「日本において唯一革命を指導しうる党」日本共産党は、民主連合政府を錦の御旗に掲げ、社会党左派の一定の党内における勝利は、この民主連合政府への「主体性」を強めつつあるかに見える。我々は、我々の基本的戦略の延長の中で、主に日本共産党の戦略、組織戦術(特にここでいうのは組織戦術について)の基本的批判を通じて、この中間政府の問題に対する我々の態度を明確にしておきたいと思う。
日本共産党の日本革命の戦略は、アメリカ帝国主義とそれに追随する少数の独占資本に対して、一部資本を含んだ民主勢力による「民主主義革命」を遂行し、それによって民主連合政府を打ち立て、それから「強行連続的」に社会主義革命へ移行するという、いわゆる二段階革命である。彼らは、アメリカ帝国主義の日本人民に対する「力」をきわめて強調する。そして、「アメリカ帝国主義の権力と、日本独占資本の権力が、それぞれ別々に又からみ合いながら全体として日本人民を支配している……アメリカ帝国主義が、日本の国家権力の構成要素なのではなく、アメリカ帝国主義の権力は、日本の国家権力の及ばない外で直接に、また、日本の国家権力の上から日本の国家権力を通じて間接に日本人民支配している」(日共中央委宣伝文化部編出版物)という。
一度でもまともに革命を考えたことのある者なら、このアメリカ帝国主義が現在日本の人民の革命運動に対して、決定的な抑圧として存在することに異存のある者はおそらくあるまい。しかし問題は、このアメリカ帝国主義の人民に対する抑圧を、一体何として把握するのかである。彼らにとって、それは、民族的抑圧として存在する。したがって、一部の「売国資本家」を除く全日本民族の「愛国者」によるアメリカ帝国主義の駆逐の民族民主革命の遂行ということになる。確かに、彼らの非常に強調するアメリカ軍隊、基地の存在理由が「日本民族」支配のためなら、それは「可能」であろう。しかしながら、アメリカの軍隊は、一部独占資本家も含んだ「日本民族」の支配のために存在するのか。事実は、彼らの四苦八苦の説明によっても歪曲は出来ない。
今まで述べて来たごとく、アメリカ帝国主義の武力は、明らかにプロレタリア革命に対するブルジョア階級の反革命の暴力装置として存在するのであり、「民族」の支配のためではない。日本資本主義は、自らの発達の途上において、軍事費の負担は重荷であったため、その大部分をアメリカの援助にあおいできた。しかしながら、アメリカのドル危機、そして日本の「高成長」は、アメリカ帝国主義をして、反革命軍隊を自力でもつことを要求している。日本帝国主義にとって、それが不可欠な経済構造への進展は、当然反革命軍隊を喜んで「自力」でもつだろう。現に、自衛隊の増強とそれによるアメリカ軍との交代は、徐々に進展しつつある。
資本主義相互間は、資本主義国としては、相互に利害の対立を生み出し、同時に、「ブルジョア階級」として、反革命的に連合する。日共にとっては、前者の面は全く見えず、後者の面は、アメリカ帝国主義へのますますの従属としてしか見えない。反革命階級同盟としての安保体制は、「階級同盟」であるが故に、それに真に対決するものは、プロレタリアの「階級」としての団結であって、「全国民的民主主義」なのではない。先ほど述べたごとく、階級対立の内容的結果として生まれた安保体制を、民族的支配の根源としてむしろ一切の原因にしている。
したがって、彼らの「民族民主革命」にしたところで、労働者階級の当面は「味方」であるはずの一部独占資本家や、中小企業主達は、労働者階級が闘って前面に出れば出るほど、恐怖して「安保体制」へしがみつくことになるだろう。このような誤り、一言で言えば小ブル思想による誤りは、大衆運動の組織面における大衆追随と、大衆蔑視のいわゆる「スターリニスト」的戦術を生み出している。
階級支配は、決して「善者」を「悪者」が力で支配しているという、単純な構造によって成立しているのではない。階級支配は、ある意味では、プロレタリアートを含めて、すべての階級の現実存在にその基礎をもっているのであり、問題はその現実存在が本質的にいかなる存在であるかということなのである。そして階級闘争の過程は、このすべてがそれぞれ支えているブルジョア「民主主義社会」から、経済の動向と世界の階級対立の中で、自らの位置に応じての「階級的社会性」を明らかにしていく過程である。ブルジョア的経済層はそれぞれの位置に応じて、それぞれのブルジョア的団結を打ち固めていき、その途上においては相互に反発し合う。しかし、プロレタリアートの団結の前に、最終的にはプロレタリア革命と運命を共にすべく分裂してきた中間層を除き、全有産階級は、一つの密集した姿をもってプロレタリアートに立ち向う。
したがって、その反革命勢力とプロレタリアートの決戦までの過程は、必然的にブルジョア諸階層の対応の中で、政治権力の掌握をめぐっての、ブルジョア秩序内部における「政治革命」が進行する。
例えば、議会ブルジョアジーの手から民主的中間層を中心とする中間政府への「政治革命」である。これを称して二段階革命であるということは勝手であるが、一体何を基準にして、どの階級の立場から言うかが問題である。中間政府からプロレタリア革命へという過程が、ブルジョア民主主義革命からプロレタリア革命への二段階だというならば、それは客観主義(本質的なブルジョアイデオロギー)以外の何物でもない。何故なら、そのような議会ブルジョアジーから民主的中間層を中心とした部分への政権の移行は、先ほど述べた危機の時代におけるブルジョアジーの階級的団結の一段階にすぎないのである。それは、危機の時代におけるブルジョア諸階層のそれぞれの立場に応じての、階級的団結の姿にほかならないからである。
もし、この政治過程を、諸階級の危機に対応した団結の過程という観点をぬきにして、全く現象的客観的にとらえるならば、確かに「二段階革命」であろう。しかしこのような把握は、ブルジョア的概念から把握した階級闘争の把握でしかない。
第一、プロレタリア権力と、ブルジョア権力の中間の「ヌエ」のような「中間政府」など存在せず、樹立される権力は、プロレタリア独裁かブルジョア権力かのいずれかである。したがってプロレタリアートが目指すのは、大ブルジョアの打倒を中間層と統一戦線を組みつつ、自らのヘゲモニーにより貫徹し、プロレタリア独裁の権力を打ち立てることである。これこそ現在、全プロレタリアートの全力を挙げて追求すべき課題である。そしてこの統一戦線のヘゲモニーを、自らの力不足の中で中間層に奪われ、そして中間層の手により、基本的には反革命の私有財産権力である「中間政府」が成立する場合が、日共が追求している「二段階革命」の場合である。しかしながら、これとてプロレタリアートにとっては、最初から打倒の対象であり、現象的には、「小ブル革命」から「プロレタリア革命」へ進むように見えても、プロレタリアートが中間層になってしまうのでない限り、プロレタリア革命の過程でしかなく、まず「小ブル革命」次に「プロレタリア革命」へと自分が変化するのではない。戦略的に見ても、まず当面は小ブル民主革命、次にプロレタリア革命へと、戦略が変化するのではない。不幸にして、この大ブルジョアジー打倒の統一戦線が、中間層のヘゲモニーのもとに行なわれるならば、直ちにその打倒を目指すことである。
したがって、この過程におけるプロレタリアートのとる戦術は、他階級からの徹底した自立、独自の革命的スローガンの下における小ブルとの統一戦線であり、決して小ブルの民主連合政府のスローガンに自らを一致させて進むのではない。階級間の統一戦線は、マルクスがつとに指摘しているごとく、特別な協定などがなくとも成立する。何故ならば、階級とは現実の物質的な意味であり、したがって階級利害のその時々の一致は、それぞれの階級の自らの利害として生まれるからである。プロレタリアートが革命的スローガンを掲げれば、小ブルは逃げ去り、統一戦線は不可能であり、したがって小ブルが逃げないために「民主主義革命のスローガンを」という思考は、階級を観念的に把握した小ブル思想であり、大衆がデマゴギーで動くと信ずるスターリン主義的思考である。そして最も決定的なことは、プロレタリアートをそのようなスローガン、すなわち小ブルの合唱隊にすることにより、いつまでも階級的自立を抑え、決定的瞬間におけるプロレタリアートの立ち遅れと、反革命の勝利を生み出す以外の何ものでもないということである。
彼らの小ブル思想、観念論は、プロレタリアートが革命を遂行するには、「労働力商品」=プロレタリアートから、ブルジョアジーとの闘いの中で「革命プロレタリアート」へ現実の団結において形成され、自らの独自のスローガンを持ったものへと現実に形成されることなくして不可能であることを知らず、「革命」を自らの頭の中に置き、「共産」党員のみが頭の中で「革命」を「考えて」いれば、当面はプロレタリアートは小ブル運動をやっていれば良いというふざけた思考をもっている(この意味において、本質的には、革通革共、第四インター派等も同じ)。このことは、決して彼らが将来的に反革命となるばかりではなく、現実的に反革命である。何故ならば、現実においてブルジョアジーとの闘いの中で、中間層との訣別を自然発生的にも行ないつつあるプロレタリアートを、小ブル的に固定化することになるから。この危機の時代における諸方針は、他階級と徹底して区別されたプロレタリア独自のスローガンの下に、中間層と統一戦線を組み、大ブルジョアジーを自らのヘゲモニーのもとに打倒し、プロレタリア独裁の権力を打ち立てることである。不幸にして中間政府が成立した場合、独自の革命的スローガンのもとに直ちに最終決戦へと突き進むことである。
そしてプロレタリアートが徹底して自立し、独自のスローガンをもって、中間層と統一戦線を組む中で、中間層は革命と反革命の前に大きく分解し、プロレタリア革命と共に進む部分が生まれるのである。むしろ、それを大規模に生み出すためにも、一刻も早いプロレタリアの自立が必要である。
この日本における過程は、そのお膳立ては先ほど述べたごとく進行しつつある。アメリカ帝国主義による反革命テコ入れにより危機を切り抜けた日本資本主義の一定の確立は、「民主主義の最後の砦」になるべき新中間層の一定の存在をもっている。この部分が中心となり、ブルジョア民主派「旧中間層」の一部を含んで中間政府の基礎が存在する。しかしながら、日本帝国主義の構造的弱さと世界階級闘争の切迫は、この中間的なものの内容をきわめて動揺せざるをえないものにしつつある。
中間政府の短命ということは、期間的なものよりむしろ内容的なものである(情勢により一定の生命を保つかもしれないし、又逆にこの中間政府の成立期をめぐって直ちに階級決戦に突入するかも知れない)。いかに日本共産党が、頭の中でこの過程を内容抜きに二段階革命として把握し、「強行連続的に社会主義革命」を考えようと、現実のプロレタリアの自立を抑圧する限りにおいて、「観念」のもてあそびであり、客観的、現実的存在としての諸階級の闘いは、日共自体の分裂を生み出さざるを得ないだろう。日本の社民は、この民主連合政府に向けて、今着々と進みつつあり、日共はこれに歩を合わせる意味において、社民化せざるを得ず、現実のプロレタリアートの自立には自ら立ち遅れてしまうであろう。
日本資本主義の危機へ向けての大ブルジョアジーの対応(行政権の自立過程)"上からのファッショ化"、「新中間層」を中心とした比較的安定した部分の民主主義革命としての対応、そして「旧中間層」を中心とする動揺せる中間層の大衆運動としての下からのファッショ化の過程の中で、日本プロレタリアートは、最も立ち遅れているといわねばならない。そして日韓両ブルジョアジーの野望を粉砕するとともに、日本革命のためにも、日韓・ヴェトナム闘争こそは、これまでの拠点的闘争を基礎に、一挙に全国的普遍的な闘争としての団結を生み出す決定的闘争である。
革命とは、観念の遊びではない限り、日本プロレタリアートはこの闘争に、自らの自立した闘いとして立ち上り、全国的な革命的政治潮流の形成の基礎をかちとらぬ限り、民主連合政府の小ブルの完全なヘゲモニーの成立、その中でプロレタリアートは独自の要求を出した時、密集した反革命との闘いにより、血の海に沈むであろう。