5章 戦後学生運動4期その1 1956(昭和31)年
 反日共系全学連の登場

 (最新見直し2008.9.10日)

 これより前は、「3期、六全協期の学生運動」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1956(昭和31)年の学生運動史論を概略する。これを仮に「戦後学生運動 4期その1、反日共系全学連の登場概略」と命名する。詳論は「全学連の再建期、反日共系全学連の誕生」、概論は「反日共系全学連の登場」に記し、ここでは枢要な事件の流れを採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。



【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

【宮顕派の党中央壟断経緯その1、志田派の追放】
 1956(昭和31)年、宮顕が党内bPの地位を踏み固めると共に党内反対派の粛清に血眼になる。第二弾は党内徳球派と急進派の掃討戦となった。1.6日、六全協仲間とも云うべき中央常任幹部会員で書記局員でもある志田重男が突然失踪した。 次に学生運動グループが狙われ、その他戦闘的大衆団体も標的にされる。

【「フルシチョフ・テーゼ」、「スターリン批判」の衝撃】
 1956.2月、ソ連共産党20回大会でフルシチョフ第一書記によるレーニン、スターリン理論に大胆な修正を加えた平和共存政策「フルシチョフ・テーゼ」が打ち出された。続いて「スターリン批判」が発表された。党中央は、「フルシチョフ・テーゼ」に対する理論的対応ができず、「スターリン批判」に対してもマルクス・レーニン主義運動の根本的見直しや国際共産主義運動の捻じ曲げに対して対自的に洞察する理論的解明を為し得なかった。

 宮顕は、概要「スターリニズム的個人指導が単に集団指導に訂正されただけのことであり、我が国では六全協で既に解決済みである」と安心立命的に居直りさえした。そればかりか「スターリン批判」究明の動きを「自由主義、清算主義、規律違反」等の名目で押さえていくことになった。こうした宮顕式統制対応はとうてい先進的学生党員を納得せしめることができなかった。これらの出来事が党の無謬性神話を崩れさせることになった。  

【平和革命路線への再回帰】
 6.28−30日、第7中総で、「独立.民主主義のための解放闘争途上の若干の問題について」を採択し、参院選挙投票の直前に発表した。この決議は、主に革命の移行形態の問題について論じ、51年綱領の「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」という部分を、概要「サンフランシスコ講和会議以後の情勢の変化によって、議会を通じて民主主義的民族政府を樹立する可能性ならびに社会主義への平和的移行の可能性が生まれてきた」と再び野坂式平和革命路線に改訂した。  

 これについて、筆者はかく思う。51年綱領の否定は良いとしても、問題はどう否定して再構築するかが肝腎なところ、宮顕路線は、社会主義革命を否定し且つ投降主義的な体制内化運動に押し込めることに眼目を置いていた気配が認められる。つまり、51年綱領から出藍せず単に否定し党運動を穏和化させるべくリードするところに狙いがあったと窺うべきだろう。

【戦後日本の順調な発展「もはや戦後ではない」】
 7.17日、経済企画庁「経済白書」(後藤誉之助調査課長)で、「もはや戦後ではない」と新た経済目標提示(「日本経済の成長と近代化」)→高度経済成長の出発を次のように宣言した。
 「もはや戦後てはない。我々は今や、異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」。

 これについて、筆者はかく思う。ここに至るまでの戦後復興は世界の奇跡と云われるに値するものであり、日本左派運動と何の関係も無く獲得されたものであり、これをこれを正しく評価すべきであろう。

 10.7日、鳩山全権団が訪ソし、日ソ交渉が始まった。既に5月、河野農相のモスクワ入りで本格化し、8月重光外相を主席とする全権団を派遣していたが領土問題で行き詰まっていた。10.19日、鳩山全権団は、領土問題を棚上げしたまま10項目からなる日ソ国交回復の共同宣言を締結した。
【「ポーランド・ハンガリー事件」】

 10−11月、ポーランド・ハンガリー事件が起こった。この経緯については割愛するが、非スターリン化の波が東欧を襲い、非スターリン派のナジ=イムレ首相登場により事態収拾させていたところ、11.1日、ナジがワルシャワ条約機構からの脱退と中立を宣言したことにより、これを危惧したソ連が再び介入に踏み切り、ナジ政権の閣僚全員が逮捕され、カダルを首相とする新政権が成立した。ブダペスト市民はソ連軍に市街戦を展開したが、多くの死傷者を出して約2週間後に鎮圧された。ハンガリー反ソ暴動は、ソ連の覇権主義がスターリン批判後も変わらないことを示した出来事となり、世界中に大きな衝撃を与えた。 

 日共は、ポーランド・ハンガリー事件に対するソ連軍の行動を、「帝国主義勢力からの危険な干渉と闘う」としてソ連の武力介入を公然と支持した。但し、党員の中には、マルクス主義理論及び実践の根源的再検討を要する事象として受け止めようとする者も輩出した。党中央はこの動きに対して、「自由主義的分散主義」、「清算主義」などのレッテルを貼り、官僚主義的統制で対応していった。このことが、学生たちの憤激を呼び党から離反させる強い契機となった。

 こうした一連の「衝撃、動揺、懐疑、憤激」を経て、全学連の幹部党員の間には、もはや共産党に見切りをつけて既成の権威の否定から新しいマルクス主義本来の立場に立った新しい運動組織を模索せしめていくことになった。この時既に先進的学生党員は一定の運動経験と理論能力を獲得していたということでもあろう。


【「戦後革命論争史上下2巻」考】

 この頃、上田耕一郎名義で「戦後革命論争史上下2巻」が大月書店から刊行された。同書は当時の左派運動圏からの反応がよく、上田・不破兄弟登竜の足掛かりとなった点で大きな意味を持つ。ところが、上田・不破両氏はその後絶版を指示して今日に至っている。これにつき、安東氏は次のように述べている。

 「上田は惜しむらくはこの名著を現在まで絶版にしたままである。公認の党史と矛盾、撞着する論述もさることながら、おそらく巻末の日本革命論が現綱領と相容れないためであろう」。

 ところが、これについての裏話が最近判明した。真相について、宮地氏が「共産党問題、社会主義問題を考えるの「上田・不破『戦後革命論争史』出版経緯」の中で明らかにしている。それによれば、上田と不破がこの労作を書き上げたとされてきたが、石堂清倫氏が次のように告発証言している。

 「あれは、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦、私とで「戦後日本の分析」研究会を開き、数ヶ月十数回にわたる討論の成果を世に送り出したものです」

 つまり、上田・不破兄弟は、「石堂清倫、内野壮児、勝部元、山崎春成、小野義彦共同労作の手柄の横取り」をしていることになる。こうした履歴を持つ不破が、よりによって道理道徳を説くのを好むのはどうした訳だろうということになる。



【この時期の学生運動の流れ】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

【穏和派対急進派の二大潮流考】
 以降の流れに入る前に、ここで原理的な問いかけをしておこうと思う。この時期に潮流形成される全学連再建急進主義派が、学生運動を通じて革命運動に向かおうとしていたことの是非についてである。その際「ポツダム自治会」は二面で機能することになった。一つは培養基盤であるという正の面であ り、一つは革命的左翼運動にあっては手かせ足かせになるという負の面であった。

 この両面にどう対応すべきか。穏和主義派は、培養基盤という正の面を重視させる方向に働き、急進主義派は、負の面である手かせ足かせを乗り越えようとして突出していくことになる。その両方を機能的に弁証法的に高めることが出来たら理想ではあろうが、実際にはそのようにはならない。

 ここで考えたいことがある。全学連再建急進主義派が押し進めた「学生自治会を足場にしながらの究極革命運動への邁進」はさすがに行き過ぎだったのだろうか、 いやそんなことはない、中国における五四運動を見よ、わが国での幕末の志士 たちの運動を見よ、皆うら若き二十歳前後の青年達の立派な政変闘争ではなかったか、という観点もまたあらためて検討されるに値するように思われる。

 この間一貫して今日まで日共党中央の指導は、こうした連中の「思い上がり」を、「急進主義者、挑発者、トロツキスト」と蔑視させ、むしろ積極的にこの動きを潰しにかかったという史実がある。事は難しそうだから解答までは必要とされないが、特に昨今の大衆運動の没化状況を考えた場合、考究の余地は大いにあると思われる。

 筆者はたまたま日共系の「新日和見主義事件」発生時に運動圏に同席していた。この機縁により「
新日和見主義事件解析」で同事件を考察しているが、考察の前提になる部分でもあるが、「新日和見主義事者」達は、これから見ていく流れに対し、一貫して党の方針に忠実一途で、全学連急進主義派の運動に敵対していくことになる。そして、ほとぼりが冷めた頃自ら等もまた無用にされてしまった。そして25年の月日を沈黙させた。なぜ、闘わなかったんだろう、闘えなかったのだろう。トロツキストが政府に泳がせられていたとするなら、「新日和見主義事者」達もまた党中央に泳がせられていたのではないのか、その党が権力奥の院に泳がされていたと仮定するなら一体どういうことになるのだろう。以下、この深い暗流に対して解析を試みようと思う。

 2004.10.3日再編集、2008.1.5日再編 れんだいこ拝

反日共系全学連の登場事情
 宮顕は六全協で党中央に返り咲くや、急激に右傾化指導で全学連を締め上げ始めた。当然、共産党の日共化という質的変化に反発する動きがでてくることになる。1956年頃から様々な反日共系左翼が誕生することとなった。これを一応「新左翼」と称することにする。新左翼は、どのように展望したのだろうか。

 筆者の判ずるところ、徳球党中央時代に党中央批判に明け暮れていた急進派のしからしむるところとしてか、「共産党内の徳球から宮顕への宮廷革命の変調さ告発」には向かわなかった。むしろ、これを歓迎していたとみなすべきかも知れない。その代わりとしてソ連式スターリニズム批判へと向かった。こう捉えるほうが正確ではないかと思っている。

 これにより、レーニンと並ぶロシア10月革命の立役者にして、在世中スターリンと抗争し不遇の死を遂げたトロツキーの理論即ちトロツキズムが脚光を浴びることとなった。この連中が、「スターリン主義によって汚染される以前の国際共産主義運動への回帰」を目指し、日本トロツキズム運動を創始し、日本共産党に変わる真の革命党派として革共同を立ち上げて行くことになる。

 他方、全学連指導部の主流はこれに合流せず、共産党内反党中央派として止まりつつ自律形成し始めることになった。これを指導したのが「島−生田」ラインであり、追ってブントを立ち上げることになる。こうして、日本左派運動はこの時期、共産党、革共同、ブントと云う三派が登場する事になった。全学連は、宮顕系日共指導下の民青同系と、その体制内化運動を批判する革共同派、革共同派とは叉違う革命を志向したブントの三つ巴に分岐し、三者競合しながら60年安保闘争を迎えていくことになる。

 この時期の左派運動は、それ以前の運動よりする或る種運動法則としての必然的な流れであった。筆者は、これを全体として見れば、60年安保闘争までは、学生運動がこの三つ巴が互いを認めながら競合し正成長して行く稀有な理想的時代となっていたのではないかと見立てている。

 但し、それを平板に受け止めてはならない留意すべきことがあるのでコメントしておく。1956年のこの期の特徴は、この間左右にジグザグする党指導により全学連が瓦解させられた経験から、もはや党の影響を受けることを峻拒しようとする学生党員グループが発生し、こうした連中によって全学連再建運動が胎動していくことになったことに認められる。

 全学連再建グループの背景にあったものは党に対する深い失望であった。宮顕グループによる宮廷革命の進行に対して、筆者が今為しているような理論的な批判を為す能力を持たなかったが、「六全協の形式的総括」、「狂気の自己批判運動」の展開等が澱(おり)になり、党に対する不信を倍加させることとなった。これが反日共系全学連誕生の素地となる。

【全学連再建、「8中委.9大会路線」の確立】
 1956(昭和31).4月、全学連第8回中委が開かれ、宮顕が敷いた先の「7中委イズム」を「学生の力量を過小評価した日常要求主義」と批判する立場から平和擁護闘争を第一義的に掲げ、「層としての学生運動論」を創出し「闘う全学連再建」の基礎をつくることとなった。

 「8中委」を契機として全学連と反戦学同は、政治闘争を志向する戦術転換を行ない、急速に組織を立て直していくことになった。折から国会に上程された56年前半の小選挙区制導入反対闘争が解体に瀕していた全学連の息を吹き返させていくこととなった。

 6.9−12日、全学連第9回大会を開催した。大会は、委員長・香山、副委員長・星宮、牧、書記長・高野らの四役を選出した。北大から小野が中執となった。こうして、全学連は、急進主義的学生党員活動家の手により、党中央の指導を排して自力で再建されていくことになった。この時全学連中執委メンバーは19名中12名が党員であった。

 この大会で、この間の闘争を通じての「国会及び国民各層との連帯促進」、「総評・日教組・文化人らとの強力強化」、「自治会の蘇生」を評価し、この方向での運動強化が確認された。これを「8中委.9大会路線」と云う。全学連はこの時期、業料値上げ反対闘争、教育三法反対闘争、56年秋の砂川闘争、57年夏の第三次砂川闘争、57年後半の原水禁運動などに党の指導を離れた独自の全学連運動を組織して行くことになった。

 但し、この時点ではなお党の指導の精神的影響は大きく、原水禁運動では、ソ連の核実験の賛否をめぐって混乱を生じさせ、党がソ連の核実験を擁護していたことにより、原爆にもきれいなものとそうでないものがあるとか妙な弁明をせねばならないということにもなった。

【砂川基地反対闘争】

 9.13日、第二次測量開始が予測される中、全学連は、砂川基地反対の闘争宣言を発して現地闘争本部を設置し、地元農民、支援団体と協力しながら闘いを組織した。10月になると学生はぞくぞく現地に乗り込み泊り込んだ。全国から3千名を現地動員し、農民.労働者と共に泊り込むこととなった。

 
10.4日、第二次測量開始。10.12日、立川基地拡張の第二次強制測量が始まる。これを阻止せんとして反対同盟員、学生、労働者らが警官隊と衝突、多数の負傷者、逮捕者を出した。次のように記されている。
 「武装警官隊2千名に襲われ、学生1千名重軽傷。砂川闘争では都委員会も全組織をあげてよく戦ったが、中央部のスターリン的干渉に悩まされた」。

 10.13日、.砂川の激突で測量中止。10.14日、鳩山内閣は遂に測量中止声明をせざるを得ないところとなった。この報に接した砂川町は、「勝った」、「勝った」の歓声で、五日市街道はどよめき、喜びと化し、「ワッショイデモ」が繰り広げられた。 

 「砂川基地反対闘争」は、全学連にとって、50年秋の反レッド.パージ闘争以来の勝利であり、学生運動史上歴史に残る輝かしい闘いとなった。その功績として、従来、軍事基地反対闘争が民族解放闘争や武装闘争の突破口的位置付けで取り組まれてきていたところ反戦平和擁護闘争として取り組んだこと、地元農民・市民・労組等々との提携による民主勢力の結集で闘うという貴重な経験となったことが挙げられる。

 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「内灘闘争によって火の手を挙げられた基地闘争は、この砂川闘争においてついに勝利を収めることができた。以降、軍事基地の新設、拡張は容易には設定し得なくなった。加えてこの闘争を機として行政協定→安保条約の問題が世論の正面に登場し、60年安保の闘いの第一歩が記されたのである」。

【森田派と高野派が対立】
 1956年秋、全学連は砂川闘争に取り組む過程で、砂川闘争を指導した東大系の全学連再建の功労者にして日共からの自律化を押し進めようとする森田−島派と、学連書記長で早大系にして日共宮顕指示を絶対とする高野派が対立し始めた。旧帝大の雄・東大と私立の雄・早大の反目も関連していた。この争いは闘いの戦術から政治路線、革命理論にまで及び果ては日常的な大衆運動の進め方の対立まで至った。

 この時有名な「孫悟空論議」が為されている。「孫悟空論議」とは、砂川における学生の活動に対して、高野が主張した「総評・社会党幹部と云う釈迦(世界情勢)の掌で踊った孫悟空に喩え、『極左冒険主義』の危険をはらむもの」とする論で、これに森田が「運動における学生層の役割を過小評価するものとして非難応酬」した。その経過の論争を云う。

 こうして、全学連内部に宮顕系日共派とこれに反発する急進派が誕生することになった。全学連再建後の学生運動内部に早くも非和解的な二潮流が分岐していくことになった。この二つの潮流は激しく論争をしながらその後交わることはなかった。学生党員グループの先進派は、この間の日共指導による引き回しに嫌気が差し、もはや日共党中央の影響を峻拒し自律化せしめようとし始める。以降、学生党員グループのこの動向が全学連運動の帰趨を決めていくことになる。この連中が闘う全学連の再建目指して胎動していくことになる。

【新左翼運動の陥穽考】
 この時期、いわゆる新左翼が生まれ始めたが新左翼はどういう運動に向かったか。結論から云うと、新左翼は、宮顕−野坂式体制内化批判運動を否定しつつも、宮顕、野坂の左派資質としての欺瞞性批判には向かわなかった。それは、先行した徳球−伊藤律系運動批判に於いて宮顕と組んできた後遺症であった。そういう理由で、宮顕の本性を見抜いて徹底抗戦すべきところ「唯一非転向聖像」視し続けてきたことへの自己批判無きままの反宮顕運動にシフトして行った。

 こうして生まれたのがスターリニズム体制転覆運動であったと思われる。それは、宮顕を左派的スター二ストとして引き続き位置づけようとしている点で二重の誤りであったと思われるレ。そういう曇った観点のままの急進主義運動を志向したことにより生産的有効な左派運動の創出に失敗するのも致し方なかったように思われる。

 新左翼は、体制内化し続ける日共運動に対し、体制転覆運動を対置した。しかし、体制転覆後の青写真を持たぬままの単なる呼号でしかない体制否定運動に向かうことになった。そういう意味で、宮顕式体制内化批判運動と同床異夢の「政治本質的には無責任な、表見的には急進主義ながらも本質的には去勢された革命運動」でしかなかったということになろう。「革命ごっこ」と揶揄される所以がここにあると思われる。この体質は今日まで続いているように思われる。

 してみれば、「体制内政権奪取運動、体制転覆即左派系新政権樹立運動、新体制創出運動」と云う本来左翼が掲げていた至極真っ当な運動が、意図的か偶然かはともかく一貫して取り組まれる事なく経緯していることになる。このことを見据えながら、「戦後学生運動2、56年から59年まで概略」の動きを検証していく必要があろう。この視座抜きの検証は評論に堕すことになろう。


 左派運動がそういう隘路に入ったことにより、その後の左派運動の理論も実践も、人民大衆労働者運動からインテリの自己充足運動へ変質した面がなきにしも非ずであろう。既成の日本左派運動史家にはここを衝く視点が欠如している。インテリが自己弁護的に記すので、そうなるのであろうと思われる。

【民青同の発足】
 11月、日本民主青年同盟(「民青同」)が発足している。民青同は、「マルクス・レーニン主義の原則に基づく階級的青年同盟」の建設の方向を明らかにしていたが、進行しつつある反党的全学連再建派の流れと一線を画し、あくまで日共に帰依し宮顕指導下で青年運動を担おうとしたいわば穏健派傾向の党員学生活動家が組織されて行ったと見ることができる。いわば、愚鈍直なまでに戦前戦後の党の歴史に信頼を寄せる立場から党の旗を護ろうとし、この時の党の指導にも従おうとした党員学生活動家が民青同に結集していくことになったと思われる。

 これより後は、「4期その2、革共同登場 」に記す。



(私論.私見)