な逃亡路線の上にのみ成立する。したがって、これをこえて突出する部分には、テロ・リンチをもって保守的な組織保持をはかるのである。こうして革マル派によって公然、隠然の死においやられた学生は川口君だけではない。だが、川口君の虐殺はあまりにも許しがたいものであった。しかもその路線は革マル派の居直りによってさらに強化されんとした。早大学生を中心としたプロレタリア人民はこれを許しはしなかった。

 (二)

 革マル派は川口君の虐殺に対してはじめは次のように居直った。革マル派の路線は川口君の虐殺とは無縁である。しかし、外部の悪しき路線に汚染された革マル派の下部活動家が誤りをおかしたことを自己批判すると―。一体誰がこんな「自己批判」をうけいれると思うのか。革マル派の歴史を知っているものは、川口君虐殺のテロ・リンチが革マル派のいるところ全日本どこでも日常のこととなっていることを知っている。

われわれは暴力一般を否定するものではない。むしろプロレタリア革命運動にとって革命的暴力は本質的なものである。しかし、革マル派のテロ・リンチは革マル派の小ブル的、体制内的運動をこえて前進する部分に対してのみ与えられる。まさに階級闘争を背後から破壊するものである。だから、革マル派のあのような自己批判をうけいれることは革マル派の路線をむしろうけいれることとなってしまうことを全早大の学生はハッキリと知っていた。だから早大学生は決起していった。

 革マル派の第一回目の自己批判の構造はたんに闘うプロレタリア人民の怒りをかっただけではなかった。革マル派内部に深刻な動揺を生み出していった。まさに革マル派の路線に「忠実に」川口君を虐殺した下部活動家に対して一切の責任を彼らにきせ、自らは全く無関係と「白い手」をぬぐった官僚どもに対して、下部からの不満が噴出した。こうして、今度は官僚どもはその不満をおさえるべく必死で弁解し、「他面、指導部の未熟性」「組織的責任」を強調した。

 だが、それだけでは事態がおさまるはずもなかった。早大生を中心とするプロレタリア人民の怒りは革マル派に集中し、しかも内部も徐々にではあるが根底的動揺が拡大した。本質的には革マル派と同じ宗派中核が、宗派戦争において、革マル派の活動家を殺した時でさえ、「良心的」革マルは「革マルは中核を批判できない。われわれも同じことをやっている」と革マル中央に叛乱し、革マル中央はこれをつぶすことをもってその拡大をおさえた。東京の一拠点Ⅰ大学の革マルはこれでつぶれた。

 しかし今回は弁解の余地のない革マル派の路線の帰結であったのであり、革マル中央への恐怖からなかなか公然たる叛乱がおこせない革マル派活動家の中に、むしろ逆に深刻な形で問題が沈んでいった。それが革マル派の全国最大の拠点早大一文においておきたことにおいて事態は致命的であった。早大革マルは再三の危機を指導部のパージをもってのりきり、それによっていきついたはてが川口君の虐殺だったのだ。

 (三)

 この小論でみるように革マル派の歴史の中で現時点は一つの「曲り角」に立っていた。それは、革マル派の一面である「小ブル主体性論」に対して、革マル派の他面である階級性なき「組織主義」が勝利し主体性派は力を失っていく。こうして体制内的他党派解体策動が展開される。この中でおきたことは今みてきたことと重なって革マル派内部の動揺を拡大した。革マル官僚は全力で自己弁護にのり出し、教祖黒田と共に<中味のない反プロレタリア的陰謀技術―組織戦術>の賛美によってこの動揺をのりきらんとしている。そして一方では目を外に向けるために社共と同質の小選挙区制闘争―田中内閣打倒闘争をやり、また責任を早大の活動家や他党派に転嫁し、さらに宗派戦争に熱中するという有様である。

 (四)

 早大革マルの破産は、たんに学生運動にとどまらなかった。革マル型労働運動も深刻な動揺の過程にはいる。外観上はむしろ当面の闘争に「今まで以上に」かかわることにより川口君問題を忘れようとしたが、所詮それは無理なことであった。なぜならば自分が日々やっていることと同じだからである。

 これは破産した学生運動が、学生独自の闘いを通して労働運動と連帯するのではなく、むしろそれを削りおとしてブラさがっていた結果によっても増幅された。早大ヘビラマキに動員された革マル系の労働者は、早大生に事実をつきつけられて一言も答えられず消耗して逃げかえるという有様だった。

 革マル派が早大でやったことは労働運動で革マルがやっていることのいきつく先であることが誰の日にもハッキリしていき、革マル派全体に深刻な動揺が拡大している。そしてむしろそうであるがゆえに逆にその路線を強化することによってのりきろうとしている。

 (五)

 革マルの労動運動路線は民同型の「悪しき産別主義―本工主義」である。それは、実は本工の闘争自体が不充分なものでしかないことを示している。

 だが、この問題はこれにとどまるものではない。革マル派の運動がまさに階級社会の差別構造を固定化し、肯定するものでしかないことを示している。彼らは現実の一つひとつの矛盾を闘いぬくことを通して階級的、革命的団結が生まれていくということを否定し、現実の闘争、団結の否定の上にイデオロギー(小ブルの)的結びつきをたてる。部落解放闘争における先進的糾弾闘争をはじめとして、女性解放闘争、民族差別への闘争、「障害者」解放闘争として闘われているものを革マルは平然と放棄し、階級社会における差別を固定化、拡大している。これは革マルの「労働運動」「学生運動」が、決して人間解放の力をもった階級的革命的プロレタリア運動(ソヴィエト運動)たりえないことを明白に示すものである。川口君の虐殺もこうした闘いへ決起せんとした者への革マル的圧殺として存在したのだ。

 (六)

 国際階級闘争の歴史の中で60年代―70年代は後世に決定的な階級闘争の「幕あけ」としてしるされるであろう。なぜならば、第一次大戦、第二次大戦を通して破産した社会民主主義とスターリニズムの本質が公然かつ大衆的に暴露され、スターリニストや社民自体が深刻な分裂にはいっており、その底からプロレタリアの階級的独立の闘いが徐々にではあるが確実に前進している時代だからである。

 この時代の中で、スターリニストを批判した小ブル急進派の初期の見せかけの戦闘性が破産するという事態が進行した。国際的にもそうであったが、日本においては連合赤軍の破産―壊滅、ML派の破産―壊滅、中核派の破産という形で進行した。体制内的な自己保身術によってのみ生きのびていた革マル派も激化する階級闘争の中でかくしようもない形でその本質を暴露していった。社民、スターリニストの破産をのりこえて台頭しつつあるプロレタリア階級が、「社民、スターリニストを批判する」と称してプロレタリア人民を体制内的自己保身の物理力にせんとするトロツキズム諸潮流を粉砕して前進することは、70年代の階級闘争の質を決する問題である。

 (七)

 早大革マルはたんに学生運動の拠点たるにとどまらなかった。革マルイデオロギーを「体現」した官僚を労働戦線をはじめとする各戦線へ送り出し宗派支配を貫徹するための拠点でもあった。それはまた「のりこえの立場」を貫徹するために不可欠なものである―他党派解体のために不可欠のものである―テロ部隊の出撃拠点でもあった。早大解放闘争は直接に革マルの早大学生支配への闘いであると共に、早大革マルがしめている位置からいってこうした革マル派組織の全国的拡大の拠点を粉砕するという中味をもっていた。だからこそ革マル派はテロ・リンチをもって闘う早大生をおそったのである。

 こうして早大解放闘争が現下の教育の帝国主義的改編への闘争と結合して発展するということは、労働運動と学生運動の関連をふくんだ学生運動の最大の攻防戦としての意味をもっている。

 つまり革マルの学生運動は、現下の教育をめぐる学生の闘いを一切放棄し、民同的労働運動にブラ下がり、学生運動を階級的革命的に闘わないがゆえに生まれる「革マルイデオロギーを体現した活動家」を、日本軍命運動の阻害物として生み出すプールとなっていた。学生運動とプロレタリア運動の革命的連帯は学生運動自体が教育闘争、反戦闘争等を闘いぬきつつその団結をもって労働者運動と結合することによってのみ生まれる。こうした連帯のみがプロレタリア革命運動の推進力たりうるのだ。つまり学生が自らの矛盾を階級的革命的に闘いぬくことを通しつつ、プロレタリア運動と階級的要求をかかげながら結合することにより学生の小ブル性を根源的に突破・止揚できるし、また同時にプロレタリア運動がソヴィエト運動として発展することを促進しうるのだ。

 革マル派の「学生運動」は学生達動を小ブル的なものに固定化して、イデオロギー的にのみ革命化、階級化をはからんとする。それは実は小ブルイデオロギーを保守的に固定化し、それによって反スタースターリニストを生み出す運動となる。早大における革マルの闘う学生への抑圧は本質的にはこういうものとして存在した。

 これに対して早大生は決起し、同時に日本学生運動の革命的階級的推進力たる反帝学評は、公然とこれを連帯支援した。まさに反帝学評運動は学生の矛盾を運動として闘いつつ、その根源的突破のためにプロレタリア階級闘争との階級的革命的連帯を目的意識的に実現しつつある唯一の潮流だったからである。こうして早大解放闘争は宗派革マルの早大生への支配を粉砕する闘いであると共に、その闘いがそのまま、プロレタリア人民を権力への闘争からひきはなしまたは決起した部分を粉砕し自らの小ブル的な利害の物理力にせんとする反スタ・スターリニスト革マルの策動を根底から粉砕する闘いでもある。

 階級闘争の困難局面では、まさにその困難さを体制内的に、うしろ向きに「総括」し、小ブル的に固定化する部分がくりかえし生まれる。反スタ・スターリニスト革マルはその一点で組織保存ができた組織なのである。しかも、闘わんとする学生を虐殺することをしてもその小ブル利害を貫徹せんとした。だから早大解放闘争は、早大における反スタ・スタ二―リニストの支配を粉砕する闘いであると共に、日本階級闘争への小ブル的「寄生」を行なわんとする部分を根底から粉砕する巨大な意義をもっているのだ。

 なお、以下の叙述は次のような目的と意図をもってかかれている。

 第一は、反スタ・スターリニストの骨格を要点的に描き出すことである。まさに宗教的組織であるために、プロレタリア運動にとってはなかなかなじみがたい「用語」で、誤ったことを展開している。したがって、それを全体として骨格を明確にしていくことが必要だと考えた。その意味で引用をできるだけ行なった。

 第二は、第一のことを通して粉砕していくべき対象の攻撃目標をハッキリさせんとしたことである。

 直接的な革マル派粉砕の闘争方針や戦略戦術をここで叙述することは適当ではない。それは『解放』紙・誌でのべられているし、今後も強化されるだろう。ここではその前提を明らかにせんとしたのである。

 はじめに
 ―「ファシズムかプロレタリア革命か」=「帝国かコミューン(ソヴィエト)か」

 73春闘は、70年代階級闘争の「原点」を凝縮して突き出している。

「空前の交通ゼネスト―公労協統一スト」「民間組合のスト多発」「乗客暴動」という形で、それは突き出された。ここには二つの問題が集中的に表現されている。

 第一は、日本プロレタリア運動が、日本資本主義の政治・社会矛盾の激化の中で根底からの戦闘化を深めつつあり、民同、JCの官僚的抑圧をこえて突き出しつつあること。もちろん、今回の「ゼネスト」が、民同左派の枠を完全に突破したとはいえないが、民同も抑えがたい形で吹き上げたことは事実である。これは、様々な曲折をとるにしても、70年代のプロレタリア運動の行く手を指し示している。

 大幅な物価の上昇、労災、職業病の激発にみられる大合理化の進展、労働者の日常生活の破壊、また人民の血税によるアジア反革命戦争への道。これらに対する人民の反撃が当面「社共」・民同の枠内ではあれ、「公然」と吹き上げはじめ、さらにはその枠を打ち破る力を一歩一歩形成しつつあることを73春闘は示している。階級的プロレタリアートの任務は、この力を決して「社共」―民同に収約させることなく、行動委員会運動―ソヴィエト運動の展開、革命的プロレタリア党建設へ集中して行なわねばならぬ。しかも、明確な革命への展望をもって。

 第二の問題は、この戦闘化がもう一歩突破しなければならぬものをかかえているということである。それは、ストライキに突入しているプロレタリア運動が資本と民同の分断をこえていく路線・方針を確立し、展開しきれていないという問題である。

 資本主義社会における矛盾の激化は、たしかに一人ひとりのプロレタリア人民に、耐えがたい形でのしかかる。しかし、その一人ひとりにかかる資本主義社会の矛盾は、資本主義社会における分業の中で、外観上は様々な「差異性」としてあらわれている。しかも、資本の運動は、これを分断と競争として対立させる。

 したがってこれらの矛盾に対して、もしこのブルジョア社会の根本的突破・止揚を目指すソヴィエト運動が展開できていないときには、プロレタリア人民相互の深刻な「対立」が突破される展望のないまま激化する。そして、突撃していく部分も、「手づまり」状況にはいっていく。この「手づまり」状況を利用して、ファシストが登場し、分断されたまま矛盾が激化しているプロレタリア人民の一部をもまき込んで、プロレタリア革命運動に対する圧殺にはいっていく。上尾からはじまっていく「乗客暴動」は、この問題を突き出している。

 こうして、プロレタリア運動は、産別的団結をさらに強化し階級的・革命的産別ストライキの強化を目指すとともに、反合闘争をめぐる地区的団結を発展させ、さらには生産過程・消費過程の双方を貫くプロレタリア運動を発展させていかねばならぬことをハッキリと突きつけられている。今回の「乗客暴動」で、右翼の挑発が行なわれたことは、いうまでもなくハッキリしている。これに対して、断固たる闘争を強化していかねばならぬ。しかし、現在の民同左派の運動が、60年代に存在したストライキをめぐる「地区的支援」をますます切りおとし、「悪しき産別主義」におち込みつつあること、したがって、右翼につけ込まれるスキを与えていることもまた事実なのである。

 ここに出ている問題は、「大企業プロレタリアートと中小未組織プロレタリアートの分断」「生産過程と消費過程の分断」の問題である。さらに、現在深刻に突きつけられているものとしての「公害」をめぐる「地域住民と工場プロレタリアートの対立」、また社会的・歴史的な差別分断をプロレタリア運動が突破しえない問題等々として、この問題は突きつけられているのだ。

 70年代階級闘争は、来年の参院選をふくんで、この1、2年に急速に深化をとげんとしている。全日本プロレタリアは、一定の限界をもちつつも下部プロレタリアートの吹き上げによってうちぬかれた「ゼネスト」の階級的中味を、地区・産別の行動委員会、課題別戦線、さらには圧倒的な政治闘争として発展させ、プロレタリアートの階級的独立の闘いを急がねばならぬところへきている。

 こうしたプロレタリア運動が、「権力展望」をもふくんだものとして急速に階級的・革命的に強化されねばならぬという課題を別の側面から突き出しているのが、「党派闘争」の問題である。

 歴史的には、1930年代の世界的な革命運動の高揚の中で、ドイツ、フランスとならんで革命と反革命の激突の焦点となったスペインにおいて、フランコのファシスト軍隊と闘いつつ、スターリニスト、トロツキスト、アナーキストが三巴の深刻な党派闘争を行ない、敗北していったという事実がある。もちろん、たんに党派闘争が存在したからスペイン革命が敗北したという総括は正しくない。

 そうではなくて、プロレタリア革命派(それは相対的にはスペインのトロツキズム潮流に体現されていた)が、アナーキスト、スターリニストを突破し、止揚する運動を展開し、そういう組織を建設しきれていなかったことによる。

 「党派闘争」というのは、決して現実の階級闘争と無関係に、「セクトとセクト」が行なう闘争ではない。反ブルジョアジーの闘争のなかで、様々な階級、階層が決起していく。しかも、帝国主義の矛盾の激化の時代、プロレタリア革命の時代においては、小市民が自らの利害を「プロレタリア革命」という名のもとにおし出し、プロレタリア人民をその物理力にせんとする活動が強まる。こうして、プロレタリアの階級闘争とそれを物理力にせんとする小市民「左派」(スターリニスト、反スタ・スターリニスト)との闘争は、当然激化する。

 われわれは、この闘争をプロレタリア革命連動の展望のもとに、断固としてやりぬかねばならぬ。しかも、重要なことは「宗派と宗派の闘争」、「分断強化のための闘争」、「階級闘争における手づまりを深化させる闘争」としてではなく、ソヴィエト運動およびそれを推進する階級的・革命的党派と小市民左派・右派との闘争としてこれをやりぬかねばならぬということなのだ。まさに、プロレタリア・ソヴィエト運動の発展のための、プロレタリアの階級的独立のための「党派闘争」でなくてはならぬ。この闘争は実力による闘争をふくめて、断固として闘い、勝利しなくてはならない。それは「大衆運動の防衛」、および「大衆運動の階級的・革命的発展」のために闘いぬかれねばならないのだ。

 そのためには、まずわれわれは、宗派の本質を正確に分析し、その「宗派的他党派解体闘争」を粉砕しつつ、彼らの基礎をふくめて根本的解体止揚の方針を立てねばならない。そういう作業の一環として革マルの分析を行なう。

 階級闘争の始元、原点を誤ってしまうと、本人は主観的に革命的、マルクス主義的たらんとしても、革命的プロレタリア運動に敵対する構造にはまり込み、あがけはあがくほど階級闘争の中から放逐されていくことになってしまう。その典型が革マル派である。

 小ブルジョアには小ブルジョアの世界があり、問題が出てくるたびにそのプチブル的中味の深化として路線確立が行なわれていく。そして、自己の破産が決定的になるや否や、過去においては「そんなことはしない」と必死で自己弁護していたようなことを、路線として公然と確立することによってしか「生きのびられ」なくなる。そして、いきつくはては、プロレタリア階級闘争と階級的政治組織への破壊攻撃が「革命運動」であるという全く疎外されきった小ブル宗派路線を確立して、そういう行動へ熱中していくことになる。

 革共同革マル派は、遂にそういう段階へ自分を切りつめ、むき出しの宗派活動にはいってきている。彼らは、70年安保決戦、沖縄闘争、教育闘争、反合理化闘争、早大における階級闘争としての破綻の中で、こういうところへおいつめられていったのだ。後でみるように、革マル派の指導部は、下部の同盟員を操作しながら、この点についての矛盾にいつもさいなまれており、だからこそ逆に様々な右翼的延命策と破壊活動に下部同盟員と自分を駆りたてているのだ。

 表面的にみれば、革マル派の組織は、一部において延命している。だが、それも、すでに中味はますます空虚なものとなり、民同的自己保身と大衆操作により―要するに、社共と同次元の方策により―維持されているにすぎない。ブルジョア社会において、ブルジョア的なものに真向から対決せず、むしろそれに乗って生きのびることは極めてたやすい。社会党も、共産党も、そうしてきたのである。後の展開でみるように、革共同革マル派は「実践的な小ブル中間主義路線」、「イデオロギーの自覚運動」、「組織的には他党派解体路線」として、これをもっとも反労働者的な形で行なっているのである。特に注目すべき点は、70年代中期に向けて階級闘争が深化していく中で、革マル派はこの宗派路線を「確立」し、早大生川口君の虐殺を完全に居直り、階級闘争への破壊活動に、しかもそれのみに、さらに熱中しだしたことである。われわれは、プロレタリア革命運動のさらなる推進のために、この宗派革マルの本質と現段階をつかみとり、彼らの敵対を粉砕しつつ、最終的な解体・止揚のために、現在的になすべきことを貫徹していかねばならぬ。

 1 革マル派の「前史」

 革命的共産主義者同盟の潮流は、日本に三つある。いわゆる革マル派、中核派、第四インターナショナル派である。第四インターの系列は「複雑」なので、詳しくみれば組織としてはもう少しふえるとは思われるが、ここでは第四インター派の分析が主目標ではないので、第四インター派としておく。要するに現在、革共同という組織名を使っているかいないかにかかわらず、革マル派、中核派、インターは、出発点を一つにしている。但し中核派の場合はブント(58年結成の共産同)と革共同の「合成」である。

 この革共同の分裂の歴史を簡単にみて、革マル派の結成に到る「前史」を必要な限りで要約しておこう。

●「日本トロツキスト同盟の結成」―1957年1月。
 これは、太田竜、現在の第四インターの流れ、および黒田寛一等が作った日本のトロツキズムの政治組織である。この57年の12月にこれは「日本革命的共産主義者同盟」として名称を変更する。

●革共同「第一次」分裂―1958年7月。
「反帝・労働者国家無条件擁護」派と「反帝・反スタ」的傾向とに分裂。前者は太田竜を軸とする部分であり、後者は、西派(西京司)、黒田派の合成である。
(日共の学生党員を軸に、日共脱党グループによるブント=共産同の結成―1958年12月)

●革共同「第二次」分裂―1959年8月。
 これは、黒田を中心とするグループと関西派との分裂。ここで黒田たちは、革共同全国委を名のる。
 安保闘争の終末でブント解体、分裂。大きくは四つに分裂。「革命の通達派」(東大学生グループ)、「プロレタリア通信派」(全学連書記局グループ、清水、北小路等)、「戦旗派」(ブント中央グループ、労対グループ)、および関西でこの中央段階の論争、分裂にまき込まれなかった「関西ブント」グループ。
 革共同全国委は、このブントの内部抗争に介入し、「プロレタリア通信派」「戦旗派」を解体、吸収。「革命の通達派」「関西ブント」の流れは、それぞれ再建ブント、再建社学同の流れとなる。革共同全国委は、ブントの全学連、労働運動の「実践グループ」を吸収して、一挙に拡大。全学連をのっとる。

●革共同「第三次」分裂―1963年。
 「統一行動論」「大衆運動とケルン作り」「地区と産別」等をめぐって、革共同全国委が中核派と革マル派に分裂。人的には、議長の黒田が革マル派の軸となり、旧革共同メンバーの武井(本多)が中核派の軸となるという形になり、旧革共同と旧ブントの再分裂という形ではないが、内容上および人的にも大多数は旧革共同と旧ブントの再分裂という色彩が強い。分裂の中味は、結局、小ブルイデオロギー派と小ブル大衆運動派の分裂である(但し、「第一次」とか「第二次」とかいうのは、革マル派を軸としてみた場合であり、第四インター系の革共同は、またその中で再三再四、離合集散している)
 革マル派にとっては、全学連が60年安保闘争後混迷し、その中心だった.ブント(共産同)が四分五裂状態になることを利用して介入し、ブントを解体して全学連をのっとったことが忘れられなかった。中核派にとっては、急進的学生運動を指導し、それにのって拡大したことが忘れられなかった。こうして、小ブル派は、イデオロギー主義と大衆運動主義に分裂していく。革マル派という組織は、形式上はこの中核派との分裂によって生まれた訳である。

2 革共同革マル派の
  反プロレタリア的宗派性の<展開>
(1)革共同革マル派の宗派的展開の概要
  ―革マル派自身による「歴史的整理」

 中核派と分裂して以降、革マル派は四苦八苦しながら宗派的組織維持に熱中しはじめる訳であるが、63年以降の革マル派のその歴史を要約してつかんでみよう。その場合、まず革マル派自身による「歴史的整理」を紹介し、その後でその「階級的再整理」を行なうという形にしたい。

 革マル派自身の手による「歴史的整理」「路線的整理」は最近様々な形で行なわれているが、まず彼らの「歴史的発展」の概要を、教祖黒田寛一の手によるそれを通してみてみよう。

『日本の反スターリン主義運動 2』の中の「1 革命的マルクス主義派建設5ケ年の教訓」(80頁)によれば、次のようになっている。

「1、ブクロ官僚派との決別と革マル派結成のための闘い(1962年2月~63年7月)」
 この中で次の点をあげている。

 (1)統一行動とマル学同建設にかんする問題
 (2)キューバ危機をめぐる反戦闘争にかんする問題
 (3)動力車労組の運転保安闘争に対する二段階戦術をめぐる問題
 (4)参議院選挙闘争にかんする問題
 (5)地区の党組織建設と産業別労働者委員会の強化にかんする問題

 そして、この中で「前衛党建設における決定的な対立と分裂」が浮び上がってきたとしている。また、この中核派との分裂の過程で、革マル派自身の中に労働運動をめぐって「運動、組織づくりにおける原則主義」「ケルン主義」があらわれ、また学生運動の中では「立脚点主義」があらわれたとしている。要するに、中核派の政治技術主義、大衆運動主義への革マル派的反発の姿である。

「2、ケルン主義の克服とフラクション創造の闘い(1963年8月~64年3月)」

 この時期においては、ケルン主義、あるいは「学習会を根底にすえた労働運動」という運動=組織路線における一面性を「反省」することを通して、「フラクション創造の理論」を明らかにしたという。それはコミンテルン型の党員だけによって構成されるものではなく、革マル派の組織戦術の大衆運動場面への貫徹において創造される一つの組織形態として、組合員としての革マル派同盟員が展開する組織活動(フラクション活動)を通じてつくり出される半非公然的な二つの組織形態として位置づけられた。これは、労働運動の内部においてそれを「左翼的」に推進するための、あるいは学生運動を「革命的」に展開するための直接的な推進母体として当面の戦術上の一致にもとづいてつくり出されると同時に、他方では、革マル派に結集し、その担い手となるべき「革命的労働者・学生」を自己変革するイデオロギー闘争の場でもあるという。

 しかし、この中で「フラクションを形態主義的にのみとらえる傾向」「理論闘争のやり方や内容にひきよせて理解する傾向」とが出てきたという。このような傾向を克服するために「運動=組織論そのものの理論的深化」「運動=組織づくり(論)にかかわる問題と運動組織方針(論)にかかわる問題との二重うつしからの脱却」「もっぱら『戦略の適用』のベクトルからフラクションをとらえたり、また、フラクション会議における理論闘争の内容を考えたりする傾向」などの内部理論闘争がひきつづきなされたという。

「3、激化した中・ソ対立のもとでの、反代々木左翼の統一行動と党派闘争の推進(1964年4月~65年1月)」

 中ソ論争の激化と国際情勢の激動のもとで、日本スターリニストも「4・8ストやぶり声明」などで大きく動揺していく。このなかで、「反代々木統一行動」が問題となり「8・2集会」、「春闘活動者会議」が実現される。革マル派はこの中で、統一行動をめぐって問題の整理にかかろうとして「全学連の二重性」などの「路線」をうち出す。この時期に革マル派内部としては次のような問題をかかえていた。

「(a)運動=組織づくりの理論的解明と闘争=組織戦術の提起およびその内容にかかわる問題の理論化とを二重写しにする傾向」

「(b)方針提起における理論主義(たとえば、反合理化のための闘争論的解明を『合理化』論に、賃金闘争論的解明を『賃金』論に、それぞれ直接横すべりさせてしまう傾向)、そして組織作りにおける『理論』主義、つまり、主体形成主義ないし学習会主義、さらに、戦術の内容的展開における『理論主義』、つまり、原則主義や『原則』対置主義」

「(c)場所的現在における大衆運動の組織化と前衛党組織づくり(革命的共産主義運動の現実形態としての)との関係を弁証法的にとらえること(つまり、運動=組織論)なく、むしろこの両者を『切断』してとらえ、そして、前者の解明が運動論であり、後者の解明が組織論である、とする誤り。あるいは、この両者(大衆運動づくりと前衛党組織づくり)の場所的現在における交互関係を、直接に時間的・歴史的な関係に横すべりさせ、現在的に展開される個別的な大衆運動から、人間の普遍的解放が実現される将来的な革命闘争への連続的な発展を想定し、しかもプロレタリアートの普遍的階級形成への過渡的段階における特殊的階級形成が前衛党であるとするような考え方」

「(d)もっばら『戦略の適用』というベクトルから、諸組織形態におけるイデオロギー闘争の内容を説明したり、またフラクションにかんする諸問題の理論化を試みようとしたりする傾向」(以上『日本の反スターリン主義運動 2』100~101貢、以下頁数のみ記す)

「4、ベトナム戦争反対闘争の推進と内部理論闘争の発展(1965年2月~8月)」
 この時期に革マル派は、次のような問題をめぐって「理論的深化」をなしとげたという。

「(1)反戦闘争の場所的実現の論理、あるいは『のりこえの立場』にかんする問題」
 これは、他党派の政治的、イデオロギー的対応にもとづいて展開される運動をのりこえていくという形で、つまり「場所的、実践的立場において」革マル派の大衆闘争と方針は提起されねばならないという「実践的立場」が「確立」される。これは「既成の種々の運動を左翼的あるいは革命的にのりこえつつ大衆闘争を展開するという、この具体化された実践的立場」「のりこえの立場」「闘争論的立場」と規定される。

「(2)情勢分析にかかわる問題」
 これをめぐっては、次のようなものが「核心的に」獲得されたという。
 政治経済構造の経済学的分析と相対的に区別されるべき情勢分析とは、階級的実体関係そのものを、それを規定しているイデオロギーや方針を媒介として分析すること(革命論の適用)。情勢分析は階級実体としてその動向にかかわるものだから、階級実体とその動向を規定しているイデオロギーそのものを分析したり、批判したりするものではないこと。
「革命的な左翼」や「反代々木行動左翼」が構成する「戦線」や大衆闘争そのものの動態的分析は、運動論的情勢分析である。

「(3)戦術提起にかんする問題」
 大衆追随主義的な方針提起主義の批判、克服。

「(4)戦術内容の理論的展開にかんする問題」
 戦術の内容的展開が原則主義や「原則」対置主義になったり、また「存在論主義的」なものになる問題。

「(5)ベトナム革命論にかかわる問題」
 ベトナム戦争反対の闘争論的解明が「革命論」一般に横すべりさせられる傾向。これは、「のりこえの論理」の体得にもとづく大衆闘争論の追求によって克服されねばならないという。

 「C」 労働運動をめぐって
 革マル派の組織戦術の大衆運動の場面への貫徹にかんする主体的構造の運動=組織論的アプロ―チと、既成の労働運動内部においてそれを左翼的に展開し、フラクションや革マルの強化を行なうという闘争論的アプローチが未分化であり、また、「社共両党の歪曲から解放された典型的な労働運動」または「反帝・反スターリニズムの立場における労働運動」なるものをあらかじめ想定し、これを基礎として現存する労働運動を直接的にのりこえる「革命的労働運動の直接的創造から権力打倒の革命的闘争」へを論ずるような「労働運動論」の発生があったという。

「5、日韓闘争の敗北と内部闘争の深化(1965年9月~66年7月)」
 日韓条約をめぐる分析については、次のようなことが問題になったという。

 日共の従属圏規定は、「締結された安保条約を基礎として、アメリカ帝国主義国家権力が日本国家の権力発動やその政治経済的諸政策の実施を規制するという構造を抹殺し、むしろ両権力の間でむすばれた『条約』(国際的な法的とりきめ)そのものを実体化するという誤謬の産物」であるという。

 また、代々木や、社青同や、ブクロ(中核派)の把握は、軍事力学的であるという。

 革マル派のこれらの批判の仕方は、彼らの全く階級性を欠落させた小ブル的分析の本質を暴露している(これは後でくわしくみる)

 また、66年春闘および学生運動の中で、「のりこえの立場の空語化」「フラクションとしての労働運動という左翼的偏向」を克服するために、「のりこえの論理そのものの追求」がなされたという。「基本的には、社共両党によって指導されている今日の種々の大衆運動をのりこえる(ただし、現在の労働戦線においては、その内部におけるわれわれの力量からいって、既成の労働運動の左翼的のりこえとなる)という実践的立場(=「のりこえの立場」において、この運動をささえ規定している戦術やイデオロギーを批判しつつわれわれの闘争=組織戦術を提起し(=<理論上ののりこえ>)かつこれを物質化すること、またこの闘いは大衆運動・労働運動の場面への、そして既成の諸党派にたいする、われわれの組織戦術の直接的および媒介的なたえざる貫徹によって裏からささえられている(=<組織上ののりこえ>)場合にのみ実現される(=<運動上ののりこえ>)のだ、という大衆闘争のわれわれによる主体的組織化の論理が、すでに追求されてきた運動=組織論的解明との統一において明らかにされた」「三つののりこえ」(26頁)

「6、中国『文化革命』と代々木共産党の路線転換のもとでの反スターリニズムのための闘い(1966年8月~67年3月)」
 中国の文化革命をめぐっておきた日本左翼運動における混乱において、「唯一(→)これに対処しえた」と、例によって無内容な自己満足的な総括にひたりながら、革マル派は「ハンガリア革命を契機として創造された」日本における反スタ二ーリニズム運動の独自性の「主体的反省」、またハンガリア革命がソヴィエトを結成して闘いつつもなぜ再びスターリニスト官僚体制の中に没しさったかの根拠の解明をめぐって「内部理論闘争」が組織されたという。また、マル学同第8回大会(1967年春)において、同盟建設をめぐって「討論が深められた」という。

「7、高揚した沖縄・反戦闘争と党派闘争の新たな段階(1967年~68年5月)」
 70年安保決戦にむかっていく闘いの高揚の中で、革マル派は、またしても闘争の「ケチつけ」と、自分でナチつけをやっておいたことを後でおずおずと真似するということしかできなかった。この間、王子闘争、沖縄闘争、羽田闘争が闘われ、反戦青年委運動が高揚していく。反戦青年委については、彼らは結局、組織的位置を与えることができず―地区の位置が不明確であるため―この面で立ちおくれていく。その中で、何が彼らにとって問題となり、また彼らの内部で「発展」として確認されていったのか。それは次のようになっている。

「(1)当面の具体的な大衆闘争についての戦術スローガンと、実現されるべき革命にかんする戦略スローガンあるいは戦略的課嶺を実現するための過渡的(要求)綱領との関係にかんする問題」
 この中では、次のようなことがいわれている。大衆闘争の中には、当面の大衆闘争の特殊性にもとづいて、当面の具体的な戦術スローガンはかりではなく、また前衛党がかかげる過渡的な要求の一部(たとえば、安保条約破棄、サンフランシスコ条約第3条破棄というような)が同時にかかげられねばならないという。後でもう一度くわしくふれるが、この問題は、革マル派の「大衆性と革命性の区別」にかかわるものである。つまり、大衆運動はその中に革命性をいかにはらむのか、またはらまないのかということであるが、ここでは「大衆闘争の特殊性」ということでごまかされている。

「(2)沖縄における『祖国復帰』運動ののりこえと、本土における社共の『沖縄返還要求』運動ののりこえとの関係にかんする問題」

「(3)沖縄や本土の軍事基地をめぐる内外情勢の分析にかんする問題」
 ここでは、沖縄闘争における「民族主義的偏向」と、その裏がえしの「反日帝闘争」への批判が行なわれたという。また、これと関連して「施政権のプロレタリア的実現」とか「本土復帰のプロレタリア的実現」とかいう「方針上の誤り」も「克服された」という。革マル派は、この中で「剥奪されている権利をうばいかえす闘いを、また自治権を拡大し強化するための諸闘争を、反戦・軍事基地拡張反対=撤去のための闘いと結合させつつ『民政府制度廃止、琉球政府打倒』の闘いに集約するだけでなく、さらにすすんでこの闘いを世界革命の一環としての日本プロレタリア革命を実現するための闘いにまで連続的に高め、プロレタリア的自治=ソビエト権力をうち立てる、という戦略的展望のもとに、沖縄闘争を革命的に推進すべきことを明らかにした」(138貢)という。もちろんここでも、「ソビエト権力」樹立への闘いが、現在的に何であるかが全く明らかになっていないのが革マル派の特色であるが、この点については後で全面的に批判する。

「(4)運動=組織づくりにかんする間題」
 67年ごろから「全学連フラクションとしての学生運動」とでもいうべき傾向を、運動=組織論的に「反省」しつつ「克服」する内部理論闘争がおし進められたという。また、(イ)革マル派の革命論(戦略および組織論)の現実的適用にもとづく具体的な闘争=組織戦術の提起 (ロ)この闘争=組織戦術を物質化するための闘い (ハ)革マル派の組織戦術(一般)の大衆運動の場面への貫徹の問題等が問題になったという。

「(5)地区の反戦青年委員会―その運営委員会―地区の労働者・学生細胞代表者会議…地区委員会…同盟細胞―地区反戦にかんする同盟指導部。これらにかんする組織論上の諸問題」


(2) 革マル派の反プロレタリア的宗派<展開>

 われわれは、今まで、革マル派自身が語る「革マル派の発展」の歴史を、『日本の反スターリン主義運動2』をとおして概略的にみてきた。今、われわれがみてきたことは、より具体的にはどういう形であったのか、また、より本質的には何であったのかを整理していく必要があるだろう。それを、「のりこえの立場」が確立されていく日韓闘争の前後と、「のりこえ―高め―めざす」という「立場」が確立されていく安保決戦前後を軸としてみていくことにする。但し革マル派は、本質的には反戦青年委員会運動をくぐっていないので、労働者の政治闘争は民同の尻にくっついた形のものでしかなかった。したがって、革マル派の政治闘争をめぐる諸論争は、主に学生運動のそれを軸としている。したがって、労働運動については、独自にそれとして批判することにしょう。

(ⅰ)革共同全国委の分裂から日韓・早大闘争まで

 革マル派と中核派の分裂以降の革マル派は、七転八倒しながら路線形成を行なう。ブントからはいった「大衆運動主義者」が大部分中核派に流れてしまったので、運動上は全く孤立していく。「運動作りと組織作りのラセン的円環構造を明らかにし、その実体論的解明(運動=組織論)をめざしていた分派闘争の段階(62~63年)、 …ベトナム反戦闘争をくぐりぬけることによって大衆運動の主体的組織化の論理=<のりこえの論理>(大衆闘争論)を明らかにしてきた段階(64~65年)(『共産主義者』No28、141頁)と整理している。要するに、中核派と分裂してからの革マル派は、再びもとの「イデオロギー集団」化していく危機に立ってしまう。この時期の革マル派は、再建されていく都学連の闘争に「おしかけ」ては「統一行動」を哀願するが、大衆や全党派からいやがられては「怒って」暴力的敵対をくりかえすというパターンをくりかえしていく。この時期に、革マル派は極めて重大な危機に立っていく。そして、そのまま日韓・早大闘争へ向っていく。彼らが、後に整理する「のりこえの論理」は、この時期から、日韓・早大闘争における完全な破産の中で「確立」されていく。要するに、この時期に、彼らは「のっかり」「のっとる」対象としての大衆運動から切断されてしまい、かといって自分で大衆運動を形成していく力ももてず、現実と無縁な「イデオロギー集団」として純化してしまい、「おしかけ的統一行動」を強行しては、批判をうけて消耗するという構造をくりかえしていく。

(ⅱ) 日韓・早大闘争における破産
 (a) 日韓・早大闘争における破産と内部抗争

 こういう形で、極めて危機的状況のまま、彼らは日韓・早大闘争を迎えていく。

 60年安保闘争の後、沈滞していた大衆運動は、大管法闘争、原潜闘争から高揚をはじめ、日韓闘争の中で再び大きたうねりをはじめる。日本資本主義は、合理化を強行しつつ、帝国主義的海外進出の突放口を日韓会談によって切りひらかんとする。さらには、帝国主義的自立復活と共に、アジア反革命階級同盟の盟主への道を驀進しはじめる。労働運動も、工場における大合理化に抵抗する青年労働者が、政治的にも左翼化し、総評が物理力として作った反戦青年委は、青年労働者の突出の場となっていく。こうして日韓闘争は、戦闘的学生運動と青年労働者の力により大きく盛り上がっていく。

 革マル派はこの時期に、以前と全く同じスタイルで「消耗な闘争」をくりかえす。彼ら自身がこの時期の総括でのべているように、日韓会談の分析に失敗し、「のりこえの立場」の空語化の中で組織が大混乱におち込んでいく。これに決定打を与えたのが早大闘争であった。合理化に対応して進められた教育の帝国主義的再編に対する闘争が、早大闘争として爆発する。これは、日本学生運動が、教育をめぐる学生の社会的隷属に対して、はじめて闘った画期的な闘争であった。革マル派は、この闘争においても教育の帝国主義的再編の中味が全くつかめず、早大における当局との攻防戦においても、われわれに完全にヘゲモニーを奪われ、闘争のケチつけ以外一切何もできず、消耗しきっていく。合理化についても同様であるが、教育については全く社会科学的、マルクス主義的把握ができず、そもそも何に対決しているのかさっばりわからないということになる。あらゆる闘争についていえるが、革マル派は現実の大衆が決起して階級化、革命化した時には、茫然としてしまう。それは、彼らの理論が現実の解明になっていず、小ブル的な「自我」の世界のものでしかないからである。これは後に全面的に明らかになっていく。日韓・早大闘争をめぐって、革マル派は、中核派との分裂によってもった問題点が全面的に暴露されてしまい、深刻な内部抗争にはいっていく。この中で革マル派の全学連を支えていた早大の指導部(山元、蓮見等)が、責任をとらされてパージされていく。革マル派にとってはこの内部抗争とその結果定着させられていく路線が、その後を大きく規定していくことになる。この内部抗争は組織分裂という形をとらなかったが、内容的には中核派との分裂以降はらんでいた問題の一挙の顕在化と、その革マル的のりきりとして、大きな位置をもっていた。この時の論争の中味は、その後の革マル派の論争、ジグザグの骨格をなしているので、少しくわしくみてみよう。

(b) 革マル派の日韓闘争破産の総括

 革マル派全学連の機関誌『学生戦線』No3にのせられた「日韓闘争の総括を深めるために」がその時の革マル派の混乱と論争をもっともよく示している。彼らは自分たちの闘争の限界を次の三点にまとめている。

 第一は、情勢分析において、日韓条約について「資本輸出」ということに一面化し、さらにこれを克服する過程で「軍事同盟」を接木するという一面化。および反対運動の現状について他党派の戦術批判をなすことだと思い込んだ問題点。

 第二に、①日韓条約の暴露についての「本質暴露主義」②社共への戦術批判におけるレッテルはり的批判―「反米民族主義」「議会主義し等々。また「三派」に対しては、礼共批判がないという断罪に終り、「社共、三派をのりこえる」ことの空語化、および「社共批判の自立化」③これらのことから闘争の高揚段階で「闘争方針がなく批判ばかりする」という反発を大衆からうけ、これに対して単純に実力闘争を対置した。

 第三に、①反戦青年委や社共共闘への介入において「社共を批判するか否か」と単純化し、また「三派」へのかかわりを「投入か、革命的介入か」と二者択一的ふりわけを行なった。②全学連統一行動において、「闘争目標の一致による統一行動」という原則を対置するにとどまり、全学連の組織強化になりえなかった③全学連フラクの強化の闘いが、戦術対策組織に化したり、その裏がえしの学習会主義におち込んだりした。(以上『学生戦線』No3、97頁)

 <情勢をめぐる問題>

 このように問題をあげた上で、さらに彼らは問題を次のように展開する。

 日韓条約を日帝の資本進出としてのみつかんでしまったことは誤りであり、その誤りを『克服』する方法」もまた誤っていた。誤りの「克服」の方法は「日帝の韓国への政治的進出」という形でなされたが、帝国主義の政治的進出とは、進出をうける国の独立した国家権力の破壊を通して、政治的従属化を産み出すことである。つまり、植民地国家としての包摂である。ところが日韓条約はそうではない。むしろ、韓国ボナパルティズム政権は、国内の支配体制の経済的基礎を作るために、日帝の国家権力と相互協力関係をうち立てんとしたのだ。また、軍事的進出ということも同様につかみとらねばならない(軍事的支配として)。しかし、日韓条約は共同防衛体制である。こうして、「資本進出」からのみみる「基底体制還元主義」への対決が、ただ、「政治、軍事面」をブラス・アルファーするということにおちいっている。

 これは、いかにして克服されるべきかというと、次のようにいわれる。「政治的側面、軍事的側面への分析は…物質的生産関係に根底から規定されながらも、これから相対的に自立して形成されるイデオロギーとその物質化としての政治制度、すなわち上部構造の分析なのである。…したがって、政治経済構造の分析において適用されるべき理論が経済学であるのと区別されて、われわれの革命論がそこに適用されるのでなければならない。」

 これは「革マル主義」が、マルクス主義とは全く無縁であることをある面でもっともよく示している。革マル派は、下部構造の分析(マルクス経済学的な分析)を情勢分析の原点とすることに対して「基底体制還元主義」というレッテルはりを行なって批判するが、実は、彼らはマルクスのいう「存在が意識を規定する」という意味がわからないのである。彼らにとって「物質的生産関係」と政治制度、上部構造を結ぶ方法が存在しない。こうして、「上部構造は、下部構造から相対的に独立している」だの「一対一的対応はない」だのといいわけをするが、それではどういう関係があるのかという点については全く語れない。そして、下部構造の上にどこからやってくるかわからないイデオロギーがベタンとくっつく。しかも、中味は社共と少しもかわらないのである。

それが今みた日韓条約の分析に示されている。日・韓両国の関係が植民地支配か否かという点からしかみえないので、「相互的な条約」がなぜ結ばれるのかが全くわからない。プロレタリア革命に対抗する「反革命階級同盟」という「政治」が全くわからない。その意味では、社共と全く同じなのである。それでは、革マル派はこの上部構造と下部構造の関係をいかにうち立てるのかというと、「革命論」が適用されるのだという。それでは一体、その「革命論」はどこからきたのか→ そこにおける下部構造と上部構造の関係は→ 彼らは答えられない。なぜならば、彼らには「物質」と「イデオロギー」しかないのである。物質とは単なる「物」であり、イデオロギーとはまさに「観念」なのだ。要するに、「活動する人間」がいないのである。「存在が意識を規定する」というのは、<いかなる生産関係の中でいかなる階級に属するのかということが―いかなる生活様式、行動様式の下に生きているのか―その人間の意識を決める>ということなのだ。革マル派には現実の生きて活動する階級がみえないので―あるのは単なる「物質」と「イデオロギー」―今みたような矛盾におち込む(これは後に詳述)

 情勢分析をめぐる第二の問題は「他党派の戦術批判をもって情勢分析にかえる誤りの克服をめぐって」として展開される。このことをめぐる中心的問題は「情勢分析の方針化」であるという。これは、ベトナム反戦闘争を進めている諸潮流の戦術の批判をもって反対運動の情勢分析だと考え、この「情勢分析」を方針として打ち出すという考えとなっている点についての誤り。

この「情勢分析内容の方針化」が、なぜ誤りであるかといえば、「情勢分析とは、われわれの変革的実践が展開される場の対象的分析であり、その限りでは変革実践を行なうべきわれわれをもふくめた客観的現実の必然性への認識にすぎないものであり、われわれがこの現実を変革する実践の指針であるところの戦術とは明確に区別されねばならないのである」。 また「他党派の戦術批判とはイデオロギー批判のことであり、それは他党派の運動をのりこえたわれわれの運動の創造をなすために不可分の媒介として、戦術上、イデオロギー上でのりこえを実現するもの(主体の変革的実践の指標を表現するもの)すなわち、われわれの戦術内容にふくまれているのである」

 こうなってしまう理由は、「運動の現状」「運動を支えている戦術」の混同を行なっているからにほかならないという。この背後には、「戦術課題における戦略戦術論的分析」という考え方があり、それが誤りの原因であるという。この考え方の発生は「そもそも分析対象である既成反対運動をいかにのりこえて闘うかというのりこえの立場=闘争論的立場が喪失させられてしまっていることと関連している。いいかえれば、そこでは既成反対闘争をわれわれの変革対象としてとらえかえすのではなく、それとくつわをならべて戦術的有効性を競い合っていこうとする立場、いわゆる『有効性論議』の立場へおちいることと関連して生み出されてきたのが、この考えであった」(103頁)

 その後41中央委議案書で、「一応情勢分析と方針との区別を考えていながら、それは、前者は認識にかかわる問題、後者は実践にかかわる問題というようにとらえられ、かつ前者の展開に変革的立場をつっこみ前面化するならば後者に転化する」と考える「情勢分析に変革のモメントをいれて方針としてうち出す」考え方が生まれた。しかし、この考え方は、情勢分析も方針も認識活動としては何を分析したものなのか(階級関係と階級闘争の現実か、階級闘争の主体的推進のためのイデオロギーなのか)という点で区別できていない点で誤りとされる。

それでは、どういう方針が正しいのかというと次のように説明される。「情勢分析は、(α)ソコ存在する階級関係の革命論的分析と、(β)かかる階級関係を担う実体が展開する階級闘争の運動論約分析、この二つから構成される。われわれが、国際的、国内的階級関係の分析に革命論を適用してその客観的法則を解明するにとどまらず、このようにつくりだされている階級関係に対する支配階級、被支配階級の動き=運動の構造を、その運動を組織している諸潮流の戦術を媒介して解明し、そうすることによって既成の反対運動をのりこえていくというわれわれの闘争戦術を打ちだしていくのである」。

「われわれの変革的実践、のりこえの主体的構造は、単なる『変革的構え』として単純化されるべきではなく、(a)われわれの運動の展開において既成諸党派の運動をのりこえた運動を行なうこと (b)そのためには方針上で既成諸党派の方針をのりこえた方針、イデオロギーを提起しなければならない(c)これらをなしとげることを実体論的にいうならば(b)の方針のもとに(a)を行なう担い手を組織的に形成すること、つまり全学連フラクションの組織強化がなされなければならないのである」(104頁)

 革マルという宗派は、マルクス主義的にはもっとも没理論的な宗派なのであるが、自分では極めて「理論的」だと思っている。実は、理論的というよりも、革マル宗派思想(イデオロギー)の枠内に現実をとじこめると「安心」できるので必死で出てきた様々な問題を革マルイデオロギーの中にとじ込めようとする。こうして、観念を操作して自分を納得させようとする。したがって、彼らが何者かということを理解するには、革マルイデオロギ一によっていろいろいわれていることが、プロレタリア運動の現実にとらえかえせば一体どういうことなのか、という一種の翻訳が必要である。

 

 

 

 

 

 

 ここで彼らが四苦八苦しているのは、次のことである。つまり、前にみた情勢分析と方針の関係をより方針の問題にひきよせているのだ。革マルというセクトは、情勢分析と方針と他党派批判がゴチャゴチャになっている。これは次のような表現にもっともよくあらわれている。「『情勢分析内容の方針化』といわれる闘争論に関する誤った考えが、いまだ克服されていないことにある。すなわちそれは、ベトナム戦争反対闘争の推進上において、ベトナム反戦闘争を進めている諸潮流の戦術を批判するということをもって反対運動の情勢の分析であると考え、かつこの『情勢分析内容』なるものを方針としてうち出すという考えが生み出されたことが、この日韓闘争の中にもち込まれているのである」(102頁)。日韓会談反対闘争の中で、革マル派がおち込んだのは―実は、それは、後でみるように革マル派の本質なのだが―他党派の戦術批判が、情勢分析であり、しかもその情勢分析内容がそのまま方針であるというもっとも革マル的混乱である。

 これに対して、彼らがこの「総括」の中で整理したのは次のようになっている。情勢分析は「階級関係の革命論的分析」「階級関係をになう実体が展開する階級闘争の運動論的分析」からなる。前者の問題については、すでに批判しているが、一応それを前提正して考えれば、国際的、国内的な階級関係の分析およびこれに対する支配階級、被支配階級の動き=運動の構造の解明が情勢分析であり、これを前提にして「戦術上、イデオロギー上ののりこえ」=「方針」が立てられるというのである。

 ここにおいて、革マル派が苦しんでいるものは、この小論でみる現在の革マルの根本矛盾にかかわるものなのである。現在の革マルの主流派は、日韓闘争の主に学生運動(早大)の指導にあたっていた部分の情勢分析と方針の混同を批判して今みたように整理し、「のりこえの立場」を革マル的に深化しようとした。だが、日韓闘争の中で批判された革マル派の指導部が苦しんだのはこんなことではない。<革マルイデオロギーでは、情勢分析も方針も出てきはしない。出てくるのは他党派の批判ばかりだ>ということをめぐっている。

 これに対して、今みたようなことは、外見上は整理にみえても、本質的には矛盾の拡大なのである。なぜならば、今みたような整理にしたがってみた時に、それでは「情勢分析」と「方針」をつなぐものは何なのかという疑問が当然出てくる。一体、この二つは関係があるのか、ないのか→ これは別の面からいうならば、「のりこえる」というが、一体その中味は何なのか、その中味は情勢といかなる関係にあるのかがわからなくなるということなのだ。実は、先程みてきたように、「革命論」を適用した情勢分析なるものが、すでに「物」と「イデオロギー」の二元論的分析をふくんでいる。この問題は、情勢分析と方針の関係をめぐって拡大再生産される。

 革マルの方針の軸になっている「のりこえの立場」なるものは、中味は空虚なものであり、後に定式化されるように、要するに革マル派以外の運動・組織の破壊攻撃のことである。この「のりこえ」なるものが階級社会の矛盾と本質的に無縁なところで立てられている、いや、より正確にいえばプロレタリア階級の矛盾と闘争と無線な小ブルイデオロギーの世界で立てられているために、階級社会の現実(ブロレタリアの)分析とは完全に切断された形で―この面は、単なる物質的条件としてのみある―「のりこえ」が主張される。

 マルクス主義的に考えれば、この「のりこえ」の主体が階級矛盾の中に位置づけられ、したがって当然その主体がかかえている矛盾への闘争として「のりこえ」が立てられるとすれば、「いかなる中味をもって、何がのりこえられるのか」が問題になる。つまり、中味と無関係に「のりこえしだけが空虚に自立することなどありえない。

 ところが革マル的主体(革マル派の一人一人)は、自分のエネルギーそれ自体がいかなる階級矛盾の中で、いかなる階級、階層のものとして生まれるのかというマルクス主義の出発点的な問題から目をそらす。こうすることによって、小市民インテリの「出世主義」「小ブル的自我による他人への征服欲」が、隠蔽され、それが「のりこえの立場」として理論化される。こうして「のりこえの立場」の本質は、小市民の社会的不安を背景にした「精神労働者の自覚運動」=「プロレタリア運動への破壊、征服運動」なのである(もちろん、このことは彼らの内部からも歪曲された形で問題になってくる。つまり、中味の形骸化への批判である。これは、後でみるように二つの流れとして出てくる。一つは「小ブル的自我―小ブル的主体性」へ回帰することによって中味を得ようとするもの―これは「主体形成主義」として批判される。もう一つは、「沖縄のプロレタリア的解放」「ベトナム戦争のプロレタリア的解決」というような形で階級性を問題にしようとする傾向である。これについては後述)

 こうして、日韓闘争の総括の中で革マル派が行なったこの面での整理はまさに技術的なものであり、日韓闘争での革マル派の本質的破産は隠蔽され、むしろ再生産されていく。

 <闘争戦術上の諸問題>

 これは、(イ)、(ロ)、(ハ)の三つに分けられている。(イ)「『日韓の本質暴露』主義的闘争戦術の発生をめぐって」は、問題が六つに分けられている。

 第一は、闘争戦術をうち出す前提となっている情勢分析が、基底体制還元主義となっていること。また、日帝の単純自立論的傾向をもっていたこと。

 第二は、「他党派批判をもって情勢分析である」とする偏向、および「情勢分析の方針化」および「戦術的課題の戦略戦術的分析」という考えの問題。

 第三は、革マル全学連の立場の革命論的日韓条約批准阻止の戦術的課題をいかに実現するかにかかわる内容に適用することに失敗している。つまり、「のりこえの立場」を戦術内容に表現することがなされていず、「階級性」を基準として他党派を断罪するという「原則対置主義的なイデオロギー闘争」に陥っていること。これは、「闘争論的立場=のりこえの立場」が確立されておらず、「有効性論議」の立場ないしは「のりこえの空語化」された立場であること。

 第四は、方針提起において内容を捨てさって、提起の仕方、形式のみを論ずる「いわゆる提起主義」におちいっている。

 第五に、運動、組織論において、既成党派のイデオロギーののりこえをなしとげた革マル全学連フラクの形成を実体的基礎に運動上ののりこえを実現していく問題が、その前提をなす「人間変革」や「プロレタリア的人間の形成」の次元に解消され、一種の「主体形成主義」「人間変革主義」になっている。

 第六に、方針提起において「自治会主義」(大衆運動主義)におち込んでいる。

 (ロ)の「『社共批判の自立化』的闘争戦術の発生をめぐって」では、次の四つに問題を分ける。

 第一は、社共の闘争戦術批判に、革マル派の戦略戦術が適用されずに、政治力学的な結果批判や「階級性」「実力闘争」などを基準とした原則対置主義的批判になっていること。

 第二は、「のりこえの主体的構造」が戦術上貫かれていないで、「グリコのおまけ」のように「のりこえよ」という主張がくっついている。つまり、「のりこえの空語化」の問題。

 第三は、原則対置主義におち込むのは「大衆にふまえる」ことを忘れてしまい「方針提起における理論主義」となっていること。

 第四は、他党派をスローガン的にぶったたくという形式で出てくる「方針提起における政治力学主義」の問題。

 (ハ)の「『実力闘争の単純対置』の偏向の発生をめぐって」については、次の三つに分けられている。

 第一は、社共の議会主義、反米民族主義的戦術に対して、実力闘争を単純に対置するもの。

 第二は、「中間三派連合」の「単純行動主義」に対して、「思想性をもった実力闘争」を対置するもの。

 第三は、革マル派の「実力闘争戦術」をデモやストなどの闘争形態として語り、社共、「三派」とその実現を競うこと。

 これらを整理し、要約すれば次のようになる((イ)、(ロ)、(ハ)を通じて)

 ①革マル全学連の立場の「革命論的日韓条約批准阻止の戦術的課題をいかに実現するか」に失敗し、「のりこえの空語化」がおきている。

 ② ①の問題の一方の側面として「内容をすてさった提起の仕方のみを論ずる提起主義」「主体形成主義」「人間主義」が出てきている(現実のプロレタリア人民の階級闘争と無縁な小ブル主体性論的なブレ)

 ③ ②の問題は、あえて運動上表現されるならば「他党派批判の自立化傾向」となり、「原則対置主義」「大衆運動を忘れた方針提起における理論主義」となってあらわれる。

 ④ ②~③となってあらわれる問題の裏がえしとして、今度はズブズブの自治会主義(大衆運動主義)が出てくる。

 ⑤ ③~④の関連の中で実力闘争を問題にしようとすると、「のりこえの立場」を忘れさった実力闘争の単純対置、他党派の実力闘争と闘争形態を争うという傾向におち込む。

 革マル派が、現実の階級闘争の中に身をおくや否や「現実の階級闘争と無縁な小ブル自我の主体形成主義」「主体形成主義と不可分な、マルクス主義と無縁な小ブル『理論主義』」「その裏がえしの、または、その結果必然的に出てくる小ブル的大衆運動主義」「実力闘争をやろうとすれば、小ブル急進派と同質なことをそれ以下にしかやれない」という問題のなかで七転八倒するのである。こういう問題の中で、革マル派は「のりこえの立場」の宗派的確立を行ないつつ、この混乱をのりきっていこうとする。それが66年以降の革マル派の「苦闘」である。

 
 3 70年安保―沖縄闘争をめぐる
   革マル派の混乱と破産

 60代の中期において、大きな混乱と動揺の中に革マル派はたたき込まれていった。それは、中核派と分裂したその分裂の革マル派的本質(中核派には別の形であらわれている)にかかわるものであった。それが、日韓会談粉砕闘争における彼らの破産と総括をめぐる混乱に表現されていった。

 革マル派は、日韓会談粉砕闘争におけるこうした破産と混乱を、63~64年段階における彼らの「のりこえの立場」の整理により、宗派的に確立することによってのりきろうとしていった。この「のりこえの立場」の中味がプロレタリア革命運動の中でより本質的に暴露されていったのが70年安保決戦、沖縄闘争、ベトナム反戦闘争においてであった。

 彼らはこの60年代の後半に開始されていく闘争において、「革命主義批判」 「ソヴィエト運動批判」を自分たちの「党派性」としていくのである。


(1)革マル派の70年闘争の「総括」

 67年からはじまる学生運動、および反戦青年委の反安保闘争の高揚に、革マル派は例によって全くついていけなかった。革マルという党派は、階級闘争の高揚時にはいつも方針を失い、「ブツブツ」いいながら闘争の後からついてきて、闘争の困難局面になると「それみたことか」とケチをつけながら党派闘争をいどむ。闘争が高揚に向っていく時というのは全くなすすべもなく混乱していくのである。これは広い意味での70年安保決戦全体についていいうることであった。70年安保決戦は、60年代後半の反合理化闘争、教育闘争という根深い社会運動の波をくぐりながら、その基礎の上に高揚していった。教育闘争の高揚の最終局面と安保決戦とは重なる形になる。第一次早大闘争においてそうであったように東大闘争においても革マル派はなすすべを失い茫然としてすごし、その闘争の真最中に、早大反帝学評、解放派にテロ、リンチ攻撃を加え、さらには安田講堂攻防戦においては全く参加せず、自らの「拠点」であった文学部の防衛さえ行なわないというありさまであった。こうして革マルは、全日本プロレタリア人民の笑い物になっていくのである。同じことが67年からの反安保闘争の高揚の中でおきていく。

 こういう状況で彼らの内部矛盾も様々な形で噴出するのであるが、結局それは「のりこえの立場」の現実的破産を内部からつき出す形となっていく。そこで彼らは「のりこえ」―「高め」―「めざす」なる「手直し」を図る訳であるが、この「高め」―「めざす」なるものが、結局「宗派づくり(組織づくり)」に収約されるというまことに革マルらしい「語るにおちた話」になるのである。

 この間題を政治闘争における問題を通してみてみよう。先ほどのべたように、革マル派は反戦青年委運動を実質的に放棄しているので、政治闘争をめぐっては、学生運動の総括が彼らの実情をもっともよく示している。今、それを『共産主義者』No23・24―「学生戦線における70年闘争の総括と教訓」―中央学生組織委員会論文によってみてみよう。

「それゆえ、大衆闘争を直接『革命闘争』として闘うというブンブクの革命主義を、60年ブント型の大衆闘争から革命闘争への『連続的発展』観との差異性においてわれわれは十分批判しつくせなかった。このことは他面同時にわれわれの70年闘争の基本構造の解明においては、大衆連動と革命運動との場所的構造の解明にとどまり、場所的な闘いを『安保破棄、自民党政府打倒』をめざして、いかに反政府、反権力闘争に高めてゆくかにかんする主体的構造の解明を十分措定しえないことになった。(この問題は、わが同盟のスローガンである『安保破棄』のスローガンの位置をめぐって発生した)
 しかしながらわれわれは『大衆運動と革命運動の区別と関連』の論理について若干存在していた悟性主義的理解の克服を前提として、大衆闘争に革命闘争を結果解釈主義的に附加する傾向、場所的な構造をおろそかにするトロッキー型の類推から大衆闘争の革命闘争への発展を論ずる傾向等々の過渡的な限界の否定にふまえ<のりこえ、高め、めざす>の基本構造を明らかにしたのだった」(71頁)

「…だが、革命主義との対決の中でわれわれのなかでわれわれの内部にも70年間争論の直接的煩推から〝学園闘争を反権力闘争に直接高める〟というような傾向もエピソード的にみられた。…また、ブンブクの存在論主義的傾向に〝ポジティブ〟に対決するという意図のもとに『ソヴィエト、革命闘争』談議にふける傾向もあらわれた。これは、存在論的イデオロギー闘争主義的傾向である」(同頁)

「…この当初の段階で日米共同声明の発表のもつ結節点的な意義を明確にとらえることができない傾向が若干あったことと結びついて、あるいは72年に漠然と結節点的なものを想定することによって〝サン条約三条のプロレタリア的破棄、沖縄人民解放をめざす″〝安保破棄、自民党政府打倒をめざす″というようなスローガン的戦術が一部で提起された。だが、かかる考え方は、日米共同声明の政治的意義(とりわけ法的=形式的破棄に先だって実質的に破棄を前提として事態は現実的に転回している)、白熱点的闘いに位置した69年10、11月闘争における日本階級闘争の本質的敗北等々について前提的に措定しえていないだけではない。闘争戦術を闘争論的立場ぬきにスローガン主義的に解明する偏りをもち、闘争戦術そのものとしては場所的な闘いの解明ぬきに直接に未来的展望に結びつける、直線的な『高め』主義的傾向をもっている」(同)

「わが同盟の過渡的要求の一つたる『安保条約の破棄』を直接闘争スローガンに掲げて闘う70年闘争においてはただ大衆闘争と革命闘争との『区別』を原則的に確認するだけでは決定的に不十分とな るのである」(78頁)

「…この場合の核心的問題は政府支配階級の『自動延長』という法的手続き、あるいは策動の内容にただ対決すべきことが強調されているだけで、支配階級の新なる政勢に規定されて展開される既成の階級闘争をのりこえるという闘争論的立場があいまいとなっていることである。しかも、そのような傾向は、当面する70年闘争を革命主義的にではなく、大衆闘争としてたたかっていこうとする意図に規定されている。すなわち支配階級の具体的な攻勢とたたかっていくことが当面の任務であり、それにとって高い目標をなす安保破棄は、革命主義者が夢想するように直接実現しうるものではなく、大衆闘争のなかでその課題を大衆に自覚させつつその実現を『めざし』ていく以外にはないというような考え方が背後にはある。『安保自動延長阻止、安保破棄をめざす』というように。しかしながら70年にかけた支配階級の攻撃は、条文をかえることなく安保条約を実質的に改正し、日米軍事同盟を再編強化することにある。それゆえわれわれは『安保破棄』それ自体を、したがって『自民党政府打倒』をめざして70年闘争を推進してゆかねばならないのである。いうまでもなく『安保破棄』『自民党政府打倒』は、わが同盟の過渡的要求にはかならないとはいえ、大衆闘争を直接、革命闘争化していくことが問題なのではない。場所的な大衆闘争の推進の構造を明らかにすることにとどまることなく、その闘いをいかに『安保破棄』『自民党政府打倒』をめざした反政府、反権力の闘いに高めてゆくのかが問われざるをえないのである」(同文)

「しかし、この課題を『主体の創造なしには不可能』であるというように、党組織作りを客体化しそれを大衆闘争を革命闘争に高めてゆく〝媒介契機″のように位置づけるかぎりでは、70年闘争の主体的推進構造の解明とはなりえない。あるいはまた、それまでの70年闘争戦術の追求では『大衆闘争と革命闘争とは悟性主義的に切断されている』というような単純な反省を前提とし、『単なる大衆闘争にとどまらない特殊性を帯びた階級闘争』というような70年闘争の客体的性格規定にもとづき『大衆闘争と革命闘争の区別と関連』の論理には適用限界があることからして、大衆闘争を反政府、反権力の闘いに高める構造をもっばら過渡的に論ずるということでもない。…われわれは、現代革命の構造を客体化し、単に過程的にとらえるのではなく、結節点(戦略が直接に実現される時点)を明確にし、その段階における革命闘争とそれにいたる過程の階級闘争を区別した。このことにふまえ、われわれは、場所的現在における階級闘争の弁証法(『大衆運動と革命運動あるいは党組織作りの区別と関連』)を解明し、それにのっとってプロレタリアの階級的組織化と党組織の不断の強化を実現することを基礎に、一定の主客の諸条件の成熟を前提として階級闘争を反政府、さらには反権力の闘い、革命闘争に連続的に高めていくのである。われわれはこの論理を70年闘争の解明に適用し『安保破棄』したがって『自民党政府打倒』にむけて<のりこえ、高め、めざす>の構造として簡潔に表現してきたのである」(79頁)

 「ところで先にみた70年闘争戦術の解明の過程であらわれたいわゆる『高め』主義的傾向が、沖縄闘争戦術の解明の過程においても部分的に存在した。こうした傾向は日本支配階級が『核基地つき沖縄返還』政策にふみきったことを一つの条件としてあらわれた。すなわち、この『核基地つき沖縄返還』政策を先にのべた『交叉点』的意義をとらえることなくただ単に『沖縄問題のブルジョア的解決』『サン三条のブルジョア的破棄』というように沖縄問題にひきよせてとらえた。このことによって「…『核基地つき沖縄返還』策動を粉砕せよ!」を結び目とした反戦、反安保の闘いと沖縄闘争との結合の構造は無視されることにもなり、…。しかも、これが核心的問題なのだがその場合闘争論的立場を欠落し、したがってスローガン主義的『高め』主義的に70年闘争戦術をとらえかつ沖縄闘争戦術の解明にその把握をもち込む―ブルジョアジ―の攻勢に直対応するかたちで『沖縄問題のプロレタリア的解決』『サン三条のプロレタリア的破棄』というように。
 …だがわが同盟は、沖縄闘争をたしかに日本ブロレタリア革命を実現するための闘いにまで連続的に高め、プロレタリア自治=ソヴィエト権力をうちたてる、という戦略的展望〔メインⅡ=「サン三条破棄!行政命令、一切の布令、布告の撤廃!」等々…〕のもとにたたかっているが、革命主義的妄想とは無線である。われわれはメインⅡのスローガン(低いものから高いものへと掲げている)をメインⅠのスローガン(「社共の『返還要求』運動をのりこえサン三条の破棄を通じて沖縄人民の解放をめざしてたたかおう」)の中に過程的に(のりこえ、通じて、めざす)かつ媒介的に(個別的諸闘争をたたかいぬくなかでめざすものとして)掲げているのである。いいかえるならば、沖縄闘争の推進構造は、直接的には沖縄問題にかんする個別的諸課題を闘争論的立場にたって―すなわち社共の『返還要求』運動をのりこえ、沖縄の地で、『祖国復帰』運動に抗してたたかっている労働者、学生、人民と連帯し―たたかいぬき、この闘いを(主客の客観情勢の成熟を前提とするが)プロレタリアの階級的組織化と党組織の強化にふまえ日本革命の一環としての『沖縄人民解放』をめざして連続的に高めていくのである。またかかる戦略的展望を個別的大衆闘争のなかでも明らかにし、われわれは大衆の自覚を促していくのである」(82頁)


(2)革マル派の総括の小ブル宗派的構造

 少しながくなったが、革マル派の70年闘争の総括を引用してみた。これは一体何をめぐって動揺し、その動揺をどのような形で収約しのりきらんとしているのかといえば、次のようになるだろう。

 彼ら自身がみとめているように、70年安保闘争については全くたちおくれてしまった。その中で出てきたのは、彼らの「大衆運動」が一体「安保破棄」という目標に対して何がなしえているのかという板本的疑問であり、しかも、その疑問が彼ら自身の路線そのものに迫る形で出されてきたのである。それは、二つの形で「ブレ」として出てきた。

 第一のものは、当面は人を集めて「大衆運動」をやっていればいいのであり、「安保破棄」などというのは「めざす」ものではあっても、それを本気で闘う必要はない、それを闘うためにはまず当面「主体の創造」が必要であるというまさに革マル的中味である(78頁からの引用をみよ)

 第二のものは、その逆に、大衆運動の区別と連関という革マルの規定はあやまりであって「特殊性を帯びた階級闘争」、「反政府、反権力の闘い」を強調する傾向である(79頁からの引用)。あるいは「高め主義」(→)的に「沖縄問題のプロレタリア的解決」「サン条約のプロレタリア的破棄」というような傾向である(82頁からの引用)

 このようにまさに革マルであるがゆえに当然でてくる「ブレ」に対して、一体どのように「解決」したのであろうか→ この解決の仕方がまさに「革マル的」なのである。それは日韓闘争の総括をめぐっておきた混乱とその総括の問題を、一周してもとの位置にもどったような形になっている。もちろん、そこには革マル的な「整理」があるわけであるが、それはますます革マル派がプロレタリア革命運動とは無線な宗派運動へと転落していく形でなされている。今まで引用してきたものを要約すれば、次のような「解決」になっている。

 ≪大衆闘争から革命闘争へ連続的に発展するということは、60年安保ブント型のあやまりである。これは「闘争論」をぬきにして闘争戦術をスローガン主義的に考えるものとつながるものであり、また、場所的な闘いの解明ぬきに直接未来的展望に結びつけるあやまりであり、現代革命の構造を客体化し、過程的にとらえる傾向としてもあらわれる。これは、スローガン主義、「高め」主義である。逆に、安保破棄等を単なる「めざす」ものとしておき、単なる大衆闘争を展開するのもあやまりである。それは、党組織作りを客体化し、党組織を大衆闘争を革命闘争に高めていく媒介契機のように位置づける傾向ともなる。双方をこえていく方針は、大衆闘争と革命闘争を明確に区別した上で、ブロレタリアの階級組織と党組織の不断の強化を実現することを基礎に、一定の主客の条件成熟の下で、階級闘争を反政府、反権力闘争に高めなくてはならない。それは、諸闘争を既成の階級闘争をのりこえるという「のりこえの立場」「闘争諭的立場」にたって闘いぬくことによって可能なのだ。それは「より高い」中味のスローガンを「より低い」スローガンの中に過程的・媒介的にかかげていく形としても進められる≫

 ここで彼らが言おうとしているのは、単なる大衆闘争をスローガンによってつって連続的に革命闘争へと発展させようとするのはあやまりである、大衆闘争が革命闘争へ転化するのには闘いの中味が既成の連動をのりこえたものとして形成されていなければならず、しかも一定の条件のもとでのみそれは可能なのだ、ということである。だが、この中味が極めて革マル的に疎外されたものなのだ。

 彼らが解明せんとしていることは、大衆運動はそれ自体としては革命闘争になりえないのであり、そこには「転化」「飛躍」が必要なのだということである。これを彼らはどのように「解決」しているかというと、今みたように「既成の運動をのりこえる」=「のりこえの立場」=「闘争論的立場」という形で行なおうとしている。これは後でそれとして独自にとりだして批判するが、要するに、既成の運動にかかわって「運動上ののりこえ」―「イデオロギー上ののりこえ」―「組織上ののりこえ」を行なうということである。これは、その既成の運動を支えている「イデオロギー」「組織」の解体ということである。それによってその運動を支えている集団、組織を解体し、それにいれかわって革マルがその運動の上にのる「のっとり運動」である。これを彼らは「闘争論的立場」といい、それが現在的な革命運動だというのである。 > しかし、彼ら自身の中から出てくる批判にもみられるように、ここには決定的なあやまりがある。それは、「大衆闘争と革命闘争の区別と連関」という時、「連関」という面はどうなっているのかということである。弁証法的にいう「区別と連関」は決して二つのものが別々に、つまり区別があってそれとは別に連関があるのではない。「区別」そのものの中に「連関」があり、また「連関」それ自体が「区別」を生み出すのだ。そういう意味でいえば、現存する大衆運動の限界と共にその中に存在する階級性、革命性を全く否定しざるならば、そもそも区別自体もたたない。

 小ブルによるプロレタリア運動の支配、または物理力化は、自然発生的に存在するプロレタリア運動をその一定の段階におしとどめるところにある。したがって、プロレタリア大衆運動それ自体の階級的革命的発展が定立されてはじめてそのブロレタリア運動を支配している既成の党派の解体の条件が生まれるのだ。したがって限界をもって存在する大衆運動をいかにして階級的革命的に発展させることができるのかという方針をもたずに「のりこえる」といってみたところで、結局その「のりこえ」は、本質的にはそれ以前と変らぬ市民的な、民同的な運動の若干の戦闘化以外には成立しようがない。ただ社民、スターリニストにかわって、反スタ・スターリニスト「革マル」派が、ブロレタリア運動への小ブル的支配をつづけるだけになる。

 これは彼ら内部の論争からいえば、「プロレタリア性」が全くでてこないことへの批判としてでてくる(「沖縄問題のブロレタリア的解決」等)。さらに学生運動では「主体形成主義」―「小ブル主体性諭」の強調となる。これは日韓闘争における大きな動揺のくり返しとその革マル的な、宗派的な「解決」の方法なのだ。この問題は、「のりこえの立場」の革マル的深化をめぐってさらに反プロレタリア的に展開されていく。

 
 4 ベトナム反戦闘争における
   革マル派の小市民的本質

 日韓闘争において「生まれたばかりの」革マル派は根底からの動揺と混乱に直面し、その「のりきり」の中で、宗派的本質をさらに深めていった。日韓闘争において生み出された革マル派の本質にふれる構造は、不断に彼らを動揺と混乱におい込みながら、70年安保―沖縄闘争にいたる。そして、今みてきたように、70年安保―沖縄闘争の中で同じ混乱と動揺をうけながら、「のりこえ」―「高め」―「めざす」なる「路線」の中で反プロレタリア性を強める。この過程における組織方針上の問題を別にたてて解明することにより、問題はいっそう明確になるが、これは後に行なうこととして、ほぼ同じ問題がつき出され、その「解決」をめぐってある面で革マル派の本質が極めて明確にうきばりにされている「ベトナム反戦闘争論」を「検討」しておこう。革マル派『共産主義者』No29―「ベトナム反戦闘争の教訓と党派闘争の飛躍的強化のために」―中央学生組織委負会論文を対象として行なう。このうち「党派闘争」についての問題は「組織方針」のところで改めて解明するので、ここではこの論文のうち「ベトナム反戦闘争」の部分のみを批判する。まずはじめに彼らの引用を行なってみよう。

「ベトナム反戦・反基地闘争の主体的推進構造…

 昨年4月6日、米帝は北爆を再開し、5月8日には、北ベトナム全港湾を機雷封鎖するにいたり、それ以来アメリカ帝国主義のベトナム侵略はこれまでになく激烈な形態をとりはじめた。…

1 こうした事態が否応なくわれわれに否定的に迫ってくる客体的現実である。 ―このことは、現実からわれわれに否定的にせまってくる客体的限定(S←O)ということができる。…このことは、否定的にせまる客体に対してそれに自己否定的に即し(主体は客体と自己矛盾的に同一化する)その変革を自らの課題にするという、客体に対するわれわれの主体的限定(S→O)ということが出来る。こうしてわれわれは主客の現実的矛盾(S→←O)を克服するという実践的立場(S→O)にたつのである。われわれは、実践的立場に立ち、自己に矛盾した客体に自己否定的に即することによってわれわれの意識の主観的恣意的な諸規定を止揚(=主観の客観化)しなければならない。しかし、直接的には客体を自己の内容として直観する意識、客観のその超越性における内在化を、つまり衝動的意志を獲得するにすぎない。いわば衝動としての目的の直接性にとどまると言える。したがって、こういう点に無自覚なままただちに実践に移るのであれば衝動としての実践あるいは恣意的な行動が避けがたいだろう。つぎのような場合でも、こうした即自的な段階の固定化(したがって実践的立場そのものも単に外なる対立物を排撃するものとして実貿的に形ガイ化することになるが―)による疎外形態ということも可能である。すなわち、それは『ベトナム(戦争)問題のプロレタリア的解決』を直接おいもとめるような傾向である。こうした傾向においてはすでにまえもってあるべき解決形態(米帝がベトナムからおい出されてベトナム戦争が『プロレタリア的』に解決される)が存在論主義的に想定されている。そしてそのような目標にむけていざたたかいへ、というような任務方針が導き出されてくることになる。かかる任務方針は当然のことながら(米帝に対する)打撃論的な、反権力主義的な、単純な内容におちいらざるをえない。…すなわちこの傾向においては、一方ではわれわれに否定的に迫る客観的現実、これはこの段階ではいまだ無規定的なものであるにもかかわらず、すでにそれが存在論主義的に説明されてしまっている。―つまり唯物論的な対象認識(次に述べる②)は、必然的に欠落する。…したがってわれわれは衝動、意欲としての目的の直接性にとどまることなく、それを認識活動に媒介された思惟活動を通じて、意識的目的、理性的目的へと高めていくのでなければならない」

 これは一体何を言おうとしているのかというとベトナムに対する米帝の侵略という客体的現実があり、それが「われわれ」に否定的に迫ってくる。それに直接に対応する「主体」は、それ自体としては「衝動」にすぎないのであり、そのままでは「衝動としての実践」でありあやまりであるという。しかも、「ベトナム戦争のプロレタリア的解決」というような形の場合は、「衝動」であり、「無規定」であるはずのものに「プロレタリア的」などという「存在論主義的」な説明がついていてけしからんというのである。さてこのようなことの上にたって更に次のように言う。

「②…すなわち、われわれが客観情勢を分析するということは、実践、認識主体としての客観情勢の一契機をなしているこのわれわれが、観念的に自己を二重化し(S=S)、われわれ・実践主体としての現実の自己をその一契機(観念的自己にとっては現実の自己は客体としての意義をもつ)とした客観情勢の総体(S→←O)を対象的に分析することを意味する。つまり、われわれは、自己に否定的にせまる客体に自己否定的に即し、もって主観を自己否定的に止揚、主観を客観化し(S→O)、こうして客観をその超越性において全的に内在化(S←O)・反映=認識しなければならないが、それは現実肯定的になされるのではない。…本質上認識は実践的活動、意志の立場に従属し、その媒介的契機をなすものであるからである。現実の自己=実践主体から観念的自己を自立化したり(客観化)、両者を直接二重化したり(主観主義)することによっては、階級情勢の正しい把握は、そもそも不可能なのだ。しかも、情勢分析の対象は、直接的生産過程によって措定された社会的直接性における階級的=実体的諸関係およびその運動であり、この対象をその物質的基礎たる政治経済構造との関係でとらえるとともに、それらの実体関係およびその動向を規定しているイデオロギー(国家や諸党派のそれ)との関係において革命論を適用して分析するのである。この場合、階級的=実体的諸関係、その政治力学をもっぱらそれ自体として自立化して分析する、つまり階級的諸実体の動向を規定している、イデオロギーとの関係において革命論を適用することなく分析する偏向を情勢分析における政治力学主義という。また階級的=実体的諸関係およびその動向をもっばらその物質的基礎たる政治経済構造の分析から説明する(したがって革命論の適用も欠如する)偏向を情勢分析における基底体制還元主義という」

「③この運動論的情勢分析を通してわれわれは対決すべき対象―既成の反対運動(P1)を明確に措定する。こうしてわれわれは闘争論的立場(P1←O1)にたつ。この闘争論的立場は先にのべた実践的立場との関係においては、それを具体化したことを意味し、逆に実践的立場は闘争論的立場の即自性としてとらえかえすことができる。ここにおいては情勢分析の場合のように観念的に自己を二重化し現実の自己をも対象的にとらえるという方法とは異なり、われわれはあくまでも主体たる組織(O)に自らを位置づけ、既成の反対運動に対決して、それをのりこえていく(P1→P2)、そのための指針は→ というように問題を立てるのだ。すでにのべたように『ベトナム(戦争)問題のプロレタリア的解決』主義というような傾向の場合には『情勢分析』のようなものから直接に任務方針が演繹される。…いまや、われわれは、この間争論的立場=のりこえの立場を起点とした拠点として、現実から提起されている課題をいかに実現していくか、いいかえるならば既成の反対運動をのりこえる形で課題をまさに革命的に実現していく、そのための指針を解明していかなければならない。これがわれわれの戦術の闘争論的立場にほかならない。
 ところでわれわれが戦術の解明に適用している大衆闘争論、いわゆる<のりこえの論理>は、①②の過程を媒介にしてはじめて言いうることである。ところが、かかる媒介性を無視し<のりこえの論理>を直接実体化してしまう場合(P1は現実そのもの=W1にあてはめられる)には、のりこえの立場は『既成の反対運動ののりこえ』の空語的強調にすりかえられ、それ自体空語化してしまう。しかし、こうした限界はそれと同一の枠内でP1の背後にW1総体を想定するというような裏返しのヘーゲル主義的な解釈主義的な方法によっては打開しえない。ましてや、『ベトナム(戦争)問題のプロレタリア的解決』主義の場合のようにプロレタリア的に解決された未来的現実=(W)をあらかじめ存在論的に想定し、かかる必然性(W1→W2)に棹さしてたたかえ、というような指針からうち出されるにすぎないならば、逆にのりこえの立場は、完全に欠落するか、あるいは、それが(W1←W)の過程に客体化され、その全体的過程の部分に解消されることになる。しかも、この場合には大衆闘争論=<のりこえの論理>が指針の中に解消されていないことにより『プロレタリア的解決』をそれではだれがどのようにしとげるのかという核心的問題になんら応えられなくなるのである」

 この②の中味は、①との関連において革マル派の本質を短めて鮮明に表現している。つまり①において「自己に否定的にある現実」に対して「衝動」として存在した中味は、②においては次のように要約されている。「実践=認識主体としてのわれわれ(革マル)」は、自分を二重化するという。つまりO(客体)に否定的にせまられているS(主体)がその「O→←S」の関係それ自体を対象的に分析するという。この時「O→←S」を対象的に分析している「S´」は、観念的自己だというのである。そしてこの「S´」は、実践的活動の中で成立するという。そして、この主体が対象を分析するという情勢分析は「階級的=実体的諸関係およびその連動」をその物質的基礎たる「政治経済構造」との関連でとらえると共に、それらの実体関係およびその動向を競走しているイデオロギーとの関係で革命論を適用して分析することによって成立するという。

 ここでは、日韓闘争の総括の中で暴露されていた革マルの本質が「展開」をとげつつ、明確になっている姿がある。まず、客体(現実)によって「否定的にせまられる」主体(われわれ)が、自己を二重化する時、それは単に観念的にのみそうであるのか。しかも、それが単に「衝動的」にではなく「革命論」さえもっている主体なのである。意識は現実にあるものを「意識化」するものに外ならない。したがって「S→←O」の関係それ自体を対象化する「主体」は、単なる観念ではなく、「現実に否定的にせまられる」ことによって、新たな衝動、欲求を生み出しつつあるものに外ならない。ブルジョアジーの制約に対抗して決起していくプロレタリアートは、多かれ少なかれ階級的感性を相互に新たに生み出しているのであり、そういうものとしてそれを前提として階級意識を生み出すのだ。さもなければ、階級性などというのは全く非現実的、観念的なものとなってしまう。要するに小ブルジョアの「ユートピア」なのだ。そして、革マル派の「主体」なるものもまさにこれなのだ。

 ①において革マル派は「現実によってせまられる」主体の衝動は、無規定的であるといった(無規定的というのは、自らの中味を明確化できていない、意識化できていないということ)。しかし無規定的であるということと、無内容であるということとは異なる。無規定的であるということは、無親定的であるにしろ階級性はその中に存在するということになるはずである。そして「対象化」「意識化」とは、無規定的である(われわれからいえば、自然発生的にある)ものを、規定的にする(目的意識的にする)という以外の何物でもないはずである。

 ところが、革マル的主体にとってこの過程は「無規定的な衝動」それ自体の発展ではなく、無規定的な衝動それ自体は単なる「物理的な作用」であって、それを対象化する「主体」は「単なる観念」なのである(まさにこれは、ヘーゲル的観念論どころではなくカント的な観念論なのである。ヘーゲルの主体は絶対精神でありその上で観念的弁証法を展開するが、しかしその弁証法の構造の中での発展、例えばA→B→Cという弁証法的発展において、BはAの中味の発展なのである。つまりAとBが切断されているものではない。「否定」「矛盾」を通してAの中味はBへ発展する。この基本構造はマルクスも同じである。ところがカントにおいては、本質(物自体)は現実とは全く切断されたものなのである)。さらに重要なことは、この「S―O」の関係それ自体が単なる小ブル個人主義的なものに外ならないことである。したがって新たなる関係、団結を生み出すことは否定されている。生み出すものは、まさにイデオロギー的結びつきなのだ。

 さて、それではこの革マル的主体は、どのように革命化するのであろうか→ それが③なのである。①~②をふまえて、つまり「現実からの否定」―「その対象的把握」の上にたって、「闘争論的立場」=「のりこえの立場」を展開する。つまり「既成の反対運動」にかかわって、それを解体し、革マル派が「のっとる」というのである。

 その革マル的ベトナム反戦闘争方針をみてみよう。

「わが同盟のベトナム反戦闘争方針の骨格…すでに情勢分析を通じて明らかになったように、米帝のベトナム侵略は日帝のこれに対する全面協力加担にたすけられ、在日米軍基地の機能をフルに発揮することをテコとして、推進されている。したがって、日本の地にべトナム戦争を阻止していく(普遍的任務)ために、われわれは日帝のベトナム侵略への全面的協力加担と対決し(特殊的任務)、またそれによって文字通り侵略拠点としてある在日米軍基地などに対するたたかい(個別的任務)を社共の議会主義的歪曲、『ベトナム人民支援』運動への歪曲をのりこえつつ労学両戦線において左翼的、革命的におし進める。また、かかる日帝のベトナム侵略への全面協力加担、侵略地点のフル回転が日米軍事同盟の実質的強化にもとづいていることをも、われわれは大衆的に暴きだし、反戦反基地のたたかいにたちあがった大衆に基地撤去、安保破棄についての革命的自覚をうながし彼等をわれわれの隊列に強固に組織化し基地撤去、安保破棄をめざしてたたかっていく。また、一定の主客諸条件の成熟のもとではわれわれはたたかいをつうじてうちかためてきた組織的拠点を基礎に、そのたたかいを基地撤去・安保粉砕、従ってまたまた自民党政府打倒のたたかいへと連続的に高めていくのでなければならない。さらに自衛隊の沖縄配備、四次防計画による自衛隊の飛躍的増強=帝国主義軍隊化にたいしても、これらが日米軍事同盟体制の一環をかたちづくるものとしてあることを明らかにし、自衛隊の沖縄配備阻止・自衛隊の帝国主義軍隊化阻止・四次防粉砕のたたかいを、反戦、反基地、反安保のたたかいと結合してたたかっていく。…

 …われわれはさらに独自にべトナム解放闘争についても内容探化をかちとってきたのであるがここでは民族解放戦争の左翼的=革命的のりこえについて、簡潔に言及しておくことにとどめたい。

 まず第一にわれわれは、のりこえの対象をなす現にある民族解放戦争を措定する。―いうまでもなくわれわれはここでは革命闘争論的立場を前提としている。第二に民族解放戦争の担い手=実体を明らかにする。それは民族解放戦争の直接的な遂行主体をなしている民族解放戦線であるが、それはスターリニストのヘゲモニーのもとにつぎの三つが「戦線」をかたちづくっているものである。すなわち、民族解放戦線の中核をなし民族解放民主革命路線にのっとって「ベトナム解放」をめざしているスターリニスト。民族自決権にもとづく「民族独立」の要求を明確にもった民族ブルジョアジー、都市小ブル・インテリゲンツィアなど。即自的な反米意識や民族感情のもとにたたかっている小農民・プロレタリア大衆、などがそうである。したがって第三に、民族解放戦争は、まさに反米帝反チュー闘争の民族主義的な疎外形態であることが明らかとなり、われわれののりこえの対象は具体的に明確になったといえよう。

 われわれは革命闘争論的立場にたってこの民族解放闘争を左翼的=革命的にのりこえていかなくてはならない。これが第四の問題である。つまりそのためにわれわれは、民族解放戦線の内側においてイデオロギー的・縄織的たたかいを基礎としてその換骨奪胎(原文ママ)をはかり、スターリニスト党を解体していく。こうしたたたかいの過程において民族解放闘争はその質を転換し反米帝反スタのプロレタリア革命闘争となっていくのであるが、これが第五である。そして第六には反米帝反チュー闘争の成功的完遂にとどまることなく、密集したスターリニストの反撃をもうち砕き、ベトナム全土、さらにインドシナ半島の解放をもめざして永続的にたたかいを発展させていかなくてはならない。まさにこうしたたたかいを通じてわれわれは、(A)米帝からの解放を、(B)スターリニズムからの解放を、そして(C)労働者階級の自己解放を、かちとっていくのである」

 さて、ここにおいて、革マル派の具体的中味が明らかになっている。彼らによれば、現下のベトナム戦争はアメリカによる侵略戦争であり、また、日帝の動向はベトナム侵略への全面協力加担の動きであるという。安保、沖縄等の同盟は「日米軍事同盟」なのであり、それらを大衆的にあばき出しつつ、反戦、反基地の闘いにたちあがった大衆に基地撤去、安保破棄についての革命的自覚を促すのだという。さらに一定の主客の条件の下では自民党政府打倒の闘いへと連続的に高めるという。

 だが、革マル派の「理論」を「信用」して、真面目に読んできたわれわれはここで困惑することになる。「主体」に「否定的にせまる」現実は、「無規定的」ではなかったのか→ ところが無規定的なはずの現実が、「規定」されてしまっており、しかも「ベトナム侵略戦争」と規定されているのである。侵略戦争というのはいうまでもなく国家的な領土獲得戦争である。ベトナム戦争を侵略戦争と規定することは、当然「否定的にせまられる」主体の中味をも規定してくるのである。いうまでもなく「侵略反対」は、「民族自決―民族独立」闘争ヘつながる。しかもこれは、別の面で安保条約を「規定」している訳である。革マル派によれば、安保条約による米軍と自衛隊の同盟を日米軍事同盟といっている訳であるが、いうまでもなく彼らの中味からいえば、それは「当然にも」「侵略戦争」のための「日米軍事同盟」なはずである。これは、ベトナム解放闘争に対する「革マル的のりこえ」のカ針にも示されている。ベトナムにおける闘争は「民族解放闘争」なのだそうである。これは「無規定的」ではなく明確に規定されたものである。

 ところがおかしなことに「民族解放闘争は反米帝反チュー闘争の民族主義的な疎外形態である」という。これは一体どういう意味なのだ。「民族解放闘争としてみられている闘争は、反米帝反チュー闘争の民族主義的疎外形態である」という意味であるならば、それで文脈は通ずるが、そうだとすれば、ベトナム解放闘争の本質は「民族解放闘争なのではない」のだ。それでは「反米帝反チュー闘争」とは一体何なのか→ それは「無規定的なのだ」などというのは答えになるまい。

 反米帝反チュー闘争を闘っている構成要素を、革マル派は三つあげている。その中の「即目的な反米感情をもってたたかっているプロレタリア大衆」を革マル派は問題にしようとしていると「善意」に解釈してみよう。そうすると次のような問題か出てくる。つまり、ベトナム解放闘争は「本質的に」民族解放闘争なのか。そうであるならば、それは民族ブルジョアジー、小ブルジョアジー、地主等が軸となっているもので、プロレタリアはその物理力となっている。この場合はプロレタリア運動は、この民族解放闘争(その結果は単なる民族ブルジョアジーの国家が生まれるにすぎない)と共同闘争を組みつつも、この民族解放闘争それ自体を変革するなどという方針はたてられない。つまりこの運動は民族ブルジョアジーの運動だからである。ところが革マル派もこういう形ではいいきれない。だから「反米帝反チュー闘争の民族主義的な疎外形態」だという。ということは、この「民族解放闘争」の本質は、「民族ブルジョアジーの国家を形成するための戦争」ではないということになる。

 それでは一体何なのか→ それは国際プロレタリアートと国際ブルジョアジーの闘争に大きく規定され、その衝撃をうけて成立している「反米帝反チュー闘争」なのである。しかも、それはベトナム階級闘争の歴史からいっても民族ブルジョアジーのヘゲモニーによる闘争ではない。農民、貧民(半プロレタリアート)、プロレタリアートが軸となった闘いなのである。つまり、国際的なプロレタリア革命運動の力をうけてベトナムプロレタリア人民がプロレタリア革命ヘ向けて決起しており、その間争が貧農主義的限界の中にとじ込められ、歪曲されているのである。それが「疎外」の構造なのだ。とすれば、ベトナム戦争を「米帝の領土侵略戦争」対「ベトナムブルジョアジーの民族独立闘争」と規定してしまい、「侵略戦争反対」などというのは決定的な誤りであることになる。革マル派は「誤った規定」を行なっていることになる。そして、自ら誤った小ブル的運動を日常的に推進しておいて、さて今度はそれを「反帝・反スタ」(?)のプロレタリア革命に「作りかえる」などというのは全くデタラメもいいことになる。

 たしかに、自分たちにむかってくるものに対するプロレタリア人民の闘争は、最初は自然発生的である。だが、その中に階級性、革命性が全くないとするならば、そもそも「規定」されようがないではないか。そうではなく、プロレタリア人民の自然発生的な闘いの底にあるものを意識化してつき出し発展させていくことこそプロレタリア運動の階級的革命的発展に外ならない。

 革マル派の反戦闘争は二つの点で明白に小ブル的である。第一には、反戦のエネルギーをはじめから小ブル的に「規定」してしまっており、その意味で自然発生的な闘いを小ブル的に固定化する誤りをおかしている(彼らの大衆運動におけるスローガンはベトナム侵略戦争反対である)。第二に、大衆の自然発生的な闘いが発展していく(革マル的にいえば規定していく)中味が、存在する階級性を目的意識的にひき出すのではなく、革マル派のいうところの「無目的な衝動」はそれとして中味を失った物理力としておいて、その外から観念的な中味を与えるという形になっている。こういう意味で二重に小ブル的である。

 ベトナム階級闘争の中での彼らの誤りは、「帝国主義とスターリニズムに分割支配されている20世紀現代」(93頁)なる全く現象的な情勢把握に大きく規定されている。この彼らの「反帝反スタ論」の誤りについては別のところでのべるのでここでは詳しくふれない。しかし、彼らの把握の中では「スターリニスト」なるものが一向にハッキリしない。一種の「イデオロギー人間」なのである。

 一体いかなる階級なのかが全く不明である。したがって今みてきたような形での混乱におち込む。つまり、一方で民族解放闘争といってみたり、他方では反米反チュー闘争の疎外形態だといってみたりするのである。彼らは自分の「反スタ」の中味を「―のりこえて」というところで出せるにすぎない。

 こうして、彼らは不断に「沖縄のプロレタリア的解放」とか、「ベトナム問題のプロレタリア的解決」とかいう形での「階級性にこだわる部分」を生み出しつつ、一方では小ブル観念論としての「主体形成主義」を生み出して七転八倒しているのである。

 
 5 革マル型宗派「労働運動」の
   反プロレタリア的構造

 われわれは今まで主に政治闘争を軸として革マル派の批判を行なってきた。しかし、それは彼らの運動方針からいって学生運動を軸とする型であった。ここでは革マル派の「労働運動方針」を検討し、その宗派的反プロレタリア的本質を暴露していくことにする。

 革マル派という組織は、黒田寛一の観念的なカテゴリー(コトバ)のもてあそびによる「理論体系」によって自分を他人より多くのことを知っているかのごとき「自己暗示」にかけ、それを理由に大衆をテロ・リンチにかける権利があるという錯覚におち込んでいる度し難い小ブル集団である。黒田寛一の「理論体系」なるものがどれだけ反プロレタリア的な小ブルの宗教的観念論であるかという点については最後にふれるとして、ここでは彼らの「反合間争論」をみてみよう。この彼らの反合闘争論も実は今みたような「羊頭狗肉」の最たるものなのである。何も内容がないくせに大げさな素振りでいろいろ言葉のもてあそびを行ない、最後には何も出てこないという構造になっている。

 革マル派の活動家はラッキョウを与えられたサルのようなものである。何かあると思って一生懸命皮をむかされて最後には「空虚」しかのこらないということになっている。いや最近までは「主体性論」という軸があったように思わされていた。ところが最近は、「主体性論などというものは大衆が左翼になる時役立つものであり、いったん左翼になったらそんなものは役に立たない、断絶しろ」などと官僚に桐喝されて、「ホコリ」や「ホコリ」の下の「少ししめった泥」のあたりの下部活動家は消耗する一方なのである。

 これは労働運動路線をめぐっても同じである。長々とした無内容な文章の後には、結局内容は出てきはしない。すでにみてきたような政治闘争面において出ていた「―のプロレタリア的解決」「高め主義」などの革マル内「ハミダシ派」は内部論争をめぐって粉砕され、森茂書記長はパージされてしまった。そして、革マル型―無内容一宗派的労働運動路線はしかれていく。


(1)革マル派の合理化論

 長々とした革マル派の文章の中から合理化の把握をひき出すのは大分苦労する。他党派のケチつけや批判はたくさんあるのだが、自分たちの中味はもともとありはしないのだからさがすのに苦労する訳である。

 そのわずかばかりの革マル派の「合理化論」をみてみよう。それも今いったような理由から他党派批判の中からひろい出したりしないと出てこないのである。

「企業の集中合併に伴う労組の右翼的再編統合、工場新設の際にしばしばおこなわれる御用組合育成、そしてなによりも右のごとき攻撃は、生産過程の客体的側面における合理化にみあった形態での主体的側面の合理化にともなつて進められる。―それはZD運動、QC運動などによる労働強度の増進をはかる攻勢から、後々の労働力配置の転換、一時帰休制の採用、労務管理機構の整備、強化確立、これを賃金面から支える職階、職務給や職務、職階給の導入―このような合理化攻撃は、直接には生産過程の外にある労働組合の破壊、あるいは丸がかえを有効的に進めることによってはじめて完遂されるのである」(『共産主義者』No23・24)

 結局この程度の規定しかどこをさがしても出てこないのである。要するにいっていることは、合理化には「主体面」と「客体面」がある―機械体系等の生産手段面における合理化と、人間(労働者)にかけられてくる合理化がある―という全く無内容な合理化の形態上のふりわけ以外何もいっていないのである。仕方がないから他党派の批判をみることによって革マル派のいわんとしていることを「引き出して」みよう。

 比較的いいたいことをいつていると思われる『共産主義者』No26「最後の民同・協会(向坂)派の『反合闘争論』批判」を通して、彼らの合理化のつかみ方および反合闘争方針らしきものをさぐってみよう。

 これによると革マル派の協会向坂派への批判は次のようになっている。

 第一には、協会派の合理化のつかみ方はアイマイな「体制的」なることばを使つて資本の政治経済構造も国家権力もゴチャゴチャにした形で使つている。また、「合理化を搾取の方法」として規定しているが経済学的な把捉には完全に失敗している。そして、本質的な次元では生産力とか合理化とかいうものを資本主義的階級的被規定性ぬきに超歴史化している。

 第二に、合理化絶対反対の姿勢を確認したうえで権利闘争、抵抗闘争を闘うといっているが、あらかじめ条件闘争を前提にしたうえで「階級意識」なるものの「成長」をかちとれば最後的には条件闘争にもち込むべきだとしている。

 第三に、反合闘争と政治闘争の闘い方についてその双方の「結合」をいうが、反合闘争が直接に政治闘争とされている。

 第四に、労働者の階級的組織化において、(A)自覚の物質的条件あるいは物質的基礎、(B)即自的労働者を自覚させること、(C)労働者(階級)を種々の形で階級的に組織化すること、を混同している。

 これによれば革マル派は、①合理化の把握を、「生産力や合理化」についての本質的把握をもつており、②そのうえにたって反合理化闘争を単に条件闘争や「階級意識の形成」のためにではなく、合理化絶対反対の実力闘争として闘つており、③議会主義をこえた階級的、革命的闘争(政治闘争)を反合闘争のうえにたつて闘つている、というふうに「思われる」 のである。

 ところが事実は全く逆なのだからあきれかえるのである。

 まず第一の点についての合理化がどういう点で本質的にプロレタリア―トに対する隷属と搾取になつていくのかという点については、はじめにみたような全く無内容な主体面の合理化、客体面の合理化というようなこと以外何もいつていない。「主体面の合理化、客体面の合理化」という把握は、彼らが協会派に対して「合理化や生産力が資本主義的階級的被規定性ぬきに超歴史化している」という批判ができる理由になりはしない。なんら合理化絶対反対の「科学的理由」などつかめていないのだ。例によつて「そうしないと組織がもたない」という危機感からそうしているにすぎない。せいぜい「資本制生産様式のもとでの人間労働の資本主義的自己疎外、賃労働と資本の矛盾的自己同一、この自覚をバネとした己れの否定的存在としての自覚」(92頁)などという全く観念論丸出しの無内容きわまりないことをいっているにすぎない。「人間労働の資本主義的自己疎外」の中味が問題なのだ。こうして、そもそも合理化がプロレタリアートにとつて何であるのかが全くわかつていないので、結局のところいろいろいつても協会派と全くかわらぬ闘争方針になつていく。


(2)革マル派の「反合闘争―労働組合運動」方針なるものの小ブル性

 革マル派の70年代中期の労働運動の路線の定式化ともいうべきものが『共産主義者』No29―「労働戦線の現段階的特質とわが同盟の闘いの教訓」―中央労働者組織委員会論文においてのべられているので、これを通して彼らの闘争、運動、組織方針をみてみよう。「第一部」においてこの論文は、若干の労組の再編成の歴史的過程について分析している。しかしここでの特徴は、日本資本主義の発達と合理化がどういう点で民同型労働運動を「育成」し、また破産させていったのかということについての解明は全くないことだ。

「要するに54年の総評からの全労の右翼的分裂は、米帝からの経済的援助、朝鮮特需などを契機に生産手段の技術化・固定資本の更新をダイナミックになしとげつつ、日本帝国主義のその経済的基礎における復活局面に突入したこの物的基礎に見合つた労働戦線の再編策動として、あるいはまた、日本帝国主義の物的基礎の速やかな復活のために労働者(組合)を生産性向上運動に組みこむべく、日本政府・支配階級の直接、間接のテコ入れのもとに、右翼的再編の歴史的第一歩が築かれたものとして、かの54年分裂をとらえかえすことが可能であろう」(32頁)

「この段階では特に、民間重化学工業部門における技術革新が著しく進められ、かつまた欧米式の近代的労務管理方式も50年代後半から引きつづく形で導入されていつた。こうして民間重化学工業部門の各単産は生産過程の主客両側面の合理化と労働組合破壊攻撃にさらされ、いわゆる民間左派基盤はドラスティックに崩壊し始めたのであつた」(同頁)

 これによれば「日帝の復活」とか「合理化の主客両側面における推進」ということが、どうして組合の右翼的再編になるのかサッパリわからない。いわば一種の「背景」と「結果」をくつつけているにすぎない。

「60年代における鉄、電機、造船、化学、自動車等の重化学工業部門における各資本の合理化は、直接的生産過程の主客両側面においてドラスティックになされたのであるが、客体的側面の技術化にみあつた主体的側面におけるそれの具体的側面をなす労働配置の転換・労働強化のみならず、労働力の削減(首切り)という事態の進展、これら主体的側面の合理化を促進し支えるものとしての労務管理の強化とその機構的確立の攻撃が特に重きをなすものであつた(アメリカ式目標型労務管理方式は、主要民間産業では60年代前半から、公企体では電々公社が64年頃からとり入れ、郵政では68~9年に試行的に導入し、70年から本格的導入に入つている)。こうした近代的な(つまり帝国主義段階の技術化された生産過程を基礎とした)労務管理方式の導入には、それにみあつた賃金形態がとり入れられてきたのであり、職務給・職能給などがまさしくそれである。合理化の主体的側面にみあった形態の種々の賃金体系は、労働者の即自的団結や労働組合そのものを分断する仕組みで、そして本質的には労務管理の強化とその機構的確立のための手段として役立つものとして、あるいはそのように機能させられる形で、あらゆる基幹産業部門で導入され、さらに整備・拡大されているのである。そして多くの場合、労働組合組織の破壊(分裂・丸がかえ)攻撃はまず手始めに職務給あるいは職能給、さらにはそれらを種々組み合わせたものを導入することによつて開始されるのが普遍的である」(34頁)

 これも革マル派のいい加減さを示している。客体面の合理化と主体面の合理化という「ふりわけ」(客観主義的「ふりわけ」)で問題をスリカエている。その主体面の合理化の本質は何であり、また客体面の合理化の本質は何なのか→ それがわからなければ、それに対抗する労働者の「絶対反対」の闘争方針など出てくる訳がない。

 それはわれわれがすでに提起してきたように、資本主義社会―分業(私的所有)の社会―における機械のもつプロレタリアートに対する支配力、また機械の発達と相互関係としておこる分業の発達のもつプロレタリアートに対する支配力(それは共に資本のプロレタリアートに対する支配力として出現する)として解明されねばならないのだ。

 ところが革マル派は、このプロレタリア運動の「原点」にかかわる問題についていい加減にごまかし、または「賃労働と資本の矛盾的自己同一」というような形で観念的世界に逃亡する。この辺の問題は、『プロレタリア的人間の論理』の労働者の「自己分割」(6を参照)の現実的本質的解明となるはずなのに、それを行なおうともしない。いやそもそもプロレタリアの矛盾など眼中にないのだ。技術化、労働配置転換、労働強化、首切り、労務管理等の形態の本質が主体面客体面の合理化だというが、まさにその「主体面、客体面の合理化とは何か」ということが問題なのである。

 こうして革マル派は合理化に対決するプロレタリアートの根源的な階級的、革命的エネルギーにかかわる点で退却していく。ということは、別のところに、つまり小ブル的な恐怖感にさいなまれて逃亡せず、正面からとりくんでいくならば、「分業をこえる階級的革命的団結―自らの共同の力による自らの労働の支配」をめぐる行動委運動―ソヴィエト運動にいきつかざるをえないのだ。逆にここで退却していくからこそ、次にみるような民同的組合主義に没入していく。

 それは「第二部 労働組合運動の左翼的推進の基本構造について」でのべられている。それは「左翼組合主義」「革命的労働運動主義」「フラクションとしての労働運動」の「克服」という形で出されようとしている。

<第1>―「左翼労働組合主義」の批判について。

 革マル派がいうところの革マル派内部の「左翼労働組合主義」は次のようにいわれている。

 <革マル派という政治同盟建設、そのための運動への組織的かかわりが主体的に位置づけられず、「同盟員の同盟員としての活動―(1)」―「組合員としての同盟員の活動―(2)」―「同盟員としての組合員の活動―(3)」の内(1)~(2)が欠如して(3)のみの活動になることである。これは、現実の闘いにおいては「条件闘争の左翼的推進」―「合理化絶対反対をあたかも立場のように位置づけてしまうイデオロギー主義」という形になる。これは「既成の労働運動をのりこえて闘うという実践的立場=闘争論的立場の欠如」であり、また「既成の諸党派ならびにその基礎をいかに解体してゆくか、そのためにはどのような組織戦術を貫徹するかという実践的追求」の欠如による。これをこえてゆくにはどうしたらいいかというと、「革命的共産主義連動として、つまり一切の既成左翼の解体止揚を通じて、真実の前衛党組織の場所的建設として、それはかちとらねばならないのである。こうした組織建設をテコとしてのみ、右傾化を重ねる労働運動の左翼的転換もまた可能となるのである」(52頁)

<第2>―「革命的労働運動主義」の批判について。

 <革命的労働運動主義とは、闘う主体が既成の労働運動のただ中にありながら、それと対決しそれをのりこえる立場をわすれ、既成の労働運動に革マルの労働運動を対置するという立場である。既成の労働運動を「のりこえて」ゆく過程構造を解明せず「のりこえた労働運動」を想定し、その想定した労働連動から既成の労働運動を批判するという結果解釈主義になつている。これは「同盟員としての組合員の活動―(3)」を欠如したものに外ならない。これを突破する方針も「のりこえの論理」に外ならない。つまり既成労働運動を実体的に支えている既成左翼の解体を実現することによつて既成の運動の内にありながらそれを本質的に突破する闘いが場所的に実現されるのだ。「したがつて、われわれが既成の労働運動に対決しつつ、それを戦闘的にのりこえて労働運動を左翼的に推進することは、既成の労働運動の内にありながらも同時に本質的には前衛党組織の場所的創造としていわばその外にあるのである」(57頁)

<第3>―「フラクションとしての労働運動の克服」について。
 <「左翼労働組合主義」および「革命的労働運動主義」は、共に労組執行部をにぎつている場合生み出される偏向であるのに対して「フラクションとしての労働運動」は組合内左翼反対派として一定の組織力をもつている時に組織活動の技術主義、政治技術主義等の結果生まれる。これは革命的、戦闘的労働者による労働運動の左翼的展開が有効に展開しえていない場合、「ハミダシ諸グループ」の若干の「うごめき」を固定化することがある。この時、「ハミダシ諸グループ」の基盤とその組織を解体するための有効な組織戦術が展開しきれないと、フラクションとしての労働運動になる。これは「同盟員としての組合員の独自な活動―(3)」が欠如し、「組合員としての同盟員の諸活動―(2)」に解消されているのである。学生運動では恒常的闘争委のようなものとして種々のフラクションや学習会が機能している。同じことを労働運動でも主張する部分があるが、それは誤りであり、革マル派がもつ組織的力量と社共の力量の中では労働組合運動の左翼的展開と労働組合の戦闘的強化、およびそれを通した革マル派組織建設を基本にすべきであつて、フラクションの直接的現実的形態として性格づけられるもの「恒常的闘争委等」はつくらない。既成の労働組合運動を左翼的にのりこえて運動の左翼的推進を実現するが、ハミダシ諸派のハミダシ運動に対して直接これをのりこえることを、当面の運動上の目的とすべきではない。もしハミダシ運動を直接のりこえることを課題とするならばそれは革命的労働運動を創造し闘うことになるが、これは現時点では誤りである。>

 以上革マル派の労働運動方針を<…>内に要約してきたが、これによって合理化に対する革マルの把握がいっそうハッキリしてくると共に、また彼らの労働運動が全く協会派以上のものではないこともハッキリしてくるのである。「左翼労働組合主義」―「革命的労働運動主義」1「フラクションとしての労働運動」批判の中で革マル派がいつているのは結局次のことである。

 ≪合埋化絶対反対の闘争は、協会のように「立場」化されてはならない。しかし、合理化絶対反対の闘争を「ハミダシ運動」として現下の既成の労働運動をハミダス形で展開するのも誤りである。「のりこえの論理」にしたがって既成の組合運動にかかわり、イデオロギー闘争、組織戦術(党派解体の闘争)等により革マル派建設を行なつてゆくことが現下の闘いでなくてはならない。≫

 これは本質的には協会派の「反合闘争論」と全く変りはない。現下の労働組合は合理化粉砕闘争を現実的に展開するなどということは全くない。にもかかわらず、具体的現実的に合理化は一人ひとりの労働者にかかわってくるのである。こうして、この具体的現実的にかかつてくる一人ひとりの労働者への攻撃に対して闘いが闘始される。組合が闘わない以上、または抑圧している以上、それは様々な形をとつた「行動委」運動として推進される。もちろんこの時、いかに限界があろうとも、組合全体の階級的再編の闘いへとその闘争を不断にかえしていかなければ、その行動委の闘争は孤立し敗北する。そういう点で闘争は「組合の闘争の階級化」(これは青年部や大衆末端の職場委員会、あるいは戦闘的分会執行部等を通して行なわれる)という闘いと「行動委の闘争の組合ヘの波及」という双方から追求されねばならない。

 しかし、いずれにしても合理化絶対阻止の闘争を現実的に展開することをヌキにしていくことは、結局「合理化粉砕」についての小ブル観念論または民同的組合主義に外ならない。そして、こういう現実の闘争の中で、階級的革命的政治組織が生まれていくのだ。

 ところが、反合理化闘争の現実的展開は放棄してしまい、それな一切「党派作り」に収約してしまうということは、その「党派」それ自体が全く小ブル的民同的なものに外ならないことを意味する。外観上いかに戦闘的にみえようとも、質的には民同そのものの運動はいくらでもある。民同的組合主義は現在的に闘争、運動として一歩一歩こえられねばならないのだ。

 革マル派の労働運動は「イデオロギー的のりこえ」の「物質化」としての「組織作り」でしかないのだ。もちろん彼我の力関係の中で合理化粉砕闘争がどこまで現実的に実現しうるかについてはいろいろ段階がある。しかし、現実的な反合闘争を闘うことを「ハミダシ」だというのは全く民同以外の何物でもない。こういうことが可能なのは、そもそも合理化そのものの把握が反プロレタリア的、小ブル観念論的なものに外ならないからである。「絶対阻止を立場化させてはならない」といいつつも、現実に民同組合の闘争のワク内でしか「闘わない」ということは「絶対阻止」の「立場化」に外ならない。

 こうした問題をめぐる革マル派内部の論争はかなり深刻なものとしてあり、これをめぐつて森茂書記長が解任され、かわって朝倉が書記長になつた。これについては『共産主義者』No25で、『新左翼の労働組合論』(亜紀書房刊)の中の森茂の発言への全面的批判という形で行なわれている。要するに森の発言はハミグシ路線にひきずられており、革マル派の路線ではないというのである。


(3)差別分断を突破しえずむしろ固定化する革マル型「労働運動」

 こうした革マル派の「労働運動」は決して階級的、革命的なものヘと成熟、発達しえないということをある面で最も鋭く示しているのがプロレタリア人民内部における階級的差別、分断に対して全く闘わず、そしてその意味においてそれを固定化する役割を果していることである。

 日本労働運動は、人間の自然的差異をも利用した歴史的、社会的差別ヘの闘争について極めて不充分な闘いしかやりえていない。部落解放闘争、沖縄人民の闘い、民族差別への闘い、女性解放闘争、「障害者」解放闘争等として闘われ、つき出されてきている課題ヘの闘いについて決定的に不充分でしかなく、矛盾の中で苦しむ人民の苦闘と連帯しえず、そのことにおいて自らの首をしめ、階級闘争に敗北するというあまりにも苦い歴史を、日本労働組合運動はもっている。

 差別をめぐる階級支配の強化は本工内の分断のみならず、現役と予備役の分断を決定的なものとしている。さらに差別に対して階級的に闘いぬくことは、労働者運動が新たなる人間的共同体(ソヴィエト)を内包して、権力闘争へ発展しぅるか否かの決定的なポイントをなしている。われわれ自身もこの闘いの不充分性を自己批判的に総括しつつ、一歩一歩ではあるが差別、分断を階級的に突破する闘いを開始しつつある。しかも、これは70年代中期の労働組合運動、プロレタリア革命運動の最も重要な課題の一つである。こういうものとして日本プロレタリア人民は各戦線における先進的闘いを学びつつ、全体として一歩一歩進まんとしている。

 ところが革マル派は、この階級性、革命性の中味にかかわる決定的な闘いについて見むきもせず、むしろそれを嘲り、平然と差別を拡大し助長することを行なつている。これは労働運動のみならず学生運動をふくめて革マル派総体の構造となっている。これは革マル派の団結の観念性、小ブル性をもっとも鋭く示している。つまり一人ひとりの生きた矛盾ヘの闘いを通して階級的闘いが貫徹されていくということが全く否定され、その現実的な一つひとつの矛盾を隠蔽した上でその上にイギオロギー的普遍性(つまり小ブルイデオロギー)をかぶせていく。まさにそれは現実の闘いの抑圧、隠蔽としてのみ成立する「小ブルイデオロギー」に外ならない(いうまでもなくもう一方の小ブル的な差別ヘの対応は、差別分断が階級支配として存在することを見ぬけず、それによつて逆に差別を固定化してしまう傾向である)。革マルの階級性なるものが全く反プロレタリア的なものであることがここに示される。しかもさらに許しがたいことは闘う人民からそれを指摘されても、むしろ公然とそれに居直りを行なうという点である。

 これは革マルイギオロギーの根本にかえしていけば次のようになる。

 黒田イデオロギーは西田哲学を「下敷」にしている(後述)―存在論がない―。こうしてプロレタリア階級の矛盾の根源について全く無自覚である。中味からいえば「分業」およびそれをめぐっての「共同体」 の解明が全くない。したがってそもそも「差別」それ自体を階級的につかんでいくことができない。こうして「本工主義」的な「階級性」の把握以外は「階級性」ではないと思い込むのである。これではそもそも「本工」の階級牲それ自体が全く一面的なものとなつてしまうのである。現実的な展開にまでいききれなくても、本工の反合理化闘争自体が本物の階級性をふくんでいるならば、つき出されてくる差別ヘの闘争の階級的うけとめは可能なのであるが、本工の反合理化闘争自体がまさに民同的なものでしかないので―工場における分業の問題についての把捉、闘争―それが全くできないのである。

 プロレタリア革命運動は共産主義社会の実現を目指した闘いであり、真実の人間解放の闘いとして存在する。マルクスがプロレタリア革命運動の中に科学的につかみとつたのは、この点である。したがつてプロレタリアの階級性とはこの点を明確にふくんでいなくてはならない。いや、現実にふくんでいるのである。ところが革マル派は、まさに資本による差別、分断に嬉々としてのり、平然と被差別プロレタリア人民を軽蔑し、支配階級の手の内におどっている。そして、そのことにおいて、プロレタリア人民の闘いが階級的、革命的に発展していくことを阻害しているのだ。

 労働運動をめぐる路線としてはこれは「悪しき産別主義」として現出している。いうまでもなく反合理化闘争はプロレタリ人民の産別的団結を背景として強化されはじめて階級的、革命的に発達していく力をもつ。そういう意味で反合理化闘争の産別的強化発展はますます強められねばならない。しかし、それがさらに地区的発達へひらかれているのでなければ、つまり産別的、本工主義的利害の固定化として存在するならば、今みたような決定的な不充分性をもってしまうのである。しかもこの構造は、本工内の反合闘争それ自体も分断、競争に屈服するものとしていくのだ。

 学生運動においてはこの構造は倍加されている。革マル派が闘いえない部落解放闘争を闘いぬこうとしていた川口君をただ「革マル的でない」という理由で虐殺するというのは、こうした革マル派の路線の必然的結果であり、まさに許しがたいものなのだ。部落解放闘争における先進的糾弾闘争をはじめとする差別ヘの階級的闘争の放棄=差別の固定化は、革マル派の本質を明確につき出しているのだ。


【れんだいこ評】




(私論.私見)