4章 戦後学生運動3期 1954(昭和29)−1955(昭和30)
 六全協期の学生運動

 (最新見直し2008.9.10日)

 これより前は、「2期その2、50年分裂期の学生運動」に記す。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、1954(昭和29)年から1955(昭和30)年までの学生運動史論を概略する。これを仮に「戦後学生運動3期、学生運動崩壊」と命名する。詳論は「六全協の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊」、概論は「六全協期の学生運動」に記し、ここでは枢要な事件を採り上げ解析する。全体の流れは、「戦後政治史検証」の該当年次に記す。



【この時期の全体としての政治運動】
 この時代の政治闘争の枢要事を眺望しておく。学生運動史の予備知識として知っておく必要がある局面を抽出する。

【志田派が宮顕派と裏提携し「50年分裂解消」に向けて始動】

 1954(昭和29).1.1日、アカハタで、「平和と民主主義を守る国民の大統一行動をめざして」なる「1.1決定」を発表した。これが武装闘争転換の出発点となった。この頃から宮顕特有の論理である「敵は優勢、味方は劣勢、闘いは長期且つ困難」という方針が打ち出されている。この頃党中央派を形成していた志田派が国際派の宮顕派と裏提携し、「50年分裂解消」に向けて始動し始めたことが判明する。


【「3・1ビキニ事件」】

 3.1日、アメリカがビキニで第1回水爆実験。死の灰が福竜丸の乗組員に降りかかり被爆した。これを「3・1ビキニ事件」と云う。広島、長崎に続く三度目の被爆に怒った日本国民は大きなショックを受け抗議運動を開始した。全国から3200万人を超える原水爆禁止の署名が集まる等我が国の反戦平和運動の盛り上がりの契機となった。以来、日本の原水爆禁止運動は、「核戦争阻止、核兵器廃絶、被爆者援護・連帯」の三つの基本目標を掲げ前進させて行くことになった。早大全学連のリーダー吉田嘉清がこの頃より原水爆禁止運動に参加するようになる。その吉田氏は後に「1984党中央の出版妨害事件」に登場するので記しておく。  


【「宮顕の警視庁出入り事件」】
 4.6日、宮顕が警視庁2階にある七社会(記者クラブ)へ現れて記者会見している。鈴木卓郎の「共産党取材30年」は、「団規令による潜行幹部の捜査は不当だ、と警視庁へ抗議にきた際のことだと思う」とあるが、党が非合法にされているこの時期に宮顕が警視庁に出入りしていることを裏付けており非常に貴重な証言となっている。 

 6.2日、鳩山内閣は、参議院本会議で、次のような「自衛隊の海外出動禁止決議」をしている。

 「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議。本院は、自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照し、海外出動は、これを行わないことを、茲に更めて確認する。右決議する 」。

 これについて、筆者はかく思う。この時の見解が2008年現在何と遠くまで隔たってきていることか。

【陸海空の自衛隊発足】
 7.1日、陸海空の自衛隊発足。当時の米軍事顧問団幕僚長・フランク・コワルスキーは、著書「日本再軍備」の中で次のようの述べている。
 「国際情勢のためとはいえ、理想主義的憲法を踏みにじり、国民がきっぱり放棄した戦力を再建せねばならなくなったのは悲しい」。 
 

【原水協結成】
 8.8日、全国的な原水爆禁止運動の高まりの中で、「原水爆禁止全国協議会(原水協)」が結成された。全国から400名が集まり、法大教授・安井郁氏が事務局長に就任した。日本の平和擁護運動に新しい流れが生まれた。翌1955年、第一回の原水爆禁止世界大会が開催されることになる。

【1954年、宮顕の動静】

 1954年末頃の宮顕の動静が「経過の概要」に次のような記されている

 「1954年末、中央指導部より衆議院選挙への立候補を求められ、これに応ず。選挙後、合法面の中央指導部の一員とされる。五全協指導部より六全協準備への協力を求められ、これに応ず」。

 高知聡・氏の「日本共産党粛清史239P」に次のような貴重な史実が伝えられている。

 「北京の指導部では、西沢隆二を先頭とする暗闘によって伊藤律が失脚し、袴田里見を先頭とする造反によって、徳田球一の指導権も奪われたが、威張りかえる袴田のもとで、志田−宮顕の提携を案出したのは、西沢だった。六全協後の一時期、西沢が権威を保ったのはそのためだ。志田−宮顕の提携を実際に推進したのは、紺野与次郎だとも云われる。或る日、宮顕が北海道に飛んで志田と密談してきた。志田は、一の子分の吉田四郎北海道委員長が使い込みしているが、よろしく頼むといい、宮顕は引き受けたといった。志田は吉田に因果を含めて、乗り切ろうとしたらしい」。
 概要「六全協に至る幹部の地下工作は野合であり、中央委員クラスの規模での討議もなく、志田と宮顕を中心に、野坂、紺野、志賀ら数人が話し合いをもった程度の秘密で全てが決定され、後になってもその過程は全く明らかにされていないのである」。

 これらの記述によると、六全協を待つまでもなく1954年の時点で、宮顕が完璧に党中央に登壇していたことになる。

【1955年、「党合同」の動き】
 1955(昭和30).1.1日、党は、「党の統一とすべての民主勢力との団結」(「1.1方針」)を発表した。「極左冒険主義」路線の破綻と徳田書記長の急死という条件が重なり、ここにおいてはじめて地下指導部の「自己批判」が為されることとなった。次のように述べている。
 「このさい、われわれが過去において犯し、また現在もなお完全に克服されきっているとはいえない一切の極左的な冒険主義とは、きっぱり手を切ることを、ここで素直な自己批判とともに、国民大衆のまえに明らかに公表するものである」。
 「われわれは、断じてこのような極左冒険主義の誤りを、再びおかさないことを誓うものである」。

 この一文によって、1951年以来4カ年にわたる軍事方針路線(国際派は「悪夢のような党の歴史」と評している)にピリオッドが打たれることになった。

 宮顕は、この頃の動きを「私の五十年史」の中で次のように述べている。
 「翌1955年の或る日、顔を知った使いの者が来て、志田重男らが会いたいと告げた。彼は、党の分裂以降地下活動に入り、徳田に近い一人と思われていた人物だった。その日、自動車をたびたび乗り換えて、郊外の大きな家に行った。志田のほか西沢隆二らがいた。徳田は北京で死んだ。極左冒険主義は誤りだった。伊藤律はこれこれの経過で不純分子であることが判明した。彼等はこういって、『六全協』の計画を提案した」。

 これについて、筆者はかく思う。この記述は貴重である。宮顕本人の陳述であることに価値がある。「1955年の或る日」は不正確で、恐らくもっと以前の伊藤律失脚後の1953年から1954年のことであろうが、このような秘密会談が志田系と宮顕との間に整って「六全協」が準備されたことを知るべきである。

 問題は、この志田と宮顕を中心に、野坂、紺野、志賀ら数人の話し合いで六全協が準備されていったという史実である。他の中央委員クラスは排除されたまま秘密裡に進行していった。この過程は今日もなお明らかにされていない。筆者が睨むところ、ここに集結した連中が正真正銘のスパイのボス達ではなかったか。 

 2.27日、第27回衆議院総選挙が行われた。日ソ国交正常化と憲法改正を二大スローガンとして打ち出していた鳩山ブームが巻き起こり、鳩山系民主党が、吉田系自由党に代わって第一党となった。他方、左右社会党も議席を伸ばし、野党は憲法改正を阻止するのに必要な3分の1の議席を獲得した。特に左派社会党の伸びが目覚しく、統一過程における優位が確定した。共産党は73万3121票(1.85%)を獲得し、川上貫一と志賀の2名が当選した。宮顕は東京一区から立候補し落選している。
 3.15日、アカハタは、指導体制の強化と各専門部の充実をうたい、中央指導部員として春日(正)議長、志賀、宮顕、米原の4名の決定を発表した。その意味するところは、地下指導部と国際派の合同であった。この合同により国際派の頭目宮顕、志賀が指導部に復帰することになった。つまり、50年来の党分裂が徳球系執行部の敗北で決着し、「地下指導部が宮顕系国際派に対する白旗宣言」を掲げたということを意味する。

 しかし、この地下指導部の白旗宣言は、志田、椎野、岩本巌、吉田四郎、水野進らの国内地下指導部の命脈を保った形での合同劇であり、地下指導部から見れば国際派との団結の道を取り付けることに成功したともみなされるものであった。地下指導部は、この方針転換後における宮顕派の凄惨な権力闘争を予見できず、主導権を確保する為の秘密会合を何度も持ちながら準備工作を行っていくこととなった。以降暫くの党史は、この地下指導部と復帰した国際派(特に宮顕系)との丁々発止の闇試合が繰り広げられていくことになる。

【六全協】
 7.27日、六全協が開かれ、徳球に疎まれ続けられた宮顕が党中央に返り咲き、戦前来の共産党解体同盟である宮顕−野坂、これに徳球系反伊藤律派の頭目・志田を加えたトロイカ体制が党中央を壟断する事態が生まれた。ここに、六全協の史的意味がある。

 これについて、筆者はかく思う。日本左派運動は、それまで徳球系党中央を批判し続けてきた経緯からこの「宮廷革命」を是として受け入れ、このスタンスが今日まで続いている。筆者は、この卑大なる間違いを質さねばならないと考えている。今日の日共のテイタラクはこの時より始まる。

 そもそも宮顕とは何者か。この認識に於いて重大な間違いを持ったまま戦後左派運動は推移してきている。宮顕支持派は無論として、批判派でさえ「戦前唯一の非転向革命家聖像」を前提としての批判に止まり、宮顕を左派圏の有能な指導者として位置づけた上で、そのステロタイプなスターリニズム性を批判すると云うスタンスで遇して来た。こういう通俗本ばかりが流布されている。筆者は、その虚妄を論証している。宮顕の胡散臭さについては「宮顕考」、野坂については「野坂参三の研究」、不破については「不破考」で検証している。これを読めば、れんだいこの謂いの正しさが確認されよう。れんだいこのこの観点が打ち出されて以降は、従前の陳腐な見解は歴史の屑箱に入れられるべきだろう。

 筆者は、この観点を既に1999年段階で提起しているが、今日に至るまで無視されている。これが左派圏界隈の頭脳の質である。学識ぶったり小難しく理論をこね回すのは得意なようだが、総合的俯瞰ができず仮にできてもお粗末過ぎよう。そういう全体としての認識が狂ったままの個々の分析は、その中身も案外薄っぺらなのではないかと考えている。

 2004.5.15日、「小林多喜二を売った男」(くらせみきお、白順社)が刊行され、戦前日共史の闇の部分である潜入スパイ問題に言及し、三船留吉に焦点を絞って「小林多喜二を売った男」とする観点から解明せんとしている。筆者は、三船家には迷惑な誹謗で、「小林多喜二を売った男」は宮顕の方が本ボシであると見ている。宮顕の評価次第でこういう風に見解が異なってくることになる。

 もとへ。宮顕は党中央に返り咲くや否や、それまでの急進主義的衣装を脱ぎ捨て、露骨なまでの統制主義と右翼的穏和主義指導に手のひらを返した。日本左派運動の牙を抜き始め、戦後日本左派運動総体を投降主義的な方向へ構造改革し始めた。筆者は、これより以降の党を宮顕の意向を挺している場合には日共、選挙等他党との比較で一般表記が適切な場合のみ共産党と呼称して使い分けすることにする。

 六全協により、徳球体制下で冷や飯を食わされてきた連中が我が世の春を向かえ、勝てば官軍、負ければ賊軍の地を行く党内政争が演じられて行くことになった。敗者側には暫くの間「六全協ショック」、「六全協ノイローゼ」、「六全協ボケ」と呼ばれる状態が続くことになった。

 これについて、筆者はかく思う。かくして、多々欠点を抱えつつも曲がりなりにも左翼運動を担っていた本来の共産党員たちが追放され、偽装左派とも云うべき宮顕−野坂連合が党内を支配することになった。ここで注意を要するのは、この時期の日本左派運動に明らかな質的転換がもたらされたことを正確に確認することである。この確認ができないと、この後の革共同、ブントの誕生の流れが見えてこないことになる。筆者の判ずるところ、戦後左派運動の第一期は曲がりなりにも、徳球−伊藤律系の指導により政権奪取に向かっていた。その夢は叶えられなかったが、宮顕−野坂系指導による第二期となると端から政権奪取運動を放棄し、日本左派運動総体を体制内化的な単なる批判運動即ち穏健主義に閉じ込めることになる。

 この期以降は、そういう運動として発展していく転換点となった。れんだいこ史観によれば、この定式化がはるけき今日まで及んでいる。してみれば、体制側から見て、日本左派運動を穏和にせしめた宮顕の功績は大なるものがあると云うべきだろう。もし、我々が、日本左派運動を総括せんとするならば、転回点となったこの六全協に於ける質的転換まで立ち戻らねばならないだろう。この重要性が認識されていないところに理論の貧困があると考えている。

 しかし、革命運動の修繕運動化はいずれ先細りの道になるであろう。日本左派運動の今日的低迷は、これに起因していると思われる。唯一の例外は、1960年代後半から70年代半ばまで日共が社共連合的民主連合政権を展望したことであろう。これを掲げた時期、日共は大きく発展した。しかし、その内実がいかようなものであったかは後述する事にする。今日の日共が唱える「確かな野党論」は、六全協路線の必然的帰結である。かく弁える必要があるのに、日本左派運動には未だにこういう見立てが生まれない寒さがある。

【左右社会党の合同】
 この年、政治状況総体に大きな変化が見られた。共産党の合同に続いて10.13日、社会党の左右社会党の統一大会が開催され、右派の浅沼稲次郎と左派の鈴木茂三郎が書記長と委員長を分け合い、150議席を保つ社会党が発足した。左派社会党の新綱領が採択され統一綱領となった。綱領は次のように述べている。
 概要「共産主義は事実上民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、相容れない存在となった。我々は共産主義を克服して、民主的平和のうちに社会主義革命を遂行する」。

【保守合同により自由民主党誕生。「自社55年体制」確立される】
 11.15日、「占領制度の是正と自主独立」をスローガンに反目し合っていた鳩山系日本民主党と吉田−緒方系日本自由党が合同し自由民主党が誕生した。こうして保守合同も為された。これにより国会議員は衆議院299名、参議院118名となり衆議院では圧倒的過半数を確保するこになった。

 これにより、自由民主党が政権与党、社会党が野党第一党となる自社二大政党制によるいわゆ「55年体制」構図が定着した。ここからが「55年体制」のスタートとなった。ここに「保守・革新」の二大政党が実現して、イギリス流議会政治ともてはやされる時期を迎えることになった。  

【正力松太郎が初当選、原子力行政推進】
 11.22日、第三次鳩山内閣で、先の衆院選で初当選した読売新聞社主・正力松太郎(鳩山派)が北海道開発長官に抜擢されている。正力は当選後直ちに原子力行政の推進に力を入れ、1956.5.19日、科学技術庁を創設し初代長官に就任する。これによりその後の原子力行政及び事業の土台を築く。

 正力は、1957(昭和32)年の岸内閣の第一次改造で、国家公安委員長と科学技術庁長官・原子力委員長を兼任で就任する。その後首相を目指し、中曽根康弘らを従え派閥「風見鶏」を作るが「吉田学校生」に対抗できず野望は実現しないままプロ野球初代コミッショナーに就任する等転身することになる。

 これについて、筆者はかく思う。正力派の野望を挫いたのは「吉田学校生」内の池田、田中、大平系譜であった。そういう意味で、戦後の政争は政権与党派内のハト派対タカ派の政争こそ凄まじかったと云うことになる。この辺りはもっと着目されるべきではなかろうか。


【この時期の学生運動の流れ】
 この時代の学生運動の枢要事を眺望しておく。

 1954年の学生運動は、所感派の武装闘争も行き詰まり、国際派の平和闘争も特段のものが見られない。両者とも死に体であったということになろう。この状況の中で、宮顕式穏和路線が台頭し始める。1955年の六全協総括を境に、旧党中央の徳球系が賊軍、新党中央の宮顕系が官軍となり立場が入れ替わる。これにより、武装闘争に呼応した民青団、全学連は清算主義に陥り、自壊状況を現出していくことになった。マルクス・レーニン主義を学ぶことさえ放棄する傾向をも生みだし、解体寸前の状態に落ち込んでいくことになった。

 他方、砂川闘争に取り組む過程で急進派が生まれて行った。こうして、この時期の学生運動は、「急進派と穏和派に二分化」しつつあった。これが歴史の弁証法であろう。戦後学生運動の第1期、2期、3期はこういう紆余曲折を経る。後の展開から見て留意すべきは、いずれにせよ全学連運動が共産党指導下に展開されていたところに特徴が認められる。

全学連第7回大会
 1954.6.13日、全学連第7回大会が開かれた。大会は、「生活と平和の為に」を打ち出し、政治運動とか大衆運動から召還し、一転代わって没政治主義方針確立した。学科別のゼミナール運動を行う方針が決められた。また、サマーキャンプ、大学祭、歌声運動などの運動が強められるようになった。後の自治会サービス機関論を生み出すことになった原点であり、後に「学生運動としては完全に体を失い、俗悪化した大衆追随主義に転落した」と批判されている。人事で、委員長・松本登久男(東大)、書記長・子田耕作(大阪市大)を選出した。

 これについて、筆者はかく思う。誰にも指摘されていないが、全学連のこの急激な穏和化の背景に何があったのか。筆者には容易に透けて見えてくる。この頃既に、宮顕と志田の裏交渉が始まっており、宮顕が事実上復権し始めていたと云うことになる。宮顕の指導するところ必ず穏和化になる。かっての武井全学連との蜜月時代の左派的言辞は、徳球執行部に対する揺さぶりのためであり、いわばマヌーバーでしかなかった。このことも判明しよう。

【全学連第8回大会】

 1955.6.10日、全学連第8回大会が開かれた。89自治会237名の代議員とオブザーバー800名が参加した。大会では、基地反対闘争と原水爆禁止運動に取り組むこと、文化サークル活動の全国的.地域的交流、世界青年学生平和友好祭に参加することによる国際的交流、芸術家の合同公演を大学当局側と協力して行うなどを決めた。

 大会は、カンパにア的なものに終始し議論らしい議論も為されず、運動方針も「話し合い路線」とするという一般学生の自然成長性に依拠させた穏和化を明確にさせ、日常要求主義とサークル主義という没政治主義に陥ることになった。


【「7中委イズム」】
 六全協で、この間の徳球系執行部の軍事方針は「極左冒険主義であった」と批判されたことにより、この間徳球系執行部の指導下に戻っていた全学連もこの煽りを受けて自壊状況を現出していくことになった。

 9月、全学連第7回中央委員会が開かれ、宮顕式路線に従って、この間の党の極左冒険主義と全学連指導部の動きを批判することとなった。いわゆる「歌ってマルクス、踊ってレーニンというレクリエーション路線」として揶揄される穏和化方向へ振り子の針を後戻りさせることとなった。これを「7中委イズム」と言い表すことになるが、自治会を「サービス機関」と定義し、一転して日常要求路線へと全学連運動を向かわせることになった。

 「自治会=サービス機関論」をここで定義しておくと次のように云える。
 概要「自治会の役割を『学生の日常要求に応えるサービス機関』とする理論で、自治会が政治主義に陥ることを戒め、学生運動如きが情勢分析や政治方針の提起を行うべきでないとした。学生運動は、学生の本分に基き勉強のこと、恋愛のこと、就職や将来のこと、我々の苦しみや希望を深く話し合うこと等々学生の身近な要求を取り上げて、それをサービスしていくべきであるとした。これにより、トイレに石けんを付けるというサービス運動を開始することになった」。

 これについて、筆者はかく思う。いわゆるその後の民青同的運動のはしりであるが、六全協で党中央に再登壇した宮顕は、手前が党中央を盗るまでは急進主義的反党中央批判を指針させ、ひとたび党中央を掌握したとなると一転して、極めつきの穏和主義的右翼主義的な運動を指針させていくことになった。これが、宮顕運動の元来の本質であり、それまでの急進主義は党中央を奪還する為に付けていた仮衣装に過ぎなかったと窺うべきであろう。 

【砂川戦争】
 当然ながら、当時の学生運動家の昂揚する意識が、「7中委イズム」で押し込められることはなかった。むしろ苦々しく反発し、所感派、国際派の別を問わず急進主義派の学生たちが「平和と民主主義」の根幹に関わる政治闘争に向かい、「基地反対闘争の中での天目山の闘い」として砂川闘争に取り組んで行くこととなった。

 9.13日、米軍立川吉の拡張工事の為砂川町の強制測量が開始され、労組−学生同盟と警官隊が正面衝突した。こうして砂川闘争が始まった。10.4日、第二次測量開始。10.13日、全学連と反対同盟らが警官隊と衝突し、流血事件が発生している。この様子を見て、当時の鳩山内閣は測量中止を発表することとなった。全学連と反対同盟側の勝利であった。

 高見圭司「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。
 「この当時、私がかかわった運動らしい運動は“砂川基地拡張反対闘争”であった。このころは、五三年ごろから妙義、浅間の基地闘争、内灘の村民を先頭にした実力阻止のすわり込み闘争が高揚していた。砂川闘争は数多く起った全国各地の安保条約にもとづく基地反対闘争のなかで天目山のたたかいであった。五五年九月二二日砂川町で強制測量が開始され、警察機動隊と地元反対同盟、東京地評傘下の労働者、ブンドの指導する全学連が激突し闘った。私は、この日警察機動隊の前に坐り込み、ゴボウ抜きされ、ズボンは引きちぎられ、そのご数日間足を引きずって歩かねばならないほど機動隊に蹴られたのである。その後も何回か現地闘争に参加した」。

 これより後は、「4期その1、反日共系全学連の登場」に記す。



(私論.私見)